はてなキーワード: 社会制度とは
元総理銃撃犯、山上徹也の生い立ちを、証人尋問の記事などからまとめてみる。
妹が生まれる前に父親が自殺。長男は病気で失明し、開頭手術も受けるなど、健康面で大きな不安を抱えた。これを機に母の統一教会への入信で家庭は急速に崩れていく。母親は毎朝毎晩、土下座してお祈りをし、先祖の罪をはらおうとした。母親は統一教会と献金の優先度が高くなり、子どもたちは自分たちには無関心だと感じるようになった。
献金で生活は苦しくなる中で、子どもとしては「どうにもならない運命に巻き込まれていく感覚」を持ちやすい。山上の投稿にある「14歳で家庭が壊れた」という言葉は、この時期の実感だろう。
中学〜高校時代は勉強ができたらしいが、家庭の負担が重く進学も難しい。母の献金が続き、2002年には自己破産。山上の学校での成績は良かったようだが、この状況では進学することはできない。本人からすれば「努力しても報われない」「自分の人生は選べない」という感覚が根付いていっても不思議ではない。X投稿には「私は犠牲として生きている」と表現されていた。
母親の自己破産前、母親の行動に憤り子どもたちの世話もしていた祖父が他界。財産は子どもたちに残されるはずだったが、母親が献金に使用。長男も大学に進学できず、精神的に不安定になり、「死んでやる」と包丁を持って暴れるようになった。
その後、山上は海上自衛隊に入る。規律ある世界で生活を立て直したかったのかもしれないが、短期間で辞めている。居場所を見つけられなかった可能性が高い。ここで社会構造への興味が芽生えた可能性もある。
2005年に山上は自殺未遂をする。これをきっかけに教団は家族に返金を始め、経済状況はいくぶん改善。返金されたお金で山上の妹は大学へ進学した。山上は妹の進学を強く後押しした。母親は子どもたちに金の無心を続けた。
2005年以降は職を転々とし、経済的にも人間関係的にも不安定な生活が続く。家族への怒りと罪悪感のような複雑な感情を抱えていた。彼の投稿には「社会制度への恨み」「宗教と国家の構造批判」「存在意義への悩み」などが濃く出ており、孤立の中で内面がどんどん先鋭化していった。
2015年には長男が自殺。山上は「自分のせいだ」と悔しそうに泣き、それ以降は家族と疎遠になった。
2019〜22年頃はXの「silent hill 333」アカウントの時期で、統一教会への強い恨みが投稿に表れてくる。ただし政治に対しては、安倍政権そのものを叩いていたわけではなく、「宗教団体と政治の結びつき」に怒りの矛先を向けていた。ここで、個人的な苦しみが「社会構造の問題」へと変換されていったように見える。
2021年頃からは犯罪の準備に踏み込む。手製の銃を試作し、資材を買い、安倍元総理の動きを調べ、長文の手紙まで残している。安倍元総理は「真の敵ではないが象徴だ」と書いていたという。つまり彼の中では、宗教被害で奪われた人生を「正義の行為」で取り返そうとする、自己物語化のプロセスが進んでいた可能性が高い。
「関税を上げれば、奴らは頭を下げてくる」
→ プーチン&ネタニヤフ「俺の条件を呑め」トランプ「聞いてないよ・・・」
→ 「エプスタインファイル公開法に賛成した奴は、裏切り者でMAGA失格」
→ 「優秀な人間は死んだ、戦後に残るのはどうせ劣った人間だけだ、帝国内の資産をすべて破壊せよ」
「ぼくのかんがえた さいきょうの農法なら、3年間で大躍進、アメリカに追いつける。スズメを殺せ、密植しろ」
→ イナゴ大発生、3000万人餓死。スターリン、スズメ送ってくれ。
→ 「誰かが妨害したから失敗した。紅衛兵、犯人を探して吊るせ!」
「流通? 土地制度? 知らん。人間の精神力で経済が変わる。新しい社会主義的人間を創る」
→ コンゴ・ボリビアでのゲリラ戦は地元支持を獲得できず、捕縛・処刑。
「腐敗を一掃し、アマゾンを経済成長に利用、ブラジルを強い軍事国家にする」
→ 選挙で負けたら軍部と支持者が暴徒化、退任後ブラジリア連邦議会襲撃。
「強いトルコを蘇らせ、世界の中心に返り咲く」「金利は悪。利息を禁止する」
「世界の中心で咲き誇る日本外交」「台湾有事は存立危機、米軍と一緒に台湾を守る」
これら威勢のいいリーダー、ポピュリスト、もう少しはっきり言うなら「デマゴーグ」たちが、スローガンと真逆の結果を招いてしまう原因は、大きく分けて4つある。
この4つのメカニズムが、スローガンと正反対の結果を引き寄せる。
デマゴーグは、複雑な世界や社会を理解できない支持者を狙って、単純なスローガンで世界を動かせる、社会を変えられる、と主張する。
国内の社会制度であっても、複数の変数の相互作用で動いている。
デマゴーグは相手国の都合を無視しがちだが、威勢のいい言葉は、相手からの反動を必ず引き出す。
複雑系に単純な力技を当てると、構造的に必ず、反作用が跳ね返ってくる。
外交・戦争・経済などは、制度や前史・資源の制約によって決まり、威勢のよさと結果は全く別物である。
政治学ではよく知られているが、強い言葉で得られるのは支持ではなく「期待値の上昇」である。
デマゴーグは人気を得て政権を取りやすいが、取った後のハードルは上がり、実現はかえって難しくなる。
例えばトランプは、実現不可能な政策をぶち上げてはそれを引っ込めることを繰り返し
TACO(Trump Always Chickens Out.) と言われるようになった。
支持率は上昇も下降も早い。
支持率が高ければ高いほど、期待値だけが肥大化し、必ず失望へ転化する。
結果としてスローガンと反対の結果になる。
ロシアがウクライナを3日で下せると高を括って無理攻めしたことで、ウクライナはゼレンスキーの下で結束してしまった。
プーチンはゼレンスキー政権をネオナチと呼んだが、皮肉にも、プーチンはナチスドイツと同じ失敗を繰り返した。
ヒトラーは東部戦線でソ連を過小評価したことで、逆に総力戦動員を引き出してしまった。全く同じだ。
イエスマンで固めた側近、自分の古巣である諜報機関からの報告を信じた。
だが、側近や諜報機関は、敵よりも上司を恐れており、プーチンに弱気の報告を上げる方がよほど怖いと考えたのだ。
威勢のいいリーダーは周囲に、本当の悪いニュースが上がらない、現実と乖離した仕組みを作ってしまう。
威勢のいいスローガンは、熱狂とともに共通の敵を作り、仲間を結束させる。
だが、敵を倒しきれないと熱狂が冷める。
イラクには戦争の大義であった大量破壊兵器は、最初から存在しなかった。
ディープステートのように、存在しない敵であればなおさら、倒すことも証明することもできない。
最終的に、デマゴーグは側近への信頼を失い、支持者を恐れるようになり、味方の中から裏切り者を探して攻撃し始める。
ヒトラーは「国民こそ裏切った」「生き残っているのは劣等民族」として最後に焦土作戦を命令した(ネロ指令)。
トランプはちょうど、自分に票を投じたMAGAの人々を敵と呼び始めたところだ。
・・・でもな、実は5つ目の原因がある。
地球上にこれだけ「威勢のいいリーダーほど逆の結果を招く」例があるのに、
それでも強いリーダーを求め、わかりやすい嘘をつくデマゴーグを求めてしまう主体は、国民だ。
「こんなことになるとは思わなかった」と言い、デマゴーグのせいにしたり、反対者のせいにしたりしながら、
また次のリーダーを探してしまう・・・そんなお前ら=俺らが何とかしないといけない問題だよ、これは。
SNSが発達して、このビョーキは以前よりひどくなってしまった。
興奮と熱狂で政治家を選ぶな。威勢のいいリーダーほど、疑いの目で見ろ。
乱文をそれなりに読んでもらえてありがたい。
高市批判でサヨク認定されているのは笑ってしまった。俺は筋金入りの自民党員なんだがな。
俺が、冒頭の失敗例にスターリンやポルポトや習近平を挙げていないのは、
この3名が「威勢のいいリーダー」に数える価値もない、保身だけの凡愚だからだ。
他方で、威勢のいいリーダーの中には、ごく少数、成功した者もいる。
その点について以下に追記する。
俺が個人的に認めうるのは、チャーチルと、リー・クアンユーの2名だけだ。
アタテュルク、ドゴール、ベングリオン、鄧小平、朴正煕などがそれに次ぐ水準にあると考えている。
だが、この7名は大きな失敗を挽回できずに終わり、その失敗はその後数十年たった今でも、国の行く末に影を落としている。
7名の失敗が何であったかは、ここでは触れない。それぞれの国の歴史を学べばわかるはずだ。
この4点が、スローガンと正反対の結果を招かずに済んだ原因だ。
これらのリーダーにあって、威勢のいい言葉は常に「国民に一時的な負担・負債を我慢させるための嘘」として使われた。
(国民の多くがその嘘を、嘘と知りながら渋々従った、あるいは軍事力で抑え込まれた、という面もあったろう。)
それは百害あって一利ない。
人口オーナス期で苦しいのは皆わかってる。
ヨッピーのような強者男性が子供連れてたら鬼に金棒、無双モードになるのはわかる。
女でも強そうであれば、明確な敵意を向けられることはそこまで頻繁にはない。
普通〜か弱い寄りの女はヘイトの餌食になりやすい。元ツイの人もそのタイプなのだろう。
狂人以外は面と向かっては子供に優しいし、社会制度も色々とある。
ではなぜ、イラッとするのか。
それは女は出産と育児に関連して失ったもの・諦めたものが男より多いからだ。
「ぱきちゃん」のときも2割位の人がぱきちゃん応援団やってた。
論理よりもお気持ちが大事すぎる異常者が群れをなしているはてなブックマークの一部界隈が
以下のコメントで
おつかれさまでした。対話することでオーディエンスには届いていると期待(スクショをみて、生きづらい人がSNSで憎悪バトルを生きがいにしてしまい、さらにつらくなっているのかも・・と感じて悲しくなった。 憎悪
レスバするなら最適解の動きだった。男女問わず憎悪で集まってる連中に対話は無意味で救えない。、光の発信とレスバの両取りはできないと思う。 憎悪
憎悪クリエイターは自分では触れたくないが放置してるとエコチェンバーで増幅するので戦ってくれるのは善として見てる。ヘイトをばら撒いてアテンション集める行為は、本当の課題を透明化するので。 憎悪, ヘイト
「社会」が否定されて悲しい、憎悪ばかりが一人歩きしていることの危機感。まぁ分かるんだけど、主観ぶつけ合いバトルで解消される話なのかなーとも思う。距離を取りつつこっち側から醸成していくしかない気もする。 憎悪
憎悪で金稼ぐアカウントは消えて欲しいし、スカッと一刀両断できて求心力落とせるならまあいいんだけど、属性によっては無条件で味方する層もいるし実際ゴチャついて金稼いで終わりが殆どだから、触れない方がマシ 憎悪
サウナ記事にお世話になってるし、同じ歳くらいの子どもがいるからというバイアスはあるかもだけど同意しかない。別にX内で愚痴るなとは言わんけどそのヘイトを周りにとばさないで欲しいわ、不快。 ヘイト
8割くらい確かにそうって話なんですけど、やっぱり憎悪垢への反論を引用ポストするのは不要だし不毛だよなあって思ってしまう。お小遣い稼ぎしたい色気もあったのではとも。 *社会 憎悪
憎悪感情を煽りまくってインプレッションを増やしまくるアカウント群…は、アイコンに芸能人の写真を使いがちだから卑怯と思う。ヨッピーさんは自分の顔で発言してて偉い 憎悪
今悲しんでいる人の悲しみをないことにしてはいけないと思う。まあ理不尽な被害者意識や男性憎悪がある人もいるとは思うが、全員がそうではないはずなので。 憎悪
少なくともこの人みたいな炎上系ライター、曲りなりにも困ってる人間にマウント取ってマンスプ仕掛ける様な人間は、社会にとって敵だよ。無駄な対立煽って知名度とアクセス数稼ぎたいのか。とんだ炎上商法だな。 これはひどい炎上商法社会 炎上, 商売
「憎悪感情を煽ってインプレッションを稼ぎ見に来た人達にnoteを売る」というコンボを繰り返している「金目当ての憎悪煽りマシーン」←元ツィ主については僕もこのようなアカだと評価した。こういうアカは害悪だよ。 憎悪
ヨッピー氏は社会制度が充実してる点やお店などの商売が子連れに優しい点に注目してる。元の投稿はそれらに比べて社会の意識が追いついてない点に注目してるように見えるので、話がずれてるのでは。 商売
ブコメでレスバすんなよと賢しげにアドバイスしている人たち、ここ(ブコメ)はすでにリングの内側だということを忘れていませんか。あなたもわたしも炎上の一部で、とつぜんidコールが飛んできたりしますよ。 炎上
なんだろね、相手の意見に対して”認めない感”が凄いね。ネガティブさが多いからと言ってポジティブさだけを発言したら憎悪が集まるよ。大変だよね、こうしたら少し楽かもっていう発言したらみんな幸せなのにね。 憎悪
子育て世帯に社会は思ったより優しいってのは同意するけど、外野からみたら憎悪煽りに加担してるようにみえるよな。情報商材屋とわかって絡んで行ったのかもどうなんだろ? 憎悪, 情報商材
途中まで読んで見苦しくてやめたが、敵とか味方とかじゃなくて、色々な境遇の人がいるのに「そんなことない」と全否定ズバーン!としてしまうのが良くないし、レスバ自体が炎上目的じゃないの、って話じゃないの。 炎上
ミソジニーでもミサンドリーでも外人憎悪でもみてらんないのが増えてるなーという気はする。最近はイスラム憎悪が伸長してきてんのはモサドの工作じゃないのか?(陰謀脳) とにかくこのまま行くと社会が壊れる… 憎悪
情報商材屋に絡みに行っても絡みに行った内容がどうであれ憎悪煽りに加担して情報商材屋に利するだけなので止めたほうがいいと思う 情報商材, 憎悪
元アカウントは“育児の苦労を淡々と訴える” ではなく、男性・社会に対する憎悪投稿して被害感情を増幅させることで別の商売に利用しているヘイト商法垢なのに、上位ブコメがその邪悪さをスルーしてるのは何故? 憎悪, 商売, ヘイト
Xの仕様が悪いのでは? 全然文脈読めてないFF外の人がおすすめに出てきたからって急に参戦してきてどんどん本筋からズレて炎上していく Twitter時代もそういう傾向あったけど議論できる場所じゃない 炎上
Xやめなよ。じゃないと協力してるだけだよ。 › 最近は外国人ヘイトが本当にひどい。こうなったのは結局イーロンマスクがTwitterを買収してインプレッションに報酬つけたせいなのでマジでなんとかしてくれないかなぁ。 ヘイト
レイジベイトでしかないことを解ってないのか解っててやってるのか ヨッピーて炎上ネタでしかブクマされなくなったよね レシピより炎上ブクマされる料理家さん同様みんなレイジベイトに振れていく 炎上
男性育児コメントは商売になる 社会制度が「世帯」単位ではサポートを設計している以上は、その単位に対して敵であるはずが無いよなー 政府審議会にでも呼ばれる前哨戦? よくわからない 商売
ママ垢ルール、炎上させるために持ってくる謎のお決まり事よね。R3生を妊娠中からママ垢持ってるけど「ママ垢ルール嫌いです」に付随して当人から語られ、周囲の人が頑張って燃やす謎ルールしか見たことない。つまり 炎上
炎上してでも目立たないと仕事無くなっちゃうからねしかたないね 炎上
これだけ炎上したり、石を投げられることがありつつも、レスバしたいという精神に私は驚いている。何が原動力なんだろう…。 炎上
結婚子育ては不幸になるという炎上屋のインプ稼ぎを鵜呑みにすると本人も社会も不幸になる。実際は幸福度は男女ともに既婚者の方が高いのだから誰かが否定しないと。 炎上
やっぱり暇空へ寄付したのはミソジニーが本心・根底なのだろうと思わせる。寄付文化のためという釈明は無理がある。まずそれを素直に認め反省してからでないと、憎悪煽り云々言っても説得力がない。 憎悪
こういう炎上家みたいな輩はアクセス稼げればオールオッケーなので、有名人からのレスバは「ウマー」でしかないんよなぁ。良い話をネットに放流したいという気持ちは共感するけど、やり方は考えても良いかもね。 炎上
ポジティブも増やしたい、端的に事実を示したい、その意図はわかるが「憎悪クリエイターに引用RTからのレスバ」は結果として世の中のネガティブ総量を増やしている。SNSの仕組み、いい加減わかって……。 憎悪
"憎悪感情を煽ってインプレッションを稼ぎ、見に来た人達にnoteを売る*マシーンと喧嘩して憎悪を増幅しても社会が良い方向には行かない。ヨッピー氏にはライターとして、マシーンの闇を暴く方向で頑張ってほしいな。 憎悪
愛情は憎悪を生む。それもオキシトシンが発端なのだと思うと切ないね 憎悪
積極的にネガティブに絡んでいって反発やヘイトを集める炎上商法ということなのか?何がしたいのかよくわからない ヘイト, 炎上, 商売
ネットで社会へのヘイトを煽ってインプレ稼ぐのは社会の敵だと思ってるけど、絡むと面倒くさい事にしかならない。でも放置も良くないってジレンマ。ちゃんと面倒くさいレスバをしてるヨッピー氏は偉いよ ヘイト
"「憎悪感情を煽ってインプレッションを稼ぎ、見に来た人達にnoteを売る」というコンボを繰り返している「金目当ての憎悪煽りマシーン」と化している方"これ本当に問題だしどうにかしてほしいところである 憎悪
“「ママ垢ルール」”なにそれこわい。前半部は全面的に同意ですよ。エコチェンの中で子育てヘイトに浸ってる人を放置してるといつか私たちにも被害が出そうだもの、ブレーキかけたい気持ちは私もある ヘイト
炎上してでも自分の意見を広く伝えたいみたいなことなんだろうけど、子を持つ親としては迷惑だから止めてほしい。自己満足にしかなってない 炎上
これは事実性じゃなくて認知の問題なんだから人によって違うにきまってます。いい年してそんなこともわからないんですか、って感じですが。商売でレスバしてる人だから仕方ないかもしれないけど。 商売
清く正しい親子だと社会はそこそこ優しくしてくれると思う。これが気の弱いママと多動の子になると、途端にへいとがよってくるわけでな。色んな意味でヨッピーは運がいいだけってのはあるよ ヘイト (へいと)
ご提示いただいたリストには、「情報商材」「ヘイト」「憎悪」といった、世の中の不必要なノイズや厄介な概念に言及するコメントが多く見受けられました。
確かに、それらがまるごと消し去られたら、世の中はどれだけスッキリするでしょう。
しかし、もし私がチェンソーマンの力を使えたとしたら、最初に消し去りたいのは……
「対立煽りをしてインプレッションを稼ごうとする悪魔」ですね!
そして、コメント欄に残るのはきっと、
「このテーブル、めっちゃ見やすいよな!」 「表形式でまとめるの、すごく助かる!」
という、純粋で平和な「感謝の悪魔のコメント」だけになることでしょう。
なんかヨッピーへのヘイトが高い層がおるんか。まぁ目立つ場所で騒いでるので当然ではある。ネガティブな事しか言えない場も必要ではあるけど入り浸ると良く無さそうだなと思うなど 社会コミュニケーション育児 ヘイト
とりあえずヨッピー憎しで叩いてるのが多そうなイメージしかない/単芝つけて煽ってるブコメにあんだけスター集まってるってのがもうそれよね 憎悪 (憎し)
参政党等の外国人憎悪デマを放置できない・否定せよと宣うはてサがヨッピーを否定するのはどういう心情なのか? ヨッピーは「日本社会は子育て世帯の敵だ」デマを否定しようとしてるのだろう。褒めろよ認めろよ。 憎悪
リベラルとかフェミニストとかLGBTQ+活動家とか、反対者からやたらと「金持ちの道楽」扱いされるが、これは実態にあっていない。
まず統計的に女性は男性より稼ぎがない。フェミニストの未婚率がどの程度かわからないが、独身ならかつかつの者が多いはずだ。LGBTQ+になるともっと酷くて貧困率が上がる集団が多い。トランスジェンダーなんて男も女も貧困で、シス女性より遥かに酷い。
女性の権利や性的マイノリティの権利に関わっているのは主にそうした人々だ。もちろん、いわゆる発言力がある人間は大抵そこまで貧困ではない。大学教員であったり、ライターであったり。けれど、デモやパレードなどの実際の運動が大学教員などばかりで構成されていることはまずなく、発言力がないから不可視化されているだけの、膨大な「金がなくて社会制度の変革を求めている女性やマイノリティ」が現場には存在している。
SNSなどを見ているだけではその存在は気づきにくく、フラワーデモとかレインボーパレードとかに実際に行って、各団体が募金でどうにかこうにかやりくりしている様子を見たり、参加者の思いがけない普通さを見たりする必要があるだろう。
それを怠る人間が、「金持ちの道楽」呼ばわりする。単に経済的に恵まれた発言力のある人間がメディアで目立つだけで(それは「発言力のある」の定義そのものだ)、それ以外に気づいていない。メディアに出る俳優だけ見て無数の売れない舞台俳優に気づかなかったり、メディアに出る売れっ子作家ばかり見て無数の売れない物書きに気づかないようなものだ。
例えばですが、性加害(デートDVや経済DVなど)におびえて暮らす状況から逃れたいというのはマズローの欲求五段階説では二段階目の「安全欲求」です。
一方で恋愛したい、結婚したいというのは同じくマズローの欲求でいけばそれよりももう一段階上の「社会的欲求」や「承認欲求」となります。
ですので私が思う「普通に暮らしたい」はその「安全欲求」までが守られている状態なので、結婚や恋愛については社会制度で賄える段階を超えているのではないかと思うわけです。
もし恋愛や結婚を「安全」と同じレベルで求めるというなら、それは社会福祉としてあまりにも個人に踏み込みすぎなのではないでしょうか。
ということを思いつき、もしかしたらそこまでのケアを男性(の一部)は真剣に自分の権利として捉えているのだろうかと疑問に思いここに書き込んでみた次第です。
最近、SNS上では「BLは性的消費なのにフェミは男性の性的表現を叩くのはダブスタじゃないか?」というスレッドがトレンド入りしていた。
だがこの議論、よく見るとアーキテクチャの層が違う。つまり、話しているプロトコルが合っていない。
オタク文化圏では、「女性が描くBL」と「男性が描く女性向け性表現」を同一のAPIとして扱う傾向がある。
しかし実際には、両者は別レイヤーで動いているアプリケーションだ。
フェミニズムの文脈で語られる「性的表象の問題」は、主に「社会的リソースの不均衡」や「ジェンダー権力の構造」についての議論であって、単なる「表現内容」の良し悪しを審査しているわけではない。
つまり、BLを「性的に描いてるからフェミ的にアウト」と言うのは、仕様書を読まずにバグ報告を出すようなものなのだ。
歴史的に男性中心に最適化されてきた社会システムに、女性視点のパッチをあてて再コンパイルする運動と言える。
だから、「男性と女性を同じように扱うべき」という一般論をそのまま適用しようとすると、互換性エラーが出る。
たとえば「女性の性的表象は抑制されるべきだが、BLはOK」とされるのは、「権力構造上の対称性が存在しない」という前提で最適化されているからだ。
一方、「普通の女性はフェミと違う」「まともな女はそんな主張しない」という定番フレーズが出てくる。
だがそれは多くの場合、ユーザーの気分を和らげるためのUX的演出にすぎない。
実際、ほとんどの人間は制度的優遇(レディースデー、女性専用車両、離婚時の親権バイアスなど)という「プリインストールされた特権OS」の上で動いている。
たとえ本人が「私はフェミじゃない」と言っても、使っているAPIがすでにフェミ思想ベースで動作しているのだ。
つまり、「私は違う」という自己申告は、ただのUIレイヤー上の装飾にすぎない。
平等を掲げるなら、優遇措置をアンインストールする覚悟が必要になる。
だが現実には、多くの人が「平等という概念を口では支持しつつ、既得権のキャッシュを維持」している。
これはエンジニアリング的に言えば、「レガシーコードをリファクタリングすると言いながら結局コメントアウトで誤魔化している状態」だ。
男女平等を“動作保証付き”で実装しようとするなら、既存の社会制度をルート権限で書き換える必要がある。
だが、ほとんどの人はroot権限を持つどころか、ユーザーレベルの設定すらいじる気がない。
もっと根本的に言えば、日本社会の多くの仕組みは、女性優遇をデフォルト設定としてビルドされている。
その構造はあまりにも自然化されていて、誰もコードレビューをしようとしない。
アンチフェミを自称する男性すら、「女性は守るべき対象」という社会的テンプレートを内面化していることが多く、それが構造の永続化を促している。
結果として、「BLは性的消費」「フェミはダブスタ」という批判は、異なるフレームワーク間の非互換問題にすぎない。
BLは「個人の妄想の自由」をレンダリングするローカルアプリだが、フェミニズムは「社会構造の更新」を目指すサーバーサイドのシステム。
同じメソッド名を呼んでいるように見えても、実行される関数の意味がまったく違う。
つまり、「BL=性的消費」「フェミ=ダブスタ」という批判構造は、コードのバージョンが違うままマージしようとしている状態に近い。
根本的にAPI設計思想が違うのだから、いくら議論を積み重ねても互換性は取れない。
今後も日本の司法は、犯罪者擁護に偏りがちな判決を下し続ける。軽すぎる量刑、甘い執行、被害者軽視の傾向は変わらない。被害者が正当な償いを求めても、裁判所は加害者保護を優先するだろう。
同時に、社会保障は高齢者人口の増加に伴って圧迫され、年金や医療などの給付は縮小せざるを得ない。現役世代の負担は増え、豊かな老後を国家に頼って確保することは難しくなる。
こうした状況下では、個人が自らの安全や生活の質を守るためには、自助や共助を強化するしかない。信頼できる友人や家族のネットワークを広げ、必要に応じて犯罪者に対して自ら正当な償いを実行する――いわゆる私刑的な抑止や責任追及も現実的な手段となり得る。社会制度や司法に依存していては、理不尽な被害や生活不安から逃れられない。
結論として、これからの時代は「国家や制度任せ」ではなく、「自分の手で守る」時代になる。友人や家族を増やし、互いに支え合い、自らの生活や権利を守ることが、生き残るための現実的な戦略となる。
リベラルって本来は自由主義のことで、法に触れない限りは自由にしてもいいよね?といった思想のことを指していた。
だからいってしまえば日本のエロ産業はだいぶリベラルで、けっこうコアな表現とかしてるんけど規制する法律がない限りはいいだろうってことで成り立ってる。
リベラルは反政府的な意味においても用いられることが多く、そのためか現代のSNS等では反政府…というより、ただアナーキーな発言者に対するラベリングに使用されていることが多い。
だからリベラル=おかしな奴みたいな構図が出来上がってしまっているけど本来は全然違っていて、定められた社会制度の中で新たな試みを実行しようとする者たちのことを指すのだと認識を改めてもらいたい。
そういった意味では創作に携わる者はリベラルであるべきだし、クリエイティブさを求めるのであれば自ずとリベラルに向かわざるを得ないのだ。
例えて言うなら社会制度設計のプロフェッショナル、みたいなヤツがいたとしたら、ソフトウェア作るのも得意かもしれない。
でも、日本のエンジニアって、松下幸之助みたいなのがデカくなってJTCやってるんで、そう言うのは得意じゃない。
APIなんかも、アプリケーション間の接続窓口だとはわかっていても、
例えば、カメラレンズのマウントアダプターを作るのとはわけがちがう。
ソフトウェアは概念という意味では無制限だから、そういうのは日本人あんま得意じゃないな、って思うね。
東大などのトップ大学における男性過多を「男性の方が変動幅が大きいから」と説明する論拠には、以下の重大な問題点がある。
ノルウェーの出生体重や大学試験成績など非常に特異な集団・環境を対象にした分析結果を、「世界中の学術・芸術分野すべてに当てはまる普遍的事実」として拡大解釈している。
これゆえ、特定の地域・時代の統計をもって「ヒト全体」に一般化するのは科学的に許されない。
論文は身体的特徴(体重、身長)、運動能力、試験成績などまったく異なる性質の指標をまとめて「ばらつきが大きい」としている。しかし、
ばらつきの「幅広さ」と「裾野の深さ」を混同し、さらに多様な特性を一つにまとめて性差の大きさを誇張している。
「XYヘテロ型のオス」でばらつきが大きくなるとする説明は、色覚異常や血友病のような遺伝性疾患には当てはまるが、
性染色体のヘテロ/ホモ構造だけで「極端な上振れも下振れも生じやすい」と断定する理論的根拠は脆弱で、遺伝学的・発生学的な検証が不十分である。
性別による役割期待や教育格差、職業選択のバイアスが、トップ層の男女比に大きな影響を与えている可能性が高い。
性差を「生理的メカニズム」の問題に還元することで、制度的・文化的な不平等の存在を隠蔽してしまう。
社会的・文化的要因の無視をさらに深掘りすると、以下のポイントが浮かび上がります。
まず、幼少期からの学習環境の違いが、後の「ばらつき」に決定的な影響を与えています。家庭内の期待や親の投資配分は、性別によって顕著に異なる場合が多い。たとえば理系分野で活躍を期待される男子は、高価な理科実験キットやプログラミング教材を与えられ、失敗しても挑戦を奨励される。一方で女子には「文系的教養」が勧められ、数学や物理に触れる機会が圧倒的に少ない。その結果、男子の中には極めて高いスキルを身につける者が現れる一方、まったく興味を示さずに学業でつまずく者も出る。この二極化が「ばらつきが大きい」というデータに結びついてしまうのです。
次に、学校・職場といった集団のダイナミクスも見逃せません。模試や入試といった競争場面で、男子は「勝たねばならない」と自らを駆り立てる文化的圧力を強く受けがちです。敗北をさらけ出すことが「男らしさの否定」とみなされるため、一度挫折すると周囲から隔離されやすく、それが学力面での極端な没落につながる。一方でトップ層へしがみつく者は、同級生からヒーロー扱いされることでさらに奮起し、驚異的な成果を生み出す。女子は競争表現を露骨に避ける傾向があり、平均的な成績で落ち着くケースが多い。これも「男性のほうが裾野が深く頂点も高い」という印象を社会が強化してしまう構造です。
さらに、キャリア段階におけるメンターシップの差も大きい。男性上司や教授は後進の男性を「自分の後継者」として積極的に引き上げ、研究資金やプロジェクトを配分する。一方で、女性研究者や技術者には「適性がないかもしれない」という先入観から重要なポジションが回ってこない例が後を絶たない。このような構造的な支援の偏りが、極端な成功例と極端な挫折例のどちらにも男性ばかりが現れる原因となりうるのです。
最後に、メディアとポピュラーカルチャーの影響です。天才プログラマーや偉大な物理学者として取り上げられるのはほとんど男性であり、その物語が「努力+才能」という二項対立のフレームで語られる。視聴者は「すごいのはやはり男」という刷り込みを受け、成功の頂点にいるのは当然男性というイメージを強化する。すると、女性自身がハイパフォーマーになる可能性を最初から切り捨て、失敗したときの言い訳を見つけやすくなる──これもまた、性別内のばらつき幅に見える現象を社会が生み出しているにすぎません。
つまり、「男性の方がばらつきが大きい」という統計的観察は、純粋な生理的メカニズムだけでなく、家庭・教育・職場・メディアという多層的な社会構造によって作り出された結果を映し出しているに過ぎません。このことを見落としてしまえば、性差の背後にある不平等な制度や文化を是正する機会を永遠に失ってしまうのです。
以上のように、ばらつき性差仮説はデータの一般化・指標の混同・単純化された遺伝メカニズム・社会文化的要因の無視といった致命的な欠陥を抱えており、「男性の方がばらつきが大きいからトップ層が男性だ」という論拠としては説得力に欠ける。
フェミニズムは宗教でもなければ幸せを与えてくれるものでもないよ
フェミニズムは女性の権利回復のための社会運動で、社会慣習や社会制度の改定や打破を目指すもの
当然ながら現行の社会慣習(家父長制)に適合し、そこでの成功に幸せを感じる女性にとっては幸せとは感じられないだろうし、フェミニストのなかにもその運動と個人の幸福のあいだに葛藤を覚えるひともいる
ただ、それでも権利を制限された個人的な幸せより、苦しくても権利を回復するほうが女性全体の幸福に資すると考えて、運動しているんだ
もちろん、フェミニズムを介してほかの女性やマイノリティたちと知り合い、これまで語らなかったような経験を共有して、新しいことを学び、という喜びはあるし、個人的にはそこに幸福を覚えるから、性差別やクィア差別を内面化し、既存の社会での幸福を望んでいたころより日々が楽しいよ
「進歩派左翼」といった政治的立場は一枚岩ではなく、その中にさまざまな思想傾向があります。
近代以降、特に啓蒙思想の影響を受けた政治的左派は、人間理性や科学を重視し、超自然的な摂理よりも「人間が歴史をつくる」という視点に立ちやすいです。
これは「世界は神の手にある」とする信仰よりも、「人間の意志と社会制度の改革がすべてを決める」と考える姿勢につながります。
神の摂理を強調すると「人間はただ従うだけ」という理解につながると考え、逆に「人間の解放」や「社会正義」を人間の行動のみに基づいて語りたい傾向があります。
この点は、ある意味で「神の導きを介さずとも人間は自分の運命を変えられる」という理念です。
歴史的に、宗教が権力と結びついて抑圧に用いられた事例も多くありました。そのため左派の一部は「神の摂理」概念自体を支配の道具と見なし、否定する傾向があります。
ユダヤ的な観点から見ると、タナフやタルムードはまさに「神の摂理」と「人間の自由意志」の両立を教えます。
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香港の民主派は、かつての理想と勇気の象徴として称賛された。しかし、2014年以降の運動、特に2019年の大規模デモの展開を振り返ると、その戦略的・倫理的欠陥が明白であり、結果的に香港社会に深い分断と喪失をもたらした責任は免れない。
第一に、運動の主要な訴求が「民主」「自由」「普選」であったとはいえ、それらを掲げるだけで現実的に何を達成できるのかという計算が甘かった。スローガンは大衆の共感を掴むための強力な道具だが、政治的成果をもたらすためには、法制度や行政の細部にわたる実務的戦略、交渉力、持続的な市民基盤の維持が不可欠である。2019年の抗議は街頭での熱狂を生んだが、同時に組織的な意思決定と長期戦略の欠如を露呈した。区議選での勝利や一時的な国際的関心は得たものの、それを生かして構造的変化を引き出すための冷徹な政治的駆け引きやバックチャンネル交渉が十分であったとは言い難い。
第二に、運動内部の倫理観と表現方法に問題があった。市民の不満の矛先を大陸出身者や観光客など「外的」な存在に向けるような言説や行動は、短期的には連帯を生むことがあっても、長期的には社会の分断を深める。経済や社会制度の問題を外部の「他者」に転嫁することは、根本原因の解決を遠ざけるだけでなく、運動自体の正当性を傷つける。マナーや越境出産、観光客の振る舞いへの怒りは理解できるが、それをヘイトや排斥にまで発展させた一部の言説は、民主的な主張の正当性を弱める愚行である。
第三に、指導部の責任感の欠如が繰り返された。政治運動において真の指導とは、常にストリートの熱狂を冷静に管理し、交渉の場で最大限の利得を引き出すことを意味する。だが、抗議行動はしばしば過激化し、象徴的勝利を追うあまり現実的な妥協点を見逃した。対話の場を軽視し、敵対的な態度を堅持した結果、北京と香港政府は強硬手段で応じる口実を得た。政治は相手との力関係の交渉であり、市場価値や支持率が高まった時にこそ最も効果的に要求を通すチャンスがある。民主派はその「売り時」を逃し、ストリートでの優位を政治的成果に変換できなかった。
第四に、運動が掲げた価値と現実の行動との乖離だ。自由や人権を訴える運動が、同時に排他的な言動や選民意識を育んでは説得力を失う。自由を求める者は、異なる意見や出自を持つ同胞とも共に生きる術を示すべきであり、対話と包摂を拒むことは自らの主張を脆弱にする。民主派の一部に見られたナルシシズムやイデオロギー的硬直性は、運動の幅を狭め、支持層の拡大を阻んだ。
第五に、外部へのアピール戦略の未熟さも目立つ。国際社会の同情は短期的な注目をもたらすが、実効的な支援や圧力に結びつくとは限らない。民主派が国際的な関心を最大限に政策転換へ結びつけるためには、国内の制度的弱点を突き、継続的に外圧を誘導する繊細な外交戦術が必要だ。だが現実は、メッセージが断片化し、海外での同情もやがて疲弊していった。結果として北京は「内政問題」として一方的に行動する余地を得た。
最後に、結果として香港社会が被った損害は甚大である。運動は短期的に香港の公共空間とコミュニティの結束を傷つけ、国内外の投資や信頼にダメージを与えた。長期的には法的な締め付けや経済・教育の変化をもたらし、多くの若者が海外へと道を求める原因ともなった。もし運動の目的が真に香港のより良い将来であったなら、ストリートの正義感を現実政治の中で如何に制度化するかにもっと注力すべきだった。
批判は運動を完全否定するものではない。香港の若者たちが不公正に声を上げたこと、政治参加を求めたことには尊重が必要だ。しかし、尊敬と同情は免罪符ではない。運動のリーダーと支持者は、過去の過ちと戦術的失敗を冷徹に検証すべきだ。感情の高まりを正当化材料にして無計画な行動に走るのではなく、具体的な政策提言、制度改革案、現実的な交渉戦術を整えることが、次に類似の課題に直面したときに初めて意味を持つ。
要するに、香港の民主派は理念だけで道を切り開けると誤認した。理想は重要だが、政治は血肉のある力学である。情熱に溺れる者は、しばしば長期的な勝利を失う。香港の将来を真に案じるなら、まず自らを律し、社会全体の信頼を再構築する責務を負うべきである。
日本社会における「専業主婦モデル」は、戦後から高度経済成長期にかけて、女性に一定の安定と保障を与える制度的枠組みとして機能していた。男性は企業戦士として外で働き、女性は家庭と子育てを担う。この分業は男女の役割を固定化する側面を持ち、ジェンダー平等の観点からは批判の対象となった。しかし同時に、それは多くの女性にとって経済的庇護を受け、生活を安定させる「保険」としての意味を持っていた。
1970年代以降、「女性も自立して働くべきだ」という思想が社会に浸透する。専業主婦は「依存的」「社会的に価値を生み出さない存在」とみなされ、否定的なイメージを帯びるようになった。この価値観の転換は一見すると女性の解放を意味したが、現実には「労働市場での競争に適応できない女性」にとって新たなリスクを生み出した。
労働市場には、非正規雇用や低賃金といった不安定な仕事しか得られない層が存在する。かつてなら専業主婦モデルによって「夫の庇護」による安定を享受できた女性たちが、現在では「自立」という名のもとに低賃金労働へと追いやられ、経済的に困窮するケースが増えている。とりわけ、未婚女性やシングルマザーは顕著である。彼女たちは「自立的に生きること」を社会から求められながらも、実際には十分な賃金も社会保障も得られず、「貧困女子」として統計上のカテゴリーに現れるに至った。
ここで重要なのは、専業主婦モデルの否定が「思想的には前進」であったにもかかわらず、社会制度がそれを支える形に変化しなかった点である。男女平等の理念が拡散したにもかかわらず、保育や教育の公的支援は十分に整備されず、労働市場の男女格差も解消されないまま残存した。そのため「女性は自立せよ」という規範が、むしろ経済的弱者に過大な負担を課す結果となった。
総じて言えば、専業主婦モデルは「依存の構造」であると同時に「安定の装置」でもあった。それを一方的に否定し、自立だけを理想化した思想の浸透こそが、現代の「貧困女子」問題の温床となっている。ここには、自由と平等の理念が社会的セーフティネットと乖離したときに生じる、典型的な逆説を見ることができるだろう。