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はてなキーワード: ポルトガル人とは

2025-11-08

ポルトガル人AKIRAってどういう意味なの?と聞かれたか

ワイ

「人の名前やがな」

と答えたら

美人ポルトガルから来た女

「おもんない返しやな、だからモテへんねん」

と言われて少し勃った。

2025-11-02

都市攻撃戦艦で行われてたころ、オランダVOCは、関ケ原秀吉の残党を倒し その後に明朝ポルトガルマカオ攻撃した

ポルトガル人は1622年にはマカオ防衛したものの、1641年にはマラッカを失いアジアから撤退

ところが1651年に英蘭戦争が始まりオランダVOCはイギリスニューヨークを取られ、スペイン人マニラをとられた

オランダVOCは日本だけは維持していた、1850年代に英米がやってきた

 

で、オランダって植民地を作っては英米譲渡させられてるけど、何なの?

2025-10-17

日本人好戦的民族であると言われることが多く、戦国時代という激動の時代背景も相まって、ポルトガル人火縄銃を取りに帰国している間に、その技術を迅速に戦力化する強い動機が働き、銃が完成してしまいました。一体どれほど好戦的なのでしょうか?!

https://youtube.com/shorts/rKjsPS2L9Zk

2025-04-21

万博行ってきた日記

まずまとめ

万博、事前に予習せずに行ったら、想定してた内容と違ってた。悪い意味ではないんだけどね。

自分は見知らぬ国について知りたいねクワクと思ってたけど、自国の紹介をしていたのは半分くらいだったイメージ。残りは自国の目指す未来イメージみたいな紹介をしていて、みててパッションは伝わるのだが、どんな国なのか伝わってこないな…という印象を受けた。つまり自分博物館や展示会をイメージしてたんだけど、ちょっと違ったなという感じ。

あと、めちゃ並ぶから対策はした方が良い。列に日陰がないので、帽子とかはあった方が良い。さらにだけじゃなくて、暇つぶしスマホでもいいけど、文庫本持って行って正解だった。まぁ、こういうのは一人でいくんじゃなくて一緒に待ってても楽しめる相手と行くべきなんだろうけどね。。。。。。。

それと、トイレ問題はやっぱりある。想定よりはトイレの量が多いけど、でもやっぱり少々辛いかも。。。

総合評価としては、楽しかった。年パス買おうか悩んでる…ってところ

以下は自分日記帳なので読まなくてもよい

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さて、まず11時予約だったけど、色々あって11時40分頃に舞洲駅につく。そこから歩いて、45分には列に。11時入場列で空いてはいたけど、列は出来てて全然進まない。今日は涼しかたから良いけど、それでも窓無しでコンクリートの上で、ジリジリ焼かれる感じ。これ、夏場はコミケで東駐車場に並んだ時みたいになるだろうな。。大丈夫かな。。とか考える。

人は結構いた。修学旅行生が目立った。

それで、リング、これが大きい。おぉおーってなった。いろいろいわれてたけどこれはすごい。。ってなった。

通り過ぎて、まずほとんど列に並ばなくて済む、フリー入場のコモンズってのにに入った。いろいろな国の展示を見て回った。南アメリカの国々とか、聞いたこともないような国もあって、はえーって勉強になった。

元々中東あたりの歴史に興味が強いので、イエメン闇市みたいな店で交渉して買い物とかした。楽しかった。イスラエルユダ王国の頃の岩があって、おぉーとなった。

その後、予約してたセルビアに行ったんだけど、遊びをテーマにした展示で、子供向けとまでは言わないけど、なんというか期待外れだった。ただ、セルビアカフェピタが美味しかった。ワイン飲もうと思ったけど、グラスワインカリフォルニアワインで、セルビアワインボトルだけって言われてやめた。

その後お隣のウズベキスタン館に並んで入った。30分は並んだか。少し日焼けたかなくらい。展示は正直微妙

そのあと散歩して、別のコモンズを見に行く。パレスチナの展示をみて悲しくなる。モンゴルの展示をみて、あれだけ栄えてたモンゴルどうしてこうなったんだ。。とか思う。モンゴル史の内容はよかったけど、今のモンゴルがどうなのかとかは知りたかったな。

その後予約してたクウェートへ。長蛇の列だったから予約してて良かった。内容はまぁまぁ。ちょっと子供向けかな。。という印象。ヘレニズム硬貨の紹介とかあったけど実物みたかったな。。とも思った。良いデザインお土産かった。そうそう、お土産屋さんが入ってるパビリオンが多くて、旅行してる気分になれて良かったよ。

そしてぷらぷら歩いてたら、トルクメニスタン館が並んでたけど列がスムーズだったので入った。10分くらい。ここは当たり。面白かった。

その後ポルトガルへ。ここも15分くらい並んで入れた。自分の中でポルトガルって後ウマイヤ朝大航海時代しかなかったから、海洋国家であるということをアピールしてて、おぉ〜こういう話がききたかったんだよ〜ってなった。かなりよかった。

それで、ポルトガル館でたのが17時頃だったんだけど、レストランがあって、列ができててなんとなく並んでみた。17時45分に入られた。ポルトガル料理ワインをいただいて、良かった。ポルトガル料理食べたことないからわかんないけど、味が日本ナイズされてなくて、調理場が見えてポルトガル人がちゃん料理つくってて、おぉこれが本物かとなって、楽しかった。グラスワインポルトガルワインだった。

そのあと、リングの上を散歩して、夕暮れを眺める。

暗くなると列が短くなってたので、バーレーンに入ってみたら、大当たり。こういう国の歴史とか特徴とか聞きたかったんだよ〜〜〜!!!ってなった。パンフレットもくれた。でもお土産微妙だったので買わなかった。ごめんなさい

日が沈むと寒くなってくる。一枚羽織るの持ってきてて良かったとなる。

その後予約してたブルーオーシャンドームってのに行った。これ全然期待してなかったんだけど、非常によかった。終わったのが20時くらいで、この頃になると列がもうなくなってすぐに入られるようになっている。

歩いてて呼び込みしてたインドネシア入ったら良かった。インドネシア文化とかを伝えてくる感じだったんだけど、あんまり詳しく説明はなく、これも博物館とは違うんだな。。となった

その後サウジアラビアに入った。今のサウジアラビアのことはわかりづらいのだけど、未来に向けて進むぞ!ってのがめちゃ伝わってきて、良かった。未来だね。

この時点で21時。外へ出るとドローンショーをやって、すげーってなった。パビリオンが閉まり始めて、帰るかとなった。お土産見ていきたいなと思ったんだけど、店も閉まり始めてるのと、いわゆる普通お土産屋さんみたいなのがどこにあるのかわかんなくてそのまま帰り道へ。

東ゲートのところで年パスの割引券配ってたから並んで貰った。その後駅まであるく。列にはなっているが、止まることはなかった。ゲートから15分くらいで朝の埼京線みたいになった地下鉄に乗れた。

一番良かったのがバーレーンポルトガルも良かったけど、飯と酒補正が入ってる。

逆に、何なのコレ。。ってなったのがセルビアウズベキスタン

駄目なところとしては、チケットアプリの出来が悪すぎる。アプリチケットが見られない。アプリから外部サイトにつながって、チケットを表示させる。これが二段階認証だけど、気づいたらログアウトされるから、何回もログインすることになる。サイトの表示も微妙で、どこからチケットが見られるのか何回開いても直感にわからない。そして会場では当日チケットを申し込めるんだが、どこが何時にあいてるのかとかがぱっとわからない。

2025-02-02

ポルトガル人がうるさい。

鼠先輩もびっくりの巻き舌で「っるぽっぽppっぷうるるるぽう」って聞き取れない言葉で近くで大声で話しているので、めちゃくちゃうるさい。

ひあ。

2024-12-20

ドイツ皇帝カール5世の息子は、カロリナ法典でオランダ人迫害し、アメリカ新大陸への植民者にして、ドイツから追い出そうとした

オランダ人暴動を起こし、ダッチ連邦共和国を作った

ついでオランダ人は、アムス証券取引所をたてて、日本との貿易ポルトガル人から奪った

このあたりの強いオランダは、なんで???と思ってたが、実はフランス支援してたかぁ…

から幕府軍フランス軍が指導してた

でもオランダはあるときイングランドスウェーデン同盟し、フランスから嫌われたので

フランスは、イングランドを取り込んで、英蘭戦争明治維新とき

敵に回すと怖い国なんだろううな(五輪汚職摘発にせよ)

  

フランスオランダロシア国旗が赤青白の国(アメリカもそう)

2024-12-08

在日ポルトガル人ルシオ・デ・ソウザ日本人黒人奴隷を欲しがりイエズス会に口出ししないよう指示したのは南蛮屏風を見れば明らか」

2024-09-23

Shogun観て一番違和感覚えたとこ

・野営地での火葬場を取り囲む幕に「鳥居

ポルトガル人スペイン人という設定のキャラがみんなゴリゴリイギリス英語

2024-07-27

anond:20240727131304

それはつまり、弥助が黒人奴隷説も誤植可能性があるって事だよね?

実はスペイン人であるとか、実はポルトガル人であるとか。

全身入れ墨凶悪犯罪者だったら洗っても落ちなかっただけ、とか。

2024-07-25

朗報黒人・弥助を神とした元ネタ論文が見つかる。

アサクリの弥助・黒人奴隷と、そこから派生したロックリー・岡美穂子両氏の言説の元ネタっぽいものを見つけたので要約しておく。

○著者:David Wright

題名:The Use of Race and Racial Perceptions among Asians and Blacks: The Case of the Japanese and African Ameridans

○出典:1998年一橋大学社会学ジャーナルhttps://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/8321/

概要(俺の読解なので是非原本にあたられたし)

16世紀半ばからポルトガル人奴隷等としてかなりの数の黒人日本を訪れていた。

日本人は彼らに好意的で、彼らは尊敬対象だった。特に弥助という者について、信長厚遇した。

ポルトガル人が頻繁に黒人奴隷を献上するので、日本人も彼らを見下すようになり、明治維新の頃にはその見方が定着していた。

・というか白人との接触から日本では白い肌が美しいと言われてたけどね。(その割にはお歯黒は何故?)

・一方で、肌の黒い聖人いたこから黒い肌に対する欧米のような差別感情は持ってなかった。オランダから入れ知恵されてたのに不思議だね。

(以下開国時の話が続く)

この、「日本人は彼らを尊敬していた」「肌の黒い聖者もいた」が、ロックリー・岡美穂子両氏による「弥助は神とされた」等に変換されていったのではないだろうか。

なお、知る限り弥助を神とした、または神に近かった、神のようだったなどとする史料発見されておらず、専門家によるものでは、ロックリー氏や岡美穂子氏が述べているものがすべてのようだ。

特に八幡神は南無八幡大菩薩那須与一)で有名な武士の神であり、これになぞらえるというのはとてつもない厚遇だし、文献にも残っていると思うのだが何を根拠にされたのだろうか。

(岡美穂子氏インタビュー記事より)

信長に関する史料では弥助のビジュアルイメージが「八幡神に近かった」と言われています。あるいは、中国史料ではアフリカ系の人を「黒鬼」と表記している。ですから実用的な屈強さを求めただけでなく、そういう人間自分の近くに置くことで「こんなに強いヤツを従えているんだ」という格付けに役立つと考えた、イメージ戦略の部分もあったと思います

https://www.cyzo.com/2021/02/post_268095_entry.html

(岡美穂子氏インタビュー記事より)

弥助もそもそもアフリカ大陸内の部族闘争で生け捕りにされ、外国人に売られたといわれます

(略)

中国では「黒鬼」と呼ばれていましたが、差別的な意味だけでなく強いものに対する憧れ、神格化も含まれているでしょう。

https://books.google.co.jp/books?id=ueI9EAAAQBAJ&pg=PA45&lpg=PA45&dq=%22%E7%A5%9E%E6%A0%BC%E5%8C%96%E3%82%82%E5%90%AB%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%81%A7%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%86%22&source=bl&ots=VL8Mdfp5xc&sig=ACfU3U0mVfcGBaVjLwU6pkAfd6NYXORlew&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwj1_bTS7sOHAxWrb_UHHZRqGX8Q6AF6BAgcEAI#v=onepage&q=%22%E7%A5%9E%E6%A0%BC%E5%8C%96%E3%82%82%E5%90%AB%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%81%A7%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%86%22&f=false

ロックリートーマス氏によると、当時の都だった京都住民と同様、信長は弥助の背丈や体格、肌の色に畏怖の念を抱いたという。

(略)

信長は弥助を「大黒天」ではないかと考えた。大黒天は豊穣(ほうじょう)の神で、寺院では通常、黒い像によって表現されている。信長は弥助の肌の色は墨によるものだろうと思い、こすり落とそうとした。本当に黒人だと納得すると、直ちに宴会を開いて敬意を表したという。

https://www.cnn.co.jp/world/35138192.html

追記

中国語の「黒鬼」に屈強なという意味はないのでは?

→通常の中国語ではその通りで、日本語に訳すと「黒い幽霊」といった意味合いになる。

あとは道教では鬼というのは死後の世界の人に該当するもので、鬼世界があって普通に鬼が暮らしていて鬼の役人がいたりもする。

いずれにしても中国語の「鬼」には日本のように「強い」「屈強な」という意味はない。(例えば「悪党中世)」・「悪源太(源義平)」・「悪太郎堀内恒夫)」という使い方はしない)。

なので、岡美穂子氏が「屈強な黒人」「神格化」という意味で取り上げたのは、解釈の誤りのように思う。御本人の説明を求めたいところだが。

ただ中国史については良く分からないので、昔はそういう使い方をしていたというのであれば補足よろしく

追記2

そもそも弥助ってアフリカであるとは限らないのでは?

→弥助はモザンビーク出身って記述があるんだけど、前半生は全くの不明で、岡美穂子氏が「部族闘争の結果生け捕りになった」とした根拠不明

当時のモザンビークってインド人大勢住み着いてるので、インド人とか混血の可能性は十分にある。

追記3

信長が弥助のことを大黒天(神)と思った

トップブコメにこうあったが、そんな証拠はどこにもない。

現時点ではロックリー氏と岡美穂子氏の頭の中だけに存在すると言って良い

2024-07-23

ロックリー「弥助がきっかけになって日本の名士の間でポルトガル人が連れてきた黒人奴隷を雇うブームが始まったとかなら面白いね(物語パート)」

アホ「"黒人奴隷"?…"始まった"?…日本黒人奴隷貿易を始めたというのかギャオオオオオオオオオオオオン」


ほぼ糖質被害妄想なんだよな

2024-07-22

anond:20240722111423

日本に来るポルトガル人商人黒人奴隷を使ってたか

それを日本人が買い取るようなこともあったんじゃない?

2024-07-19

anond:20240719131159

ポルトガル人貿易商黒人奴隷を連れてきて日本大名の間で黒人奴隷を使う流行が始まった」←まあこれはデマだろうけど

それに対するツッコミが「黒人奴隷を使い始めたのは日本だって言ってるぞ!ギャオオオオオオオン!」だから

なんであん日本語力がないんやろなネトウヨって

2024-06-23

anond:20240621005433

日本存在もっとからヨーロッパでも知られていたので、そこに「発見」という言葉を使うのは不自然な感じがする。単にモニュメントに詰め込むために他のポルトガル人の初到達と一緒に並べてあるというだけのことだろうよ。(1543年は鉄砲伝来だね)

2024-06-13

anond:20240613134443

なんで500万年前が現代社会そっくりなんだ?ピアノがあるんだ?

500万年前に人力車あるの?

500万年前の人類?が猿そっくりなのか?

そもそもコロンブスにする意味は?しかアーティスト達は日本人っであってポルトガル人でもない

コロンブスにする意味は?

全部がおかしいんだよ

企画としてもストーリー脚本としてもでたらめなんだ

2023-12-18

anond:20231218164950

応慶の乱

肥前国平戸には、室町幕府命令で、南蛮貿易の窓口として、ポルトガル人スペイン人宣教師たちが住んでいた。彼らは日本の文化言葉に興味を持ち、日本人交流を深めていた。中でも、応慶という名の若い僧侶は、彼らの信仰知識に魅了され、彼らからキリスト教西洋学問を学んでいた。

しかし、応慶の行動は、幕府寺院の目に留まり不快に思われるようになった。彼は、外国人の影響を受けて、日本の伝統仏教を軽視していると非難された。幕府は、応慶を捕らえて、尋問するように命じた。しかし、応慶は、宣教師たちの助けを借りて、平戸から逃げ出した。彼は、肥前国の各地に散らばっていた、キリスト教改宗した武士農民たちを集めて、反幕府勢力を築いた。彼は、自分名前にちなんで、その勢力を「応慶軍」と名付けた。

幕府は、応慶軍の存在を知り、室町幕府将軍足利義稙大内弘興を大将とする討伐軍を肥前国派遣した。永正5年(1508年)こうして、肥前国で、応慶の乱と呼ばれる戦いが始まった。応慶の乱は、数か月にわたって続き、肥前国火の海と化した。応慶は、大内軍の軍勢に対抗していたが、大内氏の軍勢は、数や装備で勝っており、応慶軍は次第に劣勢になっていった。永正6年(1509年)最後の決戦は、平戸山で行われた(平戸合戦)が、早々に大将である応慶が矢に倒れ討死することとなる。

大内軍は、応慶軍の残党を一掃しようとしたが、平戸宣教師たちが仲介に入った。彼らは、幕府と応慶軍の和睦を提案し、両者の寛容を求めた。当時、大内氏は京において細川氏畠山氏との権力闘争火種が残っていたため帰京を急いでおり、宣教師たちの説得に応じて、応慶軍の残党に恩赦を与えた。応慶軍の残党は、幕府支配に従うことを誓った。こうして、応慶の乱は、和睦によって終わった。

応慶の名前は、肥前国の人々にとって、平和幸運象徴となった。彼らは、応慶の名前を「おーけー」と発音し、物事がうまくいったときや、同意を示すときに使うようになった。この言葉は、平戸宣教師たちにも伝わり、彼らは、応慶の名前に敬意を表して、その言葉を使うようになった。

宣教師たちは、幕府追放を受けて、平戸を離れたが、その言葉を忘れなかった。彼らは、自分たちの母国に帰って、その言葉を広めた。彼らは、その言葉が、日本の文化歴史関係することを説明し、その言葉を使うことで、日本との友好を示すことができると言った。彼らは、その言葉を、手紙書物に書いたり、会話や挨拶に使ったりした。

やがて、その言葉は、ポルトガルスペインだけでなく、他のヨーロッパの国々にも伝わった。その言葉は、様々な言語翻訳されたり、略されたり、変化したりしたが、その意味は、元の応慶の名前と同じだった。それは、物事がうまくいったときや、同意を示すときに使う言葉だった。その言葉は、世界中に知られるようになった。それが、「OK」という言葉起源である

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