はてなキーワード: 動詞とは
ざっくり言うと、「言ってることはだいたい正論なんだけど、ほぼ全部これまで散々聞いた話の焼き直しで、肝心な痛みの部分(国民負担・再分配・生活の実感)にはほとんど触れてない」って感じ
・5本柱(複数年度の視点/ヒト/カネ/マネジメント/国際連携)は、経済政策の教科書どおりで、構成としてはきれい。
・「AI・半導体・量子・造船など17分野への官民連携投資」「責任ある積極財政」ってワードも、今の与党のテンプレを丁寧に並べた感じ。
・一方で、社会保険料や消費税を含む国民負担の重さ、実質賃金マイナスの長期化、格差や貧困・少子化みたいな、いま多くの人が一番しんどいと感じている部分への踏み込みはほぼゼロ。
「成長はするから、あとは自動的にみんな幸せになりますよね?」という古い発想から抜け出せてない。
言ってること:企業が投資判断しやすいように、政府も予算や税制を数年単位でコミットしましょう。
官庁や事業会社が、複数年度にわたる支援・規制改革のロードマップを出すべき。
評価:これは普通に良い。投資って1年ごとにコロコロ制度が変わると誰もリスク取らないから、「複数年度で見通しを示せ」はまっとう。
ただ、日本の予算制度・財政審の文化の中で、本当に複数年度コミットができるのかはかなり怪しい。毎年「やっぱ財政再建が~」って言い出して縮小される未来が容易に想像できる。
ここをやるなら、「中期財政フレーム自体を作り替える」「将来の支出を法律レベルで拘束する」くらいの話がいるけど、そこまでは踏み込んでない。
言ってること:リスキリング支援、大学での人材育成強化。医療・介護の処遇改善(報酬改定を前倒し)、働き方改革を含む労働市場改革。
評価:「医療・介護の賃上げをちゃんとやれ」と明記してるのは、ここ数年の文書よりはマシな点。現場の悲鳴はそれなりに意識してる。
ただし、全体としては人材の質を上げて成長分野に移動させたいという供給側目線が強くて、「非正規をどう減らすか」「低所得層の社会保険料負担をどうするか」みたいな、足元の生活のしんどさはスルー。
リスキリングも、これまでの政府プログラムを見る限り、実効性はかなり微妙。「講座を作って自己満、現場の待遇はそのまま」の危険が高い。
→ 方向性は悪くないけど、きれいな人材政策の作文の域を出てない。
言ってること:NISAや企業型DCを軸に「資産運用立国」を続ける。成長投資に向かう資金の流れを作る、地域金融も含めて成長資金を供給。
評価:完全に「貯蓄から投資へ」「資産所得倍増」の延長線。すでにそこそこ資産を持ってる層にはプラスだけど、そもそも投資に回せるお金がない層にはほぼ恩恵なし。
「中長期の成長投資に回せ」という発想自体は良くて、国債だけに閉じたマネーゲームよりはマシ。ただ、これも企業側・金融側の論理が中心で、家計側のリスクや損失についてはノータッチ。
今の国民負担感(社会保険料+消費税+物価高)に対して、「じゃあ負担軽くしましょう」とは一言も書いてないのがポイント。
→ 金融市場と大企業には優しいけど、手取りが万年ギリギリな人にはほぼ無関係。
言ってること:設備投資の即時償却や研究開発減税など、投資税制を大胆に。コーポレートガバナンス・コード見直し、人材資本の情報開示強化。
事業再編・再構築、M&A・企業結合を促進して企業の規律を高める。
評価:典型的な投資インセンティブ+ガバナンス改革+M&A推進セット。株主と大企業経営層が大好きなパッケージ。
これをやると、確かに設備投資や再編は増えやすくなるけど、その裏側で「地方の中小企業が大企業に飲み込まれて、雇用が整理される」パターンも増える。
「内部留保を人や設備・研究に回せ」という狙いはわかるけど、そこを税制だけで変え切れるかはかなり疑問。結局、需要(売上)が伸びる見込みがないと企業は動かない。
労働者側へのセーフティネット(失業保険の手厚さ、転職支援、最低賃金、社会保険料の軽減など)をセットで書いてないのが怖い。
→ 資本市場目線では◎、労働者・地域経済目線だと「うまくやらないと切られる側が増えるよね?」という不安が強い。
言ってること:国内だけ見てても成長は限界。サプライチェーン強化やエコシステム構築を同盟国・同志国と連携してやる。
特にグローバルサウスでの新市場開拓を重視し、ビジネス展開を予算で後押し。
評価:これも方向性は妥当。中国一極依存からの脱却や、物流リスク分散を考えるなら必須の視点。
ただ、ここでも企業の海外展開を支援しますで終わっていて、「海外に生産移して、国内の雇用や賃金はどうするの?」という視点がない。
グローバルサウスでのビジネス展開は、うまくやればプラスだけど、失敗するとお金と技術だけ出して現地での利益は薄い国内産業の空洞化だけ進むパターンもありうる。
→ 外交・安全保障の流れとしては自然だけど、内需・地方雇用まで含めての設計図が見えない。
政治的な読みどころ
文面に「高市内閣」とわざわざ書いてあるのが、かなり露骨なメッセージ。
「将来、高市政権になったときの経済運営はこの路線で行きます」と宣言しつつ、現政権にもプレッシャーをかけている感じ。
中身は安倍政権以降のアベノミクス+資産運用立国+リスキリングの言い換えなので、路線変更というより「これまでをもっとちゃんとやります」という話。
つまり、「今のしんどさは路線が間違ってたからではなく、アクセルが足りなかったから」という前提に立っている。
ここに同意できるかどうかで、この文書への評価はガラッと変わると思う。
経済のお行儀の良い作文としては 70点くらい。
ちゃんと整理されてるし、投資・人材・金融・国際連携のツボは押さえてる。
でも、「国民負担の重さ」「実質賃金の落ち込み」「生活防衛」という、いま一番ホットな火事場に水をかける気はほぼないので、生活者目線では 40点ぐらい。
読んでて「うんうん…で、具体的に何する気なん?」ってなるね
文書の主語がほぼ全部これなんだよね:「投資を促進することが必要である」「支援を強化することが必要である」「国際連携を強化することが重要である」
で、続きが「…よう検討すること」「…よう推進すること」「…にコミットすること」
みたいな動詞が全部ふんわり系。
例えば本気でやる気なら、
「AI・半導体関連の公的研究開発費を、5年間で現在の○倍にする」
「介護職の平均賃金を3年で月○万円引き上げる。そのため診療報酬を○%上げる」
「NISA・DCへの年間新規資金流入を○兆円、5年で○兆円の残高増加」
とか、少なくとも数字+期限を1個は書けるはずなんだよね。
この提言はそこを徹底的に避けてるから、読んだ側が結局、どのくらいの規模でやる気なのかが全く見えない。
各項目で一番で?って思うのはここ。
ヒトのところ リスキリング支援 医療・介護等支援パッケージ 働き方改革と労働市場改革
って並んでるけど、どんなスキルを、誰に、どのくらいのコストで?
医療・介護パッケージって具体的に「基本給+何%」なのか、「処遇改善加算をこういじる」のか?
労働市場改革って「解雇規制を緩めたい」のか「社会保険料を軽くしたい」のか、それとも「非正規の処遇改善」なのか?
肝心な中身の選択を全部ぼかしてるから、読んでも立場が見えないんだよね。
カネのところ「NISA・DCを通じた家計から成長投資への流れの加速」「資本市場機能の強化」
これも、NISA非課税枠をまた拡大したいのかDCの加入を半ば義務化したいのか年金資金の株式比率をもっと上げたいのか
どこに突っ込む気なのか書いてない。
運用立国やります!とだけ言って、リスク側の話(損したとき誰が死ぬのか)には触れてないから、どう評価していいか決めようがない。
具体性がないの、たぶん「無能だから」じゃなくてケンカを避けるためにわざとって側面が強いと思う。
この文書で本当は踏み込まなきゃいけないのって、社会保険料・消費税をどうするか(特に低所得層の負担)
財政拡張をどこまでやってもいいと考えるのか、労働市場改革で企業側をどこまで自由にするか、中国依存をどのスピードでどこまで減らすか
あたりなんだけど、ここを数字や制度名まで書いた瞬間に党内の財政タカ派、経団連、高齢者票、中国との外交
ぜんぶと利害がぶつかる。
だから「方向性だけ書いて、後は官僚と次の内閣に丸投げ」みたいな文章になってるんだと思う。
対比として、例えば同じ項目でも、「社会保険料について、年収300万円以下の本人負担を5年間で○%軽減する。その代替財源として○税を○%引き上げる」
「介護離職ゼロに向け、介護職の賃金水準を全産業平均比▲○%から▲○%まで縮小する」
「対中輸入比率を10年で△%→□%に低減する。そのために半導体・レアアースなど5品目については…」
くらい書いてあれば、「やる気と覚悟はあるな。中身に賛成かは別として。」って評価になるんだけど、今回のはそこに踏み込まない安全運転の提言。
フレーム(5本柱)はそれなりに整ってる
でも、中で一番えぐい論点は全部「検討」「推進」「強化」に逃がしてる
ざっくり言うと、命題は同じでも“語気”と“行為の向き”が違います。
端的に言うと、「洗う」の「う」は、昔の日本語ではワ行の音として扱われていたためです。
## A Special Rule for Verbs Ending in 「う」
まず、現代語のルールとして、「う」で終わる五段活用動詞を「~ない」の形にするときは、「う」を「わ」に変えるという決まりがあります。
• 言う → 言わない
• 使う → 使わない
• 思う → 思わない
「洗う」もこのルールに従っているわけですが、なぜこのような特別なルールがあるのかがご質問のポイントですね。
## The Deeper Reason: A Relic of Old Japanese 📜
昔の日本語(歴史的仮名遣い)では、これらの動詞は「う」ではなく「ふ」で書かれていました。
• 洗う → 洗ふ (arafu)
• 言う → 言ふ (ifu)
• 使う → 使ふ (tsukafu)
これはハ行(ha, hi, fu, he, ho)の活用をする動詞でした。動詞を「~ない」の形にするとき、活用ルールに従って語尾をア段の音に変える必要がありました。
ハ行のア段は「は (ha)」ですよね。そのため、昔はこう活用していました。
• 洗ふ (arafu) → 洗はず (arahazu) or 洗はない (arahanai)
• 言ふ (ifu) → 言はず (ihazu) or 言はない (ihanai)
その後、時代が下るにつれて、言葉の途中にある「は(ha)」の音が、発音しやすいように「わ(wa)」の音へと変化していきました。
変化のまとめ
1. 昔の形: 洗ふ (arafu)
2. 昔の否定形: 洗はない (arahanai)
3. 発音の変化: 「は(ha)」の音が「わ(wa)」になる
そして、辞書に載っている基本の形も、洗ふ(fu) の発音が 洗う(u) へと変化し、現代の書き方になりました。
このように、「洗わない」の「わ」は、元をたどればハ行の「は」であり、その発音が変化して残ったものなのです。
はい、その通りです。「遊んでる」という言葉において、「遊ぶ」が「遊ん」に変化しているのは動詞の活用の一環です。
1. 「遊んでる」の元の形
まず、「遊んでる」は「遊んでいる」の話し言葉(口語)での省略形です。
2. 「遊んでいる」の成り立ち
「遊んでいる」は、動詞「遊ぶ」と、補助動詞「いる」がくっついた形です。 動詞を接続するため、「遊ぶ」は「て形」と呼ばれる形に活用(変化)しています。
3. 「遊ぶ」の「て形」への活用
動詞「遊ぶ」の「て形」は「遊んで」となります。 この「遊ぶ」→「遊んで」という変化が、ご質問の核心部分です。
この活用は「音便(おんびん)」と呼ばれる、発音しやすくするための特殊な音の変化です。具体的には「撥音便(はつおんびん)」と言います。
1. 遊ぶ (asobu) の連用形「遊び (asobi)」に接続助詞「て (te)」がつく。 → asobi + te
2. 発音しやすくするために「bi」の音が「ん (n)」に変化する。(これが撥音便) → ason + te
3. 前の音が「ん」になった影響で、後ろの「て (te)」が濁って「で (de)」に変化する(連濁)。 → 遊んで (asonde)
このルールは、「~ぶ」「~む」「~ぬ」で終わる五段活用の動詞に共通しています。
他の例:
• 読む (yomu) → 読んで (yonde)
• 死ぬ (shinu) → 死んで (shinde)
• 呼ぶ (yobu) → 呼んで (yonde)
まとめ
「遊んでる」の「遊ん」の部分は、動詞「遊ぶ」が「~ている」の形に接続するために活用(音便)した結果です。文法的に正しい変化と言えます。
以下で展開される議論は、アメリカのある哲学者が学術誌の査読(ピア・レビュー、同業者による査読)の適切さを確かめるためにでっち上げたデマ論文の内容であり、しかもその論文はある雑誌に受理された。
このことから投稿者は、文化人類学者ではないが、いくつかの考察を試みる。
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1. 以下の内容は、「サル山のボス猿とそのなかま」が信奉するペニス信仰と、それに対する「フェミニスト」の反論の両方を痛烈に揶揄している。これらの議論は、ここ「はてな」での果てしない同種のやり取りの上位互換となっている。つまり、そのことに気づかないでいる、いわば自己相貌失認を患う矮小な関係者の姿をアナロジカルに揶揄している。
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2. 仲間による「レビュー」を経て認められた「議論」が、いかに穴だらけなものであるか、つまり、特定のコミュニティの支配イデオロギーとはしばしば、ブードゥー教の偶像崇拝にすぎないことを示唆している。
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3. 投稿者はこのデマ論文の紹介により、いわば原始人に優れた棍棒の作り方の一例を教唆することになるかもしれない。いずれにせよ、上位互換の議論がデマであると著者により暴露されたことは、はてなでの「議論」の有効性の上界を抑えられたことを意味する。平たくいうと、0くxく1のように、xの取りうる範囲が有限なある一定の値以上にならないことである。原始人たちが、今後どのような道を選ぶのか知らないが、進化の選択肢があることを付け加えたい。
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4. 敷衍すると、この論文の内容に限らず、はてなでの任意の「議論」には、それの上位互換となるある学術的な議論を作ることができる、という可能性が示唆される。平たくいうと、はてなの投稿を分析すれば論文が書けるかもしれない。
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この論文「概念的なペニスは社会構成物である」は、ジェイミー・リンゼイとピーター・ボイルによって2017年にCogent Social Sciencesに掲載された研究論文であり、ペニスという概念が単なる解剖学的な器官ではなく、社会的に構築されたものであり、それが有害な「毒性のある男性性」(toxic masculinity)と密接に関連しているという革新的な主張を展開しています[1]。著者らは、この「概念的なペニス」が、ジェンダー・アイデンティティ、生殖に関するアイデンティティ、社会および家族の力学に深刻な問題を引き起こし、女性やその他のジェンダー周縁化されたグループにとって虐待の根源となり、レイプの普遍的な原因であり、さらに気候変動の概念的な原動力であると結論付けています[2-4]。
伝統的に、ペニスは男性の生殖器または性器として圧倒的かつ議論の余地のないものとして科学的に認識されてきました[5]。しかし、著者らは、この見方が「過度に還元主義的」であり、ペニスを持つ人間の経験の多様性を完全に表現できていないため、「首尾一貫しない構成物」であると指摘します[6]。
この主張の根拠として、まず解剖学的なペニスが必ずしも男性の生殖器官としての役割を果たすわけではないという事実が挙げられます[5]。例えば、怪我を負った者、配偶者を強制できない者、子孫を産むことに興味がない者、医学的に不妊の者、またはアセクシュアルを自認する者など、ペニスを持つ多くの人々が生殖を行いません。これらの例は依然として「男性」を構成するかもしれませんが、彼らのペニスを生殖器官として特定することは明確に誤謬であるとされています[5]。
さらに重要な点として、ペニスを持つ女性が数多く存在することが強調されます[5]。これには、性別適合手術前のトランスジェンダー女性や、女性と自認し、性別移行を望んでいない染色体上の「男性」が含まれます[5, 7]。文化的な有害な常識に反して、これらの人々にとって、彼らの性器(ペニス)は、生殖に利用される場合があったとしても、男性の性器として最もよく理解されるべきではありません[7]。このような人間の表現の多様性という重要な事実に照らして、ペニスを具体的に男性の解剖学的な器官と概念化することは、非常に問題があり、言説的な再検討が喫緊に必要であるとされます[6]。
著者らは、ペニスが「男性性に対する首尾一貫しない構成物」であるとし、ペニスは解剖学的な器官としてではなく、**ジェンダー遂行的な、非常に流動的な社会構成物**である「概念的なペニス」として理解されるべきだと主張します[6]。この「概念的なペニス」は、ジェンダーに関連する様々な遂行的な行為や発言を通じて社会で確立されるペニスの操作的な表現です[6]。
この概念的なペニスが、**「毒性のあるハイパーマスキュリニティ(hypermasculinity)」と等型写像的(isomorphic)な関係にある**とされています[1, 8-10]。この等型写像関係とは、二つの異なる構造が、その構成要素間の関係性において本質的に同じ形を持っていることを意味します。ここでは、概念的なペニスという社会構成物が、毒性のあるハイパーマスキュリニティの行動や心理と鏡像のように一致しているということです。
特に、この等型写像関係は、**「マチスモ・ブラガドシオ」(machismo braggadocio)**という概念によって媒介されます[10, 11]。マチスモは本質的に攻撃的な男性のプライドを指し、ブラガドシオは傲慢な自慢の性質を意味します[12]。これらが一体となって、社会的に男性的な心や異性愛規範的な女性の心がペニスを「客観視」し、それを介して男性性と支配的な男性の権力ダイナミクスを遂行的に表現する具体的な描写であるとされます[12]。
この等型写像関係において、概念的なペニスは、ハイパーマスキュリンな男性が権力のない主体的な立場から強力な立場へと自身を再配置するために、**「主体」「客体」「動詞」の三つの役割**を果たします[11-14]。
この主体としての役割は、男性が性的な「征服」や「パフォーマンス」について自慢する際に明らかになります[16]。また、「俺は彼女にやった」「彼女はもっと欲しがった」といった表現に見られるように、名詞の「それ」("it")が客体的な概念的なペニスを女性の経験の知覚された主体に変え、概念的なペニスを男性のジェンダーパフォーマンスに関してさらに客体化します[16]。これにより、概念的なペニスは、ハイパーマスキュリンな心において、ペニスを主体として(男性の)セクシュアリティを強力な現実とする脱所有化(deappropriative)のツールとなります[16]。
この傾向は、性的なアイデンティティが根本的にヒエラルキーの維持に利用されるという考え方によって説明されます[17]。概念的なペニスを行動を表す動詞として使用することで、ハイパーマスキュリンな男性は、他者を抑圧し、脱制度化する社会的なヒエラルキーを強制し、自己を認識的に高めます[17]。この現象は、ラップ音楽におけるミソジニーの分析や、「マン・スプレッディング」(manspreading)と呼ばれる、公共交通機関などで男性が足を開いて座り、不必要に広いスペースを占有する行動にも見られます[17]。マン・スプレッディングの言い訳は、解剖学的なペニスと睾丸が「快適さ」のためにスペースを必要とするという男性的な社会言説に直接基づいていますが、これは概念的なペニスを遂行的な社会構成物として見た場合、周囲の空きスペースを「レイプする」ような支配的な物理的空間の占有であり、毒性のあるハイパーマスキュリニティへのマチスモ・ブラガドシオ等型写像を通じて最もよく理解されるとされます[17]。
マチスモはハイパーマスキュリンな本質であり、ブラガドシオはその表現です[10]。現代の思考における概念的な要素としてのペニスは、マチスモ・ブラガドシオの概念によって、ハイパーマスキュリニティにおける最も毒性があり問題のあるテーマと自然に等型写像関係にあります[10]。これらのテーマは、解剖学的なペニス自体には適用されず、生殖しない個人やアセクシュアルな個人にも関連性を持たないため、ペニスは既存の男性的な社会的な比喩を演じるために利用される、構築された社会的な客体、つまり言説的な「概念的なペニス」として理解されるべきだとされます[10]。
概念的なペニスが毒性のあるハイパーマスキュリニティに等型写像的に同定されることの最も問題のある結果の一つが、**気候変動**であると指摘されています[4, 18]。気候変動は、まさにハイパーマスキュリニティの特定の有害なテーマによって引き起こされており、これらは概念的なペニスと識別される気候生態学への支配的な略奪的アプローチを通じて最もよく理解できます[18]。
著者らは、地球が急速に2℃の気候変動閾値に近づいている原因が、現在の資本主義構造を維持する家父長的な権力ダイナミクス、特に化石燃料産業にあると主張します[18]。科学、政治、経済の言説におけるハイパーマスキュリンな支配と、生態系への修復不能なダメージとの関連性は明確であるとされます[18]。破壊的で持続不可能であり、ヘゲモニー的に男性的な環境政策と行動へのアプローチは、男性優位の精神性による自然の「レイプ」の予測可能な結果です[19]。この精神性は、男性心理に対する概念的なペニスの役割を認識することによって最もよく捉えられます[19]。
特に、資源を安価に略奪し、家父長的な経済的利益のためにその内在的な価値を奪われた後、荒廃し減退したまま放置されるような「未開の環境」にこの精神性が適用されるとき、概念的なペニスに内在するレイプ文化の延長が明らかになるとされます[19]。気候変動は、最もよく言えば、ハイパー家父長制社会が地球の生態系にメタファー的に「マン・スプレッディング」している例であると述べられています[19]。
この問題のある傾向の根底にある理由は、現代の資本主義理論、すなわち新資本主義理論が、科学と社会におけるハイパーマスキュリンな焦点から直接その合理性の主張を引き出していることにあります。そしてこの焦点は、概念的なペニスとの同一視によって最もよく説明されるとされます[20]。毒性のあるハイパーマスキュリニティは、概念的なペニスから直接その意義を引き出し、新資本主義的唯物論の支持に自身を適用します[20]。この新資本主義的唯物論は、特に炭素排出の化石燃料技術の無制限な使用や、未開の自然環境の無謀な支配において、気候変動の根本的な原動力であるとされます[20]。
この分析から導かれる実践的な推奨事項は、気候変動研究において、可能な限りハイパーマスキュリンなペニス中心の視点を避けるように、政治や科学の言説への関与方法を変えるべきであるというものです[3]。
結論として、著者らは、ペニスは男性の性器や生殖器として理解されるべきではなく、むしろ Permalink | 記事への反応(0) | 19:03
だけど、「無双する」は、少なくとも一般人によるGoogle検索キーワードにおいて、2006年まではまったく見られない表現みたいだね。
最近は異世界チート関連の検索量が大きいけど、2007年以降は確かに三國無双や戦国無双と共に検索されているっぽい。
全期間: 無双する - 調べる - Google トレンド
2020年まで: 無双する - 調べる - Google トレンド
2008年9月まで: 無双する - 調べる - Google トレンド
2006年まで: 無双する - 調べる - Google トレンド
Twitterではこれが初出か。…と思ったけど、これは単にゲームの無双をするっていう意味やな。
"無双する" until:2007-12-31 - 検索 / X
Twitterでの一般動詞としての用例は、2008年6月8日のつぶやきが初出っぽい。これ以降、急にぽつぽつつぶやかれるようになってるのがおもしろい。
"無双する" until:2008-12-31 - 検索 / X
イタリア語の動詞tirareは「引っ張る」を意味し、その命令形tiraと目的語代名詞mi(私を)、そして副詞su(上へ)を組み合わせた表現がtirami suになる。
「私を上へ引っ張って」という意味だ。
さかのぼるとtirareはラテン語のtrahereに由来する。
これは「引く」を意味する動詞で、ここからさまざまな言葉が派生していった。
フランス語のtirer、スペイン語のtirarなどがあり、英語にも別の形で残っている。
例えばattract(引きつける)やextract(引き抜く)だ。
他にはtractor(トラクター)、trace(跡)、train(電車)も同じで、牽引に関係する言葉だ。
planは動詞だしplannerって言うし
私は日本語教師だ。歴は長くないが、日本語教育に携わる者の端くれとして、さまざまな国籍の学習者たちと共に日々を過ごしている。
幸いにも、私の働く学校の学習者達はとてもマナーが良い。あいさつもしっかりできる。格助詞の使い方、動詞の活用、発音はまだまだだが、勤勉だ。
彼らは、私の声が出づらい時には「先生、大丈夫?」「お大事に。」なんて言葉をかけてくれて、母国ののど飴をくれる優しさも持ち合わせている。
本事件の犯人の国籍が発表されたとき、心から胸が痛んだ。日本人が、外国籍の技能実習生に殺されるという、まさに自分の置かれる環境に近い人物間でこのような凄惨な事件が起きたからだ。(もちろん状況や関係性は違うが。)
被害者、その遺族の心情を想像し、日本人として憤りを感じると同時に、犯人と同じ国籍だからという理由で日々勤勉に日本語を勉強し、日本社会に適応しようと努力する学習者達がひと括りにされてしまうことを危惧している自分もいた。
教室内でこの事件について自発的に話すことは絶対にないだろう。教室内でも、犯人と同じ国籍であるという理由だけで同じ目で見られる事態は免れないからだ。現にXでは「だから外国人は嫌なんだ」「ベトナム人は終わってる」などの意見が見られる。
日本が好きで日本に来た人、日本に興味は無かったが、日本に住むうちに好きになった人、そのまた逆で、日本に住むことがこんなにも辛いことだとは知らなかったという意見も聞く。
ひらがな、カタカナ、漢字を扱い、世界でも珍しい独特の文化と空気感を持つ日本。外国人が日本に住むということがどれだけ難しいのかは想像に難くない。
同国籍の学習者を生徒に持つ自分は、何が出来るのだろう。外国人に日本語を教え、文化を教える立場であり、それにやりがいを感じているからこそ苦しい事件が起こってしまった。色んな御託を並べたが、「悲しい」という気持ちが一番だ。
dorawiiさん
2020/7/27 18:55
3回答
「申し送り」には「申し送る」という元の動詞が当然あったはずですけど、なぜかもっぱら「申し送り」の方が実際の文章では使われますよね。
特に「申し送っときました」なんて言い方は一度も見たことがありません。
本来は動詞なのだからそういう言い方も可能なはずなのに、なぜ使われないのでしょうか?
日本語・75閲覧
sig********さん
2020/7/27 21:16
「走り書き」や「メモ書き」はあるけど
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14229091059
「申し送り」の語源と成り立ち
1. 「申し」とは
「申し」は「申し上げる」「申し伝える」などの形で使われる、丁寧に言う・伝えるという意味の言葉です。
昔から、目上の人や大切な相手に何かを伝えるときに使われてきました。
2. 「送り」とは
「送り」は「送る」という意味ですが、ここでは「次の人に伝える」「後の人に渡す」というニュアンスです。
3. 合わせて「申し送り」
・なぜそれで丁寧さが表現できると思ってるのか、おそらく使ってる本人たちも説明できなさそうなのが馬鹿くさい。
これは「ひきつぐ」という動詞が存在しているのでその名詞形ということで、固有名詞として明確。
「引継ぎしておいて」だと明白だが、「申し送っておいて」だとSVOCがわからん。