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はてなキーワード: 民間信仰とは

2025-10-14

anond:20251013192216

仮説としては尊重するが、重要なのはその前段階にある。

例えばだけど、あなた増田トップブコメに以下のようなコメントがある。

恋愛支援は女をあてがえ亜種だから燃える。女にとって恋愛結婚リスクだと認識出来るようになっただけでリスクはずっとある。「男は女嫌いの女体好きを卒業したらリスク下がる」って無償授業やるのはいいかもな

このコメント根拠がないし、デタラメな仮説の可能性がかなり高い。「男は女嫌いの女体好きを卒業したらリスク下がる」のかどうかわからないし、またそもそも「男が女嫌いの女体好き」なのか自体不明

ただ、こういう民間信仰みたいなもの恋愛関連ではごろごろ転がってる。

その理由はこういった研究をすること自体一種タブーであったから。

結果としてデマ陰謀論のようなものが当たり前に転がっていて、そもそもどのような政策手法効果的なのかコンセンサスが取れていない。

今時点でおおよそはっきりしているのは、結婚する人しか子供を産まないし、結婚が減っているし、恋愛も減っているという結果のみになる。

まずここを是正する必要がある。

2025-04-02

月見の習慣はオリジンが二つあるんよ

日本人月見という習慣はそういう美意識がどっかで湧いたってわけじゃなくて「典故」と「信仰」の二つのルートがあるのですのだ。

分かりやすく言うと中国古典江戸時代民間信仰やね。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2531074

 

典故

典故ってのは何かにつけて漢籍漢文の本)を引用したりなぞらえること。特に風物表現で多いのが漢詩

例えば「四季」ってのは漢詩で季節を表現するのに擬えて和歌を詠んで散文にも応用されて行ったもんだし、日本文化独自性が高い俳句でも多い。

また例えば芭蕉は「象潟や雨に西施がねぶの花」って俳句を詠んでるけど、西施ってのは中国四大美女の一人で、悲劇の死を遂げた女性。んでさ、この人が溺死させられたって伝説があるので西湖と名付けられた湖があるんだけど、ここって今は内陸の湖なんだが昔は潟湖ラグーン)だったのよ。で、芭蕉が訪れた時代象潟ラグーンで、松島のような多島海でとても美しかった。でもそこで「きれい」って言っちゃうとあたまのわるいひとイラストみたいになっちゃうってんで、悲劇美女西施潟湖西湖風景という諧謔というか教養連想ゲームをやってるわけです。

やべぇ例示だけなのに長くなってしまったな。因みにこの象潟芭蕉の後に地震があって、輪島海岸みたいに隆起して芭蕉が感嘆した景色は無くなってしまった。今は田んぼの中に丘が点在する風景になってる。

 

こんな風に昔の日本漢籍引用するのが教養だったんで、そういう知識は最早常識だったんやな。

んで、月見の方も平安時代貴族がやり始めたんだけど、やっぱり漢籍記述中国古代からやってるという中秋節を真似たんや。旧暦8/15(太陽暦では9or10月)に月餅やら何やらを並べて宴をする。貴族の間でもっと多かったのが船を出して、水面にゆらゆらと写る月を眺めて宴をしてうたを詠んだりしてた。こういうのを観月という。

 

んで、これが段々と庶民にも伝播して行ったらしいんだけど、正直江時代までの間の庶民の動向って言うのはよー判らんのや。何故なら庶民文化が栄えたのって江戸時代で、それまでは庶民間の事柄を紙に記すって事が殆どなかったから。

 

月待講

で、もう一つのルートが月待講ってやつ。江戸時代には庶民比較的裕福というか生活に余裕ができ、色んな民間信仰が現れた。そしてそれらが紙に残った。

例えば山講。山ってのは霊的なもので、それに登るって事が霊的体験とされていた。山は女人禁制で「○○山講」という幟をもって山伏みたいな格好で延々と歩いて行って登山を敢行する。信仰の場だったのだな。

富士山世界遺産登録されたのは、別に日本人に愛されてるからとかじゃなくて、こういう信仰があって今の登山がそれと連続的って事ですのよ。

例えば庚申講。道教とか神道民間医療なんかがごちゃ混ぜになった信仰人間の体には三尸(さんし)の虫っていうのが住んでて60日ごとの庚申の日に寝てる間に閻魔大王悪事をチクるから徹夜宴会してチクるのを止めさせようぜという、今となってはなんだそれな信仰だ。

都電に「新庚申塚」って電停がある様に、日本中あちこち庚申塔が建てられてその近くの家で飲み食いされていた。今はこんな風に放置されてる。

https://maps.app.goo.gl/FM8d8fD19SAK3Ubc7

 

こういう「講」(信仰寄合)の一つに月待講というのがあった。お月様信仰やな。

月には月齢があって、新月三日月満月半月と形が代わるけど、その各々に別個の信仰があった。んで、この信仰別にお月様だけに影響を受けてるんじゃなくて、土着の信仰仏教と結びついていた。

仏教では色んな観音様や菩薩が居るけど、月齢ごとに別の本尊を崇めていた。この辺はカトリック職業聖人信仰に似ているね。

月齢ごとに信仰があると言っても、今みたいに電車と車で好きな場所に行ける訳じゃないから、この村は○○夜、あの街は○○夜と分かれていた。

で、その中で非常に多かったのが二十三夜、十九夜、十五夜だったってワケよ。

二十三夜は特に多くて、日本中に地名として残ってる。こんな風に

https://maps.app.goo.gl/KDXw6ZBhwiyA4bYZ7

因みに月齢23下弦の月

また、「三夜」と省略されて地名になっている所も多い、三夜様とかね。

 

もう一つ特別なのが十九夜で、これは如意輪観音本尊。右膝立てて右ひじ突いてる観音様だ。

これは「安産講」として特別で、女の人以外は参加禁止の集まりだった。

これも十九塔があちこちに残っているが、地名としては「子安」というのが残ってる場合が多い。

子安寺」が子安の由来の場合も多いが、そもそも昔の寺には色んな神様も祀られていた神仏習合だったんで、当然十九夜待が行われて居た寺もあって、それで子安寺になったケースもあるのだな。

 

十五夜はいうまでもなく満月待やね。本尊大日如来阿弥陀、薬師、観音様、地蔵、虚空蔵と、オールキャストだ。

 

ただの宴会飲食い会や女子会

で、庚申講もそうなんだが、段々信仰がどうこうっていうのはいい加減になって行って、単なる寄り合い宴会食事会の言い訳になって行っちゃうわけよ。十九夜とかも「観音様、どうか子宝安産を」と願うっていうよりただの女子会になってまう。「観音様が持ってる宝珠ってチンタマーニって言うんだって」「うちの亭主も二つ持ってるワイよギャハハ」とかなっちゃうってワケ。

 

それで段々都市化が進むと寄合なんてジジババくせえとか軽視されて廃れて行っちゃった。でも場所によっては昭和40年代まではやってたらしい。

 

月見でお団子お供えして食べるっていうのは完全にこっちの月待講が由来なんね。

一方、ススキ飾るのは、旧暦8/15(太陽暦9or10月)の中秋節由来やね。

から二つがごっちゃに混ざってるってこと。

 

月齢ごとの呼び名

日本語では月齢によって色んな呼び名があるよね。

新月の次の日:既朔

十四夜:小望月、待宵

十五夜望月

十六夜:既望

七夜:立待

十八夜:居待

十九夜:寝待

廿夜:更待

これも漢籍典故による特別から月待などの各月齢ごとの神聖視へと変化していくにあたって生まれ表現と考えられるのだ。

 

サブカルシーン

日本ゲームリプレイ動画とか見てると、このへんのことが海外では認識されていないので「これってなに?」みたいな英語コメントが付いているのを目にするのだ。まぁそれは当たり前だ。

大抵、西洋ルナティック=満月が人を狂わす、と日本の月を愛でる習慣、月のうさぎが合わさっているので割とハイコンテクスト

でもそれに日本語で答えているコメントが月を愛でる習慣が信仰から来ているってことが判ってないので説明できていないっていうのを目にする。

近所の今まで気が付かなかった「○○夜」「子安」の地名発見して訪れてみるっていうのも自文化勉強なんですよ、草むらの中に○○夜塔が残っているのを発見するって事もあるんですのよ。

 

番外:花見

ついでに花見なんだが、これも昔からある風習だったけど、江戸幕府奨励して盛んになったんすよ。

江戸幕府は水防工事を沢山やったんだけど、堤防って突き固めが緩いと崩れてきてしまう。でも昔は機械が無い。

そこで堤防に桜を植えて「花見やれ」と奨励したのだ。すると毎年人がどやどややってきて歩くから土が締まるって寸法だ。だから川べりには桜が多いのだね。特に古い堤防は桜の名所になっているってわけ。つまり官製文化の面があるの。

2025-02-15

前もやってたじゃん。占いやお参りや言霊などと同じ枠だぞ

スピ嫌いな日本人は、認知能力情報統合能力文化学習の程度が低くて、それが民間信仰(スピ)や占いに分類されると、認識出来ていないか

霊感商法の実際の被害者で、新たな霊感商法被害者を生まないよう啓蒙したい人だと思う

おみくじ、滝の凍り具合などを見て農作物の豊凶を占う神事

石持ち占い大原八幡宮の米占い行事平安時代から伝わる「田中の粥占い」など を見て

占い憎し スピ憎し ギリギリ 😡💢ってしているのが一般的日本人像だとは思いません

anond:20250213205218

2024-07-15

anond:20240624184904

3.5くんやね

ちなみに儒教でもキリスト教でも同じのでてくるで

インド仏教学者たちが日本の変質した仏教についてどう考えているかは、多様な見解存在します。以下に代表的意見を示します:

1. **文化的適応視点**:

一部の仏教学者は、日本仏教日本文化歴史適応して独自の形で発展したこと理解し、それを肯定的評価しています仏教が異なる文化根付くためには、現地の文化や習慣に適応することが必要であり、日本仏教もその一例として見られます

2. **教義純粋性への懸念**:

他の仏教学者は、日本仏教があまりにも日本文化や習慣に影響されて、本来仏教教義実践から離れてしまったと懸念する声もあります特に日本神道民間信仰との融合が、仏教本質的な教えを曖昧にしてしま可能性があると指摘されます

3. **歴史的背景の理解**:

日本仏教の変容は歴史的背景や社会的要因によるものである理解し、その経緯を学ぶことを重視する仏教学者もいます特に奈良時代平安時代日本仏教の発展、鎌倉時代の新仏教運動江戸時代仏教改革などについて研究し、比較宗教学的な視点から評価しています

4. **対話交流重要性**:

インド日本仏教学者間での対話交流を重視し、互いの仏教理解を深めることを推奨する声もあります相互理解を通じて、共通仏教価値観再確認し、新たな仏教の発展可能性を模索する姿勢です。

5. **実践的な仏教評価**:

日本仏教日本社会においてどのように実践されているかに注目し、その具体的な影響や貢献について評価する仏教学者もいます特に、禅仏教修行精神文化浄土宗真宗信仰実践日蓮宗社会活動などが日本社会に与える影響について研究しています

これらの見解仏教学者や学派によって異なるため、具体的な評価は多岐にわたりますが、共通しているのは、異文化間での仏教の変容や適応に対する深い関心と、そのプロセスにおける課題可能性を探る姿勢です。

2024-05-10

anond:20240510174458

それぞれに共通するところとして民間信仰結構大きなキーワードなのかもしれませんね。

一部地域で信じられてたまたま広がってそこそこメジャー化したりその地域だけで脈々と信仰が受け継がれたり。

一神教じゃないからこそ個々人が身近な何かに信仰をゆだねた結果の多様性だとするとそもそも先の解釈も誤っていて全部が神なのかもしれない。

2024-02-14

コインを池に投げ入れる風習歴史はどのようなものなのだろう

その謎を解明するため調査隊はインターネットの奥地へと向かった

その結果、英語圏歴史解説YouTubeチャンネル発見した

Why Do We Throw Coins in Fountains?

動画字幕の書き起こしをChatGPTに翻訳&要約してもらった

毎年、世界中私たちは噴水から井戸さらにはテーマパーク乗り物まで、コインであらゆるものを飾ります私たち幸運を求めて、願いが叶うことを望んでいます場合によっては、ローマで誰かと結婚するためにもコインを投げます。この伝統時代を超えて広まり、その起源古代ローマにまでさかのぼますローマ公務員であるガイウス・カエキリウス(別名:プリニウス・ユニオル)が書いた手紙によれば、人々は清潔な泉に感謝の意を表す形で贈り物を投げ込むようになりました。当時、清潔な水は非常に貴重であり、神々への感謝の印としてコインを投げる習慣が広まりました。この伝統は今でも続いており、ローマトレヴィ噴水が特に有名です。また、映画「Three Coins in the Fountain」でもこの伝統が取り上げられ、ロマンティクコメディの要素として広まりました。噴水に投げられるコインは、都市観光地収益の一部として寄付されることもあります

要約の結果、元動画が言っている内容とちょっと違う文意になっている箇所があるな……

あいいや、元動画見ればわかるし

しか歴史解説YouTubeチャンネルの内容をを鵜呑みにするのはちょっと気が進まない

調べるとっかかりとしては役に立つんだけどね

あと、この解説アジア圏のコイン投げについての観点がまるっと抜けている

中国人は願掛けとしてなにかとコインを投げ入れるらしい

その投げ入れる対象対象は池に限らない

中国人が願掛けとして飛行機ジェットエンジンに向かってコインを投げ入れようとした、というニュースがあるくらいだ

すなわち、現代の池へのコイン投げの風習は二つの源流があるはずだ

ひとつ西洋起源、小プリニウスが書き記したそれであり、コインを投げ入れて願い事をするヨーロッパ民間伝承「Wishing well(「願いの井戸」と訳すべきか)」を経由してトレヴィの泉に辿り着くルート

もうひとつアジア圏のいわゆる願掛け目的のいわゆる「賽銭」を辿るルート

二つに分ける意味はあるのか……?

うーん

どうだろう

いか

あるということにして調べよう

映画「Three Coins in the Fountain」がもしも存在しなければ、西欧圏でコイン投げの風習は廃れていたかもしれない

しかしその映画があろうとなかろうとアジア圏の人々はコインを投げて願掛けする風習を続けていたであろう……気がする

であれば二つは分けて考えた方がわかりやすいんじゃないか

仮定仮定を重ねていくぅ

あとで二つに分けて考える意味は無かった時点で考えを改めればいい、ということにしておこう

RedditやQuoraでも「なんで中国人って池や川にコイン投げるの?」みたいなトピックが立てられいるのを確認した

(そしてそれに対する回答は「コイン投げの風習世界中にありますよ」というもの質問者が知りたい内容とはちょっとずれている気もする)

キリスト教教会に併設されている池にコインが投げ入れられて困った」みたいなスレもたっていた

そうだよね、非キリスト教的な風習だよね

一神教根付くとこういった民間信仰は排斥されるということか

というわけでイスラム教ユダヤ教コイン投げによる願掛けがどう認識されているかもぐぐりましょうね

イスラム教は……情報が全く出てこない

ユダヤ教はなんか出てきた

ラビに「願いを込めて願いの井戸コインを投げることは何か悪いことですか?」とユダヤ教教義に反していないか質問する内容のサイトが引っ掛かった

解釈によってはセーフだけどあんまり推奨しない、みたいな空気感の回答だな

コイン……つまり金属製硬貨のみが投げ入れられるのか?という疑問もある

貝製の通貨貝貨を池に投げ入れるみたいな文化がある地域いかな~

パプアニューギニア現在貝貨を使っている人々がいるみたいだが、願掛けとして貝貨を投げるみたいな記述は見つけることが出来なかった

古代中国だと賽銭貝貨を使っていたらしいけれど

パプアニューギニアのなんかでっかい噴水のストリートビューを探して金属コインの他に貝貨が沈んでないか探してみてもいいかもしれない

まあおそらく無さそう

お葬式貝貨精霊に扮した人に向かって投げるみたいなことはやるらしいんだけど…

そもそも何で調べ始めたかって「海外……例えばアメリカでは合格祈願の願掛けとかするのかな?」と思って

ぐぐった結果は「願掛けしない」というもの、まじかー

教会でお祈りとかする人もいるにはいるけど、願掛けするくらいなら勉強しましょうねみたいな考えをするってなんかのブログに書いてあった

例えばかつ丼みたいな勝負飯食べたりお守りを買ったりみたいな風習もないっぽい

いやー……そうはいっても欧米人だって水にコイン投げて願い事するじゃん?池にコイン投げて合格祈願とかしないの?

と思って調べ始めたがなかなか調べるのが楽しいテーマだった

そこらじゅうに願掛けスポットが大量にある日本が特異、ということだろうか

まあまあ、結論を急ぐことはない

もうちょっと調べましょうね

賽銭トレヴィの泉を一括りにして包括的投げ銭文化について論じた論文をまだ見つけることが出来ていない

こんな面白そうなテーマ絶対先行研究あるって

投げ銭に限らず「迷信」というテーマで調べてもいいかもしれないな

……といった感じで調べた内容を一旦メモ

日記

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そうだ、キリスト教には守護聖人という概念があるじゃないか

太宰府天満宮菅原道真公のような受験学問を司る守護聖人にお祈りするみたいな風習があるかどうかを調べること

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全然みつからんな、受験生が守護聖人にお祈りみたいな話

なんか守護聖人がどのようなものか、みたいな認識根本からずれているのかもしれない

いい加減体系的にキリスト教勉強しなきゃ立ちいかなくなってきたのかもしれない

2024-02-06

「ホブゴブリン」の語源

悪戯が好きな醜い妖精」の総称としてゴブリンとか、その中でも家事をしてくれたりするものブラウニーとか呼んだりするが、ブラウニーバリエーションとして「ホブ」という連中がいて、それがのちのち「ホブと呼ばれるゴブリン」ということで「ホブゴブリン」と表記されたのだろうと思われる。

ゴブリンは、ヨーロッパ各地の民間伝承に登場する、小柄で醜い、恐ろしい生き物です。中世物語で初めて言及され、起源となる物語や国によって、いたずら好きな家事妖精から悪辣で残忍な泥棒まで、矛盾するような能力・気性・外見が与えられています。彼らはしばしば、妖精悪魔のように、変身などの魔法的な能力を持っています類似する存在には、ブラウニードワーフ、デュエンデノームインプ、レプラコーンコボルドなどがいますが、より一般的に小さな妖精総称としても使われます

https://en.wikipedia.org/wiki/Goblin

ブラウニーは、スコットランド伝承に登場する家事妖精またはホブゴブリンで、夜になると家の所有者が眠っている間に出現し、さまざまな家事や農作業を行うとされています。家の人々は、ブラウニーに対して通常、炉辺にミルククリーム、または他のいくつかの供物を置いておかなければなりません。ブラウニーは怒りっぽく、侮辱されたり、何らかの形で利用されたと感じると、永遠に家を去ると言われていますブラウニーはいたずら好きで、怠け者の使用人に罰を与えたりいたずらを仕掛けたりすると言われています。怒らせるとボガートのような悪意のある存在に変わるとも言われています

https://en.wikipedia.org/wiki/Brownie_(folklore)

ホブ(hob)は、イギリスのミッドラン地方、北イングランド、およびアングロスコティッシュ国境地帯伝統的な民間信仰における、小さな神話上の家事妖精です。彼らは家の内外に住むことができました。彼らは農場で働き、したがって役立つこともありましたが、怒らせると厄介な存在にもなりえたと言われます

https://en.wikipedia.org/wiki/Hob_(folklore)


この「ホブ」の由来には二つの説がある。

まずは、英語の「ホブ」は「暖炉食べ物を温めるための棚」を指しているので「暖炉そばにいるもの」「家に棲み着くもの」といったような意味だという説。実際にホブ(あるいはブラウニー全般に言えることだが)の伝承暖炉との結びつきが強く、たとえば仕事の対価として暖炉そばクリームを置かねばならないだとか、普段暖炉の上の梁に座っているだとか、そういった逸話が残っている。

もう一つは、「ロバート」「ロビン」の愛称だというもので、日本でいうと河童に「太郎」という名前をつけるみたいなノリかはわからんが、神秘的なものにありふれた名前をつけることで恐ろしさを薄めている、あるいは親しみやす名前を与えてご機嫌を取っている、という説。

たとえばイングランドの有名な妖精として「ロビン・グッドフェロー」がおり、これはシェイクスピアの『夏の夜の夢』では「パック」という妖精異名の一つとされ、同時に「ホブゴブリンであるとも書かれているが、その名前を直訳すると「いい奴のロビン」といった意味になる。しかロビン・グッドフェローは陽気でおしゃべりだが、悪戯好きでよく人を困らせるので、単純な「いい奴」ではない。「ホブ」の由来であるロビン」とはロビン・グッドフェローのことではないか、という説もあるが確証はないようだ。

「パック」はまた「グッドフェローズ」または「ホブゴブリン」と呼ばれることがあり、そして「ホブ」は「ロブ」または「ロビン」と呼ばれることがあります。これは「ロビン・グッドフェロー」というキャラクター名前にまでさかのぼます名前の「ロビン」は中英語起源を持ち、古フランス語の「Robinから派生しており、「Robert」という名前愛称です。それは妖精表現する際の「グッドフォーク」と同様に、妖精たちが悪戯好きでありながらおだてられやす性格であることを利用しようとする、ある種の願望的思考と懐柔の試みを反映していました。

https://en.wikipedia.org/wiki/Puck_(folklore)


ともあれ、「ホブ」「ゴブリン」「ブラウニー」「パック」「ロビン・グッドフェロー」などは、もとは別々の存在だったのかもしれないが、それぞれ共通する性質を持っていて、次第に同一視されるようになっていった、ということではあるらしい。

日本インターネットでは、しばしば「ホブとは善良という意味である」あるいは「ホブとは田舎という意味である」といった言説が見られるが、せいぜい「ホブというありふれた名前田舎っぽい感じ・朴訥として善良なイメージを想起させる」というくらいのことであろう。「神秘的なものにありふれた名前をつけることで〜〜」というあたりの話を拡大解釈したものと思われる。まあ、指輪物語以降の現代的な「ゴブリン」のイメージからすれば、悪戯で済ませてくれる妖精は確かに「善良」と言えるかもしれないが。

ついでに、「ホブは古英語で大きいという意味」とか逆に「小さいという意味」といった言説もあるが、「Hob」の語源を確かめてみてもそのような事実はなさそうだ。

2024-01-25

「神は存在しない」と信じているが初詣家内安全を祈った

私は何に祈ったんだ?

シンプルに、私は無神論者だと思い込んでいただけで実際は有神論者だったということなのだろうか

しか無神論者は「祈る」という行為をしないのだろうか?

すなわち、神の存在無しに「祈る」という行為可能なのかどうか

祖先の霊に祈る、というパターンはあるのでは?」

なるほど、確かにありえる

しかし神は信じないけれど祖先信仰はする無神論者って変な感じがする

無神論者仏壇に向かって「おじいちゃん、あの子をどうか見守ってあげてください」と祈ることをよしとするか?

なんか変な気がするよなあ

神の存在否定するなら霊の存在否定しておけよって気分になる

「天に祈る、というのはどうか」

では「天」って何?という話になる

「運を天に任せる」とか「人事を尽くして天命を待つ」の「天」だよな……

やはりそれは「運命」とか「宿命」のような、何らかの超越者によって定められた物事を指しているのではないか

それは神と何が違うのか?

神と「天」が何か違っていたとしても、無神論が無いと判定するなんらかの概念なのではないか

難しいな、もう少しパターンがある気もする

祈らずにはいられない、という場面はやはりある

家族入院した、と電話がかかってきて病院へ急いで向かう時とか……

腹痛の時とか……

「祈る」を言い換えると「人の手が及ばない領域物事が私に都合がいいようになるように願う」と言ってもいいか

だとすると、それをなんとかできるのは「人の手が及ばない領域物事に関われる存在」だ

筋金入りの無神論者でも祈らずにはいられないというシーンでは祈ってしまものなんだろうか

何かの漫画でそんなシーンがあった気がする

そういえば無神論者であることが有名なドーキンスは祈ることがあったのだろうか

彼の自伝を読んでみるか……

補記:日本語の「祈る」とキリスト教文化圏の「祈る」は意味が異なる可能性がある

日本語の「祈る」は「願いが叶いますように」と言うこともできる

しかキリスト教信者がどんなことを考えているか?みたいな内容が書かれている本を読んでいると、どうも現世利益を期待せずに祈っていることもあるようだ

しかし今回の疑問には関係があまりいかもしれない

祈らずにはいられない、という場面はたいてい現実に起きている問題がなんとかなりますように、という願いだ

キリスト教信者だって現世利益を祈ることは普通にあるだろう

「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」とも言うしな

日記

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あー、シンプルパターンを見落としていた

「神は存在しないと思っている。無駄行為だとわかっている。それでも祈らずにはいられない」

これはありうる

ただ、これを言ってしまった無神論者はその後も無神論者であり続けることができるのかどうか

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メモ無神論の話と唯物論の話が混ざっている可能性あり

あと、冒頭で「神は存在しないと思っている」と書いたが正確にはキリスト教唯一神存在を信じることが出来ていないだけだな

そういう意味はいかに日本的民間信仰の持ち主か

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神を信じるとはどういうことかを知りたくていろいろ本を読んでいるんだがな……

昔の人は神を信じて生きていたわけで

昔の人が何を信じて何を信じていなかったのか、を調べるのに神の話は避けて通れない

幕末明治日本を知るには、当時来日した外国人の目を通して見るのがよいとのこと

しかし当の外国人キリスト教価値観の持ち主だから結局キリスト教について勉強しないといけなくなった

2023-11-08

anond:20231108000231

青空文庫夏目漱石の『猫』の銭湯回を読んだら明治民間信仰や衛生意識がわかってオモロかった

薬湯というのがあってな…

2022-11-19

すずめの戸締まり駄作です

ダメだろ、これ。

失敗の原因は5つ。

①導入の失敗

冒頭、どこか非現実的で、しか東北震災を思わせる風景はいい。

踏切を渡らない演出や、立ち入り禁止看板を乗り越えるところなど、日常へ行かず、非日常へ入っていくことを描写していくも、よくわからないまま立ち去り学校日常描写→そして地震、なんか山から祟り神みたいなの出てる→再び廃墟へ。

ここが一つテンポが悪かったと思う。

どういう物語かを提示するという形で及第点ではあるが、特段面白くはない(わずか35秒で説明し、全く本編が面白くなかったソラとウミのアイダを見習ってほしい)

その後、猫(ダイジン)を追いかけ、船に乗るというところまでが、序盤といっていいと思う。

気になるのはすずめが船に乗るのは自発的意思に基づくものであって、君の名は。不可抗力で入れ替わったこととは違う。

ここにご都合的な強引さを感じるのだ。

さらに致命的だと思うのが、ダブル主人公のうちの一人、草太が早々に椅子の姿になってしまった。

この結果、ロードムービーでありながら、草太は椅子の姿であることからコミュニケーションをとることに作劇上の制限が加えられてしまった。

コメディ的なキャラクターになったことで、ラブストーリーとしての進め方にも違和感が出ている。

草太がどういう人物なのかが明示されないまま物語が進んでいく。役割しか持たされていないんだよね。

で、そのメンタルのまま、後半、突然の死にたくないっす。要石なりたくないっす。→私も草太がいない世界怖いっす。

義務的ラブストーリーにもっていくな!!

ロードムービーをやりたいのか、と思ったけれども、ロードムービーって基本的に旅する二人が、旅先での人との出会いによって関係性が変化するというのが定石じゃないですか。

でも、本作のヒロイン、すずめは一体に何に不満があって、成長するのかというのが不明瞭なんですよね。

3.11というモチーフと、ファンタジー表現の嚙み合わせの悪さ

災害の原因であるミミズが出てくる扉を閉める、という役目を帯びた青年が全国行脚しているようだが、ファンタジー職業ありがちなどうやって食べてんだ?という疑問には普通に大学生であるし、将来的には教師を目指しているという謎の情報が与えられた。役目が重すぎるだろ……。

関東大震災ミミズが原因だったという描写があり、直接的に言及されていないが、3.11も同じミミズが原因であったと推察できる。

こいつらがきっちり仕事してれば3.11を防げたってこと?という疑問点が観客の引っ掛かりになるのではないか

感動部分は、作品によってではなく、3.11悲劇性と記憶に頼って泣かせているんだよな。そして人間馬鹿から感情が動くと名作だと錯覚する。

③「世界」か「君」か

本作の中盤では、首都直下地震を思わせる災厄を封じるために、東京舞台に駆け回る。

通常の映画で言えばクライマックスに相当するようなアクションの末に、すずめは草太を要石として使用し、東京を救うことになる。

天気の子が「世界」か「君」かの選択で、「君」を選んだ結果、めちゃくちゃになった世界があって、それでも生きていくという話だったのに対し、今作では「世界」を選んだその後を書くつもりか?と思っていたが違った。

物語はこの要石となってしまった草太を救うために、幼少期に見たあの世への扉を探すことになる。

そして終盤、気仙沼炎上を思い起こさせるファンタジー災害空間で、暴れだす巨大なミミズを背景に、主人公を走らせる。この絵を描きたかったというのは分かる。

要石となった草太を解放することで、ミミズの抑えがきかなくなる。

さあ、どうする?

すまん!今まで要石やってくれとったダイジン、サダイジン!またやってくれ!

了解!!

おわり。

は?

世界」か「君」か、という選択と代償の話が、第三者委託したら何とかなったわwで終わっていいわけねえだろうが。

気まぐれな神としてのダイジンが、都合で動きすぎている。

自然に外れちゃった東京の要石ことサダイジンは、なぜか主人公たちの旅に付いてくる上に、最終的にはまた要石として役目を担うことになる。

ええ?

要石が外れたけど、機嫌治ったんで、自主的に役目に戻ってくれましたみたいな解決である

主人公らの選択と苦悩が壮大な茶番になってしまっている。

④単調な展開。

基本的四国神戸と行く先々でミミズを見かけて戸締まりするアクションシーンというのが連続で起きる。

また各地で出会う人々もそれほど深掘りされることはない。

これが東京まで来るとそれなりに街の描き方が生き生きとしてくるし、後半のキーパーソンになる芹澤が登場する。前半と後半で明らかに映画趣旨がガラリと変わっている。

からこそ前半の時間の使い方はもったいなかった。(後半にほとんど繋がっていかない)

おばさんも遠くで心配してる描写を延々はさむぐらいなら、もう少し後半の決裂に至る問題点避難者受け入れ、被災者遺族の家庭の問題)をやっとけばよかったのに。

⑤やりたいことが何もかも多すぎる

ロードムービーをする都合上、各地を巡り、そこで出会う人々とのつながりを書く必要があるので登場人物が増える。

そうするとそれぞれのキャラクターに割ける時間相対的に少なくなるので、魅力を描写する時間が足りなくなる。

途中で出会った人々を後半に繋げるでもなく、主要キャラ問題点提示や成長に繋げるわけでもない。何がしたいんだ。

新海が触りたかったものロードムービー3.11被災者への応援、衰退する地方都市避難民と家庭環境自然への畏敬、民間信仰恋愛あたりだろう。

終盤で、主人公過去自分を見つけ、この世界は明るいんだと、ド直球な被災者への応援メッセージを長々とぶちかましていく。

過去自分を救いたいという趣旨は分かるけど。

一方で衰退する地方都市自然に還る廃墟を映し、戸締まりの際の呪文山河をお返し申す、人間が使ってきた土地自然に返すという話であろうが本当に触れるだけだし、それを3.11テーマとどういうリンクをさせるつもりだったんだ。

ある種の無常観というか平家物語的な持っていき方をするわけでもなく、災害はそれはそれとして悼みます、という一貫性のなさ。

おばと主人公の決裂も、避難の子供引き取っちゃったせいで人生めちゃくちゃやん→ごめん言い過ぎたわ……。で終わり。

ダイジン、サダイジン、それにキャラクター名前を見ても民間信仰というか古代神道系の話っぽいなぁとは思ったが、そこもそれほど深掘りされず。

どうでもいいけど九州の要石、廃墟と化してるとはいえめっちゃ現代的な施設の真ん中付近に刺さってるの謎すぎるやろ。

そして終盤唐突恋愛映画的なスペクタクルと、抱きしめ。

男側の感情が一切見えない上に、女側もイケメンと旅して、神戸でいきなり発情し始めて椅子キスするという展開を伏線としてクライマックスで結ばれましたってやるの強引すぎるだろ。

今作は終盤に使うために仕込んだ伏線が、全て雑すぎて、「前に説明してましたよね?」と新海が言い訳するために挟まれるシーンが多すぎる。

戸締まりをする際に、その土地の人々に思いを巡らせる、というのもすずめにとっては何の縁もない土地の思い出が想起されるのは変だろう、と思っていると、終盤に被災前の人々の情景を描くシーンがあり、ああ、これのための言い訳だったのかと理解した。

なんなんすかね、これ。

2021-11-11

多少の民間信仰が混ざってても不吉を削除してる人は賢いと思う

学校化学記号は教えるのに人体への影響は教えないがどうしてだろう

ヘチマは育てるなとか、胡蝶蘭は寝室には置くなとか、頭が悪そうに見える言動はやめろとか

逆をやっている者もいるようだが

あと何かある?

2021-06-20

anond:20210619223432

痛いの痛いの飛んでけっていう呪術民間信仰と同じやつね。

頭に手を置いてポンポンとかもあるな。

いずれにせよ古の悪癖、令和では淘汰されるべき。

2019-09-12

旭日旗ハーケンクロイツの違い

旭日旗

「太陽」「晴れ」を意匠化したもの

元は縁起物として家紋などに使われてきた。

1870年大日本帝国陸軍軍旗採用された。

これは日章旗日の丸)と菊の御紋を組み合わせたもので、

一般的旭日旗の光線が十六条なのは、菊の御紋(十六葉八重表菊)に由来する。

1889年には大日本帝国海軍軍艦旗としても採用された。

戦後、軍の解体に伴って「軍旗としての旭日旗」の歴史は途切れたが、

1954年自衛隊が発足するにあたり、帝国軍旗を受け継ぐ形で自衛隊旗として採用された。

近年、「韓国旭日旗批判2011年以降に作られた新しいもの」との風説があるが、

韓国中国過去ニュースを見ても、それ以前から日本軍国主義を思い起こすもの」として、

旭日旗批判的に認知されてきたのは間違いない。

ただし韓国における「戦犯旗」という蔑称2012年頃につけられたものである

ハーケンクロイツ

鉤十字

ヒンズー教仏教など、古くからさまざまな宗教民間信仰で「幸運の印」などとして用いられてきた。

1900年から、「アーリア人」がヨーロッパ人共通祖先であるという思想アーリアン学説)のもと、

ドイツ国内でハーケンクロイツは「最も優秀なアーリア人であるドイツ人象徴」とみなされるようになり、

1919年設立されたナチスもそれを踏まえて1920年党旗ハーケンクロイツとした。

1933年ナチス政権を掌握するとハーケンクロイツ国旗に準ずるものとされ、

1935年にはハーケンクロイツ正式国旗となった。

終戦後、ハーケンクロイツナチズム象徴とみなされ、ドイツでは公の場での使用禁止された。

1990年東西ドイツ統一以降、ネオナチ活動顕在化するにつれて、

ハーケンクロイツへの警戒も強まっている。

イギリスヘンリー王子ナチス風の軍服を着ていたという2005年問題きっかけに、

ハーケンクロイツ使用EU全域で禁止する法案が提出されたが、

これはヒンズー教徒の反対などにより阻止されている。

考察

こうして見ると旭日旗ハーケンクロイツに大きな差はないように思われる。

特に「元は平和的な図案だったが悪質な政治に利用された」といった話は双方に共通する。

ただ、ハーケンクロイツが直接的に「(悪であるナチスシンボル」とみなされるのに対し、

旭日旗は「(悪である大日本帝国軍隊シンボルであるため、やや間接的な関係に思われる。

このあたりの印象の差があり、ハーケンクロイツほどには規制されなかったのだろう。

また近年のインターネットの普及によって、各国のナショナリズム的行動が可視化されたことで、

より大きく反発が起きるようになった面もあるのではないかと思われる。

旭日旗について言えば、

明治になってから軍旗として採用され、菊の御紋と重ね合わされる「十六条旭日旗」が、

皇国史観軍国主義と結び付けて見られるのは仕方ないのではないか

仮に旭日旗使用擁護するならば、「元は平和的な〜」や「奇誠庸が〜」などではなく、

「十六条旭日旗のみ」に問題限定したり(この場合海上自衛隊自衛艦旗は変更することになる)、

思想的なシンボルではなく軍旗にすぎない」ことを強調する(この場合自衛艦旗としての利用は擁護するが平和的な場では使用を控える)、

といった点を前面に出したほうが良いのではないかと考える。

2019-07-29

anond:20190728130538

から「どろどろ・ねばねばしたものを食べると精が付く」という言い伝えというか民間信仰みたいなものがあったよね。

オレら学生時代には、仲間内で飲み行くたびに、精を付けなきゃ!って必ず

という黄金定番トリオを注文するのが毎回お約束のようになってて、それ自体爆笑するぐらいのエンタメになってたw

2019-03-09

俺が知らないだけで有効日本経済政策はあるのか

PDFを探しているのだが、中国アメリカ景気動向を調べて周囲の景気が良いとか、政策が期待されるとかで終わっていて、具体的に何か案があるのかイマイチわからん

まりに知らないから調べているだけなのだが。

イノベーション必要ともよく書かれているが、誰が思いつくのか、それとも思いつきやす環境はこういうのなので導入すべきだとも書かれてなくてモヤっとする。



フィンテックで、

安価で簡便な決済システムの開発・普及により、決済手数料負担感がなくなる社会を目指す。

負担感の感って、負担少なくするんじゃないんかーいとか、

企業民間クラウドサービスデータセンター登録した人事・労務会計データに、企業同意に基づき行政側がアクセスすることで、企業側の負担感を無くすための方策検討する。

とか、会社システム行政入ってくるかーいとか、

コンセッション等の手法を拡大して民間の創意工夫で効率的インフラ維持管理

民間信仰強すぎませんかとか、そういうのはあった。

2018-12-14

anond:20181214115850

そのへんの価値観共通してるんだよな

してないぞ。

キリスト教イスラム教共通してるのは同じ宗教がもとになってるからだし、

仏教的な「極楽」「地獄」はインド民間信仰中国日本にまで伝わっただけで、

原始仏教は延々と生まれ変わる輪廻転生世界観なんだから極楽もクソもない。

2015-12-21

http://anond.hatelabo.jp/20151221182126

ある種の神秘体験だったわけだな。

民間信仰のたぐいも、案外、

こういう経験からまれてきたのかもな。

2013-11-04

http://anond.hatelabo.jp/20131104000421

まず、語の定義として、ゆるく

 ・ある程度の定義・教本があり教義のある固定化されたもの=「(狭義の)宗教

 ・厳密な定義、教本の類がなく、習俗・習慣的に行われるもの=「信仰

…と呼ぶ。これは、人類学かなんかにおける定義だけど、分かりやすい。で、この二つを総称した「非合理的に何かを信じること」一般を「(広義の)宗教」とする。この辺をごっちゃにすると厄介。

で、かつての日本の「神道」や「神社」というのは、まあ乱暴に言えば元増田が言うような存在であり、上の定義で言うところの「信仰」だった。「古事記とか日本書紀とか昔からあんじゃねーか」と言うかもしれないけど、読んだことあんのか?あれは歴史書だよ。別に宗教教義が書いてあるわけでもないし、拝み方やらあがめ方、生き方を規定しているもんじゃない。神話だよ神話。大体、古事記日本書紀に出てくる「神」なんて、おおよそろくなことしてねーだろ。鳥の真似してセックスして死んでゾンビになっておっかけっこしてろくでなしの子供つくって岩屋にこもって人間迷惑かけて裸で踊り狂って酒飲んで酔っ払って……なあ。どこをどうあがめろっつーんだw

しかし、そこには一定の「信仰」の姿や概念は描かれていなくもない。超越的な神のいない世界豊富な水に守られた農耕民らしい「清め/穢れ」の概念を基盤に、あらゆるものが神となり、つぎつぎと生命が生まれ継がれていく世界観……みたいな、漠然とした民間信仰世界は描かれている。たぶん、そういう世界の中で、日本人はそれこそ「餃子神様にしちゃう」勢いで、信仰生活を送っていた。

それが、明治維新により「国家神道」を作ることになった。それは「(狭義の)宗教」としての「神道」だ。そのとき、これまでいい加減な神様を祀ってたあらゆる神社は、全て「日本書紀(という教典)に基づく、神としての皇室祖先祖先神を祀る神社」にすべし、となったんだ。その後、「皇室に対して大変貢献した存在を神とする神社までは許す」ということになった。靖国神社ができたのは、その流れってわけだ。この新しい宗教国家神道」観に基づく神社の再編つーのは、明治のはじめの結構とてつもない作業で、由緒ある餃子神社のたぐいはこの時期あらかた「再編」の名の下にぶっ壊されたり、拝んでた神様を変えられたりした。それは知っておくべきだよ。

から、今ある「(明治国家神道から生まれた、宗教としての)神道」と、もともとの意味での「(日本人信仰としての)神道」とを、あまりごっちゃにしない方がいい。明治にできた国家神道観点からは「餃子神社」なんて邪教は認められないし、「(狭義の)宗教であるところの「国家神道」としての神社には、当然ちゃんと教義教典があって拝むべき対象は規定されているのさ。

 
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