はてなキーワード: 自分勝手とは
そう考えるとマウント云々より「相手と自分にしか分からないものを外に見せること」の方の不快感の方が出るわ(他人がやっていることは不快ではない、自分が嫌だ)
前は「こいつ、また報告してる、うぜー」と妬んでいたけど、今は妬むより「お前どういう気持ちなのか教えてくれ、自分は本当に悩んでいるんだ、マウントならマウントでいいから頼む」に変わったから他人って本当に自分勝手だね
こういった問題はイランという「国」に限ったことではなく、「イスラム」という宗教的文化が背景にあります。 ただ、イスラム教も仏教やキリスト教同様、様々な宗派があったり自分勝手な解釈をする者がいるので一概にイスラムが悪いとは言えませんが、共通する根本的問題としてムスリムは滞在地の法律よりも宗教的戒律を優先しなければならないという現実があります。 この点が犯罪者にうまいこと悪用されてしまう要因となっているわけです。
近年は日本にもイスラム教徒の流入が増えて各地で様々な軋轢を起こし始めているので、もう他人事ではありません。 本当に共存を望むのなら “話せばきっとわかってくれるぅ〜” などといった無責任で一方的な希望的態度を改め、現実問題を直視したうえで、それに則した共存のしかたを模索する必要があると思います。
私は人が苦手だ。
接客業で正社員してるし周りにも積極的に人に声かけるようにしてるし友達もいるしとりあえず生きては行けるけど人(家族や友達とか以外)が苦手だ。
怖いし自分勝手でこっちは何も嫌がらせとかしてないのに服とか表情とか言動や社会的ステータスその他もろもろかが向こうのお気に召さないと勝手に変に勘違いされて嫌なことしてくるので普段はボロを出さないように、なるべく見た目とか声とか動きとか普通に見えるように周りから浮かないようにと神経をすり減らしている。
われながら病的だと思うけど、素でいると本当に目の前でフンってそっぽ向かれたり目をひんむきながら高圧的に来られたりわざと無視されたりする。怖い。多分素の自分が無口で無表情だから敵意を向けてるって勘違いされるっぽい。だから頑張ってニコニコするし、グループの中ではおしゃべりもする。そうしないと嫌なことされる。そうしないと困った時助けてくれない。自分らしさが大切とかってブームはなんだったんだろう。親しい人は私のこと素敵とか好きって言ってくれるけどそれ以上に怖い目に遭うのであんまり生きるのは好きじゃない。
さて買い物だ。
お店に入る時のコツは、力まず自然に見える作り笑いで行くことだ。そうしないと入退店の挨拶してくれなくて悲しいからだ。
髪は前髪の寝癖を直し後ろで簡単なお団子にする。結ばないとだらしないし、結んでも髪を長く垂らしてると睨まれる。寝癖を治すのも大変だし、バシッとセットするのものイヤミなやつ扱い。
敬語は仕事で使うくらいキツいと空気が凍るので丁寧語にとどめる。
なんでこれに行き着いたかといえば、仮説と実験の繰り返して何が相手の気に障るのかひとつひとつ試したからだ。
華美だと警戒されたり張り合われるし、芋だと見下される。
そうされる要素をひとつひとつ排除した結果嫌なことされなくなった。
しかし正直キツイ!大変で辛い!できることなら外へ一歩も出たくない。
人は怖い。
職場は食べ物も取り扱ってるけれど、それでも一方的に無視してくる同僚もいるので怖くて休み時間ご飯が買えない。
こんな素の自分が嫌われる世界で生きる意味はあるのか時々考え込んでしまう。
でもこんな自分でも頑張って稼いだお給料で好きなものが買いたい。
田舎に住んでるからお店がたくさんある訳じゃないから苦手な店員さんのところで買わざるを得ない。ネットショッピングも日用品は高いし細々と買うのは大変だった。それに私だってお店のおいしいごはんやスイーツがたべたい。
友達といる時は多少嫌な目に遭っても心強いけどひとりだと心細いし周りの当たり強くなる。
対策。
お店は日中は混んでたりツンケンしてる店員さん多いから日中は行かない。閉店1、2時間前に行く。
こうしてやっと手に入れる。
苦痛を避けるは苦痛が伴うが個人的に苦痛が少ない方を選んでいる。
買い物でさえ生きるの嫌になるけどなるべく苦痛の少ない人生がいい。
ちなみに、私にも好きな場所がある。
そこそこ大きくて古臭いホームセンターと、平日の高速道路のサービスエリアだ。
ホームセンターはお客さんはみんな商品しか見てないし、店員さんも肩肘張ってる人少ない。
サービスエリアは一触即発起こすと逃げ場がなく死に直結するので、バスで来た観光客やドライバーのツレの女の人以外はみんな相手を刺激しないことに命かけてて安心出来る。
7年前、東京。地下かどこかの喫茶店で、デザイナーのHさんと打ち合わせをした。
自分が企画した仮設の公園シリーズのデザイン制作物を依頼する場だった。
まだ若くてバカだった当時の自分は、「A3サイズで世界を変えよう」と笑いながら真剣に言ったのを覚えている。鼻息でストローの袋を吹き飛ばした気がする。
その後に作ったA3のフライヤーは、原稿の渡し方もイメージの共有もめちゃくちゃで、散々迷惑をかけた気しかしない…。でもHさんは最高の納品物をつくってくれた。
それからあちこちでHさんのデザインを目にするたびに(先日も実家近くの本屋で見かけた)、あの狭い喫茶店で口にした言葉を思い出す。
Hさんはあれから、マジでA3サイズで世界を少しずつ変えてってると思う。
「どうして“哲学対話”という名前を使うんですか?難しそうだとか、参加に身構える人もいるかもしれないのに」と尋ねた。
Nさんはいろいろ考えた末に、「なんか…ムカつくんすよね」と言った。
哲学と、対話という言葉の意味を新しく上書きするために、あえてこの名前を使うんだって話してくれた。
今の自分は、どうだろう。
「ムカつく」という言葉を聞いて、久しくその感覚を忘れていたかもしれないと気付いた。
どうせ何も変わらないと思って、絶望してたんだと気付く。ぜつぼうって、Zから始まる強い響きの言葉だけど、耳がキンとするほど静かで、うっすら気付きながら置き去りにして、気付けばゆっくり死んでいるような絶望もある。
思い出すと自分も「A3で世界を変えよう」と言ったあの頃、世界に対してムカついてた。
少し前、自分は臨時職員だった。アートと教育に関わる仕事。給料は月13万円。
でも求められる仕事の内容は変わらない。自分が足りないから倍以上頑張るしかないんだ。
「アーティストやクリエイターとつながっておくのが大事だ」と教わりつつも、飲み会に行くのが怖かった。行ってもバカにされるだけ、雑にいじられて否定されて、3000円払っていやな思いをするだけだと思ったから。
それでも「今日は違うかもしれない、大丈夫かもしれない」と信じてみる。
先にコンビニでおにぎりとホットスナックと缶ビールを胃に詰め込み、遅れて飲み会に顔を出す。結果「やっぱりカタパンはダメだな〜」と何かのきっかけでバカにされ、ヘラヘラしながら5000円払わされ、真っ暗な帰り道で涙がつっとこぼれそうになる。今思えばもっと自己開示すべきだったのかなって思う。でもあの時の自分は、自分を守るのに必死だった。
同じ部署の臨時職員同士で競わせられ、蹴落とし合う日々。毎日どんどん嫌な自分になる。
それは素晴らしいことで、自分は今日も帰れない。自分は常に欠けていて、仕事ができないからしょうがないんだ。自分も子どもを育ててみたいという気持ちをこんな手取りじゃ絶対無理だとグッと押し殺し、上司に嫌な感情を向けてしまう心に嫌気がさす。
「カタパンの説明は下手すぎる」「カタパンは才能がない」「カタパンは惜しいんだよな」「タレ(当時付き合っていた彼女)と結婚してさっさと仕事やめたら?」「カタパンのタレはメンヘラだよな」「それ俺が考えたことにして。そっちのほうが絶対うまくいくから」「カタパンが考えることは全て、もうすでに俺が考え終わったことだよ」「カタパンは、ソーシャル・ネットワーク(映画)の、ザッカーバーグじゃない方なんだよ。自分が考えたことも上司がうまいところを持っていく。そういうのってこの業界じゃ当たり前だから。」「カタパンはエモいからな〜」「カタパンは伸びしろがない」「泣くのはプロじゃないよ」「カタパンもう◯歳でしょ?いい加減大人になってほしいよね」
大学1年生のころ、そのアートセンターでやっていたノイズミュージックのライブを初めて聞いて衝撃を受けた。
退屈してて何もないと思っていた、都市ってつけるのがおこがましいくらいの地方都市で、爆音の圧に内臓が揺れる。初めて音に殺されるって思った。
こんなこと公共施設がやっていいんだ。そのアートセンターで働くことに憧れた。
そこには市民の有償ボランティア制度、サポートスタッフがあった。入りたいと思った。
でも1年生でサポートスタッフになっても、きっと自分は他の人に埋もれてしまうと思い、いろんなアルバイトを経験した。
3年生になって、ようやく少し自信を持って、サポートスタッフに登録する。
“カタパン”は、サポートスタッフを始めた初日、教育普及の職員に付けられたあだ名。
理由は、肩パンしても大丈夫そうなキャラだから。嫌なあだ名だったけど、あだ名を付けてもらえたことに喜んで、自分は否定しなかった。
ようやく入った憧れの施設では、地元の人やサポートスタッフを蛮人と呼んでる人もいた。
もちろん冗談で。冗談なんだから否定するのは粋じゃない。自分は一緒に笑った。
自分も笑われているのに。
どんなに嫌なことがあってもそのアートセンターに憧れたあの時の気持ちは捨てられないし、どこかで全員尊敬できたし、すごく優しい人もいる。
周りの誰も憎めずに、自分を責め続けた。心配してくれた人の言葉を、自分は大丈夫ですよとヘラヘラ聞き流した。
周りを変えることよりも自分を責めることの方が楽で、でもずるくて、いざ失敗したら周りのせいにしてた自分もいる。この文章だってそうかもしれない。
自分は自分のそういうところがめっちゃ嫌い。だからこの文章をここに書き残しておく。
ダサいことも、痛いことも、全部置いておく。
今は常勤職員になってしばらく経ち、生活も少し安定するようになった。チームが変わり、すごくいい仲間に恵まれて、痛みを感じることを言われることも少なくなった。安心できる場所をつくることが出来た。年下の後輩も入ってきて、それまでリーダーをやってくれてた同僚が抜けることになった。
常勤職員から、副専門職員になる試験を受けたら、普通に面接で落ちた。
付き合いの長い上司から、あなたに専門性はないですって諦められたみたいで悲しかった。
たしかに自分はまたヘラヘラして、自分の言いたいことを伝えられなかった。
伝えることを諦めてしまった。そんな自分が悔しくて、その夜電気を全部消して泣いた。
今の自分は、どうだろう。
昨日『104歳、哲代さんのひとり暮らし』という映画の感想を語り合う場所を開いた。これは一昨年の暮れから、だいたい毎月4回くらいやっている。休憩がてら立ち寄った人たちとお茶やジュース(ミルクティーが人気)を飲みながら、映画の印象に残った場面を話すうちに、みんなそれぞれ自分の過去をぽつりぽつりと思い出して語り始めたりする。昨日も15人くらい来てくれた。
コロナ禍の入院で、本当は会いたかった人を病院の窓から見送った話。
離れて暮らす娘の早産を電話で励ますことしかできず、悔しかった話。
祖母が隔離病棟で亡くなる直前、看護師がつないでくれたLINEビデオで声をかけたけど、触れられなかった話。
「哲代さんは明るくてすごい。私は後悔ばかりだ」と84歳の参加者が漏らすと、別の人が「いまからでもイメチェンできる!84歳、あと20年ある!」と励まして笑い合う。
飲み物を継ぎに別のグループへ。「職員さんですか?」と聞かれたので簡単に自己紹介し、「楽しく働いています」と答えると、一人の女性が「…仕事はつらいですよ。人生はつらいですよ。」と自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
彼女は三人の子どもを育てるために、大好きだった介護の仕事を諦めたそうだ。
「介護の仕事は給料が低くて、今はレジ打ちなんかをしています。でも、本当は働きたい」そう言うと、彼女の目から涙があふれた。
彼女にとっての“働く”は介護であり、レジ打ちはやらなきゃ立ち行かなくなる”仕事”。
彼女は泣きながら、どんな場面を、人を、思い出していたんだろう。
そのタオルがすごく大きくて「いっぱい泣けるね」とふざけて笑い合う。
尊敬する館長がしばらく前に亡くなった。
自分は、館長の本棚にあった「公共の役割とはなにか」という本をもらった。
館長から出された宿題みたいに、その問いのことをずっと考えている。
まだ宿題の途中だけど、今館長に聞かれたら、
公共文化施設とは、みんなで人間らしさを取り戻す場所って答えたいと思う。
人生は一人で抱えるには重すぎる。いつか自分の足で立つためには、みんなで少しずつ荷を下ろし、身軽になる必要もある。何かを得るだけでなく、重くなった気持ちも置いていける場所。そういう場所が、自分はあってほしい。
それは捨てていくんじゃなくて、きっと誰かが聞いている。
誰かが誰かを覚えていると信じられるから、新しい自分になっても安心して息が吸える。
小学生がうちの施設に社会見学に来たら「メディア・テクノロジーは人にものごとを伝えるワザ。コンピューターやインターネット、映像、照明、音響とかいろんなものがある。そう聞くと、電源が必要とか、新しくてシュッとしてるとか、固くて冷たいものを想像するかもしれないけど、いまみんなに話しているこの言葉だってメディア・テクノロジーのひとつ。僕らはつい最新のテクノロジーに注目しがちだけど、僕らが生まれるずっと前は、この”言葉”だって最新のテクノロジーで、思ってることを人に伝えられるのやべ〜!ってなってたはず。もし言葉が喋れなかったとしても指差しをしたり、狼煙を上げてここにマンモスがいるぞー!って伝えてた。でも当たり前に使えていると思ってるものも、使い方を間違えると怪我したりする。
このアートセンターでは、メディア・テクノロジーを改めて広く捉え直して、ありたい未来や可能性(こんな使い方出来たんだとか、こんなふうに伝えられるんだとか、こうなるとヤバそうとか)をみんなで考えて、みんなでつくっていくために、全員まだ答えを持ってない新しいアート作品をつくったり、紹介したり、それをみんなで見る場、話す場を開いてる」って伝えてる。ともにつくり、ともに学ぶ場なんだって。
例えば映画の上映に合わせておこなうお茶会みたいなイベントは、小さな場所の小さな営みで、”オリジナル”みたいに威張れることはしていない。たまたま映画を見に来た鑑賞者同士が、なんとなく休憩しに立ち寄って、お互いの話を聞きあえる場を開いているだけ。でも、そこに来る一人ひとりは、とても大きな人生を背負っている。
昨日立ち寄ってくれた年配の2人組。
少し背の低い女性が「耳がほとんど聞こえなくなった主人が、この映画は見たいって言ったんです。だから字幕がなくても今日は来ました」と穏やかな声で教えてくれた。
これを見たいと思うことと、一緒に見る人がいるのめっちゃいいですねと伝える。そしたら突然その人がパートナーの耳元に向かって、自分がさっき言ったことを大きな声で復唱してくれる。(この人、こんな大きな声が出るのか)と内心びっくりする。
男性は嬉しそうに「そうなんですよ」と言って笑った。言葉があってくれて、でっかい声で伝えようとしてくれて、ここに来てくれて、聞いてくれて、ほんとによかった。
その場を見ようともしない人ほど「効率が悪い」とか「KPI」とか「来てない人を納得させないと」とか「ソーシャルインパクトが大事」とか「経営的な戦略が必要」とかって、ティーチ(一方的に教える)よりラーニング(自分で学ぶ)が大事と言う同じ口で、一方的に教えてくれる。
いや、なんかそうなんかもしれんけど、うっせ〜〜〜。
簡単に人をモノのように扱える人ほど評価される世界は絶対間違ってる。
世界を変えるって、トランプみたいに自分勝手に世界を掻き回すことじゃ絶対にない。
世界を変えるって、ひとりひとりが自分の力を思い出して、取り戻すことじゃないんかい。
この前ポッドキャストの収録で話したひるねちゃんは「手元をみよう 手元をみよう」と、祈るみたいに2回言った。
「人の心に反射したその光こそが作品。作品が光ってるって言うより、あなたの心に反射したものが光ってるんだよ。エネルギーを飲み込まないで発散できる自分でいたいな」と言いながら、最後の語尾は震えてた。
心が諦めてしまうと簡単に、ブラックホールとかベンタブラック(99.9%の黒)みたいに、どんな光も吸収してしまう。
収録が終わってしばらく経ったある日ふと、本当に信じてることは信じてるなんて言わないのに、信じたいって思うことほど信じてるって口に出して言うのは不思議だなと思った。
言葉に日光を浴びせるように外気にさらすことで、いつかほんとに信じられるものに変わるかもしれないから、僕らは信じたいことを口に出すのかもしれない。
先週も大学を訪ねたら「アートは自分には縁がないもの」と学生が匿名チャットで教えてくれた。おい、誰がアートをその子に縁がないものにしてしまったんだ。関係ないものなんて、本当はなに一つないはずなのに。おい、誰がそんなふうにしてしまったんだ。
でも自分もアートに関わる仕事をしててそう感じさせたうちの一人でもあるかもしれないからそれはごめん!もう一度やり直したいからチャンスがほしい。そんな悲しいこと言わないでよ、寂しいじゃんって思う。
あームカつくな。ムカつくし、ムカつくという感情を思い出せたのが嬉しいな。
ムカつくの前には悲しいな、とか寂しいな、があるな。ムカつくのにも、悲しいなとか寂しいなを反射させる力が必要なんだな。
自分は小さな空間で、人が変わるまぶしい瞬間を何回も目にしてきた。
たしかに自分の文章はまだまだ分かりづらくて、曇った鏡みたいなものかもしれないけど、本当はもっともーーーーーっとすごい。まじ伝えきれね〜〜〜〜って思う。
それでも自分も、反射できる自分でいたいと思うからこの文章を書き残しておく。
昨日の朝、映画を見る前、教育学部の授業に自分が働くアートセンターの紹介をしに行った。
朝一の貴重な40分をもらって全力でプレゼンしたあと、先生がブラインドトークのワークショップに参加させてくれた。
10人が3チーム、絵を見て言葉で伝えるチームと、その説明を聞いて絵を書くチーム、そのやり取りを観察するチームに分かれる。
5分間で出来上がった絵は、答えに近い人もいれば、まあまあ遠い人もいる。
その後のフィードバックの時間は、こう説明すれば良かった、こう質問すれば良かったなどの意見を交わす。
右から1/3の位置に〇〇があるみたいに数字を入れて伝えるとか、全体の雰囲気やテイスト(イラストなのか写実的なのかなど)を伝えてから具体的な描写を伝えるとか、一番大事なこと(なにを伝えたい絵なのか)に絞って伝えるとか、いろんなアイデアが出た。
どれもすごい大切だって思ったと同時に、自分はなんかもう、最強だな〜〜〜って思った。
最強って、いまめっちゃ強いとか、いまめっちゃ説明が上手とかじゃなくて、変われるってことだと思った。伝えようとしてる人がいて、聞こうとしてる人がいる。もうそれで十分じゃん。言葉が足りなきゃ付け足したら良いし、分かんなかったら聞けば良い、言い直したらいい。
ほんとは完璧なコミュニケーションなんてなくて、伝えたいとか聞きたいとか、それを諦めずに関わろうとし続ける限り、うちらはもっと強くなれる。もしかしてそれを教育と呼ぶのでは?!みたいなことに気づいて驚きながら言った。
みんないい姿勢で、まっすぐ聞いてくれた。おい、まぶしいな。ありがとう。
先生にお礼のメールを送る。あの子達が4年生になるのが楽しみですねって伝えた。ここには書かないけど、嬉しい返信が返ってきた。また会いたいな。学生も先生も全員サポスタに登録して欲しい。
同僚のNさんとサポスタ募集の打ち合わせしたら「うちらがやってることは、誰に見せても恥ずかしくないから本当はターゲットなんてない。ターゲットは全人類、死んでるやつも、これから生まれてくるやつも。ひとまず50億人全員サポスタに登録してもらおう。」って話してて爆笑しながら超グッと来た。絶対そうなった方がいいしやっぱ最高だなこの人って思った。
トランプも、ゼレンスキーも、オバマも、プーチンも、ネタニヤフも、オードリー・タンも、石破茂も、議員会館の地下で迷子になってる秘書も、海を渡ってきた難民も、夜勤明けでレジを打つコンビニ店員も、介護の夜勤でウトウトしてる人も、野良猫を拾ったけどなかなか懐かなくてすこし懐いてくれて安心したら実は腎臓病が進行してて休日は暴れる猫を連れて動物病院に通う新入社員も、推しのVtuberにスパチャしすぎて家計簿が真っ赤な人も、好きな人と一緒になれなくて家で一人で泣いている遠距離恋愛のカップルも、育休取りたくても言い出せない課長も、同性婚を夢見るカップルも、初めてステージに立つ前に鼓動が早くなってるドラァグクイーンも、卒論提出3時間前の大学5年生も、家の外に出る勇気が湧かないひきこもりも、声を出すと噛んじゃう吃音持ちも、白杖を持った視覚障がいランナーも、手話でコントをやる芸人も、補聴器の電池を切らしたおばあちゃんも、手足のないスケボー少年も、車いすで山道を攻める登山家も、PTSDに苦しむ帰還兵も、大学の講義室で聞いてない学生に向けて伝えることを諦めようとしてる教授も、モテることとサボることと遊ぶことと就活で頭がグチャグチャだったあの頃の自分みたいな大学3年生も、収容所で自由を夢見る政治犯も、その看守も、裁判で涙を流す加害者も、被害者も、サウナで “ととのい” を追い求める会社役員も、離島で保育士を探す町長も、推し色ジャージでライブに並ぶ中学生も、バイト代を全部ガチャに突っ込んだのに天井まで SSRが来ない高校生も、フィリピンのごみ山でタガログ語ラップを刻む子どもも、アマゾン流域で川と話すシャーマンも、北極で氷が割れる音を聴く魚も、火星着陸の夢を抱く在野の<
・人との関り方
人との関り方については、ライターやってた時はホント学べなかった。そもそも社会的な能力が低い人ばかりだから、ゴタゴタが会った時にマジ切れしてきたり、きつい口調で何か言ったりが当たり前だと思ってた。要求したら受け止めない方が悪い、ダメだったらtwitterに愚痴を書くみたいな人ばかり。
指示の出し方や受け止め方、間違った時にどう指摘してフォローするかとか、人の心の動かし方みたいなのも学べたし、相手に受け止められるようにアドバイスしたりすることは接客で当たり前なんだなって思った。
リーダーが優秀だったっていうのもあるけど、人と関わることでしか人としては成長出来ないと感じたね。
人と関わらなかった事で露呈しなかった自分の幼稚さとか自分勝手さとか、隠してた部分とかさらけ出されて、気付く機会与えられたのは大きかったな。
基本的にコミュニケーションが高い、見た目に気を遣うのが当然な業界だから、残りの自分の内面に目が向くことが増えた。
基本的マナーはテーブルマナーだったり、常に相手の目線に立って心地良い空間を整えること、相手の反応とか見て話し変えたり、とにかく観察するようになったのはデカい。
相手目線で考える癖がついたし、「失礼」ってどういうことなのかも身を持って体験できた。
SNSが普及してネット上での交流が当たり前になったけど、結局リアルの会話や出会いが一番大切で、文章だけのコミュニケーションは意外と歪みがちなんだなって思った。相手の顔が見える分、自分が歪んだ価値観を持っていたら認識できるし。
この増田さ、
https://anond.hatelabo.jp/20251018225012
多分自己肯定感が低すぎるんだよ。
昔私もそうだったんだけど、自分を本当に底辺のドブスだと思ってたから、服を買う時もしまむらしか行けなかったんだよ。ショッピングモールのキラキラした服屋になんて入ったらその場にいる全員に影でプークスクスされるって本気で思ってたから。
感覚的にはモール内の服屋は高級フレンチ店で、しまむらは気軽に入れるサイゼリアなんだよ。
で、高級フレンチに入ることを許されてるのは「マナーがしっかりした上品なお金持ち」だけ、庶民が入ったら冷たい目で見られて恥をかく、怖い!みたいな思い込みがあるから誘われても全力で逃げる。
でも周りからしたらモール内の服屋はモール内の服屋でしかないししまむらはしまむらなの。それだけなの。
増田はスタバを拒否ってたけど、要はそれ相手からしたら自分勝手なんだよ。相手の意見を受け入れず自分はしまむら行きたい!みたいに言い張ってるのと同じことなんだよ。
ディズニー行きたいっつってんのにのんほいパークでいいじゃん!って駄々こねられたらイラつかん?いや私はディズニーでスペースマウンテン乗りたいんだよのんほいパークのキッズコースター乗ってもしょうがねえだろ、って話。
歪んだ自己認識のせいで相手の価値観と楽しい時間をぶっ潰してるとんでもわがままモンスターになってるってのを自覚しないと一生変われないよ。
3人目の子供を妊娠した時、ものすごくつわりがひどくて会社をたくさん休んじゃって、仕事できそうになくて休職してそのまま産休になっちゃった。
その休職する時に、周りの人が3人目なんてすごいよ!お国のために頑張ってね!って言ってくれたんだ。
それがめっちゃ嬉しくてさ。
今の時代、子供を持つのって、なんていうか娯楽みたいな扱いの部分あるだろ。
自分勝手で好きで子供こしらえたくせに仕事休んで…みたいなイメージも正直ある。
私も本当申し訳なくて、迷惑もたくさんかけちゃったし、何度も何度も謝ったんだ…。
そうしたら、お国のためにって言ってもらえて、これはありがてえええってなったんだ。
全体主義は良くないけど、個人の自由の尊重とか言われるよりも、お国のためにみたいな大きな価値観がある方が、正直楽だよな。
行きすぎると良くないだろうけどさ。
婚活市場における「おぢアタック」、これはもう迷惑メールと同じだ。届いた瞬間にゴミ箱行き、未読スルーがデフォ。なぜなら中身が空っぽなのに、送ってる本人だけが「俺の需要はある」と勘違いしているから。
まず根本的な勘違いを正したい。おぢの婚活偏差値は若い女の子より低い。これは数値で表せないほどの格差。偏差値70の女子大生に、偏差値40のオッサンが「どう?俺のことアリじゃない?」と突撃してるのが現実。本人は必死に「年収」「包容力」「人生経験」で加点してるつもりだが、残念ながら全部減点要素。人生経験=加齢臭の思い出だし、包容力=自分勝手を正当化する言い訳、年収=将来性ゼロの衰退株。
しかも男は年を取れば取るほど婚活偏差値が暴落する。株で言えばストップ安連発。20代でまあまあイケてた人でも、40代50代になれば「賞味期限切れ商品」。棚の奥でカビ生えてるのに「これは熟成だから価値がある」と言い張ってるのが、おぢアタックの正体。
さらに笑えるのが「若い女となら子どもが欲しい」みたいな淡い期待。いやいや、こっちはむしろ「子どもの親が年寄りって可哀想」って思ってる。授業参観で子どもの隣に座ってるのがシワシワの父親とか拷問だろ。下手したら子どもが二十歳になる前に父親が要介護。未来の介護要員を産ませようとしてるのか?っていう冷酷な疑問が浮かぶ。
経済面でも希望はない。若い男性はこれから年収が伸びる。一方でおぢは既にピークアウト済み。いくら「安定してる」と言っても、それは下り坂を安定して転げ落ちてるって意味だ。年功序列の時代が終わった今、若手の方がよっぽど将来性がある。つまり「経済力で若さを買う」という幻想すら崩壊してる。
そして最後に最大の問題。おぢアタックは断るのが命がけってこと。女性からしたら、普通の男の子を断るのだって気まずいのに、おぢを断ると「逆ギレ・逆恨み・ストーカー化」というリスクフルコンボが待ってる。つまり「おぢが申込欄にズラッと並ぶ」こと自体が、女性にとって精神的な圧迫であり、存在が迷惑。
結論:おぢアタックは迷惑メールであり、婚活市場のスパムであり、自己認識が壊れた中年の悪あがき。本人は「俺はまだまだイケる」と思ってるが、世間的には「いや、もうとっくに詰んでるから」っていうのが現実。
実際女性憎悪するの、まともな人間なら当たり前だよ。女性が好き!とか女性を尊敬してる!って言ってる奴は異常者。
仮に自分の近くで「奢られるの当たり前、ヒステリーなりやすい、自分勝手で良く嘘をつく人気者」が居たら
なんでそんな人気なん?気持ち悪いわってなるの当たり前。しかもそいつらが
「お前たちは犯罪者予備軍で~私は被害者で~」って言っていたらいよいよ考えるだけで嫌になる。
そういう嫌なものを「綺麗さ」「可愛さ」「性欲・本能」でラッピングされたのが女性という存在。
だから無理に女性嫌悪を無くそう!じゃなくて、「そういうものだよね」と諦めて、そこからどう扱っていくか、若しくは関係を断つかが大事だと思う。
>自分が何か提供(親切心だったりその場で出来るこちらから提供できる何でも)しても返ってこない人には次からは親切にはしないこと
>親切にしてくれたり、誠実に会話を返してくれたり、そういう人には2倍3倍4倍5倍の良いことで返す
誠実な人には1.5倍返しくらいが丁度良いと思う、5倍で返したら引かれる。
がんばってちょ
思い出せ、セックスの基本を。
何を恥ずかしがることがあろうか。
前戯をしっかりやっても良いし、後戯だってちゃんとやって良い。
その基本をお前は忘れてしまった。
画面越しの演技に慣れ、相手の反応を見るのを面倒に思うようになり、自分本位のセックスしかできなくなり、そしてお前らはセックスの技術を忘れた。
思い出してほしい、高校3年生。初めて彼女ができて、初めて二人きりになった日のことを思い出せ。
まずお前は彼女の部屋に招かれる。
緊張しすぎていたからだ。どうしたらいいかわからなかったからだ。
手が震えているお前。
お前が高校生だった頃にどれくらい手が震えていたのかは知らないが、とにかく必死だったはずだ。
最近の高校生はネットで情報収集して事前に勉強しているだろう。
そして恐る恐る手を伸ばす。
すると反応してくれる、
何をやってもいい。
大人になると、AVで見た技術が、ほとんど演技用か、あるいは男性向けファンタジーかの、どちらかであることに気づくが、必死な高校生には愛情にしか見えない。
そして時間をかけて愛し合う。とにかく真剣だ。どうやって愛してもいい。適当に済ませてもいけないし、じっくり丁寧にやらなければいけない。
ここで問題なのは、大人になったセックスでは"適当に済ませる"という最悪の選択肢が存在することだ。なんと不誠実なのだろうか。
お前は小生意気だからきっと大学生になって"高校生のセックスとか下手だろw"とか言って、少しでもテクニックがありそうに見える派手な技ばかりを覚えるかもしれない。
だが、そんなことをしても彼女は喜ばない。
なぜなら、彼女にとって、お前の愛情こそが一番の快感だからだ。
前戯2分、本番5分、後戯ゼロ。合計7分のセックスに絶望している。
違うか?
いつからお前らは「俺が気持ちよければそれでいい」と思うようになったんだ。
俺の友人なんて、もはや射精前提で行為してる。前戯は形だけ、本番は自分のペース、相手が感じてるかどうかなんて気にしない。
「面倒だし、相手も期待してないでしょ」と言い放つ。
期待してないって何だよ。相手だって人間なんだから期待してるに決まってるだろ。
でも確かに面倒だ。圧倒的に面倒だ。
昔なら一時間かかっていた行為が10分で終わる。労力も大幅削減。時間もほぼゼロ。
これが現実だ。
やらない奴は確実にセックスレスになる。時代の流れに逆らうのは不可能だ。
でも、本当にそれでいいのか?
相手の気持ちを無視して、愛情を機械的行為に堕落させて、それで満足なのか?
俺たちは楽になったかもしれないが、同時に何かを失った。
時間をかけた前戯、相手の反応を見ながらの愛撫、満足そうな彼女の顔。そこには確実に「二人で作り上げた」という実感があった。
もちろん、効率は大事だ。時間は有限だし、体力だって無限じゃない。毎回2時間かけろとは言わない。
でも時々は思い出してほしい。
だからお前ら、セックスする時は相手のことを考えろ。そして時々は自分の技術を見直せ。
それが愛し合う関係の基本だと思う。
でも正直言うと、2年も我慢してくれている彼女は聖人だ。普通なら半年で愛想を尽かされる。
お前の彼女を大切にしろ。そして今すぐ本屋に行って『セックスの教科書』を買え。
多分な。