はてなキーワード: 養父とは
10. 『イーブイをエーブイと呼ぶ男』の友人は、驚愕し、狼狽しながら答えた。
「すまない……。君がそんなに気にしていたなんて、思いもしなかったんだ。
それに君は、何をやっても器用で、欠点なんてほとんどないだろ?
だからこそ、『エーブイ』の件だけが、どうしても目についてしまったんだ。」
彼は少しだけ息を整えると、静かなトーンで答えた。
「君こそ、エーブイのことでからかう以外は、本当に素晴らしい友人だったよ。
もっとも——私はエーブイを『エーブイ』と呼ぶことを、欠点だと思ったことは一度もないけどね。」
11. 彼は、幼少時に両親に「イーブイ」を「エーブイ」と呼ぶことを注意されても、決して自分の信念を曲げなかった。
そのため、彼は生まれてから一度も「イーブイ」のことを「イーブイ」と呼んだことはない
12. 彼の両親は、彼が決して「イーブイ」を「エーブイ」と呼ぶことを直さなかったため、彼が十二歳になる年に、養子に出した。
それから、彼らが再び会うことはなかった。
13. 彼は、「イーブイ」を「エーブイ」と呼び続けたために、
実の両親と離れることになるとは、夢にも思っていなかった。
この出来事は、まだ幼い彼の心に深い傷を残した。
14. それでも、『イーブイをエーブイと呼ぶ男』が養子に出された家の人々は優しかった。
その家には、彼より少し年上の娘がいた。
15. 『イーブイをエーブイと呼ぶ男』は、養子として迎えられた家庭で健やかに成長した。
彼は娘に惹かれていたが、次第に娘も、彼に対して男性としての好意を抱くようになった。
16. 養父母もまた、彼の誠実な性格と勤勉さに触れるうちに、少しずつ信頼を深めていった。
やがて彼らは、「この男になら、娘を託してもよい」と考えるまでになった。
彼は「イーブイをエーブイと呼ぶ」ことを除けば、
概して優秀で、善良な青年であった。
17. しかし、些細なきっかけから、養家の人々もまた、彼が「イーブイをエーブイと呼ぶ」ことを知ることになる。
それでも、頑なに「エーブイ」という呼称を改めようとしない彼を目の当たりにするうち、次第に養父母と彼との関係に亀裂が生じはじめた。
18. 冗談交じりではあったが、養父から告げられた「その呼称を改めれば、娘との結婚を許す」という言葉に、『イーブイをエーブイと呼ぶ男』は深く動揺した。
それ以降、彼は友人の軽い冗談にも過敏に反応するようになり、ついには激しく怒りをあらわにしてしまった。
二人の関係が、完全に元通りになることはなかった。
そんな中、唯一態度を変えなかった娘だけが、彼にとって心のよりどころとなっていた。
この漫画、原作がまだあんまり進んでない段階でアニメ化してヒットして
アニメ一期はアニオリ展開やって終わったんだけど
その後の原作の動向がアニメで人気が出たキャラや設定に作者が反発してわざと逆張りしているようにしか見えない
何というか意地悪だなーと。
第1回人気投票で1位になった主人公弟…世界の命運に関わるような悩みは全て単なるコンプレックスでしたで済まされ、主人公とヒロインのカプ成立をBSSで祝福する
太眉のツンデレ巫女…専用長編をもらうも以降は空気化、専用長編がアニメ三期になったがスタッフの本命は四期以降だったので出来は惨憺たるもの
第1回人気投票で4位のピンク髪男…突然敵のスパイが発覚するがなあなあのまま仲間に戻り、その後も碌な掘り下げがない
良いお父さんとして好評だった主人公養父…それ以前の京都編で描かれた人命重視の姿勢とは別人のように、過去編では主人公実母の事しか考えない恋愛脳クソ男にされる
主人公実母…アニメ一期で描かれた主人公実父との純愛は何処へやら、主人公養父が本命の二股クソ女と化す
第1回人気投票で2位になった悪魔の王…当初は主人公のライバル役だったが主人公とはさっぱり絡まなくなり、ヒロインの下僕(文字通り)にされて空気化
第1回人気投票で5位になった強キャラ…重要そうな設定をチラチラさせて長らく放置、第2回で1位になってからは誕生日に公式Xでわざと不細工に描いたイラストを上げるという嫌がらせを受ける
多分世の中にはアニメ一期しか知らない人の方が圧倒的に多いんだろうけど
もしも原作がアニメ一期の路線を踏襲していたらそういうファンも今でも原作やアニメについてきてたんだろうなと思うと色々と勿体ない
淀君(淀殿、茶々)は、戦国時代の波乱に満ちた生涯を送った女性であり、豊臣秀吉の側室として秀頼を産み、秀吉の死後は豊臣家の実質的な後見人として権力を掌握しました。その生涯と権力への関わりについて、詳細に解説します。
淀君は、織田信長の妹であるお市の方と、北近江の戦国大名・浅井長政の長女として生まれました。幼名は茶々。彼女の人生は幼い頃から悲劇に満ちていました。
1. **浅井家の滅亡**: 幼少期に、父・浅井長政は織田信長に敵対し、小谷城の戦いで滅亡します。父は自害し、兄も処刑され、茶々は母お市と妹たち(初、江)と共に信長に保護されます。
2. **柴田勝家との再婚、そして死別**: その後、母お市は信長の家臣であった柴田勝家と再婚しますが、本能寺の変後、秀吉と勝家が対立し、賤ヶ岳の戦いで勝家は敗死。母お市も勝家と共に自害します。
3. **秀吉による保護と側室入り**: 茶々ら三姉妹は、母と養父の仇である秀吉に保護されることになります。秀吉はかねてより、戦国一の美女と謳われたお市の方に憧れており、その面影を最も強く受け継いでいた茶々を側室に迎えることになります。具体的な時期は天正16年(1588年)頃とされています。
このように、淀君が秀吉の側室になったのは、自身の意思だけでなく、戦乱の中で後ろ盾を失った浅井三姉妹を秀吉が保護したという経緯があります。親の仇とも言える秀吉の側室になるという、非常に複雑な運命を背負うことになります。
はい、淀君は豊臣秀吉の側室でした。秀吉には正室である北政所(ねね、おね)の他に多くの側室がいましたが、その中でも淀君は特別な存在でした。その理由は、彼女が秀吉の世継ぎとなる鶴松(夭折)と秀頼を産んだ唯一の女性だったからです。
当時の秀吉は、正室の北政所との間に子が無く、他の側室も子を授かることがありませんでした。そうした中で、淀君が立て続けに男児を産んだことは、豊臣家にとって非常に大きな出来事であり、淀君の地位を確立させることになりました。秀吉は鶴松が生まれた際に、淀城を茶々に与え、それから「淀殿」と呼ばれるようになりました。
秀吉は、淀君が産んだ子を非常に可愛がり、特に秀頼が生まれた際には溺愛したと言われています。秀頼が秀吉の実子であるか否かについては当時から様々な憶測がありましたが、現在では確たる証拠はなく、秀吉が自身の後継者として秀頼を深く愛し、育てたことは事実です。
### 秀吉の死後、淀君は秀頼を使ってどのように権力の黒幕になったか
秀吉が慶長3年(1598年)に亡くなると、淀君は幼い秀頼の生母として、豊臣家における絶大な権力を握ることになります。
1. **正室・北政所の引退と淀君の地位確立**: 秀吉の死後、正室の北政所は剃髪して高台院と名乗り、大坂城を出て京都に移り住みました。これにより、大坂城には淀君と秀頼が残り、実質的に淀君が豊臣家の最高権力者としての地位を確立します。
2. **幼い秀頼の後見**: 秀頼はまだ幼く、政治的な判断を下すことはできませんでした。そのため、生母である淀君が秀頼の後見役として、豊臣家の政治を差配するようになります。諸大名への指示や外交交渉など、豊臣家の重要な決定は淀君の意向が強く反映されるようになりました。
3. **対徳川家康の方針**: 秀吉の死後、五大老筆頭であった徳川家康が台頭し、豊臣政権内の主導権を握ろうとします。淀君は、秀頼の存在を盾に、家康による豊臣家の支配に対抗しようとしました。淀君は、家康の動きに対し、豊臣恩顧の大名たち(石田三成ら文治派)を擁護し、また大坂城の財力を背景に豊臣家の権威を維持しようと努めました。
4. **関ヶ原の戦いとその後**: 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、淀君が石田三成らを後押ししたとも言われています。この戦いは家康率いる東軍が勝利し、家康は事実上の天下人となります。しかし、秀頼の存在は依然として家康にとって脅威であり続けました。淀君は、秀頼を擁して大坂城に籠もり、徳川家康との対決姿勢を強めていきました。
5. **大坂の陣での指導力**: 家康は、豊臣家を完全に滅ぼすため、大坂冬の陣、夏の陣を起こします。この時、淀君は籠城の方針を強く推し進め、豊臣家の軍事行動を指導しました。しかし、結果的に大坂城は落城し、淀君は秀頼と共に自害し、豊臣家は滅亡しました。
淀君は、幼い秀頼を守り、亡き秀吉が築いた豊臣家の存続を図るため、政治の表舞台に立ちました。彼女の行動は、豊臣家を守るための母としての愛情と、名門の血を引く女性としてのプライドが入り混じったものであったと言えます。しかし、時代は徳川家康による天下統一へと大きく傾いており、その流れに逆らうことはできませんでした。結果的に、淀君は「豊臣家を滅ぼした悪女」という負のイメージを背負わされることになりますが、彼女の行動は、豊臣家の命運を背負った女性としての必死の努力であったとも評価できます。
【速報】2024年児童虐待で死亡した児童は前年比約2倍に 加害者の46%は「実父」 事件発覚のきっかけは児相からの通報が最多 警察庁(FNNプライムオンライン(フジテレビ系))
>虐待により死亡した児童は全国で52人に上り、そのうち無理心中は24人、出産直後に殺害されるなどし亡くなったのは9人でした。加害者での46%は「実父」で、「実母」が26%、「養父・継父」も16%を占めています
「女さんは子殺しする性別w子育てに主に関わってるからとか言い訳にならねえよw」って今まで散々女叩きしておきながらこれ。
#'11で気になった点
・初音(初華)の回想
初音の独白という形で進む過去の回想。舞台上の演技という演出や、オリオン座と蠍座を同時に見た(日本国内では不可能)という明らかな嘘からして、内容は全てもしくは一部虚実であるという示唆であると思います。祥子の父親の件など、内々の事情で初音が知り得ないはずのことを事実と断じており、主観と客観が入り混じっているような部分があることも気になりました。初音の妄想(もしくは推測)なのか、彼女に与する第三者が情報を流しているのかで展開も大きく変わってきそうです。
インタビューでミュンヒハウゼン症候群(自身が悲劇の存在として振る舞う、演技することで他人の同情を得る、自己正当化を行う)を参考にしたとの話があったため、以降では初音がこの症例に該当し話に一部妄想(虚実)が含まれているという前提とします。
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・どこが真実で、どこが嘘か
偽:爺が父親、家族から冷遇、祥子の父親の件の経緯、事務所からの優遇
「初華という明るく人に好かれる実妹に劣等感と疎外感を感じていた。祥子の話を聞き自身も会う事が出来たが、折悪く祥子に害するような行為をしたことで初音に接触禁止令が出る。そんな中祥子は島を離れ父親が死亡、哀しみから家族から冷遇され(ているように感じ)るのは自身が養子だから、祥子に会えないのは自身が豊川家の隠し子だからとの現実逃避の妄想を抱くようになった」という仮説です。
この仮説を前提に以降の話を進めていきます。
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母親が別荘の管理人との話は事実だと思います。問題は以降の関係ですが、11話では爺も入婿であると示唆がありましたが(?)、初音の母は爺の実家の姉妹の娘で一族的に管理の仕事を請け負っていたのではないかと推測します。初音について把握している様子であったのは、この繋がりで既に聞かされていたのではないかと思います。祥子に知らせていないのは元使用人の親族というのがあまりよろしくないからでしょうか。
・森みなみ
愛音の「TGWグループ🕊️🩷(かわいい)」も元は森みなみがCMで行っていたものです。爺の旧家が「森」や「三角」で、爺の血族の縁で依頼していたのではないか可能性が生じます。瑞穂の葬式の際に睦が親族席に座っていたのも説明がつきます。
みなみと睦は共に高い演技力を持っていますが、実は初音もこの母系の親族であり演技力は血統的な才能ではないかという予想です。作中ムジカメンバーでは初音とみなみだけ会話がないのも気になった点です。
故人ですが未だ謎のある人物。あの金髪人形もですが、特に気になったのは1話の「誠実さは美徳」という台詞です。爺にドヤされたという祥子父に対する台詞ですが、わざわざあのような言い回しにした点が気になります。豊川家の過去の事情を把握しているからとも、未来の展開を示唆しているようにも取れます。
・豊川家の闇
・音華とあのさー
先週まで初華(初音)=音華で初音(初華)=あのさーだと思ってましたが、初音の初華への嫌悪感を見るに自分から姉妹要素を主張することはないはず。当初から初華(初音?)の誕生日0626に嘘を象徴するエイプリルフール0401を足すとあのさーのアカウント名1027になると言われていましたが...。実は真初華監視用のアカウントなのかも知れません。
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こんな感じであれば家のドロドロした気持ち悪さ(初音は除く)もある程度解消して、バンドリ世界に馴染めるというかガルパ実装に向け一歩前進できるような気がします。特に初音と祥子の接近禁止令が下っていたという仮説は、燈の過去ともリンクする形となってスムーズな気がします。燈は事実と向き合い直そうとしたのに対し、初音は現実から逃避したという形で。いずれにしても島で祥子が真初華か初音母から真実を聞かされる展開はありそうです。
えっ、増田が考える『自己責任』は下記じゃないの?下記はコピペだし他に読み取りようがなかったが?
これは増田の持つ主義だから正しいも間違ってるもないぞ。ただ、ワイは賛同しないってだけ
改めて、『お前の属性の問題じゃなくて、お前のやる気の問題だろ』『お前の人生はお前自身が意味付けろ』って言ったら、
ブチギレるんだろうなって思うばかり
もう一度言うけど、自己責任ってのは、単なる能力主義・Winner takes all /All or Nothing の話だぞ
もう一度説明するけど、自己責任ってのは、単なる能力主義・ Winner Takes All/All or Nothing の話は、突き詰めてるとかではなくて、単なる現実のビジネスの話
頑張ったなんてお気持ちに価値なんかない。自己責任を唱えるなら、現実(市場の冷酷さ)も受け入れよう
タイトルの通り、小学生時代に遭った痴漢やそれに類することについてと、書き出してみて思ったこと。
当時の私はピアノを習っていて、発表会に祖母と母が来てくれた。おろしたてのワンピース、フリルのついたソックス、少しだけかかとの高いよそゆきの靴、いつもより豪華に結ってもらった髪にはリボン。かわいい格好ができて嬉しかったのを覚えている。
発表会は市民ホールを貸しきって、昼すぎまでかかっていたと思う。早起きしたぶんお腹はペコペコで、遅めの昼食は近くて回転率がよくすぐに食べられるお蕎麦屋さんを選んだ。
昼すぎでも土日だったからか、お客さんが並んでいた。回転率のよさは知っているので、並ぶのは苦にならない。眠気も出てきていささかぼんやりしつつ、だらだらと前に並ぶ人へ続く。
すると突然、ぐいっと左手を掴まれた。反射的にそちらを見上げると、知らないおじさんが私の手をとり握手するみたいにぎゅむぎゅむ握っている。とても、とても驚いた。けれど声は出なかったし、ぴくりとも動けなかった。知らないおじさんは「可愛かったからつい」と言って、手を離して店を出て行った。
母たちは「びっくりしたねぇ」などと何だか和やかに言っていたが、私はほんとうに驚いて、つまりショックで、その後どうしたか覚えていない。もちろんかなり古い記憶なので、単純に時間経過によって忘れてしまっただけかもしれないけれど。
ほんとうに驚いたとき、人間は悲鳴も上げられないしすぐに逃げもできないのだな、と何だか絶望に近い気持ちになったことは覚えている。アニメやドラマ(刑事ドラマが好きでよく観ていた)のようにはできないのだ、と。
「かわいい」は褒め言葉のはずなのに、なにも嬉しくなかった。なんとも言えないモヤモヤが澱のように腹の底に溜まった。
プライベートゾーンを触られたわけでもなく、何なら一緒にいた親族も問題視したふうでもなく、法的に痴漢には分類されない体験。今でも一般的になんと分類するものか分からないままだ。それでも私の中でだけは、初めて遭った痴漢として記憶している。
私の地元は田舎で、徒歩通学だった。当時はとにかく読書が好きで、通学中は図書室で借りた本を読みながら歩くのがほとんどだった。二宮金次郎みたいに。
学校帰り、季節もあってまだまだ明るい中、いつも通り本を読みながら一人でひたすら歩く。毎日毎日そうしているから慣れたものだった。
車が1台ぎりぎり通れるくらいの、田んぼと畑と農家然とした少し古めの民家ばかりの道で、ふいに後ろから声をかけられた。自転車に乗った男子学生だった。中学生か高校生か、とにかく同じ小学生でないことしか分からなかった。親や学校の先生以外で年上と話す機会もそうなかったし。
喉が乾いたので飲み物を分けてもらえないか、と言われた。夏なので肩に水筒をぶら下げていたのだ。大人なのに変なの、とは思いつつ、水筒のコップ代わりの蓋になみなみ注いで渡した。
水筒のお茶を飲むところをぼんやり眺めていたら、コップを持つ男子学生の手がぶるぶる震えていた。おそるおそる口をつける。そのさまを見て、なぜだか急に、明確におかしいと感じた。一気飲みはせず、謎に丁寧にお茶を飲んでから返されたコップ。水筒に戻しながら、どうやって帰ろうか不安になった。自宅までそんなに距離がなかったからだ。なぜかついてこられるのでは、と思った。その間も、ぽつりぽつりと男子学生からの問いかけが続く。いつもこの道を通るの、とか、何年生なの、とか。
今の私は何でそこで律儀にと思うが、その時は走って逃げるとか急に話を切り上げるとかいう選択肢がなかった。失礼だと思ったからだ。誰か帰路の小学生でもいれば、知らない子でも混じって帰ったと思う。でも誰もいなかった。人っ子一人。えー…とか、うーんと…とか枕詞みたいに付けたふんわりした回答をしながら、子供なりに頭はフル回転していたはずだ。でも、打開策が思いつかなかった。
少しして、私たちがいた道沿いの民家から住人のおばさんが出てきた。知らない人だったけれど、何してるの、と声をかけてくれた。それを見て、男子学生は何も言わずに自転車を走らせて去っていった。その背中が私の帰り道と同じ方向だったのを見届けて、まだ呆然としたままの私は、なんにもないです、とだけ答えた。知らないおばさんが「さっきの子は知り合い?」と言うので、首を振る。ちょっと回り道してから帰りなさいね、と言われた。私もそのつもりだった。
この体験も、お茶をくれと言われて分けただけで何もされていない。痴漢ではない。なので何と呼べばいいか分からないけれど、自分の中ではその他の痴漢と同じカテゴリに分類して記憶していると思う。そういう系統の嫌な気持ちだった。
これも小学校中〜高学年頃。
私の両親は離婚しており、母に引き取られていた。夏休みに父のところへ泊まりに行っていたときだった。
例によって本が好きなので、県立図書館へ連れていってもらった。いっちょまえに児童書は卒業していたので、見る本棚は一般書架。父はAVコーナー(ネットカフェみたいに区切られたブースで各々映像資料が観られる。アダルト資料ではない)にいるというので、一人でゆっくりと本棚を眺めていた。作者なんかは知らないから、タイトルや表紙のデザインを中心に何となく気になった本を探す。児童書に比べてかなり数が多いので、背表紙を眺めているだけでも楽しかった。タイトルしか読んでいないのに、いくら読んでも読み終わらなくて。
ふと、足元がぬるい感じがした。見下ろすと人が床に手をついてしゃがみ込んでいた。年齢は分からなかったけれど、男の人であることだけは分かった。
図書館の本棚は上下左右ギチギチに本が詰まっている。下の段の本を見るには、学校でミクロマンとイジられていた私の体躯でもしゃがみ込まなければならなかったので、下の方が見たいんだなと思った。図書室で人気の本棚にみんなが密集するのはよくあることだ。と思ったけれど、はぁーーー、と長い息を膝に吐きかけられているのを見て、一気に過去の嫌な気持ちが呼び起こされてしまった。気付いていないふりでじりじりと距離をとり、別の本棚へ移動する。
何だったんだろう、と心臓がばくばく言うのを落ち着かせているうちに、暑いから息が上がっていただけでは?という気になってきた。そう思うと何をビビっていたんだろうと馬鹿らしくなって、また端から背表紙を読んで、読んで、時には取り出して表紙やもくじを眺めて。
じきに、また足元に違和感があった。今度は微妙にぺたぺた?ぬるぬる?する。見下ろすと先ほどの男の人がしゃがみ込んで、私の膝辺りを舐めていた。他人の舌が肌を這うことなどないし、誰か分からないし、理由も分からないし、どうすればいいか分からなくて、なのに気付いていることを勘付かれてはいけないと咄嗟に思った。心臓はまたばくばく暴れて、目の前の本を適当に抜き取り「これにしよ」なんてわざとらしく声に出して、父のところへ逃げた。
この時に借りたのは『エリコ』という本だったと思う。いま調べてみると表紙が記憶と違っているけど、女の子のモノクロっぽいイラストの表紙だったはず。父の家に戻ってから読んだけれど、分厚い上に当時の私には内容が難しくて、とても難儀した。話が全く分からなくなってからは飛ばし飛ばし読んで、なんだか図書館での嫌な気持ちがフラッシュバックするような描写を目にして、結局ギブアップした。主人公が高級娼婦らしいので、確かに当時の私には早すぎたし「猥雑と戦慄がからみあう、嗜虐と倒錯の近未来バイオサスペンス(引用元:BookLive)」はあんなことの後では取り合わせが最悪だった。今までの人生で読み始めたのにギブアップした本はこれと『ドグラ・マグラ』だけなので、すごく印象に残っている。
この体験は一般的にも痴漢に入るのではないかと私は思うけれど、そのときの私には分からなかった。知らない人に舐められて驚いたし怖かったのに、誰にも言えなかった。一緒にいたのが母だったら、もしかしたら言えたかもしれない。正直、相手と同じ性別である父には言いづらいと感じた。自宅に戻ってからは、今度は今更だと思って母にも結局は言えなかった。
4度目は小学校高学年。
さすがに生きているだけでも変な目に遭うことはあるのだと理解していた。それに、そういう場面では声も出ないしパニックになって機敏に動くのは難しいことも。
私は護身術として極真空手に通うようになっていた。ビビって声が出ないし動けないなら、度胸をつければよいと思ったからだ。流派だの何だのはよく分からないままだけれど、男子に混じって毎週通った。練習は体育館で行われていて、フローリングの上で拳で腕立て伏せをするのが大嫌いだった。骨が痛すぎるし、未だにフローリングでやることではないと思っている。
それから、通学路も勝手に変えた。2回目のときに使っていたのは車1台でいっぱいの道幅だったが、片側1車線ずつの道だ。さらに少し行くと複数車線の道もあるけれど、遠回りになるのでこちらばかりを通っていた。徒歩通学だしショートカットしたかった。車通りはやはり少ない。
この時も学校からの帰り道だった。一人で帰っていて、道路の向かい側に停まった白い車から声をかけられた。運転席の窓を開けて、男性が小学校へはどっちに行けばいいかと尋ねてくる。あっちです、と指をさすと、地図で教えてほしいと大きな紙を広げた。道路を挟んだままだと見えないので、道路を渡って運転席の窓から紙を覗きこむ。それは確かに地図だったけれど、地図と腹との隙間から陰茎が見えていた。数センチの隙間から、手で擦って見えたり隠れたりする陰部。
相変わらずショックではあったけれど、またか、という諦観もあったように思う。私はやはり気付いていないふりをした。努めて地図だけを見て、現在地も分からなくて、「地図読めないけどとにかくあっちです。ずーっとまっすぐ道なりで左側にあります。私はそこから来たんだから間違いないです」というふうな回答をした。
習い事があるからとその場を駈け出して、ないと思ったけど一応追ってきていないのを確認して、座り込んだ。心臓は毎度のようにばくばく言っていたけど、走ったから当たり前だなと思った。前よりも怖くなくなったし、毅然と振る舞えた気がするからたぶん空手の効果はあった、と思いながら自宅へ帰った。今回もこのことは誰にも言えなかった。
そういうわけで、私が小学生のときに遭った痴漢やそれに類するものは覚えている限り4回だ。多いのか少ないのかは分からない。
もちろん、中学生でも高校生でも大学でも大人になっても何かしらは遭った。それでも一番覚えているのがこの小学生時代。今やすれた30代だけれど、私も子供の頃はさすがに無垢だったのでショックが大きかったのだと思う。
どう気をつければいいのかというと、正直私は分からない。嫌な言い方だけれどもはや事故みたいなものだから。防ぎようがないという意味で。ただただ、こういうことをする人がいなくなってくれればいいのだけど。
一つだけ。もしもこんなことがあったと言われたら、ちゃんと聞いてあげてほしいとは思う。
中学にあがってから、路上で知らない人に突然キスされたことがある。グレてイキって気は強く成長した私は、黙り込んでいた小学生時代とは違ってすぐに学校に報告した。とにかく腹立たしかったからだ。分かることはすべて話した。場所とか、相手の風貌とか、原チャだったとか。それらは全校放送で流れた。
おそらく親にも連絡が入ったのだと思う。その日の夜、養父(母は再婚した)にリビングへ呼びだされた。本当なのかと聞かれたので、本当だと答えると、場所を地図で描けと言われた。不審に思いながら自宅から中学校への道順を描き、ここ、と丸をつけると、嘘だと言われた。こういう場合、被害に遭った場所から描き始めるのが心理学的に普通だそうだ。私としては通学中に起きたのだから理にかなって描きやすい順番だったのだけど、そう言われた。心理学なんて分からないので反論もできなかった。原チャの車種はなんだとかも聞かれたけれど、私が知っている中での形や大きさで最も近い名称が「原チャ」だっただけで、詳しくは知らなかった。グレ友達に2ケツで乗せてもらったやつくらいにしか認識していなかったから。養父の趣味にハーレーがあったので、バイクを中途半端に出したのもよくなかったのかもしれない。
そうして私の虚言であったとされ、おそらく学校へも連絡したのだと思う。保健室登校しても、教師がどこかよそよそしかった。あくまで私の感覚なので、実際のところは分からない。
ショックだった。折り合いの悪い養父であっても、もはや養父側の人間で信用していないと自分では思っていた母であっても、なぜだか報告すれば信じてくれると思い込んでいた。
初めて報告したらこうして狼少女にされてしまったので、前述のとおりその後も何度も変な人に遭ったけれど、誰にも話していない。
今でも覚えているので、やはり他の家庭、いわゆる子供(年齢は問わない)をもつ家庭では子供を信じてあげてほしいと思う。様々な要因で恒常的に嘘をつく子供がいたりするらしいのは知っているけれど、嘘でなかった場合に取り返しがつかないからだ。私のようになってしまう。独身の私が言うのもおかしいけど、子供は健やかに育つべきだ。大人になったら嫌でもすれてしまうのに。
この文章は、職場の男性から小学生にあがった娘の親バカノロケを聞かされてぶわっと思い出したまま書き殴った。
電車通学が珍しい地方の小学生だった私でも、4回。0回の方がいいに決まっているので、こんなことがどこでもありうるから気をつけてあげてほしい、と言おうと思ったけれど、職場の人に実体験を話すのは憚られたので。初めて表に出して少しすっきりしたかもしれない。
不自然さ(嘘)しかなかったから、それを雑に消したのが修正文だよ
次は猛毒の母親と養父になるな。気が滅入るからいるか?ってなるが
ダメ出しばかりはどうかと思うので修正文も作ってみたけど元増田無理がない?
もうひとつの修正作文は元増田の年齢設定をそのまま採用するので、
養父と母親がとんでもない毒親で、元増田が実父の方にあり得ない夢を見ているって作文になるよ
バランスのとれた創作をするなら、養父が実の父ではないからこその複雑な感情があるになると思うんだよな
本心では養父こそ自分の父親だと思っているからこその反抗心や「こうだったらよかったのに」という思いみたいな
これらの感情は、自分に対する愛情があると確信してなきゃ、そういう感情は持ち得ないものだ
(自分への愛情がない事実を決定的なものにしたくなくて避けるか、このクズ(養父)の話しないでくれる?という怒りとして出る)
あと、養父に対する気持ちがあるからこそ、実父と関係を作ることへの遠慮が出るって展開が自然なのよ
子どもの頃は、お母さんの気持ちを察して、実の父のことを口にするのを避けていた。
でも、心の中では「お母さん、私にもお父さんに会う権利があるんじゃないかな。お母さんの気持ちはわかるけど、私はお父さんが大好きだったんだよ」って思っていた。
今、自分が親になって初めて、母の立場が本当に分かるようになった。浮気で離婚して、しかも子どもを置いていったという父の行動が、母にどれほどの傷を与えたか。
もし自分がそんな目に遭ったら、立ち直るのにどれだけの時間がかかるだろう。想像するだけで胸が痛む。
だからこそ、今回実の父と連絡を取り始めたことを、どう母に伝えるべきか悩んでいる。
母の気持ちを踏みにじるつもりは全くないけど、自分の中にある実の父との関係を取り戻したいう思いも無視できない。
anond:20240715115208 anond:20240715103153 anond:20240715103606 anond:20240715133739 anond:20240715114948
父親に対する感情ゼロを言う設定に無理があったので、比較的自然な形に年齢を修正しました 後ほど、別の増田で設定通りの年齢設定で修正をします anond:20240715002416
わたしが小学校へ入ったばかりの頃、他所に女を作って母とわたしを捨てた父だ。
今の父(養父)を手放しに「とても良いお父さんだった」とは正直言えない、色んな思いをしたけどそれはまぁ今は割愛。
奨学金は自分で払ったけど、短大まで行かせてくれたし、不自由なく育ててもらった。
だから、表面上は実の父に対する感情がないふりをしていた。無を装っていた。
中学生になるまで毎年誕生日にはプレゼントと手紙をもらっていたけど、何も感じていないかのように振る舞っていた。
実際は、心の奥底では父からの贈り物に喜びや複雑な思いを感じていたけど、それを表に出すことは出来なかった。
母や養父を傷つけたくない、新しい家族の和を乱したくないという思いが強くて、実の父に対する感情を押し殺していた。
養父がわたしを実の娘のように思ってくれていることに対しての気持ちもゼロじゃなくて、実の父とのつながりを示すようなことは避けていた。
そうすることで、家族の中での自分の立場を守ろうとしていたのかもしれない。
母は時々、実の父の話をしてくれたけど、私は表面上無関心を装っていた。知らない芸能人の話でも聞いてるような態度を取っていた。
実際は、話を聞くたびに胸が締め付けられるような感覚があったけど、それを悟られないように努めていた。
ただ、母の声の調子や表情から、彼女の複雑な気持ちが伝わってきて、それを見るのが辛かった。
母の心の痛みを感じ取りながらも、自分の気持ちを抑え込むのに必死だった。
わたしが結婚した時、母から実の父に、結婚式の招待状を出す?って聞かれたけど
「なんでそんなこと聞くんだろう。出すわけないじゃん」って思った。今のお父さんに悪いじゃん、って。
でも、子どもが生まれて、子育てにもすこし慣れてきた今。なぜか、実の父のことが急に気になった。
それで、色々探してSNSをみつけて、ブログがあったから読んでみた。
それから、ブログを読んでいるうちに、長年抑え込んでいた感情が一気に溢れ出した。
父の日常や趣味、考え方を知るにつれ、自分の中にある似た部分に気づき、知らなかった父の人間性に触れた。
そして、突然、今まで味わったことのない喪失感と同時に、やり直せるかもしれないという希望が湧き上がってきた。
自分でもびっくりするくらいわんわん泣いた。今まで築けなかった関係、聞けなかった話、共有できなかった時間、全てが一度に押し寄せてきて、涙が止まらなくなった。
そして、その感情の中で、すごく父に会ってみたくなった。
今までもらっていたプレゼントと手紙のお礼も、やっと素直な気持ちで伝えたくなった。
長年の沈黙を破る勇気が湧いてきて、SNS経由で連絡をしてみた。すると、思いがけずあっさりと繋がることができた。
20年以上も会ってない子どもからの突然の連絡なんて気味が悪いかな、とか、拒絶される可能性もなくはないなと思うと怖かったから、
「連絡がきて嬉しい」と言ってもらえて安心してまた泣いた。
そして今もやりとりが続いていて、過去の母との思い出の話やこれまでのお互いの話をたくさんLINEで話してる。
これからゆっくりと距離を縮めていけたらいきたいなと思う反面、複雑な気持ちもある。
母の心情を考えると、この状況を伝えるべきか、あるいは黙っておくべきなのか、悩んでしまう。
母を傷つけたくないという思いと、実の父との関係を再構築していきたい気持ちの間で揺れている。
今さらになって、父に会いたくなった理由について自分なりに考えてみた。
子どもが生まれて、自分も親になったことで、家族のことを考える機会が増えたのが大きいのかも。
それに、今の生活が落ち着いてきたってのもあると思う。
自分の中に安定感が出てきたから、過去のことと向き合える余裕ができたんだと思う。
もし父から会うことを拒否されても、今なら立ち直れる気がしたからだ。
夫に相談した時、「感動的な再会みたいなのを望んでるなら、傷付くかもしれないよ」って言われたけど、
学生のころや、結婚前は、意識的に実の父への感情を抑え込んでいたんだと思う。
子どもの頃から、母の気持ちを察して、実の父のことを口にするのを避けていた。
でも、心の中では「お母さん、私にも実の父に会う権利があるんじゃないかな」って思っていた。
実の父との関係を築くことは、新しい家族への裏切りのように感じていたのかもしれない。
でも、当時はそれが精一杯のやり方だった。
母や養父を大切に思う気持ちと、実の父への複雑な思いの間で揺れていたんだと思う。
今、自分の子どもが生まれて、新しい家族ができた喜びに満ちている。
この幸せな気持ちが、過去を見つめ直す勇気をくれたのかもしれない。
自分の人生に幸福と安定感があるからこそ、実の父との関係を考える余裕ができたんだと思う。
手放しで良い父親だったとは言えないけど、これまで育ててくれた養父への感謝の気持ちも、より深まった。
自分が親になって初めて、両方の両親の気持ちが少し分かるようになった気がする。
特に母の立場が本当に理解できるようになった。浮気で離婚して、しかも子どもを置いていったという父の行動が、母にどれほどの傷を与えたか。
もし自分がそんな目に遭ったら、立ち直るのにどれだけの時間がかかるだろう。想像するだけで胸が痛む。
だからこそ、実の父と連絡を取り始めたことが、母の気持ちを踏みにじってしまうのではないか不安がある。
また、円満とは言えない養父との関係を崩さないかという不安もある。
でも同時に、20年以上越しに実の父の存在を改めて受け入れ、複雑な感情と向き合えるようになったことは、わたしにとって大切な一歩だとも感じている。
まだ迷いはあるけれど、長年封印していた感情の蓋を開けたことで、何か大切なものを取り戻せた気がする。
これから実の父とどんな関係を築いていけるか分からないけれど、少なくとも自分の中で何かが変わり始めた。
子育ての喜びと、過去との和解の兆し。この二つが重なって、人生の新しいページを開いた感覚がある。
これからの人生で、私の子どもにも、両方の祖父の存在を伝えられたらいいな、そんな穏やかな気持ちでいる。
ただ、それを実現するには、まず母の気持ちを大切にしながら、慎重に進めていく必要があるだろう。
この複雑な感情を、どうやって家族全員に理解してもらえるだろうか。
それでも、今なら冷静に、そして思いやりを持って話し合える気がする。