はてなキーワード: 規制緩和とは
経済理論の文脈だけで見れば、高市氏の「サナエノミクス」と「サッチャリズム」は水と油ほど違います。
「サッチャー=フリードマン(マネタリズム・小さな政府)」という理解に基づけば、積極財政を掲げる高市氏がサッチャーを名乗るのは、経済学的には大きな矛盾を孕んでいます。
そして、最後の「お前はトラスだよ」というツッコミは、現在の金融市場や財政規律を懸念する視点から見ると、非常に鋭く、かつ痛烈な皮肉として成立しています。
なぜそう言えるのか、そしてなぜ高市氏はそれでもサッチャーを自認するのか、その「ズレ」と「トラス氏との類似点」について整理します。
ご指摘の通り、サッチャー首相が信奉したミルトン・フリードマンの理論(マネタリズム)と、高市氏の主張は真逆の要素が強いです。
| 項目 | サッチャリズム (英国 1980s) | サナエノミクス (日本 2020s) |
| 基本理論 | フリードマン(マネタリズム) | ニュー・ケインジアン的 / MMT的要素 |
| 財政スタンス | 緊縮財政(歳出削減・小さな政府) | 積極財政(危機管理投資・国債発行) |
| インフレ対抗 | 金利引き上げ・マネーサプライ抑制 | (現在はデフレ脱却・成長重視のため緩和継続) |
| 政府の役割 | 市場介入を減らす(民営化・規制緩和) | 国家主導で産業育成(セキュリティ・国防) |
つまり、経済政策のベクトル(蛇口を締めるか開けるか)は正反対です。
「トラスだよ」と嘆く理由は、財政規律を無視した積極財政が市場(債券市場・為替)に何をもたらすかという懸念にあると推察します。
インフレが高進している中で、「減税」と「エネルギー補助金」という大規模な財政出動(バラマキ)をぶち上げました。
結果: 市場は「英国の財政は破綻する」「インフレが悪化する」と判断。国債が暴落(金利急騰)、ポンドも暴落し、年金基金が危機に瀕して、わずか49日で退陣しました。
高市氏の「必要なだけ国債を発行して投資する」という姿勢は、市場から見れば「財政規律の放棄(悪い金利上昇)」と受け取られかねません。
市場が「日本円や日本国債は危ない(トラスの時の英国と同じ)」と判断すれば、「サッチャーのような改革」ではなく「トラスのような市場クラッシュ」を引き起こすのではないか?
この点において、「お前はトラスだよ」という指摘は、「経済のリアリティ(市場の反乱)を軽視しているのではないか」という非常に本質的な批判になっています。
高市氏がサッチャーを名乗るのは「政治的キャラクター」としての憧れであり、経済政策の中身(フリードマン理論)は継承していません。
むしろ、財政規律よりも財政出動を優先し、それを成長で賄おうとする姿勢は、市場との対話を失敗した時のリスクも含めて、ご指摘通りリズ・トラス氏の短命政権が直面した構造的リスクに近い側面があります。
「保守の剛腕リーダー」を演じようとして、経済の足元をすくわれる(トラス化する)のではないかという懸念は、今の日本の債務残高や円安基調を考えると、決して杞憂とは言えない鋭い視点です。
30を過ぎてるのになぜか会計年度任用職員をしてる眼鏡をかけた弱者男性が「竹中平蔵が派遣を解禁して日本がダメになった」と主張していた
まず派遣を完全解禁することになった1997年のILOの民間職業仲介事業所条約は1999年6月締結で
その時の総理大臣は小渕恵三、外務大臣は高村正彦、厚生大臣は宮下創平
2004年の時は竹中先生が閣僚(金融担当大臣)だったので内閣先例の派遣法改正の全会一致の原則により賛成したことをもって竹中平蔵が派遣を解禁したと主張してるのかなあって思ったけど
同じ内閣にいてた石破茂前総理とかが派遣を解禁した扱いされてるとは寡聞にして聞かないので
そういうことでは無いんだと思う
なんで弱者男性って人前で嘘をつくの?
https://anond.hatelabo.jp/20250424114813
ご指摘のように、資本主義経済と民主主義政治体制の間には、「相性の良さ」と「相性の悪さ」の両面があるため、複雑な議論が存在します。
一般的に、歴史的・論理的な観点から、資本主義経済は民主主義を実現しやすい(あるいは親和性が高い)とされることが多いです。しかし、現代においては、その両者の相性の悪さが顕在化しているという見方もあります。
多くの学者や論者は、他の経済体制と比較して、「修正された資本主義(混合経済)」、または**「社会民主主義的(福祉国家型)な制度でバランスを取った資本主義」**が、民主主義の実現に最も適していると考えています。
* 個人の自由と権利: 資本主義が保障する私有財産権や経済活動の自由は、民主主義が重視する個人の自由や権利の概念と論理的に通底しています。
* 権力の分散: 自由な市場経済は、国家権力とは独立した経済的な権力(資本)を生み出し、これが国家権力の集中を防ぎ、権力の多角化を促すため、民主主義の基盤となりやすいとされます。
* 中間層の形成: 経済発展を通じて豊かな中間層を形成しやすく、この層が安定した政治的基盤(政治参加、リベラルな価値観)を提供することで、民主主義が定着しやすいとされてきました。
純粋な自由放任資本主義では、ご指摘の通り格差の拡大や貧富の差が生じやすく、これが民主主義を脅かす要因となります。
* 格差是正の必要性: 極端な経済格差は、裕福な層による政治的な影響力の増大(ロビー活動など)や、貧困層の政治的無関心を招き、「一人一票」の原則に基づく民主主義を形骸化させます。
* 社会保障による安定: 社会民主主義や福祉国家の要素を取り入れた混合経済体制は、税制や社会保障制度を通じて格差を是正し、国民の生活基盤を安定させます。これにより、すべての国民が政治に健全に参加できる環境が整い、民主主義の安定性を保つことができるとされます。
⚠️ 現代における「相性の悪さ」の背景
近年、「資本主義と民主主義は相性が悪い」と感じられる背景には、「新自由主義的」な資本主義の行き過ぎがあると指摘されています。
* 格差の拡大: 金融化の進展や規制緩和により、富の偏在が極端に進み、経済力が政治を動かすという現象(ポピュリズムの台頭やエリート層への不信感)が顕著になっています。
* 短期的な利益追求: 資本主義が短期的な利益追求に偏重することで、地球環境問題や持続可能な社会の構築といった、民主的な議論と長期的な視点が必要な問題への対応が遅れることがあります。
したがって、民主主義を実現しやすい経済体制は、純粋な資本主義ではなく、市場の効率性と社会的な公正・平等を国家の介入によってバランス良く両立させる**「修正された資本主義(混合経済)」**であるという見方が有力です。
――この二十数年、日本社会を覆ってきた「改革」という言葉ほど、
コイゼミ政権下における構造改革は、当初「既得権益を打破し、市場の透明性を高める」ことを目的としていた。
しかし、その過程で生まれたのは「市場化による新しい既得権益」であった。
実際にはその空洞の中に「改革を名目にした私企業と政治家の共栄圏」を築いたのである。
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バケナカヘイゾー氏の理論は、自由化と競争を通じた経済活性化を唱えるが、
実際には「官による資金配分のルートを、民間経営者層へ委譲する仕組み」に過ぎない。
制度的には「国家が税金を経由して企業に補助金・契約を投下する新たな官製経済」を形成している。
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2016年1月、長野県軽井沢町で発生したスキーツアーバス事故は、
この時点で、事故の“種”はすでに撒かれていた。
国交省の担当者は「競争原理によって非効率な事業者が淘汰される」と述べたが、
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実際には「民営化の名による公共部門の再配分装置」を構築した。
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そして、政治家や経済学者たちはその犠牲を「避けられない副作用」と呼ぶ。
あるいは、万博に投入される数千億円の公費を前にした自治体の疲弊を、
それでもなお「改革の成果」と言えるのだろうか。
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明治維新以来、この国は「変えること」に道徳的価値を与えてきた。
いつしか“誰のために変えるのか”という問いを失わせた。
そして、いまもその坂は下り続けている。
誰もハンドルを握っていないまま。
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ジェミニと話し合っていたんだけど、東北は、首都圏に近い千葉や埼玉、平地が多い北海道という強力なライバルに囲まれている。
そして、山が多くデバフが多い。どんな施設にしろ東北に作るメリットがない。それなら千葉に作るわとか、それなら北海道に作るわとなってしまう。
これを何とかするアイディアがあるとしたら、大胆な規制緩和を行いカジノを作ることだろうと。
何もないネバダの砂漠がギャンブルを元に娯楽の町に進化したラスベガスとか、お金持ちの遊園地を作ったドバイみたいにやろうと。
そのために土地をカジノ開発業者に売ってカジノやホテルとかを大々的に開発させる。
ひたすら自由にやらせて、お金持ちと大人の遊園地みたいに好き勝手開発させる。
デバフであった険しい山は、ホテルの窓から見える映える風景になれるかもしれない。
これって大国に囲まれた小国が取る理想的な戦略の一つであるタックスヘイブン政策とかと似てる。
千葉や埼玉、北海道という強力なライバルに囲まれている土地なんだから、それと似たような大胆な規制緩和を行って、あとは民間主導で好き勝手開発させるというのがいいんじゃないかと思う。
今の残業時間の月当たりの上限は45時間まで。ただし6か月までであれば、その上限を突き破って80時間まで残業して良いことになっている。
労働時間の規制緩和の話が出てくるけどさ、今でも普通に多いぞ?
月80時間って、ほぼ毎日4時間残業だから仕事が終わるのは22時。そこから帰る時間もあるし、帰ったら飯食って風呂入ったらもう終わり。寝て起きて会社に行ったら、また22時まで残業。
仕事でクソ忙しいとき、この月80時間の残業を3か月続けたから毎日ピリピリしてたな。問い合わせや質問が来るたび、余計な仕事を増やすんじゃねええええええええええってな。
休日出勤もこの残業時間にカウントされるうえに、会社では休日出勤したら代休をとれって方針で、忙しいから代休なんかなかなか取れるわけないから、休日出勤はするだけ損。平日の残業時間だけで80時間達成してたわ。今思えば、土日はしっかり休んでたから、なんとか保ってたかもしれんけど。
そのクソ忙しいときだから、上司側も残業時間の上限は気にしていて、45時間を超えるなら極力限界ギリギリまで働けって言われるし、45時間を超えない月も45時間ギリギリまで働けって言われるしな。
あと残業80時間生活になれると45時間なんか短く感じるけど、感覚がマヒしているだけで、45時間でも普通に長いからな。45時間の月はノー残業デーはしっかり定時に帰るけど、それ以外で割るとだいたい1日当たり残業時間が3時間だからさあ。21時まで残業なんよ。常識的に考えて、しんどいだろ。
どうしても進次郎にしたかったらしいけど、現在進行形で防衛省もやばいぞ
東大の鈴木宣弘教授による発言、全農をアメリカのカーギルが買収するために日米合同委員会で全農を株式会社化しろという命令が出た。
そこから大馬鹿な小泉進次郎らの農協攻撃が始まった。カーギルがほしいのは全農の商社部門である全農グレインであり、これが巨大な商社機能を持っている。
カーギルがそこがほしいだけなので、全農の物流は中国の国営企業に売り飛ばそうとしている。
シャインマスカット栽培権、農水省がNZへ供与検討 小泉氏に山梨県抗議
https://jp.reuters.com/markets/commodities/A3L2SAAGXVLHBMTL6KBUMK4PAY-2025-09-25/
人付き合いが苦手だったし、嫌われやすい人間だった。必死になってやり取りをしてもすぐに自分のコントロールが効かなくなって、馬鹿をやっては嫌われてを繰り返して無力感ばかりが募った。
生きている理由がわからなかったし、誰とも仲良くなれる気がしなかった。誰も味方なんかにはならないだろうと自分でも思ったし、思っている。
だから、それでも生きていていいと言ってくれる何かを探していくうち、一番最初にリベラリズムに触れたのはロールズの『正義論』あたりだったと思う。
『この前提を置けば、誰一人として不利にならないようにルールを作ることができる』『自分がその他者であったら受け入れられない差別は排除しなくてはいけない』
自由、人権、正義という言葉の裏側に積み重ねられた様々な概念に救われた気になって必死になって追いすがって、あちこちで言われるあらゆる何かに反論がちゃんとできるのかどうかを試しては自分がここに居ても殺されないで済むのかをずっと探し続けていた。
吊られたくない、他人に迷惑をかけることしかできないけれどそれでもどうにかどうか自分を殺さないでほしいと説得するがためだけの論理が自分にとってのリベラリズムだった。
当然ながら、それは理論だった。俺も理論が好きだったから、少なくともそれ以上を求めなかった。
でも思ったより世間の『リベラル』はリベラリズムと関係が薄かったし、理論をいくら束ねても人間は思っていたよりも説得されてはくれなかった。レトリックで誤魔化して生きていく方法もあったのかもしれないが、俺にそういう実力はなかった。
何度も何度も繰り返し考えていくうちに逆に、逆説的に、俺を生きていていいと言ってくれるものが何も無いとするならやはり俺はいつかそのうち吊られてしまうし殺されてしまうし苦しむことを望まれて丹念に追い詰められて殴られて痛めつけられてしまうしかないということになるから辛くて怖くてなんとかしてほしいからずっとそう考えて理屈を必死に追い求めているのに、誰も本当は、そんなことをどうでもいいと思っている人達ばかりが『リベラル』の話をしているような気がしてならなくて仕方がない。
ものすごく最近の具体的な話に落とし込むと、例えば労働時間の規制緩和の話。
緩和に吹き上がるのは俺もそうだけど、労働時間が長くなると体力が少ない俺は余計に苦しむから嫌なんだけど、でもその『働き方改革関連法』をやり抜いたのは第2次安倍内閣だってことを解ってるんだろうか? 平成20年ごろからまともな上限規制のなかった労基法を改正したのがそうだってことを解ってるんだろうか? (後で骨抜きにするつもりだったのかもしれないけれど)高プロも使用率が凄まじく低いままで、結局あの改正は素直に見て労働者に有利という点で、(新自由主義的な話はともかく)『リベラル』として決して否定するべき要素ではないし、むしろどうしてあれが過去にできなかったのかというのはあまりに恥ずべき話なんじゃないのかって思うし、それを否定することも(緩和を否定するのであれば当然に)すべきじゃないだろう。
でもするんでしょ。党派性だからって、仲間のためだからって。俺は仲間なんて作れないから自分の理論が間違っていないかだけしか興味がないからずっと自分の言うことが矛盾してないかいつも怖いし、実際いつも矛盾しているのがすぐにわかる。いろんな内容を見ているうちに自分の考えることが感情だけで理屈が立たなくてその感情で殺されるしかないんだからと必死にそれを止めるしかないのにうまくいかなくて今もまともに頭が整理できないままこうやって書いてるんだけど。
わかるんだよ。信頼できないメディアがどっちにも大量に溢れかえって、情報の価値がとんでもなく重たくなったくせにそれを吟味するだけの余裕も余暇も普通の人達にはない(それは生活のための必然であって罪なんかじゃない)んだから、そうなれば人は信じたい方を信じるっていう積極的相対主義みたいな有り様になってるってことだからさ。
でもだとしたらあまりにも俺が救われない。俺のことしか興味ないもの。俺は吊られるしかないと思うと怖くてなんとかならないかって必死に理屈を探しているのにそれでもどうにもならないっていう結末ばっかりが目に入るし眼の前でそれを振るおうとする人たちばっかりで俺は怖くて何も言えない。