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2025-06-07

分割して統治せよ

「**Divide and Conquer(分割して統治せよ)**」は、政治軍事における古典的戦略であり、「被支配者を分断することで支配やすくする」という発想に基づくものです。これはローマ帝国近代植民地支配でも多用され、特にヨーロッパ列強による中東南アジア統治に深く関係しています

## 🔹 概念:Divide and Conquer(分割統治)とは

目的**:

支配層の間に**対立・不信感・対抗意識**を植え付け、彼らが団結して支配者に反抗するのを防ぐ。

特定の少数派を優遇して、彼らを支配代理人に仕立て上げることで、他の多数派牽制させる。

方法**:

1. 民族宗教言語部族などの違いを利用して対立を煽る。

2. 一部の集団特権を与え、別の集団を抑圧することで不満を分散させる。

3. 敵対関係固定化させ、植民地支配が終わった後も分裂状態が続くように仕向ける。

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## 🇸🇾 **シリアにおける「少数派支配」の例(フランス委任統治)**

統治国はイギリスではなく**フランス**だが、**イギリス分割統治手法と非常に類似しており、比較に値する**。

### 背景:

第一次世界大戦後、オスマン帝国崩壊に伴い、シリアは**フランス委任統治領**(1920〜1946)となった。

フランスは「アラブ民族主義」や独立運動の芽を摘むため、**民族宗派対立を巧妙に利用**。

### 戦術

フランスは\*\*アラウィ派人口10%程度の少数派でシーア派の一派)\*\*を軍や警察官僚の中枢に登用。

アラウィ派を他のスンニ派多数派アラブ人に対する**統治代理人**として利用した。

山岳地帯居住していたアラウィ派伝統的に社会底辺だったが、フランス意図的に彼らを登用し、スンニ派との対立構造を作った。

### 結果:

アラウィ派軍事的影響力が大きくなり、のちに**アサド政権**(バッシャール・アル=アサドアラウィ派)が成立する基盤となった。

スンニ派多数が長期にわたり不満を抱き、内戦へとつながる**宗派対立の温床**が形成された。

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## 🇮🇳 **インドパキスタン分離独立1947年)の事例**

### 背景:

イギリス19世紀からインド全域を植民地支配

支配を維持するため、**ヒンドゥー教徒ムスリムの間に対立を煽った**。

「少数派を守る」と称し、ムスリム優遇する一方で、ヒンドゥー社会の主流派との間に不信感を醸成。

### 分割統治手法

イギリスは**宗教を基軸にした選挙制度**を導入し、ヒンドゥー教徒ムスリムを別々の「選挙区」に分けた(1909年のモーリ・ミント改革)。

**ムスリムリーグ**と\*\*インド国民会議(ヒンドゥー系が主導)\*\*を競わせることで、両者の政治統一妨害

インド独立直前には、「分裂が避けられない」として、インドパキスタンの\*\*「急ごしらえの分離」\*\*を強行。

### 結果:

1947年独立に伴い、**パンジャーブ地方ベンガル地方宗教によって分断**。

約1,500万人が移動し、**暴動虐殺強姦・略奪が続出(死者推定100万人以上)**。

カシミール地方帰属問題意図的曖昧に残したことで、**以後も3度の印パ戦争現在に続く紛争火種**となっている。

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## 🔍 補足:イギリスの「分割統治」の典型

地域方法 結果・影響
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インド宗教ヒンドゥー vs ムスリム)で分断 パキスタン分離・カシミール紛争
マレーシア中国系マレー系インド系の対立を利用 民族対立根深分断社会
アフリカ諸国人為的国境部族分断(例:ナイジェリアハウサ vs イボ) 民族紛争内戦の勃発
パレスチナユダヤ人アラブ人の共存を妨げつつ両者を武装化バランス操作イスラエル建国アラブイスラエル紛争

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## ✅ 結論

イギリスや他の帝国主義国は、自国支配を容易にするため、現地の民族宗教部族対立を**意図的に利用・強化**する「分割して統治せよ」の戦略を多用しました。

シリアでは少数派を権力に据え、宗派対立固定化

インドでは宗教分断をあおり独立後の大規模な紛争火種を残した。

これらの政策の影響は、植民地独立した後も長期にわたって続いており、現在中東南アジア不安定さの一因となっています

2018-02-23

南アジア中央アジア諸国歴史的英雄

anond:20180221160703

インドシヴァージー(1627-1680)ラーター王国建国者ヒンドゥー教徒を糾合し、周囲の各イスラム王朝と対決した。特にムガル帝国に対しては、大々的にゲリラ戦を展開して、当時のムガル皇帝アウラングゼーブを苦しめた。敬虔ヒンドゥー教徒であり、イスラム勢力と戦って独立を勝ちとったために、ヒンドゥー教国のインドでの人気が高い。
パキスタンアウラングゼーブ(1618-1707)ムガル帝国皇帝兄弟同士の後継争いを制し、父親幽閉して即位した。数十年にわたって帝国を栄えさせたが、晩年は長引くヒンドゥー勢力との戦いで財政悪化国土の荒廃を招き、己の統治の失敗を嘆きながら亡くなった。厳格なムスリムとして、ヒンドゥー教徒を激しく弾圧したため、イスラム教であるパキスタンでの人気が高い。
ネパールアマル・シンハ・タパ(1751-1816)ゴルカ朝の名将。ゴルカ朝がネパール統一したあと、アマル・シンハはさらに西へ進軍して領土を拡大した。その後、グル戦争において主力を率いて奮戦するもイギリス軍の前に敗れ去り、失意の彼は聖地サインクンドへ行きそこで亡くなった。グル戦争における彼らの戦いぶりが今も恐れられるグル傭兵誕生につながるのだが、それはまた別のお話。え、「ネパール釈迦だろ」? うん、そうね。
バングラデシュカン・ジャハン・アリもとはインドトゥグルク朝貴族で、ティムールトゥグルク朝を破ったあと、ベンガル地方にやってきて森林を切り開き、いくつかの街を建設して、その地を支配した。イスラム聖者ともされて、彼が建設したモスク群は世界遺産登録されている。
スリランカドゥッタガーマニー(前161-137)タミル人を打ち破り、初めてセイロン島を統一したシンハラ人の伝説的な王。実在はしたらしい。現在でも、タミル人との民族問題となると、シンハラ人がドゥッタガーマニーを持ち出すらしい。
ブータンガワン・ナムゲル(1594-1651)ブータンの高僧にして初代シャブドゥン。チベット仏教ドゥク派の後継争いに敗れてブータンへ逃れてきたあと、たちまち国内統一すると、各地に城砦建設し、たびたび侵入してくるチベット軍やモンゴル軍をことごとく打ち破った。
モルディブハメド・タクルファーヌ(?-1585)モルディブ植民地とし、キリスト教への改宗を迫るポルトガルから独立のため、島から島へと移ってゲリラ戦を展開し、八年の戦いの末にポルトガル人追放し、ウティーム朝を建てた。
カザフスタンアブライ・ハン(1711-1781)「大いなる災厄」と呼ばれたジュンガルの侵攻のなかで勇敢に戦ったため「英雄」と呼ばれ、やがて大きく三つに分かれていたカザフ部族連合の上に立ち、清とロシアの双方から「ハン」と認められるようになった。彼の死後、カザフロシアに対抗できなくなり、その統治に組み込まれていく。
ウズベキスタンティムール(1336-1405)モンゴル帝国の後継を名乗り、中央アジア大帝国を作り上げた世界史上屈指の軍事的天才オスマン帝国との戦争でその皇帝捕虜にしたアンカラの戦いは特に名高い。明との決戦へと向かう途上で死去した。
タジキスタンスマーイール・サーマーニー(?-907)サーマーン朝最盛期の君主。サーマーン朝はタジク人最後独立王朝でもある。サーマーン朝が滅びた後、この地域トルコ系、ウズベク系、そしてロシアの影響下に置かれ続けることになる。タジキスタン通貨ソモニ」はサーマーニーに由来する。
トルクメニスタンアルプ・アルスラーン(1029-1072)セルジューク朝スルタン。名高き宰相ニザームルムルクを重用して国力を高め、東ローマ帝国と戦ってその皇帝捕虜とした。セルジューク朝は「トゥルクマーン」という遊牧民建国したのだが、トルクメン人と「トゥルクマーン」の関係は明らかになっていないらしい。にもかかわらず、トゥルクマーンが建国したセルジューク朝スルタンや、伝説上のトゥルクマーンの祖とされるオグズ・ハンを、トルクメニスタン英雄視しているのは、そこに民族ルーツを求めているかなのだろうか。
キルギスマナス(?-?)世界最長と言われるキルギス英雄叙事詩に謳われる王。オイラト人の支配下にあったキルギスに生まれオイラト人やキタイ人と戦って勝利し、キルギスの王となり、北京への大遠征成功させた帰りに、敵の斧を頭に受けて死んだという。実在たかはよくわからない。実在が確実なクルマンジャン・ダトカのほうがいいかもしれない。
アフガニスタンアフマド・シャー・マスード(1953-2001)アフガンに侵攻したソ連軍を幾度も撃退して「パンシール獅子」と呼ばれた。タリバン政権に対抗する北部同盟の中心人物として活躍したが、9.11の二日前に暗殺された。あんまり最近の人は入れないつもりだったけど他にいないのでは。
 
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