はてなキーワード: 造り酒屋とは
見に行ったら全く事実と違った。コイツはなんでこんなことを書くんだろう?
というのはよくあるパターンだが、この場合は違うだろう。「女にだけタメ口で」云々と客観的事実かのように書いているが、実際には「そういう言いがかりをつけてる(そしてあっさり否定されてる)奴がいる」というだけ。他の「炎上」ポイントも同工であり、明らかにわざとやっている。X上の一方的な言い分を客観的事実として機械的に抜き書きしてるだけ。
推測だが、この増田自身がXでヨッピー氏に絡んで思うような反応を得られなかった有象無象の一人なのか、ヨッピー氏が平身低頭しないことが気に食わない(が、直接絡む度胸はない)ので腹癒せに書いてるかというあたりだろう。
こういう「1対多」のやりとりってどうやってもまともに機能せず、ヨッピーも適切なスタイルを見いだせてるとは到底言い難い。
全く事実ではないことが感動美談みたいに人気を集めてたので「実務者として知ってるのだがそんな事実はまったくないですよ」と水をさしたところ「人非人を叱りたい人」の行列ができてしまった。
たとえるなら、造り酒屋の杉玉は戦争犠牲者の鎮魂のためなんだよ!みたいな与太話がバズってて「いやうち酒蔵だけどアレは今年も新酒仕込みましたという意味の一種の縁起モノで…」と言ったら吊し上げ食らった感じ。
「なぜ抵抗するんだ!平身低頭して謝罪しろ!そうやって言い返すのが必死になっている証拠だ!」と言われ、面倒くさくなってやめたら「逃げた!」と言われる。
「1対多の平場の議論」がハードウェア的に可能になったかに見えても、実際には全く可能ではない。アホを排除する足切りや既出の主張を纏めるなどの制度・ルールがなければ文字通り話にならない。
無駄に言い添えておくと「自分もこんな感じで」とは「1対多」という要素についてであり、自分の場合同様にヨッピーの言い分は完璧に正しいとかいう話はしていない。
次は岩泉について。
たぶん岩泉が一番面白いのは秋、それもこれから1ヶ月くらいのあたり。これは、岩泉が松茸の産地ということにある。夕食付きの宿はどちらも1泊2食1万円くらいのプランで松茸付きの夕食を出しているし、道の駅には大きな国産(岩泉産)松茸が大きさの割には手頃な価格で並んだりする。それに紅葉の季節でもあるからね。久慈に行くときに九戸ルートと葛巻ルートを使った場合は久慈渓流という紅葉の名所を通過するけれど、それに負けない紅葉があちこちで見られるのが岩泉。
何と言っても岩泉の一番の名所は龍泉洞。岩泉に来て龍泉洞を見ないで帰るのはもったいないくらいに必見の場所。地底湖が非常に透明度が高くて神秘的。ここの水は実際に入口近辺に湧き出ていて、空のペットボトルを持ち込めば持って帰ることもできる。何せ岩泉町市街地の人たちはこの水の風呂に入ってるからね(若干誇張あり)。龍泉洞の水はパッケージで売られてもいるので持ち込みで持って帰ればコスパの良い気分にもひたれる。で、自分のおすすめは実はこの龍泉洞の向かいにある龍泉新洞。龍泉洞見てれば実質タダで見られるにも関わらず、展示がショボいのもあって誰も見に来ないの。そのショボさという事項を楽しめる(自分のような)人には一周回ってむしろおすすめの科学館。滞在予定を15分だけ延ばしてぜひ足を運んで欲しい。龍泉洞に向かう道をずっと北に向かうと安家洞って鍾乳洞もある。こちらはおそらく日本最大の鍾乳洞と言われていて、入口部分の500mだけが一般公開されている。こちらは龍泉洞のような気軽な気分では入れないので、ガイド付きツアーを予約して楽しめる人向け。
龍泉洞は宇霊羅山という山の中にあるんだけど、その山の南側が岩泉の中心市街地。もちろんそんなに大きくはないけれど、商店街(うれいら商店街)は意外と頑張っている。手作りの陶器とか小物とかの店が数軒あったり。お土産的には地酒の龍泉八重桜の造り酒屋と、菓子店の志たあめやがおすすめ。後者はこのあいだ書いたかりんとうもあるけれど、少し前から「たぬきケーキ」が注目されていたりする。あ、岩泉で秋をおすすめする理由がここにもう1つあった。中松屋という菓子店が秋から冬にかけて栗だけで作ったお菓子栗しぼりを作っていて、これが甘さ控えめでなんとも美味しい。まあこの店は盛岡駅にも出店しているけどね。同じような盛岡でも買える岩泉の特産品に大谷翔平がべた褒めして注目された岩泉ヨーグルトもある。これは買おうと思えば東京近辺でも買えるか。
岩泉町は非常に大きい町で、正直本州一大きい町である。今回は久慈への岩泉ルートとなる国道455線に絞って紹介すると、盛岡に近い側には、廃校をリノベして作った道の駅三田貝分校、海に近い側には道の駅いわいずみと2つの道の駅で岩泉が挟まれている気分になる。道の駅は後者のほうが大きくて、さらに後者はその裏にリゾート施設CYMBALSも出来ていて観光には便利だったりもする。ただそれもあってか、道の駅いわいずみ近辺が2016年8月末に観測史上初の台風上陸の結果壊滅的な被害を受けた場所であることはたぶん行ってもわからないかもしれない。とりあえず「ハイキュー!!」のタペストリーでも見てもらえればじゅうぶんかと。
これ以外のものとしては岩泉炭鉱ホルモンという新し目の名物がある。大まかな場所としては三田貝分校とうれいら商店街の間にある1001小川屋が一番元祖に近い店で、まあ町内あちこちで展開しているので食べるきっかけがあるかもしれない。
※当初岩泉は宮古の記述に含めて書こうと思ってたんだが、宮古と岩泉をいっぺんに回ろうとする人あんまりいないのね。これは宮古から岩泉が意外と遠いことにある。それもあるのでエントリを分けた。なのでこのエントリは短め。
名前と、学歴ないのに偉大な植物学者になった人って程度しか知らなかったので、手始めにwikipediaでどんな人なのか調べてみたら、なんか凄い。
明治維新の直前のころに土佐(高知)の金持ちの造り酒屋の跡取りに生まれて、義務教育がまだ確立してないのをいいことに小学校もさっさと中退して、好きな植物採集三昧の生活してたってのが凄い。
で、そのうち東京にいって帝大にも押しかけて出入りするようになるんだけど、植物の研究に金つぎこんで生家がどんどん没落していったってのが凄い。
で、学歴ないのに実績認められて帝大の講師になったてのも凄い。
で当初は講師の薄給で家族養わなこゃいけないのに、子供か13人、その内7人(3男4女)が成長したってのも凄い。
当時としても多いよね?
離婚とか妾がいたって話wikipediaには書いてないから、夫婦で作ったのかな?
で、江戸時代生まれなのに94歳まで生きたってのが凄い。今でこそ90代の年寄はそんなに珍しくないが。
で、トータル結局、実家が太くないと好きな分野で研究を全うする人生なんて送れないんだろうなと、まざまざと感じさせて凄い。
まあ、朝ドラはなにしろ「らんまん」ってタイトルなくらいで、大好きな植物を追いかけて天真爛漫に生きたステキな人生を展開して朝から爽やかな風をお届けするんだろうけど。
まあフィクションだし。
たとえば今日、お茶をキッチンマットにこぼしてしまったときもそうだった。小さなものなので普通に洗濯機で洗えるのだが、車に乗ってコインランドリーに行くと言って朝の6時半から出かけていった。
最近こういうことが続いている。高野豆腐を買い忘れたと言って、別にそれはなくても全く問題ないものだったのだが、もうすぐ夕食だというのに買いに行ってしまったり。遠出も多く、醤油を買いに片道一時間以上かけて一人で造り酒屋さんまで行ったり
家にいたくないとか、増田と一緒にいたくないのかな?とも思ったがやけに絡んできたり甘えてくるし、不倫しているか、借金でもしてるのか…?にしては短時間の外出が多いし、醤油買いに行ったときは何か別の用事だったのかも?わからない
山路薫という官能小説作家がいる。主に1990年代に活動していた人でここ10年かもっと、作品を発表していないと思う。北海道出身だが、少なくとも活動後期は京都に居た。中でも京都を舞台にした作品が印象的だった。ヒロインは京言葉、あるいは丁寧な言葉を話す。
宇治薫という官能小説作家がいる。2007年にデビューした人で、3作ほど書いてそれっきりになっている。京都在住。ヒロインは京言葉を話す。
さぁ、と言うことで二人は同一人物なのか?と結構頭を巡らせた。結論は出ないが、違うのではないかという方に傾いている。山路薫は「造り酒屋」とか「陶芸家」といった古風な家に嫁いでくる女、嫁いできた女という主題が目を引いた(違う作風もある)。そういった環境を比較的落ち着いた筆致で書くことが出来た人だと思う。ようするに舞台設定がうまく、描き上げた舞台にヒロインを据えてみせた。使う言葉も、長年文筆の世界に居たことをうかがわせる。一方で宇治薫が描く小説の舞台は狭い。3作中2作は小さな家庭の中の話に終始する。また、読んだ範囲で山路薫は女性の胸の触り心地をきちんと書いていたが、宇治薫はその点がなおざりになっている印象が強い。
はて、悩むほどの事なのか?
宇治薫というペンネームは明らかに源氏物語宇治十帖の登場人物、薫からとっている。一方の山路薫だが、源氏物語の二次創作『山路の露』を思わせる。この作品も主人公は薫である。
偶然なのかなぁ。怪しいなぁ。
iPhoneにできてzero-3にできなかったもの、それはiTunesとAppStoreだと思う
iTunesとiPodは音楽の聴き方、買い方を一変させたが、これはAppleの資金力、ブランド力がなければできなかったろう
SONYならできたと思うけど、映画会社とレコードレーベルを買収して守旧派に回ってしまった
いまやSONYを支えるのは銀行と保険(元が造り酒屋(金貸し)だから、祖業に帰ったという見方もできるけど)
AppStoreはアプリケーション開発のエコシステムをApple自身が管理するという夢のような世界で、開発者を引き付けるブランド力もマネジメントもさすがAppleといったところ
Googleはすぐに追随したけど、Microsoftは四苦八苦してWindows10でようやく機能するようになった
昔は分厚いマニュアル入りのソフトウェアパッケージのでかい箱を抱えて秋葉から電車に乗ってたなんて、いまの若い人は信じないだろうな
小柴昌俊 ── 東京大 ── 愛知県生まれ神奈川県・東京都育ち(1歳から小4まで東京/中学から神奈川/高校東京)
利根川進 ── 京都大 ── 愛知県生まれ富山県・東京都育ち(小学校富山/中学から東京)
白川英樹 ── 東工大 ── 東京都生まれ岐阜県育ち(小3から岐阜)
朝永振一郎 ─ 京都大 ── 東京都生まれ京都府育ち(小学校から京都)
下村脩 ─── 長崎大 ── 京都府生まれ長崎県育ち(幼少期に長崎/中学でまた長崎)
根岸英一 ── 東京大 ── 満州国生まれ神奈川県育ち(小学校から神奈川)
東京大7
京都大5
名古屋大2
■生まれ
大阪府2
■育ち
京都府3
http://kamomenome.exblog.jp/14156659/(元ソースから間違いを修正)
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湯川秀樹(出生地:東京都)両親は和歌山県 ※中間子論は計算間違いであった
江崎玲於奈(出生地:大阪府)親は大阪府、三重県 ※助手のアイデアのパクリ
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下村脩(京都)両親は長崎県 父が福知山連隊所属のため京都生まれ
根岸英一(満州)親は東京都、本籍は日本橋、目黒の根岸家に戦災で親戚が大勢つめかけたため神奈川移住
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わたしは1926(大正15)年9月19日に、愛知県の豊橋で生まれた。軍人だった父の
小柴俊男がそのころ豊橋の陸軍第18連隊に所属していたからだ。
母親は、はやといって、千葉の木更津の農家の末娘だった。木更津高等女学校を出て、
父と結婚した。どういうなれそめで知り合ったのかは知らないが、父も千葉の館山の
父は農家の三男に生まれて、中学に通うのも親せきの造り酒屋で小僧代わりに働きながら
学費をだしてもらった。さらに進学する学資はないから、学資不要の陸軍学校へ進んだらしい。
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祖父の塩川三四郎は1873年生まれ、政治家を志して長野県から上京し、東京帝国大学法学部を
卒業した。そして、渡辺千秋(長野県出身)の次女・千夏と結婚した。
「野依」は母方の血筋で、福岡県の東部、築上郡吉冨町に行き着く。「立野屋」の屋号をもつ
庄屋で酒づくりをなりわいとする大地主であった。
(野依良治『私の履歴書 事実は真実の敵なり』日本経済新聞社)
http://kingendaikeizu.net/gakusya/noyori.htm
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E6%9D%91%E8%84%A9
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朝永振一郎の父三十郎は、東京で真宗大学在職中に旧川越藩士大枝美福の長女ひでと結婚している。
朝永振一郎「なぜ京都にいながら東京弁使っているかっていいますと、おふくろが埼玉県生まれで、
おやじは長崎生まれで、中学の頃東京に出て、ずうっと東京にいた。そういうわけで、家庭では
東京弁を使っておりました」(『回想の朝永振一郎』みすず書房)
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私の父は仏壇屋の家業を継ぐのを拒み、文学者になろうと家をとびだした。東京で私が生まれた。
母は福島県の出身だった。しかし私が2歳のときあの大震災に遭い、一家はやむなく福井に戻った。
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利根川勉「私の親父は守三郎といいまして、福山藩(広島県)の貧乏侍の息子でした。ところが
同じ貧乏侍の利根川という叔父に子供がなくて、岡本という家から養子に行きました。
家内の父方は弘前藩士(青森県)の家系でした」(利根川進受賞時に父・勉氏へのインタビュー)
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北大理学部を受験した時、母は「落ちてくれ」と本気で祈っていた、と譲さんは明かす。
恩師は「章君を大学に進ませて」と勧めたが、家計に余裕がない。町で理髪店を営んだ
山形県出身の父の定輔さんは1946年に51歳で死去。長男の鈴木さんは16歳だった。
(「タウンガイド札幌2010年10月11日)(母ナエも山形県出身)
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