はてなキーワード: どんでん返しとは
終幕のどんでん返しにしろ、考えてみりゃ叔父一味が来てるって事は死んでる訳なんでそもそも延々とやってた復讐云々の話は無意味だし、生き返ったら毒ワイン誤飲して臣下諸共全滅してました!って馬鹿にしてんのかって話だし。
あんだけ民衆にも嫌われてたんだからそこは昏睡してる間に民衆の反乱起きて全員処刑されてたとか、導入前の下りでスカーレットも叔父王一味も共倒れで全滅させとくとかやり方はあったと思うし。
そもそも、異世界で坊主頭の復讐云々やらの説教大会やらゆるふわ王女の意識改革やりたいだけで話が成り立って無いんだよな。
ハムレットを知ってる云々の通気取りって、こんなハムレット馬鹿にした話を絶賛してる時点で浅はかと言うか。
果てしなきスカーレット
○ご飯
朝:カシューナッツ。昼:おにぎり。お味噌汁。夜:バナナ。大根、人参、キノコのスープ。キュウリ。目玉焼き。焼きうどん。ギョニソ。間食:羊羹。柿の種。
○調子
むきゅーはややー。お仕事はがんばりー。
○ポケットモンスターブラック(NPCからもらうポケモンの旅)
バトル面ではプロトーガがアバゴーラに進化して、岩タイプで飛行をサクサク倒せて快適だった。
シナリオ面ではタワーオブヘブンの鐘を鳴らすイベントめちゃくちゃ好きなんだ。
大昔の初見プレイ時はなんかよくわからないなあと思ってたけど、こういう余韻を楽しみ情緒に伝えかけるお話が大好きになってきた。
具体的にここがこうあそこがああとか無いんだけど、ポケモンが好きだから好きなんだ。
どんでん返しして第3章開幕。
流石にビックリした。こういう無慈悲な展開をいつもの流れから躊躇なくするタイプの作者だと知っていたけど驚き。
いつもの面々に不可逆な変化が起こるのは連載漫画を週刊で追うからこその重さで面白かった。
・オテル
元カレの話。
・魔男
キャラクタの格的にデスカラスならまあ大丈夫でしょ感が強いので安心して読めるのも好きな展開だ。
・ルリドラゴン
手を変え品を変えつつも根本は同じ話をしているからこそ、女の子同士のエピソードが男の子同士のエピソードになっても嫌味なく感じられた。
たとえば、『猿の惑星』
このネタバレは有名だ
たとえば『ポートピア連続殺人事件』
これも
それは昨今のどんでん返しやネタバレにより衝撃を増す作品が好まれる現在は膨大な数存在しているはずだ
ただしサブスクなどの鑑賞方法の変化により前よりは格段にネタバレ禁止の規制が強くなってきている風潮もある
またSNSによりネタバレにナーバスな反応をみせる方が可視化できるようになったために余計に規制の風潮が強くなった
だが、それにより消費スピードが加速度的に速くなり、ネタバレ禁止やどんでん返しんの価値が低下し、相対的にネタバレのネタやどんでん返しの仕掛けが陳腐化するという負のスパイラルに陥っている
ネタバレやどんでん返しを見た瞬間に「このパターンか」と既視感の嵐に見舞われる
よってそれを防ぐために
ネタバレを解禁するまでの期間を設けたらどうだろうという提案だ
衝撃的なオチであり、それを知ったら面白さが半減とまではいかないが幾分下がってしまう
でもそのオチのおかげで擦られが発生し、類型パターンが発展され、それを踏まえた新パターンも生まれる
かように現在の作品もネタバレをすることで”次”へとつながるなにかが発生するのではないかと思われる
最後に共有のネタバレがある作品というと『セブン』や『シックスセンス』あたりだろうか
そろそろ新しいネタバレ共有を解禁したらどうだろう
ただし配信即ネタバレというのはあまりに酷なので期間設定を設ける
たとえば1年とか
そういうことで1年経ってネタバレ込みで話ができその作品の新たな魅力を語ることができるしネタバレ神経質派に無用の配慮をすることもなくなる
(後者がけっこう大きい)
どうだろうか?
歌野晶午著の長編推理恋愛小説(2003年刊行、文藝春秋)。第57回日本推理作家協会賞、第4回本格ミステリ大賞を受賞するなど、数々のミステリ賞を総なめにした名作。表向きは中年の元探偵と女性の恋愛物語に見えるが、叙述トリック(読者の誤認を誘う描写手法)を駆使したどんでん返しが最大の見どころ。物語は過去と現在を交錯させ、保険金詐欺や不正受給の犯罪を軸に展開。タイトル自体がトリックのヒントで、「葉桜の季節」(桜の散った時期=人生の晩秋、つまり老境)を示唆し、登場人物の年齢を若く誤認させる仕掛けが秀逸です。
#### 主要登場人物
- **久高隆一郎**: 愛子の祖父。さくら(節子)が蓬莱倶楽部の指示で殺害に関与した被害者。
- **世羅元輝・田辺賢太・小暮明里**: 将虎の過去の探偵仕事(ヤクザの覚醒剤密売事件)に関わる人物。世羅の殺害事件がフラッシュバックで描かれる。
- **蓬莱倶楽部**: 悪徳霊感商法集団。高額な「霊水」(ただの水)を売りつけ、借金漬けにした被害者を保険金詐欺に利用。
物語は非線形に進行し、将虎の視点を中心に過去(50年前のヤクザ事件、2年前のパソコン教室、1年前の安藤自殺)と現在が交錯。読者は将虎やさくらを30-40代の若者と誤認するよう誘導される(例: 性描写、トレーニングシーン、デジタル機器の扱い方)。
将虎はフィットネスクラブで汗を流す日常を送る。後輩の清から、愛子の相談を持ちかけられる。愛子は祖父・隆一郎の轢き逃げ事故が、蓬莱倶楽部の保険金詐欺によるものだと疑い、将虎に調査を依頼。将虎は元探偵の見栄を張り、引き受ける。
帰り道、地下鉄駅で自殺を図るさくらを助け、連絡先を交換。二人はデートを重ね、急速に惹かれ合う。将虎はさくらに過去の探偵エピソード(ヤクザの覚醒剤密売事件で世羅を殺した小暮の自殺)を語り、さくらは将虎の優しさに心を開く。さくらは実は蓬莱倶楽部の被害者で、借金返済のため倶楽部の指示に従っていた。
2. **中盤: 調査の深化とフラッシュバック(過去と現在交錯)**
- **蓬莱倶楽部調査**: 将虎と清は埼玉の本庄にある倶楽部の無料体験会に潜入(妹の綾乃とその孫・美波が囮)。事務所から電話番号を入手し、詐欺の実態を暴く。倶楽部は高額商品を売りつけ、借金被害者を「偽装結婚」や「保険金殺人」に利用。隆一郎の事故は、さくら(節子)が倶楽部の指示で轢き逃げしたものだった。
- **安藤の過去(1-2年前)**: 将虎はパソコン教室で安藤と知り合い、娘・千絵の写真を撮る依頼を受ける。安藤は自殺し、将虎は遺体を山に埋め、安藤の年金・保険金を不正受給。毎月、千絵に匿名送金している。将虎自身も過去に離婚し、娘を失ったトラウマを抱える。
- **さくらの正体(フラッシュバック)**: さくらは本名・古屋節子。買い物癖で借金を作り、蓬莱倶楽部に嵌められる。倶楽部の指示で隆一郎を殺害(保険金目的)。次なるターゲットとして、将虎の持つ「安藤の保険証」を狙うが、将虎を安藤本人と誤認(将虎は安藤の身分証を使っていたため)。さくらは将虎に近づき、偽装結婚を画策。
さくらは将虎の保険証を盗み、偽装結婚を強行。自分の生命保険の受取人を「さくら」に設定し、将虎の自殺を誘う(保険金詐取)。しかし、将虎はさくらの本性を察知。将虎の生命保険の受取人が実は「さくら」になっている事実が発覚(将虎がさくらを本気で愛したため)。
蓬莱倶楽部のボスが逮捕され、さくらの過去の犯罪(複数回の不正受給、隆一郎殺害)が明るみに出る。将虎は安藤の身分を明かし、さくらに「本当の自分」を告白。さくらは将虎を愛するあまり、詐欺計画を断念。
これらのトリックが連動し、再読を促す構造。賛否両論あるが、「綺麗に騙された」と絶賛される理由です。
#### 結末
さくらは逮捕を免れ(将虎の証言で情状酌量)、将虎と本物の恋に落ちる。将虎は安藤の身分を清算し、千絵に真相を告白(彼女は将虎の送金を感謝)。愛子と清は結ばれ、蓬莱倶楽部は壊滅。
最終シーンは、葉桜の季節。将虎とさくらは老いた体で寄り添い、「君を想うということ」を実感。感動的なハッピーエンドだが、犯罪の代償を背負った切ない余韻が残る。恋愛とミステリの融合が、読者の心を掴んで離さない。
ならば遠回しな手続きをやめて最初から処罰感情に白紙委任すべきだ。
判決は証拠や法律ではなく、どれだけ多くの人間が「こいつムカつく」と感じたかで決まる。
量刑は怒りの炎の温度で測る。怒りが沸騰すれば無期懲役、怒りが爆発すれば社会的死刑。
冷静な議論は不要だし邪魔。冷却期間なんて設けたら正義がぬるくなる。
今の裁判も実は似たようなものだ。厳罰を求める遺族の声、世間の厳しい目、テレビやSNSの煽り。その全てが量刑に反映されている。
怒れる群衆の胃袋に入れば、それは事実に変わる。冤罪?それは物語のどんでん返しとして消費され、飽きられたら忘れられる。
怒りのビッグデータをもとに、アルゴリズムが一瞬で判決を下す。もはや正義はクラウドサービスだ。
こうなれば司法は遅すぎるという不満も消える。
だいぶ亀だけど、もう一度読んだわ
解釈が正しい正しくないってことじゃなく、エンディングとして何ら面白くもないんだよ
圧倒的な迫力の暴力にまみれた治安の悪さの中に光る驚異的な頭脳戦という作品の持ち味が、とってつけたようなエピローグでぼかされて平凡未満に落ちた
君らが何をわめこうとこれが素晴らしいラストなんて一切思わないよ
というか君ら自身が一切面白いと主張できていない時点で、あーその程度なんだな、とわかるだろ?
そちらは正しい解釈をしているつもりだろうが、それが作品の良さに1mmだって響かないんだわ
そっかその解釈ならこの物語は素晴らしいエンディングだったんだな、なんて思えたら良かったんだろうけど、残念だが悪い意味で再評価してる
作品の評価はファンを見ればわかるというのは本当で、その程度のファンしかつかない作品なんだってことだ
お前らが何を思うっていようが俺が何を考えようが実際どうでもよい
けど、作品をつまらないとした感想に対して解釈だといって相手の人格だけにフォーカスし肝心の作品の良し悪しを触れないのは、どう考えても馬鹿げてるだろ
私の好きな人たちがオススメしてくれたので、気になっていた映画ロボット・ドリームズを見たのですが、私個人の好みの話をするとかなり苦手な作品でした。とはいえ、とても考えさせられる物語でもありました。
作品に関して思うところがかなりあるので、ネタバレ全開で思ったこと書かせてください。全て書くと取り留めのない文章になってしまうので、
この3点を中心に焦点を当てて書いていきたいと思います。
これがもうね、見ていてつらい。本当に。具体的には、
最初はあまり深く考えずに見ていたため、ロボットは動物たちには決して持ち上げられないくらいの重量があるのかと思っていたのですが、よく考えたら物語冒頭の配達員や、ジャンクヤードのワニがロボットを軽々運んでいるところを見ると、決してどうやっても運べない重量という訳ではないんですよね。あの世界では種の違いによるものなのかもしれませんが、ドッグは動物たちの中でも身体的に優れているとは言えなかったため、友人(あるいは恋人)の危機に際して最善の方法をとることができなかった。
錠前を壊す以外に少なくとも2つの侵入方法があったことが作中でわざわざ明示されています。それを教えてくれたのは、海から漂着した海兵?たちと、下水道をこじ開けて侵入したスカベンジャーです。なので、「この物語はあくまでコミック調のフィクションだから、錠前を壊して侵入する以外ロボットの元へ行く方法はなかったんだよ~」となどという意見は悲しいですが通用しません。一度捕まった後も、ロボットの元へ行く方法は複数あった。けれど、ドッグはそれをしなかった、またはそれらの方法を想像、あるいは実行できなかった。
まあ、これがもし普通の映画だったら、ドッグは諦める前に「必ず君を助けにくるから!」とかロボットに声をかけるんでしょうが、この辺りはセリフのない映画の面白さではありますね。「6月1日、ロボット救出!」はあくまで自分が掲げた目標でしかなく、ロボットと交わした約束ではなかったわけです。
舞台はおそらく80年代のマンハッタン。ダックの引越し先であるヨーロッパへ行くことは簡単ではないかもしれませんが、不可能ではない。ですがドッグは作中その選択はせず、他者との繋がりを得るためもっと手っ取り早い方法をとった。会いに行くとまではいかなくても、せめてダックに向けて手紙を返すシーンみたいなものがあったらまた印象も違ったとは思うのですが。それと、ダックや他者とのコミュニケーションのきっかけになったゲイラカイトや釣り、それとソリですが、どれを取ってもドッグは不出来・不慣れなんですよね。これも見ていてつらい。作中どこをとってもドッグが他者と比較して明確に優れているな、という点が見つからないんです。もちろん、他者と比較して優れているところなんてそんなものなくたって動物(人)は愛し愛されるべきだとは思うのですが、それでもドッグは(これは本当に私個人の感想なんですが)不出来で何をやっても上手くいかない過去の自分を見ているようで何だか胸が痛くなりました。また、私の兄弟は、「可愛い絵柄だから見れたが、これが実写映画だったらもっとジメジメして見ていられなかったと思う」と言っていて、確かにその通りだなと感じました。ドッグというキャラクターや風景作画がとっても可愛く、音楽や演出も明るいため見落としそうになりますが、これを全て人間に置き換えたらそれはもはや悲劇だなと...
ロボットの二人目のパートナーと言えるラスカルは、ドッグと比較して様々な面で優れている描写があります。いくつか例を挙げると、ドッグよりもロボット工学に精通している、普段冷食ばかり食べているドッグに対して、ラスカルは朝パンケーキを焼いたり屋上でバーベキューしたりと料理が得意な描写がある、ゲイラカイトや二代目のロボットを買う際、値段を見て安いもので済ませてしまうドッグとは対照的に、ラスカルは大きなビルの屋上や一室を自由に使っていたり、壁の塗装を行ったりと、マンションあるいはホテルのオーナー(≒裕福)と思われる描写がある などなど...
例えば、ドッグがラスカルと同じかそれ以上に機械いじりに長けた人物だったら、ロボットが壊れた際その場ですぐに修理なり応急処置なりをすることもできたかもしれない。
あとなにより終盤の花火のシーンでラスカル&ロボットはビルの屋上からバーベキュー片手に花火を見ているのに対し、かたやドッグ&ティン(二代目ロボット)は橋の下でサンドイッチ一枚食べながらそれを見ているのがなんだが残酷すぎて嫌な気持ちになりました。もちろん、大事なのは「何をするじゃなく誰とするか」「何を食べるではなく誰と食べるか」だとは思います。でも、わざわざ2組の境遇にこれでもかってくらい対象的に差をつけているのがこの作品意地悪なんですよね。「幸せの形は人それぞれなんだから別にいいじゃーん」と言われたらそれは本当その通りなのですが、じゃあ「他に人や遮る建物もないビルの屋上でバーベキューして好きな音楽聴きながら花火を見るのと、他にも人がいるなか橋の下でサンドイッチ一枚食べながら花火を見るの、どっちがいい?」って聞かれたら、そりゃあ前者を選びますよねっていう。
ハロウィンで無関係な子どもに当たる、喧嘩を売ってきたアリクイに仕返しをする、ロボットにとって危険である海に二度もロボットを連れていくなど、ドッグは内面も未熟であることが端々から見てとれます。もっとも、未熟なこと自体は悪ではなく、そこから成長していく物語というのは昔から現在まで創作の基本的なアプローチとして広く使われてきたテーマではあります。ですがドッグには作中精神的な成長が見て取れなかった。もちろんこの作品のメインテーマが成長ではないことは重々承知していますが、でもこれやっぱ、かなりしんどいんですよね。何かしらの成長や前進があって欲しかった。ロボットは長い夢を通じて精神的成長をしたともとれるお話でしたが、ドッグは何か問題に直面した際にいつも場当たり的でインスタントな対処を続けてきたので、きっとこの先も似たような失敗や別れを経験してしまうのではないか、とか憂慮してしまいます。まあそうやって失敗や別れを繰り返すのもまた人生、ケセラセラ。みたいな話なのか?違うか。
ドッグも行動力が無いわけではないので、「ならどうしてこんなに孤独なんだろう」と途中までは思っていましたが、段々彼の行動に違和感を覚えるところが強くなっていきました。ドッグは第一の主人公と言っても過言ではないと思いますが、彼に感情移入してしまうと中々にしんどかったです。6月1日にロボットを探す際、周囲に止められるまで穴を掘り続けるシーンとか、良いところももちろんあるんですけどね。ドッグは彼なりに出来ることを精一杯やっていたんだと思います。でもそのやり方とか判断、彼の能力が、作中の他の登場人物より拙く描写されていること、またロボットを助ける方法がないわけではなかったとわざわざ明示されているのがこの作品残酷だなと思いました。ロボットとの別れの原因が不慮の事故とかだったらここまでモヤモヤしなかった気がします。
ロボットは作中では動物たちと同列の命としては扱われていません。私はロボットも動物たちと同じ命だと思っていた(思いたかった)のですが、この点に関してはこの作品のシビアな部分の一つで、結構残酷な描写が多いです。絵的に分かりやすいシーンで言えば、ロボットの足を切断する海兵?や、ロボットをスクラップにするジャンクヤードの人たちでしょうか。子どもがロボットを叩いて虐待しているようにも見えるシーンもありましたね。ですが、それだけでなくドッグやラスカルも前述の人たちほどではないにせよ身勝手な行いをロボットに向かってしているなと私は感じました。例えば、ドッグは泣く泣くロボットをビーチに置き去りにしたわけですが、もし仮にこれがロボットではなく他の動物、例えばドッグの子どもだったらどうでしょうか。彼はどんな手段を使ってでも子どもを助けたでしょうし、ビーチの警備員や役所の人もビーチに入れてくれないなんてことは起こらなかったでしょう(これはあくまで仮の話なので、「ドッグはどう見ても独身だろ」とかいう分かりきった低次元なツッコミは勘弁願います)。何が言いたいかというと、要はドッグは相手がロボットだから一旦諦めたし、警備員も置かれているのがロボットだったからビーチに入れてくれなかったのです。ここからも、作中のあらゆる動物がロボットを物として扱っているのが見て取れます。海兵?たちはロボットの足を使って舟の穴を埋めていましたが、ドッグも自身の寂しさを埋めるためにロボットを利用していたという点で両者は同じ穴の狢だなと思いました。
また、ラスカルについてはロボットに対してかなり良心のある人物として描かれてはいますが、自分の好きなようにロボットの身体を改造し、自身のプレイリストをロボットの身体に忍ばせるのを良しとしていたりと、見方を変えれば猟奇的とも言えなくもない行動をとっていました。ロボットの目線で考えると、動物たちのエゴに振りまわされ続ける話と言えなくもないんですよね。この辺りに気持ち悪さを覚える人と、「ロボットはあくまでロボット」と割り切れる人でこの作品の感想は大きく変わってくるのかなと感じます。たしかに、ロボットが通販番組の商品であったように、動物たちから見てロボットはあくまで寂しさを埋めるための道具でした。だから平気で約1年放置するし、壊れたら好きなように修理するし、新しいものを買ったりもする。でも、ドッグがロボットに感じていた友情、愛情は嘘ではない。人間とロボットの違いについて考えさせられますね。
長い夢を通じて一人になることの辛さを知ったロボットは、自分が今ドッグと再会してしまったらティンやラスカルはどうなってしまうんだろうと夢想して、再会しないことを選択した(と私は解釈した)のですが、美談のように見えてこれも辛くて。これ、逆だったら良くある話だと思うんですよ。『ドッグが偶然街でロボットを見かける。声をかけたい気持ちは当然ある。でもロボットの傍らには新しいパートナーと思しき人物が。そして自分の隣にも今は新しいパートナーがいる。もうあの頃に戻ることは出来ないけれど、今はせめて一人踊ろうか』って。これだったらそこまでモヤモヤした気持ちにはならなかったと思います。なんだかちょっとバタフライ・エフェクトみたいですし。この場合の再会しないという選択は、ドッグにとっての贖罪でもあり成長でもありますから。でもこれ逆なんですよ。「自分”が”見捨てた人が、街で幸せそうにしているのを見かけて、その人の幸せを願う」のと、「自分”を”見捨てた人が、街で幸せそうにしているのを見かけて、その人のことの幸せを願う」のって、天と地ほどの差があると私を思います。後者は並の精神で出来ることじゃないですよ。「まぁそれはロボットだから…」って言われてしまったらそれまでかもしれませんが。でもロボットの精神性を否定してしまうとこの作品の全てを否定することになるのでね…。とにかく、私が一番強く感じたのは、ロボットには何も悪いところなどなかったのにこの結末は正直あんまりだなと。いや、ロボットがこれで良いと思っているのなら、それがロボットにとってのベストなんでしょうけども。ああ、上手く言語化できない。
ちょっと別の作品を例に出しますが、映画「トイストーリー3」では、ロボットと同じように、本意では無いものの持ち主に置いていかれたロッツォというキャラクターがいます。ロッツォは何とか持ち主の家まで辿りつくことが出来ましたが、家の窓を覗くとそこにはすでに新しい『ロッツォ』を買ってもらっている持ち主の姿がありました。持ち主に捨てられ、帰る場所を失ったロッツォは歪んでしまい、ヴィランとなってしまうのです。帰る場所の有無という違いはあれど、私はこのロッツォとロボットは境遇が似ているなと思いました。なので、持ち主を許すことができず全てを憎むようになったロッツォに対して、同じく捨てられた側であるロボットが全てを赦す(というとあまり言葉が正しくないかもしれないですが)というロボットの精神が、あまりに高尚すぎるなと感じました。私からすると、悲しみと怒りのあまり反転してしまったロッツォの方がまだ理解できるんですよね。もし私がロボットだったら、きっとドッグを恨み続けてしまうことでしょう。何と言いますか、ロボットが遊戯王ZEXALの主人公 九十九遊馬くんかの如く菩薩メンタル天元突破でシンギュラっているのに対して、ドッグは前述のとおり殆ど成長が見られないのがかなりグロテスクに感じます...。防水型の高価なロボットより手軽で安価なロボットを買って、ロボットをまた海に連れて行くシーンなんて正にそうですよね。「ロボットがまた壊れてしまうかもしれない」よりも「誰かと海に行きたい」という自身の欲求を優先しているあたり、過去の経験から学びや成長をしていないのがしんどくて。いや、潤滑スプレーを散布しているあたり一応前回よりほんのちょっとだけ進歩はしているんですけれども。でもその一歩が本当に小さすぎるというか何というか。このように終盤になってもドッグはロボットを命として見ていないところから、ロボット→ドッグへの愛情と、ドッグ→ロボットへの愛情に差がありすぎる気がします。やっぱり対等じゃないんですよね。人間とロボットの友情を描いた作品って他にも色々あるかと思いますが、基本的にはバディものだったり、主従はあれどロボットのことを同じ命として互いに尊重しあう対等な関係性の物語が多いかなって思います。ですが、この作品はそうではなく、ロボットを命としては見ておらず気軽に消費できる道具として使っている。その上で友情とか言われても、やっぱり頭にハテナが浮かんでしまいます。「二人の友情」というより、「深慮あるロボットの健気で一方的な愛情」という方が自分はしっくりきました。ドッグは、ロボットが与えてくれたもの、満たしてくれたものと同じくらいのものをロボットへ返すことが出来ていたのかな…?うーん。
私は、友情や愛情はある程度対等な立場がその前提にあるものだと考えています。けれど、ドッグとロボットは最初から最後まで対等ではなかったように思えて、愛って何なんだろうと考えさせられる作品でした。
けっこう感動や友情といった文脈で語られているような気がする本作ですが、私はこの映画を見終わったあと、下がった口角が元に戻らないくらいには暗い気持ちになってしまいました。
メリーバッドエンドとも少し違うような形容しがたい結末の本作ですが、少なくとも心温まる!とか感動の友情!みたいな手放しで良かったと言えるお話にはとても思えず、心にしこりの残るお話に感じましたね。
この作品のどのあたりに人は感動するのか正直私には分からなかったので、純粋に知りたいなと思い、どなたか教えてもらえたら嬉しいです。色んな方の感想も聞いてみたい。
これはいつか何処かで見た言葉の受け売りですが、私は伸ばした手が届く物語が好きです。
昔はどんでん返し系と言いますか、ラスト5分で全部ひっくり返るような後味の悪い映画が好きでよく見ていたのですが、今はもう聖人が報われなかったり、他者のために何かを我慢したり、自己を犠牲にするような物語はあまり見たくないというか。鑑賞後スカッとする映画の方がやっぱり好みなのかもしれない。