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2025-09-28

STEMに携われないかキツイ

この世界からどんどん未知の世界ロマンが消えて行く。

かつて、衣食住に満ち足りた生活がどんなものなのかをほとんどの人が知らなかった。

かつて、海の向こうにはどんな世界が広がっているのか、ということをほとんどの人が知らなかった。

今、我々は衣食住に満ち足りた生活をしている。

今、我々は海の向こうにどんな世界が広がっているのかを知っている。

我々が手にしたもの幸福か?

否、途方もない退屈だ。

朝起きる。

朝食をとる。

電車に乗る。

職場につく。

パソコンを立ち上げる。

窓口に人が来る。

申請書を受理する。

会計年度職員調査員に実地調査面接の依頼を組む。

審査会をする。

介護区分認定の決定をする。

通知書を発行する。

事業者から請求書を処理する。

帰宅する。

夕食を食べる。

YouTubeを見る。

寝る。

こんな毎日永遠と繰り返される。

私はかつて、地方の県立進学校数学2Bに躓いた。

中学時代数学が得意で、高校一年時の数学1Aもなんとかついていったのだが。

数学担当していた教師は定年の年齢を過ぎた嘱託教師だった。

彼の教育方針は、教科書ノートを閉じさせ、とにかく黒板に集中させるというものだった。

聞き取れないくらいの大声で解説をしながら、汚くて読めない文字で黒板に数式や解説を書いた。

そして、途方もない大量の宿題プリントを課した。

まりにも量が多く、読み取るのも困難な小さい文字問題がびっしり書いてあり、裏表100問。

それが1日あたり5枚。

課題を忘れたり、終わっていなかったり、授業中に黒板以外に一瞬でも目線を外した生徒が1人でもいた場合、授業はストップされ残りの授業時間は全て当該生徒への説教で終わる。

そして、分からないところを休み時間に聞こうものならば「俺の授業聞いてなかったのか?おめえはよ!!ああ⁈」と胸ぐらを掴んで恫喝を始める。

私は完全に数学へのやる気を失った。

そして、自分で予習復習しようにも、大量の課題に追われて手がつかない。

回答が合っているか合っていないか関係なく、丸つけをすることもなかったので、とにかく翌日怒られないために「形だけ仕上げる」ことに放課後時間が割かれた。

その教師私たちの学年のみを二年間担当して完全に定年退職した。

私たちの学年は国立大学理系大学進学率がガクッと下がり、地元駅弁でさえほとんど合格しなかった。

そして、当該教師担当しなかった一個下の代から国立大学理科学部医学部への進学者数が復活した。

私たち数学プリント廃止された高校3年の夏休みから受験勉強に取り組むことができた。

私はわずかな時間の中で英語国語世界史を猛勉強した。

そして、早稲田大学法学部に進学した。

私がSTEMに携われないことが決まった瞬間だった。

STEM現代社会に唯一残された「未知の世界を探索することができる分野」である

それができない私の人生は本当に苦痛だ。

数学2B挫折しなければ。

まれたのが一年いか一年遅ければ。

あの教師にさえ教わらなければ。

私の人生は今より面白かったかもしれない。

2025-08-05

私大バブル大袈裟に言われすぎてる

かに倍率は凄かったけど、難関校の奴でも早慶相当厳しいとか、イマイチ高校からだとほぼチャンスないとかそういうのは全然なかった。

結局今と変わらぬ感じで、高校ランクなりの落ち着くところに落ち着いてた。

ローカル私大にも受験生押し寄せて東京ドーム入試やっただのなんだのは史実だけど、それだって「それなりのやつが押し寄せて、それなりのやつが落ちて、それなりのやつが合格した」だけ。だから結局今と変わらない。



早稲田で一緒だった日比谷友達

「俺の高校同級生、現役で法政大学落ちまくってて『これなら高校受験のとき法政一高蹴らなきゃよかったよ』なんてみんな嘆いてた」

と言ってたけど、当時の日比谷は現役MARCHでも御の字、昔の栄光に惹かれた入学した物好き数人が東大行く程度のレベルだったからやっぱレベルなりだったんだよな。


なんか当時の日東駒専が今の早慶相当とか負け惜しみ言うやつ多いけど絶対ありえない。

変わらないんだって

入試問題なんてきっと今の高校生見たら唖然とするくらい簡単だぞ。


俺なんかは例年東大1人とか2人しかからない埼玉の滑り止め私立出身だけど俺含めて同級生何十人も現役で早慶受かってた。私大バブル直撃世代なのに。

倍率にビビって早稲田日本史カルト問題解けるようにマニアックなところを一生懸命頑張るとか、睡眠時間削りながら猛勉強するとか、そういう要領悪い連中が淘汰されてただけ。

調べりゃわかるけど、ネットサテライト予備校も全く一般化してない時代なのにそんな私大バブル期でも地方高校から早稲田にたくさん受かってたからな?

しろ今より合格人数はるかに多いくらいだよ。

ほんと要領。


まあ、カルト問題解けないと落ちると脅して「まだ足りない、まだ足りない」と拘泥させる、まるでマラソンで逆走を頑張らせるみたいなことを商売として推奨する胡散臭い連中が教育産業ゴロゴロたからそれは不幸だったな。

つっても、カルト問題無視して他の問題解けるよう受験勉強時間使うべきってことくらい高校生なんだから気づけよとは思うけど。

就職氷河期戦後焼け野原みたいな無惨で救いがなかったっていうのはほんと。

同級生非正規だったり、早逝したりした奴らは息を呑むほど多い。

2025-06-21

人生で最も大切なことを教えてくれたのは、意外にもあの時の『失敗』だった

最近、ふと振り返ることが増えました。学生時代に悩んでいたあの頃、今振り返ると無駄に感じることもあったけれど、あれがあったからこそ今の自分があるんだと思います

僕が最も悔やんでいるのは、大学受験ときの失敗です。当時、猛勉強して、ついに第一志望の大学に挑戦したけれど、結果はまさか不合格。あれから数年経ちますが、その失敗がなければ今の自分はなかったと思います

その時、深く落ち込んで、未来に対して何の希望も持てないような気持ちになっていました。でも、あの頃の自分一言言えるなら、「その失敗こそが君の人生を豊かにする」と伝えたいです。失敗を恐れて挑戦しないよりも、痛みを伴ってでも挑戦することが大切だと気づいたからです。

例えば、失敗から学んだことの一つは、「努力だけではどうにもならないことがある」という現実でした。でも、それが自分限界を知る機会になり、その後の挑戦にはもっと冷静な判断力を持つようになったんです。もしあの時、志望校合格していたら、おそらく現状のように、どこか甘く考えていたかもしれません。

からこそ、失敗を「終わり」ではなく「次のスタート」として捉えるようにしています。今は、その失敗をバネにして、もっと充実した日々を送れるようになりました。

何かを始めるのに遅すぎることはないし、どんな結果が出ても、それが成長に繋がるんだと気づくことができました。どんな困難も乗り越えられる、そんな強さを、失敗を通して学びました。

2025-05-05

俺には価値がない

想像すること

絵を描く能力ストーリーを考える能力もないのに、漫画家として成功した自分想像することがある。

プログラミングもできないのにIT成功してTEDで講演しXで老害(と見做されている著名人)を論破したり、弱者を切り捨てる発言を堂々と言い切る自分想像することがある。

作曲はおろか楽器すら触れないのに、シンガーソングライターになって武道館大勢の観客の前で自分作詞して作曲した歌(ミセスか髭男の歌)を歌って歓声を浴びる姿を想像することがある。

宇宙に関する歴史に残る発見をして、ノーベル物理学賞を受賞してスピーチをし、子供向け教育テレビサイエンスコミュニケーターをする姿を想像することがある。

医者になってプロフェッショナルに出演する自分の姿を想像することがある。

上記想像仕事に向かう電車の中、帰りの電車の中、布団の中などで行われる。

その瞬間はとても楽しく日々の苦労と虚しさを忘れられる瞬間だ。

現実の俺

俺は田舎に生まれ地元公立小学校中学校卒業した。近所で学校名を言えば誰もが「すごいね」と言ってくれる県立進学校に進み、旧帝大・上位国立理系慶應を除く大抵の人が「すごいね」と言ってくれる私立大学法学部卒業し、大手メーカー入社した。

昔は自分のことが大好きだった。

頭が良くて、足が速くて、ドッジボールが得意で、サッカーも上手で、人気者の自分が大好きだった。

小中学生の頃、休み時間イラストを描いているクラスメートをよく馬鹿にしていたし、自分は彼らが嫌いで見下していた。

パソコンが詳しい同級生馬鹿にしていた。

高校時代バンドをやってる奴らは本当はサッカー野球活躍して女の子モテたいのだと思っていた。

しかし、それができないか音楽に逃げているのだと。

それ以外の奴らもそうだ。

パソコンアニメ科学世界に逃げ込んで自分たちの世界に閉じこもって生きているのだと思っていた。

理系学部はカッコ悪いと思っており、医学部学力的に無理で、かと言って文学部人生終わりだろと考えていた。

から母校の政治経済学部法学部慶應義塾大学経済学部法学部受験した。

自分のことを好きじゃなくなったのは大学2年の終わり頃だった。

先輩たちが就活に励み話を聞く中で、自分来年に向けて備えようと本屋に行き、参考書コーナーと漫画コーナー以外のコーナーを初めてまともに散策した。

ビジネス書のコーナーでイーロン・マスクを知り、そこからマークザッカーバーグビルゲイツ存在ややってきたことを知った。

彼らの持つ技術や功績、名声が自分能力では手に入らないものであると知り、自分コンプレックスを持った。

就活が本格的に始まると、自分が見下していたMARCH日東駒専文系学生自分の間に何らの格差もないことを知った。

自分猛勉強したつもりの勉強勉強ではなかった。

英語国語世界史だけで入れる大学とそこで学ぶものにはなんの価値もないことがわかった。

社会に出ると自分の無価値さが余計に鮮明になる。

朝早く起きて満員電車に乗りオフィスへ向かう。

先輩と共に取引先へ向かい定型的なやり取りと雑談をする。

カフェや昼食を挟んで上記のやり取りと雑談を繰り返す。

帰社して定型的な書類仕事作成

こんな仕事は躾けたニホンザルだってできる。

そこに何の価値も見出すことができない。

価値存在するのだろうが、あまりにも細分化されすぎており、一つ一つの作業工程価値を見出すことができない。

価値のない仕事ための早起き満員電車人間関係書類仕事

こんなことをしないと生活費を稼ぐことができない自分が恥ずかしい。

自分が惨めだ。

自分は無価値だ。

俺があんなにも見下していた人たちが持っている技術知識経験が羨ましくて仕方がない。

俺は若い時に何も築くことができなかったからだ。

大学時代、俺が彼女にはできないプレイをするために手懐けていたサークルの同期のセフレがいた。

の子は俺のことが好きだと何度も言った。

俺の彼女になりたいと何度も言った。

俺はそう言われる自分のことが大好きだったし、彼女のことは見下していた。

しかし、そんな彼女はもう他の人と結婚した。

大手医療機器メーカーエンジニア

国立大学理系学部を出て修士も取得したエリートだ。

彼女は俺が無価値人間であることに気がついたのだ。だから何の未練もなく他の、もっと有能で価値のある男を選んだ。

そう思うと、自分が惨めになる。

交際している自分彼女まで、無価値な男を選んでいる無価値な女に見える。

上司も先輩も後輩も、誰も尊敬できない。

大事なこと

みんなと同じことをしていても価値がない。

俺はサッカーが得意だったが、所詮田舎公立中高で1年生からミッドフィルダーとして試合に出られるくらいのものしかなかった。

それで生きていくことはできない。

大多数の人が目をつけていない、やっていないことに対して目をつけ、人より早く始めてこそ、凡人とは違うスキルを身につけて人生を豊かにすることができる。

それができなかった人間は、一生満員電車社内政治コミュニケーション(笑)に明け暮れる人生だ。

2025-04-08

広末がいたか松坂世代の俺は猛勉強して早稲田を目指した

行けたのは中央大学だったが、氷河期世代の割には今幸せだよ

ありがとう広末涼子

2025-03-30

anond:20250330130818

AI遂行能力が高すぎて、議論余地なくタスク依頼者の無能が浮き彫りになるから

空気読みと根回し馴れ合いと声のデカさで生きてきた日本人は改めて”上流工程”の猛勉強を迫られている

2025-03-08

anond:20250307112856

増田は、男性だけにメリットのある濡れ場の存在が気に入らなくてこれを書いたのだろうから解決策を考えてあげた。

自分映画を作る

ただし個人的映画制作では増田の満足は得られないだろう

政治活動→力をつける→沖縄県知事→類稀な異常なカリスマを発揮して沖縄県民の心を掌握→独立戦争沖縄独裁国家元首になる→「映画男のみメリットシーン禁止法」を制定

ただし極東の小さな島国で達成しても、資本主義優位の地球全体では特定属性メリットシーンが根絶できず増田は満足しないだろう

独裁世界元首、はかなり難しそうなので、人類コンテンツ支配に協力してくれる地球外生命を探索するためにJAXAなど宇宙機関入職を目指して猛勉強

1番現実的なのは③かなー

2025-02-14

精子バンクがあったとして、

例えば学歴が選べたとする

その時に、努力して猛勉強して東大行ったやつと、

大して苦労せず東大に行ったやつだとどっちが人気出るんだろう

努力して結果を出したことのある人間遺伝子と(苦労を乗り越えられそう)、最初からハイパフォーマンス人間遺伝子(苦労しなそう)、迷うなぁ…

2025-01-21

部下に取引先の建物に入る前にコートを脱ぐよう言ったら「私の高祖父は軍功により陛下から爵位を授けられ、陛下の前ですら着帽と帯杖を許されています」と言われ拒否された。

コート着たまま社内入って、相手の目の前でコート脱いで、相手より先に座りやがった。

それなのに、乗馬だのイギリス留学時代の話だので俺より顧客との会話盛り上がってやがる。

まれ育ち千代田区学習院幼稚舎〜学習院高等科を経て東大に進学したボンボンエリート

かたや俺は田舎まれ田舎育ち、実家農家、小中高地元の町立、県立で大学猛勉強して浪人してやっと早稲田

海外経験旅行で行った東南アジアだけ。馬に跨ったこともなけりゃ紅茶銘柄わからん

俺が田舎で数年間苦労してやっと首都圏支店まで来たってのにこいつは最初の配属がすでに都内の大規模支店

きっとこいつは俺より遥かに出世してくんだろうな。

俺の卑しい出自教養のなさが憎い。

田舎の土くれに塗れた手をした両親が憎い。

2025-01-19

人生の持論ってある?

増田の持論は「5年後ツケが回ってくる」や

15歳で勉強サボったら、高校レベルが下がって受験対策も質が落ち、大した大学に通えてない20歳自分就職で苦しむ

20歳とき自分から色んな経験積まなかったら、視野が狭いまま歳だけ取って、25歳では薄っぺらくてつまらない、同世代相手されない人間になる

25歳でキャリアプランを改めて考え直したり、結婚出産計画マネープランを立てなかったりしたら、30歳になって異業種のほうが自分に合ってる!と思ってもキャリアチェンジが困難だったり、家庭を築くどころかうっすい資産高齢出産確定の状態婚活難民になったりする

断り書きとして、もちろん努力すれば挽回はできるのは事実

ただ、底辺高校から旧帝大に行くには猛勉強なり塾課金なりが必要なように、5年前のサボりを取り戻すには非常に負荷の高い活動必要というのが断り書きの断り書きや

こういう持論がある人は教えてほしいやで

2025-01-05

anond:20250105103037

向こうの大学数学の授業見たけど向こうは大学でようやく三角関数積分やらを学ぶ

大学院は凄まじいと言うけどあんなの世界選抜だし、それなのに1年目は東大学部レベルのことをマジでやってる

アイビー卒のほとんどは(猛勉強してても)結局東大比較したら屁みたいな程度しか学ばずに卒業してる

あと白人って自己愛強くて日本人よりずいぶん怠惰から「俺はこの分厚いテキスト完璧にした!」と断言しながら実は冒頭しかまともに読んでいないしそれを突いても自分の虚言や水準に達していないことを頑なに認めない、みたいな職場モンスタームーブエリート学生でも平気でやるから

2024-11-28

橋下徹復讐燃える「一人イスラエル

この人の原動力は「復讐心」で間違いない。全世界を敵に回すイスラエルと同じ。

自分のやり方」に賛同しない者(家族以外)は、全員が「敵」であり、「殲滅対象」なのである

「一人イスラエル」の橋下徹にとっての後ろ盾=「アメリカ」が、唯一の理解者の松井一郎である

橋下徹弁護士になったきっかけは、大学生の時に皮革製品販売ビジネスを立ち上げたが

騙されて大借金を背負ったことの復讐のためで、猛勉強して弁護士になったと大昔にテレビで語っていた。

現在コメンテーター業でも、自分が現役の政治家だった時にクソミソに当時のコメンテーター

批判されたことへの復讐心垣間見える。ちなみに橋下が尊敬する政治家小泉純一郎である

2024-11-03

嵐が人生の指針だった話

アイドルグループの嵐が、デビュー25周年を迎えた。活動休止中にも関わらず特設サイトができたり、映画館でのイベントを打ったりしていて、ファンお祭り状態だ。

かくいう私もファンの一人である。私は嵐がデビューした99年生まれで、10歳のときファンになった。それから小学生時代中学時代高校時代大学時代と、青春はすべて嵐だ。

初めてコンサートに行った日のことは今でも覚えている。11歳の時に当たった、「君と僕の見ている風景」の国立公演だ。

私は都心から電車で1時間くらいの場所に住んでいるが、当時は「都心に行く」ことそのもの冒険だった。ベティーズブルーで買ってもらったピンクトップスを着て、母親と、久しぶりに会った友達親子と電車に揺られて会場に向かった。お昼は乗り換えのために降りた新宿で、当時滅多に行けなかったスイパラに行って、ケーキを頬張りながら「何歌うかな!?」ってワクワクしてた。

コンサートが始まるともうそれはそれは夢みたいな時間で、帰りの電車でも興奮が覚めなかった。でも深夜に降り立った最寄り駅はシンとしてて、「コンサートわっちゃったんだな」ってちょっとさみしくなった。

それから運良く、ほぼ毎年コンサートに行った。ほとんどファン母親と2人で参戦していたが、2人でちょっといいランチお茶をしてから向かうのがお決まりみたいになった。ランチの後にアクセサリーショップイヤリングを見ていたら、母親が買ってくれたりもした。コンサートの日は、公演時間以外も特別時間だった。

嵐のおかげで勉強だって頑張れた。私は櫻井翔くんのファンだったので、「彼に見合うファンになりたい」と猛勉強した結果、そこそこいい大学に入れた。模試はいつもE判定で心が折れまくったけど、「サクラ咲ケ」と「きっと大丈夫」をリピートしまくって乗り切った。

嵐のおかげで友達だってできた。大学に入って初めてできた友達は、「嵐が好き」という共通点から話が弾んで、4年間どころか卒業した今も仲良くしてくれている。Twitterでは10年を超える付き合いになるフォロワーもいて、飲みに行ったり嵐に関係ない現場に行ったりしている。

アイドル応援することって、曲を聴いて番組を見てコンサートに行って……ってだけじゃない。アイドルきっかけに忘れられない思い出ができて、人の輪が広がって、人生が拓けることがある。嵐がいなかったら、きっと全然違う人生になっていたと思う。

推し活」なんて言葉が広まったし、傍から見たらカッコイイ男の人にキャーキャー言ってるだけかもしれないけれど、私にとっては人生だった。

きっとこれからもずっと、嵐の事が大好きだと思う。

25周年、本当におめでとう!

2024-08-22

anond:20240822142505

英語ヘタだからいじめられるのかなーと思って猛勉強したけど、実はただのアジア人差別だったでござるの巻

2024-08-08

anond:20240808054241

お絵かき生成AIへの反発でもそうだけど、機械努力してない。医者はそこに辿りつくまでに大量のリソースを使って受験勉強を勝ち抜いて、さら猛勉強しなくちゃならないから。

2024-07-09

自分の父が毒親だとわかった日

「30年近く同居している祖母精神疾患があると知った日」

https://anond.hatelabo.jp/20240706023024

数日前に↑を投稿した。

思ってた以上にたくさんの方に反応してもらえて、本当にありがたかった。私は自分の家のことを誰かにしたことほとんどなかったから。

前回の投稿追記にも書いたが、父と言い争いをした次の日、私はカウンセリング相談に行った。

そして、カウンセラーに「あなたのお父さんは残念ながら世間一般で言う毒親です」と言われて衝撃を受けた。

コメントでも、父に対し「毒親だ」「まともじゃない」「そんな親からは逃げろ」という意見が見られた。

正直、私は今も自分の父を毒親という言葉表現していいのかはわからない。

でも、私にとっていい父親ではなかったと、ようやく思えるようになった。

長い間、父がおかしいのか、自分が求めすぎているのか本当にわからなかったのだ。

私と同じように、父から、あるいは母から離れるべきか悩んでいるひとも多いはずだ。

悩んでいる方の参考になるかわからないが、私が生まれるまでの父の人生と、私から見た父と祖母の話をそれぞれ書き出していく。

私には父方の祖父がいない。幼い父と叔母(父の妹)、そして専業主婦だった祖母を置いて、祖父は突然出ていったからだ。そこから祖母は女手ひとりで父と叔母を育てた。私が想像もできないくらい壮絶な生活だったのは確実だと思う。

それでも父は猛勉強して、希望していた大学合格し、それなりに知名度のある有名な会社に入った。そして実家を出た。数年後、叔母も実家を出て、祖母一人暮らしになり、このタイミング精神疾患発症し、精神科に3回入院していたようだ。

父はその事実を伏せたまま母と結婚し、その数年後に私が生まれた。その2年後に妹が生まれ、同時に祖母との同居が始まった。

父は定年まで同じ会社で勤め続けた。おかげで私は金銭的に苦労をしたことがない。

父も叔母も祖母も、祖父が出ていったときの話を一度もしたことがない。なぜ私が祖父が出ていったことを知っているかと言うと、父方の祖父がいないことを不思議に思った私が、子どもの頃に母に理由を聞いたからだ。母は言いにくそうにだったが教えてくれた。加えて、「お父さんがいるって本当に幸せことなんだよ」と私に言った。この言葉が、わたしの中で、ひとつ価値観になってしまった。

ここからは私から見た家庭内の話になる。父のことから書いていく。

父が仕事から帰ってきたとき、母は「おかえり」と必ず声をかけていた。でも、「ただいま」を父が返すところは見たことがない。

父は母が作ってくれた食事を美味しいということは一度もなかった。眉を顰め、あまり噛まずに飲み込む。うまく切れていない野菜を箸でつまみあげ、「見てこれ。ひどいね」と笑いながら言うこともあった。母の前で、私や妹に向かって言うのだ。

仕事が忙しくなり、私が寝た後に父が帰ってくるのが当たり前になった時期があった。母が父の分の食事ラップをして、箸を置いて、すぐ食べられるように準備しているところを私は見ていた。私が朝起きても、食事はそのままだった。母はそれを流し台に捨てていた。

家族食事をしているとき、私が箸を落としたり味噌汁をこぼすたび、父はうんざりした顔をして、なにも話さなくなった。母に「なにやってんの!」と怒られることより、自分のせいで父の機嫌が悪くなることのほうがなぜかずっと怖かった。

私は母のことが大好きだった。同じくらい父のことも大好きだった。でもなにより、父に嫌われることが怖かった。

から母はかわいそうじゃない。父は母をそういうふうに扱っていいひとなんだから。母の失敗は笑っていいんだ。そう思っていた。私は切れてない野菜を見つけるたび、父と笑った。母は何も言わなかった。

気づけば、元から会話が少なかった父と母はほとんど話さなくなった。相手用事があるときは、私か妹に伝言を頼むのだ。

喧嘩しちゃったのかなあ」と私は思っていた。それでも、すぐ仲直りするだろうと気にしないようにしていた。

いつしか父と母が話さないことが当たり前になっていた。そしてそれに触れること自体タブーなんだとわかっていた。

学校休みの日、「〇〇(近くの遊園地)に行くぞ!」と突然私と妹に行った。父の行動はいつも突然だった。どれだけ気乗りしなくても、私も妹も何も言わず父について行った。それが一番正しい行動だと思っていたからだ。

でも、その日はどうしても行きたくなかった。家で友達から借りた漫画を読むのを楽しみにしていたからだ。

行きたくない。家にいる」と返すと父は「行ったら楽しいぞ。行こう」と眉を顰めつつ言った。少し怖かったが「読みたい漫画があるから」と返した。「そんなんいつでも読める。行くぞ」うんざりした口調で父は言った。どれだけ駄々をこねても、私が泣き出しても、父は全く引かなかった。私は諦めて遊園地に行った。

父は私を楽しませようとしているんじゃなくて、"休日に娘を遊園地に連れていった"という事実がほしかったんだと気づいたのはもっと後のことだった。

中学生になると流石に父との会話は減ったが、それでも父が好きだった。正直、父の振る舞いに違和感を感じていた。信頼はできなかった。父の行動を真似るのはやめた。でも父に勉強を教えてもらうのも好きだった。そして、まだ父が怖かった。

そんな家で育った私が友達の家に初めて泊まった日、衝撃の連続だった。たぶん、私が中3か高1の時だったと思う。

その日、友達のお父さんは先に夕食を済ませ、夜勤に行く準備をしていた。夜にお仕事するひともいるんだなあと思っていたら、お父さんがお母さんに「たぶんいつもより遅くなる」と話しかけた。お母さんが「ならお腹空くやろうから朝ごはん多く用意しとくわ」と答えていた(多分こんな感じの会話だった)。

え?お父さんとお母さんってこんなに普通に話すもの

友達のお母さんが私と友達に準備してくれた食事を食べていると、友達が「このおかずめっちゃ好きやねん!」と私に言った。友達のお母さんは「いつもそれ言うから今日は多めに作ったよ」と笑いながら言った。

え?お母さんの食事って、おいしいって感じるもの?そしてそれを伝えるもの

友達の家の全てが衝撃だった。

私の家のお父さんって、もしかしてひどいお父さんなんじゃないか

私って、ひどい娘なんじゃないか

ずっと感じていた違和感の正体がわかった気がした。

そしてモラハラ、という言葉を知ったとき、まさにお父さんじゃんと思った。

それから、父との関係は一気に悪くなった。勉強でわからないところがあっても父に聞かなくなった。あまり顔を合わせたくなくなった。

父が突然態度が変わった私に困惑するのを感じた。まあ反抗期なんだろうと納得しようとしていたのもわかった。

私が直接父に不満を言うことはなかった。

父にはお父さんがいないんだから。父の方が私より辛かったんだ。そして、"父"を知らないんだから父親が下手なのも当然だと思っていた。

父が友人とどこかに出かけることは見たことがなかった。会社の人と飲みに行くこともほとんどなかった。

父には友人がいないことにも気付いていた。だから私のように自分以外の家庭を知るきっかけもなかったんだろうと、私は自分を納得させて生きてきた。

自分父親大事にできない自分こそ、"娘"が下手なんだと思う気持ちが強かった。

それでも父への違和感は日に日に強くなっていった。

こうして私は父を避けて生きるようになる。

ここから祖母の話になる。

正直、祖母との思い出はほとんどない。私が幼稚園の頃、オセロ相手をしてくれたことくらいだ。

日中妄想独り言を呟き、自分で作った変な歌を大声で歌い、一人二役で会話をする。 部屋に監視カメラがついていると言ったり、テレビから電磁波が出てると大騒ぎしたり、好きな野球選手結婚することになったから出て行くと言い出したり。皇室手作り人形を送りつけ、返送されることもあった。そして母や親戚と揉め事を起こす。それが私が知っている祖母の全てだ。

様子がおかしくなっていく過程を見ていたら、病気になったのかと疑うこともできたかもしれない。

でもまともな祖母を見たことがなかった。だから祖母は生まれた時からこういうひとなんだと思っていた。

祖母普通じゃないかもしれないと思ったのは、私が高校生の頃だ。

クラス友達数人とお昼を食べていると、友達の1人が「最近おじいちゃんボケてきててさ、ご飯食べたばっかりなのに食べてない!って言うんよね。認知症の人ってほんまにそう言うんやってびっくりした」と笑いながら話していた。別の1人が、うちはひいおばあちゃんボケちゃって〜と笑っていた。

それを聞いた私は、点と点が繋がったように感じた。

みんなのおばあちゃんよりちょっと早いけど、私のおばあちゃんのあの行動は、認知症だったのか!と本気で思ったのだ。

祖母のことは、今まで誰にも話したことがなかった。でも、認知症だったんだ。それなら話せる!と私も笑いながら友達に言った。

「うちのおばあちゃんも、なんかテレビから電磁波が出てるとか、部屋に監視カメラがついてるとか、会ったこともない好きな野球選手結婚するから出て行くとか言うんだよね」と。

空気が変わるのを感じた。みんなが一気に警戒するのがわかった。「いや、それ、ボケとかじゃないんじゃない?病院に行ったほうがいいような…」と1人が遠慮がちに言った。周りも同意するように頷いた。そしてすぐに違う話になった。

今なら笑えるが、当時の私にとっては本当に恥ずかしい出来事だった。やっぱり祖母普通じゃないんだ。それがわからなかった自分普通じゃないんだ。死にたくなった。それから誰にも祖母の話はしなかった。

私が部屋で寝ていると、深夜にドンドンドンドン!と凄まじい勢いでノックする音で目が覚めた。

「〇〇ちゃん!〇〇ちゃん!」と部屋の外から祖母が私を呼ぶ声が聞こえた。

私が「もうなに!?」と声を荒げて扉を開けると、「なにかあったか?なあ、なにかあったか?」と、祖母は虚な目で縋るように私に聞いた。

祖母には何かが聞こえたんだろう。何かが見えたのかもしれない。でも私には何も聞こえてないし見えてない。私は「なにも起きてない!もうほんとにやめて!」と怒鳴って部屋を閉めた。部屋の外から祖母がなにかブツブツ呟く声が聞こえた。布団を被って目を瞑った。しばらくすると、祖母が諦めて自分の部屋に戻って行く音が聞こえた。

次の日、祖母が「昨日は悪かったなあ」と涙を浮かべて私に謝ってきた。勘弁して欲しかった。泣きたいのは私だと言ってやりたかった。私は祖母無視してその場を離れた。

部屋に戻った祖母が大声で歌ってるのが聞こえてきた。「〇〇さんお願いしまーす!〇〇さんと結婚しまーす!ひとりで〇〇さんのところに行きまーす!」と何度も何度も繰り返していた。

こんなことは日常茶飯事だった。

祖母がずっとずっと不気味だった。

でも病気なのか、もとからそういうひとなのか、私には本当に長い間わからなかった。

祖母が早く死んだらいいのに。

そしたらこの家ももう少しはまともだったかもしれないのに。

そう思うこともあった。

そんなことを考える自分が情けなかった。

気付けば、私は祖母のことを見えないもののように振る舞うようになっていた。それが一番楽だったからだ。

これが私から見た父と祖母だ。

もちろん書いたことが全てではない。

父や祖母から愛情を感じることもあったような気がする。

でもなぜか今は思い出せない。

父も祖母も、普通じゃなかった。

私は、気づくまで30年近くかかった。

anond:20240709204451

ほんなら、あんさん、ほんまにすごいお人なんやなぁ。

両親高卒やのにMARCH余裕やなんて、きっと夜なべしてまで猛勉強したんやろなぁ。

塾なしでそこまで行けるんやからもしかして天才さんかも知れへんね。

ま、普通の人には無理やわなぁ。

でも、あんさんのような特別な方には関係ない話しやったんやろなぁ。ほんま、羨ましいわ。

2024-06-25

anond:20240625201001

親の金ブースト猛勉強してなんとか東大に入る人は求められてないんやろ。つまりよ。

2024-05-28

『(ある程度は読めるが)喋れない、聞けない』から、『TOEIC 815点(

『(ある程度は読めるが)喋れない、聞けない』から、『TOEIC 815点(リスニング420点)まで、5時間10か月=1500時間

大学受験英語得意科目だったのははるか昔。喋れない、聞けないから脱却の必要があり、10ヶ月の猛勉強で、さほど苦労なく英語世間話ができて、ニュースTEDなら比較的楽に聞けるようになった。日常的に字幕なしの海外YOUTUBEを見ているし、世界一人気があるというポッドキャスト『The Joe Rogan Experience』も、まだら状の理解ながら、テキストなしで楽しめるようになった。

僕の勉強量と成果のバランスが良いのかどうか、自信はない。勉強時間も、平均したら、一日5時間を大きくは超えないとは思うが、サボり気味だった期間もあり不正である

それだけの時間をかけたら、そりゃ、それぐらいにはなるわな、と思う方もいるだろう。

が、『TOEIC 815点』は日常生活においても楽しめる世界が圧倒的に広がるということ以外に、履歴書にも書けて転職ボランティアにも有利らしい。

日本にいるまま、リスニングスピーキングの力を伸ばしたいと考えている人に役立つかもしれないので、書いてみる。

(X)ただ、ネイティブと話す時間を増やせばいいのだ!

と、当初考えて、オンライン英会話で、ネイティブとのレッスンを受けまくった。

そのうち、ブロークンで、適当に、喋れることを喋るだけなら、問題はなくなった。

が、文法むちゃくちゃだし、細かな表現はできない、聞けない。会話がちゃんと噛み合わない。リスニング能力も、上がった気がしなかった

(◯)カランメソッドで、文法的に正しい英語を喋る訓練をしよう!

と思い、カランメソッドを始めた。ちゃん学習しようとすると、1回のレッスン時間は、25分にしか過ぎないけど、復習に1時間半かかる。合計2時間

毎日かなりのフレーズや文を暗記しなければならず大変ではあったものの、効果直感したので、毎日時間をカランメソッドに注ぎ込んだ。

(x)アプリELSA』さえやっておけば、発音はばっちしのはず!

「正確に発音できないと、いつまでたっても聞き取れない」とあちこちに書いてあるし、発音が悪いと、簡単単語が伝えられなくて、会話がたびたびスタックしてしまう。発音矯正したくて、評判のアプリELSA』を毎日やった。が、ある程度進むと、何度発音しなおしてもOKにならなかったり、文としての発音が難しすぎたりして、限界を感じた。

(◯)発音矯正アメリカ人講師について正しい発音を習った。

 オンライン教室インストラクターに教えて貰って、発音矯正の得意な先生発音を習うことにした。毎日、25分のレッスンを受けた。目から鱗連続だった。正しい発音の仕方(口の形、舌の位置、息の出し方など)を徹底的に教えて貰った。先生は言う、「正しい発音の仕方を、まず、知ること。知ったとしても、できるできないは、別問題。口の周りの筋肉を思ったように動かすには、毎日練習を何ヶ月も続ける必要がある。勉強ではなく、スポーツトレーニングと同じと思え!」

 半年ぐらい毎日レッスンを受け、今は、中断して、『ELSA』だけ毎日続けている。(ELSAによる僕の発音は90点)

 発音矯正のレッスンは、ネイティブのように喋りたい人が受けるもの、と思っていたが、大きな勘違いだった。正しい発音の仕方をまず学ぶこと。それが大事で、できなくても知ってさえいれば、毎日、ほかのレッスンで英語を喋るときに、そのように発音しようと努力するようになる。

 まず、正しい発音の仕方の基礎を徹底的に学ぶことが、大事だなと痛感した。

(◯)Netflixドラマを全文英文表示させて理解ながら見

 のも、リスニングとスピーイングのよい勉強になった。まあ、とにかく、ドラマは、ノンフィクションニュースや教材と違って、わからない。子供同士の話しなんか皆目わからず、ほんとに英語かと思いたくなる。でも、字幕なしでドラマを楽しむのは、最上級難易度。なので、無理せず、英文字幕を表示させて、一文一文、解読理解していく。今は、便利なアプリがあって、英文表示をさせつつ、キーボード操作簡単に進めたり戻せたりできるので、能率的に勉強ができる。英語イディオムスラング勉強に最適。

(x)重要単語の本の単語や、単語アプリ単語をまるまま覚える

 のは、なかなか難しい。いくら単語セレクトが能率的でも、無味乾燥勉強になるので、苦痛だし、案外能率が悪い。

(◯)ドラマオンラインレッスンで習った単語熟語アプリWordHolicに入れていき、毎日、聞き流す

 ドラマから取った単語熟語は、そのドラマのシーンとセットで頭に残るので、覚えやすい。その単語が、頻出単語なのかどうかはわからない不安が少しあるけど、覚えやすさが勝る。スマホのWordHolicに、現時点で新しく知った単語熟語を2500語ぐらい蓄積していて、車の運転などのときに、流しっぱなしにしている(日本語→英語の順)。ボキャブラリービルディングには、アプリWordHolicに次作するのが、一番の方法と思う。

 僕がたどり着いた勉強法はこんなところ。

 5時間10ヶ月=1500時間は、2.5時間20ヶ月。1時間x50ヶ月。やっぱり近道はない。これだけの時間英語に費やすためには、何かを諦めなければならない。

 が、少なくとも、これだけの時間をかければ、なんとかなる。

 ある程度のお金はかかるが、留学にくれべれば圧倒的に安い。

 もっと、早い方法、能率的な方法があれば知りたい。

 なお、僕は65歳。歳は関係ない。ただし、必要性があったので、頑張れた。是が非でもという必要性があることが、一番大事なのかも。

(*TOEICは受けたことがなかったので、勉強前の点数は不明

2024-05-14

せっかく猛勉強して受験戦争を勝ち抜き、最高の学歴を持って官僚になったにも関わらず、北海道から現れた戸塚ヨットスクール出身ハラスメント議員に「クビにしてやる」と脅されるなんて、そりゃ官僚希望者も減るわ

2024-05-03

シナモン安田顕のゆるドキ☆クッキング』27話が神回だった

ゴールデンウイーク期間で全話無料配信中なので見てほしいという話

https://www.youtube.com/watch?v=kAlje3NB9-c&list=PLe-UftTUsMbl2vVTKLxJbMeC3IGb7sD60

シナモン安田顕のゆるドキ☆クッキングとは?

シナモン安田顕がお送りする料理番組TBSで土曜朝から放送し、youtube上で各回を一定期間配信している。

登場人物

シナモロール

現在サンリオ人気投票4連覇中の人キャラクターシナモンとも呼ばれる。

安田顕担当: 安田顕

水曜どうでしょうでおなじみの俳優個人的には最近だと龍が如くナンバ役の印象が強い。

言いたいこと

27話を見てほしい。

https://www.youtube.com/watch?v=3mASJG6MbAg

二人が「ロールキャベツ」を作る回。

何の変哲もない料理番組に見えるかもしれないが、これまでの経緯の集大成のような感動の回なのである。これまでの各回を振り返ってみる。

1話ロールキャベツ

https://www.youtube.com/watch?v=kAlje3NB9-c

ロールキャベツを作る回。

お互いの自己紹介をしたところシナモン質問責めによって一切進まず、収録時間切れとなった。安田が「アシスタント」という肩書を使ったところシナモンに怒られたため、安田顕は今後「安田顕担当安田顕」としてスタッフロールに乗ることになる。

2話「ロールキャベツ

ロールキャベツを作る回。「水たっぷりってどのくらい?」 「塩ひとつまみって誰の指で?」とシナモン質問責めにされ、一切進まずに時間切れで終わった。

3話「ロールキャベツ

ロールキャベツを作る回。レシピを変更し、水100ccなどの具体的な分量を用いることにした。今度こそ料理を完成させるためにテキパキと安田顕が奮闘する。しかし、ハプニングにより進行が止まり安田が焦って謝罪したところ「安田さんが恥ずかしくて申し訳なく思っちゃうならテキパキなんてぽーいだ!」とシナモンに怒られる。今後はテキパキを封印することになった。

4話「ロールキャベツ」→「塩昆布キャベツ

ロールキャベツを作る回。途中でシナモンリクエストによって塩昆布キャベツを作ることになった。袋にキャベツ昆布を入れてもみもみすることで無事完成した。これがこの番組で初めて完成した料理となる。もちろんロールキャベツを作る時間はなくなった。

5話「ロールキャベツ

ロールキャベツを作る回。前回の塩昆布キャベツを気に入ったシナモンが、自作塩昆布キャベツ冷蔵庫を埋め尽くしていた。塩昆布キャベツカニカマを入れる彼独自アレンジ披露し、シナモン安田顕がお互いを称え合って終わった。

6話「ロールキャベツ

ロールキャベツを作る回。ロールキャベツをそろそろ完成させなければマズいと焦る安田顕に対し、シナモンは「レトルトロールキャベツを買ってくる」という暴挙に出る。だんだんシナモンテンションに慣れてきた安田顕もマジトーンで困惑することになる。手作りをするべきかどうかを話し合ううちに時間切れとなって終わった。

7話「ロールキャベツ

ロールキャベツを作る回。今度こそ完成させるために安田はテキパキと進めるが、料理番組特有の「加熱したものこちらです」のような差し替えに対してシナモンツッコミを入れる。料理番組お約束説明しているうちに時間切れとなって終わった。

8話「ロールキャベツ

ロールキャベツを作る回。今度こそ完成させるためにシナモンが張り切って進めるが、途中で寝てしまった。そこにはシナモンロールキャベツのために猛勉強をしたノートがあった。

9話「ロールキャベツ

ロールキャベツを作る回。寝不足のため途中で寝てしまたことを謝罪するシナモン安田顕相棒を降ろされることを泣きながら恐れるシナモンだが、「僕の相棒は君だけ」 「無理はしなくていい」と安田顕は優しく諭す。安田顕の「涙はぽーい!」で締められる感動の回。

10話「ロールキャベツ

ロールキャベツを作る回。実はシナモンロールキャベツに恐怖を感じていたことが判明する。これまでのグダグダは半分意図的シナモンが進行を妨害していたという真実が明らかになった。今後は頑張るとシナモンは主張する。それに対して「嫌なことも怖いことも頑張ることなんてないんだ」と安田顕シナモンのために今後は別の料理を作っていくことになった。

11話~25話

以降は「トースト」 「焼きマシュマロ」 「ドリップコーヒー」 「カップラーメン」 「味玉」 「雑談」 「エゴサ」と段々番組ハードルが下がっていく。最初のギクシャクした空気も消えて、お互いがお互いから学びながら二人は仲良しになっていった。

26話

しばらくロールキャベツ話題が出ていなかったが、ここで再度ロールキャベツを作ることをシナモンリクエストする。ロールキャベツを恐れる彼の過去が明かされた。怖いものに向き合おうとするシナモンに対して、怖いものは怖いままでいいと安田顕は言う。ロールキャベツのものは好きだが、「巻く」ことが怖いというシナモンに対して、いいアイデアがあると安田顕

27話「ロールキャベツっぽいもの

ロールキャベツっぽいものを作る回。これまでの改善点を活かしてテキパキと進めていく。シナモンのために安田キャベツを巻かずに挟んで煮込むだけのレシピで作ることにした。無事に料理が完成し、「安田さん天才!」 「シナモンマインドを真似して気楽に作ってみました」とお互いを褒めたたえて終了。

「がんばらなくていい」 「気楽にいけばいい」という終始訴えてきたテーマのまま、27話目にしてロールキャベツが完成した。これまでの集大成のような回だった。

まとめ

全話無料公開中なので見てください

https://www.youtube.com/watch?v=kAlje3NB9-c&list=PLe-UftTUsMbl2vVTKLxJbMeC3IGb7sD60

2024-03-22

anond:20240321190601

崩壊した家庭でヤングケアラーやってたが、子供なりに学歴良くなければ親と同じような道を辿ると思って猛勉強した結果、東大もA判定の成績取ってたわ。

だが、親の世話があるのと下宿するお金がないのとで家から通える国立大しか行けず、結局地元国立大入学した。

まあ、近くに国立大があっただけましで、もしその大学がなければ大学は諦めてたかもしれない。

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