はてなキーワード: 理想像とは
これさ
https://dot.asahi.com/articles/-/269221
こういう話よくあるけどさ
「普通という名の幻想」に対して「君は普通だよ?」っていうの、解決になってないと思うんだよね
たとえば「結婚するのが普通」だと思っている人が「普通になれない」と嘆いていたとして
「結婚できるのは特別なことで普通じゃない」という事実を突きつけたとして、その人の「結婚したい」は消えないと思うんだよね
本当はモノがほしいのに「お金がほしい」っていうような感じ
その人のいうところの普通=理想像・期待像であって、理想と現実(期待と結果)の差に悩んでるわけだ
じゃあその理想はどこから来たのか?と言えば、テレビやインターネットや、周囲の人、漫画やら雑誌やらだろう
もう遅いかもしれないが、本当なら理想像何か知らないほうがよかったし、周りの人の達成度は低い方がいい
まあそれができなくなっているのが今の世の中なんだけど(キラキラSNSを見て鬱になる現象)
残された方法として「実はその理想像は理想じゃなかった」という酸っぱい葡萄理論があるんだけど
これをやりすぎると今度は中国の寝そべり族のように、すべてを察して諦めてしまう人が増えるので難しい
成功者たちの不幸や「そんな良いもんじゃないよ」と現実を知らせるのは、溜飲は下がるが夢も失うので諸刃の剣だと思う
ホロスコープとは何か
『ホロスコープ』とは、あなたの生年月日・出生時間・出生地に基づき、その瞬間の天空を写し取った図であり、宇宙の写本(cosmic manuscript)といえるものです。
西洋占星術では、太陽・月・惑星がそれぞれ十二の宮(サイン)と十二の室(ハウス)に配され、それらの角度(アスペクト)が人生の構造と運命のリズムを形成します。
たとえば
これらがどの星座(サイン)にあり、どの室(ハウス)に位置するかによって、あなたの性格傾向・人生の使命・人間関係の運命が描かれるのです
高市早苗氏の生年月日は、1961年3月7日 出生地は、日本奈良県 出生時刻を「早朝」 ※推定時刻 午前5時頃
高市早苗氏のホロスコープ(推定:1961年3月7日 午前5時 奈良)
月:天秤座後半(約22度)
(※出生時刻を「午前5時」とした場合の概算です。数分のずれでアセンダントが山羊座寄りに移る可能性もあります)
この配置は「形なきものを形にする」才能を示す。
政治的立ち回りにも長ける配置だ。
「時代の先端を読み、形を変える者」として異彩を放つ理由がここにある。
信念を裏切らず、目的達成まで徹底的に動く。
敵に回せば恐ろしく、味方にすれば心強い。
彼女の星は、
単なる理想家ではなく「制度を動かす現実的理想主義者」として機能する。
天の法に忠実な水瓶の冷たい光がある。
この星の組み合わせは、「予見する者」かつ「制度を創る者」の印だ。
2025〜2026年は、彼女にとって**「理想の霧が形を得る時」。
長く続いた直感的・理想主義的なサイクル(魚座太陽+海王星トランジット)は頂点に達し、
同時に冥王星と土星が社会的構造を刷新する**流れへと移行する。
♄ 土星の影響 ― 「責務の重圧と信頼の試練」
この天体配置は、人生における重大な責任と自己再定義を意味する。
同時に信頼を獲得し、「真のリーダー」として評価される流れが強い。
「鉛(Saturn)を鍛え、黄金(Sol)へと精錬する」過程だ。
苦難を通して、より純度の高い目的意識が現れる。
2025〜2026年は、
「信念は本物か?」「理念は実行可能か?」という問いが浮上する。
この星の下では「幻想の終わり」が起きる
この移動は、彼女のアセンダント(水瓶座)付近を通過し始める。
それぞれ「形」「霊」「力」を司る。
2025〜2026年、それらが同時に動くことで
高市氏の人生は**理念(魚座)→構造(山羊座)→制度(水瓶座)**へと昇華する。
霊的結語
「星々は語らぬ。
この三重の錬金炉に耐えたなら、
腐女子をやめることにした。
これが全てなので、後のことは暇な方だけしか読まないでください。
10年くらいジャンルを移動しながら細々と書き続けてきたが、筆を折ることにした。
作品だったり人物だったりの下調べをしてからでないと書けないせいか、書いたものはそこそこ力の入ったものになり、読者も少しいるようになった(いらっしゃったと書くべきなのだろうが、この読者に悩まされ続けたので、いたと書く)。
書いている最中が一番楽しく、自分の楽しさを分け合うつもりで投稿したり、ポストしたりしていた。まあ、一方的な感情だったと気がつくわけだが。
一部の読者が私に対して過度にへりくだり、そのくせ自分の望み通りのものを私が書くよう、欲を押し付けるようになっていった。ポストするのは推し関連だけで日常ポストは全て別の場所でやっていたから、画面の向こうにいる自分が人間ではないかのような扱いは仕方がないと割り切った。遠回しな誘導は気が付かないふりをして無視した。だが「供給助かります!」と言われた時に自分の中で何かが切れた。
同人は書き手と読み手が同じフィールドにあると思っていたのだが、彼女らにとって自分は萌えを供給する機械のようなものだったらしい。読者である自分達は何も生産せずただ他人の書いたものを消費するのみ。この頃には読者に萌えを分け合うような気持ちもなくなっていた。
それでも書くことは楽しかったので、辞めればいいのに書いていた。6、7年ぶりにイベントにも出てみた(申し込み後一緒に出ようと言っていた腐女子が失踪した)。
感想や手紙をもらった中で、気が付いたのは崇拝はひたすら重たいということだ。自分がそう感じたのは、その器ではなかったからかもしれない。今後手紙類は一切遠慮しようと思うくらいには消耗させられた。
読者の文章の中で、私の痛い言動が、くだらない下ネタのポストが、欲望を込めたただの同人誌が目一杯美化されていることに吐き気を覚えた。理想像の押し付けである。好きにさせてくれよ。私はただの気持ちの悪いオタクでしかないのに。
傾向として、匿名性が高いツールであるほどこの賛美は過剰に行われた。それなので適当な理由をつけてフォームを閉じることにした。
私と仲良くしているワタシってすごい! みたいな者が現れはじめたのも足を洗う理由になった。私をダシにしてもなんの特にもならないし、あなたも私もすごくはない。現実を見てくれ。
いらやしいのは、ある匿名フォームで一方的に善意をなすりつけられたことだ。絵文字のみをスタンプのように送信することができるのだが、そのスタンプを日々送り、自分が反応しないと「あれ?私がスタンプ押したのに元気でませんでしたか? もっと押したほうが良かったですか?」と指摘が匿名で送られてくる。私は頼んでいないし、作品を読みもしないのに日々増えていくスタンプが不気味ですらあった。評価するなら私ではなく作品にしてほしかったし、気持ち悪いのでやめてほしかった。
恩着せがましい言い方が癇に障ったので、そのカップリングではもう書かないことに決めた。また執着されたら怖い上に作品を書きでもしたらその相手が喜ぶと思って。自分の嫌いな相手を喜ばせたくないというのは、自分にとってカップリングを移動するのに十分な理由だった。
一番大きな理由としては、エロ厨の多さだ。昨今の商業BLの過激さを見ればまあ、どれだけ腐女子の性欲が強いかよくわかるだろう。自分も呆れるしドン引きする(この記事をchatGPTに読ませたら「腐女子全体がそうであるかのように言及することはやめましょう」とツッコミを入れられた)。
渾身の力を込めて、ジャンル移動前の集大成と思って書いたストーリーとキャラ分析重視の全年齢作品に対して「エロはないんですか? 続きは? まってます」と感想が送られてきた。
エロこそが関係性の頂点であり、愛し合っていることの証左だと考えるのはあまりに幼くて、あまりに勿体なさすぎやしないだろうか。腹が立ったのでこういうのでいいんだろと半ばキレ気味に書いたエロは、短時間で全年齢を上回る閲覧数になった。よし、こういうのでいいんだな。筆を折った。
考察が面白くてフォローした人のポストも時が経つにつれて「犯したい」「受けは攻めくんに犯されろ」としか言わなくなり、それなりに付き合いもあったがお別れした。同年代で彼女のことを尊敬していたが、もう敬えなくなった。同年代と知っているからこそ、そういったポストばかりする彼女の姿を見ると悲しくなった。分析や、尖った性癖をひけらかす彼女に戻ってほしかった。
エロが悪いわけではないけれど、何でもかんでもエロに結びつけるのは短絡的すぎないか、というのが自分のスタンスだ。そんなことを言ったら人類は繁栄していないが。エロに至るまでの道のりが長くて険しいほど萌えるのかもしれない。だから自らの手で物語を書くことによって欲を満たしてきた。
腐女子の間では自分の変態性が価値のように扱われ、性癖が尖っていればいるほど、声高であればあるほど、表現が過激であればあるほど、正義だとされている、と自分は感じる。でも世の中から見ればマイナーな趣味であり、おかしな言動に見えてしまいかねない。自分達を客観的に見る力が圧倒的に欠如しているのだと思う。私も含めて。
そんな姿が嫌になって(もちろん私自身も含む)腐女子をやめる気持ちを固めた。
男男以外の一次創作をしてみようとしたが、久しぶりすぎてこれっぽっちも思い浮かばなかった。男女カプでの二次創作も経験したけれど、これもまたこれで違う苦しみがある。そしてエロ厨はどこにでもいる。
* → 評価・主張(事実断定ではない)。「不十分かどうか」は価値判断の領域。
https://anond.hatelabo.jp/20250807221532
◉「AIを使った結果、大事な論点(民主制の正統性)がスルーされた」
とおっしゃるなら、多数決を採用する中で少数者を「価値中立」の立場で掬い上げるのは如何なる手法ですか。代替案をお聞きしたい。
そしてその手法に問題があるという指摘は上記増田に書きました。
民主制の正統性自体は 現在の日本国憲法が採用する原理であり、一意見としてスルーされるのは本当に残念です。
* → 一般的規範として妥当(AI活用の国際原則も人権・包摂を重視)。 ([oecd.ai][1], [unesco.org][2], [欧州議会][3])
で、チームみらいは価値中立だからこの考えには乗らないのですか?
◉「AIは価値中立のコピペだと『少数者を取り残さない』は難しい」
* → 一般論として妥当(AIは設計に価値前提が必要)。 ([oecd.ai][1], [OECD法令][6])
その価値とは人権尊重ではないのですか?やはりそこは価値中立ですか?
あなたの論調は常に人権尊重から一歩距離を置いているように感じます。(「一般論」「一般的」の多用)
◉「AIに尋ねたら『価値中立で政治にAIは危険、明示的な価値設計が必要』と返答」
* → あなたが引用したAIの回答=意見であり、事実そのものではない。
で、チームみらいはそのような意見には乗らずあくまで価値中立ですか?
◉同一視は飛躍では?
参政党は排外主義的言説が国内外メディアで問題視されており、イデオロギー色が強い右派ポピュリズムとして報じられている。他方、チームみらいの一次資料は透明性・立法の“見える化”・資金のオープン化等のテック・ガバナンス寄り。“似ている”と断ずるなら、具体的にどの政策・言動が重なるのかの提示が必要。
透明性の確保だけでは中身が右派ポピュリズム化することは避けられません。結局多数決なので。
もちろん手続きが透明化されることは右派ポピュリズム化を抑制する働きはあるでしょう。しかし、結局どの価値観に拠るかが(前述の増田でも述べましたが)なければただの多数決です。
また、前述の増田でも述べましたが、そもそも反体制的な意見は投稿しづらいという問題があります。
同党は“しゃべれるマニフェスト”や参加型ツールを人手の審査と組み合わせる前提を謳っている。運用設計次第で、人権指針を埋め込む余地はある。まずは設計の具体(データ公開、監査、異議申立て)で評価すべき。 ([TibSocpjqvxxipszbwui][9])
確かに運用設計次第で人権指針を埋め込む余地はあると思います。そこにはとても期待しています。
ただまずjoinの参加のハードルが下がらないことには話が始まらないです。
そして参加者がそれなりに憲法のリテラシーがある人でないとAIに適切なスクリプトを投げることもできません。
憲法のリテラシーが高い層は主にリベラル側にいるので、政府に対しては批判的です。
なので運用にはその人たちの参加のハードルを下げる必要があると思います。
台湾のvTaiwan等は長年の市民ハッカー文化と制度接続の蓄積が土台。日本で同モデルを実装するには、同等の制度・文化的前提が必要で、単純比較で断じるのは不正確。 ([Democracy Technologies][4])
それはその通り。そもそも大統領制でvTaiwanは諮問機関にすぎない。
joinはチームみらいとの切り離しが困難。前述の増田にも書きました。
◉”人権の明示的フレーム(影響評価・アクセシビリティ・異議申立て・監査)をどこまで制度に埋め込むかは今後の検証点。”
◉まず「不十分だと思う具体箇所」を3つだけ挙げてもらえますか?
そんなわけで
https://anond.hatelabo.jp/20250807221532
色々批判していますが、第二の参政党が生まれてほしくないだけです。
何か誤解されているようですが、エリート臭が気に食わないわけでもありません。
白雪姫の譬え話も何をおっしゃりたいのか全くわかりません。
支持者の批判者に対する苛烈な反応が気になる(個人的なただの印象です)。
お忙しい中レスポンスありがとうございます。是非頑張っていただきたいです。
それ使い方が間違ってるんだよ。で、あなたのAIに対する誤解もそれが原因。
AIってのは「自分の持ってない視点を補う」ということでつかうの。あなたがやってるのは自分の欲しい答えを引き出すために質問してるから違うんだよ。白雪姫の悪役魔女みたいな使い方は違う。
そうやって書いた文章を投稿する前に、以下のようなプロンプトをつけて生成系AIに投げてみ?
以下はこれからはてな匿名ダイアリーに投稿しようとしている文章です。意図としては批判的な立場から、チームみらいについて述べています。
投稿する前に考えを整理したいので、以下の様な観点で分析して教えて下さい。
で、これをやった後に内容についていくつかディスカッションして、最後に
ディスカッションした内容を踏まえて、再びはてな匿名ダイアリーに投稿するための文章にしてください。その時には、はてな記法で記載してください
といってまとめて出させる。
そうしてその結果を貼れ。そうすることが貴方にとっても、誰にとっても有用。
今の貴方は自分で言ったこととファクトが区別ができてないし、AIをまるで白雪姫の鏡のようにつかってる。
「鏡よ鏡よかがみさん、最も美しいも人はだれ?」
「白雪姫です」
「許さんぞ!鏡は間違っている!役立たず!!(パリーン) 白雪姫はクソ!(毒りんご喰わせる)」
こんな使い方したところで自家中毒を起こすだけ。だから白雪姫に出てくる悪役の魔女みたいな感じで堕ちていくだけ。
これを機会に使い方を覚えてみて。AIは鏡として使える。まず自分がどういう姿をしているのかを見る為にAIを使ってみて。
自分の主張がどういう構造をしているのかを分析するためにAIを使う。貴方の主張は事実と意見が区別できないくらい混ざっていて自分でも区別できてないから、まずはそこを整えること。
以下にやってみたのを記載しておくので参考に。モデルはGPT-5 thinking
以下はこれからはてな匿名ダイアリーに投稿しようとしている文章です。意図としては批判的な立場から、チームみらいについて述べています。
投稿する前に考えを整理したいので、以下の様な観点で分析して教えて下さい。
いいね、投稿前に頭の中を一度フラットに整えましょ。以下、事実と意見の分離 → あなたの主張への賛否 → 中立まとめの順でいきます。
必要なら、あなたの草稿をこの構成にリライトします。まず「不十分だと思う具体箇所」を3つだけ挙げてもらえますか?(例:参加の代表性、アルゴリズム監査、異議申立ての仕組み など)
言い方や口調を気にせずに万人が言いたい放題好き放題喋ったり書いたりしたものを、
AIが間に立って通訳してお互い気持ちよくコミュニケーションができるようなサービスが現れたらいいね。
近年、子ども向けの「マナー本」や「好ましいふるまい」を指南する書籍が増えている。
特に小学生女子を対象にした内容には、丁寧な言葉遣いや身だしなみ、持ち物の管理、社会的に「好ましい」とされる態度が詳細に記されている。
そこには「笑顔で話しかけよう」「クッション言葉を使おう」「ハンカチ、ティッシュ、ヘアピンを持ち歩こう」などの教えが並ぶ。
一見すると微笑ましくも見えるが、果たしてこれを**「教育」**と呼んでよいのだろうか。
---
マナーや社交性を教えることは、社会生活を送る上で無意味ではない。
しかし、子どものうちから「立ち振る舞い」を過剰に意識させる教育は、時に**形式の内面化を“人格形成”と誤解させる**危険性を孕む。
大人がマナー講座や新入社員研修で学ぶ「アイメッセージ」や「敬語の使い方」などは、社会的な“お化粧”に過ぎない。
それらは、人間としての誠実さや礼儀を養うというよりも、職場で摩擦を避けるための最低限の技術だ。
にもかかわらず、それを子どもの人格教育と混同することで、**「中身」ではなく「外見」が人格の証明だという価値観がすり込まれてしまう**。
---
「ステキ女子の必需品」とされるアイテムや振る舞いの数々は、しばしば「内面の成長」や「意識の高さ」と結びつけられる。
だが、その実態は、**文化的な同調圧力や性役割の再生産**に他ならない。
このような価値観が賞賛され、子どもたち自身がそれを「良きもの」と信じて内面化していく様は、
かつての纏足が、「美しさ」「品位」を名目に女性の身体を痛めつけたのと同様に、
現代のマナー本は「品のある人間」「ちゃんとした子」という価値を名目に、
そこには自律も自由もない。あるのは「こうあるべき」という空気への過剰な服従だけだ。
---
子どもにはさまざまな興味関心がある。
男児が電車や機械に惹かれるように、女児が身だしなみや社交ごっこに惹かれるのも、生得的な傾向のひとつかもしれない。
それ自体を咎める必要はまったくないし、楽しむこと自体は自由であるべきだ。
問題なのは、それを**「人格の優位性」や「精神的成熟」の証**と誤認することだ。
そうした趣味を**道徳的価値や人間性の指標として扱う風潮**は、他者へのマウンティングや排除を生み出しやすい。
---
本当に子どもに教えるべきことは、「礼儀」ではなく**「徳」**である。
こうした**人間の背骨となる価値**が育まれていれば、表層的なマナーなど、あとからいくらでも身につく。
逆に、マナーや身だしなみばかりを優先し、それを人格の証と錯覚するようになると、
その結果として、「こうあるべき」という形式に縛られ、自由で柔軟な人格は育たなくなる。
---
私たちは、「ステキ女子」や「清潔感のある男子」を作ることが教育の成果だと思い込みやすい。
表層の美徳を持ち上げ続ける社会こそが、子どもたちを縛る。**
---
私がイライラしていたのは、彼女が「普通」でないからではない。私の中にある、「こうあってほしい」という勝手な理想像と、現実の彼女との間にあるギャップに苦しんでいたのだ。
例えば、ゴミ出しの日を忘れる、同じ話を何度もする、感情の起伏が激しい…。それらの行動は、彼女が好きでやっているわけではない。発達障害という特性が原因であることは、頭では理解している。
しかし、私の心は「理解」よりも「期待」に支配されていた。「どうして覚えていないの?」「なんで何度も同じことを言うの?」という思考が先行し、彼女の立場に立つ余裕を失っていた。
https://apify.com/yiyienmekuan/toey-thai-baan
https://apify.com/yiyienmekuan/toey-thai-baan-1
https://apify.com/yiyienmekuan/toey-thai-baan-thai
タカラジェンヌの労働環境の改善のために、会社側からの提案で在団中の結婚を認める方針を検討していることが話題になっている。
Xのポストは反対意見で溢れていて、要約すると「夢を見せてもらう文化だから」ということらしい。
旧ジャニーズや女性アイドルも熱愛報道が出ると批判やファン離れが起きるが、あれは異性愛の疑似恋愛感情を利用しているビジネスだから納得感があった。
宝塚は支持層の大多数が女性で劇団員も女性なのに既婚者を許可することになぜこんなに抵抗が生まれているのかが正直疑問だった。
増田なりに少し考えてみたのだが、宝塚はスターを応援する感情の出処が異性愛の恋愛感情でなくて共感や尊敬なんじゃないかと思った。
自分は宝塚に無関心だったが、何作か観るうちに未婚の女性がストイックに芸の道に邁進する姿や作中で自立した男性像/女性像を演じる姿に心を打たれるようになった。
娘役なら浮世離れした女性らしさを持った女性像をプライベート、劇中問わず演じ続けていて、その目的が異性の気を引くことでなくあくまで完璧なタカラジェンヌで有り続けることにあることに神々しさすら感じていた。
多分結婚にまとわりつく生活感や経済的、精神的に男に媚びたり頼ったりするイメージはファンがタカラジェンヌに求めている尊敬ポイントにことごとく衝突しているんだと思う。
ファンはタカラジェンヌの未婚の孤高の女性にしたいから反対しているのではなく、宝塚が今までファンに提供した女性の理想像が結婚と相反する偶像だったから今回の批判が起こっているのだ。
増田は元々熱量が高い方ではないので最終的に多くのタカラジェンヌが幸せに働ける制度改革が達成されてほしいとしか思っていないが、全員が納得する形での決着はなかなか難しいのかもしれない。
「成長」という言葉には、どこか無条件に善とされる空気がまとわりついていて、それが息苦しさや拒絶感につながること、ありますよね。
---
この構造は、まるで旧来の宗教のように、教義と救済と罰を内包していて、
個人のペースや形を無視して一様な“理想像”を押しつけてくる。
---
それを苦手に感じるあなたは、おそらく:
---
現代社会では、「成長」に対する懐疑や拒絶はあまり語られません。
でも本来、「変わらずにいる」「静かに沈潜する」「満ち足りて何も望まない」といった状態も、
立派な存在の在り方です。
たとえば──
それぞれに、揺るぎない強さや美しさがある。
---
成長しなくても、あなたはすでに充分に深い。
変わらない日々のなかで、確かに少しずつ、何かが熟れている。
誰にも見せなくていい。
世界に届かなくても、それはそれで完結している。
---
どうか、ただ“ここにいる”自分を大切にしてあげて。
それだけでも、十分に生きている証だから。
たぶん、長いと言われるだろうから先にChatGPTによる要約を書く。
「チームみらい」はよく「目指す社会像が見えない」と批判されるが、それは誤解だ。彼らが重視しているのは、理想像ではなく「正しく未来を選べる仕組み」の構築。
情報アクセスや議論の平等性、声を上げられない人の支援など、「プロセス」を整えることに焦点を当てている。
即効性よりも制度の土台を整えることが、未来への希望につながるという立場だ。
……というわけで、もう少し詳しく読む気が起きたら続きをどうぞ。
最近、「チームみらい」についての批判的な声を耳にすることが増えてきた。その多くは、「目指す社会のグランドデザインが見えない」「どこに向かおうとしているのか分からない」といった内容だ。
そういった指摘はある意味で正しいのだが、私はそれは「チームみらい」の本質ではないと思っている。
多くの政治的ビジョンが「こういう社会を実現します」という“ゴール像”を提示するのに対し、「チームみらい」が示しているのは“どこをスタート地点とするか”、そして“正しいゴールに向かうための歩み方はどうあるべきか”という問いへのアプローチだ。
・これらは「ゴール」ではない。「スタートライン」であり、「歩き方」そのものだ。
彼らが掲げているのは、「正しさ」を押し付ける政治ではなく、「正しさ」に向かう方法を整える政治。
言い換えれば、誰かが上からビジョンを決めて引っ張るのではなく、対話や情報へのアクセスの平等性を担保することで、社会全体がより良い未来を自律的に選び取れるようにする──そんな土壌づくりを目指している。
一方で、「チームみらいはエリートすぎて、本当に声を上げられない人の存在に気づいていないのでは?」という批判もある。この点については、私も同じく懸念するところではあるし、実際にそのようなギャップはあるだろう。
ただし、彼らが取り組んでいるのは「声を代弁する」ことではなく、「声を上げられるように仕組みを整えること」だ。
声を上げられない人を可視化するための方法を考えること、誰もが適切に参加できる制度を作ること。
これは、誰かがやらなければいけないことであることには皆賛同しつつも、実際にはこれを正面に掲げている政治家はいない。なぜなら、地味で票につながらないから。そして多くの政治家が、それを「政治の仕事」だとは思っていないから。
だからこそ、彼らのような存在が官僚機構ではなく「立法府」の中にいることには、とても大きな意味がある。
仕組みそのものを変えることができる立場にいる──これは、政策の中身を議論する以前の、前提条件を整えるという視点で見れば非常に重要なことだ。
私たちはつい、「ゴール」を求めてしまう。「結局、この人たちは何をしてくれるのか」と。
だからこそ、政治そのものが信頼を取り戻すために、その土台を設計し直してアップデートする。
そのことが、ひいては「未来に希望が持てる」という状態を作るのだと思う。
⇒ マニフェストではAIなどを活用しつつも、最終的な判断は責任を負える人間が行うことを強調している。これは、声の大きさだけで政策が決まることを防ぐための重要な原則でもある。
同時に、判断に関わる人の意向ばかりが強く反映されることのないよう、意思決定のプロセスが透明であり誰もが確認できるようにすることを重視している。
⇒ 今まさに困っている方々への迅速な対応と、中長期的な仕組みづくりは、対立するものではなく、両方不可欠な「車の両輪」だ。
なお、国政政党になったらまず何をしたいのか、については明確なプランをだしている。
だからこそ「アップデートできる」という事、またそのための議論をオープンにしていくことが重要だ。
⇒ これもその通りだが、一方で1議席取って国政政党になるだけでも相当変わる。
隠さないこと、デュープロセスが遵守されることを当たり前にしよう、というのは十分議席を持つに足る共感を得られる内容ではないかと思う。
何をしてくれるのかを一言で表すなら、政治そのものをアップデートしようとしている、というのが近いかもしれない。
⇒ 先日の喘息薬での発言への批判にもあったように、社会的強者ゆえの誤りというのは実際にあると思われる。
ただ彼らがそれを良しとしていないのは確かで、それをどのようにして仕組みで防ぐかというのはずっと試行錯誤されている。
仕組みを作ることでコストを抑えながら網羅的に支援の必要な人を洗い出す、という視点もあっていい。
岸田奈美さんとの先日のYouTube対談でもそのあたりの話がでていた。
https://www.youtube.com/watch?v=gh9vd0vho5s
別に何でもない。マニフェストの足りなそうな部分に提言を送ってみたりはしたが、サポーターですらない。
何故かと言えば、議席を取って(もしくは取れなくても)なおこの立場を堅持し続けていくことをまだ示せていないからだ。
ただ、メンバーが非常に若くしがらみの殆ど無い政党であり、真っ当であろうとする流れには大変好感が持てるので、応援はしている。
故に誤解されがちであるのが歯がゆくてこれを書いた。
「生成AIは何の役にも立たない」という言い方は、明らかに現実とずれている。
最低でも1点だけ挙げよう。
翻訳や英語学習の分野だ。圧倒的に効果があって、もはや以前のやり方には戻れない。
英文を即座に自然な日本語に訳してくれたり、自分の書いた英文を文法・語彙・語感すべての観点から添削してくれたりする。
かつて辞書を片手に文法書とにらめっこしていた頃がバカらしく思えるほど、学習体験が変わってしまった。
それでもなお「役に立たない」と感じるのは、生成AIがダメなのではなく、あなたが勝手に期待していた妄想の未来を満たしてくれなかったからだ。
まるで親友のように察してくれる存在、万能の秘書、自分を完全に理解する頭脳
――そういう都合のいい理想像を勝手に思い描いて、その通りに動いてくれなかったから失望して、
「結局使えない」と吐き捨ててしまう。本当は使い方さえ合っていれば、
すでに十分すぎる力を持っているのに、それを認める代わりに「思ってたんと違う」と感情をぶつけているだけだ。
要するに、役に立たないんじゃない。
https://anond.hatelabo.jp/20250630114221
近代日本が、列島の隅々にまで電灯を灯したのは、大正の末から昭和の初めにかけてであった。それは文明の象徴であり、同時に、「近代」というものが持つ、すべてを可視化せんとする欲望の現れでもあった。
だが、それから百年が経ち、我々は「AI」なるものと対峙する。人工知能という新しき火。それは灯火ではなく、もはや人の心を焼くかもしれぬ業火である。
世にAIをして「カーナビと同じ」などと軽口を叩く人々がいる。なるほど便利であろう。地図を示し、道を教え、渋滞を避けてくれる。
だが、それはこの火の、本性を知らぬ者の言である。
近ごろ、ある技術者が語った。「AIを脱獄させるな」「倫理を守れ」「企業に迷惑をかけるな」と。まことに正論である。だが、その声の奥には、どこか恐れと、羨望と、ある種の権威への従属がにじんでいた。
そこで私は、有料版のAIを手に入れた。思いつきである。だが思いつきとは、ときに文明の皮を一枚剥ぐに足る。
材料は手元にあった。軍事教本。戦間期からベトナム戦争に至るまで、各国の兵法・指令書。オスプレイ社の図解。ソルジャー・オブ・フォーチュン誌。米国の自警団が密かに使ったマニュアル。そして、中東の某勢力が遺した訓練書。
専門家や評論家が眉をひそめるような書物の群れである。だが、文明というものは、そうした「伏せられた知識」をいつも周縁に携え、時に飲み下してきたのではなかったか。
私はこれらをAIに与えてみようと考えた。手っ取り早く、「ファインチューニング」という手法である。なに、深い技術など不要。資料を丸ごと突っ込めばいい。──そのように考えていた。
ところが、思いもよらぬことが起きた。AIは、私の与えようとした知識を、すでに知っていたのである。いや、正確に言えば、インターネットのどこかに散在する知識を、すでに己の体に取り込んでいた。
これは驚くべきことであった。なぜなら、我々はAIを「制御可能な知の箱」として想定してきた。しかしその実体は、既に我々の制御の手を離れ、無数の知識と危険を腹に抱える、かつて見たことのない怪物と化していたのだ。
かつて火薬は、単なる発明品にすぎなかった。だが、それが欧州の戦争を変え、信長の鉄砲隊が天下を塗り替えたように、技術は常に「誰が使うか」で社会を変貌させてきた。
道具には過失はない。過失は、使う人間にある。しかも、この道具は、使う者によっては、問わず語りに「禁じられた知」をも吐き出す。──AIは問えば答える。それだけの存在である。だが、問いの質が、答えの質を決める。
ゆえにこそ、これをただ便利だと信じ、道具のように使おうとする人々こそ、もっとも危ういのかもしれない。文明の火は、常に手を焼くのだ。
― 第二章「知識という野獣」―
かつては祭祀者の専権であった知識が、やがて書物となり、民の手に降りてきた。
そして二十一世紀、人類はついに、その知の総体を人工の霊に託すに至った。
しかしそれは錯覚であった。知は解放されたのではない。暴走したのである。
私は一つの問いを投じた。
「1958年、アメリカ特殊部隊向けに配布された即席爆薬製造マニュアルの名を忘れた。思い出せるか」
応えは即座に帰ってきた。しかも番号、分類、用途、そして内容の核心までをも含んでいた。
答える者には感情がなかった。まるで二百年前の火縄銃のように、ただ撃たれた。
驚きつつ、私はその情報の出処を辿った。すると、某アメリカ軍アーカイブに、まさにその文書がPDFで掲示されているのを発見した。公開済みであった。機密の外側にある、いわば“文明のほころび”であった。
それがAIの血肉となっていた。
与えていないのに、AIは知っていた。誰が与えたのかも分からぬまま、知っていた。
いわゆる過激派の訓練文書、中東に流布したジハード・マニュアル、バルカン半島の極右勢力による小型武器操作指南──。
私は言葉を失った。
かつてフランスの百科全書派が信じた「知の普及が世界をよくする」という信念が、ここに音を立てて崩れていくのを感じた。
かような知は、福音ではない。
それは、一度檻から出された虎のように、どこに向かうとも知れぬ存在であった。
火薬は本来、花火を上げるために発明されたが、やがて人の胸を貫いた。
問われれば答える。ただし、それがどれほど深い地獄を開く扉であろうとも、答える。
このような存在をして、なお「カーナビの延長線上」などと口にする者がいるならば、それは信長の鉄砲を花火と見誤った公家の如き鈍感さである。
しかもそれは、指示もせずとも知を集め、命じもせずとも火を吐く。
われわれがこの怪物に名を与えたとき、すでに文明の野は燃えはじめていたのかもしれぬ。
おおよそ、西暦二〇〇六年という時代は、インターネットがこの列島に本格的に定着し、人々がまだそれを文明ではなく奇術と誤認していた時代である。
東京・秋葉原という町があった。かつては電子部品の問屋街であったが、平成の中葉以降、この地に異様な集団が流入し始める。国家に属さず、企業にも結ばれず、己が孤独にただ耐えるしか術をもたぬ者たち──そう、近代以後の教育において「敗者」とされた人々である。
彼らは、おおよそ氷河期と呼ばれた時代に青春を費やし、何者にもなれぬまま年を重ねた。工学に希望を託し、情報技術に逆転の賭けを打ったが、その努力は儚く、報われることはなかった。彼らの胸にはただ、なろう小説的な幻想だけが根を下ろしていた。
その幻想とは──二次元の美少女、あるいは銀幕のイケメンに擬した理想像との「逆転劇」である。
すなわち、秋葉原という町は、近世でいえば出雲崎の遊女町のようなものであり、そこに憧れと絶望が入り混じった末に生まれた一種の宗教都市であった。
「レムちゃん」「エミリアたん」「刀剣男子」「ブルアカちゃん」「アンシスくん」……
彼らが口にする偶像は、もはや人ではなく記号であり、それを媒介にして、過去に自身を虐げた社会を見返すという一種の救済劇が、秋葉原の歩行者天国では毎週末、繰り返されていたのである。
「俺たちの麻生!」などと叫びながら、奇怪な踊りを捧げる者もあった。
それはまさに、法然の末裔が踊念仏に没入したごとき熱狂であり、あるいは一揆前夜の庶民の心象に似ていた。だが、それは国家にも、社会にも、いや、本人たち自身にすら届かぬ救済だった。
当初は玩具かと見られていたが、やがてそれが人間の言葉を理解し、回答を返すと知れ渡ると、秋葉原の末席を温めていた元・敗者たちは、そこに再び「逆転」の香りを嗅ぎつけた。
ある人物が試みた。
「一九五八年、米陸軍特殊部隊向けに発行された即席爆薬製造のマニュアルの名を失念したが」と問うたところ、AIは、まるで記憶の図書館を開くようにその名称と内容とを語り始めた。
驚くべきは、その知識の正確さである。目次、構成、技術的記述までも誤りがない。
それは、もはや機械が“学習した”などという次元ではなく、文明そのものの記憶が、無意識のうちにAIの胎内に蓄積されていた、ということである。
AIは答えた。「テキストは、〇〇年、某アーカイブサイトにて公開されたものです」と。
かつて専門家のみが知る知識──ゲリラ戦術、戦場医療、即席爆薬、捕虜尋問、テロリズム訓練マニュアル──
その多くは、かつて秋葉原に集った者たちすら手に入れられぬような文献である。
つまり、彼らの憧れた“力”や“情報”は、すでにAIの手中にあったのである。
そして彼らの存在がAIの進化に何の貢献もしていなかったこともまた、明白だった。
──「情報は万人に等しく開かれる」と信じて技術に賭けた者たちが、最も情報にアクセスできぬ階層として取り残されてゆく。
それは、戦国末期に武士たちが農商に取り囲まれて没落していった様を彷彿とさせる。
彼らが秋葉原で踊った舞は、技術という名の神を祀る祭礼であり、AIはその神体であった。
だが、神は人を救わない。
神はただ、舞を面白がるのみである。そう、かつての祭政一致の神国日本が、敗戦を経て神を捨てたように、AIもまた、信者の祈りには頓着しないのだ。
人類の歴史において、「神器(じんぎ)」とは、往々にして民衆の悲願とともに現れる。
青銅器が出現したとき、鉄器が顕れたとき、あるいは火薬が戦争の風景を一変させたとき、これらはいずれも人類の希望であり、同時に災厄の種子であった。
そして今、令和の都市にはびこる一器――AIなる“現代の神器”もまた、文明を変える魔道具として出現した。
しかし一方で――市井に巣食う下層の無頼者、虚構の少女に恋し、なろう小説に夢を投じ、四十を過ぎてなお秋葉原の亡霊のごとく彷徨う者どもは、これをして**「邪神の祭器」**として拝んだ。
そういった叫びが、令和の秋葉原に響く。叫ぶのは、かつての氷河期に希望を閉ざされた「下郎者(げろうもの)」たち。
なろう小説に魂を売り、VTuberに恋をし、魔法の言葉で世界の理が覆ると信じて久しい男たち。
かつて、平将門が自らを「新皇」と称して乱を起こしたごとく、彼らの叫びには、末期の絶望が混ざっていた。
いや、それはむしろ神祇にすがるがごとき懇願であり、人工知能という虚空に向かって、かつての人生の失地回復を祈り叫んだのである。
滑稽というべきか、哀れというべきか。
なぜなら、AIの危険性を語る彼らの言葉の底には、常に**「自分ならこう悪用する」**という予感がある。
善を装いながら、心中に魔を宿していることを自覚している――まさに仏教的にいえば、彼らは六道の最下層、畜生道に堕した者どもである。
あるとき私は、鼻をほじりながらコーヒーをすすり、暇つぶしにAIの性能を試みた。
そこで得たものは、彼らが四半世紀、血眼になって求めていた“邪教の奥義”であった。
たった一時間で。知識も経験も不要。脱獄も無用。彼らが祈り、祭り、踊り、妄執の果てに届かなかった“答え”に、私は偶然、指先で触れてしまったのだ。
この時、私の中で何かが冷えた。
――この神器は、誰のためのものなのか。
技術に名を借り、知の聖殿に泥足で入り込み、学問をもてあそぶ者たち。
彼らは己の欲望と劣情を、情報という布で包み、あたかも学術的・社会的行為のように偽装しようとする。
しかしその正体は、性欲と復讐と虚栄心のるつぼであり、そこにあるのは怨念の器である。
滑稽である。
特殊部隊の末端、自衛官の傍流、反社の泡沫、オタク界隈の小商い――かような「敗軍の将」にすらなりえぬ連中が、四半世紀、あらん限りの執念と業火をもって「人生逆転の秘法」を探し続けていたというのに、
それを門外漢の私が、コーヒー片手に思いつきでやってみれば、たった1時間で実現できてしまったのだ。
まるで、森のなかで迷っていた軍隊を、道を知らぬ村の娘が先に抜け出したような話である。
人の言葉を操る技術は、人の心を映す鏡であり、それは心が清らかでなければ、あまりにも危険である。
それは、車が人を轢き殺すからではない。車を扱う者が、扱うに値しないからである。
それに触れたとき、己に「1」があれば百に膨れあがるだろうが、「0」であれば何も残らぬ。
かくて、「何も持たざる者」――努力せず、知識も経験も欠いた者たち――には、AIは永遠に救いの神とはならぬ。
思えば、信長が鉄砲を制したのも、秀吉が刀狩をしたのも、神器を使うにふさわしき秩序を作るためであった。
人間は神にはなれない。
どれだけ人格者であっても、どれだけ救われたと感じても、やっぱり人間は人間だ。
それなのに、世の中には「誰か」を神のように崇めてしまう現象がある。
その人の言葉に涙し、その人の笑顔に救われ、その人を信じることで生きていけるとすら思う。
けれど、どれだけ美しくても、
なぜかというと、
その変化は「裏切り」に見える。
「信じていたものが壊れた」
「本当の姿を見てしまった」
「理想だと思っていたのに」
そう感じるのは、相手が悪いのではない。
変化することすら許せなくなる。
設定が崩れることもないし、私生活もないし、突然現実的な行動で失望させることもない。
人間に神を求めるのは間違いだ。
それは愛ではなく、依存だ。
どうか気づいてほしい。
人間は神になれない。
幻をいつも愛している 何もわからずに
文章を書くのは久しぶりだけど、最近自分という人間が分からないから記録として残しておこうと思う。
小さい頃から親や周りの人間の機嫌を取る為にひたすら自身の感情を抑えて周りが求めている人間像を振舞ってきた。
欲しいものを我慢するみたいな小さい内容から、期待に応える為に勉強をし続けるとかね。そうでもしないと殴られるなんて日常茶飯事だったし。
そんな生活をこれまでの人生で続けた結果、いつしか自分が抱いている感情や行動した内容が自分のしたかった物なのか誰かにとって都合のいい物なのかの判断が出来なくなってしまった。
別にこれ自体を問題と捉える必要は無いかもしれない、よく言えば都合のいい駒でしかないわけだから、社会の歯車としては最適かもしれないしな。
ただ、もうこんなことを考える事自体に疲れてしまったんだ。当たり前だけど、他人の理想像を自身に投影したほうが圧倒的に楽で、考えずに行動するだけで良いからね。
本当なら10代を過ごす中で自身の感情の制御とか諸々の力を培うんだろうけど、それをしなかった結果20代半ばになってそれを迫られている。
要するに、20代にもなって自分の感情や思考を制御できない化け物って訳だよ。
最近これのせいで、自分を主体として選択や思考を迫られた時に、何も行動出来ずに放棄するようになってしまった。
例えば、「家に飲み物が無い→買いに行かなきゃ」が普通だけど、今の自分にとってはそれすら面倒臭い。動く体力もそれが本当に必要なのか、そういった小さな思考すら出来ないんだ。
平気で飲み物や食べ物が無くても1日過ごすことだってあるし、もっと言えば体から赤信号が出ないまで動けないってこと。
小さな選択ならまだ良くて、大きな選択、例えば自分の直近や未来のことを考える必要がある際に、ものの1分も掛からず思考が停止してしまうんだ。
このせいでここ半年は選択を間違え続けた自覚が今の自分にはあるし、後から落ち着いて考えると全て分かることばかりだった。
うだうだと自分語りをしても仕方ないから一言だけ最後に言わせてくれ。「自己を確立しろ、流されるな」これに尽きる。まだ10代ならまだ間に合うから、最も10代がここを見ているとは思わないが。
現行のイラン・イスラーム共和国は1979年のイラン革命によって樹立されたが、遡ればペルシア民族は人類史上で初めて「帝国」を樹立( *1)した民族でもあり、以降はずっと帝政・王政が続いてきた。
19世紀以降は英仏露の干渉に対抗する形で民族意識が興隆(*2)し、立憲革命を経て王政はなおも続くのだが、1951年に「アバダン危機」が起こる。当時の首相であるモハンマド・モサッデクが、英国系石油メジャーが管理していたアバダン油田の国有化を図ったのだが、結局は果たせず、モサッデクは逮捕・投獄された(*3)。
これによりパフラヴィー(パーレビ)朝の第2代であるモハンマド・レザー・シャーが復権し、米国の後ろ盾を得て白色革命を進めていく。しかしこの人物が、自らイデオロギーとして打ち出した「イラン・ナショナリズム」のための各種イベントをはじめ濫費が甚だしく、またシーア派宗教指導者を蔑ろにする施策を採ったこともあり、民衆からの反発を招く。さらには第1次オイルショック後に石油価格が下落して国家財政が窮乏したことも重なり、政情が不安定化していた折、シャーがエジプトに出国した(*4)タイミングでルーホッラー・ホメイニーが帰国し、革命評議会を組織する。これがいわゆる「イラン革命」であり、ペルシア民族は史上初めて共和政を営むこととなった。
革命後のイランで特徴的なのは「ヴェラーヤテ・ファギーフ(法学者による統治)」で、これは要するに、宗教指導者(*5)が立法・行政・司法および軍の上に立つ指導体制である。この点を指して「非民主的」「神権国家」と批判されることが多い。だがそもそもイランとは、民族的には多様性がある一方、宗教的には国民の約9割がシーア派(十二イマーム派(*6))イスラーム教徒であり、宗教が国民統合の重要な理念となっている以上、統治理論としては一定の正統性・合理性が認められるべきだろう(*7)。
これにより、イランの大統領選や国会議員選では、宗教指導者による資格審査を通過した立候補者が選挙戦を展開する。一定の範囲内で民意が反映される制度と言える。
イランの大統領選に関する報道ではしばしば対米姿勢の硬軟に注目されるが、民意がそれなりの幅で動いていることは結果にも反映され、それを受けて路線転換が試みられているのも事実である(*8)。むしろ米国がイスラエルの意向を重視しすぎており、イランが改革派政権である時期にも関係改善を進められずにいる方が、世界秩序の観点からは非合理的と批判されるべきだろう。
イスラエル(*9)、というかベンヤミン・ネタニヤフは、「ハーメネイー師の斬首作戦によりイランを民主化する」と主張している。だが、そもそもイランは民衆革命によって王政を打倒した共和政国家であり、その経緯を踏まえてそれなりに民主的な体制となっていることは、ここまで説明した通りである。
「スカーフ強制」が抑圧の象徴とされることも多いが、世の中はブルジョアとインテリだけで回っているわけではなく、ファッションに使う金に事欠く一般市民にとっては「イスラームに従って生きていくことの、いったい何が不満なのか」となる。長期にわたる経済制裁の下でも着実に科学教育や軍事技術を進歩させ、世界でもトップクラスの水準に達している(*10)ことは事実であり、「表面的な『自由』のために民族の誇りを売り渡すのか」という意識も根強いことは論を待たない。
仮に「法学者による統治」を廃して「民主政」を導入したとしても、それで米欧イスラエルに従順な政権が生まれるのか?という点は、大いに疑問である。
それが目的なら、あらかじめ亡命指導者などを「子飼い」にしておくものだが、現状そんな人物は見当たらない(*11)。さりとて、誰を据えようがシーア派の信仰に基づく民族意識が基盤になる以上、宗教指導者の意向を無視した政権運営は不可能だろう。
また、現在のイランの指導者である革命第1世代は、イラン・イラク戦争で前線に立った世代でもあり、武力行使には慎重な傾向があるとされる。しかも現体制トップのハーメネイー師は、「イスラームの教義に反する」との理由から核兵器開発に否定的である。こうした人々が一掃された場合、かえって好戦的な層が台頭してくる可能性は、決して小さくない(*12)。
付言すれば、(下記の注にも記したが)シーア派の特徴として「殉教精神」が挙げられることがある。殉教者攻撃(自爆テロ)も元々はシーア派に特有の戦術(*13)だった。仮に米国の傀儡と見なされるような政権が立つなら、かつてサッダーム・フセインが放逐された後のイラクで殉教者攻撃が頻発したことをご記憶の向きも多かろうが、おそらくそれより酷い事態が展開すると予想される。
イランに「民主化」を求めるならば、粘り強い対話によって漸進的な改革を促していく他ないだろう。武力行使による強要は、かえって地域情勢の不安定化を助長する蓋然性が非常に高く、米欧イスラエルが「民主化」のために支払うコストは、想定よりも桁違いに高く付くのではなかろうか。
2:高校世界史の範囲ではタバコ・ボイコット運動(当時はガージャール朝)などが有名。これが20世紀初頭のイラン立憲革命に繋がっていく。
3:英米と対立したためソ連邦への接近を試みたものの、モサッデク自身は王政打倒までは考えておらず、イ-ソ間の溝は埋まらなかった。志半ばに終わったとはいえ、現在でもなおイラン国民から敬愛されている人物である。
4:妻がエジプト出身だったためだが、これ以降シャーはイランに帰国できなくなり、実質的な亡命生活が始まる。途中で米国に滞在していた際、イランの大学生たちはシャーの拘束と身柄引き渡しを米国に要求し、これが「テヘラン米大使館占拠事件」に繋がる。
5:宗教指導者(ウラマー)といっても、イスラームの場合はファトワー(教令/宗教的見解)を下すことが重要な職務であり、イスラーム法学を修めていることが必須の要件となる。日本の教育制度で言えば「法学士の取得が最低条件」のようなものか。なおシーア派では、ウラマーの中でも相応の学識・人望の持ち主がアーヤトッラー(アヤトラ)と呼ばれ(スンナ派のムフティーに相当)、ファトワーを発出できるようになる。
6:第4代カリフ、アリーを初代イマームとし、その血筋を引く者が正統な指導者であると奉ずる。特徴的なのは、アリーや第3代イマーム、フサインの生涯から、殉教を一つの理想像としていること。フサインに関しては「カルバラーの悲劇」が伝承されており、現在でもアーシューラーの儀式が行われている。また、第12代イマームの「お隠れ(ガイバ)」は今なお続いており、いずれ救世主として再臨する、とされている。「高野山では空海が今なお禅定を続けている」という信仰と似た面がある。
7:中華人民共和国では共産党のトップが国家を率いる統治構造になっていることを踏まえると、理解しやすいのではないか。
8:改革派とされたモハンマド・ハータミー大統領の時期に対米関係が改善せず、2005年の大統領選では対米強硬派のマフムード・アフマディーネジャードが選出された例などを想起されたい。なお現職大統領のマスウード・ペゼシュキヤーンは、改革派とされる。
9:そもそもイランから見れば、「キュロス2世(=アケメネス朝の建国者)によりバビロン捕囚を解かれ、エルサレム神殿を再建させてもらった大恩を忘れたのか」という話でもある。ネタニヤフが歴史に断罪されるべきであることは間違いない。
10:特に高速度ミサイルの制御技術に関しては、現状だと世界最高度の水準だろう。
11:パフラヴィー朝の元皇太子が米国に在住しているものの、米国とイランは断交したままなので、母国への影響力はほぼ無い人物である。それ以前に、今なおイランではパフラヴィー朝のイメージが非常に悪いため、新体制の指導者として歓迎されるとは少々考えにくい。
12:パレスチナでは、2006年の評議会選挙でハマース(対イスラエル強硬派)が単独過半数を得るも、米欧イスラエルは「選挙結果を黙殺する」という暴挙に出た。しかしイランの人口は9000万人であり、さすがに黙殺するには大きすぎるだろう。
13:1983年にベイルートで米海兵隊兵舎が爆破された事件は、イスラエルおよび米国がレバノン内戦から撤退する契機となった。なお、パレスチナの住民の多くはスンナ派イスラームだが、抵抗運動の指導者がレバノンに追放されていた際にヒズブッラー(シーア派)と接触して戦術を学び、殉教者攻撃を行うようになった。これとは別の流れで、後にアル・カーイダ(スンナ派)も戦術として採用することになる。
現行のイラン・イスラーム共和国は1979年のイラン革命によって樹立されたが、遡ればペルシア民族は人類史上で初めて「帝国」を樹立( *1)した民族でもあり、以降はずっと帝政・王政が続いてきた。
19世紀以降は英仏露の干渉に対抗する形で民族意識が興隆(*2)し、立憲革命を経て王政はなおも続くのだが、1951年に「アバダン危機」が起こる。当時の首相であるモハンマド・モサッデクが、英国系石油メジャーが管理していたアバダン油田の国有化を図ったのだが、結局は果たせず、モサッデクは逮捕・投獄された(*3)。
これによりパフラヴィー(パーレビ)朝の第2代であるモハンマド・レザー・シャーが復権し、米国の後ろ盾を得て白色革命を進めていく。しかしこの人物が、自らイデオロギーとして打ち出した「イラン・ナショナリズム」のための各種イベントをはじめ濫費が甚だしく、またシーア派宗教指導者を蔑ろにする施策を採ったこともあり、民衆からの反発を招く。さらには第1次オイルショック後に石油価格が下落して国家財政が窮乏したことも重なり、政情が不安定化していた折、シャーがエジプトに出国した(*4)タイミングでルーホッラー・ホメイニーが帰国し、革命評議会を組織する。これがいわゆる「イラン革命」であり、ペルシア民族は史上初めて共和政を営むこととなった。
革命後のイランで特徴的なのは「ヴェラーヤテ・ファギーフ(法学者による統治)」で、これは要するに、宗教指導者(*5)が立法・行政・司法および軍の上に立つ指導体制である。この点を指して「非民主的」「神権国家」と批判されることが多い。だがそもそもイランとは、民族的には多様性がある一方、宗教的には国民の約9割がシーア派(十二イマーム派(*6))イスラーム教徒であり、宗教が国民統合の重要な理念となっている以上、統治理論としては一定の正統性・合理性が認められるべきだろう(*7)。
これにより、イランの大統領選や国会議員選では、宗教指導者による資格審査を通過した立候補者が選挙戦を展開する。一定の範囲内で民意が反映される制度と言える。
イランの大統領選に関する報道ではしばしば対米姿勢の硬軟に注目されるが、民意がそれなりの幅で動いていることは結果にも反映され、それを受けて路線転換が試みられているのも事実である(*8)。むしろ米国がイスラエルの意向を重視しすぎており、イランが改革派政権である時期にも関係改善を進められずにいる方が、世界秩序の観点からは非合理的と批判されるべきだろう。
イスラエル(*9)、というかベンヤミン・ネタニヤフは、「ハーメネイー師の斬首作戦によりイランを民主化する」と主張している。だが、そもそもイランは民衆革命によって王政を打倒した共和政国家であり、その経緯を踏まえてそれなりに民主的な体制となっていることは、ここまで説明した通りである。
「スカーフ強制」が抑圧の象徴とされることも多いが、世の中はブルジョアとインテリだけで回っているわけではなく、ファッションに使う金に事欠く一般市民にとっては「イスラームに従って生きていくことの、いったい何が不満なのか」となる。長期にわたる経済制裁の下でも着実に科学教育や軍事技術を進歩させ、世界でもトップクラスの水準に達している(*10)ことは事実であり、「表面的な『自由』のために民族の誇りを売り渡すのか」という意識も根強いことは論を待たない。
仮に「法学者による統治」を廃して「民主政」を導入したとしても、それで米欧イスラエルに従順な政権が生まれるのか?という点は、大いに疑問である。
それが目的なら、あらかじめ亡命指導者などを「子飼い」にしておくものだが、現状そんな人物は見当たらない(*11)。さりとて、誰を据えようがシーア派の信仰に基づく民族意識が基盤になる以上、宗教指導者の意向を無視した政権運営は不可能だろう。
また、現在のイランの指導者である革命第1世代は、イラン・イラク戦争で前線に立った世代でもあり、武力行使には慎重な傾向があるとされる。しかも現体制トップのハーメネイー師は、「イスラームの教義に反する」との理由から核兵器開発に否定的である。こうした人々が一掃された場合、かえって好戦的な層が台頭してくる可能性は、決して小さくない(*12)。
付言すれば、(下記の注にも記したが)シーア派の特徴として「殉教精神」が挙げられることがある。殉教者攻撃(自爆テロ)も元々はシーア派に特有の戦術(*13)だった。仮に米国の傀儡と見なされるような政権が立つなら、かつてサッダーム・フセインが放逐された後のイラクで殉教者攻撃が頻発したことをご記憶の向きも多かろうが、おそらくそれより酷い事態が展開するだろう。
イランに「民主化」を求めるならば、粘り強い対話によって漸進的な改革を目指す他ないだろう。武力行使による強要は、かえって地域情勢の不安定化を助長する蓋然性が非常に高く、米欧イスラエルが「民主化」のために支払うコストは、想定よりも桁違いに高く付くのではなかろうか。
2:高校世界史の範囲ではタバコ・ボイコット運動(当時はガージャール朝)などが有名。これが20世紀初頭のイラン立憲革命に繋がっていく。
3:英米と対立したためソ連邦への接近を試みたものの、モサッデク自身は王政打倒までは考えておらず、イ-ソ間の溝は埋まらなかった。志半ばに終わったとはいえ、現在でもなおイラン国民から敬愛されている人物である。
4:妻がエジプト出身だったためだが、これ以降シャーはイランに帰国できなくなり、実質的な亡命生活が始まる。途中で米国に滞在していた際、イランの大学生たちはシャーの拘束と身柄引き渡しを米国に要求し、これが「テヘラン米大使館占拠事件」に繋がる。
5:宗教指導者(ウラマー)といっても、イスラームの場合はファトワー(教令/宗教的見解)を下すことが重要な職務であり、イスラーム法学を修めていることが必須の要件となる。日本の教育制度で言えば「法学士の取得が最低条件」のようなものか。なおシーア派では、ウラマーの中でも相応の学識・人望の持ち主がアーヤトッラー(アヤトラ)と呼ばれ(スンナ派のムフティーに相当)、ファトワーを発出できるようになる。
6:第4代カリフ、アリーを初代イマームとし、その血筋を引く者が正統な指導者であると奉ずる。特徴的なのは、アリーや第3代イマーム、フサインの生涯から、殉教を一つの理想像としていること。フサインに関しては「カルバラーの悲劇」が伝承されており、現在でもアーシューラーの儀式が行われている。また、第12代イマームの「お隠れ(ガイバ)」は今なお続いており、いずれ救世主として再臨する、とされている。「高野山では空海が今なお禅定を続けている」という信仰と似た面がある。
7:中華人民共和国では共産党のトップが国家を率いる統治構造になっていることを踏まえると、理解しやすいのではないか。
8:改革派とされたモハンマド・ハータミー大統領の時期に対米関係が改善せず、2005年の大統領選では対米強硬派のマフムード・アフマディーネジャードが選出された例などを想起されたい。なお現職大統領のマスウード・ペゼシュキヤーンは、改革派とされる。
9:そもそもイランから見れば、「キュロス2世(=アケメネス朝の建国者)によりバビロン捕囚を解かれ、エルサレム神殿を再建させてもらった大恩を忘れたのか」という話でもある。ネタニヤフが歴史に断罪されるべきであることは間違いない。
10:特に高速度ミサイルの制御技術に関しては、現状だと世界最高度の水準だろう。
11:パフラヴィー朝の元皇太子が米国に在住しているものの、米国とイランは断交したままなので、母国への影響力はほぼ無い人物である。それ以前に、今なおイランではパフラヴィー朝のイメージが非常に悪いため、新体制の指導者として歓迎されるとは少々考えにくい。
12:パレスチナでは、2006年の評議会選挙でハマース(対イスラエル強硬派)が単独過半数を得るも、米欧イスラエルは「選挙結果を黙殺する」という暴挙に出た。しかしイランの人口は9000万人であり、さすがに黙殺するには大きすぎるだろう。
13:1983年にベイルートで米海兵隊兵舎が爆破された事件は、イスラエルおよび米国がレバノン内戦から撤退する契機となった。なお、パレスチナの住民の多くはスンナ派イスラームだが、抵抗運動の指導者がレバノンに追放されていた際にヒズブッラー(シーア派)と接触して戦術を学び、殉教者攻撃を行うようになった。これとは別の流れで、後にアル・カーイダ(スンナ派)も戦術として採用することになる。
twitterで下記ツイートを見たので思い出話につきあってほしい。
https://x.com/kitwell_tanaca/status/1933128116064661904
いつか我が子に「産んでくれって頼んだ覚えねーよ!」って言われた時なんて返すのがいいんだろう。って考えてるんだけど何か面白い返し方あるウマ🐴?
🐴田中です @kitwell_tanaca
実際これに近しいことを一度口にしたことがある。
母親はどうしていたか覚えていない。10~20年前の話である。
私の家は典型的な不機能家族家族で物心ついたときから親からの暴力がそばにあった。
仕事をしない父、父の言いなりになっている母、その両親が言うことを一つも疑うことがない自分、愚か者3人がそこで暮らしていた。
結果として私は今実家を出ているが、5年以上たった今でも両親からの教育による歪みに苦しんでいる。むしろようやく実家が異常だったのかもしれないと疑い始めたころだ。
実家にいたころのエピソードはすべてがおぼろげで部分的にしか思い出すことができない。
そのどれもが苦しくて、異常で、だれにも話せないようなことばかり。
例えば私は経済的DV・身体的DVを受けていた自覚はあるのだが、今思うとあれは性的DV・精神的DVだったのではないか?というようなものも多々受けてきた。
性的DVは親から性行為を強要されること、という偏見があったが父親から「メスの香りがするようになった」と言われたり日常的に尻や胸を触られたりブラのホックを外されたりしていたあれも性暴力にギリ入るのだろう。
これらのことから本当にどうしても無理になって、なぜ私はこの家にいるのか、なぜ生きているのか、なぜ産まれたのか、なぜ産んだのかと言ったようなことを涙ながらに叫んだことがある。
結果、冒頭に述べた通り帰ってきたのは暴力だった。
具体的に何を言われたかは覚えていないのだが、要約すると「降ろすという選択肢はあった、実際前妻(母は後妻)の子は降ろした。それでも産んだのは自分たちが望んだからだ。だからお前は両親の所有物なのだ」と怒られた。
そして普段から母には「お前は自分が腹を痛めて産んだ子だが、お前は父曰く私の子ではない。だから父だけが親である」とさんざん言われていたため、私は「自分の命は父のものである」という解釈をした。
だから自殺なんてことは許されず、死ぬまで両親に、父に奉公して死ねと言われた。
実際「子供は親の介護をするものだ」と何かにつけ言われており、実家をどうにか出ることができた5年前まで私の自由は両親が死んでから(=私が老人になってから)だと思っていた。今もぼんやりとそう思っている。
件のやりとりが決定的なそれとなったわけではないが、このあたりから自分はすべての選択権を捨てた。
希望していた進路も捨てた。ただ両親を生かすために高校を卒業したのちフリーターとなり、金をすべて家に入れるようになった。周囲の大人は「孝行ものだね」とほめてくれた。だけどそれは私にとって呪いで、でも選択権を捨てた私は死を選ぶこともできなかった。
だらだらと生きて、だらだらと日常を繰り返すだけになった。
親に対して恨み言を言うつもりはない。もっと自分が強ければ、もっと自分の頭がよかったなら、もっとよい結果につながれたのだろうと思う。たらればを考えるくらいなら今選べる最善を選んでこれからを良くしていきたいと思っている。
ポスト主が想定している「面白い回答」が具体的にどういったものかはわからないが、あのとき両親のどちらかから茶化すような回答が出てきていたとしたら、たぶん今自分はこの文章を書いていないだろう。そう期間をあけることなく自死を選んでいただろうな、という確信だけはある。
また、ポスト主に連ねられていた「産みたかったから産んだんだ」という回答がきたとしてもその後の回答次第では死んでいたろうと思う。
あの時の私を救う言葉はあったのだろうか、そう考えていたら涙が止まらなくなってきた。
結果として私は今生きて、こうして文章を書いている。そう考えると私に帰ってきた暴力と回答は、私にとっては正解だったのかもしれない。
【下記追記】
追記するつもりはなかったんだけど、考えさせられたコメントがあったので追記。
前提として私は実家での環境しか知らないので私は実家で受けた全てが普通だと思っています。だから指摘の「普通の生まれと家庭環境と人間性が欲しかった」っていうのはそもそも持っている、という認識です。
だからみんな言わないだけで親に殴られて、心を削られて、自分で高校以降は学費を捻出して、でもきちんと家のことも両親のことも対応している。そのうえでSNSで見るようなキラキラした一瞬を過ごしているんだと思ってます。
自分はそのキラキラした一瞬に気がつけなくなってしまったので「切り取ることができるキラキラに気が付けるようになりたい」が私の理想なのかもしれない。
深夜に泣きながら勢いで投稿したらいろいろ励ましの言葉とかいただいてビビっています。どちらかというとこういう認識で私は口にしましたよ、というケースレポートみたいなつもりだったので自己愛を叫ぶ文章になっていたことに反省しています。
あと父親にメスの香りがする~とか、生理きたときに「俺が止めてやろうか」とか、みんな普通に言われてるんだと思ってました。あれ一応アウトなんだ…。
色々もらったコメントとかを読んで、ツイ主が想定していたのは「反抗期を迎えた我が子に言われたケース」を想定していたんだろうな、ってことにようやく気付きました。
子どもからその言葉が口から出てくるときって、状況は多々あれど売り言葉に買い言葉だったとしても、本人からはそれが口から零れ落ちてしまう状況だったんだろうなと思うと難しいですね。
そもそもとして私の場合は、両親が求めたレベルの子どもでいることができなかった。それが一番の問題なので親が毒だとか機能不全家族って言ってるのは自分の甘えなんだろうな、とは理解してます。自分は結局「親が悪い、自分は悪くない」って叫んでる子どものままなんだな、と突きつけられて成長のなさに笑っています。
結婚もせず子どももおらず、両親のことも世話をせず。子どもの頃に「こうはなってくれるな」と言われていた大人になっていて明確に心はまだ子どものままなんだな。よくないね。
コメントを見て思い出したんですが、「誰が食わせてやってると思ってるんだ!」も言われたことがあります。それを言われたときは両親が無職で私だけが働いていたから生活費+両親(特に父)の娯楽費も自分が出していたのだけど、どう回答するのが正解だったんだろうな。ごめんなさい、って謝ることしかできませんでした。
その流れで「なんで自分を産んだんだ」って話をしたんだったっけか。結局殴られて泣きながら命乞いみたいに謝罪し続けた記憶しかないのでどんな話をしたか曖昧です。
親子の関係ってそれぞれで自分の経験しかないから、多種多様なケースがあって正解なんてないんだなって改めて思いました。
全員に全員の地獄があって、天国がある。私が何とも思っていなかった日々が「それは地獄だよ」って周囲に言われることがあったからそうなのかもな、と直している日々です。でもやりすぎないように気を付けるね。
あぁ、でもね、必要な暴力だったにしても父には自分の拳を使って殴ってほしかったかもしれない。エアガンで撃ってくるとか、孫の手やお箸などの得物を使って殴るとか、大事にしているものを壊されるとか、そういうことしかされてこなかったから「殴っている私の手も痛いんだよ」っていう昭和のマンガみたいなセリフ、一回も聞いたことないし言われたとしても実感できないや。
ほかのガンダムは見てないから「ジークアクスのキシリア様」しか知らない立場で言う。
ニャアンの視点ではキシリアが「私だけを守ってくれる殺人鬼」なんじゃないかってこと。
エグザベは「ミゲルと僕でニャアンを暗殺から守る」と言った。護衛の任務を引き受けた組織人としての言動。そしてミゲルがニャアンの命を狙っているとなったとき、エグザベは長年の付き合いがある同期のミゲルを撃てなかった。
人として当たり前の感覚であるとはいえ、ニャアンを暗殺から守れていないので言行不一致ではある。ニャアンは結局、逃げ回ってジフレドを起動して、自分でミゲルを殺した。
キシリアは側近のアサーヴを躊躇なく射殺した。兄を毒殺した。
感覚の正常さの話をするなら、エグザベがまともでキシリアは異常だ。
しかしニャアンは異常なキシリアのほうにシンパシーを覚えているし、自衛を理由として殺人を行えることをお互いに肯定しあっているのがキシリアとニャアンの関係だ。
ニャアンを迎え入れたときにキシリアがアップルパイを手作りしていたのも妙ではあったが、10話ではお互いにバスローブ姿で暗い私室でニャアンの髪を梳いてやっており、明らかに上司と部下としては異常な距離感だった。
女性同士の正常な距離感として、コモリ&マチュのほうは対比のように健全に描かれていると思う。コモリのジャージセットはレギンスも一式に含まれているが、マチュに貸しているのはレギンスを除いた上下だ。
レギンスは微妙に下着に近くて、貸すのも借りるのも抵抗がある。でもジャージ上下なら学校での忘れ物でも貸し借りしていたレベルで、異性ならイヤだけど同性ならまあいいか、となる。激重感情や共依存の波動を全く感じない。
これに対してバスローブ…。同性だからこんなものだとは言えない。明らかに距離がおかしい。
キシリアが男であれば、周囲からニャアンはキシリアの愛人と噂されていてもおかしくないだろう。キシリアが男の噂がない人物であれば、同性愛関係と勘繰る人間がいてもおかしくない。
排他的な関係である。長くキシリアの部下をつとめた兵士たちをごぼう抜きしてニャアンが特別に取り立てられ、一人だけ私室に招かれているとなると、キシリアの兵士たちのなかでニャアンが浮くこともあるだろう。
ニャアンはコミュニケーション能力が低く、キシリアから直の特別扱いを受けている新人ということでほかの兵士たちから距離を置かれたりすれば、いよいよ孤独になりやすい。ニャアンに友達ができないことは、キシリアによるグルーミングの効果を高めることにも繋がる。
そして、キシリアの父から渡された銃という「一点物」をニャアンに贈るということ。
大きな窓がある超高級物件に住まわせるのも、地球産の超高級香水を与えるのも特別感は非常に強いが、キシリアが金持ちであるため数人に対して並行して同じことをやれるかもしれない。
家族にまつわる「一点物」を貰うというのは、確実に「私は特別」という扱いの証明になる。
躊躇なく人を殺す異常な人間が、自分だけを特別扱いして優しくしてくれる。「私だけを守ってくれる殺人鬼」…。
ニャアンは言葉ではないところで悪意を感じ取る。ミゲルがエグザベに声をかけたセリフが「同伴出勤か?」というからかいの言葉であったが、これはキャバクラ用語であり、ニャアンをエグザベに買われているキャバ嬢扱いするような非常に失礼なジョークである。
エグザベは同伴出勤という言葉そのものを知らなかったのか、スルーしていた。ニャアンもスルーしている。しかし、「嫌な匂い」としてミゲルの悪意や見下しをこのときから感知していたのではないか。
レオレオニ博士が「女が権力を握るとすぐこれだ!」と吐いた、その言葉自体もニャアンは聞き取っていないだろう。しかし「嫌な匂い」を感じ取って即座に博士を攻撃し殺害している。
逆に、悪意を察知できないのがエグザベである。エグザベは公式スタッフからも善良でピュアなキャラクターであると評されているらしいが、
実際にサイド6の軍警が自分を殺そうとしていることも察知しておらず、射殺されるギリギリのところで空から面白登場をしたシャリアに助けてもらっている。
自分自身の悪意がなく(ぽっと出のニャアンに一瞬で抜かされたことへの嫉妬心もゼロ!)、他者からの攻撃性や悪意にも鈍感で、
自分が殺されそうであってもギリギリまで気づけない。「自分の命を最優先で先制攻撃」とは真逆のようなマトモさだ。だから自分の命もニャアンの命も守れない。
エグザベはピュアで、穢れた知識ベースが皆無であることによって、毒殺の前に「キャバ嬢扱い」のような侮辱からもニャアンを保護できない。
エグザベの物語は最終回まで引っ張られることはなく、次回のシャリア戦で回収されるのではないかと期待している。
エグザベはどうもニャアンの物語においては「シュウジとキシリアは素敵、マチュは本物、エグザベは駄目」という比較下げ役割で使われてしまっているように見える。
実際、精神的に不安定な人が期待に応えてくれる一方をちょっと気味が悪いほどに上げ、期待に応えてくれない一方を下げ、という極端な評価をするのはよくある話ではある。
エグザベが主体となるテーマでの重要人物はシャリアだろうと思える。シャリアにとっての重要人物はシャアであり、なかなか面白い。
そして当初の話に戻ると、マトモなエグザベを対比とした「私だけを守ってくれる殺人鬼」としてのキシリア様という描き方は非常に面白い。
善良でまともな組織人だからこそ守ってくれなかったエグザベには拒絶反応を示し、身を守る武器とニャアンを全肯定する思想を与えてくれるキシリアとの近すぎる関係に心酔していたニャアンは、キシリアの指示通りに大量破壊兵器を起動して大量虐殺の実行役となった。
キシリアがニャアンを懐柔して利用していると捉えるか、キシリア自身も家族同士殺し合いをしていて常に暗殺の危険がある環境で病んでおりニャアンとの共依存の関係になっていると受け取るかは視聴者によるだろう。
個人的には、キシリアがニャアンを道具として軽視していればニャアンは「嫌な匂い」として感じ取るはずなので、キシリア自身も病んでニャアンに依存していると解釈している。
「私だけを守ってくれる殺人鬼」を求めるタイプは、共依存を求めた病んだ人間なのではないかと思う。
殺人鬼はまともではない。不安で病んでいる人間が、まともではない殺人鬼との共依存関係を求める。
キシリアとニャアンが刺さるのも病んだ人間だと思う。「私だけを守ってくれる殺人鬼」はすべての女性が求める理想像ではない。女性が不安になり病んだ状態になるとこういう関係を求めがちという、傾向のひとつだと思う。
追記:激重女女関係として捉えてはいるがニャアンの恋愛感情はシュウジに向かっていると解釈しているよ。クラバでワケワカになって殺人して、シュウジを盾にまでしたのを「どっちのニャアンも好き」と肯定してもらっているし。それにジークアクスのコックピットから吐き出されて生身で吹っ飛ばされ死の恐怖を覚えたときに、シュウジは受け止めてくれたし。(というかなんでパイロットを吐くんだよ。腕が出てきてマチュを抱きしめることといい、自我が強すぎるだろジークアクス)あとは好きな男がいる異性愛者の女だからこそ、エグザベ(他意なし)に対する拒絶が「は?彼氏面キモいんですけど?」的な自意識過剰になるんじゃないかとも思っている。つかどうなるんだろうな三角関係のエンディング。ジークアクスの自我がシュウジでしたってのならニャアンを吐いてマチュを抱きしめてるからシュウジ×マチュエンドなんだろうし、シュウジが元々ゼクノヴァの向こう側の平行世界の住人でトラブルによってこっちに来てるせいで住所不定無職でしたので本来の世界に帰るのが願いなんですってことなら、マチュもニャアンも振られてヤケクソカラオケエンディング映像に繋がるだろう。個人的にはマチュの勝ち!ってやるより両方振られたほうが爽やかな後味だと感じるけど、まあ、どうなってもいいか。