はてなキーワード: 席替えとは
ツイフェミ、腐女子、何かに真理に目覚めたと勘違いしている女…
ネットを開けば壊れたラジオのように雑音が響き渡っているのは君達もうんざりするほどご存知だろう
彼女らの主張に我慢して耳を傾けると実は全部同じことしか言ってないのである「私が不愉快だからくたばって死ね」だけである
なぜこんな感情至上主義のモンスターに爆誕したのかはそれは幼少期にヒントがあると俺は思う
気持ちが昂れば号泣しだすのは子供共通事項だろう、しかし小学生にあがっていけば男子は泣くような奴は男じゃないという今も根強い呪縛によって
不愉快だったり悲しい気持ちになってもグッと堪えるようにトレーニングを施されているのだが女子はどうだろうか
何かあればもう我泣く、ゆえに我ありというレベルで泣き出すのではないか、そうすると周囲はなんと魔法でもかかったように心配してくれたりチヤホヤしだすのではないか
これは非常に強い「成功体験」かつアヘンのようなものであると思う
見た事ないだろうか、小学校のクラスの席替えでいわゆるチー牛と思われているような男子が隣に移動してきただけで号泣しだした女子を、隣は嫌だとめっちゃ被害者ぶってるけど言ってる事は普通に最低な事である
それなのに雰囲気は泣いている女の子に同情してあげなきゃ!となるもんだから不思議なものである、チー牛男子はただ隣に移動しただけですっかり加害者の悪者扱いされるのであるなんとも末恐ろしいのである
そうして女子はこう学習するのではないか、感情を押し殺さずに開放した方が得ではないか泣きだせばもうperfect!ではないかと
落ち着いて欲しい、大半の女がこうだとは流石に言わない男よりも我慢強い女も多く存在するだろう
しかし、その成功体験をずっと引きずっている女はどうなるかというと幼稚のままで精神的に成長が乏しくなるのだ
乏しいとどうなるのか?それは自分を悦ばせてくれるようなコンテンツに飛びつくようになるのだ
推し活、ボーイズラブ、ディズニー、韓国ドラマ、男性アイドルなどなど…
決して自分を否定せずにむしろ悦ばせてくれるというそんな夢のような世界に溺れるようになり
もしそこで不快な事でも起きるとどうなるのか?そうネットで喚き散らしてお気持ち表明マシーンと化すのだ
男は幼少期から泣くな我慢しろというトレーニングを施されているおかげで例えば嫌なものを見てしまっても「あーあ、嫌なもの見ちまったなまあ忘れよう」と自己完結するようになっているのだ
自分の体験も少し語ろう、俺もいわゆるジャンプ系アンソロジーというトラップにかかったことがある、ハンターハンターのあの男キャラと男キャラが猛烈に絡み合っていたのである
当時小学生の俺は大変衝撃で、それからBLに対する苦手意識はあったが事故ったようなものでずっと黙って過去のものにしていた
それからテレビでおっさんずラブとかいうドラマを見てしまい「同性愛をこうしてコンテンツとして消費していいんだろうか?」と疑問持ちつつそれも俺がたまたま見てしまっただけでむしろ自分が事故っただけと
これも誰のせいにする気もなく、あーあー嫌なモノ見ちまったなとなんとか別の事をしたり楽しい事を考えようとするのが一般的じゃないだろうか?
しかし、精神的にお子ちゃまな女はそれができないのである、嫌なものを見てしまったら不快な気持ちになり、それをどうしても外に出さないと自分が耐えられないのである
ツイフェミも根本は幼稚性から来ているのである、だからツイフェミの主張に激しくブレが多いのも自分が不快かそうでないかどうかなので全然論理的じゃないのである
だから「私が不快になった!」という超特大前提があるので常に被害者意識が強いのである、攻撃してもまず不快させた相手が悪いという正義の味方もドン引き理論である
致命的に話がかみ合わないのも当然だろう相手は脳じゃなく本能でしか動いてないからだ、不快だと思ってもそれをいちいち外に出さずに自己完結する手段は沢山あるはずなのに
そういう手段をとらずに真っ先に感情かめはめ波をするのも泣けば周りがかくまってくれるという「成功体験」が忘れられないのだろう
大人になればそんな魔法は存在しないのである、世界を変えたければまず自分を変えるしかないのだ
それすら出来ないから終わっているのは言うまでもないが
子どもの頃は、クラス全員が友達みたいな気がしていた。放課後は誰かの家に集まって、誕生日には大量のメッセージ
席替えで隣になっただけで仲良くなれる魔法みたいな世界。ところが大人になると、誰かと仲良くなるのに理由がいる
気づけば人間関係はすっかり取捨選択の対象になって、友達の定義もアプデされてしまう
だからふと気づく。連絡先の数は増えてるのに、心を許せる相手はむしろ減ってる。SNSで繋がってる人が多いほど、逆に「本当の友達って誰?」みたいな不安が押し寄せる
だけど本当は、その減少は“健全な変化”なのかもしれない。学生時代の友達は「たまたま同じ場所にいただけ」の関係が多い
大人になって残るのは、価値観やテンポや優先順位が合う、いわば選び抜かれた人たち。関係が減ったんじゃなくて、濃くなっただけ
それに、大人は人生のステージがバラバラ。結婚、子育て、転職、介護。置かれた場所が違えば、見える景色も話題も違う
無理に昔みたいに密接でいようとすると、ズレが苦しくなる。距離が空くのは自然なこと
そもそも「友達が多い=幸せ」みたいな公式は、作られた幻想。友達が100人いるより、一人でも自分をちゃんと見てくれる人がいる方が、よっぽど心は強い
タスク処理や財布にも優しい
大人になって友達が減った現実にショックを受ける瞬間ってある。けど、その裏には成長がある。自分の時間や心を大切にできるようになったからこそ起きた変化だ
これが開き直りの心
職場にヤバめな食べ尽くし系がいるので、観察した内容を書きたい。
食い尽くしのスペック
・巨漢
極力少食の人を近くに配置して、多めに食べられるようにさせてるけど、それでも足りずに飲み会の中盤過ぎた頃から「残ってるならもらうよ」と言い出し、よそのテーブルの分もガンガン食う。
「残ってないですよ〜、こっちはゆっくり食べてまーす」と言っても「次の料理が来るからテーブル空けないと…」云々と理由をつけ取り皿を差し出してくる。(取り皿受け取るだけ受け取ってテーブルにおいて無視を決め込むか、極少量乗せて返すようにしてる)
飲み会後半は席替えと称して、食べ物が多く残ってる卓に来て食う。
「こっちの人と話せてないから〜」などとという口実で来る割に、喋らず食うし食べ物が残ってない卓には呼ばれても行かない。
タブレットがあるような安か居酒屋だと渡さないように気をつけないと、割り勘なのに「自分専用」の食べ物をガンガン注文して分けずに食う。
ちなみに酒も死ぬほど飲むので「飲めない分、食べている」わけではない。
相手が下戸でも20代部下でもなんでも割り勘。頑なに他人より多くは払わない。
独身の若い部下に「(既婚子持ち・お小遣い制の)俺より可処分所得あるでしょ?」と言い放つ。
(自分よりも役職や歳が上の人には奢ってもらったり多めに出してくれるよう強請るので、年長者(役職者)が多めに出すという概念は持っている模様)
常にこんな感じなので、飲み会が激減した。
基本1人ずつに配る方式。※以前は自由にお取りくださいだったけど、こいつが異動してきてから配る形に変更した
ただし人数分より多くもらった場合は余りを給湯室の共有スペースに置くのだが、置いてあるぶんを根こそぎ持っていく。
生菓子など、配れない物は冷蔵庫に入れ「1人1個ずつ取ってください」と案内しても、追加で取ろうとする。
1個ですよと声をかけても「でも誰々が今日いないから余るでしょ」などと言って食べようとする。
見かねた人が「余りは、外回りの人たちが帰ってきてから平等に分けてくださいね」と言ったところ「貰い物を平等にしないといけない意味がわからない」と言われた。
※この発言の趣旨を聞いたところ、タダでもらった物だから早い者勝ちでいい。食べられなくても他人のものを食べたことにはならない?らしい(食べられなかった人が買ったわけではないので損はしてない?からとのこと。意味がわからない)
「その理屈なら」と、取引先がくれたちょっと高いポテチをそいつがいない隙にみんなで食ってやったら烈火の如く怒っていた。
取引先から菓子をもらう際、その上司が代表で箱菓子を受け取った場合は箱ごとしれっと持って帰ることがある。
誰かがデスクでお菓子を食べたり、休憩時に交換などをしていると「いいなぁ」「腹減ったなぁ」など「俺も欲しい」アピールを続け「◯◯さんもいりますか?」と声をかけるまで、それが終わらない。
(異動してきた最初の頃はあげていたけど、貰うだけで返す気が一切ないと言うことに気づき段々と皆無視するようになった)
一度、あまりにも不思議だったので「◯◯家は、食べ物全部早い者勝ちルールなんですか?」と聞いたら、真顔で「そうだよ」とのこと。
本人が言うには「平日の夕食は自分の帰宅が1番遅いから1人分残されてるけど、土日は戦争」とのこと。
土日の食事は基本早い者勝ちの【戦争】だが「さすがに末娘(小1)の分は残す」らしい(前に末娘のぶんを食べて嫁に怒られ子供に泣かれたから、そこは気をつけてると言っていた)
ちなみに「長子(中学生)は自分の分のお菓子やパンなどは全部自室に隠してる」「リビングにあるとお父さんに全部食べられちゃうと言われた」「前に長子の部屋の菓子を勝手に食べたら鍵をかけられるようになった。俺が稼いだ金で買ってんのに生意気!反抗期!」と話していた。
一連の話に反省や恥ずかしさの様子は全くなく、明るく笑い話として話してくる。
以上がエピソード。
面白いので話を聞いていくと「"ちょうどいい満腹感"がわからない、お腹空いているか食べすぎて気持ち悪くなるかの2択」らしい。気持ち悪くなる前に止められないんすか?と聞くと、食べ物がある限り止められないらしい。
あったら食う・なくなったら終わりという至ってシンプルな構造らしい。
他人の分まで食べてしまう件については「だって俺身体デカいから」とのこと。食事量を体格比?で考えてるようで「自分が1番大きいから自分が1番食べるべき」というようなことを言っていた。
転勤してくる前の支社の人に聞いたところ「あの人はずっとそうだよ」「見えるところに食べ物出しておかない方がいいよ、盗られるから」とのこと。
(実際に人のデスクのものを勝手に食ってバレたことがあるらしい)
別に期待なんかしてなかったし最初から運命の出会いみたいな幻想を持ってたわけじゃない。
ネットで面白い奴だと思わせれば勝ちと、そういう声を散々見てきた。
俺にはそれがあった。
完璧な武器。ネットの住人たちが絶賛してくれた、俺自身の失敗談。
腹を壊してうん〇漏らした話だ。これがまあここではウケにウケた。ブクマと称賛の嵐。
それを街コンというリアルの場に持ち込めば盛り上がらないわけがない。そう信じて疑わなかったわけだ。
会場はよくあるパーティースペース。
無駄なBGMが流れ、ケータリングの料理が並び、安っぽいけどそれなりに整ったテーブル配置。
参加者は30人くらい。軽く酒を頼んで自らに乾杯、スイッチを入れて行動開始。
最初の相手は年下っぽいOL風の女性。細身、メイクもきちんとしてて、まあ普通に可愛い。
形式的な何の仕事ですか?とか、趣味は何ですか?みたいな会話がひと通り終わった後、俺は勝負を仕掛けた。
「そういえばこの前…」
そう切り出して、満を持して例の話を披露した。
外出先で突然腹が痛くなり、最寄りのトイレまで間に合わずに…という展開を、ここでウケたときと同じテンポとニュアンスで語った。
ディテールにも凝った。どの段階で冷や汗が出たとか、周囲の人の視線がどうとか、当時の俺の内面描写も盛りに盛り込んだ。
そしてクライマックス。
結局その場で漏らしちまってさ。で、コンビニでパンツ買って…と笑いながらオチを付けた。
でも、彼女は笑わなかった。
なんなら表情が完全に固まってた。引いてた。確実に。
「…あぁ、そうなんですね」と、どこか遠くを見るように言った。
あれ?おかしいな?とは思った。
会話が次に続かない。時間までまだ5分以上残ってるのに、向こうがほとんど話しかけてこなくなった。
気を取り直して、次の席。今度は清楚系っぽい女性。
俺はまたも自信を持って仕掛けた。
結果は同じ。いや、もっと酷かった。
「そうなんですね…大変でしたね…」と、まるでかわいそうな人に向けるような目。同情。
俺はかわいそうな人になっていた。
3人目、4人目、全部同じだった。
こっちは満を持して繰り出してたのに、最高に笑えるエピソードだと思ってるしここでは本当に笑ってくれた奴らがたくさんいた。
でも現実では眉をひそめられ口元を引きつらせただただ目の前の時間が終わるのを待ってる相手を召喚するだけだった。
「大丈夫ですか?」
なにが大丈夫なんだよ、って話。
俺は完全に折れて最後まで居ずに帰った。
駅までの帰り道、本当に虚無だった。
電車の中でスマホを握りしめたまま、何度も「うん〇漏らしエピソード」で自分が投稿した過去のここを見返した。
家に帰ってドアを閉めた瞬間、膝から崩れ落ちた。
涙が止まらなかった。
怒りと自己嫌悪で頭がいっぱいになり、それから布団をかぶって激しく泣いた。
なぜだ。
こいつらが面白いって言ったんだろ。
あのコメントの一つ一つが、俺にこれでいけるという自信を与えたんだろ。
本気で俺は腹が立った。
女たちじゃない。彼女らは何も悪くない。
聞かされたくない話を聞かされた、ただそれだけだ。
怒りは、ここの称賛してきた奴らに向けた。
俺を焚き付けた無責任な誰かども。
顔も知らない、責任なんか一切負わない癖に俺を焚きつけた。
いったい、どう責任を取ってくれるのだろうか
若者が選挙行ったら若者向けの政治になる!って本気で言ってんの?
とてもそうは見えないよ。
だいたい少子化なのに老人たちの数に勝てるわけもないし
そもそも票にならないからやらないって思考がまずヤバいんじゃないの?
なんでそんな人に投票してんの?
もしウチがその立場だったら、どうしたら若者の投票少ないんだろ?→若者向けの公約掲げてみようかな!ってなるよ。
若者が投票しないなら若者向けの事業やーらない笑ってヤバすぎ。
他のやつらも一緒じゃん。
てかその中でもマシなのに入れろとか、マシなのがいる前提じゃん。
マシなのがいない地域はどうすんの?
私はあなたに投票しましたが話が違います。今すぐ辞めてください。みたいなのが通るわけでもないじゃん。
そういうルールがあったらいいのに。
おっさんおばさんが身内で席替えして遊んでるようにしか見えん。
当選してから特定の党に移籍とか完全に視力悪いやつがあとから前の席に移動させてもらうやつじゃん。
いつもヨダレまみれで指を口に出し入れしている、くらいで大した害はなかったが
やっぱり近くにはいたくないなないなという感じで席替えの日はみんなに緊張が走った
ただみんなそれを表に出すことはなく、悪口とかも言わず、困っていたら助けてあげ、小学生ながら結構みんな大人だったよなと思う
5〜6人の班(グループ)を作ることになり、希望のメンバーで固まり、それを見て先生がメンバーを記録するという感じになった
そこでその知的障害の子が「クラスの中で最もおとなしく、いい子ちゃん」なグループに突撃していった
そのグループの子は「嫌だ!!」とは言えず、結局遠足はその知的障害の子を抱えて行くことに
当たり前だけど楽しめず、行きのバスから泣いている子もいたらしい
それを見たクラスのみんなが「いい子でいるとこいつの世話を押し付けられることになる」と認識し
授業中も漫画や本を読む、知的障害の子に「死ね」コールをする、先生の言うことは何があっても聞かない、限界が来た先生が怒鳴ると他の先生や親にチクる、他の担任の先生が来たらめちゃくちゃ大人しくする
1人残らずそんな感じだった
どうすれば平和になってたんだろうなーと
ぼんやりつらいなーと、人格否定されたり不幸が続いて思ったので人生をまとめて現状を言語化してみた
まだ記憶が曖昧な頃ですが、保育士に備品に傷を付けた件で猛烈に叱られたことを覚えており、今でも思い出して身体が固まります。
「死」という概念を知りどうしょうもない恐怖に苛まれ、家族も自分もいずれ何もかも死ぬんだ、どうせ苦しんで死ぬのに勝手に生み出すなんて酷いと両親を呪い始めたのがこの頃からだと思います。
母親が育児ノイローゼになり、仕事を辞め、家賃が安いエリアに引っ越し幼稚園へ行くことになりました。
特にイジメなどは自分の主観ではありませんでしたが、遅刻癖とぼんやりとした不快感不安感を抱えて過ごしていました。
区域が近い女子生徒3人と登校することになりました。ウマが合わないのか失言をしたのか(1人が父親不在家庭だったためそれを聞いたのが引き金かな?と思いますが幼少期なので理由はわかりません)ハブられを受けました。登校時は親の目があるので特になにもしませんが帰宅時は先に進んでニヤニヤしながらこっちを見てきて自分が近付いてきたらまた遠ざかってうわ来たwみたいなことを言ってくるタイプのハブられでした。ある日限界になって泣いたら収まりましたが、当時の自分はまた友達に戻れたと馬鹿正直に思っていました。
休み時間に遊ぶ仲良しグループでハブられました。態度が偉そうだからクビとリーダー格の女子に言われ、行く場所がないので毎日休み時間は下駄箱の前で泣いていました。
高学年になるとそれまでよりも上手く立ち回れるようになり、中学受験組が内申を気にし始めたのか目立った奇行をする子供も減りなんとか他人と談笑したり図書室や階段の踊り場に避難したりするようになりました。それでも学校にいるのはつらかったので定期的にトイレで泣いていました。
しかしこの頃から父親がアルコール中毒の片鱗を見せ、母と常に深夜まで喧嘩していました。DSで見れるインターネットのアニメ・マンガの二次創作サイトだけが心の拠り所でしたが、定期的に没収されたり壊されたりしました。居場所はありませんでした。
親がうるさくて気が滅入る、なんだかめんどくさいという抑鬱症状であまり風呂に入れなくなり担任に度々注意されました。
地域の繰り上がり中学校に入学。制服は買ってもらえましたが入学して校章のピンズ500円かかることが判明しました。祖父母のお年玉以外のお小遣いをもらったことがないので買えませんでした。校章をつけてない自分は担任に指導室に呼び出されました。結果的に教師からピンズを貰ったのですが、それから発達かボーダー?で1日1回は歩き回ったり暴れたりして授業がおじゃんになるような生徒が何回席替えしても近くに配置されました。この中学校には支援級のようなものはなかったです。
このストレスで過敏性腸症候群を発症し学校にいる間はおならが止まらなくなるようになりました。病院には行かせてもらえなかったです、金が無いらしいので
ある時休み時間に走り回る他害くんが近付いてきたので怖くて反射で突き飛ばしました 暴力沙汰として指導室に呼び出されました。一方的に詰められあの生徒に配慮をしろと言われしんどくなって泣きました。
多分そこで明確に学校側からの監視対象になったんだと思います。
父親のアル中が悪化し家庭内は荒れに荒れました。なんかずっと物が飛び交ってた気がします。同時に母親も現在ネットでよく見るような陰謀論、統合失調症のような言動が増えました(盗聴器、車が追いかけてくる、創価の集団ストーカー、盗撮されてる、喋った言葉が迷惑メールに反映されてるなど)かなり社交的な人でしたが段々と塞ぎ込んでいきました。
あの頃からずっと離婚したい離婚したいと叫んでいる母親の姿を鮮明に思い出せます。死ぬ間際まで同じことを言っていたので。私の存在のせいで離婚に踏み切れなかったのか、経済的に不可能で諦めていたのか、もう死んでいるので聞けません。
最終的に小便を撒き散らしながら外で暴れた父は警察を呼ばれ閉鎖病棟行きになりました。
この時期は精神が限界だったので正直仔細をよく覚えていません。
同時期に自分は軟式テニス部で先輩と同級生とコーチに虐められてました。仲良しグループと一緒に入部したので抜けられなかったです。(今思えば自分にだけ強い球を出しからかわれ雑用にこき使い物を隠されたりしてたのを静観してただけのあの人たちは仲良しでもなんでもないな)でも当時はその人たちしか人間関係がなかった。3年になってやっと登校を共にしていた人と一緒に部活を抜けられました。その人と一緒に美術部に入りましたがその人は先に男女グループに入り、自分は既存グループや後輩グループにも入れず一人で下手な漫画絵をカリカリ描いてるだけの時間を過ごしてました、結構つらかったです、自分にだけ男女グループで付き合ってるとか遊びに行ったとかの情報回ってこなかったし、校外部活動は一人だったし
同級生と話を合わせるために好きな人がいる設定を作ったり流行りの漫画を履修するためにブックオフに通ったりの努力をしましたが居場所はなかったです
常に疲れており、死にたかったです。
両親に生活保護の申請を打診しましたが謎のプライド発揮して申請してなかったですね。自営で年収300万に届いていなかったし世帯主は閉鎖病棟ぶち込まれたし入れ違いに働き始めた母親もそんなに貰ってなかっただろうし貯金も聞く限りなさそうだったし通りそうでは?とは思うんですけど今でも。
頑張って揃えた漫画を全て売られていた時はもうそういう星の下に生まれたんだなと何も感じませんでした。
3年になって受験のために塾に通う必要が出てきましたがそんな金はないため、市の「志望校に受かったら助成金返済不要」制度を使って通いました。同級生がいそうな地元の塾に行くのはいじめられそうで怖かったので2駅先の塾に自転車で通いました。落ちたら終わりなので退路がなくてつらかったです。塾は進学校コースに女子4人クラスになりましたが自分だけ明らかに浮いてて会話についていけてませんでした。担当の若い男性教師にはオタク趣味を開示してないのに「◯◯さんって腐女子?(笑)」と言われました(その時代の腐女子は汚い芋女オタクみたいな意味が強くあった)他クラスも混じっての談笑の場でも会話に入れず浮いてましたね。
受験の時期に謎に担任に呼び出されて素行不良で内申を下げると言われました。意味が分からなかったしこのままでは中卒になると絶望して号泣発狂しました。後から聞きましたが担任は自分の周りの生徒にあいつは危険だから関わるなと触れ回っていたらしいです。高校は受かったから内申はなんとかなったんですかね
そういえば中学時代学校以外で誰かと遊びに行ったとか1回もないな〜
結果的に都内で偏差値60程度の平均よりちょっとマシくらいの公立高校に進学しました。これも自転車で20分だったのでまた私立高生や電車通学生より圧倒的に「金がかからない」人間になれました。学費は出してもらえることになりました。お小遣いはないのにバイトは禁止されました。
周囲は"つまらない学校"と自虐する風潮がありましたが自分にとっては義務教育動物園より治安が圧倒的に良く陽キャが褒めそやされるわけでもなく陰キャがイジメられるわけでもない"そこそこの知能と常識を持つ者のつまらなさ"が集う場所は今までで2番目にマシでありがたかったです(1番は現状、年単位で人と会話しなくてもいい引きこもりのこの現状です)自分のようなつまらない人間がいてもいい場所でした。陰キャなりにオタクっぽいグループにも属せて、美術部に入ってオタクの話をして、ただ会話してくれる人間はいましたが1番の友達になってくれる人はいませんでした。みんなそれぞれ楽しくて面白くて魅力のある人間関係を既に築いており、自分のような低能の入る隙はどこにもなかったです。
同時に入学頃からもう発達が炸裂し始め、(入学前の必須勉強をしない、遅刻、傾眠、易疲労、無断欠席)帰宅後即疲労で寝る生活を繰り返し全く勉強も出来なくなりました。 無事呼び出しをくらいまくる劣等生と化しました。3年の単位は本当は赤点だし追試や追加レポートも出してないのに何故か卒業したので謎の慈悲をかけられたのだと思います。職員室の前であいつはもうどうしようもないと言っているのが聴こえました。
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受験は入学金を期日までに払い忘れ(そもそも私立に行く金はないと言われ国公立に行く学力もあのありさまなので無く)他県の公立を受験しに行き遅刻して当然落ち、浪人し、バイトして金を溜めましたが毎日疲れて寝ていたので勉強は全くせず見かねた父親が通信制大学(学費が30万くらいで安い)を勧めてきたので仕方なくそれにしてまた「金のかからない」人間になりました なんで子供にせめて大卒資格は取れと言うのに大学の金出さないんだろうとは思いましたがどうせ元アル中の他責の未診断ASDで話が通じない相手だし暴れられてもダルいしどうでもよかったです 自分は私立の大学に親金で行ったくせに。
キラキラ大学生活を見るのが苦しくて数少ない高校の知り合いのいるリア垢からログアウトし、誰とも連絡を取らなかったのでその後10年ほど誰とも会いませんでした。特に声をかけられるわけでもなかったのでつまらない人間性を強く実感しました。
清掃バイト先でもふんわりとイジメというか嫌味を言われることが多かったです。寡黙でキョドキョドしているので「昔いじめられてたんじゃない笑」「空気悪くなる」「顔可愛いよね(お世辞でも言わないレベルで奇形です)」優しいおばあちゃんが場を仕切っていたので業務に差し支えはありませんでしたが。
■
自由な時間と金ができたこのタイミングでスプラトゥーンに出会いました。はじめてつらい現実を忘れ熱中出来るものに出会いました。1000時間くらいやりました。実況配信も見始めました。好きなものを楽しそうにやっているコミュニティは煌めいて見えました。勉強はしませんでした。
オーバーウォッチに出会いました。5000時間以上やりました。1日10時間以上やってました。
エーペックスに出会いました。その後上に同じくです。
ヒプマイの流行経由でハイローを観ました。数年ぶりにバイト以外で外出し映画を見に行きました。5年ほどROMだったツイッターを作り二次創作をはじめました。
その後熱が冷めてきた頃に母の様子がおかしいことに気づきはじめました。
■
3年前母親が腹水の溜まった状態でみつかり余命一ヶ月と言われ、介護が始まりました。
妊婦のように膨れた奇形の姿はフラバする都度目眩がし視界が暗くなります。
自分は同じ部屋で暮らしながら何となく気付いていながら何もしなかったので、自分が殺したようなものです。
その頃自分はずっと寝続けて週一でバイトしてゲームで現実逃避する生活だったのでトイレ飯風呂以外で部屋から出ずエンカウント頻度はあまりありませんでした。
母の部屋は壁や家具が糞便に濡れゴミ屋敷だったと掃除した父親が言っていました。自分の部屋もゴミ屋敷なので認知が歪んでいて良く分からなかったです。
救急車で運ばれ余命宣告された日に凄まじい感情の波に襲われ(今思うとあれが人生で1番の発狂だったと思う)次の日はじめて精神科へ行き抗鬱剤と抗不安剤を出されました。
母が死ぬ、世話をせねばならないのに傾眠は治まりませんでした。近くで痛い助けてと叫ばれたり父に揺すられても起きれません。ケアマネの人には合鍵で入ってもらってました。
介護は主にオムツ替え、薬の処方、身体の清掃、食事提供、絶叫が聞こえたら医療用麻薬の貼り付けなどです。非力なので腹が膨れた人間の体勢を変えられず何度も本人から使えねえと言われ突っ張り棒か何かで叩かれました。
自力で介護用ベッドから這い出ようとして落ちた母親をどうしても持ち上げられず、そのまま放置した時は酷い罪悪感に苛まれました。
■
母が死にました
翌日喪服のまま同人誌即売会に行きました。その頃よすがにしていたカプのオンリーでした。絨毯買いしましたが今も大半は読んでません
多分ハマっていると思い込むことで全てから逃げていました 人生の己の選択全てがそうなので、そうなんだと思います
半年ほど寝たきり半絶食状態になり体重が33キロとかになって肋骨が浮いててウケました。常に悪夢を見るようになり寝るだけで疲れ、起きてもフラバが続き、全てが恐ろしくなり、不眠と過眠を同時発症しました。
眠剤が出され始めました。
母本人は骨は海に撒けと言いましたが娘が父方の親戚との縁を切らさないためにと骨は秋田の墓に入れることになってました。骨壺ごとではなく骨は他の人と纏めてザラザラと同じ墓に入れる風習だそうです。あんなに憎んでいた父といずれ一緒くたにされるのはあまりにも憐れだと思いました。
なので骨壺から全部骨を出して畳に並べて全てに紫のペンでマークをつけました。途中で帰宅を早めた父に見つかり死人を侮辱するなと怒鳴られました。生きてる間はなにもしなかったくせに。
その後誰もいない時また骨壺を開けて形のいい
納骨時に最後に入れるはずの喉仏の骨(あれ本当は喉仏じゃないらしいですね)が中にはいってないのに気づいたお坊さんの怪訝な顔は面白いので今でも思い出せます。
骨は硬いカルシウム剤の味がしました。しまってその後は開けてないので今見たらカビてるかもしれません。海に撒けと言っていたのに、憎んでいた父方の墓に入れられたのに今はタッパーに入れられてるなんて哀れであとちょっと胸のすく思いがします。
寝たきりのままですが1ヶ月ほどして少しずつ絵を再開しました。ゲームをすると親を見殺しにしたのにお前はのうのうと遊ぶんだという思考に飲まれドーパミンが出なくなったから仕方なくでした。手を動かしているとある程度の頻度で過集中しフラバが来づらくなり、あと絵を描くことは別に楽しいと思わないから、体力も消耗しづらいから、仕方なくです。本当に絵ってつまらないし出来上がったものもつまらない
waisを受けました。結果凹凸ありボーダーな感じでその時確定で発達とは言われませんでした。
その後機会があり診断書を書いてもらいました。鬱ASDADHDでした。過眠不眠が無いのが意外でした。
同時に提出用の自分の人生と症状を書き連ねる作業をしました。客観的に見る人生はあまりにも無価値で無様で半狂乱になり泣きました。
■
1年後祖母が死にました。元々北海道にいた徘徊認知症で、トラブルを起こす度に母が飛行機に乗って処理して手を焼いていたので東京に越させ母親と自分が自宅介護していましたが母が死んでから叔父のもとで施設入居していました。それ以前はかなり地域支援センターにお世話になりました。動ける認知症だったのでかなりハードな介護で母親はノイローゼ気味で、統失の症状も増えていたように思います。介護期の自分は抑鬱が酷く判断力も低下しておりあまり手伝えていませんでした(まだ鬱とかの自覚がなかった)自分の気力がわかず外に出れず母の葬式の時から一度も会えずに、死にました。後悔しています。
■
ここまで来てようやく己の弱者性と未来のなさを本当の意味で受け入れ始めました。
同時にもうどうでもいいやと非常に破滅的で反社会的な行動を繰り返すようになり、そういう自分を良心に苛まれながらも開きなおって肯定しようとしています(詳しくは書けません)
常にフラバに怯え、特発性傾眠に怯え、虚無感と希死念慮に怯えて覚醒時間を過ごしています。過眠症で10〜20時間寝るので生産的なことがまるでできません。眠剤が上手く作用しない時は悪夢が来るので寝るだけで疲れます。
特に何も楽しくないです。何かを楽しいと思ったこともないです。母親が死んでからゲームを人生から奪われたのでドーパミンもアドレナリンも意識して出せません。何かの虚構コンテンツに熱狂するふりをして生の苦痛と覚醒している時間を誤魔化しています。
"みんな"が楽しそうにしていることの中で一人で出来るものを真似して自分は今快楽を得ているんだと思い込もうとしています。
絶っていた人間関係を少し回復させて"交友関係のある健常者"になろうと努力するフリをしています。
■
みんなみたいに友達がほしい
核兵器になれないなら早く殺せよ。
生きたくないというより苦痛はもう要らない
お前たちは何が良くて生きてるの?気持ち悪いんだよ
己が裁かれますように。
ぼんやりつらいなーと、人格否定されたり不幸が続いて思ったので人生をまとめて現状を言語化してみた
まだ記憶が曖昧な頃ですが、保育士に備品に傷を付けた件で猛烈に叱られたことを覚えており、今でも思い出して身体が固まります。
「死」という概念を知りどうしょうもない恐怖に苛まれ、家族も自分もいずれ何もかも死ぬんだ、どうせ苦しんで死ぬのに勝手に生み出すなんて酷いと両親を呪い始めたのがこの頃からだと思います。
母親が育児ノイローゼになり、仕事を辞め、家賃が安いエリアに引っ越し幼稚園へ行くことになりました。
特にイジメなどは自分の主観ではありませんでしたが、遅刻癖とぼんやりとした不快感不安感を抱えて過ごしていました。
区域が近い女子生徒3人と登校することになりました。ウマが合わないのか失言をしたのか(1人が父親不在家庭だったためそれを聞いたのが引き金かな?と思いますが幼少期なので理由はわかりません)ハブられを受けました。登校時は親の目があるので特になにもしませんが帰宅時は先に進んでニヤニヤしながらこっちを見てきて自分が近付いてきたらまた遠ざかってうわ来たwみたいなことを言ってくるタイプのハブられでした。ある日限界になって泣いたら収まりましたが、当時の自分はまた友達に戻れたと馬鹿正直に思っていました。
休み時間に遊ぶ仲良しグループでハブられました。態度が偉そうだからクビとリーダー格の女子に言われ、行く場所がないので毎日休み時間は下駄箱の前で泣いていました。
高学年になるとそれまでよりも上手く立ち回れるようになり、中学受験組が内申を気にし始めたのか目立った奇行をする子供も減りなんとか他人と談笑したり図書室や階段の踊り場に避難したりするようになりました。それでも学校にいるのはつらかったので定期的にトイレで泣いていました。
しかしこの頃から父親がアルコール中毒の片鱗を見せ、母と常に深夜まで喧嘩していました。DSで見れるインターネットのアニメ・マンガの二次創作サイトだけが心の拠り所でしたが、定期的に没収されたり壊されたりしました。居場所はありませんでした。
親がうるさくて気が滅入る、なんだかめんどくさいという抑鬱症状であまり風呂に入れなくなり担任に度々注意されました。
地域の繰り上がり中学校に入学。制服は買ってもらえましたが入学して校章のピンズ500円かかることが判明しました。祖父母のお年玉以外のお小遣いをもらったことがないので買えませんでした。校章をつけてない自分は担任に指導室に呼び出されました。結果的に教師からピンズを貰ったのですが、それから発達かボーダー?で1日1回は歩き回ったり暴れたりして授業がおじゃんになるような生徒が何回席替えしても近くに配置されました。この中学校には支援級のようなものはなかったです。
このストレスで過敏性腸症候群を発症し学校にいる間はおならが止まらなくなるようになりました。病院には行かせてもらえなかったです、金が無いらしいので
ある時休み時間に走り回る他害くんが近付いてきたので怖くて反射で突き飛ばしました 暴力沙汰として指導室に呼び出されました。一方的に詰められあの生徒に配慮をしろと言われしんどくなって泣きました。
多分そこで明確に学校側からの監視対象になったんだと思います。
父親のアル中が悪化し家庭内は荒れに荒れました。なんかずっと物が飛び交ってた気がします。同時に母親も現在ネットでよく見るような陰謀論、統合失調症のような言動が増えました(盗聴器、車が追いかけてくる、創価の集団ストーカー、盗撮されてる、喋った言葉が迷惑メールに反映されてるなど)かなり社交的な人でしたが段々と塞ぎ込んでいきました。
あの頃からずっと離婚したい離婚したいと叫んでいる母親の姿を鮮明に思い出せます。死ぬ間際まで同じことを言っていたので。私の存在のせいで離婚に踏み切れなかったのか、経済的に不可能で諦めていたのか、もう死んでいるので聞けません。
最終的に小便を撒き散らしながら外で暴れた父は警察を呼ばれ閉鎖病棟行きになりました。
この時期は精神が限界だったので正直仔細をよく覚えていません。
同時期に自分は軟式テニス部で先輩と同級生に虐められてました。仲良しグループと一緒に入部したので抜けられなかったです。(今思えば自分にだけ強い球を出しからかわれ雑用にこき使い物を隠されたりしてたのを静観してただけのあの人たちは仲良しでもなんでもないな)でも当時はその人たちしか人間関係がなかった。3年になってやっと登校を共にしていた人と一緒に部活を抜けられました。その人と一緒に美術部に入りましたがその人は先に男女グループに入り、自分は既存グループや後輩グループにも入れず一人で下手な漫画絵をカリカリ描いてるだけの時間を過ごしてました、結構つらかったです、自分にだけ男女グループで付き合ってるとか遊びに行ったとかの情報回ってこなかったし、校外部活動は一人だったし
同級生と話を合わせるために好きな人がいる設定を作ったり流行りの漫画を履修するためにブックオフに通ったりの努力をしましたが居場所はなかったです
常に疲れており、死にたかったです。
両親に生活保護の申請を打診しましたが謎のプライド発揮して申請してなかったですね。自営で年収300万に届いていなかったし世帯主は閉鎖病棟ぶち込まれたし入れ違いに働き始めた母親もそんなに貰ってなかっただろうし通りそうでは?とは思うんですけど今でも。
頑張って揃えた漫画を全て売られていた時はもうそういう星の下にうまれたんだなと何も感じませんでした。
3年になって受験のために塾に通う必要が出てきましたがそんな金はないため、市の「志望校に受かったら助成金返済不要」制度を使って通いました。同級生がいそうな地元の塾に行くのはいじめられそうで怖かったので2駅先の塾に自転車で通いました。落ちたら終わりなので退路がなくてつらかったです。塾は進学校コースに女子4人クラスになりましたが自分だけ明らかに浮いてて会話についていけてませんでした。担当の若い男性教師にはオタク趣味を開示してないのに「◯◯さんって腐女子?(笑)」と言われました(その時代の腐女子は汚い芋女オタクみたいな意味が強くあった)他クラスも混じっての談笑の場でも会話に入れず浮いてましたね。
受験の時期に謎に担任に呼び出されて素行不良で内申を下げると言われました。意味が分からなかったしこのままでは中卒になると絶望して号泣発狂しました。後から聞きましたが担任は自分の周りの生徒にあいつは危険だから関わるなと触れ回っていたらしいです。高校は受かったから内申はなんとかなったんですかね
そういえば中学時代学校以外で誰かと遊びに行ったとか1回もないな〜
結果的に都内で偏差値60程度の平均よりちょっとマシくらいの公立高校に進学しました。これも自転車で20分だったのでまた私立高生や電車通学生より圧倒的に「金がかからない」人間になれました。学費は出してもらえることになりました。お小遣いはないのにバイトは禁止されました。
周囲は"つまらない学校"と自虐する風潮がありましたが自分にとっては義務教育動物園より治安が圧倒的に良く陽キャが褒めそやされるわけでもなく陰キャがイジメられるわけでもない"そこそこの知能と常識を持つ者のつまらなさ"が集う場所は今までで2番目にマシでありがたかったです(1番は現状、年単位で人と会話しなくてもいい引きこもりのこの現状です)自分のようなつまらない人間がいてもいい場所でした。陰キャなりにオタクっぽいグループにも属せて、美術部に入ってオタクの話をして、ただ会話してくれる人間はいましたが1番の友達になってくれる人はいませんでした。みんなそれぞれ楽しくて面白くて魅力のある人間関係を既に築いており、自分のような低能の入る隙はどこにもなかったです。
同時に入学頃からもう発達が炸裂し始め、(入学前の必須勉強をしない、遅刻、傾眠、易疲労、無断欠席)帰宅後即疲労で寝る生活を繰り返し全く勉強も出来なくなりました。 無事呼び出しをくらいまくる劣等生と化しました。3年の単位は本当は赤点だし追試や追加レポートも出してないのに何故か卒業したので謎の慈悲をかけられたのだと思います。職員室の前であいつはもうどうしようもないと言っているのが聴こえました。
受験は入学金を期日までに払い忘れ(そもそも私立に行く金はないと言われ国公立に行く学力もあのありさまなので無く)他県の公立を受験しに行き遅刻して当然落ち、浪人し、バイトして金を溜めましたが毎日疲れて寝ていたので勉強は全くせず見かねた父親が通信制大学(学費が30万くらいで安い)を勧めてきたので仕方なくそれにしてまた「金のかからない」人間になりました なんで子供にせめて大卒資格は取れと言うのに大学の金出さないんだろうとは思いましたがどうせ元アル中の他責の未診断ASDで話が通じない相手だし暴れられてもダルいしどうでもよかったです 自分は私立の大学に親金で行ったくせに。
キラキラ大学生活を見るのが苦しくて数少ない高校の知り合いのいるリア垢からログアウトし、誰とも連絡を取らなかったのでその後10年ほど誰とも会いませんでした。特に声をかけられるわけでもなかったのでつまらない人間性を強く実感しました。
自由な時間と金ができたこのタイミングでスプラトゥーンに出会いました。はじめてつらい現実を忘れ熱中出来るものに出会いました。1000時間くらいやりました。実況配信も見始めました。好きなものを楽しそうにやっているコミュニティは煌めいて見えました。勉強はしませんでした。
オーバーウォッチに出会いました。5000時間以上やりました。1日10時間以上やってました。
エーペックスに出会いました。その後上に同じくです。
ヒプマイの流行経由でハイローを観ました。数年ぶりにバイト以外で外出し映画を見に行きました。5年ほどROMだったツイッターを作り二次創作をはじめました。
その後熱が冷めてきた頃に母の様子がおかしいことに気づきはじめました。
3年前母親が腹水の溜まった状態でみつかり余命一ヶ月と言われ、介護が始まりました。
妊婦のように膨れた奇形の姿はフラバする都度目眩がし視界が暗くなります。
自分は同じ部屋で暮らしながら何となく気付いていながら何もしなかったので、自分が殺したようなものです。
その頃自分はずっと寝続けて週一でバイトしてゲームで現実逃避する生活だったのでトイレ飯風呂以外で部屋から出ずエンカウント頻度はあまりありませんでした。
母の部屋は壁や家具が糞便に濡れゴミ屋敷だったと掃除した父親が言っていました。自分の部屋もゴミ屋敷なので認知が歪んでいて良く分からなかったです。
救急車で運ばれ余命宣告された日に凄まじい感情の波に襲われ(今思うとあれが人生で1番の発狂だったと思う)次の日はじめて精神科へ行き抗鬱剤と抗不安剤を出されました。
母が死ぬ、世話をせねばならないのに傾眠は治まりませんでした。近くで痛い助けてと叫ばれたり父に揺すられても起きれません。ケアマネの人には合鍵で入ってもらってました。
介護は主にオムツ替え、薬の処方、身体の清掃、食事提供、絶叫が聞こえたら医療用麻薬の貼り付けなどです。非力なので腹が膨れた人間の体勢を変えられず何度も本人から使えねえと言われ突っ張り棒か何かで叩かれました。
自力で介護用ベッドから這い出ようとして落ちた母親をどうしても持ち上げられず、そのまま放置した時は酷い罪悪感に苛まれました。
母が死にました
翌日喪服のまま同人誌即売会に行きました。その頃よすがにしていたカプのオンリーでした。絨毯買いしましたが今も大半は読んでません
多分ハマっていると思い込むことで全てから逃げていました 人生の己の選択全てがそうなので、そうなんだと思います
半年ほど寝たきり半絶食状態になり体重が33キロとかになって肋骨が浮いててウケました。常に悪夢を見るようになり寝るだけで疲れ、起きてもフラバが続き、全てが恐ろしくなり、不眠と過眠を同時発症しました。
眠剤が出され始めました。
母本人は骨は海に撒けと言いましたが娘が父方の親戚との縁を切らさないためにと骨は秋田の墓に入れることになってました。骨壺ごとではなく骨は他の人と纏めてザラザラと同じ墓に入れる風習だそうです。あんなに憎んでいた父といずれ一緒くたにされるのはあまりにも憐れだと思いました。
なので骨壺から全部骨を出して畳に並べて全てに紫のペンでマークをつけました。途中で帰宅を早めた父に見つかり死人を侮辱するなと怒鳴られました。生きてる間はなにもしなかったくせに。
その後誰もいない時また骨壺を開けて形のいい
納骨時に最後に入れるはずの喉仏の骨(あれ本当は喉仏じゃないらしいですね)が中にはいってないのに気づいたお坊さんの怪訝な顔は面白いので今でも思い出せます。
骨は硬いカルシウム剤の味がしました。しまってその後は開けてないので今見たらカビてるかもしれません。海に撒けと言っていたのに、憎んでいた父方の墓に入れられたのに今はタッパーに入れられてるなんて哀れであとちょっと胸のすく思いがします。
寝たきりのままですが1ヶ月ほどして少しずつ絵を再開しました。ゲームをすると親を見殺しにしたのにお前はのうのうと遊ぶんだという思考に飲まれドーパミンが出なくなったから仕方なくでした。手を動かしているとある程度の頻度で過集中しフラバが来づらくなり、あと絵を描くことは別に楽しいと思わないから、体力も消耗しづらいから、仕方なくです。本当に絵ってつまらないし出来上がったものもつまらない
waisを受けました。結果凹凸ありボーダーな感じでその時確定で発達とは言われませんでした。
その後機会があり診断書を書いてもらいました。鬱ASDADHDでした。過眠不眠が無いのが意外でした。
同時に提出用の自分の人生と症状を書き連ねる作業をしました。客観的に見る人生はあまりにも無価値で無様で半狂乱になり泣きました。
1年後祖母が死にました。元々北海道にいた徘徊認知症で、トラブルを起こす度に母が飛行機に乗って処理して手を焼いていたので東京に越させ母親と自分が自宅介護していましたが母が死んでから叔父のもとで施設入居していました。それ以前はかなり地域支援センターにお世話になりました。自分の気力がわかず外に出れず母の葬式の時から一度も会えずに、死にました。後悔しています。
ここまで来てようやく己の弱者性と未来のなさを本当の意味で受け入れ始めました。
同時にもうどうでもいいやと非常に破滅的で反社会的な行動を繰り返すようになり、そういう自分を良心に苛まれながらも開きなおって肯定しようとしています(詳しくは書けません)
特に何も楽しくないです。何かを楽しいと思ったこともないです。母親が死んでからゲームを人生から奪われたのでドーパミンもアドレナリンも意識して出せません。何かの虚構コンテンツに熱狂するふりをして生の苦痛と覚醒している時間を誤魔化しています。
"みんな"が楽しそうにしていることの中で一人で出来るものを真似して自分は今快楽を得ているんだと思い込もうとしています。
絶っていた人間関係を少し回復させて"交友関係のある健常者"になろうと努力するフリをしています。
核兵器になれないなら早く殺せよ。
生きたくないというより苦痛はもう要らない
お前たちは何が良くて生きてるの?気持ち悪いんだよ
己が裁かれますように。
この時期になると一段と気分が落ち込むな。
さっぱり祝福しようとか、お疲れ様とかそういう考えにならないんだが。
やっぱり変なんだろうなぁ。
自分が退職するタイミングになったらどういう風に送別会を断ってやろうとか、
これまで社内表彰でもらった表彰状やらトロフィーやらをこれ見よがしに会社のゴミ箱に投げ捨ててやろうとか、
最後の挨拶で最後に溜め込んでた不平不満をぶちまけてやろうとか。
いやいやいや、どーせ小心者のお前にはそんなことできませんよ。
その時になったら、可もなく不可もなく、風波立てずに誰の印象にも残らないように去ることに心血を注ぐんでしょうよ。
今度は転入者の紹介か。ああ、席替えだキックオフだ懇親会だ嫌だ嫌だ。
新入社員がくるのか。
面倒くさい面倒くさい。。
余計な擾乱が一つ増えるという感覚。
ああ、どうして暖かく迎え入れようという気持ちになれないんだろう。
ただ単に自分の性格がひねくれているだけなのか、それとも心に余裕がないのか?
一旦休みたいな。特に期限を決めずに好きなだけ休む時間をとれたら、ちょっとはそういう寛容な気持ちも自然と湧いてくるもんなんだろうか。。
去年の春から中途採用で入ってきた30代後半の独身男性Aさん。
席替えで、3か月ほど前から隣の席になった。前にAさんと隣の席だった人に「大変だよ」といわれていたが、理由は席替え後30分も経たずに分かった。
Aさんはメンタルがかなりか弱い人らしく、常にオドオドしていて、ストレスのせいで胃腸を病んでいるのか、四六時中ゲップをしていて気持ち悪い人だった。
毎日毎日、他人のゲップを何十回も聞くのは、なかなかの不快感だった。
また、Aさんは体調不良で急に休むことが度々あって、だいたい月1で1~2日ほど休む。
いつも「高熱が出て」と言って休むのだが、恐らく熱は嘘でメンタル的な問題で出社できないのだろう、と上司はこぼしていた。
本当に月に一回高熱を出しているのなら生活を見直すべきだし、メンタルだったとしてもやっぱり月一で体調を崩してしまうのはいろいろ見直すべきだろう。
Aさんの私生活を詳しくは知らないが、世間話をした時に「自炊なんてしませんよ、コンビニ弁当とかスーパーの総菜食べてます」と言ってた。
会社では毎日、砂糖が入ったコーヒー飲料ばかり飲んでいた。水やお茶を飲んでいるの見たことがない。
風邪をこじらせて2週間以上くしゃみ・咳を連発していた時に「(迷惑だから早く治せよと思いながら)病院行きました?」と聞いたら「病院って嫌いなんですよね、薬漬けになんかされたくなくて」と言いていた。
体調の悪そうな日が続いた週の金曜日に「土日はしっかり休んでくださいね」と声を掛けたら「いや、土日は趣味の〇〇があるので休めないっすw」と言われた。そこは嘘でも「しっかり休みます」と言えばよくないか?
社会人なんだから体調管理も仕事のうちだろう!と思わずにはいられない。こんな考えは老害だろうか。Aさんの方がかなり年上なんだけれども。
先々週の火曜日に、また高熱を出したと言って欠勤して、熱が引いた後もどうしても起き上がれず出社できない、と言って1週間休んだ。三連休明けで忙しい時期に休みやがって、と部署の人間全員が思ったと思う。
結局その次の週も結局出社できず、そのまましばらくお休みになった。
毎日Aさんののゲップを聞かずに仕事ができるのが久々で、とても清々しい。
視界の端でオドオドする様子も、その割には独り言がデカいのも鬱陶しいと思っていた。
欠員が出れば、その分残った人間に仕事が重くのしかかる。とはいえ、この先も突発的に休む可能性があり、メンタルに問題を抱えていて扱い方が面倒な人間と仕事するくらいなら、このままフェードアウトしてくれたほうがいいなぁと思ってしまう。
お子さんがいる社員が、お子さんの病気で突発的に休むのは全然フォローしようと思えるのに、Aさんに対してはどうしてもそんな気持ちになれなかった。
毎日不快なゲップ音を聞かせてくる存在に、人は優しくはなれない。
中途入社だから自分よりも給料が低く、体調不良での休みが多いため社内での信用も著しく低く、あとハゲているAさん。見るたびに弱者男性の具現化だな、といつも思う。
もう帰ってこなくていいよ、Aさん。
幼い頃から、私たちは“セット”として見られてきた。生まれた日も同じ、顔立ちもよく似ている――いわゆる“一卵性双生児”ではないけれど、それでも周りからは「双子っていいね、仲良しでしょ?」と言われ続けてきた。実際に仲が悪いわけではないし、ケンカらしいケンカをしたことも数える程度しかない。
私と兄は同じクラスに入ることが多くて、席替えのときにはいつも先生が「双子は離しておいたほうがいいわよね」と気をつかってくれたから、わざわざ離れた席にされたりもした。まあ、それはそれで気が楽だった。四六時中、兄の隣りにいるのはちょっと落ち着かないというか、どうも“完全なる一心同体”なんてことはありえないんだと、子どもながらにどこかで感じていたから。
けれど、周囲のイメージとは裏腹に、私たち姉弟――いや、厳密には数分だけ兄が早く生まれた、という関係性――は、「まるで違うタイプ」の人間だった。性格も、好きなものも、行動パターンも、何もかも対照的。
兄は昔から落ち着いていて、実に要領がいい。小学校の頃から自然とリーダー役を任されることが多くて、学級委員をやっていたこともある。友達は多いし、先生からの信頼も厚い。ふと気づけば彼を中心にグループができているような感じで、皆が「○○君に相談すれば大丈夫」「分からないことがあったら○○君に聞けばいい」と頼ってくる。本人はあまり偉ぶることもなく、いつも穏やかに笑いながらうまく場を収めていた。
一方の私は、人前でしゃべるのも苦手だし、控えめに言っても“引っ込み思案”な性格だ。自己主張しないタイプで、どちらかと言うと集団より一人でいるほうが落ち着く。そんな私の横に、なんでも器用にこなしてしまう兄がいる――それがどれほど大きなコンプレックスを生むか、たぶん兄自身は気づいていない。
双子の妹としては、兄のことを「尊敬している」という気持ちが確かにある。その一方で、「ああ、また兄が注目を集めてる」「私なんて何をしても目立たない」と思わず拗ねてしまう瞬間だって少なくない。
たとえば、小学生のとき、学習発表会の劇で主役を決めるオーディションがあった。私は勇気を出して立候補してみたのだが、結果的にみんなの前でうまくセリフを言えず、途中で声が震えてしまった。恥ずかしくなって固まっていると、「じゃあ代わりに○○君やってみて」と先生が兄を指名した。すると、兄はほとんど練習もしていないはずなのに、しっかりセリフを頭に入れていて、堂々と演じてしまったのだ。そこにいたクラスメイトの拍手と歓声の大きさを思い出すと、今でも胸が苦しくなる。「これだよ、これ」と、みんなが“求める”のはいつも兄の方。私という存在は、最初からオプション扱いなんだ、なんて気持ちになってしまった。
そうやって、「どうせ私は兄に敵わない」と思うと同時に、兄が称賛される姿を見て心のどこかで誇らしく思う自分もいた。この矛盾した感情を抱えながら成長していくうちに、私は自分がブラコンなのかもしれない、と思い始めた。
――ブラコン。そう、兄を強く慕う妹のことを、ネットや友達同士の会話なんかでは気軽に「ブラコン」と呼ぶ。でも“好き”と言っても、それが恋愛感情であるはずがない。一方で、ただの家族愛だけとも言い切れない。自分でも整理しきれない妙な感情を“ブラコン”という軽い言葉でごまかしている気もした。
中学生になってからも、この複雑な関係は続いた。中学校ではクラスが分かれることもあったし、部活動も別だった。兄はバスケ部、私は図書委員。これで少しは「双子セット」から解放されるかと思ったのに、周りの子にはすぐに「バスケ部の○○君の双子なんだ!」「あのイケメンの妹?」なんて言われる。兄が“イケメン”かどうかは正直私にはわからないけど、少なくともモテることは確かだった。
それを素直に「すごいね」って思えればよかったけれど、現実は違った。私の中にはまたしても“嫉妬”とも言えるような感情が生まれていたのだ。
兄が女子からチョコをもらってきた日、家に帰ったら「これ、好きな子から?」「気になってる子いるの?」と何気なく聞いてしまう自分がいる。いや、妹として話題にするくらいは普通だろう。それでも内心では妙なざわつきを感じる。兄の恋愛を想像するたびに、寂しいような、モヤモヤするような感情が胸のあたりで渦巻く。
私はどうしようもなく「兄を意識しすぎている」と思った。たとえば学校のテストの成績が出たとき。掲示板に学年順位が張り出されると、私は自分の順位より先に兄を探す。兄の成績が上位なら嬉しいし、誇らしい。だけど、いつも兄より下の順位の自分がなんだか情けなくもなる。
結局、私は兄の背中を追いかけているのか、それとも追い抜きたいと思っているのか、自分でもはっきりしない。そんな曖昧な気持ちを抱えてしまうせいか、勉強も部活も中途半端なまま、どんどん自分に自信をなくしていった。
高校受験が迫ったとき、先生には「同じ学校を受けることになるよね?」と当然のように言われた。両親も「双子なんだから同じ高校でいいじゃない」と笑っていた。だけど、私は少し反発心を抱いていた。いつまでも「兄の妹」として見られるのは嫌だったし、同じ進路を選ぶのが当たり前というのもなんだか癪に触った。
しかし、結局は同じ高校に通うことになった。兄の成績ならもっとレベルの高い私立や、他の選択肢もあったはずだけど、彼は家から一番近い、いわゆる“県立の進学校”を選んだ。私としては心の底でほっとしたのかもしれない。だって、違う学校に進んでしまったら、毎日どんな気分になるのか想像もつかなかったから。
高校に入り、部活も別々、クラスも別々になった。それなのに、噂はすぐに広まった。「あのイケメンの双子」だの「お兄さんと妹さん全然似てない」だの、また私は地味な存在として扱われ、兄だけが注目されているという図式が出来上がる。私はその“いつもの光景”に、慣れてしまったのだろうか。辛い、悔しい、というよりも、「ああ、またこれだ」と自分を納得させてしまっていた。
しかしその一方で、兄が自然とクラスでも中心的存在になるのを見て、どこか安心している自分がいる。それは確かにブラコン的な感情なのかもしれない。だって、「あ、また人気者になっちゃってる」「でも、なんだか誇らしいかも」と思ってしまうのだから。変だと思いながらも、これが私の素直な気持ちだった。
このまま大人になって、いつか兄が誰かと付き合ったり結婚したりすることになったら、私はどんなふうに感じるんだろう――そんな想像をすると、時々息苦しいような、不思議な寂しさが込み上げてくる。兄がいなくなるわけじゃないのに。「家族」だから、ずっと一緒に暮らすわけじゃないとわかっているのに、なんとなく孤独を感じずにはいられない自分がいる。兄がいなければ、私のアイデンティティはどうなるのか。自分ひとりで立っていられるのか、不安になる。
ある日の放課後、私は図書室で一人、本を読みながらうとうとしていた。すると、突然ガタガタと椅子が動く音がして、目の前に兄が座っていた。
「珍しいね。ここで何してんの?」
兄は私がよくいる場所をわかっていたみたいで、わざわざ探しに来たらしい。
「いや、ちょっと疲れちゃって……寝てた」
私が照れ隠しにそう言うと、兄は少し笑ってから、「今日は部活早めに終わったからさ、待たせちゃ悪いし。帰ろうと思って」とあっさり言った。
私が彼を待つなんて、そんなの当たり前じゃないのに。いつからか私たちは、自然と同じ時間に家を出て、同じ時間に帰るようになっていた。もちろん都合が合わない日は別行動だけど、兄はできるだけ合わせようとしてくれる。
私は不器用に本を閉じてバッグにしまいながら、少し早足で歩く兄の後ろ姿を見つめた。いつの間にか、背も私よりずっと高くなっていた。昔はほとんど同じ身長だったはずなのに。そんな変化ひとつひとつが、私の心をシクシクと痛めつけるような気がした。
高校二年のある夜、兄がふいに私の部屋のドアをノックした。ドアを開けると、彼が少し困ったような表情で立っている。いつも余裕たっぷりの顔をしている兄にしては珍しい。
そう言って兄は部屋に入ってきた。私は慌てて机の周りを片づけ、椅子を勧めた。何か深刻な話でもあるんだろうかと、胸が高鳴る。
「どうしたの?」と聞くと、兄は小さく息をついてから、「……おれ、告白されたんだ」と言った。
瞬間、私は心臓が大きく跳ねた。体温が上がるのを感じる。なんだ、その話。自慢でもしてるの?――そんな意地悪い言葉が頭をかすめる。けれど、兄が思いのほか真剣な表情をしていることに気づき、私は思わず黙り込んだ。
「その……同じクラスの子なんだけど、バスケの試合をよく応援してくれてて、この前の大会終わってから声をかけられた。ちゃんと考えて答えたいんだけど、自分はどうしたらいいのかわからなくて……」
兄はもともと人気者だし、告白くらい何度かされてもおかしくはない。けれど、彼がこんなふうに私に相談してくるのは初めてだった。
「どんな子なの?」と私は声を震わせないように気をつけながら尋ねる。
「明るくて、周りを盛り上げるのが得意な感じ。勉強も得意みたいだし、すごく……可愛いと思う」
そこまで言われて、私はなんとも言えない感情に襲われた。可愛い子。兄がそう表現する女の子。おそらく兄にふさわしい、そういうタイプなんだろう。私とはまるで正反対の…。
でも、私は笑顔を作って、「いいじゃない。付き合えば?」と返した。兄は意外そうな顔をして、「そっか……でも、なんだか変に緊張して気軽に返事できなくてさ」とさらに眉をひそめる。
「兄ちゃんがいいと思うなら、OKすればいいんだよ。あ、応援してるから」
声が上ずりそうなのをこらえながら、私は精一杯明るい口調を作った。兄は少し安心したように笑って、「そっか……ありがとう」と言い、私の部屋を出て行った。
扉が閉まった瞬間、私は椅子に崩れ落ちた。ああ、終わった。そんな意味のわからない言葉が頭に浮かんでくる。私にとっては“何かが終わった”気がした。兄がこのまま誰かと付き合って、どんどん私の知らないところで大人になっていく……。その未来を思い描くと、胸の奥に大きな穴が空いたように感じる。
あの夜から私は兄とどう接していいのかわからなくなった。どんな顔をすればいいのか、何を話せばいいのか。今まで自然と近かった距離が、一気に遠のいてしまったような気がする。
それでも朝になれば兄と顔を合わせるし、一緒に家を出る。兄は普段通りに私に接してくれる。時には「行ってきます」と頭をポンと叩いて笑ってみせたり、何気ない雑談を振ったり。でも、私は妙なぎこちなさを拭えないまま、まともに目を合わせられなくなってしまった。
兄のほうは私のそういう態度に気づいているのかいないのか、何も言わない。それが逆に辛かった。私が一方的に意識しすぎているだけなんだと思い知らされるようで。
しかし、数週間ほど経ったある日、兄はふと私の肩を掴んで、ぐるりと向かい合って言った。「お前、最近なんか変じゃない? 具合悪いのか?」と。私はドキッとして何も言えなくなり、目をそらそうとする。
「もしかして、あれ……おれが告白された話、嫌だった? ごめん、変な相談して」
兄はそう言って、気まずそうに視線を落とした。そのとき私は、頭の中がぐちゃぐちゃになったまま、「別に」と口走った。
「別に、嫌とかじゃないし。良かったじゃん、兄ちゃんが告白されて……」
「うん、でもなんかお前の態度が変だからさ。もしかして反対なのかと思って」
「なんで私が反対しなきゃいけないの。全然いいよ。早くOKすれば?」
自分でもわかるほどに、投げやりな声になってしまう。兄は少しむっとした様子で、「何だよその言い方」と眉をしかめた。
あ、もしかして今、兄がちょっと怒ってる? 珍しい。そんなことを考えた瞬間、私は突然涙がこぼれそうになって、慌てて目を閉じた。
「ごめん……」
小さな声で謝ると、兄はそれ以上は何も言わずに、ほっと息をついて「わかったよ。とりあえず……ごめんな、変な空気になっちゃって」と呟き、また歩き出した。私は動揺したまま、背中を見送るしかなかった。
私がブラコンなのかもしれない――そう意識し始めたのはいつの頃からだろう。ずっと昔から、兄は私の“特別”だった。それが家族愛だけなのか、別の感情が混ざっているのか、自分でもわからない。ただ一つ言えるのは、私は兄に強いコンプレックスを持ちながら、同時に強く惹かれているということ。
テストで負ければ悔しいし、兄が誰かに好意を寄せれば胸が痛い。それでも、兄が元気で笑っていてくれると嬉しい。それはまるで、一方的な片想いにも近いかもしれない――なんて考えるのは、やっぱりおかしいのかな。
あれから何日か経った頃、兄は告白してくれた女の子に対して「もう少し時間がほしい」と伝えたらしく、今も決断できずにいるようだった。どういうことなんだろう。私は聞きたいと思いつつも、なかなか話しかけられないでいる。兄も自分からその話題を振ってはこない。
でも、この中途半端な状態が続くうちに、私は少しだけ気持ちに整理がつきはじめた。もし兄がその子と付き合うことを選んだら、私は素直に応援したい。兄の幸せを喜んであげたい。それが「妹」として当然の気持ちかもしれないし、私が抱えているコンプレックスや嫉妬は、所詮は家族愛の延長にある“わがまま”なのかもしれない。
「おれさ、たぶん……その子と付き合うことになると思う」
思わずどきりとしたが、私はできるだけ自然な声で「そっか」と返事した。すると兄は少し笑って、「まあ、お前とはずっと一緒にいるし、いろいろ相談してくれてもいいのに、最近は離れちゃってるから寂しかったわ」とポツリと呟いた。
「別に離れてなんかないよ、兄ちゃんこそ勝手に決めつけないで」
私は思わずふてくされたような口調になってしまい、すぐに言い過ぎたかと後悔した。でも兄は、「そっか」と柔らかく微笑んで肩をすくめるだけだった。私の中で、何かがほっと緩むのを感じる。兄はいつも通りだ。大きな変化が起きる前の、最後の日常みたいにさえ思えた。
その週末、兄は正直に返事をしたようで、結果として女の子と正式に付き合うことになった。その報告を受けたとき、私は不思議と落ち着いていられた。ああ、本当に、兄に素敵な人が現れたんだな。良かった。きっとすごく似合う二人になるんだろうな。
だけど夜になって一人になったとき、妙に胸が苦しくなって、泣きそうになる自分がいた。まるで失恋でもしたような――いや、これは失恋なのかもしれない。私が心のどこかで抱いていた「一番近い異性としての兄」が、誰かに取られてしまったような気持ち。そうとしか説明できない。
ただ、それを口にするわけにはいかない。だって、そんなの兄にとっても彼女にとっても迷惑だし、何より自分自身が許せなかった。
それからは、少しずつだけど状況は変わっていった。兄は放課後に彼女と一緒に帰ることが増え、休日も部活の合間を縫ってデートに出かけるらしい。家にいる時間も減ってきたし、リビングで顔を合わせてもスマホを気にしていることが多くなった。
そんな姿を見るたびに、私は初めこそ「何それ」と拗ねそうになったけれど、次第に「ああ、これが普通なんだよね」と思えるようになった。いつまでも双子で一緒に行動して、べったりいられるわけじゃない。私たちはもう、高校生になって、少しずつ大人になる道を歩んでいる。兄が変わっていくように、私も自分自身で変わらなきゃいけない。コンプレックスに振り回されるだけじゃなくて、ちゃんと自分の人生を築く努力をしなくちゃ。
そうして意識を切り替えるようになってから、私は自分自身にもっと集中しようと考えた。成績を上げるために塾に通うことを決め、大学受験に向けて目標を明確にする。部活には入っていなかったけれど、放課後は図書室に残って勉強する習慣をつけた。
以前なら、兄と差を感じるたびに落ち込んでいたけれど、もうそれはやめよう。兄が私とは別の人生を歩むのは当然のことなんだ。私は私で、やるべきことに打ち込めばいい――そう思えるまでに時間はかかったけれど、兄が“誰かの彼氏”になることで、その覚悟ができた気がする。
ただ、正直に言えば、私はまだ「兄が好きなんだな」と感じる瞬間がある。家でふと兄の靴が脱ぎ散らかしてあるのを見たら、「もうちゃんと揃えてよ」と文句を言いながらも、心が温かくなる。彼がリビングでぼーっとテレビを見ていると、いつものように軽口を叩き合いたくなる。そんな些細な日常が、やっぱり私は好きだ。だからこそ、これからもずっと“兄の妹”であり続ける自分を大切にしたいと思う。
確かに、兄と比較して自分を卑下してしまうこともあるし、兄に対する“ブラコン”めいた気持ちがふとした瞬間に疼くこともある。けれど、それも私の一部なんだろう。
それに、コンプレックスを抱えながらも兄を慕っていた時間は、決して無駄ではなかった。兄を目標にしてきたから、こんな自分でも少しだけ頑張ることができたのかもしれない。だって、誰かを目標にしなければ、自分なんか何もせずに投げ出していただろうから。
将来、私たちが進む道はもっとバラバラになるだろう。大学へ行くのか、就職するのか、あるいは兄はさらに先の道を選ぶかもしれない。けれど、たとえどんな道を進もうと、私たちは双子でありきょうだい。そこに嘘はないし、その事実は変わらない。
――もしかしたら、私は一生「ブラコン」かもしれない。時々、兄のことを思い出して「あの人は今どうしてるんだろう」と胸を締めつけられるように感じるかもしれない。それでも、私には私の人生があるし、兄にも兄の人生がある。お互いが自分の道を歩いて、それでも時々振り返ったときに「相変わらず元気そうだね」と笑い合える。そんな関係が理想だ。
だから私は今、「ブラコンかもしれない」という自分を受け入れつつ、少しずつ前を向こうと思っている。コンプレックスごと受け止めたうえで、兄のことを好きでいるし、同時に自分の目標に向けて一歩ずつ前進していく。その先に待っているのがどんな未来なのかはわからない。でも、きっともう少し強くなった私なら、兄の存在に振り回されるばかりじゃなくなる――そんな期待を抱きながら、今日も図書室の机に向かう。
時々、顔を上げて窓の外を見つめると、校庭でバスケをしている兄の姿が見える。仲間と笑い合いながら走り回る姿は、いつも通りキラキラしていて、私の胸をかすかに痛めつける。それでも私は微笑んで、参考書に再び向き合う。
「大丈夫、大丈夫」と心でつぶやきながら。兄は兄で、私は私。二人で支え合い、時には離れて、それぞれの人生を歩んでいく。私のブラコンはきっと治らないかもしれない。でも、それでいい。そんな自分を認めてあげたら、少しだけ楽になれる気がする。
まず、タイトルの内容について訂正がある。
「ともだち」ではなく「悪しからず思っていたが友人を名乗るにはいまいち交流が足りない他人」、「全ア」ではなく「初めての彼氏に浮かれてTPOをわきまえず痛いイチャつき方をしてしまう女オタク」である。あの子は私に何か思うところがあるわけでもないし、エッセイ漫画を描いているわけでもない。「ともだち」の痛々しさを記している増田ではなく、自身の見苦しさを書いた日記であることを事前にばらしておく。
スペックをうpという心づもりで、私とあの子とあの子の彼氏について。
まず、私と彼らは勉学真っ盛りといった様子の冬の高校3年生だ。私についての説明は以下に書くことで伝わると思ったので省略する。
あの子は美術部の同期だ。とても可愛い子だと思っていたが、彼氏ができてからは私の見る目が変わってしまい、魚のような口もエラの張った輪郭も垢抜けない制服のアレンジもどうにも受け付けない。ただ、絵が年齢に見合わないほど上手で、声が愛くるしいことだけは認めるしかなかった。
あの子の彼氏は、この先一生磨かれないであろう原石とでもいうような顔つきで、清潔感は感じないが不細工と切り捨てるにも難しい容姿だった。それよりも中身が気色悪い男で、学タブで前のめりになりながらアイド◯マスターの曲を聞き、鼻息荒く女の肋骨で大根をすりおろすゲームに勤しむ、常識の欠落したポルノ中毒(こいつの上着のポケットからは際どいBLの文庫本が出てくる)のオタク男だった。そんなオタク女とオタク男が付き合った。まぁ納得である。
もちろん私に友人らしい友人はいない。私は女版チー牛というか、ほんの少し言葉を交わした全ての人に恋lv.1みたいな感情を抱いてしまうので、あの子に彼氏ができたと気づいた時はショックだった。唯一の友達候補を嫌いな男に取られたことも、当たり前だが私になんの報告もなかったということも私の心に影を落とした。ただ、これはBSSの一言で片付くような苦悩ではなかった。
一ヶ月前、あの子と彼氏の距離感が急に縮まった。一線を超えでもしたんだろう。あの子が廊下で男と話しているだけでも頭を掻きむしって逃げたくなるというのに、同じ教室で休み時間のたびにバックハグだとか見つめ合って指を絡ませるだとかのハレンチな行為をされてはたまったものではない。あまりに恥ずかしげもなく毎日のように学校デートをするさまは、もちろんのことクラスで浮き、大っぴらに悪口を言うものはいないが誰しも彼らから目を逸らすようになった。元から誰と付き合っているわけでもないのに、1年間半保健室登校をやっていたというだけで誰しもから目を逸らされている私はいっそう苦しくなった。クラスメイトにカテゴライズさせると、私は彼らと同じ枠なのである。たまったものではない。
彼らのイチャつきが激化してしばらくした頃、くじ引き式の席替えがあった。ご想像のとおり彼らは隣同士の席を手に入れ、私はそのすぐ後ろに配置された。今日も男があの子の腹を揉んだ手からプリントを受け取っている。男があの子を膝に乗せているのを目に入れたくなくてうつ伏せで寝たふりを決め込んだところで、摂取しなくては摂取しなくてはと宣いあの子の頭皮の匂いを嗅ぐ男と、きゃあと笑うあの子の声は耳に入ってくる。ああっあっあっと絶頂するかのような声をあげて男が彼女のストールを嗅いでいる。同じひざ掛けにくるまって左右に揺れている。あの子の前歯が飛び出た口に手荒れした指で触れている。私が一体何をしたというのか。あまりにグロテスクだ。
絵に真摯に向き合いコンクールにも優勝する、誰より尊敬していて友達になりたかったあの子が、品性下劣な男に巻き込まれて鼻つまみ物にされるのが耐えられないといえば一見まともらしい。しかしそれ以上に嫌悪と嫉妬が勝り、行動に結びつかない物騒な単語が脳裏によぎることが増えた。保健室登校時代もこんな精神状態をしていた。確かに私の精神は参っていたが、前の席のバカップルが痛くて見苦しいので学校を休ませてくださいなどと言えるはずもなく、帰りのSHが終わったら真っ先にカバンを引っ掴んで早歩きで家に帰ることしかできない。
帰宅して空気の籠もった子供部屋に転がり込んだあとは、ハードな同人音声を求めて浪費を続けた。18歳になったばかりだが、私もポルノ中毒に違いなかった。
席替え、
班決め、
リレーのチーム分け、
飲み会の席順、
親ガチャ、
50年の人生、何の取り柄もない私はありとあらゆる場面においていわゆる”ハズレ”だった。
小学校で私がとってしまった遅れを必死に取り戻そうとして、ギリギリ負けてしまったアンカーの小林君は悔しくて泣いていた。
中学で私とダンスのペアを組まされた太田君はあからさまに怒りを露わにしていた。
合コンで私の目の前に座った男性は、私と目も合わせようとはしなかった。
もし生まれ変わったら、その時は、次こそ誰かの”アタリ”になりたい。そう願ってやまない人生だった。
席替え、
班決め、
リレーのチーム分け、
飲み会の席順、
親ガチャ、
50年の人生、何の取り柄もない私はありとあらゆる場面においていわゆる”ハズレ”だった。
小学校で私がとってしまった遅れを必死に取り戻そうとして、ギリギリ負けてしまったアンカーの小林君は悔しくて泣いていた。
中学で私とダンスのペアを組まされた太田君はあからさまに怒りを露わにしていた。
合コンで私の目の前に座った男性は、私と目も合わせようとはしなかった。
もし生まれ変わったら、その時は、次こそ誰かの”アタリ”になりたい。そう願ってやまない人生だった。