はてなキーワード: ソーカル事件とは
クワス算の議論がどうもソーカル事件並にあいまいで無意味なものに感じるわけで、まずクワス算とそれに関してどのような問題が起こっているかというという主張を、その主張が証明可能になるように数理論理学の言語で形式的に表現し直すべきものだと思うのだが、そのようなことをしている本がなかなか見つからなくて学びが深まらない。
dorawiiより
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https://x.com/kenmcalinn/status/1971350035465220500]
ソーカル事件、よく調べると話が全然違って(査読紙ではなくフィクションものる雑誌に、エディタに意味不明だから大幅に訂正するように要求されるもソーカルは無視して、有名な物理学者の挑戦として特集号に出版)、たぶん悪影響のほうが大きかったんじゃない。
雑誌側は後から掌を返して「最初から少し怪しい論文だなとは思っていた」「哲学的部分の多くを削除してほしいと頼んだ」と反論してるんだけど、ソーカル側が「そんな要求は一度も受け取らなかった」と証言してる。それどころか、何度も批判コメントを求めたのにまったく送ってもらえなかったとか。
この速さなら言える!
D&Dやソードワールド・ウィザードリィと連綿と続く古典RPG的コンテンツ、大元を辿ればトールキンに行き着くようなそれらの「剣と魔法の冒険譚」が持つ世界観に対して、現実主義的な観点からある種のスノビズムが如きメスの入れ方をかましては「どうだ!俺の完璧な考察!参ったか!」と踊り狂う輩が昔から嫌いだった。
それがあくまで悪ノリの一種でしかないので作者も真面目に考えているというほどではないという前提を崩すことがないなら受け入れることも出来るが、真面目くさった顔をして「科学的思考により考察すれば生態系がああしてこうして栄養やエネルギーの流れはどうたらこうたら」と抜かすような連中はどうにも虫酸が走るのだ(別の作家の名前を挙げれば、天原はセーフだけどKAKERUはNGって感じかな)
そもそもファンタジーはあくまでファンタジーでありそれ以上でも以下でもないということは誰もが遊びの大前提として捉えるものだと俺は思っている。
「人型ロボットとか馬鹿馬鹿しいよな」「いいやミノフスキー粒子散布下での宇宙戦争は有視界での接近戦を前提としているのでAMBACの効果を得られる人型こそが……」といった論争は、そういった議論ごっこが好きな奴らが誰の目にもつかない場末の掲示板でやるならまだしも、出版社を通して出すような本では慎んでいくべきなのではないかということである。
今しがたのべた「であるべきなのではないか?」というのはあくまで自分の個人的な趣味嗜好の一種でしかないことは理解している。
人類全体が受け入れるべき絶対的イデオロギーだとは思っていない。
単に俺自身がこういったものがどうにも好きになれないというだけの話だ。
ダンジョン飯のような作品がやりがたる「ゴーレムというものは……」「魔法というものは……」「ダンジョンとは……」といった考察なんてものは出口と入口が反転していることにも気づかない連中がポストモダニズムごっこを繰り返す超無秩序ソーカル事件状態でしかないのに、何故それをあんなに真面目くさった顔を真っ赤にしながらやれるのだろうか本当に気持ち悪いな……という感情論でしかないのだ。
ダンジョンなんてものは風化した古代遺跡へ盗掘に行った連中がそこに住み着いた野犬の群れに襲われたのを「我々は冒険者なのだが、モンスターとの戦いから辛うじて逃げ延びてきた。これはダンジョンにあった宝箱から取ってきた財宝でござる(単に昔の偉い人が普通に保管してたのを盗んできただけ)」と言い換えただけであり、それをベースに作られた数々の冒険譚が積み重なって作られた集合意識的な「ダンジョン」という概念に対して後付けでそれっぽい補正をつけるという行為のどこに科学的な考察があるのかと、俺はずっとずっと思ってきたのだ。
概念の成立をその歴史から紐解いていくこともせずに全く別の所から引っ張ってきた理論を持ち出して「逆算したふり」をかまして見せる行為は、その文化が成立していった背景を踏みにじるようなものだと思えてならないのだ。
つまり、魔法というものの成立について紐解きたいなら学びを得るべきは金枝篇であって熱力学ではないということだ!
否定される謂れもない。
あるので、言えるタイミングがあるうちに言っておくということだ。
今だけ文句いえ美って奴だな←?
death6coin いいぞ増田で吐き出せ
ありがとう。「ウンチはトイレでするもの」みたいな肌感覚はこれからも大事にして生きていきたい。
wdnsdy 面白ければ目線が上だろうが下だろうがお約束展開だろうが逆張りだろうが何でもいい。面白くないやつだけが悪
kori3110 なるほど。好みのとして理解はできる。魔法は科学的に説明出来たら魔法やないやろ問題みたいな。ただ、上から目線の正体は作者や作品というより「それが商業的成功により絶対正義扱いされること」のような気も
情報の洪水に脳が殺られ自分の中での「面白いから正義」が全人類にとっての善悪なのかを切り分けきれてない人が増えてきたように感じる。俺は最初から最後まで「俺の個人的な感想だけど、俺は嫌いですね」しか言ってないのに、それ以上の何かを見出されているようなコメントが多いように思った。
魔法陣グルグル
あれはお巫山戯だと自覚したうえでのお巫山戯を貫いていると思っているので個人的にはあり。まあ本文読んでからのコメントなのか、タイトルだけ見ての条件反射なのか、そんなのどうでもいいから俺の好きな作品の話がしてーんだよなのかは読み取れないんだけど。
cider_kondo どうでもいいけどウィザードリィって3番目に強い武器がカシナートとかそういうノリのゲームやぞ(巨頭の片割れたるウルティマも平然と宇宙行ったりラスボスがコンピューターだったりする(ネタバレ(そこ気にする所か?
そもそもラスボスの名前が……なんて話は今関係ないよね。俺が言ってるのは古典的ファンタジーの世界観を踏襲した作品群についてのことであって、それぞれの中で個別にお巫山戯要素があるかってマジで今関係ないよね?
nnnmmmlll D&D自体が「古典ファンタジーのお約束的世界観に対して上から目線でゲームシステム化、数値化しようとする作品」なんですが
altar 予想通りウィザードリィが入っている出オチ、だと思いつつ増田の思想を読み進めていくと大元として自分で挙げたトールキンを否定している二段オチだった。
nowa_s 民間伝承を体系化して己の世界を作ったトールキン、トールキンの作った世界を数値化・システム化したD&Dその他のPPGには嫌悪感ないのかな。/「趣味趣向」じゃなく「趣味嗜好」と書いてるとこは好感持てる(上から目線)
ぐぅ……いい意見だ。話をちゃんと聞いてもらえていると感じる。俺の中に「トールキンはそれまで散り散りだった伝承を集約して世界観を構築したから凄いのでセーフ」「ガイギャックス達がやった試みは挑戦的だからセーフ」という実力主義的な差別意識があったことを指摘されている。「いっちょ噛みはアウトだけどガチの構築ならセーフっていうならダンジョン飯もギリセーフでは?」みたいな話だよね。結論だけショートカットして語れば、俺の個人的な感想の線引きは俺が決めていいはずだ!でもその権利は君にもあるよね!みたいな所に落ち着きそう。人間って勝手だよなあ。
FutureIsWhatWeAre 空想科学読本より「すごい科学で守ります」路線のほうが好き という話なら多少は賛同する
petronius7 同類として私は柳田理科雄が嫌い、科学的な目線でメスを入れるフリはしても、合理的に考えたら絶対そうは成らんやろといういい加減な話が多く、技術者として読んでて怒りを覚える。
いやマジで柳田理科雄はこれ系の総本山だと思うよ。「俺は科学という最強の権威を使って今からお前らの好きなものをぶん殴るが、お前ら如きが科学様に楯突こうとは絶対に考えないことだ」みたいな虎の威を借るオルタナティブスノビズムが極まりすぎて痺れるもの。センス・オブ・ワンダーがあるならまだ「考察」になってるけど、美学や世界観もなくただ「他所の分野からツッコミのための武器を用意した」だけだったら、そんなのただの「いじり」じゃんねえ。
hiruhikoando あの世界アラブもモンゴルもプロテスタントもないので。悪役令嬢系のファンタジーハーレクインは大元の設定ガバガバなところをいじり倒して楽しむ。
この辺はモヤモヤするよね。作者が細かく突っ込んだ所は丁寧に「考察」されているのに、そうじゃない部分はそのまま使い回されてるから世界観の粒度や深度に凄くバラツキがある感じ。俺がいまいち好きになれんのはその辺に舌触りの悪さを覚えるからなのかなあ。本当の本当にひたすらメシの話だけしてれば、「まあメシには関係ある部分限定でって感じなんだよな」でスルーしやすかったのかな—。
shields-pikes 増田は一度創作活動をしてみよう。そうすると独自のファンタジー世界観の設定の重要さがわかるから。そもそもオレ理論は、既存の創作物に対する「考察」じゃなくて、オリジナリティを生むための「解釈」なんだよ。
凄いな。いきなり「お前は創作をしたことがないだろ。だからお前の意見は浅いんだよ」でマウントぶっぱして終わりかよ。「どうせ無産者だろ?無産者如きの感想は聞くに耐えないね?」ってレッテル貼りでしかなくて呆れる。そのロジックの組立は「黒人訛り酷すぎだろお前らクロンボが小さい脳みそで考えた意見とか聞いてね—から」みたいなもんだぞ?アホが1人で喚いてるならともかく、これにスター集まってるのはヤバイと思う。
流石にちょっと進展に怖くなった。今まで数学的な演習問題を解かせてきてバカ丸出し(タダで試せる汎用AIの範囲)だったが、gemini 2.0 Flash Think(experimental)とかいうの試して心胆寒くなった。gemini1.5であんだけ低能晒していたのに...。gemini1.5の時はソーカル事件で槍玉にあげられたポモの人たちの劣化バージョンのような解答よこしてた(論理性0で、キーワードいじって答えになるっぽい式並べただけ)のに、2.0 Flash Think(experimental)になるとちゃんと自分の提案を検証する(gemini1.5ではしない、copilot、ChatGPTも。grokは検証するのだが無限ループに入って無料限界越え)のみならずこちらからは「思考による努力」と思わせる言葉を吐きながら数分の長きにわたって(人間とは違うので数秒で新しい案出して検討する)「努力」した。残念ながらこちらの助け舟を最後まで理解できないで正答には至らずギブアップ(嘘答え潰していくとちゃんとギブアップするのね)して終わったが、応答の文面からは「理解しようとする」「努力」っぽいものは明らかに見えた。(こちらの出したヒントを一般論から推測して正しいだろうと見做し、そこから頑張ろうと表明してた。前バージョンだと連続関数は時には不連続になる(定義域同じで、同じ関数ですよ?)みたいな意味不明な強がりで「正解」出してた)
これまでの、ネットその他に答転がってなければもうダメです、ではなさそう。grokとこれ以外は明白な感じで勉強できたことを論理性関係なく結んで答え提示してただけなんだが近い将来はどうなるか?
PS1 出したのは絵解きでいいなら幼稚園児でもできる問題(3次元中の2次元曲面なら)を4次元中の3次元に単純拡張した。ただし今のAIはお絵かきは得意なようなんで数式の答えを要求した。
PS2 gemini2.0(以下ry)においても勉強できることはなんでもまずは暗記的勉強してることが垣間見えることもあった。(もちろん人間だってある本で意味わからなかったら別の本にあたってとりあえず読むので必須の行為ではある)gemini2.0君ったら突如こっちが指定したD(t,s)、U(t)みたいな記法じゃなくてγ(t)とか書きやがる。確かに教科書でπ_1(X,x_0)の代表元をγ(t)って書く流儀見るよね、と微笑ましかった。ほんのちょっと前までは本質を理解していない、キーワードを意味ありげにつなぐガリ勉君しかいなかったが、近い将来どこまで伸びるか?(本音はチンケなプライドのためにも伸びて欲しくない)
成田悠輔のプレゼンを初めて見たけど、こんな歩くソーカル事件みたいな人物が持て囃されてたとはさすがに思ってなくて唖然としてしまった
現状否定の材料を色々持ちだしてきて、自分が絡んでるプロダクトを褒めて見せて、それと比べた比較対象が如何に劣悪で魯鈍かを蔑んで見せて、実現できそうもなく成功する根拠もない改善策を提案したあと締めが「諦めろ」」「サンタに壁を壊してほしい」(プレゼンがクリスマス前後だったんだろう)
こんなクソの役にも立たない悲観的夢想論のパフォーマンスプレゼンをルックスのよさとレトリックの巧さだけで成立させるスキルは確かにすごい
でもこれに頭下げて金払うのはさすがに虚無すぎるだろ
そんなにこれを呼んでくると客が集まるの?
精巧な食材サンプルをあまりに美味しそうだからってそのまま食ってるようなもんだろコレ
世も末すぎる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6
ソーカル事件の問題点を要約すると、「自分を賢いと思ってる/賢いふりをしたい馬鹿は、シンプルで普通にわかる話よりも、複雑でわかりにくい話をわかったように振舞うのを好む」という話。
つまり、お前らだ。
イスラエルがガザの無差別虐殺をしていることを理解するのに「ユダヤ2000年の歴史」を得々と語る必要はないし、Appleの動画炎上に「文化が違う」なんて説明をする必要もない。
イスラエルは単純に政治的野心がある西欧最後の植民国家だし、Appleの動画はカートゥーン的な表現をリアルにしたものに過ぎない。
でもお前らはそういうシンプルで合理的な答えを好まない。ものごとの裏には何かもっと「面白い話」があってくれと願っている。
だから常にSNSや増田では「面白い話」が伸びる。そしてそれを「面白い話」としてだけ受容してるならともかく、もちろんそうやって拡散されてしまった話は普通に信じられて常識みたいになっていく。
そうやって出来上がっていくお前らの世界こそがネット右翼やQアノン、デマ・妄想・歴史捏造の温床なのだと何故気づけない?
ソーカル事件も知らないのか?
…とこんな風な話をすると、お前らはたいていこう返してくる「ソーカル事件くらい知ってらい」いや、知ってるなら余計に問題なのだという話をしている。
ソーカル事件をソーカル事件という「面白い物語」のひとつとして覚えてるだけだからお前らは駄目なんだ。
ソーカル事件という教訓から「シンプルでレトリックの少ない話を尊ぶ」という学びを得てないから駄目なんだ。
本当に論理的で嘘のない文章は、面白くない。これは断言できるが、お前らが「面白い」と判断するようなものには絶対にならない。それが面白いという場合は、数学や物理の教科書を読むように、一行一行一言一言のつまらなそうな単語の裏にどれだけ綿密なロジックの準備があるかを紐解いて初めて面白いと感じるときのみである。そんな読み取るのに時間のかかるものはネットでバズらないし、それをバズるような価値観の変化を望むのは流石に不可能である。
だから、お前らが誠実で「賢い」人間でありたいなら、できるのは「バズるような物には中身がない」と自分を客観視することだけだ。
中身のないものをバズらせるのは良い。バズったものを面白いと感じるのも良い。しかし、バズったものは、自分が面白いと感じたことには、面白いだけで中身がないと自覚だけはするべきだ。面白いから知的だ価値もあるはずだというのは認知バイアスでしかない。本当に賢くなりたいなら認知バイアスを自覚しろ。
自分は賢い話も理解できるが、中身のない話も面白がるしバズったら読んだりしちゃうという程度の人間だと客観視できるのが、本当に賢い人間だ。
ソーカル事件のような例がどんなに歴史に積み重なっても、それを教訓でなく只の面白い話としてしか消費しないオタクのような受容では、賢い人間が歴史から学んだ教訓というようなものには決してならない。人類は成長しないままだ。
そう思うんだな。お前の感想が聞けて嬉しいよ。で、俺がそう見えるのを気にしてるなんて言ったのか???
お前、俺に「逆立ちしたムジナに見えるぞ」って言われて何を思う?理由が知りたいよな?それの何が悪いのか知りたいよな?
例えば、ソーカル事件の解釈の仕方が間違ってるならどう間違っているか、適切な資料を引用して説明しなきゃ伝わらないけど、それ分かってる?
とにかく、具体的に説明してくれよ。匿名である以上、あんたの感想はそこまで価値がない。悪いんだけどちゃんと説明して。
だいたい哲学の話ってモノのたとえで出しただけの話で、そんなに間違うほど言及してないけど。
しかも大本の増田なんか前提となる論の根拠が薄弱だし、論理の組み立てもクソもないし、いくらでも揚げ足とれるよ。
コツは「である」みたいな断定の前後にガバがあるってところ。分かった??????やってみ楽勝だから。できないんだろ????
すまんwwwwwwまた俺の勝ちwwwwwwwwww敗北の味が分からんのだがwwwwwwwwなぁ食わせてくれやwwwwwwww
というか、マジで哲学を専攻する人のソーカル事件への態度って知りたいんだよね。生の声で。
あー哲学も聖域じゃなくてキチンと査読しないとねーって思っているのか、過去の積み上げが違うし伝統ある信頼関係の上に立っているので大丈夫って感じなのか
言い訳じゃないよ。コミュニケーションエラーを訂正したかっただけ。多分俺を哲学者が全員バカだと思ってるやつだと決めつけてるからそう感じるんだろ?
例えば論理哲学論考とかは(前後の文脈を読み込んできちんと理解できてるとは決していえないが)すごそうと思ってるよ。
ソーカル事件について理解してないってのは、wikipediaからの雑な引用になってしまうが、下記の点からバカな哲学者の揶揄には使えないって話?
「ポストモダン哲学」において使われる比喩やアナロジーを執拗に嘲笑しているだけで、思想そのものの検討や批評はまったく行っていないため、ソーカルの行為は「単なる揚げ足取りにすぎない」「本そのものを読んでいない」として事件当初から厳しく批判されてきた[9]。
実際に、その後もデリダを中心とする「ポストモダン哲学」の学術的重要性が減じることはなく、現在にいたるまで彼らの思想が重要な研究対象でありつづけているのは、ソーカルによる批判が本質的なものではなかったためだとも指摘される[3]。