はてなキーワード: 少年サッカーとは
子どもが入っている、小学3年生の地方のクラブチームの話なのだが、GKは日直みたいに持ち回りで、しかたなくやってる感じがする。
みんな、GKをやりたがらないみたいだが、これって、練習をしていないからじゃないのかな?
月に1回くらい、全員に、基本的なブロッキングの体勢を教えるだけでも、全然違うと思うのに。
あと、キーパーグローブ以外にも、肘や膝のプロテクターがチームにあるといいのにと思う。
試合で他チームの様子をみてると、おそらく他も同じような感じがする。
中には、ほぼ専任の子がいるようなチームがあるんだけど、明らかに、GKの能力の差で失点が少ない。
(1対1になっても、ある程度の割合で止めるとか、せっかく止めたあとのキックやスローを相手FWに取られにくいとか。)
サッカーの教育上、なにか、考えが合って、どのチームもこんな感じなのかな?
有識者の方、こっそり教えてください。
レイシスト共うっせーな反省してまーす(ウソ追加)は謝ったとは言わないんだな
一般社団法人日本クルド文化協会 Japan Kurdish Cultural Association@nihonkurdish
3月2日、埼玉スタジアムにて行われた浦和レッズ対柏レイソルの観戦において、誤解とコミュニケーション不足により発生した残念な出来事に付いて、ネット上で子供達に対する醜悪な発信が行われている事に関して、日本クルド文化協会として、下記の通り見解を発します。
昨年末結成したFC クルドは、川口市とさいたま市に住むクルド人、日本人、イラン人、ウクライナ人、日系人、中国人の子どもたちで構成されたクルドを中心にした多国籍の少年サッカーチームで、子供達はプロのサッカー選手を夢に見て日々トレーニングに励んでいます。
当日、子供達は、チームの正装である自らのユニホームに身を包み、憧れの浦和レッズの試合を、期待に胸躍らせ観戦に向かいました。スタジアムに到着した際、チームの旗と一緒に記念写真を撮ろうとしたところ、スタジアムのスタッフからの注意を受け、子供達はすぐに旗を片付けました。その時の騒動で泣き出す子供が出してしまい一部の子供は帰宅しましたが、浦和レッズの甚大なご好意によりその場は収束し解決しております。
しかし、一部の地方議員と産経新聞は、この状況を歪め、子供達にヘイトスピーチが向かう様に扇動する発信を行い、世論を誤った方向へ誘導しました。
クルド人の子どもたちは、またしても憎悪の対象とされてしまいました。しかし、子供達はただ憧れのチームである浦和レッズを応援し、サッカーの興奮を感じ、大好きなチームのために声を上げるためにスタジアムに行っただけでした。それにもかかわらず、一部地方議員と産経新聞の非倫理的な発信により、何の罪もない純粋な子どもたちが過度なヘイトスピーチの対象にされてしまいました。
産経新聞は、これまでの報道と同様に、十分な調査を行わず、一方的にSNSの投稿を利用して憎悪を煽り続けています。しかし、真実はとてもシンプルです。子どもたちは、ただサッカーを楽しみたかっただけなのです。 その多くの幼い子どもたちは涙を流しながらスタジアムを去ることになりました。その時の当事者双方の過剰な対応は、これまで積み重ねられた誤った報道の影響であり、彼らが楽しみにしていた試合観戦の喜びと興奮は、一瞬にして奪われてしまいました。
その後、スタジアムのスタッフは誤解に気づき、子どもたちに謝罪し、一部の子どもたちを再びスタジアムに招待頂き、安全を確保しながら試合を観戦できるよう手配してくれました。このような配慮に感謝いたします。しかし、この出来事は、メディアの責任と倫理について改めて考えさせられるものとなりました。
ここで、一部地方議員、産経新聞およびこの報道を担当した記者や編集者に訴えます。
子どもたちをヘイトスピーチの標的にすることは、最も非人道的な行為です!
子どもたちの涙は、あなたたちの虚偽報道や操作、政治的な思惑よりもはるかに重いものです。もしあなたたちに良心があるのなら、自分たちの行いをもう一度考え直してほしい。
最後に、このような誤解が生じたことについて、私たちは世間の皆さま、浦和レッズクラブ、そしてスタジアム関係者の皆さまに心よりお詫び申し上げます。私たちにとってサッカーとは、友情と愛を象徴するものであり、決して憎しみの道具にはなりません。子どもたちはただサッカーの喜びを感じたかっただけです。 私たちは、これからも彼らを全力で支えていきます!
反差別活動のバカに騙されて素直に謝罪しなきゃいけない時すら見誤ってるな
一般社団法人日本クルド文化協会 Japan Kurdish Cultural Association@nihonkurdish
3月2日、埼玉スタジアムにて行われた浦和レッズ対柏レイソルの観戦において、誤解とコミュニケーション不足により発生した残念な出来事に付いて、ネット上で子供達に対する醜悪な発信が行われている事に関して、日本クルド文化協会として、下記の通り見解を発します。
昨年末結成したFC クルドは、川口市とさいたま市に住むクルド人、日本人、イラン人、ウクライナ人、日系人、中国人の子どもたちで構成されたクルドを中心にした多国籍の少年サッカーチームで、子供達はプロのサッカー選手を夢に見て日々トレーニングに励んでいます。
当日、子供達は、チームの正装である自らのユニホームに身を包み、憧れの浦和レッズの試合を、期待に胸躍らせ観戦に向かいました。スタジアムに到着した際、チームの旗と一緒に記念写真を撮ろうとしたところ、スタジアムのスタッフからの注意を受け、子供達はすぐに旗を片付けました。その時の騒動で泣き出す子供が出してしまい一部の子供は帰宅しましたが、浦和レッズの甚大なご好意によりその場は収束し解決しております。
しかし、一部の地方議員と産経新聞は、この状況を歪め、子供達にヘイトスピーチが向かう様に扇動する発信を行い、世論を誤った方向へ誘導しました。
クルド人の子どもたちは、またしても憎悪の対象とされてしまいました。しかし、子供達はただ憧れのチームである浦和レッズを応援し、サッカーの興奮を感じ、大好きなチームのために声を上げるためにスタジアムに行っただけでした。それにもかかわらず、一部地方議員と産経新聞の非倫理的な発信により、何の罪もない純粋な子どもたちが過度なヘイトスピーチの対象にされてしまいました。
産経新聞は、これまでの報道と同様に、十分な調査を行わず、一方的にSNSの投稿を利用して憎悪を煽り続けています。しかし、真実はとてもシンプルです。子どもたちは、ただサッカーを楽しみたかっただけなのです。 その多くの幼い子どもたちは涙を流しながらスタジアムを去ることになりました。その時の当事者双方の過剰な対応は、これまで積み重ねられた誤った報道の影響であり、彼らが楽しみにしていた試合観戦の喜びと興奮は、一瞬にして奪われてしまいました。
その後、スタジアムのスタッフは誤解に気づき、子どもたちに謝罪し、一部の子どもたちを再びスタジアムに招待頂き、安全を確保しながら試合を観戦できるよう手配してくれました。このような配慮に感謝いたします。しかし、この出来事は、メディアの責任と倫理について改めて考えさせられるものとなりました。
ここで、一部地方議員、産経新聞およびこの報道を担当した記者や編集者に訴えます。
子どもたちをヘイトスピーチの標的にすることは、最も非人道的な行為です!
子どもたちの涙は、あなたたちの虚偽報道や操作、政治的な思惑よりもはるかに重いものです。もしあなたたちに良心があるのなら、自分たちの行いをもう一度考え直してほしい。
最後に、このような誤解が生じたことについて、私たちは世間の皆さま、浦和レッズクラブ、そしてスタジアム関係者の皆さまに心よりお詫び申し上げます。私たちにとってサッカーとは、友情と愛を象徴するものであり、決して憎しみの道具にはなりません。子どもたちはただサッカーの喜びを感じたかっただけです。 私たちは、これからも彼らを全力で支えていきます!
明確に覚えているサポーターとしての始まりは、昇格一試合目に行ったことだった。
その前にスワンに行った記憶は、J2初制覇の大宮戦、まだアナログ方式の電光掲示板の横で、その地鳴りのような応援だった。
こけら落としにも行ったらしいが、覚えていない。
こけら落としに行って、2002W杯を観て、ベッカムやロナウジーニョに憧れてサッカーを始めた。2004年、J1に昇格したからと、サッカーの勉強になるだろうと父親が年パスを買ってくれた。そうして開幕戦の東京に行った。
正直その頃には少年サッカーをなぁなぁでやっていたように思う。「シーパス」の為に少年サッカーを続けた。
いつの間にかN2層で飛び跳ねる客は私達家族含めた数名だけになって、私達も後からやってきたおじさんに「私たちは立ちますよ」と断りを入れていたうえで「見えない、下でやれ」と文句を言われて1層で応援をするようになった。
それから、
前半戦だけ優勝を考えた年があった。
流石にもうJ1に居られないのか、と思ったところから奇跡を見た年があった。
その翌年の後半戦は「2ステージでやってれば」と年末のサポーター忘年会で盛り上がった。
その翌年、新潟は少し繋ぐことにチャレンジした。結果は散々で、ギリギリ残留することになった。
ペナルティエリアの白線が壁に見えている前提かのような繋ぐだけのチャカチャカサッカーで、途中で解任された。
そこからあとの降格する前までは、あんまり覚えていない。呂比須サッカーとホニがいれば一年で戻れるだろと思っていた事だけは覚えている。
なんやかんやあって、どちらも開幕前には居なくなった。
劇薬の使い心地が良すぎたせいか、J2落ちてからも2年は途中で監督をすげ替えることになった。使わざるを得ないと言える状況ではあったのだが。
社長が変わって、強化担当が名解説(迷解説)になって、そうしてアルベルがやってきてくれた。夢見るような、本当にバルサのようなパスサッカーを展開するようになった。
2年勤めてくれたあと、FC東京に引き抜かれてアルベルは新天地へ向かった。
松橋さんは新任で、めちゃめちゃ大変な『スタイルを引き継ぎ進化させる』というタスクを、1年目にJ2優勝で、2年目は後半戦の安定した試合内容で、十分に結果で示してくれている。
そうして、9年前、テレビの前で泣き崩れるしか出来ることが無かった決勝の舞台へ連れてきてくれた。
クラブの運営は、前J1にいたときは大半入れ代わり立ち代わりだった編成を、数名の人数で抑えてくれている。
降格する年に上への野心を持ってやってきた男が、「このクラブを強くするんだ」と残ってくれた。降格した年にやってきた男が、その後移籍しないとは、正直思っていなかった。
そのうえで、アルベルが作ったスタイルで「このスタイルでやり続けたい」と選手が残ってくれるようになった。
このスタイルなら成長できる活躍できると、新潟を選択してくれる選手達がやって来てくれるようになった。
初昇格から降格まで、外国人頼みだった攻撃の印象を、今の新潟しか知らない人はもう持っては居ないだろう。
トップチームより先に、レディースも、ユースも、トーナメントのてっぺんを見ている。
アルビだからと行ったけれど、この時の自分は本気で応援できていたのだろうか。決勝を戦うレディースを羨んで嫉妬していなかっただろうか?純粋に楽しめたのだろうか?
11/2には、新国立で、男子アルビレックス新潟にとって初めて優勝のかかる試合になる。
一生に一度目だ。選手には全力で楽しんでもらいたい。一サポーターとして、全力で楽しみたい。
間違いなく、名古屋は最強の敵だ。
でも、楽しんでほしい。楽しみたい。
こんな経験は二度とできない。
この特権を楽しもう。そして、一緒に楽しんでくれる人たちを増やそう。
皆を巻き込んで、ミーハーでも何でも増やして全力で楽しもう。
それがサポーターの一人として、私にできる最後の足掻きだ。少しでも新潟を応援してくれる人を増やして、国立をオレンジと青で染めるための。
今回のW杯で日本含むアジア勢のジャイアントキリングが続いている事実について自分の気持ちの整理も含めて書き出してみる。ただのお気持ち表明だ。
最初に断っておくと、自分のスタンスとして田嶋会長のやってきたことや言動行動(仲良し人事と保身的な行動)には何の共感も持ててないし森保監督のサッカーには何の魅力も感じていなかった。なのだが結果が出てしまったので気持ちの在り方に困ってしまっている。ドイツ戦スペイン戦はムチャクチャ興奮した自分がいて本当に整理が付かない。
さて、森保監督がなぜ批判に晒されたのかと言えば当時から聞こえていたキーワードは「戦術レス」である。実際には戦術レスではなく「ビルドアップを仕込めない」と限定した形での批判が適切だったと思うし、後出しジャンケンになってしまうが自分は戦術レスとビルドアップを仕込めないの両方をグチャッと丸めて批判していた。
サッカーを戦術視点で楽しむ人にとって「モダンサッカー」は避けられないキーワードだしモダンサッカーには「ビルドアップ」と「ビルドアップ対策」というキーワードが欠かせない。ここに落とし穴があるなんてずっと意識していたのに、アジア予選において目の前で繰り広げられる(自分にとっての)酷いサッカーを感情が追い越していった。
ドン引き縦ポンも立派な戦術な訳だが、戦術とかモダンサッカーというキーワードで語る時にそこを見落としがちになるのが戦術クラスタのダニング=クルーガーである。完全に理解した。
そんな中で守田中の433は非常に楽しめたし結果も出たのだが、ここで嘘でもいいから「森保オリジナル」ということで貫き通して欲しかったのにSNSなんかから「選手が決めた」みたいな声が聞こえてしまうというかそういう声を拾いに行ってしまった。エコーチェンバーダメ!ゼッタイ!
さて、今回のW杯になる。相変わらず日本はビルドアップができないのは明らかなのだが、計画的に行動した結果なのかサイコロ振った結果なのかは当事者しか知り得ない。結果が出てしまったのでポジティブなコメントを出せる状況が整ってしまった。
「意図した結果かギャンブルの結果か」というのが判断できないほどの手段で勝利してしまったので困惑したし、望んでいた興奮はサウジ×アルゼンチンのような明確な意図を持った戦術と結果のそれだし、いわゆるSNSを主戦場とする戦術クラスタと呼ばれる人達が観たいのはサウジのような形の勝利であることは間違いないと思う。それが無かったので困惑した。結果が出てしまったのでSNSなんかで後付けっぽく後出しジャンケン的に、あれほど批判していた過去をポジティブに結び付ける流れになっている現状に気持ちの整理が付かなくなった。
そしてスペイン戦、またしても「意図した結果かギャンブルの結果か」を判断しにくい試合展開になるのだが、再度同じ流れどころか交代策や守備固めなどがドイツ戦よりも洗練された形で勝利してしまう。こうなるともう計画どおりの結果と判断せざるを得ないのだが、それならばなぜコスタリカ戦ということになる。
などなど頭の中が嬉しい感情と自分が完全否定されたような感情がグルグル回ってしまう訳だが、ドイツもスペインも同格(彼ら以上の格上は実質存在しない)には凄い試合をするけど格下には負けるということは起きてしまうし、それが日本以外にも多く起きているのが今回のワールドカップなんじゃないかなと思う。これはワールドカップだけじゃなくてJリーグでも起きるし少年サッカーをはじめとする育成年代の現場でも起きている。だからサッカーは面白いのだ、なんてことはずっと解っていたことなのに、それを改めて認識させてくれた出来事だったと捉えておく。ただ、それを実現した監督と協会に個人的に良い感情を持っていなかったというだけの話である。
こんなふうに気持ちを整理して、個人的にはここまでスカウティングの材料を相手に曝け出してなお同じやり方で行くのかどうかという視点で決勝トーナメントを存分に楽しまないともったいないなという現状。たぶん現状以上の隠し球はないと思う。というかドイツ戦のあればヤケクソだったとしか思えないしスペイン戦でもやってみるか!という流れだったんじゃないかと思う。結果上手く行った。自分はギャンブルもソシャゲも一切やらないのだが、それ界隈ではこの状況を一言で表す表現があったりするんじゃないだろうか。
ただひとつ、森保監督がビルドアップを仕込めないのはどうしようもない事実なので、次期監督は森保監督でも構わないのだが、国外国内からビルドアップを仕込める優秀な人材を補佐として確保してキッチリ仕込んで、更にそれをベースに教科書を作って育成年代からインストール可能な状況を作ってほしい。一般に見えてないだけで実際の育成現場には相当するものがあったりなかったりするのだが、JFAにはもっとうまいことやって欲しいと思っていたりする。基礎が大事という言葉の意味をもっと考え抜いて欲しい。
あと、メディアとかもっと上手く使えるんじゃないだろうかとかはやっぱり考えるし、本気でサッカーを盛り上げたいならやることは仲良し人事じゃないだろう。実際にスターシステムとか全く関係ない結果になっている訳だし。こうなるなら4年間掛けてドーハの悲劇とドーハの歓喜を継続的にアピールしておけよみたいな。アジア予選DAZN独占に対して田嶋会長の取った行動は絶対に忘れないぞ。
やっぱり長くなったけど、最後の最後で森保ジャパンのサッカーがどういうものかを理解できたような気がするので決勝トーナメントは存分に楽しもうと思う。勝てば嬉しいし負ければ悔しい。もうそれだけでいい。完全に理解した。
中途半端なサッカー知識のせいで一生に一回訪れるかどうかわからない素晴らしい出来事を楽しめないのは勿体無いわ。
クロアチアに勝って欲しい。
行は為替業を行う商
実質等価交換 金本位制でなくなった後は金以外の国家管理財も担保の扱い
銀は代替通貨で債権や証券といった信用(担保に貸付を含む)を銀行の判断によって発行する商なので銀行
銀行は企業などの営利活動について金になるとか返してもらえそうといった所を選び抜いて金を貸す
信用はその企業の成長や結果に合わせて返済する旨を契約しその契約は国によって保証されその履行のために税金が集められるもの
銀行の貸付が返ってくる率は6~8割で実際それだけで利益が出せてるとは言い難い所が多い
そのため銀行は保険商品や金融派生商品を取り扱い預金目的の個人からも銀行資産を集める
信用金庫は金庫 現金を持ち歩かずに取引をする手段(預金や手形)を利用するための商
ほか金融業務もできるので貸付やローンなどもある(信用も扱う)
地元の少年サッカーチームの運営や町内会の趣味の集まりなどにも団体名で口座を作ったりできる
かつてはどこでも作れたが振り込め詐欺対策によって個人でない口座の作成難易度が
となっている
【信用について】
信じてくれと訴えることや信じるということを利用した何かといった日常的な自分の価値基準の表現のそれではない
信用というのは「取引において現在不足している分を最悪の場合法的な手段(国家の助力)によってでも解決することで貸付側が負債を持つこと」
信用を受けるというのは「貸付を行う側がその条件なら約束が出来ると見込んで貸し付けをしてくれるもの」
信用があるというのは実際には意味的におかしい いうなれば「与信枠が高い」
与信とは「貸付側が信用を与えてよい枠」
貸付側が「もし約束が破られたなら損失を被るリスクを被って自分の金庫から通貨を貸し出す(帳面上目的を明記した貸付だが現金の利用は借受側の判断に沿う)」ものが信用 実質現金
現金に時間経過で補填されるべき約束を含んだ金融商品が「信用(担保+不足部の約束)」
簡単に例えると
A「金かしてくれ」(与信)
A「2万借りたい 財布には200円だが財布はブランドもので15000円はする 返せないときは財布とあわせてうちのゲーム機(3万円相当)をあげる(担保)」
B「じゃあ来月までに返してくれるなら貸すよ(審査)」←信用の発行
A「ありがとう」←信用の借受
Aには信用があるわけではなく「Bの信用という名の現金」を「借り受けた」事になる
Bは自分の持っている「信用」をAに貸し付けている(Bはリスク)
信用がある人にお金を貸すことができる 信じることができる という意味ではない
信用という取り立て約束の名前であって「本当に返してくれるかまたは担保を譲渡してくれるか」どうかという想いではない
取り立てを確実に行うためには司法や国家機関の助力を要する その取引を確実なものとするために税金を払って国内の治安や司法を全員で支えているのが国家
【マルチ界での信用】
→借金のリスクは「貸す側の返ってこないかもしれない可能性」のリスク 借りる側は破産をすればいいだけでノーリスクといっても過言ではない
・信用を買う事でその信用を利用することができる
→一旦借り受けたカラ資産をそのまま貸付や迂回融資や二階建てにするのは違法になる程度に「損が出ることは確実」
・信用で信用を売ったり買ったり
国語的にも内容的にも社会的にもおかしいのがマルチ界の信用(おかしいので言い換えが必要)
破産しとけば何億でも逃げて「マルチ界の信用」という「信じられる人間(意味もなにもかも謎)に資金を移動しておいてあとから”信用”で返してもらう」という使い方の「信用」
これは与沢事業者が信用という名目で自分の全財産を貸付(形上譲渡で自己資産は消滅)して貸倒した計画倒産に近い
言い換えが多いところが民事的に貸し借りではないとか約定に証明がないとか現金に所有権がないところをついている
移動させると反社会組織認定されて人員構成を抑えられでもしないかぎり異性や同性をパートナーとして金銭の授受を明確に追えないため成り立ってしまう
西村博之も払えといわれた金を払わなくてもすんでいる
それら本人に「信用」があるわけではない 取り立て側や貸し付け側の「信用」を払い出して損をしている
実際追訴しない金融庁や司法機関が「信用を失っている」わけで与沢や西村は借り受けたり支払い命令の信用をそのまま流用し損などしていない
税金を支払ってる国民の保証金を「お金はらえなくなりましたw」と宣言することで吸い逃げしていることになる
マルチ界のトップが繋がるのはいざというとき破産するためと相手がもっているパネルがそのまま金になるから
破産はせずとも経営難として身内に資産を売却することで「実際お金を使わずに買い物ができる(信用で信用を売ったり買ったり)」こともできるため
はっきりいてほぼ詐欺でやくざで違法だが意思や意図だけではそれを明確に記録してあっても違法とはいえない
実質やくざとかわらないがやくざを取り締まるのが反社会的であるということにつけ団体を構成しそこで違法な活動を隠蔽している可能性があるから操作を必要とするもの
個人で大金をもっていてそれを「ポケットにいれていたから無くした」といわれてもそれを捜査したり罪に問うたりできないのを利用して少人数で組織化している状態
酒を飲んで女性を殺害しても犯罪にはならないし交通事故でだれかが死んでも運転手の業務上過失致死なので15年もくらわないしだれかが代行したとしてもそんなものはわからない
春に行った自治体の定期健診で貧血が指摘され、再検査で大きな胃がんが見つかった。
自覚症状として胃の痛みはなく、便秘気味で便が黒かったがまさか胃がんとは思わなかったそうだ。
がんは肝臓に転移していてステージVI、父の人生の終わりが見えてしまった。
父はずっと、おそらく40年は少年サッカーの指導者をしていた。60歳くらいでアキレス腱を切っても辞めずに指導を続け、指導した子供は数知れず、教え子からJリーガーも輩出した。
葬式やったら弔問客が会場に入りきらないんじゃないかなと本気で思ってる。このコロナ禍でなければだけれど。
そんな父が検査結果に呆然とし、潔く開き直り、抗がん剤による化学治療を開始した。
なんの問題もなく治療が進んでいると聞いていたけれど、それはやっぱり子供を安心させるための嘘で。
抗がん剤の影響か若干のせん妄があるようで、様子を見に行った姉に話した言葉はだいぶ支離滅裂だったそうだ。
入院治療中に暴れて生理食塩水の点滴を引き抜いてしまい、針抜いちゃうと本当にやばい抗がん剤の点滴中は例外的に家族の付き添いが許可された。
化学治療に用いる抗腫瘍薬は「認知症の患者に精神症状をきたしやすい」。
ということは、つまり。
今まで考えないようにしてきたけれど、普段はしっかりしていてそんな心配はないと思っていたけれど。
強くて、怖くて、大きかった父が、弱っている。失われつつある。
父の人生は終わりが見えてしまった。ロスタイムに入ってしまった。今はアディショナルタイムっていうんだっけ。
少年サッカーレベルで、ここで指摘されていることを実現するための『技術』を指導できるコーチなんてほぼいないし、
だからといって子どもたちが目にする機会が多いプレーヤーでそのようなプレーをしている人も少ない。
(だから海外サッカーを見るべき、という言説までは割と広まってきている)
昔ながらの日本のサッカーでは「トラップ」ってのはピッタリ止めれば止めるほどよいトラップってくらいの空気感で、
ちょっと進んでるところだと「必ず反対側の足でトラップしろ」くらいまで言ってるけど本質はそこじゃない。
この指摘の通り「体の向きを変えながら受ける受け方」こそが大切で、
そのときの『体の使い方』『ボールの流し方』『ボールの置き場所』も一通りではない。
・左足インサイドで巻き込みながらトラップして逆を向き(ここまでは割と浸透してる)、その後ドリブルを選ぶなら、ノーフレームで右足の小指でボールを持ち出す動き
・向きを変えながらインサイドキックで二択をかけられるような置き場所
・イニエスタやメッシがやっているような、360度ターンしながら相手のプレスを剥がして前を向く動きに入れるような受けかた
そこまで細部まで指導できる人ほとんどいない状態で5レーンみたいな戦術だけ真似しようとするコーチもいて、
それだと、なんとなくそれっぽい動きをしてる子が上に上がってくることが多いが、
そして最終的に、天才的に良いフィジカル的素質ととモチベーションをもった選手により構成されがちなのが日本のサッカーになってしまっている。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/bradymikako/20150226-00043362/
日本のことかと思った。増田の住む中核市周辺では、ここの所フットサルコートとそれに付随するスクールがものすごい勢いで増えている。
経済力のある保護者達は公文式や語学教室と同列に各スクールの育成について熱心に情報交換を行い、4種(小学生)強豪チームのあの子はどこのスクールだったとか、今3種(中学生)Jリーグジュニアユースにはあのチームから行っただの育成シーンにおいては、かなりマニアックな展開を呈している。
昔ながらの小学校に1つずつあった少年団チームは、各スクールで運営されるNPO法人格のクラブチームやその市の最強チームに、主だった選手たちが集まるので今や複数の小学校区で1つのチームをなんとか維持し、ようよう8人制にエントリーできるかどうかくらいの縮小や、チーム統合でしのいでいる状況。JFAを頂点とする協会組織は、くまなく草の根にも広がっていてこれは功績だと思うのだが、市内の各チーム指導者も割と細かく情報交換や指導技術の研鑽を行っている。
しかしだ、少年団チームには、専任の指導者を置けるところがほぼ無い。月5千円以下の会費で細々やってるチームの財政的な理由が大きいのだ。当たり前のことだが、「増田のお父さん」達が集まって細々運営してるチームだから。いわんや、指導の内容も、よほどアツい、競技経験のあるコーチが在籍しない限り推して知るべしの内容。週末や祝日の日中。大会や対外試合が入れば、練習はお休み。
一方で強豪チームや、NPOクラブはそれなりのコストをかけながら、競技経験のある人材を確保し、平日の日中、夜間を練習時間に宛て、休日は地方遠征など充実した育成内容。同じ年の子どもで、こんなに違うのかと愕然とさせられたこともしばしば。もちろん、それなりの技術を持っていなければ試合にも出られない選手層の厚さがあるので、それなりのスクールに通わせられる世帯収入と可処分所得のあるご家庭がそこに行ける資格を持てる。選手本人の気持ちや、持って生まれた才能、たゆまない努力、これを大切にできる環境と言う意味を含めて。
レベルの高いサッカーをするチームにはより選手が集まる。スタメンを確保するために、スクールに通って更に技術を高めないと。日本代表に、プレミアへ。リーガへ。子どもが描く夢のために、経済力のある保護者たちは力の限り応援する。否定しない。どんどんやってくれ。指導者もホント良い人ばかりで羨ましい。オレもワールドカップを掲げる日本(男子)を見たい!!
さて、増田の子が所属する少年団も、いよいよ学年で1チーム作るのが厳しく最近は2学年合同で毎週活動している。こちらは、以下のご家庭からの選手で構成されている。基本的には、競技レベルでの選手育成までは考えていない。
①→身体機能発達を促したい(ダイエット、足が遅い、全身運動etc)
④→よく分かっていないけど、地元のサッカーチームで一番近かった
まさに玉石混淆。ここがお父さんコーチの楽しみ、楽しさではあるのだけど。
ここにサッカーというスポーツの面白さを伝える醍醐味があるわけで、だからハマってるんだけど。しかし、ごくたまに、1学年に1人か2人は「玉」が。当然のように高学年時には上記のクラブチームへステップアップしていくわけだけど、ここでもワーキングクラスかそうでないかで展開が違う。
(小さなローカル大会や、フットサル大会なら、可能性くらいはある)
さっきの、①~③に該当するご家庭の選手たち、勝てないけど上手くはなれないかも知れないけど、楽しそうに通ってきてくれてる。この子たちは日本代表にはなれないと思う。10年後、20年後にまたチームの父親コーチに戻ってきてくれるくらいが良いトコだろう。それですらたぶん、「良かった例」。
混雑するターミナル駅の夜。某Jリーグ下部組織のバッグを背負った高学年の選手たちがくたびれた大人の列を無視してかきわけバスに乗り込む。大人たちも、もうこのチームの選手たちの振る舞いには諦めて声もかけない。それとも、おらが街のJチームを応援する気持ちなのかな?そのわりには視線は冷たいけど。彼らは座席を確保して、周囲を無視したような振る舞いで過ごしている。そうだね、あんたたち勝ち組だもんね、将来のJリーガー、日本代表だもんね。特別扱いは当たり前だよね。嘆息。
敵陣を突破してゴールを目指すか、敵からきたボールをきちんと相手方に返すか、
どっちかじゃん?
バスケだって、サッカーだって、テニスだって、ハンドボールだって、卓球だって、
敵を突破してゴールを入れるかトライすりゃ得点なんだってのは、見てりゃ分かると思う。
ゴルフはまたちょっと違うけど、「早く穴に入れりゃ勝ち」だから分かりやすい。
あと、ピッチャーとそれ以外の野手の負担が、あれだけ差があるのも何なの?って思う。
守備ったって、ピッチャーがもの凄かったら、あとキャッチャーが球を受けるだけで、
7人は立ってるだけでも、いいんでしょ?
なんか、チームプレイってより、「それぞれが、文句言わずに黙って自分の持ち場をこなしとけよ」感が強い気がする。
ルールもなんだか、理不尽っていうか、「なぜそうなの?」が、腑に落ちない。
なんか不思議。
そりゃ、世界的に普及なんかしねえよなって思う。
昔、務めてた会社だと、オヤジの相手をしなきゃいけないことが多くて。
「ひいきの野球チーム」の一つも持ってないと、話が弾まなかったのが、正直苦痛だったなあ。
仕方ないので「アンチ巨人なんでぇ、巨人が負けていれば気分がいいですぅ」とか言って切り抜けてたけど。
不思議なもんで、巨人ファンのオヤジは、案外、アンチ巨人相手にしてご機嫌だったりするんだよね。
自分の親はいわゆる毒親だった。子供の要求、感情を承認しない親だった。だから自分のやりたいことをやらせてもらえたことがない。というか子供の頃自分が本当に何をしたかったのかもよく分からない。
いつも、世間体を気にする親の都合で少年サッカーをやらされたり(兄がはいってので)、塾に通ったり、それ以外はしたいことが合っても親が金出してくれないから、何も出来なくて無気力な帰宅部で、周りからも暗いやつだと言われ続けた。
本当に辛かったのは大学時代で、全く馴染めず、友達どころか話し相手も一人もいない。通うのが辛くてうつ病状態で、布団から出られなくなるくらいだったが、親は「甘えんな」と罵声を浴びせ、なんだかんだ留年して卒業した。思い出も写真も一枚もなくて人と話した回数を数えられるくらいの学生生活だった。絶望的な気分で望んだ就職活動は卒業間際に派遣会社に就職した。
そもそも学生時代からなるなら公務員か田舎で農業でもしたいと考えていた。社畜生活なんて学生生活以上の地獄に違いないと思っていた。だが実際には色々辛いことがあっても学生生活よりはマシだった。なんだかんだ1年働いたら貯めたお金で家を出た。
それ以来5年働いた後、派遣先の上司に認められ正社員になり、その後3年も働いている。はっきり言って仕事は辛い。理不尽なことで怒られるし、工期も予算もキツすぎ。やりがいもない。現場の雰囲気も悪いし、上司も辛そうな人ばかりだ。
それでも続けてられるのは、仕事がどんなにキツくても学生時代よりはマシである事実、働いていないと一人暮らしができない、実家に帰りたくないという思い。子供の頃から身につけた辛い時は感情、感覚を麻痺させるという生きるためのテクニック。その三つで私は今の仕事を続けてられる。
もしも、親が子供の頃から私のやりたいことをやらしてくれたら・・こんな仕事はとっくに辞めてたかもしれない。辞めて他の仕事に就くか、ニートなのかは分からないが・・もしも学生時代が楽しくて充実していたら・・こんな生活バカバカしくて耐えられなかったかもしれない。
ちょっとだけ、酒に酔っているのでそのつもりで聞いてくれたらいいと思う。
最初は、じいちゃんに手を引かれて保育園に連れて行かれる俺が、その道すがら毎日毎日泣きじゃくって嫌がって嫌がって、そんな嫌がってる俺をじいちゃんが毎日毎日俺のペースで立ち止まったり、急に走り出したりする俺を必死で追っかけたり、行ったり来たり、なんとかして、必死でなだめすかしながら連れて行くところから始まったのだった。
園についても一向に泣き止まない俺にじいちゃんはいつも申し訳なさそうにずっと手を振り続けながら帰っていったのを憶えている。そこでの俺は誰ともしゃべらないし、一切の遊戯に無気力を貫いていたし、飯時になってもほとんどのものを口につけず、何か悟り顔の年配の保母や園長などが俺を優しく諭すようなことをしようとしたならば即座に園中に聞こえ渡るように泣き叫び、同時に渾身の力で暴れまわったりしていた。
当然のように俺は、追い出される。母が頭を下げ、じいちゃんも頭を下げる。俺は何も言わない。
何故だろうか。それが何故だったのだと今問われても俺は答えられない。理由は無いのだった。そう思う。おれはずっとそう思っている。何故なのか。わからない。それがわからないことに俺自身がずっと苛立っていたのだとしかいえない。
時間はしかし確実に流れるから、俺も小学校に上がる年齢になる。初日から俺は渾身の力で登校を拒否した。入学式当日の朝の俺は完全に悪魔だったと思う。泣きじゃくり、暴れ周り、叫び続けた。すでに近所でも俺のイカレっぷりは周知のことで近所のババア連中の昼間の話題をさらっていたが、この日からはもはや誰も俺の話題を口に出す者もなくなった。俺が俺の家だけの問題ではなくその集落の汚物となった日だった。冗談にならないからだ。イカレているし、その理由が誰にもわからないのだ。
しかし俺は突如学校に通いだす。俺は何故か一切の抵抗をやめた。有る日急に俺は無になった。やっぱり誰にも何故か判らないけど、俺は無になり学校に通いだす。
学校に行く、机に座る、無になる。家に帰る。無になる。学校に行く。無になる。家に帰る。無になる。無になる。無になる。無。大人しくなった俺は地元の少年サッカーに入れられる。無になる。書道教室に通わされる。無になる。ピアノを習いだす。無になる。2年生になる。無。3年生。無。4年生。無。ずっと無。
でも、突然また俺が壊れる。有る日学校で壊れる。授業中に急に立ち上がってイスを振り上げて、教室の後ろのメダカの水槽をぶち破る。ガラスが割れて水がドバっと溢れ出す。え?ってなってる水槽の近くの子を睨みつける。俺はガラスの破片を掴みそいつの眼球に突っ込む。グムニュ。ってなる。そのままグリってする。誰かが甲高い声で叫ぶ。俺は割れたガラスの水槽を両手で持って教室の真ん中の方に放り投げる。グシャリ。ドンくさい誰かの頭にグササー、グシャリって刺さりはまる。傷口にメダカが跳ねる。ピチピチ、ピチピチッっつって。うへへって俺は笑う。