はてなキーワード: 強いアメリカとは
一体俺は何を見せられたんや……27点。
ランボーじゃない映画として見るなら57点くらいつけられるかもしれないけどさ。
ランボーってこういう映画だったっけッて感じでめちゃくちゃ微妙な映画だった。
まずあいかわらずスタローンはよかった。前作のヒットを受けて作られた作品だからしょうがないけど、ランボーをやってるランボーみたいなカリカチュアされた感じが気にはなったけど、悲哀と怒りを顔で表現できるアクション俳優ってやっぱ貴重やなと思った。これがシュワちゃんとの違いだよね。あと身体全体が明らかにバルクアップしてて草。収容所で肉体改造に励んだのだろう。
次にアクションは……派手でよかったんじゃないかな、うん。サイレントキル、ド派手な銃撃戦、船、ヘリとレパートリーが豊富だし火薬マシマシで見てて楽しくはあった。でも今基準で見たら「昔のアクションってこんな感じだよね~」くらいの印象だったので特に加点対象にはならない感じ。
収容所で強制労働してるランボーがトラウトマンとCIAにそそのかされてまたベトナムに戻って捕虜の写真を撮るミッションにアサインされる。輸送機から降下する際にうっかり弓矢とナイフ以外の装備を失ったランボーは美人情報員と協力しながらいろいろあって写真撮らずに捕虜を救出。それを知ったCIAはランボーの救出を中止。敵地に取り残されたランボーはソ連率いるベトナム軍に捉えられるもなんだかんだあって捕虜と一緒に脱出。美人はうっかり死ぬも頑張ってアメリカ軍基地に戻ってM60を乱射するのだった。
ストーリー、見せ場のための強引な設定が多すぎる。
CIAはランボーに最新鋭の装備を渡すんだけど降下の際にベルトが機体に引っかかる。機体に引っかかってぶらぶらして「うわあああたいへんだぁ!」ってなってランボーはナイフで装備を切り離す。そしてランボーは弓矢とナイフだけ持って戦場を駆け巡るのだった。
そうはならんやろ。
超高度で飛行機に引っかかってブラブラする危機的状況!ドキドキしまっしゃろ!って言われてもバカなの?としか思わんよ。素人かよ。
無能なランボーとCIAのおかげで不規則降下したランボーに対してCIAの偉い人が死んだと判断して、作戦中止終わり終わりって言い出す。トラウトマンは当然認めないがCIAは「生きてたら連絡来るやろ。来なかったら死んでるってことで」と救出を打ち切ろうとする。
一方その頃ランボーは現地の美人情報員と接触し、捕虜収容キャンプへ向かっているのだった。
情報員は連絡手段持ってないんか?おそらくCIAが仕込んだ情報員だと思うんだが、まず降下成功、合流成功したら一報入れるやろ。軍隊、CIAって報連相とかない世界なんか?
その後、ランボーが捕虜を救出して脱出。救助に向かっていたヘリがそれを発見し基地に伝えるとCIAは沸き立つ軍人を指令室から締め出し極秘指令として彼らの救出の打ち切りを指示し、トラウトマンを除く軍人2名がそれに従いランボーは取り残される。
さっきまで必死にランボー救出しようとしてた軍人がCIAに命令されたら急にスンってなるのも意味不明だし、基地にいた捕虜が生きてることを知ってる軍人がランボーも捕虜も乗ってないヘリが帰投したら不審に思うだろ。
その後、基地でトラウトマンとCIAが大声で口論してるけど誰にも聞こえんかったんか?
不審すぎる。
3.強引な死亡フラグと回収
美人情報員が「私アメリカ行きたいんすわ!」とランボーに話しランボーも行けるさ!って言った直後、気を抜いてぼーっと立ってた美人情報員はちょっとランボーが目を離した隙にベトナム兵に射殺されてしまう。
ナニコレ。
その後、ランボーの手の中で「アメリカに行きたかった」とさっき聞いたなぁみたいなことを言いながら息を引きとる美人情報員。さすがにこれで泣けないだろ。戦場で気を抜くなよアホたれ。
なんだかんだあってロシア軍とベトナム軍を蹴散らし帰投したランボーはM60を手に司令部に戻り、司令部に並べられたコンピューターに向けて乱射する。ランボー特有の口を歪ませながら叫ぶ。ウオオオオオオ!
いや、なんでだよ。
今回の件はCIAのおっさんが世間が捕虜救出捕虜救出うるせーから「捕虜いなかったよ」っていうアリバイ作りのために捕虜がいないキャンプにランボーを送り込んだら、たまたま1年間の強制労働を経て捕虜が帰ってきちゃってたので逆に面倒だなと思ってランボーもろとも捕虜殺しちゃお☆ってしたのが全部悪いって話であって、別にコンピューターは悪くねぇだろ。
仮にランボーや捕虜を見捨てる判断を「コンピューターによると生存率は×%、割に合わない」とか判断して「戦場はコンピューターじゃ測れねえんだよ!」みたいな展開があったんなら、人間のあるべき姿VS冷徹なコンピューターって図式が成り立つけど、今回悪いのは全部CIAのおっさんじゃんねぇ!
おっさんに全弾ぶち込めよ。
5.殺されるためだけの敵
今作の本筋は「金がかかるから捕虜を見捨てたいCIAのおっさん」VS「捕虜を助けたい正義の軍人ランボー」の構図なんだけど、実際に戦うのは捕虜を捕まえてるベトナム軍&なんかいてるソ連軍&金で動く船員でランボーは彼ら相手に無双する。
ランボー1であんだけ銃撃たれまくってもなんとか殺しだけは避けていたランボーとは思えない容赦のなさである。金で動く船員なんかランボーをソ連軍に売ろうとしただけなのに(いや、ダメだけど)ショットガンでぐちょぐちょに殺される。お前そんな奴だっけ?
ベトナム軍とソ連軍も「捕虜収容してる奴ら」ということ以外のバックボーンが一切描かれないので本当に銃撃ちカカシみたいに撃たれて死ぬためだけに大量に投入され実際に殺される。
あとどうでもいいけど、領空とか領土とかそういうものがない世界線なんだろうか。ベトナム(タイだったかな?)でベトナム兵やソ連兵をぶち殺しまくったら普通に国際問題になると思うんだけど。強いアメリカプロパガンダシコりファンタジーアクション映画と化しててランボーってそういう話だっけ?ってげんなりしちゃった。
こんな一人でほぼ1日で100人以上殺すスーパー殺人兵器奴が何人もいたであろうグリーンベレーがいたのにベトナム戦争で負けたってマジ?アメリカ無能すぎない?という皮肉は置いておいても「ベトナム戦争の悲惨さ」をむしろ矮小化する存在に堕してると思う。
ロシアのウクライナ侵攻で「もしかして映画みたいなスーパーソルジャーって存在しない?」みたいなくだらないジョークがバズったりもしたけど、明らかにそれの先駆けだよね。1は存在しないから苦しんでるって話だったのに。
そんなこんなでランボー1見てから2見たら頭おかしくなると思う。
当時の基準ですごいアクションしてることは時代性を考慮すれば加点すべきなんだろうけど、ランボー1を前日に見た俺が期待したランボーのよさをむしろアクションがかき消してる部分が多すぎるのでプラマイでゼロ、ややマイナスくらいにせざるを得ない。
弱者男性という言葉が言われるようになって数年が経った。が、未だに人権教育では、弱者というのは女性やLGBTQや障害者や外国人、高齢者といった「マイノリティ」というカテゴリに当てはまるとされている人のことを弱者と呼ぶ。
弱者とされるマジョリティカテゴリの人々が声をあげても人権派はそれを無視するどころか「弱者への攻撃である」「差別である」と訴えてきた。
実際にその人がどれだけ苦しんでいるかは関係がなく、こっちにも支援がほしいと苦しみの声をあげれば
お前は強者属性なのに、差別をしている側なのに、日本人男性は下駄をはかされ優遇されてきたのにと「加害者は発言権が無い」とばかりに、社会学者やマスメディアという権威が率先して、見えない弱者の差別を推し進めてきた。
その結果生まれたのが、 弱くなった中間層=見えない弱者 VS 無自覚強者+属性弱者 という分断である。
米国ではトランプ政権という、日本では参政党という右派ポピュリズムが躍進した。なぜこれらポピュリズムが躍進したかといえば、彼らは「強いアメリカ」「昭和の日本」という、豊かな中間層を訴えたからである。
本来は労働者階級、弱者庶民の声を代表し、権威と戦う役割であるはずの、左派政党はそこには無い。
左派団体の中心は富裕層、高学歴などで構成されており、彼らが見ているのは定義された弱者であり、社会問題として訴えられる分かりやすい差別問題だ。
疲弊する中間層を救うには賃上げや物価対策、経済活性化という地道な努力が必要になるが、弱者を救えと叫ぶのは分かりやすく、既得権益との対立構造を作りやすい。マスコミ受けがよく、有権者にアピールしやすい。
この手の活動で最も分かりやすいのがいわゆる女性差別(女性が弱者とされる)問題で見過ごされる弱者男性問題だ。
暇空騒動でやり玉に上がった仁藤夢乃氏は、私立中高から私立大学、卒業後も、労働に飛び込まなくても即人生終了ではないご家庭だ。フェミニズムの大家である上野千鶴子氏は親が大学教授のお嬢様だ。
彼女らはしばしばパフォーマンスとして漫画を攻撃したり、男性は性加害をするので悪いと言ってみたりする。私から言わせれば、彼女らはそんな社会運動に身を投じて、それでもさして今後の心配をしなくてよいのだから、弱者どころかメチャクチャ社会的強者である。
現在疲弊する中間層は、明日のメシに困るわけではない。しかし物価高で貯金は溜まらず、将来より素晴らしい未来が待っている確信も持てない。
そして、政治に目を向ければ「差別してきた側」と名指しされ、クーラーの効いた涼しい部屋で、小綺麗に身なりを整え、あくせく労働するわけでもない人たちから「お前たちは加害者として弱者を救う義務がある」と言われ、ささやかな楽しみである娯楽まで「架空の存在だろうが女性をモノ化しているから加害である」などと言われるわけだ。
LGBTQも同様で、単に肉体的分類として「男性」「女性」というカテゴリを使うだけで差別だ差別だと騒がれ、業務が増え疲弊する。
外国人差別も同様だろう。なぜ苦しい我々より、出稼ぎにきた人々を救おうと叫ぶのか。彼らは祖国に帰ればいいじゃないか。そんなことは思っていても言えばたちまち大問題になる。だからネットでしか吐き出せない。
ここでは、日々不安を持ちながら、差別主義者だと否定されながら、日々労働する本当の弱者は透明化されている。
本当の弱者は、大学教授や社会活動家のような発信力を持たず、日々で疲弊して政治活動をやるような暇はなく、弱者カテゴリを貰えないがゆえ発言力や経済力で追いやられても下駄を履かされた人々と言われ透明化されている。そんな彼らが、ポピュリズムを支持し、日本社会の分断は確実に深まっている。
ここまで書くと「なんと情けない」「アップデートしろ」「お前の努力不足だろう」という声が飛ぶことだろう。ちなみに私もカテゴリでいえば弱者とは言えない。昼から思想の強い増田を書くような人間は余裕がある人間である。そして、外国人排斥論や女性差別不存在論などには反対する立場である。
だからこそ、人権派を自認するマスコミや社会学者や文化人や良識派を自称する権威の人々へ、お前は恵まれた強者であり、弱者カテゴリとされた人にしか目を向けない偽善者であり、その独善性が分断の大きな要因であると自覚しろと言いたいのだ。
差別を無くす為に活動してきたはずが見えない弱者を足蹴にして、別の差別を生み、それが最終的にポピュリズムの暴走というカタストロフに至るのであれば、責任は疲弊する中間層を無視した側にも大いにある。
が、未だに人権教育では、弱者というのは女性やLGBTQや障害者や外国人、高齢者といった
「マイノリティ」というカテゴリに当てはまるとされている人のことを弱者と呼ぶ。
人権派はそれを無視するどころか「弱者への攻撃である」「差別である」と訴えてきた。
こっちにも支援がほしいと苦しみの声をあげれば
お前は強者属性なのに、差別をしている側なのに、日本人男性は下駄をはかされ優遇されてきたのに
と「加害者は発言権が無い」とばかりに、社会学者やマスメディアという権威が率先して、見えない弱者の差別を推し進めてきた。
その結果生まれたのが、 弱くなった中間層=見えない弱者 VS 無自覚強者+属性弱者 という分断である。
米国ではトランプ政権という、日本では参政党という右派ポピュリズムが躍進した。
なぜこれらポピュリズムが躍進したかといえば、彼らは「強いアメリカ」「昭和の日本」という、豊かな中間層を訴えたからである。
本来は労働者階級、弱者庶民の声を代表し、権威と戦う役割であるはずの、左派政党はそこには無い。
左派団体の中心は富裕層、高学歴などで構成されており、彼らが見ているのは定義された弱者であり
疲弊する中間層を救うには賃上げや物価対策、経済活性化という地道な努力が必要になるが
弱者を救えと叫ぶのは分かりやすく、既得権益との対立構造を作りやすい。マスコミ受けがよく、有権者にアピールしやすい。
この手の活動で最も分かりやすいのがいわゆる女性差別(女性が弱者とされる)問題で見過ごされる弱者男性問題だ。
私立中高から私立大学、卒業後も、労働に飛び込まなくても即人生終了ではないご家庭だ。
フェミニズムの大家である上野千鶴子氏は親が大学教授のお嬢様だ。
彼女らはしばしばパフォーマンスとして漫画を攻撃したり、男性は性加害をするので悪いと言ってみたりする。
それでもさして今後の心配をしなくてよいのだから、弱者どころかメチャクチャ社会的強者である。
しかし物価高で貯金は溜まらず、将来より素晴らしい未来が待っている確信も持てない。
クーラーの効いた涼しい部屋で、小綺麗に身なりを整え、あくせく労働するわけでもない人たちから
「お前たちは加害者として弱者を救う義務がある」と言われ、ささやかな楽しみである娯楽まで
「架空の存在だろうが女性をモノ化しているから加害である」などと言われるわけだ。
LGBTQも同様で、単に肉体的分類として「男性」「女性」というカテゴリを使うだけで
外国人差別も同様だろう。なぜ苦しい我々より、出稼ぎにきた人々を救おうと叫ぶのか。彼らは祖国に帰ればいいじゃないか。
そんなことは思っていても言えばたちまち大問題になる。だからネットでしか吐き出せない。
ここでは、日々不安を持ちながら、差別主義者だと否定されながら、日々労働する本当の弱者は透明化されている。
本当の弱者は、大学教授や社会活動家のような発信力を持たず、日々で疲弊して政治活動をやるような暇はなく
弱者カテゴリを貰えないがゆえ発言力や経済力で追いやられても下駄を履かされた人々と言われ透明化されている。
そんな彼らが、ポピュリズムに投票し、日本社会の分断は確実に深まっている
ここまで書くと「なんと情けない」「アップデートしろ」「お前の努力不足だろう」という声が飛ぶことだろう。
ちなみに私もカテゴリでいえば弱者とは言えない。昼から思想の強い増田を書くような人間は余裕がある人間である。
そして、外国人排斥論や女性差別不存在論などには反対する立場である。
だからこそ、人権派を自認するマスコミや社会学者や文化人や良識派を自称する権威の人々へ
お前は恵まれた強者であり、弱者カテゴリとされた人にしか目を向けない偽善者であり
その独善性が分断の大きな要因であると自覚しろと言いたいのだ。
もちろん財政再建しようとか考えているわけではなく、自分の新しい施策を実行するための予算の捻出だと思う。
そもそも、関税引き上げがクレイジーだというのも単純化し過ぎで、得失を計算すると関税は20%程度がアメリカ経済にとって一番いい、という調査結果は以前からあった。
計算の背景になっている理論は(国債はいくらでも発行できるみたいなことを言う真正の気違いどもとは違って)まっとうな教科書にも普通に載っている。
ウクライナの停戦策もそうだけど、MAGAとか言ってるくせに、トランプの採用する提案は今現在強いアメリカを前提にしているものが多い気がする。)
トランプ自身は「うちで商売するならショバ代払うのが当然」という不動産屋的感覚かもしれないし、だからこその「純輸入÷輸入÷2」だという気もするけど、
その「÷2」がどこから出てきたのかと言えば、トータルで20%に近くなるように調整したのでは、という気もする。
ま。
アメリカがグリーンランドやカナダなどの領地拡大を試みる動きは、「安全保障」や「相互利益」を名目に掲げているが、その実態は歴史的・経済的観点から見て無理筋である。本レポートでは、この政策の非現実性、アメリカ国民の意識、グローバル経済との矛盾、歴史的パターン、そして政治・経済の本質を分析し、国家と文明の関係性について考察する。参考文献として、レイ・ダリオの「世界秩序の変化に対処するための原則 なぜ国家は興亡するのか」を用いる。
アメリカはグリーンランドなどの領土獲得を「安全保障」や「相互利益」のためと主張するが、これは詭弁に近い。グリーンランドの場合、デンマーク及び現地住民から明確な拒絶を受けているにもかかわらず、戦略的価値や資源を理由に圧力をかける姿勢は、対等な協力ではなく一方的な支配欲を露呈している。歴史的に、領土拡大が安全保障を強化した例は少なく、むしろ敵対関係を増やし、帝国の疲弊を招いたケースが多数である(例:イギリスの植民地過剰支配)。この無理筋な政策は、国際的孤立を深めるリスクを孕んでいる。
アメリカ国民の多くは、領地拡大に本気で取り組む姿勢を見せていない。2019年のトランプ元大統領によるグリーンランド購入提案は、メディアやSNSで嘲笑の対象となり、一般市民の関心は内政や生活問題に集中している。保守派や軍事ロビーの一部が支持するものの、国民全体としては「現実的でない」と受け止められており、政策への熱意は希薄である。この意識の乖離は、領土拡大が国家戦略として根付く土壌がないことを示唆する。
「強いアメリカ」を追求する単独主義は、グローバル経済の現実を無視した危険な幻想である。例えば、製造業を国内回帰させれば、人件費の高騰でiPhoneのような製品が10000ドルに跳ね上がる可能性があり、国民生活に深刻な打撃を与える。また、同盟国との協調を軽視すれば、NATOや日本との関係が破綻し、ロシアや中国への対抗力が低下する。グローバル経済は相互依存が基盤であり、単独優位を追い求めることは自国の競争力を削ぐ結果を招く。歴史的にも、イギリスが植民地との関係を過信した結果、覇権を失った例がこれを裏付ける。
レイ・ダリオの分析によれば、国家の興亡は経済力、軍事力、教育、格差などのサイクルに支配される。孤立や過度な単独主義は、帝国衰退の典型的な要因である。ローマ帝国は周辺との交易を軽視し内向きになったことで崩壊し、イギリスは植民地の反発を無視して疲弊した。現在のアメリカも、債務膨張、所得格差拡大、準備通貨地位の低下という衰退兆候を示しており、「アメリカ・ファースト」はこのプロセスを加速させる可能性が高い。歴史は、単独主義が長期的な繁栄を保証しないことを繰り返し証明している。
政治が国民を豊かにするという期待は幻想である。真の豊かさは産業と経済発展によってのみもたらされるが、その過程で所得格差は不可避に生じる。アメリカでは、グローバル化が一部の富裕層を富ませる一方、中間層の没落を招いた。しかし、格差に負けない教育水準の維持が、国家の持続可能性を支える鍵である。教育が疎かになれば、格差が固定化し、社会の分裂が進行する。これはダリオが指摘する「内部秩序の崩壊」に直結するリスクであり、政治の役割は産業・経済・教育の補助に限定されるべきである。
国家を長い視点で見ると、その興亡は防ぎようのない自然現象である可能性が高い。しかし、文明レベルでは、国家の衰退は必要悪として機能する。歴史上、ローマの滅亡がルネサンスの土壌を用意し、イギリスの衰退がアメリカの台頭を促したように、国家の新陳代謝は文明の発展に不可欠である。現在のアメリカの無理筋な政策は、文明の次のステージへの移行を遅らせる試みにすぎず、AIや新興国の台頭といった新たな担い手が歴史の流れを加速させるだろう。
アメリカの領地拡大政策は、「安全保障」や「相互利益」の名の下に進められているが、その無理筋な性質は明らかである。国民の無関心、グローバル経済との矛盾、歴史的パターンから見ても、この単独主義は衰退を早めるだけである。政治は豊かさの源ではなく、産業と経済、教育の基盤を支える補助役に徹するべきである。国家の終わりは文明の新陳代謝として必然であり、アメリカの現状はそのサイクルの中にある。レイ・ダリオの原則に基づけば、この歴史的転換を理解し、適応することが、今後の鍵となるだろう。
まず、会見を見て思ったのは、ヴァンス副大統領は完全にトランプの太鼓持ちになっている、道化レベルで。ゴマすりと言って良い。それを前提としてなんだけど。
「いたずらにプーチンを刺激することは良くない。それをした民主党大統領を見てみろ。戦争を引き起こしただけだ。問題を解決するのは(両者の立場を尊重しながら行う)外交しか無い。その外交ができるのは、トランプ大統領だけなのだ。」
と、ゴマすり(またはTVの前のトランプ支持者に対するアピール)をした。そこで、格好良く、「外交ができるのはトランプ大統領だけだ。」と終わりたかったのがヴァンス副大統領(ドヤ顔あり)。
対して、ゼレンスキー
「あなたは(両者の立場を尊重しながら行う)外交が大事だという。しかし、外交でプーチンの侵略を止めることもできなかったことを理解しているはずだ。プーチンは停戦協定をも平気で破る人物である。あなたが言う外交とは、一体どういう性質のものなのか?」
と言った。
おそらくゼレンスキーは、「アメリカはウクライナと連携して、戦争犯罪を起こしたプーチンに厳しい姿勢をとりつつ、こんどは二度と停戦協定を破らないような保証をとるつもりである。」という様な言質、またはそこまではいかなくとも似たような言質をとりたかったのだと思われる。
ところが、What kind of dipromacy are you speaking? What do you mean? とやや直接的な表現での問いかけをゼレンスキーはした。
このような聞き方では、「あなたが言う外交ってなんなんだ?なに言ってんの?あなたが言う外交なんてものに意味があるのか?」と言っているのに等しい。すくなくともヴァンス副大統領はそう受け取った。
1) 「外交を行うことが大事であり、それができるのはトランプだけ」と、せっかくトランプ及びトランプ支持者に対して格好よく決め台詞を言ったのに、TVの前でそして公衆の面前で、茶化された。
2)そもそも、この会見の場は停戦を目指す外交の場であるのに、その外交自体に意味があるのか?という挑発的な発言をされた。
と受け取ることになり、ブチ切れた。
そこで、外交そのものを否定するゼレンスキーに対して、「あんたのために外交してやってんだよ。あんたは失礼だ。」と発言するに至った。
そしてブチ切れた挙げ句に、「兵士も足りていないのにほざくんじゃねえよ、そもそもお前、トランプ大統領に対して感謝の一言も言っていねえじゃねえか。なめてんのか。」
それに対して、ゼレンスキーもキレて、
「そもそもヴァンス副大統領はウクライナの状況をわかって発言しているのか?ウクライナに来たこともないくせに。」
と、言い返した。
だが、当たり前だがヴァンス副大統領は、機密情報も含めてウクライナの情報は知っているはずであるので、上のゼレンスキーの発言自体もヴァンス副大統領にとっては挑発的な発言でしか無い。
ヴァンス副大統領としては「ふざけんな、アメリカの諜報能力をなめてんのか。てめえのケツ毛の本数までわかってんだぞ。」と言いたいと思うけど、そんなことを発言したら、アメリカの諜報能力という極めて機密レベルの高い話をTVの前ですることになる。できるわけがない。フラストレーションは爆発する。
当然、ヴァンス副大統領はキレ散らかすことになって、「クソやろうが。くだらねえ言い返しをしやがって。兵士が少ないことを否定できるのか?そもそも、さっさとありがとうとでも言って、我々に降伏しろ」という。
そこで、弱い立場であるゼレンスキーは、冷静に話をしようとして自国の窮状を訴える。
「ウクライナはすぐとなりにロシアという敵国がある。アメリカは大西洋もあるし、ロシアの脅威を今は感じにくいのだろう。だが、ロシアの侵略性は強く、いずれはロシアの脅威を感じることになるだろう。今、ウクライナはアメリカやEUの尖兵となって、ロシアに対峙している。我々を守ることは、アメリカの利益にもなることなのだ」
という様なことを言おうと思ったと思う。
しかし、そのまえにトランプがブチ切れて、ゼレンスキーの発言を前半で遮った。
トランプは強いアメリカを常に意識する。アメリカがロシアに脅威を感じる?怯える?そんなことを言われて、反論しないわけにはいかない。ロシアの武力に怯えて停戦協定をしたなどとでも、アメリカ国民に少しでも思われたら、トランプは終わりだ。
だから、トランプが「こっちの感情を勝手に類推するんじゃねえよ、ボケが。あくまで中立に仲介してやろうとしてんだよ。」とキレた。
ところが、トランプがその後、なにか言おうとするとゼレンスキーが聞かずに被せて発言しようとする。これは、全世界において極めて無礼なことだ。喧嘩を売っていると受け取られても仕方ない。
それで、トランプが完全にキレ散らかした。。
というのが、決裂の経緯の気がする。
それなりに真面目に考えてくれてるようで、こういうことを言うのは本当に申し訳ないんだが、
人権侵害と法律違反にフォーカスしたところで、問題の99.9%は今の課題とは関係がないんだ。
映像作品における「性的なシーンの撮影において、人権侵害とは言えないが問題がある」というシチュエーションについてもっと具体事例を知ってほしい。
先行事例であり、個人の人権を尊重する意識が日本よりずっと強いアメリカで、なぜ弁護士がそういった役割を担えずにICという職種が生まれたのか、
俺が前提知識を勉強しろ、と言っているのはそういうことなんだ。
俺に限らず業界の人間が、弁護士やその他エージェント的役割がICの代わりを果たせないかと一度でも検討したことがないとでも思ってるのか?
申し訳ないが、お前との話はこれで終わりだ。
俺はお前が思ってるほど馬鹿ではないし、
女子W杯のなでしこジャパンはベスト8で終わった。2年前の絶望的な状態からは良くはなったが、まだ発展途上に居ると言うことが良く分かった。
12年前の女子W杯でまさかの優勝を遂げてから、女子サッカーの競技者数は大幅に増えると思われた。
JFAの「選手登録数」によると12年前の2011年は26,237人で、そこから一時的に伸びて2013年には3万人を超えたが、以降は伸び悩み。ここ数年は28,000人前後をうろついている。→https://www.jfa.jp/about_jfa/organization/databox/player.html
日本はアメスポ文化の国なので他のスポーツ競技の人口傾向はアメリカのそれと似てるのだが、女子サッカーだけは似ても似つかない。アメリカは知っての通り女子サッカー大国だが日本は小国。それはなぜか。いろいろ調べてみたら・・・
しかし、日本とアメリカでは、男女比率が決定的に違う。日本では男女比2:8~3:7で、アメリカはその逆だ。
米国における吹奏楽は軍楽隊を起源としており、男性だけ、または男性中心の吹奏楽部(あちらの部活動は学校授業の一環だが詳細説明は省く)や楽団が多数構成されるようになり、その文化が今でも根付いている。近年は幾分女性率は上がっているが、未だに女子禁制のバンドも少なくない。
日本でも1950年代までは男性中心だったが、1960年代から一気に女性比率が増え、1970年の段階で男女比ほぼ半々となり、今や大半が女性だ。
こうなった理由はいくつか考えられる。この時期に何度か起きたギターブームで男子生徒がそちらに流れたこと、日本におけるウーマンリブ(女性解放運動)でのターゲットの1つに吹奏楽が選ばれたことなどが挙げられている。ただ米国では男女比逆転の話はない。
世界的には女子サッカーは「女性解放運動」の象徴とも言われており、女子サッカーの強さと女性の権利の強さは比例すると言われる。男子サッカーがそこまで強くないアメリカやスウェーデンが強いのが象徴的だ。
しかし、日本における女性解放運動の象徴は、1960年代から急激に女性比率が上がり、今やほとんどが女性で占められる「吹奏楽部」であり、女子サッカーではない。
日本で女子サッカーの競技者数が増えないのはバスケやバレーボールとかに女子生徒を取られているためとよく言われているが、それだと女子バスケもバレーも普通に強いアメリカが女子サッカーも強く、競技人数が桁違いの理由が説明がつかない。
米国のとあるIT企業の社長が書いているブログに、興味深い記事があった。
その内容は、プログラマーにパフォーマンスを発揮してもらうには、一人一人に個室を用意することが大事だ、というものだ。
それを読んだとき、驚いた。日本企業ではプログラマーと言えど個室を用意されている人間なんて、部長以上でもないかぎりありえないだろう。
アメリカの大企業では、個室とまではいかなくても、大体5,6畳ほどのスペースがプログラマー一人に用意されていることが多い。
しかし、同じ人の別の日のブログにはこんな内容の記事があった。
その内容は、レストランで食事をした時、明らかに注文と違うものを持ってきても謝りもしないやつが多すぎる、というものだ。
指摘をしても悪びれる様子もなく平然としているというのだ。
そんなことがしょっちゅう繰り返されて頭に来ていたのか、これはあなたのミスで、それを謝罪すべきだということを説明したところ、ようやく「すみません、私のミスです。」と言われたそうだ。
その日は、ミスを一つ謝ってもらったことで、一日中気分が良かったのだそうだ。
なんというか、この二つの記事を読んで、日本とアメリカを足して2で割れば、客にも従業員にも心地の良い環境になるんだろうな、と思った。
現代を取り巻く「ポピュラー・ミソジニー」とは何か? その考え方が教えてくれること
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/95817
この記事案外よくできてる。ただし、フェミズム教義のまとめとして、あるいは、問題点の象徴として。
一般人に意味不明なのは、オレオレ定義で話をするせいで問題だから問題だという循環参照が不毛で現実問題の解決に毛ほども役に立たないから。
さらには、ミソジニー話を批判するのはミソジニーだからといったカルト状態(教義を批判するのは悪魔の手先だから)に陥っている。
「あんた、もう社会人なんだから、何かいいことがあっても浮かれた態度を見せるんじゃないよ。世の中苦労している人のほうが多いんだから」
今の人には古い村のおきてとか、足の引っ張り合いに見えるかもしれないけど、これが本当の気遣い。
ここで、諸悪の根源は新自由主義なわけだけど、かつてその象徴は大体ホリエモンだった。
彼の押し出しの強さ、稼いでるんだから文句いうな、金持ちはもっと尊敬されるべきだ、勝ち組が勝てばよい負け組は知らん。
彼は早すぎた感じで、盛大にぶっ叩かれて、今では同情を集める側になった。
金持ちが人目をはばからずに人生を満喫できるささやかな幸せと引き換えに、万人が万人と闘争するエンドレスマウンティング地獄の等価交換。
シェリル・サンドバーグについては、はっきりと新自由主義の尖兵と言えるし、インターネットによって一般庶民であるはずのキラキラ女子もその列に並んでしまっている。
人は見えない格差に傷つくことはないが、見える格差には非常にダメージを受ける(兄弟間でのおやつの量など)。
ネット上のヘイトスピーチなくそう。まあその通り。良いことだろう。
だが、幸せ私生活をネットに上げることもまた、群衆に向かって中指立てるレベルの暴挙だと理解しているだろうか。
飾り付けられたSNSは他に対する攻撃となる(えむふじんがあらわれた!)。
エコーチェンバーがどうとか些末なことで、ネットの問題は私生活が全世界に公開されやすいということに尽きている。
勝者を率直にほめたたえる文化が強いアメリカでなぜ「インセルの犯罪」が多いのか。
positive, party, partnerのぱっぱらぱー3P文化が中指立てているからだ。