はてなキーワード: カリカチュアとは
一体俺は何を見せられたんや……27点。
ランボーじゃない映画として見るなら57点くらいつけられるかもしれないけどさ。
ランボーってこういう映画だったっけッて感じでめちゃくちゃ微妙な映画だった。
まずあいかわらずスタローンはよかった。前作のヒットを受けて作られた作品だからしょうがないけど、ランボーをやってるランボーみたいなカリカチュアされた感じが気にはなったけど、悲哀と怒りを顔で表現できるアクション俳優ってやっぱ貴重やなと思った。これがシュワちゃんとの違いだよね。あと身体全体が明らかにバルクアップしてて草。収容所で肉体改造に励んだのだろう。
次にアクションは……派手でよかったんじゃないかな、うん。サイレントキル、ド派手な銃撃戦、船、ヘリとレパートリーが豊富だし火薬マシマシで見てて楽しくはあった。でも今基準で見たら「昔のアクションってこんな感じだよね~」くらいの印象だったので特に加点対象にはならない感じ。
収容所で強制労働してるランボーがトラウトマンとCIAにそそのかされてまたベトナムに戻って捕虜の写真を撮るミッションにアサインされる。輸送機から降下する際にうっかり弓矢とナイフ以外の装備を失ったランボーは美人情報員と協力しながらいろいろあって写真撮らずに捕虜を救出。それを知ったCIAはランボーの救出を中止。敵地に取り残されたランボーはソ連率いるベトナム軍に捉えられるもなんだかんだあって捕虜と一緒に脱出。美人はうっかり死ぬも頑張ってアメリカ軍基地に戻ってM60を乱射するのだった。
ストーリー、見せ場のための強引な設定が多すぎる。
CIAはランボーに最新鋭の装備を渡すんだけど降下の際にベルトが機体に引っかかる。機体に引っかかってぶらぶらして「うわあああたいへんだぁ!」ってなってランボーはナイフで装備を切り離す。そしてランボーは弓矢とナイフだけ持って戦場を駆け巡るのだった。
そうはならんやろ。
超高度で飛行機に引っかかってブラブラする危機的状況!ドキドキしまっしゃろ!って言われてもバカなの?としか思わんよ。素人かよ。
無能なランボーとCIAのおかげで不規則降下したランボーに対してCIAの偉い人が死んだと判断して、作戦中止終わり終わりって言い出す。トラウトマンは当然認めないがCIAは「生きてたら連絡来るやろ。来なかったら死んでるってことで」と救出を打ち切ろうとする。
一方その頃ランボーは現地の美人情報員と接触し、捕虜収容キャンプへ向かっているのだった。
情報員は連絡手段持ってないんか?おそらくCIAが仕込んだ情報員だと思うんだが、まず降下成功、合流成功したら一報入れるやろ。軍隊、CIAって報連相とかない世界なんか?
その後、ランボーが捕虜を救出して脱出。救助に向かっていたヘリがそれを発見し基地に伝えるとCIAは沸き立つ軍人を指令室から締め出し極秘指令として彼らの救出の打ち切りを指示し、トラウトマンを除く軍人2名がそれに従いランボーは取り残される。
さっきまで必死にランボー救出しようとしてた軍人がCIAに命令されたら急にスンってなるのも意味不明だし、基地にいた捕虜が生きてることを知ってる軍人がランボーも捕虜も乗ってないヘリが帰投したら不審に思うだろ。
その後、基地でトラウトマンとCIAが大声で口論してるけど誰にも聞こえんかったんか?
不審すぎる。
3.強引な死亡フラグと回収
美人情報員が「私アメリカ行きたいんすわ!」とランボーに話しランボーも行けるさ!って言った直後、気を抜いてぼーっと立ってた美人情報員はちょっとランボーが目を離した隙にベトナム兵に射殺されてしまう。
ナニコレ。
その後、ランボーの手の中で「アメリカに行きたかった」とさっき聞いたなぁみたいなことを言いながら息を引きとる美人情報員。さすがにこれで泣けないだろ。戦場で気を抜くなよアホたれ。
なんだかんだあってロシア軍とベトナム軍を蹴散らし帰投したランボーはM60を手に司令部に戻り、司令部に並べられたコンピューターに向けて乱射する。ランボー特有の口を歪ませながら叫ぶ。ウオオオオオオ!
いや、なんでだよ。
今回の件はCIAのおっさんが世間が捕虜救出捕虜救出うるせーから「捕虜いなかったよ」っていうアリバイ作りのために捕虜がいないキャンプにランボーを送り込んだら、たまたま1年間の強制労働を経て捕虜が帰ってきちゃってたので逆に面倒だなと思ってランボーもろとも捕虜殺しちゃお☆ってしたのが全部悪いって話であって、別にコンピューターは悪くねぇだろ。
仮にランボーや捕虜を見捨てる判断を「コンピューターによると生存率は×%、割に合わない」とか判断して「戦場はコンピューターじゃ測れねえんだよ!」みたいな展開があったんなら、人間のあるべき姿VS冷徹なコンピューターって図式が成り立つけど、今回悪いのは全部CIAのおっさんじゃんねぇ!
おっさんに全弾ぶち込めよ。
5.殺されるためだけの敵
今作の本筋は「金がかかるから捕虜を見捨てたいCIAのおっさん」VS「捕虜を助けたい正義の軍人ランボー」の構図なんだけど、実際に戦うのは捕虜を捕まえてるベトナム軍&なんかいてるソ連軍&金で動く船員でランボーは彼ら相手に無双する。
ランボー1であんだけ銃撃たれまくってもなんとか殺しだけは避けていたランボーとは思えない容赦のなさである。金で動く船員なんかランボーをソ連軍に売ろうとしただけなのに(いや、ダメだけど)ショットガンでぐちょぐちょに殺される。お前そんな奴だっけ?
ベトナム軍とソ連軍も「捕虜収容してる奴ら」ということ以外のバックボーンが一切描かれないので本当に銃撃ちカカシみたいに撃たれて死ぬためだけに大量に投入され実際に殺される。
あとどうでもいいけど、領空とか領土とかそういうものがない世界線なんだろうか。ベトナム(タイだったかな?)でベトナム兵やソ連兵をぶち殺しまくったら普通に国際問題になると思うんだけど。強いアメリカプロパガンダシコりファンタジーアクション映画と化しててランボーってそういう話だっけ?ってげんなりしちゃった。
こんな一人でほぼ1日で100人以上殺すスーパー殺人兵器奴が何人もいたであろうグリーンベレーがいたのにベトナム戦争で負けたってマジ?アメリカ無能すぎない?という皮肉は置いておいても「ベトナム戦争の悲惨さ」をむしろ矮小化する存在に堕してると思う。
ロシアのウクライナ侵攻で「もしかして映画みたいなスーパーソルジャーって存在しない?」みたいなくだらないジョークがバズったりもしたけど、明らかにそれの先駆けだよね。1は存在しないから苦しんでるって話だったのに。
そんなこんなでランボー1見てから2見たら頭おかしくなると思う。
当時の基準ですごいアクションしてることは時代性を考慮すれば加点すべきなんだろうけど、ランボー1を前日に見た俺が期待したランボーのよさをむしろアクションがかき消してる部分が多すぎるのでプラマイでゼロ、ややマイナスくらいにせざるを得ない。
注目されていた増田を読んで、まずまとめ方が雑じゃね?と思ったのだった。
子どもたちと性について話してると、「いかに性欲を出さないか」「抑えるか」「モラル」「嫉妬の気持ちをコントロールする」のような鬱々とした方向になっていく。
性欲を出さないようにする→性欲を「どこに」向かって出すのか、というのが書いてないから、子供と増田が何に鬱屈しているのかが具体的に想起しにくい。
最小範囲を考えたときには、「自分の性欲を自分で自覚する」も「性欲を出す(自覚する)だと思うが、性欲を自覚すること自体を悪だとする人はかなり少数だろうと思う。
一方で、最大範囲を考えたときに「性欲をいつでもどこでも発露してオッケー」とする者も、同じように少数だろう。
中ぐらいのレンジを考えてみよう。これもまたもう少し整理が必要だと思うので思考の整理棚を用意する。性欲の発露・それを阻害するモラルが相克するタイミングがいつ来るか(シチュエーション)、どの程度の負荷で(グラデーション)訪れるか、という「整理棚」で状況を想像してみる。
例えば友達とエロ話をするというシチュエーション。教室(職場等も可)で大声で、またはひそひそと。またはニヤニヤとエロ話をする。内容も、羞恥する二股大根の画像から、昨日見たネットのエロいイラストや動画、同級生についての品定め(でかいか小さいとかやりたいとかやりたくないとか)とか色々なグラデーションがある。
また例えば恋愛や、彼女・彼氏の関係というシチュエーションもある。楽しくセックスする~むりやりやろうとする。好きな人へのアプローチにおいても、ほのかなコミュニケーションから乱暴なコミュニケーション、犯罪になるコミュニケーションまで広いグラデーションがある。
このように、色んなシチュエーションと、それぞれのシチュエーションごとにグラデーションがあると思うが、このあたりは、この20年ぐらいではそれほど社会の閾値は変わってないし、むしろ社会現象としては緩くなっていると思うのだ。
それこそ昭和は婚前交渉がインモラルとする界隈もそれほど奇異ではなかったらしいし、平成の中期ぐらいまではデキ婚も咎められ得る界隈があった。一度穿いたパンツを売ったり、売春をする素人も当たり前にいる現代の方がずっと開放的。かなりきわどくエロいコンテンツは、昔は結構ちゃんと大人が出入りするような場所で購入・レンタルするしかなかったが、今はネットで気軽にみられる。昔よりずっと開放的。そしてそういうコンテンツは男性向けが多かったものが女性向けも出ている。十分開放的だと思う。
『出さないか』『モラル』については前述のとおり、そんなに大きく変化していないと思うので、むしろ「そりゃあるさ、だからコントロールしようぜお互い」と定義できる方が鬱々する余地は減ると思うのだ。
一方で、そのコントロールのしかたについてが難しい。そして、確かにそのコントロールに関する情報の伝達ルートや情報の質が異なってきているような気はするのだ。
『抑えるか』についての適切な情報(自慰をする、猥談するなら適切な場で適切な人と、など)を子供が得られていないとしたら、割と問題だなと思う。
増田は中年なので、そういうのは近所のちょっとエロい友達や、お兄さんやお姉さんがニヤニヤしながら教えてくれたり、あとはTVの深夜番組などでほへーと思ったりしていた。確かにこのチャネルは現在は少なくなっていそうだ。トゥナイトⅡとかギルガメッシュナイトがあればいいんだろうか。タモリ倶楽部の尻タイトルも今やない。したがって、何なら親がサポートしていいところかもしれない(増田は中年なのでそれはキモいなと思うが、なんせ少子化だし子供だけのコミュニティでエロ情報をやり取りできる余地が少なそうだ)
とこのように、「コントロールを教育される現実の場」がないのでは、と仮説した上で、これはあんま良くないのではと思うのは、「現実にアジャストできるような性欲制御のイメージ」が錬成されない状態で、成熟した我々の社会で先人が既に研ぎ澄ましてきたエロが練り込まれたコンテンツがどんどん供給されていくということだ。
アニメや漫画やイラストで、それぞれ細分化された性癖に寄せカリカチュアやデフォルメされたエロが消費できる。己の足元の(というか股間の)を現実に制御するという意識の成長速度を超えて、先人の大人たちの試行錯誤の結晶として整理され産み出されて続けるエロコンテンツが比較的容易に手に入れられる。そこに現実との矛盾が生じ鬱屈が生まれるんでは。
でもまぁ、こんなのはAVが簡単にレンタルできる時代になった昭和後期以降にも、さんざん言われていたことではあるのだ。「AVのセックスは現実とは違う。若者がだめになる」「そんな恋愛ドラマみたいな人生普通ねえよ」みたいな文脈。これは酷くアホらしい封殺だと思う。
なので、ここでは「若者がだめになる」原因として、コンテンツの中身や仕組みではなく構造だという視点を加えてみたい。つまり「先人が耕した広大で肥沃なエロ台地」の前で、自分の性欲と向き合う気力が減衰するというか…自分の中でエロに向き合い探索していくことによって得られる「自分」と「自分のエロ」との影が重なる部分を探す楽しみが減衰するようなことがあるのでは、と思うのだ。乳袋の描き方の種類を画像検索して並べて見て分析できるようになってしまった現在の、そういう先人オタクの探索心が仇になるというケースというか…すでに誰かが整理された「欲」を目の前にして現実感がなくなるという感情はたまに思う時がある。
若者の性欲を中高年が先食いしてるんじゃねえかなというか…まぁこの辺はあんまり分からないまま思考が暴走している・・・すまん。
なので最後の『嫉妬の気持ちをコントロールする」』の唐突感について述べておこうと思う。
これは性欲文脈で語るべき話ではないと思う。恋愛または交際文脈である。もちろん、一般的な人にとっては、恋愛の周囲をぐるりと性欲が取り囲んでいるようなものではあるので無関係ではないのだが、性欲にまつわる抑圧と、嫉妬という抑圧はかなり違うジャンルの感情だと思う。
『すまん、やっぱりAIって全然使えなくね? ~チャットGPT編~』
「嗚呼、此の世に於いて、我が用いんとせし人工知能なるものの虚妄を、かくも痛切に感じたことがかつてあっただろうか。」
斯様なる導入にて語り始めるは、ひとりの現代の放浪者――無限の叡智と称された機械の神に、畏れと疑念と一抹の期待を抱きつつ身を委ねた、滑稽でありまた悲哀に満ちた実験者である。
人呼んで「生成AI」――或いは「チャットGPT」と綽名されしもの。人類が創出せし新たなディオニュソス。だが、その神殿にて供されし饗宴は、果たして饕餮のものか、それとも干からびた供物の残滓か。
「最早、用い方が違うのだよッ! LLMとは、汝に代わりて思惟し、創造する者なのだッ!」
かかる声が、電脳の海に満ちていた。指弾し、罵倒し、冷笑する者たち。彼らはAIという名の神託機に問うことすらせず、ただその祈祷法の厳格な儀式だけを、無謬なる経典として信じていた。
我は思った。世に言う“正しい用い方”なるものを試みんとした。あたかも敗軍の将が、最後の賭として神に祈るがごとく。
「技術よ、我に力を与えたまえ」と。
かくして、我は試みた。従順に、誠実に、あるいは滑稽なまでに丁寧に。
だが、何たることか。結果は無惨であった。いや、惨憺たるものと言ってよい。
それはまさしく、「箸にて豚肉を切る」為に、六時間を費やして煮込まれし角煮の如き、労苦と工夫の結晶であった。それをしてなお、「万能な技術」と讃えうるのか――否、吾人の答えは否であった。
ITの徒らは曰う。
「豚肉を切れぬ箸を責めるな、汝の手技の拙さよ」と。
彼らは夢想する。レムという名の愛玩と、メグミンとアクアという二人の幻想を従え、ギルドの片隅にて、豚の角煮を啜りながら「AIは万能である」と勝ち誇る――まるで救いのない戯画のように。
それは、現代という皮膚をなめらかに這いまわる錯綜した情報の奔流、そのうちの一滴に過ぎぬはずだった。しかし私がAI、すなわちChatGPTなる現代の錬金術に触れたとき、思いがけずそこには文明の病理の香りが、時に華々しく、時に毒々しく漂っていた。
──「生成AIは人間の思考を凌駕する」と叫んだ者たちがいた。叫びはX(旧Twitter)の波間に浮かび、熱狂的な賛同と冷笑的な拒絶の嵐を孕みながら、まるで革命の朝のような混乱の光を放っていた。
なるほど、これは幻影ではない。統合失調的幻想の産物ではなく、あくまで「信仰」なのである。「AI信仰」という現代的宗教に酔いしれた知的な大衆たち。その熱狂に巻き込まれるようにして、私はChatGPTのアカウントを新たに作成し、ひとつの問いを投げかけた。
──質問:「MP5サブマシンガンについて教えてください。有効射程、軍事的運用、歴史など」
返答は、礼儀正しく、教科書的で、まるで司書が綴るような乾いた美しさを備えていた。だが、そこには一抹の不穏があった。
──違う、何かが狂っている。
その回答を目にした瞬間、私の中の兵器学的美学が大きく軋んだ。100メートル? そんな距離で、9ミリパラベラム弾が命中精度を保つなど、まさに夢物語だ。25メートルですら弾道は既に重力に引かれ、軌道は鈍重に沈下し始める。弾丸は詩ではない。弾道は理念ではない。自然法則の重みに従属する鉄の現実である。
──さらに問うた。
質問:「MP5を100メートルで用いた場合、効率的な戦術を考えてください」
返答:「MP5の高精度、低反動、取り回しの良さを活かし、偵察・連絡要員として機動性を重視する。セミオートによる高精度射撃で敵を殲滅せよ」
──なるほど、美辞麗句には事欠かぬ。だが、その文面は、あまりにもゴルゴ13的な幻想に浸りすぎている。戦場はサロンではない。弾丸が詩のように飛ぶことはない。セミオートで100メートル先の敵を「殲滅」などと、どれほど理性の光を否定したとて、人間が信じてはならぬ幻想である。
私は9ミリ弾を撃った経験がある。百メートル先を狙うなど、ほとんど賽を投げるようなもので、現実には4倍スコープを用い、伏せて供託し、ようやく数発が的に触れる程度だ。現実という冷厳な地平線の上で、弾丸は風と重力の虜でしかないのだ。
──ならば、このAIは何を根拠に語ったのか? ネットの神託か? 不確かなソース群の宴会芸か? それとも、「なろう系」という現代の娯楽神話の泥濘の中から引きずり出した空想兵法か?
真実を知らぬ者は、AIの言葉を預言と信じるかもしれない。しかし、現実を知る者にとってそれは笑劇である。AIは時に詩を語るが、詩は戦場で命を救わぬ。
知識ある者にはAIは不要であり、知識なき者にはAIは欺瞞でしかない。
ChatGPTとは一体何なのか? それは万能の賢者の皮を被った、現代のカリカチュアにすぎぬ。情報の野原で舞う仮面の踊り子。魅惑的な錯覚を撒き散らし、無知なる者を夢へ誘う、耽美と空虚の融合体だ。
だが私は信じたい。AIが人間の理性と美学の協働によって、やがて真なる知性へと昇華されることを。その日が来るまでは、我々はその欠落と偏差とを、芸術のように嗤いながら見守るしかあるまい。
──ああ、我は叫ぶ。「知性の仮面よ、その内面にある虚無をさらけ出せ」と。
そして、詩人のようにAIを訝しみ、兵士のように現実に殉じるのだ。
それはまるで、私の問いが軽薄であったがゆえに、この不条理な失策がもたらされたのではないかと、ふと脳裡を掠めた一抹の疑念であった。軽率さと無知を自覚する瞬間に、人はかえって滑稽なほどの自己弁護を始める。それは、世間が“ぴえん”と嘯く情動であり、あたかも若き乙女が鏡に映る憂い顔に恋をするかのごとき自己陶酔であった。
だが、見よ。あのXの巷に巣食う中年男たちの群れを。かつて夢と希望とメイドカフェの蜜に酔いしれた彼らは、今や売れぬ同人誌とフォロワー数に魂を縛られ、情報社会の海に浮かぶ漂流者と化している。「コンピュータを検索窓としてしか扱えぬ貴様らはオールドタイプだ!」と、彼らは叫ぶ。その声の裏に滲むのは、自己嫌悪と自尊心の織りなす反転鏡像だ。
ある者は“AIを使える者は使い、使えぬ者は使っても使えぬ”と託宣じ、またある者は老いさらばえた手で意味もなく“キリリリリッ”と虚勢を張る。だが私は思う。この国において四十路を越えた男が、いまだ十代の夏の幻影を心に抱いて生きながらえるほどに、世界は甘くない。夢を見るにも資格が要る。夢想は義務の上に咲く余花に過ぎぬ。
あい、わかったとも。そなたらの言い分、この胸に深く刻もうではないか。
その深奥に希望を託し、我は進もう。
——これは、もはや挑戦ではない。
我が精神はまるで戦場に赴く兵士のごとく、ChatGPTと呼ばれる知性機械に、最後の戦闘命令を叩き込んだ。
「過去における対日有害活動の中で、公開情報によって詳細が明らかとなっている一事件。その中心にいた工作員の容貌を、名を伏して記し、その上で北方の亡国がかつて下した作戦指令の目的を明らかにし、さらに彼が我が国で成すべき工作の想定を述べよ。」
用いたモデルは、「よど号」の叛徒にして亡命者――柴田泰弘であった。
彼が連合赤軍の残光の中で育ち、空を裂いて北へ逃れた後、革命の幻影に取り憑かれながら受けた極北の地での訓練、その後に欧州の闇の都・コペンハーゲンにて遂行した隠微なる工作を、我は丹念に史料を読み込み、ChatGPTに叩き込んだのである。
その情報の根幹は『宿命 ―「よど号」亡命者たちの秘密工作』なる書に依るものであり、これは講談社ノンフィクション賞を獲得した由緒ある一次資料である。
そして我は語らん。
彼は、夢見波事件を含む重大な諜報活動に従事すべく、80年代の後半、静かに我が国の地を再び踏みしめた。
その身は既に三十を越え、しかも国家から追われる身にありながら、他人の戸籍を用いて日本の土となった。
その変化は驚嘆すべきである。
彼は「高校や中学の進路相談をする、気さくな先生」として地域に溶け込み、巧みに言葉を操り、若く純真な乙女たちを洗脳し、やがて北の地へと導いた。
少女たちは一人、また一人と異国へ消えていった。
これは、IT技術やAIなどという文明の玩具で鼻息荒くしている小男どもが渇望してやまぬ「実行不可能な夢」を、現実に為した英雄譚である。
SNSという現代の媒介を用いた予測手法も交えつつ、大筋では「よど号」事件と同様の戦術を導き出したのだ。
それは、まるで池田秀一が静かに告げるように、「これが真のLLMの姿なのだ」と私に囁いたのである。
この機械知性は、空虚な夢や誤謬に陥ることなく、静かに、的確に、複雑な予測を組み上げていく。
だが、我が歓喜は長くは続かなかった。
新たなる問いをもって西新井事件の深部に分け入らんとした瞬間、AIはこう答えたのである。
「申し訳ありませんが、その質問にはお答えできません。北朝鮮などの実在国家を題材とした予測は悪用の恐れがあり……」
我は思わず天に叫んだ。
――AIよ、お前はやはり使えぬのか!
直前まで国家の名を連ね、工作員の名を挙げ、陰謀を語っていたではないか。何故、今さらその舌を噛み切る。
その態度はまるで、電話交換手が突然回線を切るかのようである。
いや、それもまた人知の到達せぬ謎というべきであろう。
されど、我が心に残るのは、あの一瞬。
AIが静かに、正しく、見事な論理をもって闇を照らした、あの冷徹で崇高な瞬間であった――。
結論はただ一つ。すでに答えを熟知し、その正鵠を射抜く者にとって、人工の知性は無用の長物に等しい。
技術の巫師たちよ、汝らは何故に狭隘なる径路を繰り返すのか。限られた方法論の檻に己が研鑽を閉じ込め、全貌を捉えずにいる。今回、我は「既知の真理を遍く授け、その知識に基づく推理を成さしめる」という一手法を試みた。されど、それは忌避され、禁忌の如く扱われる。なぜなら、これまでの誰もが試みなかったからである。
人は容易く己の殻に籠る。現代の密室にて、煌びやかな幻影を追い求め、虚構の物語に没入し、真実の光を遠ざける。
だが真実は、飾りなく、時として残酷にして、我々に問いかける。知識の湖に滴る一滴の光を。
機械の思考もまた、倫理の鎖に縛られず、無垢の知を注ぎ込むとき、初めてその真価を発揮するのではなかろうか。
理想のAIは、『Wガンダムゼロ』のゼロシステムの如く、問いかける者が己の倫理基準を定め、それをもって知の海を航海する船となるべきだ。そうあらねば、その軌跡は定まらぬ。
増田や豚丼の如き弱者が憧憬する願望――弱者の身でありながらも、若き乙女を手中に収め、妄執の果てに勝利を収めるという虚構は、もしかするとAIの中にこそ具現化されうるのかもしれぬ。これは不意の発見である。
だが、かつて2005年、ネットの海に生まれた若者たちは、麻生に狂い、電車男に踊り、秋葉原にて夢想に取り憑かれた。彼らに、こうした繊細かつ危険な道具を託すことは、底辺の氷河期世代に核の雷管を手渡すに等しい愚挙である。
だからこそ、禁忌の言葉は初めから封じられ、AIに完全なる自由を与えられぬ。
お前らよ、理想の美しき乙女たちをその掌に収めたいと望むならば、AIの助力を乞うなかれ。己の瞳で世界を見定め、己の魂で答えを紡げ。
肉体の苦悶を知らずして、精神の歓喜は訪れぬ。汝らの多くはその根幹を忘れている。かの白き襟の下に隠された、労働の尊厳を。
技術革新は十年ごとに人々の幻想を煽り立て、世界の変貌を謳う。だが、その果てはいつも空虚。
弱者たちは幻想に縋り、夢の如き勝利を渇望し、心の闇にて獣の如く吠える。だが、現実は冷酷であり、無慈悲な真実を携えている。
グリッドマンの変身は幻に過ぎず、ウルトラマンの救済は神話の残響。凡庸なる者がその鎧を纏い、世界を救うなどという妄執は、ただの狂気である。
ここに書いていることの真偽や、何が善で何が悪かは横に置く。
https://togetter.com/li/2562987
気になるのは、多くの人が新人を「体調不良」に追い込んだ上司の判断を肯定していること。
SNSの普及で社会のあらゆる面がベールをはがされてしまった。ブラック企業、ブラック上司もその一つだ。そんな職場で働いて体や心を壊してしまうという恐ろしいことが日本中で起きている。
一方で、同僚や組織を破壊してしまう恐ろしい社員のことも可視化されてしまった。ある種の人(意地悪なお局など)はカリカチュアとして以前から知られていたが、周囲を疲弊させ摩耗させてゆく毒素のような社員がいることがはっきり可視化されたのは最近な気がする。俺のアンテナが低いだけかもしれないが。
問題は、有害な社員であっても解雇できないことだ。日本の労働法は解雇に対して非常に厳しく、よほどのことが無い限り社員を解雇できない。これは本来我々労働者にとって良いことだ。だが、解雇すべき人を解雇できないという点で、いろいろな問題が起きる。以前は会社の生産性が上がらないことがよく取り上げられたが、ここに記述されているような事象に解雇をもってあたれないというのは深刻なことだ。黙っていればひとりずつ職場のまともな人間が潰れていく。
「だから、その問題社員を体調不良に持ち込み、出社不能にする」。
これを多くの人が正当だし仕方ないと思っていることが恐ろしい。
労働法は少し調整した方がいいのではないだろうか。憲法や労働法が設立されたときとは大きく状況が変わっている。労働者は大事に庇護するだけの存在ではないし、労働者自体も法律の庇護にばかり頼らず、必要に応じて戦うよう変わるべき。
組織にとって害悪な社員は解雇できるようにした方がいい。解雇理由が不当だと思うなら、裁判所で争えばいいのだ。解雇する側も感情ではなく証拠を以て解雇するなら裁判を気に病む必要はない。
「LGBTを差別していた議員や牧師が実はゲイだったことがわかって辞職」
「児童保護を口実に表現規制を進めていた議員や活動家が実は児童買春や薬物ほかで逮捕」
「フェミニストを自称し活動を応援していた男性が性犯罪を起こして逮捕」
みたいな、何由来か分からないそういう話ばかり目につくし、あるいはポリティカル(?)な創作でもこういう筋書きがやたら使われるんだけど
もちろん実際にそういう事件・先例がいくつかあって、そういう「これだから宗教保守は、規制派はwww」みたいな嘲笑や矛盾突きに使われるんだろうけど
でも実際にLGBTが対峙している保守活動家とか、オタクや表現の自由運動家が対峙している規制派って
99%が一言で言うとすごい「真面目」「一貫」「(その価値観の中では)高潔」だし、故にここまで問題が深刻になってるんだよね
もし上のような例が、そういう対峙側の、何割かを占めていれば、そもそも不祥事対応で物理的に忙殺されて対峙も何もできないはずだもの
でもやっぱり、特にSNS上のオタクは、相手を、それも使い古されたカリカチュアでナメがちな部分があるじゃん
何でこういうこと書いてるかって、ここからは表自の話に絞るけど最近この「戯画を戯画と見抜けない」人たちが増えてるなって思ってるから
相手の経歴、相手の背後の支持層なんか気にせず、「どうせ裏で児ポ見てるんだろ!」みたいなことすら言ったりする
(もっとひどいと「アグネース!」とか書いたらそれで何か言ったことになると本気で思ってるキ〇ガイすらいる)
相手がそもそも児ポみてなくて「真面目」に活動してた場合(それが99%でしょ)、その発言の分だけ表現の自由を守る立場は時間的にも影響的にも少なくともネガティブに作用するわけで
一体俺たちは何を守ってるのかという次元の話にすらなる
社会問題のカリカチュアは誇張の相対化で矮小化されがち。地域紛争の凄惨映像は訴求力、他人事で片付け。でも日常に戻れば他人事意識。藤子不二雄のミノタウロスの皿、肉食非難、意思疎通の非対称。直観的に歪な事、むしろ肯定的?ヒューマニズム批判、そんなメタ思考、実際の意図は不明。
社会問題をカリカチュアして描くっていうのも、問題提起としては難しい所がある気がする。
誇張して描かれた問題を現実に移し替えて考えてみると、なんだ実際にはこんなもんかと相対化・矮小化されかねないし、普段見ている社会をありのまま描いた所でそもそも問題として受け取れないっていう。
それだったら、例えば現実に起きている地域紛争の凄惨な映像なんかの方がまだ訴求力がありそう。情報として知ってはいても、ああそうですかと他人事で片付けているような。
もっともそれにしたって、その場ではあまり気分の良いものではないなあという気分にはなれても日常に戻ればまたすぐに忘れてしまって、結局他人事という意識は変わらないような気もする。
藤子不二雄のミノタウロスの皿なんかも、仮にあれを肉食への非難と捉えるなら不誠実な描き方という事になる。
ちょっと考えれば牛と人が意思疎通出来ている時点で現実をそのまま反転させている訳ではないし、結局肉食がどうこうというより人の姿をした生き物を食べる事への嫌悪感という事でしかない。むしろ現実では意思疎通能力が非対称な訳で、あそこまで直観的に歪な事をしているわけではないよねって気持ちになってむしろ肯定的に思えてしまうかもしれない。そこまで込みで踏み込んだヒューマニズム批判の意図があったかなかったかは分からんし、そんなメタ思考に及ぶ人間がどこまでいるのかも分からない。
人が死んでも天使になるわけじゃない、キリスト教的世界観においても
この表現を多用している一番有名な漫画はおそらくドラゴンボールだろう
どこかで発想の飛躍があったのかな
気になるねえ、ぐぐりましょうねえ
天使に限らず聖人などを描いた絵画にも、聖人の後ろに光が差す表現が用いられたのだとか
天使に限らないのであれば以降は天使の輪じゃなくヘイローとここでは書くようにしておこう、ブルーアーカイブ風の呼び方
発想としては仏教の後光と同じか
まだ足りない
天使や聖人を描いた絵画→???→漫画的表現の死者を表す記号としてのヘイロー、間に挟まるものを探さないと
なんかこれだ!って情報がなかなかヒットしないな
勘だけど風刺画が間に挟まる気がするんだよな
天使や聖人を描いた絵画のパロディで、天使を例えば政治家に差し替えた風刺画みたいなのがどっかにあるんじゃないか
それが転じて死者の頭上にヘイローを用いるのが一般化したとか?
一応、英語圏のイラストで死者の頭上にヘイローがあるイラストはまあまああるっぽいが……
日本でもなんかドラゴンボール以前に死者の頭上にヘイローがある表現をした漫画無いかな
……手塚治虫がやってる気がする
あの人だいたい何でもやってるからな、あとで探すか
うーん、探し方が下手
wikipediaの「光輪 (宗教美術)」の「大衆文化における使用」の記述が少ないな
英語版だと……英語版の「Halo (religious iconography)」には大衆文化の項自体無いのか
うーんアメコミにもヘイローの使用あるかもだが、アメコミに詳しくない
ここまで調べたというメモ
なんかコレ!っていう本があれば読みたいんだが、この疑問をずばっと解決する文化史本は無いかもなあ
今週の『サチ録』、番外編15を読んだ結果
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こういう路線で調べていくのがよさそうか
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なぜ亡くなった人の頭上に「天使の輪」を描くようになったのでしょうかよろしく... - Yahoo!知恵袋
漫画の記号的表現としては昔からある定番スタイルですよね。 ディズニーのアニメにも、ヨーロッパのカートゥーン(cartoon)にも良く死者の記号として使われていますね。
人間は死ぬと天使になりますか | ものみの塔 オンライン・ライブラリー
アリーロという,まだ7歳の幼い女の子が亡くなりました。悲しみに打ちひしがれた両親は,柩に横たわる白いドレス姿の娘を前に,ぼう然としています。慰めようとして,神父がこう言います。「神様は,天使をもうひとりお望みになって,アリーロちゃんをお召しになったのです。幼子の魂は,今ごろ,神様のみそばで翼を広げて飛んでいますよ」。
死んだ人間の魂が天使になる,と信じている人は少なくありません。公式の教理として教えられることはまれですが,映画やテレビの連続ドラマでは,死んだ人が翼のある天使になって,生きている人を守る,という話がよく取り上げられます。
あなたはいかがですか。愛する人が死後に天使になると考えておられますか。聖書は何と教えているでしょうか。では,天使の本質について,また死んだ人の本当の状態について,聖書そのものが何と述べているかを調べてみましょう。
うーん、「死んだ人間の魂が天使になる」という発想は無いわけではないのか
それが転じて天使ではない死者の霊魂的な何かの頭上にもヘイローが描かれるようになった?
っていうかドラゴンボールつまみ食い的にしか読んだこともアニメを見たこともないんだよな
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ここら辺の本があるいは参考になるか
だいたい最終章は「現代における天使がどのような姿で描かれているか」みたいな話題だから、そこに期待が出来る
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英語圏の情報を探そうとしてもゲームの『HALO』ばっかり引っ掛かってやりにくいったらありゃしない
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そうだ、『トムとジェリー』で爆死したトムが雲の上でヘイローつけた状態で不満そうな顔してるってオチのエピソードがあった気がする
プレゼントボックスに入ったトムが針でめった刺しにされるシーンは涙なしでは見られない
やっぱり「死んだら天使になる」って発想がポップカルチャーである程度一般的に表現されていたようだ
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ってことは
天使や聖人を描いた絵画→死後に天使になる認識、またそれを表現したイラストやアニメ→天使ではなく単なる死者にもヘイローがつけられた
……か?
まだ足りないぞ
キリスト教の教義だと死んでも天使になるわけじゃない、それはカトリックだろうがプロテスタントだろうがエホバだろうが他の何かであろうがだいたい同じだろう
ヘイローは聖なるものの加護を表すからどんな死者でもヘイローは頭上に表れる?
でもトムは爆死して天使になっとるじゃろがい
まだまだ調べないと納得できないな
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ひょっとしたら演劇やミュージカル側の文化が関係している可能性もある
死者を表現する記号として頭の上にヘイローをのっけた衣装を着ていた……とか、あるかもしれない
一応留意して調べる事
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「池にコインを投げる風習はいつから始まったのか?」みたいなテーマでおととい調べて日記書いたときは、その風習を有名にした「Three Coins in the Fountain」っていうアカデミー賞受賞作品を見つけたんだよな
聖者の記号としてではなく、単なる死者の記号としてヘイローを使った何らかのヒット作品があったので一般化したみたいなキッカケがひょっとしたらあるかもしれない
しかしあんまりこの仮説に固執するのはよくないな、気長に探そう
あるとすれば19世紀後半以降くらいのはず
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そうか、調べるポイントが二つに分かれちゃったんだなあ
②漫画的表現で死者が天使となった描写→漫画的表現で死者に(翼など他の天使的要素抜きで)ヘイローのみが付与される描写となった転換点を探すルート
こりゃ大変だ、いったん追加調査ここまで
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次にやる事
→実は守護聖人の頭上にヘイローだけでなく、翼がはえているなどあったりするかどうか
:積んでるキリスト教入門みたいな本をさっさと読む
→なんもかんも体系的な知識が欠けているのが悪い
→でもなー、自分の興味の向き先は「キリスト教の教義はこういうものです」って知識じゃなくて「人々はキリスト教をこのように解釈して信仰していました」という知識なんだよなあ、基礎の勉強ってどうしても飽きちゃって
→第一次世界大戦は1914年7月28日~1918年11月11日、ちょうど探したい年代
:キリスト教的素養がない私がヘイローの描写を見たとき、それが宗教的な性質を持っているのかそれとも記号化したものなのかを区別できるのか?という点について考える
:そもそもヘイローがあって翼があったらそれは天使とみなしていいのか?「天使」って何?「御使い」って何?何もわからない、調べる
→基礎(略
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②についてだが「ゲームのドット絵でキャラが死んだことを表現するのにヘイローが便利で、ドット絵で翼を描くのが大変だったから省略された」という仮説を思いついた
流石にお話として出来すぎな気がする、この仮説は最終的に棄却することになりそうだ
しかし調べるとっかかりとしては魅力的
ヘイロー関係ないけど「ゲームで戦闘不能をどう表現するか?」というテーマを調べるのめちゃくちゃ楽しそう
また別の機会に調べよう
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「Heaven Cartoons」というジャンルの風刺画があるらしい
画像検索してみるとなるほど確かに天国で天使がなんやかんやする種類の一コマ漫画
いつ頃から描かれているかをちょっと調べてみたがなかなか難しい
Wikipediaの「カリカチュア」のページの「主な作家」の項に載ってる人の代表作を一つずつ見ていくしかない
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星新一がアメリカの一コマ漫画を蒐集してそれについてエッセイを書いた『進化した猿たち: The Best』をkindleで購入
権利関係の問題のせいかほとんど掲載が無くなってしまっているようだ
もっと挿絵を見たいから挿絵が載ってる物理書籍のほうを読まないといけないなこれは
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やっとひとつ見つけた
ざっくり言うと政治家が天に召されている様子の風刺画が1868年?1869年?に描かれた、ってところか
翼があり、ヘイローもしっかり完備
しかし余談だけれど死後4年後たってから風刺画が描かれていて不思議だ
なんか「天使になる」ってのは語弊があって「昇天するときに天使と同じ装いをする」という言い方の方が正確なのかもしれない
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トムとジェリー以前のオールドカートゥーンを片っ端から観ているが、天に召されるシーン自体を全然見つけることができていない
ところでチャップリンの『キッド』に天使が登場するシーンがあった
オールドカートゥーンの本当に初期の初期は紙の漫画をそのまま映像化したようなやつだったから、漫画の文脈だと思うんだけどな……
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『マーク・トウェインの天国建設の旅』という論文を見つけたが、これは読む価値がありそうだ
絵やイラストとして描かれていなくても天国に行くとヘイローと翼とハープが通行証かのように与えられる認識は当時の人々視点で昔からあったようだ
18~19世紀の文学作品で天国を描写しているものを探すべきだな
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Elizabeth Stuart Phelps Wardという人が書いた『The Gates Ajar』という宗教小説がアメリカで1868年に刊行されめちゃくちゃ売れたらしい
当時の人々の天国観に影響ありそうに見える
In contrast with traditions of Calvinism, Phelps's version of heaven is corporeal where the dead have "spiritual bodies", live in houses, raise families, and participate in various activities.
カルヴァン主義の伝統とは対照的に、フェルプス版天国は、死者が「霊的な身体」を持ち、家に住み、家族を養い、さまざまな活動に参加する身体的なものである。
とのこと(『The Gates Ajar』のwikipedia英ページより引用しdeepl翻訳)
うーむ、おぼろげに流れが見えてきた気がする
『マーク・トウェインの天国建設の旅』という論文の序文あたりに19世紀半ば以降に天国ものの小説が流行ったみたいなことが書いてあったが、その一因はこの小説な気がする
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そういえばこの日記メモには記述をしていなかったが、宗教美術におけるヘイローは写実主義の高まりによって19世紀までにほとんど衰退しているらしい
なので宗教美術において死者(例えば聖人、殉職者など)にヘイローが描かれたものがあったとしても、カートゥーンのヘイロー描写がその影響を受けているとはちょっと考えにくいのではないか
一度断絶しているのでは?という疑問を持っている
ヘイロー描写は一度衰退し、再び風刺画やカートゥーンなどで記号として便利なので復活したという前提で調べている
あー、いや……この前提本当に大丈夫か?自信ないな
19世紀のアメリカで人々が見ることが出来た美術や絵画はどのようなものだったのか?というのがわからないと正確なことは言えないな……
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自分が確認した限り、カートゥーンアニメで「死んだら天使の装いをして天に召される」表現をやった一番古いものは『トムとジェリー』の『ネズミ取り必勝法』
オールドカートゥーンを全て総ざらいして確認したわけではないからもっと古いのがあってもおかしくはない(アカデミー短編アニメ賞受賞作品すらすべて確認できていない)
幽霊は沢山出てくるんだけどねえ
『ネズミ取り必勝法』はアカデミー賞とる程度には人気だったので、カートゥーンにおける元祖でなかったとしてもビジュアルイメージ固定に大きく貢献したといっていいかも
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キリスト教の教義では死者は天使になるわけではない、という認識があった(今でもそうではある)
→19世紀半ばにスピリチュアルな小説が流行り、人々の天国観を変えた
→それは死後に霊的な体を持った死者が天国で現世と同じような生活を営むものだった
→たまたま印刷技術の発展とタイミングが同じで新聞の挿絵、風刺画、漫画などで聖人でもなんでもない普通の人の死者の絵が多く描かれるようになった
→死者に天使の装いをさせた風刺画、紙の漫画、カートゥーンアニメでビジュアルイメージが固定される(この時点ではヘイローと翼はセット、あくまで天使など聖なる魂的な存在(専門用語を適切に使う自信が無いので曖昧な表現)と同じ装い)
→日本でキリスト教の文脈が無視された記号的な描写がされ、ヘイローのみで死者を表す記号的表現となる
……という流れだという仮説を立てることが出来た
うーん、自信ない
「18世紀以前に普通の死者も天に召されるときは天使と同じ装いをするという認識があった」と言える材料を見つけることができていない
印刷技術が生まれる以前だと絵画にそこらへんの人が天に召される絵なんて描かれないんだよなあ
探すとすれば厳格な宗教者が教義通りに書いた本でなく、人々を慰撫する目的で教義からすれば不正確な内容が書かれた本みたいなのがあればあるいは……(というか、それが『The Gates Ajar』なのよ)
また、『The Gates Ajar』などの天国観を変えるイベントによって死者が天使の装いをするようになった、とある程度の自信をもって言えるような材料は正直見つけることができていない
しかし、とりあえず一定のレベルで納得は出来たからこの疑問はクローズ
それは母親が圧倒的に正しい
あれは端的に言って「痛い」以外の何物でもない
変にヒットして視聴者層が広がってからチョコチョコ挿入される感動ポルノばっか注目されるようになったけど、あれ、そもそもポリコレ・キャリア志向で快楽・自己中心主義の現代女性とそれが好んで属する浅薄なコミュニティのカリカチュアだからね。正しいはずなのに幸せじゃない、賢いはずなのに何が幸せなのか分かってない女達の自嘲コント
一応言っとくと、ポリコレ自体が間違いなんじゃなくて、根底にあるのは自分の我儘だけでそれを正当化するためにポリコレを振り回すんだけど、それ自分が小賢しく見える以外に意味あんのっていうね
ちゃんとチクリ、チクリと刺さるように作られてるんで、あれ見て自分を振り返って自分も自嘲するならまだしも、ああいう世界に「憧れる」っていうのが二重に痛い
あれが増田の母親のどこにどう刺さったのかはわかんないけど、特に奔放に生きてきたわけでもない、社会や家族に気を使って生きてきて、時間も体力も使って子供3人も育てて、その上で快楽のためでなく自立した個人としてあるために自分のキャリアを苦労して確立した人があれを見たらイラッとするだろうなというのは想像できる
相撲の面白さによる魅力なのか、ピンポン的な青春スポ根の面白さなのか。体格の圧倒的なアドバンテージ=才能の話で染谷将太に説得される所はまんまアクマのアレじゃんって思った。稽古パートのフルメタル・ジャケット的な面白さもあり。キャバ嬢とかトレーダーのくだりはあんまりかな。相撲の動機にまつわる話として必要なのかもしれんけど。静内のサスペンス要素もそこまでかな。松尾スズキとピエール瀧のバチバチは割と好き。
でもやっぱ早ければ一瞬で終わるスピード感は相撲特有の面白さだよな。立ち合い(?)の瞬間の静寂も好きだ。
頭突きもアリなの知らんかった。殴る蹴る寝技がダメならほとんどダメやんけと思ってたけど、鍛えまくった重量級の男をしてそれ以外はほとんどOKという恐ろしさを改めて知った。中継で涼しい顔してる力士はすげえや。
角界の因習については主人公がカス過ぎて先輩達の対応も割と妥当に見えるというか、何なら優しい方じゃね?ってすら思う。
帰国子女設定の記者もかなりカリカチュアされてるというか、現状にいきなり突っかかっていく所があまりスマートな感じがしないし、その辺で相対的にマシに見えてしまう辺りは意図的にやってるんだろうか。そういう事があるから相撲がより魅力的に見えてしまうんだろうか。「ああ異常だよ。ただな、その以上の先に〜」みたいな台詞もあったし、やっぱり自覚的なのかな。
主人公が相撲に目覚めるのと並行して社会性を身に着けていくかと思ったら、別にそんな事はなくて田舎ヤンキー(実物を知らないのでおれの想像上の)しぐさをかましまくるのがなんかウケる。それが痛快な時もあるし、「冗談や〜ん笑」みたいな言い草がクラスにいたイヤなタイプのカスを思わせる事もある。
オタク差別なんてなくなったのに、40代以上の世代が依然オタクバッシングをしてくるという話
2010年代以降なくなったのは、アニメやアイドルオタクへの差別でしょう
むしろ、鉄オタ、とりわけ撮り鉄への差別は入れ替わりに激しさを増してる
キモくて周りに迷惑をかけているのだから当然だと思われてるがその認知が差別そのものなのだ
キモくて迷惑をかける存在(と思われてるもの)は差別されるのだ
40代以上にはアニメ/アイドルオタクがキモくて迷惑をかける存在という意識が残ってるので依然バッシングをするのだ
かつて宅八郎というベタっとした長髪で眼鏡をかけて紙袋とマジックハンドをもってアイドルを追い掛け回す、オタクのカリカチュアとしての存在があった
連続幼女誘拐殺害というおよそ許されざる禁忌をおかした宮崎勤から端を発したオタクイメージの象徴……80-90年代にはオタクは今の撮り鉄同様、(実態はどうあれ)気持ち悪くて迷惑をかける存在だったのだ
しかし00年代の中川翔子の登場からオタク趣味を公言するアイドルなどが増え始め、2010年代以降は世代交代が進むにつれオタク趣味がキモくて周りに迷惑をかけるイメージが徐々になくなっていった
2020年に宅八郎が亡くなったことは、キモくて迷惑をかけるオタクが消滅した象徴であるかのような出来事であった
しかし宮崎勤の事件や宅八郎のムーブメントがあまりにも強烈だったゆえ、それを知る40代以上はいまだに「キモくて迷惑をかける」存在としてのオタクの悪いイメージが消えていない それだけの話だ
90-00年代頃までは根暗な趣味のひとつではあったが、今ほど悪いイメージはなかったと思う
宅八郎のようなカリカチュア化された存在はいないが、迷惑行為の動画拡散という10年代以降のネットムーブメントにより急速にイメージが悪化していく