はてなキーワード: 大奥とは
あれちやほやとはほど遠くて、
女社会のパワーバランスを考えて手を出す相手を選ばなきゃいけなくて
難しすぎて選ぶ役の人を立てて、波風立てないように夜以外は接点なかったらしいぞ
窮屈すぎるだろって思った
googleくんが「ReGLOSSのアルバム~」とか記事をサジェストしてきたのだが
あれ?ReGLOSS(ってボーイッシュ担当の火威青って人がいるトコだよね?
でもようつべで上がってきた「ReGLOSSで北海道!」みたいな動画は4人できゃっきゃしてる。
ナニコレと思って調べてみたら
火威青さんは長期療養中らしい。
動画ざっと再生したけど、随所で映るぬいも4人分しか出てきてなくて
もう完全に火威さんを亡き人として扱ってない?
なにコレ怖い、いじめか? バーチャル上履き隠しか? バーチャル机に花瓶置きか?
てかさぁ、ReGLOSSの誰ひとり、火威青さんのぬいを持ってくことを考えなかったの?
何のためにぬいがあると思ってんの?
てか本当に、ReGLOSSの誰一人、ここに一人足りないねって思わなかったの?
(動画全部見たわけではないので、どこかで言及あるなら指摘してほしい)
さらにぐぐったら、その火威青さんと「温泉旅行に行ってきました」と
にじさんじの狂蘭メロ子さんが報告してて変な笑いが出た。
なんかさぁ、グウェル卒業で後輩(男)のが酔っ払いながら「なんでやめちゃうのー」って泣け叫んでるところへ
遅めの風呂から上がってテレビをつけると、極彩色の画面が広がっていた。独特なキャラクターデザインと、色彩、演出、ストーリー、何もかもが魅力的であっという間にファンになった。
そんな作品が今月新作映画を出したので見に行ってきたのですが、面白くなかった。
私が見に行ったモノノ怪という作品は、凄く雑に説明すると非業の死を遂げた女性の思いが妖怪になって人々を襲うという話です。
すっごいゴテゴテした画面で、キャラも濃いヤツばっかなのですが、女性の無念を晴らす話なんです。
加害者が謎の妖怪に殺されて、その妖怪の正体をつきとめて薬売りというキャラが倒すというのが毎回の流れです。
なので今回の映画も女性が主役なのですが…………なんか……こんなに綺麗事並べる作品だったっけ??………え?…………もっと嫌な奴は嫌な奴だったじゃん……気色悪い中年とか描けてたじゃん??ん??………
女同士だからって分かりあえるわけねーだろ、いい加減目ぇ覚ませ!!!!!聖母化きっしょ!!!!!
うん、3部作だから1部は説明多めでストーリー薄くなるのは許せた。でも、1部でも2部でも大奥で働く女性がそんなに性格悪くない。嫉妬したり、陰謀を企てたりはするけど、あっさり死んだり、あっさり和解する。
なんか、女性が人間らしくないんですよ。女性を醜くかけって言いたいんじゃない、女性をもっと人間らしく描いて欲しい。
という感じで1部、2部ともに終わってる。
「恨んでるわけじゃないよ⟡.·*.」
なのもキショい。
周りの勝手な振る舞いにイライラしたり、怒ったり、泣いたり、どうにも抑えきれない感情に振り回されるのが人間じゃない。そういった人間臭さ故に、妖怪になるぐらい後悔抱え込んで死んだ人間だからこそ薬売りに切られてやっっっっっっと魂が現世から解放される!それがいい!人間臭さの煮こごりである妖怪が退治されるのが見たいのであって、女性は気高く美しい存在って描かれても全然嬉しくもないし面白くもない。
お前絶対妖怪になんてならねぇーよ!!て奴しか出てこず、正直3部見に行くかどうか悩みます。
で、なんでこんなに面白くないと感じるのか。さらに突き詰めて考え、思い至ったのがフェミニズムです。フェミニズムのせいで私は価値観が変わり、モノノ怪が面白くなくなってしまったんだろうなと。
だって5年前の作品だったら文句無しに面白いと思えたし、大絶賛してた。そしてSNSでももっと話題になったはず。
でも、全然話題になってないんですよ。価値観が古いままだから。
「舞台が大奥なんだから価値観古くて当たり前じゃん」と思うかもしれませんが、モノノ怪の一番最初の作品である化け猫は今でも面白いです。
昔の悪習である、花嫁をさらってきて自分のものにするっていうことの悲惨さが今見返しても本当によく描かれています。
少し前に夜這いについて女性側から「あれは酷い文化だった」と声が上がりましたが、化け猫にはそれと同等の力があると思います。嫁にされる女がどれだけ都合よく美化され、虐げられ、そして死んだのかが本当に丁寧に描かれています。
一方、大奥はそうではありません。
大奥の機能や、女中達の役割について語られはしますが、世継ぎを作るためのハーレムが故の怨恨というのは軽く描かれています。
おとぎ坊主とか、情事を監視するキショ役割なんだからもっとキショくかけるのに、小物として出てきて割とさっさと退場します。
化け猫に出てくる加害者は男も女もキショくて最悪な行動をちゃんと描写していたのに……
なんというか、テレビシリーズの時は女性が置かれている現実の悲惨さを伝える役割も担っていたと思います。
しかし映画版ではあまりそれがない。大奥という特殊な環境が悪いのか、女性が社会で人間として扱われないツラさみたいなのがあまり伝わらない薄い作品になっていました。
必要のない愛想笑い、男のしりぬぐい、母親としての役割、もう全部やめましょう。男がしなくていいなら、女だってしなくていいだろ。
そういう叫びが女性から上がっている中で、第2部の終わり方はなんというか……母親は強しってことですか?親族は結局何もしないの?殿様は?結局男の権力者に笑って媚びを売るだなんて時代遅れすぎじゃない?
子供のために生きる母親はいてもいいよ、でも、置かれている状況は改善して見えないのでモヤッとします。親父と弟もっと頑張れや。
そして、シスターフッドモドキ。
うん、もう、モドキだよ。
第1部も百合匂わせて、空気読めない女が空気読めないまんま出てくだけ。
主人公がガチ恋レズなのに女の役割押し付けられて病んで死んだとかの方が納得できる。話としてよくある陳腐な感じにはなるけど、女性に寄り添う作品だったはずが……なんか、社畜バリキャリ賛歌って感じでした。
ちなみに2部もバリキャリ女が、寵愛されてる女と、和解してます。別に和解しなくてもいいんだよ、立場が違うんだから嫌いあっててもいいんだよ。ぶつかり合いながら一緒に仕事しなよ。
別にさ、同性だからって完全に理解することはできないんだよ。実際にフェミニズム界隈でも、子持ちと子なしでは意見は分かれてるので、なおのこと「綺麗事だな」という気持ちが後押しされた気がしました。
女性は自分を庇護する男性を悪く言えないので、最近では「名誉男性」と言われる女性や、イタズラをする男児を庇う「男児ママ」がフェミニズム界隈では嫌われる傾向にあります。
元々みんな嫌いだったんだろうけど、黙ってたらいつまでも「嫌だ」と思っているのが伝わらないと気づいた女性たちが、同じ女性を避難しているわけです。
そんな最近のフェミニズム界隈を見ている身としては、モノノ怪はすっっっっっっごいご都合主義で綺麗でつまらん。
別に人の争いが好きなわけじゃないし、正直感動した部分もあった。あったけど、主役声優変えたくらい心意気がある製作陣だと思っていたせいか、時代遅れな女性像にシラケた。
だらだら書きましたが、モノノ怪はキモ加害者が出てこない上にキラキラ女子ばっかりで面白くなかったです。もっと尖ってたじゃん。尖っててくれよ。
安定のモノノ怪感
・普通に良かったが一章があんまり興行的に微妙というよくない噂を聞いてしまったので「作成のリソースとか大丈夫なんだろうか…」と勝手に心配しながら見てた
・もう思春期思い出ブーストがかかってるので3作目も映画館で観ますが…
今回のモノノ怪は最新の価値観「人材には替えがいるので自分だけにしかできない「お勤め」なんて無い」とかでええな〜と思った
(人手不足で倒産する企業〜とかのニュースがあったがあくまで大奥世界に関わるような優秀な人材はなんぼでも申し出があるから…)
・一瞬、「天才レベル作画から秀才レベル作画になったけど大丈夫そ?」となった瞬間が2,3回あり一章の興行の噂もあり「で、でも自分は3章、ぜってぇ観に行くから!!!」ってなった
もう「情」
・神谷さんと櫻井さんの声の聞き分けができんくなった 正直言って「櫻井さんボイスだったらこのうめき声とかクッ…!的な声でもっとオタクをときめかせられたかも…!」というのはあった でもやっぱりツル確がよぎるからダメ
ブクマの「自分or自分の親しい人が浮気されてとてもショックで自分に言い聞かせてる」ってのに一票だけども。自覚ありなしに関わらず。あえて違う面から「男は生物的に複数の女とセックスしても仕方がない」を否定してみる。
鳥は一夫一婦制がとても多い。ペンギンとか。子育ても一緒が多い。
調べ直したら、日本オオカミもそうらしくて絶滅したらしい。なので人間という生き物が一夫一婦なのは大きな括りで見たら少数かもだけど別にそこまで不思議ではない。
②生き物という面で見たら同性愛は?
①の続き。実は羊などオス同士で番になる動物も以外と多い。ですが人間はとても愚かなので同性愛は不自然だなんだと怒ったり、バカにして笑いする。
反対に平安時代あたりは女とセックスするのは穢らわしいって文化が僧侶達に流行って男同士なら平気♡などの戯言をのたまってショタコン生臭坊主だらけだった。てか戦国時代の武将達も自分専用の小姓(美少年)を持つのは何ら不思議じゃなかった。
もうお解りだと思うが人間なんてものはその時の文化や環境や流行りでコロコロ言う事を変えます。昭和の「男は生き物だから〜」なんて言い訳も、令和が終わる頃には「まじキモオジ概念時代遅れ」ってなっててもおかしくありません。(独身貴族とか貞操概念とか夜這いとか何でもそう)
③そもそも一夫一婦はなぜあった?
戦国時代なんかは一夫多妻制でした。ではどうして一夫一婦になったのか?
女の人の人権向上のため?どうやら違うみたいです。
むかーしむかーし、戦国時代では男が駆り出されて武士(もののふ)として戦っていました。そうなると男は皆戦って〇にます。運良く生き残っても現代医学なんかはありません。怪我が悪化してピーにます。そして残ったのは未亡人。このままでは生きていけないので、正妻のいる商人やら別の農夫に妾で嫁ぎ直します。お金を持ってるので、自分に子どもが居た場合でも助かります。はい一夫多妻の完成。
もちろん、皆さんご存知の後継を残すための意味合いで殿様さんが最初から多妻な場合もあります。現代医学はありませんので赤子は死にやすく、成人してもぽっくり死ぬ可能性もあります。殿様は子どもは何人居ても困らない、とか何とか言って大奥と子どもを作りまくって財政難になりかけた家斉さんっていう方が既に居ます…。つまり、一夫多婦なのはその時代のそれなりの理由もあって男=皆好色では無いって事。
(当たり前ですが普通農夫達のお嫁さんはひとりだけです。失礼ながら増田さんは農夫ですか?殿様ですか?)
諸説ありますが。女性の社会進出説と、質より量説があります。(廃止は明治時代)
社会進出…一夫多妻制=男尊女卑の塊です。だけど女でも賢い人いるし、男女平等になればなるほどGDPが上がるって気づき始めた。(←わかりやす!)てか、人口の半分を蔑ろにするのはさすがに無理ある。
質より量…1家庭に子どもを含めて10人つくるより、2つの家庭で子どもを4人つくって、子育て資金を回して勉強させたほうが国家的にも家的にも利益率高い。一夫多妻制だと、1人のアラブ王に20人取られて男性弱者はしぬ。
たぶんこの辺は戦争に勝つために〜みたいなのもあるはず。
あとブーム説もあります。(鎖国解かれて津田梅子さん留学からの欧米文化やキリスト教輸入)
(そもそも日本では血族よりも家の継続ほうが重きを置いているような気がする。養子めちゃとる)
⑥そもそも生き物だと自然だから〜って好色だけいい所取りするな!!!
例えば。
クマのメスは発情期になると、オスから種を貰い、その後メスがひとりで妊娠(冬篭り)と子育てする。父親クマは自分の種をばら撒くため別のメスを探しに離れる。
小熊が無事生まれても、父親じゃない雄クマに狙われて小熊を殺される事がある。子どもを殺せば母親が子孫を残すために目の前にいる自分の種を貰おうとするからね。
なあ、これが人間なら非道って思わないか??少しでも思ったならそれが人間と生物との違いだよ。
こんな文明が発展してるんだからそうそう滅びるわけないし。繁殖のために生まれつき目の悪いやつは結婚するなって言われて納得できる?男性恐怖症の女の人に生物的に将来は男の人と絶対結婚しなさいって言える?できないっしょ?
私は彼氏が浮気したらキモイ罪や不快罪を適用するよ。そんで自分は絶対浮気しない。それでいいじゃん。生物的に正しい正しくないじゃない。それが人間のいい所で悪いところだよ。
「結婚しなくても幸せになれるこの時代に、私はあなたと結婚したいのです」 このゼクシィの言葉素敵じゃない?
ふーん。例えが極端だって?
じゃあそこら辺で糞尿してろよ。コンビニとか絶対探すな。自然な事だろ!!だけどな!!!インドはそれで不衛生だから平均寿命短けーーんだよ!!!!
人間が長年かけて作り上げた文化を!!!知恵の集合を!!!!都合いいように否定すんな!!!先進国に生まれたんだから!!先進国の人として真っ当に理性保って受け入れて生きろ!!!
以上。
まあ、私だったら①だけ採用して、自分は生き物でも鳥タイプ!鶏みたいに3歩歩いたらすぐ忘れるしーw、とか冗談混じりに言い切って「僕は君とおしどり夫婦になりたいの!!!」とか上手い風にプロポーズしますね。
https://anond.hatelabo.jp/20241010224911から続く
おしんの物語の根底を流れているのが、「恩」であり「仁義」であるということをこれまでの感想でも書いてきた。おしんイコール辛抱する精神というイメージが広く流布するなか、金儲けに走った息子の根性を叩き直すために、田倉家を滅ぼしてでもライバル会社に利する行動に出た、という物語のハイライトは、意外にもあまり注目されていない。私も正直なところ、全話を通してみるまで知らなかった。
おしんは一代記ものとしては、タイムスケールがとても長い。おしんは1901年、昭和天皇と同年に生まれた設定である。
そしておしんが生きた少女の時代から後期高齢者の83歳になった1984年まで、それぞれの時代があまりにも違い過ぎるので、1983年の田倉家のシーンから明治の回想シーンに時代を一気に2世代くらい遡るときのタイムトリップ感が半端ない。
1983年、おしんが息子・仁を裏切って、並木商店への説得どころか、積極的に大手スーパーへの並木の土地の売却を進めてくれとお願いした背景には、並木商店の隠居の大旦那・並木浩太に対する並々ならぬ恩があるからである。
それは、どのような恩だったのか。おしんは息子たちには何も過去を語ってこなかったので、仁には知る由もなかった。そもそも並木浩太とは何者なのか。
おしんも誤解されるのが嫌でそれまで息子には一度も語ってこなかった。しかし、前年の1982年、17号店進出を知ったおしんが息子の行動を阻止しようとしたとき、仁は、それが母の初恋の人への配慮であることを悟る。そして、仁はいう。商売ってそういうものじゃない、「母さん、みっともないよ。」と。今風にいえばいい歳してエモいことを言い出してんじゃねえよと思われたのであろう。案の上、誤解されてしまったおしんであったが、なすすべなく工事は進み、ついに開店当日を迎える。おしんはこれまでの人生の回顧の旅に出るのである。
おしんと浩太のいきさつをかいつまんでかくのも、がっつり書くのもいずれもけっこうしんどい。しかし、今回のテーマの「股旅物」がわかるように、ややガッツリ目に書いておこう。股旅とは、大正時代に生み出された物語の類型のひとつで、一宿一飯の義理・人情に従って流浪する物語であり、多くは渡世人・やくざなどが主人公である。股旅物の元祖・長谷川伸は、その後の日本の小説や戯曲、そして映画やテレビドラマに至るまで多大な影響を与えた人物である。「飢餓海峡」で知られる水上勉は、長谷川伸の「夜もすがら検校」を読んで作家を志したことはよく知られている。「夜もすがら検校」を発表したのは1924年である。明治が遠く過ぎさり、大衆が大正デモクラシーの自由への過大な期待から人々が少しずつ醒め始め、もう一度生き方を見直そうしていた時代である。
おしんは回想シーンだけをみると、浪花節にあふれた、まごうことなき股旅物である。しかし、おしんの物語の面白いところは、浪花節が陳腐化し、古臭いものになってしまった現代(1980年代)と交差している点である。
並木浩太とおしんの最初の出会いは、おしん16歳、山形酒田の米問屋・加賀屋へ奉公へ来てから7年が経った頃だ。おしんは、加賀屋の跡取りの長女・八代加代と姉妹同然に育ちながらも、大奥様・八代くにからは、肉親の孫娘・加代よりも商売のイロハから茶道・裁縫など良家の子女としての教養を徹底的に教え込まれていた。このときくにの指導によって身に着けたものの考え方や教養が、のちのおしんの人生で役に立つのである。加代はというと、将来は良家から婿をもらって加賀屋をどうせ継がさせられる自分のつまらない運命にうんざりしていた。絵画が好きだった加代は、東京で別の”自由”な人生があるのではと夢をみる少女だった。そんな折、農民運動の活動家・浩太と出会った。酒田に訪問した際、官憲の目を逃れるためにおしんとお加代に助けを求めたのが最初の出会いである。おしんとお加代は同時に、浩太に恋心をもってしまう。大正デモクラシーの時代だった。インテリかぶれした加代は平塚雷鳥の本を手元におき、人形の家を著したイプセンなどに憧れを抱いていた。当時、大衆のなかで勃興していた人権運動を先進的だと中身もわからず憧れていたのである。農民運動、カッコいい!加代は浩太の活動にロマンを感じて恋に落ちてしまった。一方、おしんは、土地を持たない小作農民の自立を助けたい、という浩太の純粋な思いに心を打たれていた。おしんも小作の娘であった。小林綾子が主演した「おしん少女編」では、おしんの母・ふじが冬の川に下半身を沈めて妊娠中絶を図ったり、小作農民の悲哀がこれでもかというくらい暗く描かれていた。そしておしんは冬の川に入った母の姿をみて、6歳で材木問屋へ奉公へ行く決心をしたのである。いかだに乗って、母ちゃんと叫ぶ、有名なシーンのアレである。
ともあれ、加代とおしんは同時に同じ男性に恋をした。そしておおらかで情熱的な性格の加代は恋心を隠すことができず、おしんに打ち明けていた。そしてやがて加賀屋の跡取り娘でありながら、何もかも捨てて浩太へ会いに東京へ家出してしまう。しかし、おしんは、奉公先の跡取り娘であるお加代様の恋を大切に思い、自分の思いはそっと封印した。一方の浩太は、東京に出てきた加代の猛烈な求愛を受け止めつつ(東京で加代と同棲までした)、本心は最初からおしんが好きだったのである。
おしんは加代の家出の理由を加賀屋に伝えることが忍びなく、おしんは加賀屋から暇をもらって帰郷する。帰郷したおしんを待っていたのは、おしんを女郎部屋へ売り飛ばそうとする父・作造と口利きの男であった。さらに実家で目にしたのは、奉公先の製紙工場の過重労働で健康を害し、肺結核で放り出され、今や死を目前にした姉・はるの姿であった。いまわの際に、はるは女衒に騙されそうになっているおしんを救うべく、自分の夢が髪結いになることだったことをおしんに告げ、東京の知人の髪結い師匠・長谷川たかの住所を訪ねるように、伝えて息絶えた。
一方、加代は、浩太の心がおしんにしか向いていないことを悟り、浩太のいない東京を去り、加賀屋を継いで見合い結婚する。
こうして、はる姉ちゃんが叶えなかった夢を託されたおしんは東京へ出た。女郎部屋を売り飛ばそうとした父のいる故郷に心を残すものはなかった。髪結いの師匠・たかは、江戸時代から続く髪結いの昔気質な職業観を持った女性だった。一人前になるための6~7年の下積みの苦労は当然であり、弟子には甘えを許さなかった。
しかし、大正という時代は、江戸から明治まで続いてきた日本髪の伝統の衰退期であった。大正浪漫とか大正モダンと言われる時代が到来しており、洋髪が東京で流行し始めていた。おしんが修業している3年間の間に大きく時代が変わりつつあったのである。
大衆は身分から解放され、より自由な髪型を求めるようになっていた。髪型をみれば、人妻なのかそうでないのか、はたまた、その人の職業や身分がわかる、という時代は終わりつつあった。弟子入りなんてせず洋髪の専門学校をでて、理髪を仕事にする時代がきていた。おしんには洋髪のセンスがあった。たかはおしんに独立をすすめる。たかはいう。「昔は厳しかったんですよ。6年も7年も修業してやっと一人前になったら、それからまた、お礼奉公をして。10年近くもただ働きをして覚えたもんなんですよ。そんなことは今は通んなくなっちまったけど。やっぱりご時世ってもんですかね」。これは紆余曲折を経ておしんがたかの元から独立し、その後、客先で出会った男性・田倉竜三と結婚の挨拶にたかを訪れたときの言葉である。その時、5人いたたかの弟子はついにたった一人だけになっていた。
田倉商店を竜三の妻として支えるようになったおしんであったが、商売は順風ではなかった。おしん夫婦を陰で支えていたのはたかであった。田倉の経営が傾くと、おしんはたかを訪れ、髪結いをして夫を支えた。たかもまた、洋髪の時代におしんの才覚を必要としていた。客商売は人の縁、ひととのつながりを大切にすることだと心に刻んだのはこの頃である。
一方、田倉商店は開店休業状態に陥るほど経営が悪化していたが、おしんが髪結いで稼いでいたので竜三はプライドを傷つけられ、すっかりおしんが稼ぎ出した金で遊び歩くようになってしまった。師匠たかに相談すると別れちまえという。「ダメな男はどこまでいったってダメなんだよ」とすっぱり切り捨てるが、おしんは亭主をダメにしたのは自分だとと気が付いた。夫の更生のために妻の自分は黙って夫についていく姿勢を示すことを決意し、長谷川洋髪をやめることをたかに申し出る。稼ぎ頭のおしんに辞められるのはたかにとってもつらいが、受け入れる。やがて蓄えもつき、明日食べるコメもないどん底におちて初めて竜三は再起を決意する。しばらくは順調に田倉商店の再生が進んで、おしんの洋裁の才能も手伝って、田倉は子供服店を開店することになった。しかし、その直後、関東大震災がおしん夫婦の夢を完膚なきまでに打ち砕いてしまうのである。工場を火災で焼かれ、絶望した竜三は「佐賀でゆっくり休みたか。おしん佐賀はいいとこばい。。。」といって佐賀への帰郷の心を固める。竜三は大地主の三男坊なのである。こうしておしんにとって地獄の佐賀編がスタートすることになった。
さて、佐賀に三男の嫁として入ったおしんを待ち構えていたのは、姑による徹底的な虐待だった。数か月もすると、おしんは佐賀地獄からの脱出を心ひそかに誓い、東京の師匠たかのもとに、東京に戻りたいと手紙を書くのである。たかの元にいけば助かる、自分の腕一本で生きていると信じた。必死の決意で脱出し、やっと髪結いを再開しようとするも、さらなる不幸がおしんを絶望に突き落とす。佐賀で夫に振るわれた暴力が原因で、右手の神経に麻痺が残ってしまっていた。髪結いを諦めざるを得なくなった。
こうしておしんの流転の人生が始まる。屋台出店から始まり、故郷の山形、酒田と流れ流れ、ついに浩太の紹介で三重の伊勢の魚の行商に落ち着き先を見出すのである。佐賀に残った夫といつかは一緒になれると信じて手紙を書き続けるのである。
【キーワード:浩太の恩】
浩太の実家は貴族院議員の父を持つ、太い実家だと先に書いた。しかし、浩太にとって本当のやすらぎのふるさとは、おばの伊勢の実家、網元のひさの家であった。浩太は、流浪の人生を送るおしんを見かねて、伊勢で網元をやっているおばのところに下宿し、行商を勧めるのである。これまで米問屋での奉公に始まり、ラシャ問屋、子供服洋裁、洋髪・日本髪、農家の嫁地獄、酒田の飯屋をやってきたおしん。めし加賀屋は加代とおしんが切り盛りし、おしんにとって加代の元気な姿をみた最後の思い出となった。その職業遍歴に今度は魚売りが加わることになった。
伊勢に来て、笑顔を取り戻したおしん。竜三もおしんと魚屋をやる決意をしてくれ、おしんの人生は好転し始めていた。
一方、加代の人生は、暗転した。加賀屋本体が夫の先物取引の失敗で負債を抱え倒産した挙句、夫は自殺してしまう。八代家の両親は過労で衰弱、入院費を工面するために加代は借金のかたに売春宿に沈められてしまう。両親は相次いで亡くなり、生まれたばかりの希望を抱えた加代をみて、おしんは救出を誓うが、借金の額に手が出せなかった。加代は翌日酒を煽って死んでしまった。希望は田倉で引き取ることにし、加賀屋の再興を果たしたい思いから、養子にはせず、八代の苗字も変えなかった。
一方、浩太は長く続けてきた農民運動に行き詰っていた。治安維持法により、弾圧が厳しくなり、ついに6年間も投獄され、苛烈な拷問の末、転向を迫られた。敗北者となった浩太は、心身の傷をいやすために伊勢のおばのところに帰るのである。すっかり引きこもってしまい、おしんとも口を聞こうとしなかった。やがて、浩太は実家の縁談に応じて、並木家へ婿入りすることになって静かな人生を送るのである。やがて少しずつおしんとも再び心を開くようになるまで十数年を要した。
田倉家では、雄、次男の仁、そして希望がすくすくと育っていった。雄は戦争で亡くなるが、戦後も仁と希望は兄弟のように母おしんの魚屋を支えていた。大人になった仁が商才を発揮する一方で、希望は商売に向いていない自分を見つめ直し、自己実現のために陶芸の道を歩みだす。
屈折10年、陶芸の師匠の元で修業した希望がようやく独り立ちできる時期が来た。そのときに、希望のための釜・新居の支援をしたのは浩太である。お加代さんとの縁を思い出してのことである。浩太は、折に触れて田倉家のおしんを見守るように生きていた。おしんがセルフサービスの店に挑戦するときも、銀行からの借り入れにあたって、浩太は並木の自宅を抵当にいれてくれたこともあった。
さて、長いことおしんの半生を振り返ってきたが、一旦冒頭の仁のセリフ(1983年の場面)に戻りたい。
仁が17号店の出店を並木商店の近くに計画していることを知っておしんが反対したときのことである。初恋のひとに迷惑がかかる?「母さん、みっともないよ。」というのが仁の反応であった。しかし、もし仁が母おしんの半生をもう少し知っていればそんな言い方はなかっただろう。おしんは人の恩に深く支えられて生きてきたのである。田倉スーパーの出発点となったセルフサービスの店にしても浩太の支援があってこそであった。
ここには、自ら築き上げてきたスーパーの廃業も辞さないおしんの思いは、長谷川伸の「夜もすがら検校」で大切な琵琶を燃やしてまで恩に報いたい思いと通じるものがある。
ドラマの構成として興味深いのは、おしんの半生を、徹底的に(一年間のドラマの大半部分を費やして)一宿一飯の義理人情で「世話物」的に(つまり当時の生活感覚として)描いておきながら、おしんが戦後~現代にいたる高度経済成長でおしん自身が義理人情を忘れてしまったことに気が付く、というメタで重層的な構成である。おしんにしても、商売は食うか食われるかだ、という厳しい姿勢で戦後を突っ走り、16号店までたのくらスーパーを事業拡大させてきた戦犯なのである。それが今になって17号店は昔に世話になった人に迷惑がかかるから反対、はない。突然反対し始めた母を見た1983年の仁の目からは、義理人情なんて古臭いものだという感覚であり、母の物語は「世話物」ではなく完全に「時代物」なのである。大切なものを置き忘れてしまった気がしたおしんは問題の17号店開店当日、失踪する。この世話物と時代物が交差する、ところもドラマおしんの魅力である。
大奥ってのがあったらしいぞ
6月頃から見始めたおしん。ついに最終回に到達した。全297話を一気見して感慨深い。おしんは明治に生まれ、大正昭和と激動の時代をたくましく生き抜いた女の一代記である。
これまでも2019年頃に再放送された際に断片的にはみていたのだが、フルバージョンで通してみたのは今回が初。全篇を通してみて、いろいろと誤解していたことも多いことに気が付いた。
全く違った。もちろん困難に負けないといった不屈の精神みたいなテーマもあるし、海外ではむしろそこが受けたのだろう。しかし、おしんの本質はそこだけではないというのが全話みた感想である。豊かになるにつれ老害化してゆくおしんの姿は、立身出世物語にありがちな主人公の聖人化とはむしろ逆行していた。
いや、もちろん少女時代の奉公先での過酷な試練は、おしんのイメージともなっているし、全編通して苦労が絶えなかったのは確かである。それに耐えようとする根性もみせた。しかし、おしんは最初の奉公先である材木問屋からは逃亡しているし、佐賀の豪農の嫁となってからは、姑の嫁いびりに耐えきれずに幼い一人息子を奪うようにして家出している。7歳のおしんが座木問屋で受けた仕打ちにしても、24歳のおしんが佐賀の田倉家で受けたイジメにしても、視聴者から見るに堪えないとのクレームがあったほどのもので、おしんが耐えきれないのも無理はないものである。特に壮絶だったのは、妊娠したおしんに対する佐賀の姑の仕打ち。まかり間違えば自分が命を落としかねない危険な死産を経験したおしんはついに、佐賀の家を離れ東京行きを決意する。朝ドラとしては、佐賀時代は1ヵ月以上もあり、視聴者にとってもきつかっただろう。なにせ毎日いびられ、佐賀時代におしんが笑顔を見せることはなかったのだから。朝から気持ちを明るくさせるという朝ドラの使命を真っ向から放棄した凄まじく理不尽な展開だった。
後年、佐賀の姑・清を演じた高森和子は、こんなことを言っている。
佐賀編で、田中裕子さん演じるおしんをいびる田倉家の姑・清を演じた高森和子さんも「私はさほど厳しいと思っていなかった。きついといえばきついけど清から見たらおしんのことを我慢できない部分も当然あっただろうし。だから憎まれ役のつもりはなかった」という。ところが、まず舞台地の佐賀からどっと清に対する反発の声が上がった。「役者冥利に尽きるとも言えるけど、そんなに怒られると思わなかったので、最初は少し落ち込みましたね(笑)」。とはいえ、高森さんもおしん役の田中裕子さんの熱のこもった演技に、いびる立場でありながら「あまりにかわいそうで」思わず涙したこともあったようだ。(NHKアーカイブより)
さほど厳しいと思っていなかったという回想は、放送から40年後に、おしんを視聴した私にとってはむしろ衝撃である。なるほど、あの姑・清の行動にリアリティがあるのはそのためか。清の役柄を完璧に理解してこその発言である。プロとしかいいようがない。おしんの娘が死産した際、ほぼ同時に出産した娘・篤子には乳が出なかった。困った清はおしんの乳をもらえないかと頼む。清は授乳するおしんの姿に慈母観音をみる思いだと感動し、死産した娘に愛と名付けていたことを知った清は、自分の孫に愛という名前をもらうことにした。もとはと言えば、おしんの死産は田倉家での嫁としての過酷な日々により体力が奪われていた結果である。自分の孫に愛と名付ける姑の無神経さもさることながら、こんなところにいたら殺されてしまうという思いがおしんの東京行きを決意させた。その際、一粒種の息子・雄を清の手から盗み取って、自立しようと家出するおしんを手助けしてくれたのは、田倉家長男の嫁・恒子。恐らく当時の日本全国の農家の嫁たち(視聴者)は恒子の行動に大きな共感をもっただろう。誰しもおしんのように行動はできない。つらくても長男の嫁として根を張って生きてゆくしかない。真の意味で辛抱する女は恒子である。
これは半分は正しいが、半分間違っている。確かにおしんは、9歳から16歳にかけての酒田の米問屋・加賀屋で奉公した際、大奥様から見込まれ、お茶や料理、裁縫などありとあらゆる花嫁修業のみならず帳簿の分析の仕方など商いのイロハを徹底的に仕込まれた。これは加賀屋を継ぐことになる孫娘加代が商売に何ら関心がなく、将来とても加賀屋を任せられない不安から、加代をバックアップしてくれる存在としておしんに期待していたからである。
しかし、全編通してみると、おしんの才覚はむしろ夫の事業や息子の事業をサポートするために発揮されていることがわかる。10代の頃に加賀屋奉公時代に培った経験は、のちに田倉商会の旦那と結婚し、田倉商店を支えようとするときに力を発揮する。帳簿をみて夫の田倉竜三の経営能力の弱さを見抜いたおしんは、そのを不安を源じいと相談する場面がある。源じいは佐賀の本家から三男・竜三のお目付け役として東京で同居していた使用人である。夢ばかり膨らみがちな竜三の経営には源じいもハラハラしており、おしんの商才を見抜いていた源じいは、おしんが竜三坊ちゃんを支えてくれるものと安心していた。しかし竜三は甘く世間知らずだった。田倉商店は詐欺にあい、あっけなく倒産してしまう。
田倉の再起をかけておしんは自ら稼ぐことを考えた。おしんは手先も器用だった。17で上京した当時、日本髪に弟子入りした経験から、出前の洋髪を始めるとたちまち客がついた。一方、竜三は堕落した。会社員の月給の何倍も稼ぐようになったおしんをしり目に、竜三はカフェを飲み歩く日々。完全に髪結いの亭主化してしまう。日本髪のお師匠さんに相談すると離婚してしまえと助言を受けるが、ここでおしんのとった行動がすごい。夫を再起させるために、自ら稼ぐことをやめてしまうのである。おしんが働くのをやめ、ついに貯金がつき、明日の米を買うお金も無くなった。お金が尽きたとお師匠さんに報告した際にいったタカの言葉「ダメは男はどこまでいってもダメなんだよ」は自分の胸に突き刺さっていたい。どん底を理解した竜三はプライドを捨て勤め人として働きだす。それからのおしんは、再び商売を始める竜三に対して、どんなに商売にセンスがなくても温かい目で見守ることにした。先行きに不安でも、それを表には出さずヨイショを欠かさなかった。夫と一緒ならどんな苦労でもすると明るく振舞う。黙って俺についてくればいいんだと竜三に言わせることで、おしんは夫の背中を押していた。やがて子供服の需要に目をつけ、竜三は工場建設に乗り出すも、関東大震災で多額の投資をした工場は瓦解、田倉商店の夢も泡と消えた。失意の竜三は佐賀に帰ろうと言い出す。そもそも三男坊である竜三は実家の資金で東京で事業を始め、失敗し、夢破れて、太い実家をあてにして舞い戻ってしまうような根性なしだった。前述のおしんの佐賀地獄はここから始まる。
それから数年、佐賀地獄から幼い息子を連れて脱出したおしんは、東京、山形と転々とし、最終的に伊勢に落ち着き、魚屋として地道に商売をする日々が続いた。いずれ夫と家族ともに暮らせる日を夢見て。最初の3年は一人で魚屋を切り盛りしていたおしんっだったが、夫の竜三からは手紙を出せどなしのつぶて。そんな折、有明海干拓の夢破れた竜三が、満州で一旗揚げると別れの挨拶にひょっこり伊勢に現れた。渾身のタックルで、逃げようとする竜三をつかまえるおしんの演技は、天才女優・田中裕子のすごさがわかるシーンである。竜三は自分には甲斐性がないことを承知していた。おしんが行商した金で店を開くのに亭主面して乗り込めるかと、あくまで干拓に拘っていたのである。しかしおしんには会いたい。干拓の夢破れた自分を恥じて、おしんに顔を向けられない。おしんに見つかった途端に逃げ出してしまう竜三。そんな旦那にしがみついて、プライドを捨てて魚屋から一緒にやり直そうと説得するおしんの行動には、ある意味、全篇通して変わらないおしんの本質がある。田中裕子の猛烈なタックルをみるだけでも「おしん」を見る価値がある。マイベストシーンといってもいい。
やがて伊勢に根付いて20年が経ち、この伊勢の小さな魚屋を軍部お抱え業者としての水産加工工場にまで事業拡大させたのは竜三の手腕である。
竜三と長男・雄を戦争で失い、おしんはもう一度魚屋として再出発する。魚屋を手伝い始めたおしんの息子たちはやがて魚屋をアメリカ式のレジを導入したセルフサービスの店に転換しようと奮闘する。それがのちのたのくらスーパーの出発点となった。今日ではどんな店でも当たり前のレジによる精算が当時は画期的な仕組みだったというのも興味深い。それまでは品物の中央に座りザルをぶら下げて、商品の受け渡しと代金の受け取りをするのが一般的だったのである。
魚屋として地域に根差し、身の丈に合った商売をしたかったおしんは当初は反対していたくらいであり、事業の原動力となったのは次男の仁である。おしんは夢ふくらむ仁の行動に不安を覚えつつも、その後の事業拡大を支えていたのは間違いなくおしんであった。しかし、情熱をもって会社をリードしていたのはおしんというより次男の仁であったというのは間違いない。
こうしてみてくると、おしんは実業家として全く野望を持っておらず、本心は堅実に地域に根付いた商売をしたかっただけである。
極貧の小作の娘から、女一代でスーパー16店舗をかまえる地域の実業家になった、というのは筋としては間違ってはいない。しかし、大正、戦前、戦後とその時代時代でおしんがしてきたことは、成功しようと夢見みて危険なかけにでる夫や息子の行動を冷静に分析し、正しく軌道修正しようとすることであった。事業拡大をしようと竜三や仁がいうとき、おしんはいつも反対してきた。これまで大切にしてくださったお客様など義理人情を捨ててまで商売をしようという考えはおしんには全くない、ある意味とても保守的な人間であり、実業家によくある野心家では全くなかった。野心家は夫の竜三であり、その血を引いた次男の仁のほうだった。
もちろん、おしんにはおしんの商売に対する信念があった。それは人のつながりを大切にすることであり、恩を大切にすることである。おしんは昔から自分を育ててくれたり支援してくれた人たちへの恩を忘れず、いつでも義理と人情に生きようとする人なのである。
大正時代に縫製工場を拡大したときも、従業員をこき使おうとする竜三に、社員の健康、福利厚生の大切さを説いていたおしん。ここにはかつて製糸工場で結核になったおしんの姉・はるが使い捨て同然に実家に戻され亡くなった経験がにじみ出ている。伊勢で魚屋の店舗を構えることになったときもおしんはお世話になったお客様を忘れず、なかなか行商をやめようとはしなかった。
またおしんをめぐる当時の関係人物にはそれぞれやはり、一宿一飯の恩義という観念がつよく働いていた。それを象徴するのが、息子・雄の戦友である川村である。雄は南方戦線で亡くなってしまうが川村は戦友に報いるために自分が取得した駅前の土地を田倉家に譲渡するという行動に出る。そしてなんといってもおしんの人生最大の恩人は16歳のときの初恋の相手・浩太である。浩太にとってもおしんは恩人であり、かつ激動の時代を共にしてきた戦友のような存在だった。
おしんの物語は、事業家としての成功の一代記というより、ひとの縁と恩を大切にする人生観がより胸に迫ってくる物語である。いってしまえば浪花節である。いやそもそも成功などせず、ほぼ失敗して物語は終盤に向かう。その失敗についても、その救済についてもいろいろと誤解していたことがわかった。
世界観が暗めの方が好きかも
◆好きな漫画
ベルセルク(世界観では一番好き。先生亡くなった時マジで落ち込んだ)
新九郎奔る(時代考証とかキャラ設定とかさすがベテランって感じで好き)
◆好きなゲーム
タクティクスオウガ(これのせいで民族紛争とか宗教とかの歴史に興味出た)
FFT(粗はあるけど「家畜に神などいない!」ってセリフに衝撃受けた)
今、興味あるのはサイバーパンク2077なんだけど買っても後悔しないかな?
【追記】
デーモンズソウル1(ストーリーあるの?これ・・・って思った)
スカイリム(序盤でピンと来なくて終了)
PS4版ゴッドオブウォー(世界観は好きなんだけど親子の会話がなんかいまいちなのと武器強化とかスキルとか多すぎて面倒に感じてしまった・・・)
SEKIRO(下手すぎ&死にすぎて無理)
ウィッチャー3(世界観はいいと思ったけど操作方法ムズ!ってなった)
Ghost of Tsushima(仁の人格を好きになれず・・・頭かて~なぁ!おい!ってなった)
書いた後自分でも考えてみたけど、好きなシーンがガッツとガンビーノのやり取りとかそれをキャスカに告白するシーン、アーサーが雨の到来と薬草探しながら自分の子供のこと話してるシーンとか
エドとアルがキメラになってしまった女の子に気づいたりその後も都度都度思い返すシーンとか、
クライブがジョシュアを殺した相手を探してたのに・・・みたいな主人公のトラウマ描写だったり、それを克服(昇華?)していくストーリーが好きなのかもしれん
昔から松田聖子やキャンディーズに熱を上げて「親衛隊」になる男子学生みたいなのはいたわけだけど。
マンガアニメゲームのキャラクター、握手会アイドル、AV女優、VTuberみたいなものも同様で、実質的な一妻多夫なのでは。
風俗嬢も一人で大勢の男を相手にしているわけだから、一妻多夫的な構造でもあると思う。
若い・美しい・コミュ力があるなど魅力値が選別されている上位女性一人と、選別を経ていない弱者男性の群れという一対多の構造。
一夫多妻だけが言及されやすいけど、大量の弱者男性がこぞって格上女性のATMになっている構造の存在は把握しても良いのでは。
一夫多妻は、強者男性がやるから歴史に残るのと、子供が残るから言及されやすいんだろうな。チンギスハンやら大奥やら後宮やら。
前澤友作パターンだと法律婚はしていないが大勢の女性に子供を産ませつつ養うということをしていて、
格上女性に弱者男性が群がっているケースだと、格上女性が弱者男性と子供を作ることは決して無いという非対象が存在する。
一妻多夫はあとに何も残らない。なぜかというと男性には出産ができないから。
「女性によるサービスを買う」という金銭のやりとりと男性の感情の上下のみで燃え尽きるのが一妻多夫。
でも、メンタリティとしてだけは存在してきたと思う。これからの時代…とかじゃなく少なくともキャンディーズの頃からあるんだって。
メンタリティについて、一対一の対等な関係を形成できず、格上男性に群がって一夫多妻構造に巻き取られている女性と、
二次元美少女好きやVTuber女性好きの男性は一緒だと思うよ。一対多の多のほうに身を置く利点を享受している。
一対一にはハードルがあるけど、一対多の多のほうに身を置くのは「入試」的なハードルが無いんだよ。Fラン。
「多」のほうなら、自分の魅力をアピールして相手に選んでもらうプロセスを経なくて良いという、弱者にとって重要なメリットがある。