少子化は「若者の意識が変わったから」でも「恋愛離れしたから」でもない。そんな話に逃げている限り、何も変わらない。問題はもっとはっきりしていて、もっと露骨だ。
この国は、家族を持つことが割に合わない社会になってしまった。それだけのことだ。
昔は誰もが結婚したし、子どもを持つことは人生の一部だった。特別な覚悟なんていらなかった。生活の延長線に「家庭」があった。でも今は違う。家庭は「頑張らないと成立しないもの」になった。余裕がなく、支えがなく、時間もお金も削られ、精神さえすり減る。
それを見た若者が「家庭を持ちたくない」と思うのは当然だ。生存本能が正常に働いているだけ。
それなのに社会や政治は「最近の若者は…」「価値観が…」と、まるでこちらの感覚がおかしいかのように語る。おかしいのは若者ではなく、社会の側だ。
子どもが生まれないのは、愛が薄れたからではない。人間が利己的になったからでもない。生活の土台が壊れたからだ。
それを直視しないまま、「意識を変えろ」「努力しろ」と言い続ける社会は、ただの加害者と変わらない。
少子化は、個人の問題ではなく、構造の失敗だ。そしてその構造を作ったのは、社会・政治・制度だ。
だからこの話は、頑張りでも道徳でもなく、生きられる社会か、死ぬ社会かの話だ。
人類はずっと「ほとんど全員が結婚する社会」で生きてきた。結婚は特別なイベントではなく、生きる流れの中に自然に組み込まれていた。それは「恋愛がロマンチックだったから」ではない。生存の仕組みだったからだ。
昔の家族は、いまよりずっと広かった。親、祖父母、親戚、近所の手、地域の目。子どもを育てる負担は社会的に分散されていた。
だから、家族を持つことは「やる気」や「覚悟」の問題じゃなかった。生活が人を支えていたからだ。しかし今はどうだろう。
住まいは分断され、家族の単位は極小化し、育児も家事も、家計も精神も、夫婦の小さな箱の中に全部押し込められている。とくに片方(多くは女性)に。
昔は共同で支える仕組みが前提、いまは個人が抱え込む仕組みが前提。そりゃあ持続なんてするはずがない。
少子化は「人々が家族を望まなくなったから」じゃない。家族をつくるための構造が壊されたからだ。
家族は、努力や気持ちだけで維持するものじゃない。社会が支える基盤があって初めて自然に成立する。
その基盤が崩れた時点で、出生率が落ちるのは生物的に当たり前の反応だ。若者は間違っていない。社会の構造が、家族をつくることに向いていないだけ。そしてそれを「個人の選択」の問題にすり替えてきたのが、今の日本だ。
いまの日本では、家族を作ろうとすると、真っ先にぶつかるのが可処分所得の低さだ。働いても働いても「生活するので精一杯」。貯金もできない。家も買えない。子どもなんて無理。これは感覚ではなく、構造としてそうなっている。
賃金はここ30年ほとんど増えていない。その一方で、税金と社会保険料はじわじわと、しかし確実に増え続けた。さらに都市化にともなう家賃上昇、教育費の高騰、保育の外部化コスト。全部「生きるための固定費」だ。
生きているだけで、消耗する社会になっている。共働きが「選択」ではなく「必須」になったのは、意識が変わったからではない。片働きだと生活が成立しないように制度が変えられたからだ。
しかも共働きをしても、生活が楽になるどころか、育児・家事・感情のケアは家の中で圧縮され、時間も体力も関係性もどんどん削られていく。これは努力不足ではなく、設計ミスだ。
「家族を持つ余裕がない」のは、弱くなったからじゃない。社会の構造が、人をそこまで追い込んでいるからだ。
そしてこの状況を政策側は「自己責任」で片付けてきたが、本当は逆だ。家庭が苦しいのは、税と社会保障の負担が現役世代に一方的に集中しているからだ。
その一方で、資産を持つ高齢者は、負担を大幅に免除されている。つまり現役世代が国を支え、国は現役世代を支えていない。
この不均衡が、家族を持つことのハードルを限界まで引き上げている。子どもを産まないのは罪でも怠慢でもない。単に、生きられるように判断しているだけ。合理的な感覚だ。壊れているのは社会の側だ。
「女性の社会進出は良いことだ」。この言葉自体は、もう疑う必要はない。働きたい人が働ける社会は、当然あるべきだ。問題はそこではなく、働かないと生活できない社会にしたという点にある。
かつての日本では、片働きでも家族は維持できた。それは賃金が成長し、家族が広く、生活が社会の中に支えられていたからだ。
しかしいまは違う。税と社会保険料が現役世代に偏って重く、賃金は伸びず、住宅費と教育費は天井知らず。そこに核家族化で助けを失った育児負担が重なる。
その結果、家庭を維持するためには、夫婦が二人で働くしかない。これは「女性の自由」ではない。ただの強制である。
そしてこの強制は、「女性活躍」「自己実現」「多様な生き方」などというきれいな言葉で包まれている。
耳あたりはいいが、労働力人口の補填、税収と社会保険料の拡大、高齢者給付維持のための現役世代の酷使というのが実態だ。
本来なら「働くかどうかは選べる」べきだったのに、実際には「働かないという選択肢」そのものが消された。
「女性が働ける社会」ではなく、「全員が働かないと沈む社会」になったのだ。
そして、負担は家庭の内部に集中する。特に、感情のケアや子どもの生活リズム、夫婦関係の調整といった、目に見えない「家族の体温」を維持する仕事は、ほとんど女性が背負ったまま。
外の仕事が増えた分、内側の仕事は減らないどころか、圧縮され、歪み、擦り切れていく。そこで荒んだ家庭に、子どもが生まれる余裕なんてあるはずがない。
これは「女性が弱い」からではない。「頑張りが足りない」からでもない。こんな設計にした社会が弱いのだ。
少子化の背景には、若者が怠けているわけでも、家族を望まなくなったわけでもない。ただ単に、社会が若者から奪い、高齢者に配り続けてきただけだ。
日本の社会保障は、表向きには「弱者を守る制度」と言われている。だが実際に優遇されているのは、弱者ではなく、人口の多数派である高齢者層だ。
資産を持ち、家や預金を抱え、老後も安定した暮らしができる人たちが、医療費は1〜2割負担で手厚く保護される。税も軽い。年金は自動で振り込まれる。
一方で、現役世代は税と社会保険料を天引きされ、子育てや教育費は自己責任で、家賃は高く、時間はなく、未来への期待は潰されている。
若者が支え、老人が受け取る。しかもそれは「助け合い」ではなく、構造化された一方通行だ。
なぜこんな歪んだ配分になったのか。理由は単純だ。この国では票を持つのは高齢者側だからだ。
政治家は票が欲しい。財務省は税収を維持したい。高齢者は数が多く、選挙に行く。若者は数が少なく、政治的には無力に扱われる。
つまり今の日本は、「支えられる側」ではなく「支える側」を壊している社会だ。
家族を持とうとする世代こそもっとも手厚く支えられるべきなのに、現実には真逆の仕組みが続いている。これでは人口は減る。減って当然だ。
そして減り続ける限り、高齢者比率はさらに増え、政治は今以上に高齢者優遇へ偏り、若者はさらに搾り取られる。
これはもう「問題」ではなく、自己増殖する社会の衰退装置である。
誰か一人の責任ではない。だが明確に言えることがある。
壊れているのは、若者の生き方ではなく、国家の意思決定構造そのものだ。
日本は「資本主義の国」だと言われる。しかし実際に動いているのは、もっと別の形だ。
競争があるように見えて、実際には社会全体が「均一に消耗する方向」に管理されている。
自由があるように見えて、実際には「生きるために働く以外の選択肢」がほとんど許されていない。
支え合う仕組みがあるように見えて、実際には「一方的に負担を引き受ける側」が決められている。
これはもう、資本主義ではない。しかし、福祉国家でもない。もっと静かに締めつける形。日本型社会主義だ。
ここで言う「社会主義」は、弱者を守る優しい社会という意味ではない。国全体の生活水準を均一に、安定的に、とにかく変わらないように保ち続ける仕組みのことだ。
問題は、そのために犠牲になる層がはっきり決まってしまっている点にある。
犠牲になるのはこれから生きる人。つまり若者と、これから生まれるはずだった子どもたちだ。
日本型社会主義は、未来に投資しない。その代わりに「今、生きている人の安心」を最優先する。特に、人数が多く、政治的力を持つ層の安心を。
その構造では「変えないこと」が正義になる。「とりあえず今を守ること」が優先される。「未来」は後回しにされ続ける。そして、未来は来なくなる。
本来、社会とは「受け継がれるもの」だ。生まれた命に次の生活が渡され、時間が伸びていくものだ。
だがいまの日本は、未来を育てる力を、自分たちで捨ててしまった社会になりつつある。
現役世代の時間と金と心が削られ、子どもを迎える余裕が消え、生まれる命の数が減り、社会の骨格そのものが痩せていく。
それでも表向きは「安定している」ように見える。なぜなら衰退はゆっくり進むからだ。
だからこそ、この国は静かに壊れていく。誰も叫ばないから壊れている。悲鳴が聞こえない形で壊れていく。
これは「滅び」ではなく、溶けるような消失だ。
その進行を止められるのは、制度でも政策でもなく、「もう、このままでは無理だ」と言葉にする人の側だ。
問題は道徳や意識ではない。設計の誤りが放置され続けていることだ。
家族が消えたのは、心が弱くなったからではない。生きるための構造が、人間の生活に合わなくなったからだ。
必要なのは、ただ一つ。人が家族を持てるような生活の地盤を、社会がもう一度つくること。
やるべきことは、実はとてもはっきりしている。
まず、現役世代の可処分所得を戻すこと。税と社会保険料を若い世代にだけ重くのしかける構造をやめる。資産を持っている層には相応に払ってもらう。
「本当に困っている人を助ける」ことと「とりあえず老人全員を守る」ことはまったく違う。
次に、家族を一家庭に押し込めないこと。育児は社会が支えるべき公共インフラだ。
保育、学童、家事支援、地域の助け、頼れる外部リソース。昔はそれが「人間関係の中に」あっただけで、今と違う形で存在していた。
それを、形を変えてもう一度つくればいい。そして、働く/働かないを選べる社会に戻すこと。
共働きが悪いのではない。共働きしかできないのが問題なのだ。家庭は「労働力供給のための単位」ではない。人が人として生きる場所だ。
ここに、もうひとつ、今必ず触れておくべき点がある。
働き手が足りないからといって、外国人労働者で穴を埋めようとする動きが進んでいる。だがこれは、人件費を抑えたい大企業と、本質的な構造改革を避けたい政府の都合にすぎない。
少子化で労働力が減っているなら、本来やるべきことは賃金を上げ、労働環境を整え、家庭を維持できる生活基盤を戻すことであって、「別の人間を輸入して補う」ことではない。
安価な外国人労働力を入れれば、企業は労働環境を改善する必要がなくなる。政府は自分たちの設計ミスを修正せずに済む。
そして一番損をするのは、現役の日本人労働者と、これから生まれるはずだった子どもたちだ。
これは、社会の疲弊を補う政策ではなく、社会の疲弊を固定する政策だ。未来を守るどころか、未来を切り捨てて「延命」しているに過ぎない。
家族が育たない社会に、人は根を下ろさない。根を下ろせない社会に、未来は生まれない。だからこそ、立て直すべきは、人間の「生活」の側だ。
AI乙