はてなキーワード: 言葉自体とは
お前、何を勘違いしてるんだ?
OSSにフリーライドなんて概念を持ち込む時点で、思想の土台が自己放尿してるんだよ。
そこから学び、改良し、再配布し、再進化する。つまり乗ること自体が前提条件なんだよ。
お前がフリーライドと言っているのは、車輪の発明を見て「タイヤ使ってるやつ多すぎ」って文句垂れて自己放尿してるのと同じ。
OSSを使うこと自体がOSSへの貢献の一部だ。利用が増えればバグも改善され、検証も進み、メンテの意義も上がる。生態系が回ってるんだ。
それをフリーライドとか言って悦に浸ってる時点で、論理的に二重に放尿してる。まさに認識と現実のダブル放尿だよ。
OSSにフリーライドしたくなければ、お前はまず電気もインターネットも使うな。
TCP/IPもGNUもPOSIXも全部OSSの遺産だ。お前の吐いたそのフリーライドって言葉自体、OSSで動くプラットフォームの上で出力されてる。
そもそもBLソムリエ、BLソムリエ検定とは? モニターとはどんなことをするのか? についてはこちら→https://www.chil-chil.net/blSommelierCert/y/2024/
あと、合格者の方が書かれた実技試験体験談を見つけたので参考までに↓
ちるちる主催 BLソムリエ検定に合格しました。その顛末など…|makiterao https://share.google/YjybP52hU05JBqpzm
※【注】今回からシステム変更があった。そのため、前回までは受験者は顕名というか、BL情報サイトちるちるのプロフィールページとリンクしたハンドルネームがモニター役や他の受験者に見える形式だったんだけど、今回は完全匿名だった。
〜〜〜〜〜
モニターをやるのは今年で3回目。1回目はあまり覚えていないのだがスト重系(ストーリー重視系)の作品を、2回目は某有名漫画の登場人物に似たキャラの出てくる作品をオーダーしたよ。3回目である今回はというと……、
「お姉さんみのあるお兄さん」がメインで登場する作品をおすすめして欲しい!
というオーダーを出したよ。
ここで言う「お姉さんみのあるお兄さん」とは一体どんなキャラなのかというと、喩えて言うならば女優の桃井かおりさんや元女優の桜井幸子さんみたいな、優しそうでアンニュイな感じでどこかエッチな感じがして童貞を即落ちさせる雰囲気をまとうお姉さん(最近のコンテンツで言うならば『チェンソーマン』のマキマさんが近い気がするけどなんか微妙に違う気がする)みたいな感じのお兄さんだよ。でも単に女々しいのとは違って、ちゃんと男で一本筋の通った性格をしているキャラがいいな。
ちなみに「お姉さんみのあるお兄さん」という言葉自体はだいぶ前から見かけたけど、こんな風に定義してるのは私だけかもしれないよ。
なんか漠然としてるから例として分かりやすい様に私の思うさいこうの「お姉さんみのあるお兄さん」の出て来る作品を二つ挙げたよ。
『Badass』(ハジ)
でもってついでに、これまでDom/subユニバースの作品を読んだことがないので読みたいのだが、Domで受けの「お姉さんみのあるお兄さん」が出て来る作品がいいということもお願いしたよ。
私の基本情報は以下の通りだよ。
・依頼レベル
秋山くん
Badass
絵津鼓先生
ハジ先生
・地雷
なろう系
どちらでもない
5〜9年
というオーダーをしたら四人の受験者から合計7冊のBL漫画をおすすめされたよ。でも評価S〜Cの4段階のうちBとCしかつけられなかったよ。受験者にも不幸だけど私的にもプチ不幸だったよ。おすすめほぼ全部買って(1冊はKindleUnlimitedで読めた)一つも気に入るものが無かったばかりか申告した地雷を思い切り踏まれたからだよ。
おすすめされた本のタイトルは書かないけど、スト重系作品が多かったよ。でも私はストーリーを楽しみたいというより「お姉さんみのあるお兄さん」に萌えたかったんだよ、ミスマッチだね……。
・みんなセールストークがあまり上手くないみたい。モニター役はおすすめ作品を自腹で買って読んで評価するので、まず購買意欲を掻き立てられる言葉を求めていると思う。おすすめ本の内容がどんなにいいものかアピるのも大事だけど、モニターの嗜癖のどんな部分に着目して作品をチョイスしたのかをこそ書いて欲しい。モニターが自分の癖を理解されたということへの喜びを感じるような。
・自分のおすすめしたいものより、相手が読みたいものを優先した方がいいんじゃないかなぁ。今回、「お姉さんみのあるお兄さん」という、人によって解釈が様々なキャラクター像を挙げてるけど、こちらにとってそれはどの様なものなのかある程度詳しく説明したので、受験者個人の思う「お姉さんみのあるお兄さん」像を持ち出さないでほしかったなぁー。
・モニターの読書歴に目を通した人とそうでない人がいるみたい。ちゃんと読もうね。好きな作品と好きなBL作家の項目は必ずしも本当の事を書かなくてもいいと私は思っている。ただ嘘も書いていいという訳じゃなくて、自分の中の人生のトップ5を書かなくてもいいということ。
・実技試験は受験者とモニターとでコミュニケーションが全く出来ないという双方にとって不利でしかない方式で行われるから、モニターもなるべく希望に近いおすすめを受験者から引き出す為に手を尽くすんだよね。その手段として、好きな作品と好きな作家をマイフェイバリットというより今回読みたい作風に近いもの縛りで厳選するというわけ。モニターのみんながみんなそうではないと思うけど。
・地雷を踏む時はせめてわざわざ踏む理由を説明して欲しい。説明によっては地雷表現ありでも気分良く読めるかもしれないので。
・「お姉さんみのあるお兄さん」という言葉の構造に期待を持ちすぎたというか。「お姉さんの様なお兄さん」ではなく「お姉さん”み“のあるお兄さん」お姉さんっぽいところがあってもあくまで「お兄さん」であり男なのである。という事で、股間に一物が生えてるだけの女の子は求めていない事は伝わるんじゃないかと思ったら伝わらなかった。ちゃんと見た目性格ともに男っぽさもあるのがいいとか、見た目性格が女々しすぎるキャラは地雷とした方がよかった気がする。
・好きなBL作家に青井秋先生と絵津鼓先生を挙げる事により、このモニターはあまりエロ表現を求めてない人なんだなという印象をつけられるか、それとも線の細い女の子っぽい受けちゃんが癖な人なのかなと思われるのかどっちかなと思ったら、後者だったかな。もっとムキムキマッチョメンを描きがちな作家さんの名前を書けばよかったかもしれない。
・「エロエロ」を地雷に含めるかは最後まで迷ったんだけど含めて正解だったのかなぁ。「お姉さんみのあるお兄さん」という指定を「メスお兄さん」と読み替えられてしまった場合とDomsubというキャッチーな設定だけに注目されてしまった場合、えげつないレベルのどエロ作品ばかりお勧めされてゲロ吐きながら嫌々読む事態になりそうだと思ったので入れたけど、結局ドン引きレベルのエロエロ作品を勧められたのであまり意味なかった気もする。そもそも「お姉さんみのあるお兄さん」の出て来る作品の一例として挙げた『秋山くん』がエロエロ作品なので、なんか倫理観と癖が激しく乖離しているだけの人っぽくなってしまった。
・「お姉さんみのあるお兄さん」の「お姉さん」
を説明するのに「最近のコンテンツだとチェンソーマンのマキマさんかもしれないが違うかも」っていう一文は余計だったと思うけど、後でよくよく考えてつまり裏とか下心があって男を誑かして来るタイプは違うんだなと思った。「お姉さんみのあるお兄さん」の「お姉さん」にはもっと自由で気紛れであってほしく、行動原理が「目的を遂行するため」じゃなくて「ただ何となく」であって欲しいんだ! 胸のつかえが取れたぜ。あー、スッキリした♪
・毎回フィードバックの自由記述に何を書くか悩む。単に読んだ本の感想を書くだけで良いような気がしつつ、毎度種明かし的にどんな観点により読むと決めたのかばかり書くけど、それって要らんこと書いてるだけかなあ?
・複数人からおすすめを2冊くらいずつされたのに一つも琴線に触れるものがないというのは、オーダーをした私自身の手落ちなんだろうなと思う。コミュニケーション0でお勧めをする・されるのは難しい。出せる僅かな情報を上手いこと操作して受験者からいいお勧めを引き出さないとね。
最近、「外国人の親を持つ子どもの出生が過去最多を更新した」というニュースを見た。これを聞いて「ついに来たか」と思った人と、「別にいいじゃん」と思った人のあいだで、まるで温度差が違う。どちらが正しいかはわからないけど、確実に言えるのは、「もう昔の日本ではない」ということだ。
コンビニで働く外国人は当たり前になった。駅のアナウンスには英語と中国語が増え、スーパーにはハラール対応の棚がある。観光地だけでなく、地方の町でも外国人の子どもが増えている。そういう変化を「国際化」と呼ぶ人もいれば、「もう戻れない」と言う人もいる。でも、実際には誰もが少しずつその“変化”に慣らされている。
たとえば、小学校で外国ルーツの子がクラスに数人いることを、子どもたちはもう特別と思わない。だけど大人のほうが「日本語がまだうまくないらしい」「宗教が違うらしい」とひそひそ話す。社会の変化を受け入れるのはいつも子どもで、拒むのは大人だ。
移民政策が明確に議論されないまま、“現実としての多国籍化”だけが進む国。政治家は票にならない話を避け、メディアは賛否両論を並べて終わる。だから街中で「なんか外国人が増えたよね」と言う人の裏には、説明されなかった不安が溜まっていく。
でも、この「違う人たちが増えること」そのものが、本当はこの国の生き延びる道でもある。出生率は下がり続け、労働人口は減る一方。つまり、移民がいなければ経済も医療も教育ももう維持できない。けれど“論理的に正しい”ことが、“感情的に受け入れられる”とは限らない。
結局のところ、問題は「誰が日本人なのか」ではなく、「誰を日本に受け入れられるのか」だと思う。国籍や宗教の話ではなく、この国に住む人たちが、互いに“同じ風景”を共有できるかどうか。その輪郭が曖昧になっていくのを、どこかで怖いと感じている。
もしかしたら、何十年後かには「純日本人」という言葉自体が時代遅れになるかもしれない。でもそのとき、私たちは「失った」と思うのか、「ようやく変われた」と思うのか。いまはまだ、その分かれ道の途中にいる。
レスバの本場になんてことを
ウェブトゥーンが案外売れないのを日本の漫画文化のせいにしてる奴いたらいや日本が本場だぞって言われるのと同じレベルのことを言ってる
dorawiiより
-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- Hash: SHA512 https://anond.hatelabo.jp/20251030210010# -----BEGIN PGP SIGNATURE----- iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaQRMrAAKCRBwMdsubs4+ SKsTAQDIj2IkEDYstpEwPDqGBfzXjRD7Bir5UWK21qthluJ2uAD/XqhlBsS6PeTM UQSLr6rQTYx/rvAuNiKzAkj8MPnfuA0= =tbzG -----END PGP SIGNATURE-----
子供を産むのは、人生を賭けるような決断だ。特に障害のある子が生まれた場合、親は一生その子の面倒を見続ける覚悟を求められる。これ、現実的にどれだけの人が耐えられるんだ? 若い世代が「子供を産むの怖い」って思う理由の一つがここにあると思う。
障害児を育てるのは、経済的にも精神的にもすさまじい負担だ。親が自分の人生を全部犠牲にして、24時間365日ケアするのは尋常じゃない。もし親がその責任を負いきれなかったら? 虐待や育児放棄が起きるケースだってある。現に、ニュースでそういう悲しい事件を見ることある。じゃあそうなる前に、親が「もう無理」ってなったときの選択肢って何がある?
例えば、公共の施設で障害児を預かる仕組みがもっと充実してれば、親の負担も減るかもしれない。でも、現実はそんな施設が足りてない。あるいは待機リストが長かったり、質がバラバラだったりする。じゃあ、親が「手放す」以外の選択肢として、極端だけど「安楽死」みたいな制度があったらどうなる? もちろん、こんな話は倫理的にセンシティブで、簡単に「賛成!」「反対!」とは言えない。
しかしながら日本は今でも「子供は親のもの」みたいな考えが根強い。親が子供の人生を決めちゃう風潮が、良くも悪くもまだ。それなら、親が「育てられない」と判断したときに、国が介入して「育てなさい」と強制するのも変な話だし、逆に「親の意向でどうにかしていい」と放任するのも無責任な気がする。虐待や育児放棄で子供が死ぬケースが後を絶たない現状を見ると、なんらかの制度で親と子の両方を守る仕組みが必要なんじゃないか?
安楽死制度って言葉自体が重いし、誤解されやすいけど、もし仮にそういう選択肢があったとして、社会はどう変わるんだろうか。障害児を育てる親の負担を減らすための支援がもっと充実すれば、こんな極端な議論自体いらなくなるのかもしれない。でも、現状の日本だと、支援が足りないからこそ、こういう過激なアイデアが頭をよぎる人が出てくるんじゃないか。
これを言っている人間が日本語を知らないと他人を笑ってるとなんのギャグなのかと思ってしまう
「読書」なんて言うものはそんな高尚なものじゃなくて、ただ「本を読む」ことであり「情報を得る」」行為の一形態でしかない
私の立場を明確にしておくと、そもそも「教養」という言葉自体かなり嫌いだ
もっと正確に言うなら「教養」という言葉を人に対しての殴り棒に使う人間が嫌いだ
「知識」
「常識」
「人格形成をするための基盤」
「社会を動かすための力」
このような感じで専門家の中でもこれが差す意味や目指すべきところの解釈が立場で違ったりする
「教養」というものは単なる「知識」という使い方をしている人もいるが、おおよそ含意として「人格形成の基盤」「社会を動かすための力」」という意味で使っている人が多いだろう
言葉を知らないのは確かに「知識」が足りないかもしれない。だが「教養」を振りかざしてそういった知識のない人間を叩くことは、果たして「教養」ある人間の行うことだろうか?それこそ「教養」を知らない人間の仕草ではなかろうか?
そんな人間が読書というものを過度にありがたがっている様をみると何とも哀れで仕方がなく、同時に読書というものの価値を貶めているとすら見えてくる
自分も読書は好きだ。純文学、ミステリー、SF、ラノベ、新書で知識を得るのも楽しいし(最近は地理とか地学の新書が好きだ)、エッセイもよいものだ。たまに詩歌の本を読むのもいい。
それはこの情報媒体が多様化した時代においては情報の受け取り方でしかなく、コンテンツの一形態でしかない。そこに高尚さもありがたさもないのだ
(もちろんそのコンテンツの特性、それでしかできない面白さや受け取りやすさはあれども)
私は読書が好きだし、好んで様々な本を読んでいる
でもそれは決して「教養」を得るためではなく、「知らないものを知る」「見たことないような景色を見たい」からそれを行っているだけだ
それは他人を殴るためではなく「自分が楽しむ」ために行っている行為だ
お前ら、会話をただ受け流して満足してるんじゃねえぞ。会話とは剣戟だ。相手の一撃をまともに受け止めたら、その時点で負けだ。頭の中で次の一閃を構えて、いつでも相手の言葉を弾き返せ――それが真の会話術だ。
相手が「今日は天気がいいですね」なんて軟弱なつかみをしてきたら、「そうですね、紫外線のスペクトル波長が430ナノメートルを越えると人間のメラニン生成が活性化しますが、それでも晴れの日のほうが心理的ストレスは低減するんですよ」くらいに返せ。晴れという凡庸な命題を一瞬で専門分野に変換して、相手を動揺させろ。
「最近忙しくて大変で…」なんて情緒タックルには、「大変って言葉自体が主観的評価でしかなく、定量化されていない。もし工数を時間単位で割り出し、その成果物のROIを算出できるなら、真の“忙しさ”が見えるはずですね」 と理路整然と斬り返せ。感情を論理に変えるパリィは最強だ。
聞き手が弱点を突こうと「あなた、語彙が難しいですよね」と言ってきたら、「語彙が豊富であることは、多彩な概念を瞬時に表象できるという脳機能のポテンシャルを示すんですよ。つまり、俺の語彙はお前の理解限界を超えているだけだ」と逆に持ち上げつつ一歩も引かない。
第一に、相手の言葉を受け止めず、即座に別の武器(数字、専門知識、言語遊戯)に転換すること。
第二に、情緒的な攻撃は論理で、論理的な攻撃はユーモアで跳ね返すこと。
第三に、自分のフィールド(好きな領域)に引き込んでから一閃を浴びせること。
これらをマスターすれば、お前の口はもう盾じゃない。最強の剣に変わる。会議室でも飲み会でも、どこでも即座に会話をパリィし、相手の論陣を粉砕しろ。会話は芸術でも慈善事業でもない。戦場だ。勝利こそがすべてだ。
最初に断っておきます。この考え方は、正直ちょっとキモいですし、痛々しい部分もありますし、「メタ認知」なんて言葉自体もどこか胡散臭いでしょう。それでもなお語りたいのは、恋愛というものが実はものすごく強力な“メタ認知の鍛錬場”になっているのではないか、という点です。これは自己啓発のきれいごとではなく、理屈として成立している話だと思います。
メタ認知とは「自分の思考・感情・行動を一歩引いて客観的に把握する力」のことです。心理学や教育学では、学習や成長に欠かせない基盤能力とされています。なぜなら、以下のような点に直結しているからです。
• 論理的自己評価: 自分が今どこでつまずいているのかを把握できる。
• 感情制御: 自分の怒りや不安を客観的に見つめ、冷静さを取り戻せる。
• 学習効率化: 自分に合った勉強法や練習法を選び直すことができる。
つまり、メタ認知によって無意識的な改善ループが可能になります。自己啓発っぽい言い方をするとPDCAサイクルの自動化です。
では、なぜ恋愛がこのメタ認知を鍛える場になるのでしょうか。大きく2つの理由があります。
仕事や勉強では、評価されるのは「成果物」や「点数」であって、自分自身に焦点が当たり切るわけではありません。しかし恋愛では、相手が見ているのは成果物ではなく「自分そのもの」です。話し方や雰囲気、価値観、表情――全部が評価の対象になります。だからこそ、自分という存在そのものを客観的に振り返らざるを得ない環境になるのです。
恋愛は人間の三大欲求のひとつに直結している分野です。「好きな人に好かれたい」という動機づけは、勉強や仕事よりもずっと強力です。テストの点数が下がるよりも、恋愛で失敗する方が強烈な痛みとして感じられることも多いでしょう。その切実さが、人を必死に考えさせ、改善ループを回す推進力になります。
恐らく、この方法が最も効果的なのは「恋愛スペックが低い人」です。もともと容姿が整っていたり、自然にコミュ力が高い人は、特に努力しなくても恋愛が成立してしまいます。だから、改善ループを回さなくても問題がないのです。
一方で、そうではない人は、どうしても工夫せざるを得ません。「なぜうまくいかなかったのか」「どこを直せば伝わるのか」を必死で考えます。つまり、意識せざるを得ない環境に置かれるのです。これは厳しい現実ですが、裏を返せば「最も効率的にメタ認知を鍛えられる立場」にあるとも言えます。
恋愛は「弱者男性専用の最強のメタ認知トレーニング環境」だと考えられます。うまくいかないことの方が多いかもしれませんし、痛みを伴う場面も確かに多いです。でも、その過程で自分を振り返り、修正し、また挑戦するというサイクルこそが、まさにメタ認知の実践そのものなのです!
そこはなんか一時的にごっちゃになった
pythonのself.driver.get()とかでやるのがhtmlリクエスト
(でもたぶんhtmlリクエストって言葉自体ないってのが正解だろう)
-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- Hash: SHA512 https://anond.hatelabo.jp/20250910132103# -----BEGIN PGP SIGNATURE----- iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaMD8swAKCRBwMdsubs4+ SBgDAQDsUXXO1zHRyA8Ss7PNZ1bhSv/7cuDt1Wc3EsD5wxgYhAD8Dg5Xp3KpkUOu QWUsXZJ6I9NbDrE24AkrHYnqTGfosA8= =s2RT -----END PGP SIGNATURE-----
今は頭がすっきりしてるからもうちょっとこの表現の意味、というよりは背景を説明しようか。
「気取り」って言葉自体割と相手を悪く言う場面で使うことが多い言葉だよね。
つまり相手を悪く言いたい気持ちが先走ってあまり考えることなく二つの言葉を続けて言っちゃった結果そうなっちゃったんだ。
-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- Hash: SHA512 https://anond.hatelabo.jp/20250907170441# -----BEGIN PGP SIGNATURE----- iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaL08mwAKCRBwMdsubs4+ SMmeAPwPo7zmSBKCucmOE9/KmdFGMP4A3hMPaWfKXO+BV2jDgwD/astbjHcs2bDI 3IPdnJLLfDlLezgokxHkgxuo9YlEBgw= =BSBJ -----END PGP SIGNATURE-----
注意 リンクをたくさん貼っているが、スパム対策をしています。ご了承ください。
これは以前から何度か書いている與那覇潤について、もうその観点・見方が陰謀論とまではいかなくとも、かなり接近しつつある段階に突入していることを「実証」する試みである。
この検討によってもはや與那覇の現状がいかにヤバいことになっているかが分かるだろう。
正直、少し調べてみただけだが(そもそも今の與那覇にそこまで時間を費やす価値はない)、ここまでとんでもないことになっているとは予想だにしなかった。まさに與那覇は「ホンモノ化」しているといえるだろう。
なお、「ホンモノ」とは與那覇による自称である。主流派の専門家を「ニセモノ」と断じて自分こそが社会を正確に批評できる「ホンモノ」であると対比させている。そもそも、50手前のいい年した大人がこんなイタい表現使うこと自体どうなのかと思うが、まあ本人が気に入っているようなので與那覇は「ホンモノ化」していると批判しても一向にかまわないだろう。ここでは與那覇のいう「ホンモノ」の思考や言説が一体どういうものなのか明らかにしたいと思う。
突然だが歴史学には「史料批判」という言葉があるらしい。AIに要約させてみた。
「史料批判」とは…史料批判とは、歴史研究において、史料の信頼性を評価し、歴史的事実を解明するための批判的な手法のことです。史料の真偽、作者、作成年代、内容の信憑性などを検討し、史料が示す情報がどの程度信頼できるかを判断します。
まあ要するにソース(史料)にはしっかりとその正否を問える力を付けようということである。與那覇は研究者たちとの争いの中で自分が批判する研究者たちを「史料批判できない」と言って批判している。
ttps://note.com/yonahajun/n/n9e5c69865c86
ここではこの争いの是非については立ち入らない。気になるなら各自で調べてもらえればと思う。
さて、與那覇はコロナに対するマスク・ワクチンへの批判を痛烈に熱心に行ってきた。最近はとうとう「店員はマスクを外せ」と言い出している。
これは結局マスクを強要することを批判していたことの裏返しに過ぎない典型的な逆張りのしょうもない話である。しかも理由が「外国人がせっかく来ているのに」とか自分が気に食わない、とかいうどうでもいい理由である。いや、流石にそんなことは言わないだろうと思った人はこの記事を見てほしい。
ttps://note.com/yonahajun/n/n28ac220c53ff
この記事の問題点は「マスク信仰」が江戸時代以来の日本の図式だ!みたいな杜撰極まりないぎろんをしているところ。そしてそれを「ホンモノ」たる成果として誇っていること。下記の『潮』に掲載した一文なんてすさまじいことこの上ない。嘘だろと思うだろうけれど、「ホンモノ」は本気で言ってるらしい。アンケートでも取ったというのだろうか。
「この2025年にも、食事を運ぶ人たちがみなマスク姿。せっかくの美しい和装も台無しで、インバウンドで訪れた外国人はがっかりするだろう。なにより、本人たちが楽しく働けないに違いない」
問題はここからである。與那覇はここまで自信満々にコロナについて発言するのだから、当然それなりの根拠があるはずである。そんな與那覇のコロナ観が分かるのが、2023年のnewsweekに掲載されたこちらの記事である。
驚くべきは與那覇が「マスクは無用、コロナは大したことない」と主張するソースである。
ttps://www.newsweekjapan.jp/yonaha/2023/04/post-5.php
森田洋之と宮川絢子である。森田は非常に有名な反ワクチン論者で、人によっては「陰謀論者」と評するような人物である。
https://note.com/inbouron666/n/na670d641ce30
宮川はコロナで苦汁をなめたことで有名なスウェーデン在住で、その姿勢はかなり批判されてきた。
ttps://note.com/nyanpy7x/n/nae5e69ef7519#45a31942-36fe-478b-99f0-7f23e330a050
宮川が絶賛するスウェーデンコロナ対策は2020年時点で国王から「失敗」の「太鼓判」が押されている。
ttps://www3.nhk.or.jp/news/html/20201218/k10012770601000.html
ttps://toyokeizai.net/articles/-/363225
ttps://x.com/Calcijp/status/1885227563603419627
ttps://x.com/Otola_ryntaro/status/1910237498996916547
宮川はスウェーデンの当時の悲惨さを無視してスウェーデンのコロナ対策を礼賛する発信を続けている。
ttps://news.ntv.co.jp/category/society/d0692a604c2e42b28878125de0701b42
ttps://forbesjapan.com/articles/detail/65891
まさにリアル「歴史修正」である。そんな人の記事を引用することに、なんの疑問も「史料批判」精神も働かなかったのだろうか。
正直、コロナのことはいまだに分からない点も多い。少なくとも與那覇が根拠に挙げた二人の論者を論拠に挙げてマスク不要、と結論付けるのはかなり乱暴である。最低限でもこれらの議論に対する批判や別の考え方も示したうえでどちらが妥当かを判断するような見解にでもしない限り、到底多くの人を納得させることはできない。與那覇のかねてからのコロナに対する持論の根拠がかなり薄弱であることをここでは指摘しておきたい。
無論、このような與那覇の杜撰な記事は痛烈な批判にさらされた。
ttps://x.com/Newsweek_JAPAN/status/1651882699106267136
3年前のこちらの記事のツイート。118引用ツイートがついているが、與那覇の見解を根本から批判するものが多い。
以下、いくつか引用したい。
ttps://x.com/mama_melaleuca/status/1652160087778291712
ならそこら中にありますね
ttps://x.com/tkay109/status/1652219662393040896
そもそも、医科学の素人が「マスクには医学的根拠はない」などと断言することが不遜です。さらに、彼がその論拠として引用している医師二人がまた、非科学的なのです。二重にトンデモな記事を書いた與那覇潤氏は、歴史学が非科学である可能性を示してしまいましたから、歴史学会から叱られるはずです。
→不遜なんて言うと與那覇は「センモンカなんかあてになるか!」言い出しそうだが、その根拠がまた「非科学的」という・・・。
ttps://x.com/yoshimy_s/status/1652134906879942661
マスクによる防御能は物理学的な作用によるものであり、数学的に解明することが必要で、いわゆる一般的に言う「医学的な」範疇ではありません。
また数学的に得られる結論は、確率論に基づく理論値ですから、根拠が「ある/ない」の二者択一で論じるのも不適切です。
以上、引用終わり
今日でもコロナは拡大しており危機感を持った医療関係者による発信が続いている。
後述するように、與那覇は「対談」を自己ステータスの証明に使っているので、ぜひこういった人たちと議論してほしいのだが、いかがだろうか。
なお、当然のことながら與那覇がこれらの批判に反論した形跡は全くない。まさに與那覇が批判するような「言いっぱなし」を自ら実践している。
森田にいたっては、参政党ともつながっていることが分かっている。その森田は與那覇の記事を礼賛している。
ttps://sankago.hp.peraichi.com/2025/
ttps://note.com/hiroyukimorita/n/n783b8188b14d
こうしてみると、以前の記事で與那覇が参政党の躍進を「支持はしないが、参政党の躍進を喜びたい」と述べたことも、別の意味を帯びてくる。そもそも支持はしないが喜びたいという言葉自体、一昔前の「ご飯論法」にも通じる詭弁である。與那覇が参政党にシンパシーを感じていて、表立って支持するなんて言ったらたたかれるので、予防線を張っているとも考えられる。與那覇の文面から、参政党への強い批判や危機感を見出すことはできないし、反ワクチンなどでは参政党と近い立場であることは明らかである。なお、與那覇が参政党の躍進を喜ぶのは「ホンモノ」の予言が当たるかどうか確かめたい、という意図によるらしい。だが、こうした與那覇の文面をそのまま馬鹿正直に受け取ることもできない。以下に見るように與那覇が依拠する言説の中には参政党と通じる人脈が複数含まれている。與那覇が参政党の反ワクチン的姿勢に対して特に言明しないのも、なんだか不気味に思えてくる。無言の肯定ということにならないだろうか。
そもそも、民族差別など数々の問題点を指摘されている参政党の躍進を「喜びたい」などと表現するのは、常軌を逸していると言わざるを得ない。もはや與那覇は陰謀論に通じているか、そうでなくともそうした価値観を容認していると批判されても言い訳できないだろう。
もし、そんなことない、「ホンモノ」たる俺が陰謀論なんて信じているわけないと言いたいなら、森田や宮川の議論を引用するときに最低限の注記をはさむべきだった。そうした行為を一切していないのは、與那覇にはすでに陰謀論者とも言われる人物の議論を引用することにためらいが無くなっていることを意味する。
専門家批判は決して悪いわけではない。だが、それに代わって批判するのが根拠が薄く、数多く批判されている論者の言説であるというのはもはや喜劇でしかない。専門家がダメだからといって、自分に合う言説を無批判的に引用するのは真摯な立場ともいえないだろう。
そうした問題の多い言説を世に出すことに何の疑問も抱かない。そして、批判を受けても一切無視できる。そのクセ他人には「失敗を認めて反省しろ」と口汚く罵る。これが「ホンモノ化」の現実である。
繰り返すが、おそらく與那覇は「陰謀論になんてはまってない!」と言い張るだろう。だが、改めて森田の言説やそれに対する指摘を見てほしい。普通ならそのまま引用するのに躊躇うくらいの批判が相次いでいる。それらを論拠として挙げることに何の抵抗もなくなった時点で、すでに與那覇は「陰謀論」のナラティブに絡めとられつつあると言っても、大きくは外れていないだろう。えてして陰謀論にはまった人には陰謀論にはまってるといっても聞かないものだ。
さて、ここまで見てもらえたならもうお分かりだろう。與那覇には「史料批判」の視点が全くないのである。自説に都合のいい議論を紹介してあたかもそれが結論であり、最新の議論であるかのように偽っている。
そういえば、『中国化する日本』でもそんな手口を使っていたような・・・。
https://yu-koba.hatenablog.com/entry/20111212/1323691605
https://kscykscy.exblog.jp/18241381/
なんどもいうがkscykscyこと鄭栄桓の記事は與那覇の議論の問題点や手口がよくわかる内容となっている。與那覇を論じるならまず必読の内容である。與那覇が今なおこのブログに一切言及しないことも含めて、示唆的であろう。
では、これからどうしたらいいか。與那覇は最近でも著名な有識者と対談をしている。與那覇は対談することで自分が一流の批評家であるというアイデンティティを確保しているようである(先の歴史研究者への反論でも自分が専門家と対話していることをまともな証拠に挙げていた)。
ttps://note.com/yonahajun/n/n411c48f6f523
ちなみにこの記事で挙げられている宮沢孝幸は参政党と通じている。
https://x.com/tokyo_jyoto/status/1885649076517249067
ここまで参政党と通じている点をいうと與那覇のことだから「学級会みたいに誰かとつながっているからなんて理由で批判するのは幼稚だ!」などと言い出しそうだが、参政党躍進を喜んだ以上、その人脈とのつながりは指摘されて当然である。そもそも聞かれてもないのに参政党躍進にはしゃいだのは與那覇なのだから、自分のうかつさを反省すべきである。
念のため補足しておくが、與那覇が参政党関係者と対談したり、その価値観や政策を肯定したことも、支持を明言したことも一度もない。
ただし、その主張の背後には「参政党的」なものが見え隠れしている。すでに與那覇は参政党に自身の思惑はどうあれ接近しつつある。いずれ参政党の支持を明言するのも時間の問題ではないだろうか。これは外れて欲しい予言であるが。
ttps://note.com/yonahajun/n/nb2bd757600df
自分の地位を誇るために「こんなすげー専門家と対談しているんだぞ!」という論法は「俺スゲー人と握手したんだぜ!」みたいな「幼稚」な自己顕示欲の発露に見えなくもない。
対談もいいが、大事なのはそこで何を話したかだろう。単に権威をひけらかして自分の立場の正当性を主張しているように見える。『中国化する日本』で批判された手口と同じである。
余談だが、戦前にもそんな人の権威に寄りかかって自らの権威と正当性を訴えた人物がいたようである。
ttps://x.com/NAKAHARA_Kanae/status/1890289544702066920
中身のない人ほど誰と会ったかや誰と話したかの「実績」にこだわるのは戦前から変わらないらしい。こういう発見もあるから歴史ってのも案外面白い。
実は対話をしたり表向きのメディアでは與那覇は非常に行儀がいい。普段noteやネット記事でやるような苛烈な批判は鳴りを潜め、つつましく対談しているのである。使い分けがとても上手で、ここはさすがという他ない。その意味で與那覇の振る舞いはとても洗練されている。これは皮肉抜きである。
ただ、ここまで来たように、與那覇には陰謀論者と批判されるような根拠の弱い議論を平気で受け入れて、他人を罵倒して自分は「ホンモノ」だと居直り、自身に対する批判には耳を貸さない身勝手な側面があることは間違いない。
だから、今やるべきはもうこうした人物をしっかりとした「批評家」と見なすことをやめることである。與那覇の議論は常に身勝手さに裏打ちされた恣意的な印象操作、批判に対する無視が付きまとっている。そうした問題点がある限り、與那覇の議論をまともに受け止めることは難しいし、それこそ「史料批判」の観点から批判的にとらえる必要がある。
仮にこの記事を與那覇が目にしたなら、鄭の批判にさかのぼって、まずは自分の間違いや問題点をしっかりと洗い出して、自分の議論や言説に間違いがないか反省する作業をしてほしいと思う。そうしないと、マジで本当にもう誰にも相手にされなくなる。少なくとも、後世では無視されるか「こんな「ホンモノ」がいたのか!」と笑いものにされる可能性が高い。笑いものにされるならまだマシで今のままだと無視される方が確率的に高そうである。
そうした言説に対する真摯な見直しと反省ができないなら、やはり本稿の批判はかなり当たっているということになる。
この記事が與那覇の議論が「すごい」と思った人に届けばいいと思っている。たまたま見つけた人が「あれ、與那覇さんってなんかいいと思ったけど、もしかしてまずい人なのかもしれない」と思ってもらえればそれで十分だ。そうした批判や見方を改める作業を繰り返すことで、真の「本物」が生まれるはずだから。
正直、自分としては「ざまぁみろ」という感情がどうしても拭えない。
もし腐女子を自認し、かつ炎上を起こしたくないとか、何が問題なのかわからないけど理解したい、という気持ちでこの記事が目に留まった方がいるなら嬉しい。
こちらも可能な範囲で言葉を尽くすので、「腐女子の功罪」について共に今後も考えて欲しい。
もちろん、腐女子でない人…男性とか、非オタとか、自分みたいな女オタクだけど腐女子とは(物理的にも)距離を置いてる、って人にも一考してもらえる機会になるなら幸いだ。
0.著者は何者だ?
自分は世紀末〜平成を生きた女オタクであり、いわゆる「男女カプ」や「世界観」「物語構成の美しさやテーマの描写」に重きを置く、考察厨、世界観厨と呼ばれてきた人種だ。
世紀末のアニメや漫画はキッズ向けであろうと平気で世界が滅んで主人公も死んだ。
続編のために主人公が生き返り、感動を台無しにされたこともあった。
このため「設定やキャラクター感情の辻褄が合っているかどうか」はかなり上位に食い込む判断基準であり、「好きなキャラクターではあるが生き返った(台無しにされた)からこのコンテンツはクソ」が共存し、作者への愛憎を募らせることも珍しくない。
ライブ感優位の物語が摂取できるようになったのは、かなり年齢を重ねてからだ。
時代と共に定義が揺らいだり移り変わることもあるが、ここでは平成初期〜中期の認識を元に「男同士を(公式/非公式問わず)カップリングさせ、恋愛やエッチなことをさせたいと思う女性」とする。
確か「腐女子」という言葉が生まれたのは2000年以降であり、それまでこの属性の人々の呼称が安定しなかった記憶がある。
自分はテニプリの個人ファンサイトで初めてこの呼称を知ったので、インターネットの普及もあってこの頃が「腐女子」という言葉の黎明期だったのではないか?と見ている。
ボーイズラブ(BL)、というジャンル名が普及したのは更にその後だ。
公式コミックだと思って購入したマンガが18禁シーン入りアンソロジーだったからですけど?
人間関係を拗らせていた筆者は「男の肉体(性欲)は汚い」という認識があった上に、「公式で恋愛関係、結婚関係のあるパートナー女性がいるのになんで浮気みたいなことを平気でやってんだコイツらは?」という設定至上主義が組み合わさり【腐女子氏ね】に速攻で傾いた。
とはいえ、当時数少ない仲の良かったクラスメイトがまさにデビューしたての同人作家腐女子だったため色々もどかしかった。
3.腐女子って変化してんの?
平成の30年間だけでも初期〜中期〜後期とかなりの移り変わりがあった。
また、生まれる前にその手の話題で盛り上がっていたキャプ翼、聖闘士星矢などが晴海の同人即売会でやり取りされてた時代を知っている「腐女子という言葉が生まれる前から活動していた女オタク」とも知り合いだったため、昨今の若い腐女子よりは『腐女子と呼ばれる人々の生態と歴史』は知ってる方だと思う。
で、その視点からすると昨今の「腐女子」という言葉は「オタク」同様、命名初期よりも一般化に浸透し、良くも悪くも多様性が生まれたと思う。
腐女子を名乗っている人を見ると身構えてしまうし、炎上している腐女子を見ると胸のすく思いがする。
だが、現在の親しくしている友人にも腐女子はいるし、彼女たちの研ぎ澄まされた語彙力からしか生まれないパワーワードは「腐女子がイヤ」という嫌悪感を軽く吹き飛ばしてしまう。
そして昨今、「腐男子」という言葉が生まれてかなり見方が変わった。
男性ながら家事や服飾を好む「オトメン」や、女性的な身なりを誇る「オネェ(オカマ、ニューハーフ)」といった存在を経て、こんなにもカジュアルに「同性愛的な楽しみ方が好き」と言える男性が世に出てこられたのは「オタク=犯罪者予備軍」と言われていた時代から考えたらとんでもなく素晴らしいことなのだ。
自分の好きではない属性だが、男優位と言われてきた社会から飛び出した女性の表現力が、巡り巡ってマイノリティ男性を救う連鎖を生み出している。
教室の隅っこで落書きをする事でしか満たされなかった小学生女児の魂が、なんとなく救われた気がした。
彼らのような人たちが心地よく受け入れられる社会になっているのなら、自分のようなオタクにだって居場所はあるのだと。
前述の通り「腐女子」は、その言葉の持つ意味や人々の属性がすっっっっっごく混沌としていて、この言葉自体が割と取り扱って注意となっている。
どうしても個人的な腐女子論を語る上で外せない概念なので、脇道にそれるが言及しておきたい。
ある。
というか、「腐女子」という言葉が生まれてから、そこをもじったように生み出された概念が「夢女子」だ。
少なくともこれらの言葉の発生には3〜5年のタイムラグがある。(それは絶対に違う、と仰られる有識者がいたら当時通っていた個人サイトのジャンル変容を添えて教えて欲しい)
わかる、めっちゃわかる。
だが平成終盤以降のインターネットではたまーに「腐女子って呼び方をやめよう!!」みたいな声かけが発生するが、それがうまく行った様子はない。
当然である。
それまで「女オタクなんて存在するわけないだろ(vs即売会見ろや)」というムードだった平成初期〜中期に「女オタクは!!!!!いまーす!!!!!!!」と認知させたのが『腐女子』という言葉の力であり、女オタク達がこぞって名乗り始めた理由なのだ。
引きこもりという言葉が生まれて、苦しむ若者を受け入れる社会になったように。
『腐女子』という言葉の発明は、存在を透明化されてきた歴戦の女オタク達にとってむちゃくちゃ存在感のあるパワーワードだったのだ。
腐女子を名乗れば、強くなれる!
自分は腐女子が苦手だったが、腐女子を名乗りたがる女オタク達の気持ちは痛いほど理解できた。
平成初期、まだ昭和の価値観は色濃く「女は男に従うものであり、勝つ事などありえない。オタクでも男の方が偉いのであり、女はその格下。というか、そもそもいるわけがないっしょw」というのが漠然と蔓延っていたのがオタク世界のインターネット黎明期であり、2ちゃんねるの「俺」文化の背景であり、オタクのオフ会に参加する時の覚悟であったのだ。
そもそも「PCという高額商品とインターネットに月額課金」という特殊な環境を整えられたのはプログラマーなど、ごく一部のIT知識と金銭の整った富豪しかいなかった。
人数的には30人に1人いるか居ないか程度だったんじゃなかろうか?
そんな時代にオフ会をすれば男5:女1みたいなのはザラにあったし、女オタク同士で集まる流れになると1:1になるジャンルとかもあって両極端だった。
(参加した事ないけど一緒にtalk!時代のガンパレ辺りの女性ユーザー認知の火力は凄かったと記憶している)
ついでに、当時のオタクは男女問わず大変拗らせていたので「オタクという属性にしかアイデンティティがない陰キャ男子」のマウントが取れる相手というのが「自分達男オタクよりも少なくて力も弱い女オタク」だったというのは背景分析として間違っていないと思う。
上澄はとことん品位があったものの、底辺はマジで救いようがなかった。
中間層という存在がすっぽ抜けていたのを、更に加速させたのが2ちゃんねる黄金時代のインターネッツだ。
こういう世界で「女」という属性を見せるのは女性器を晒したかのごとく好機の的にされた。
下ネタで絡まれ、マウントを取られ、嘲笑を浴びるのが「女オタク」のポジションであり、彼女たちが個人サイトに引きこもっても男たちはそれを匿名掲示板に貼り付けて、笑いものにしながら荒らし行為を繰り返した。
ポイピクなどで見られる「パスワード」機能は、当時の女オタクたちが心無い男オタク達から身を守るために必要とした防衛機能の名残である。
誰かと繋がりたい。
でも、イタズラに傷付けてくるような人に近寄られたくない。
当時、「女オタク」というだけで様々なセクハラや人権無視の扱いをされてきた彼女達にとって『腐女子』という忌み名は魔除け効果を持つとても心強い言葉だったのだ。
ただイラストを描いただけなのに。
ただ感想を書いただけなのに。
女という要素が少しでも嗅ぎ取られれば、匿名掲示板で集まってきた男達が下ネタや嫌がらせのコメントを、ありとあらゆる手段で繰り返してくる。
ブロックしても無限湧きしてくる捨て垢で、毎日何十件と粘着され続けてきたらそりゃ心も荒む。
「そりゃ腐ってるんだから当然だろ?
わざわざ書いてやってるんだから腐ってる女に寄って来んなよw
あ、文字読めねぇのかwwww」
こうやって彼女たちは心と尊厳を守るために「"腐"女子」という一見不名誉なアイデンティティを鎧に選び、下ネタセクハラ男達を彼らの嫌う男陵辱ハードプレイ下ネタで遠退けたのだ。
というか、この『腐女子』という言葉のインパクトと浸透力は当時かなり目覚ましいものがあった。
それまで「えーと、ほら、男同士の関係が好きな女の人…」みたいな感じで、どう呼べば良いのか、そもそもその趣味嗜好についてどう触れたら良いのか、良識あるオタクですらかなーり扱いには迷っていた。
そこに「はいはい!私は腐女子です!男同士のエッチな絡みが大好きです!」と聞いてもいないのに名乗ってくるコミュ障が大多数突撃してきたので、やんわり〜厳しく注意する人間もいれば、同担拒否よろしく締め出したり、まぁ同じ土俵に上がって焼け野原になったり、それはそれでまぁまぁ問題にはなった。
同時期に、インターネットの敷居が下がり「女オタク=腐女子」と勘違いした一般層がかなり生まれてしまったのも痛かった。
ちなみに筆者も、実の父親や仲の良い男子に「腐女子なんでしょ?」とナチュラルに勘違いされたので猛烈に反発してブチ切れたことがある。
女児向けコンテンツの男キャラってのは「王子様」でなきゃいけない。
多少は本命の女の子にいじわるしても、危機があれば命をかけて救いに行き、言葉にならない女の子の苦悩を解決し、最後にはキスをして救済してくれる…
これが平成初期女児向けコンテンツのスタンダードであり、多少女主人公が死んだりしてもそこら辺の「相手役」の王子様力は落とさなかった。
筆者はこういった女児向けコンテンツ出身で、男女の恋愛というのは子を残す(続編の予知)も含めて当然の帰結だろうと思っていた。
ディズニー黄金期のリトル・マーメイド、美女と野獣、アラジンの3コンボと派生作品を喰らってたので、「子を残す必要性」というのを続編への前振りとして考えていたし、ウテナはウテナで後になって振り返ってなるほどねと思っていたし、現在も男女カップリングからの子世代妄想や作者の性癖推測とかやるし、オリジナル子供キャラとかめっちゃ捏造して遊んでた。
そういう人間にとって「男同士の恋愛関係」は子世代の存在を否定するものであり、何なら男キャラに恋している女性キャラクターや女性読者との関係を否定するものであり、公式の男女関係への崇拝が強固であればあるほど「腐女子は原作の敵」に見えてしまうのである。
そこで反発して生まれたのが『夢女子』という言葉であったと、筆者は認識している。
それが省略されて夢。
男子キャラと擬似的な恋愛を楽しめる…ユーザー名に自分の名前を入れ、あだ名も呼んでくれて…といったときメモのような遊びが、インターネットとホームページ制作ツールの進化によって可能になった。
それがケータイの普及によって更に手軽に実現可能となり、好きなジャンプキャラやゲームキャラとの疑似恋愛を楽しむ女オタクがじわじわとケータイサイトを中心に姿を現し始めた。
同人誌を作って即売会に参加するほどではないが、自分の恋心をイケメンに受け止めて欲しいと思うお姫様系女児から進化したオタクが、テニプリなどの社会現象と共に広まったのが『夢女子』の発端だったと記憶している。
しかもこの自称は「私は"腐"女子なんかじゃありません!」という攻撃性を含んでいる物もあった。
筆者が当時、強めのアンチ腐女子だったというのもあるが「腐女子呼ばわりされてムカつく!」というお姫様系女子は間違いなく存在した。
そりゃ乙女ゲーに出てくる男子を他の男とくっつけたらコンセプト全否定なんだから当然である。
かくして一部の夢女子は、我が愛しのイケメンをメス堕ちさせた憎たらしい敵として腐女子を嫌っていた。
ちなみにこの手のお姫様精神の人が拗らせたまま歳を重ねると、ツイフェミと呼ばれるようになるっぽい。
これはもう、個々の相性やポリシーからケースバイケースとしか言いようがない。
しかも夢女子は腐女子ほど定義が強固ではなく「ドリーム小説を楽しんでいた女オタク」というふわっとしたものである。
夢小説を作った人間はたまに但し書きに「男の子の名前を入れないでください」とか書いてたくらいには何かあったんだろうなと思う。
ちなみに自分は、夢小説はまったく通っておらず子世代妄想や公式カプ小説といった「筆者の存在しない自前の二次創作」を楽しんでいた。
「推し」が居なくてもコンテンツを楽しめるタイプなので、昨今の「推し」ありきの流れにはちょっと乗り切れていないオタクである。
で、その視点から見ていて夢女子も腐女子も「推しキャラ」という存在にめっちゃ入れ込むタイプのオタクという点では似てるよなぁと感じている。
たまに「推しキャラを好きな自分の方が、公式より偉いと思ってるんだろうな」と感じる人もいる。
キモいと感じる心を否定する気は無いし、でも疑似恋愛や愛玩感情などは多くの人間に備わってるものなので、否定しても意味ないかなとは思う。
思うのは仕方ないし、内心の自由だし。