はてなキーワード: 感覚とは
いや、モード系の最先端とか、古着厨の世界を一般人が理解できないのは当たり前だし、その水準を求めてるわけじゃないんだけどさ。
最近だと「スーツにリュックは合わない」という常識レベルの話でさえお気持ちで否定しててドン引きした。
大抵の人は「合わないけど便利だから使っちゃうよね」みたいな感覚で使うものだと思うんだが、「合わない」という前提知識から否定しにかかっててもう救いようがないレベルじゃない?
クリエイターや芸能人が不祥事や犯罪を起こした後に、これから本業で頑張っていい仕事をして信頼を取り戻していきたい、みたいな弁明をすることがある。
言うまでもなく、本業での実績と不祥事や犯罪の償いは関係がなく、どれだけ良い作品を出そうが素晴らしいパフォーマンスをしようが罪が軽くなることはない。明確な被害者がいるケースなら、表舞台で華々しく活動する姿を見せつけられることは、むしろ二次被害にさえなり得るだろう。
ファンでもない一般人から見れば完全に的はずれなコメントであり、当然ながら多くの場合は顰蹙を買うことになる。
分かりきった結果なのに、なぜこんなコメントが繰り返されてしまうのか。話を逸らすにしてもあまりに下手すぎるのではないか。
ずっと不思議だったのだが、最近ふと思った。これだけ似たような発言が重なるということは、あれは実は誤魔化しでもなんでもなく、彼らクリエイター・芸能人の紛れもない本心なのではないか。
創作やパフォーマンスが自分の人生の中心にありすぎて、その他の全ての物事の価値も、本業との関係の中でしか実感できないのでは。その感覚のまま素直に謝罪すると、ああいうコメントになるのかもしれない。
そこまで極端に仕事にのめり込むからこそ優れた作品も生まれる、という側面はあるだろう。一方的にコンテンツを受け取るだけの消費者としては、その意義を全否定するのは難しい。
だがそれでも「本業で償う」系コメントに対する、そういう問題ではないのでは?という違和感は拭えない。
他の例としては、クリエイターなどが倫理的な批判を受けた際に、批判者(特に同業者)の動機を自分の実績への嫉妬であると無根拠に邪推することもある。これもまた本業を絶対的な基準とする価値観の表れであり、「本業で償う」よりも悪質性の高いケースといえるだろう。
極端に言えばその延長線上には、
『サ○人を犯しても歴史的な大傑作を書けばチャラ』
基本的に今の社会を壊したいから活動しているのであって今の社会のまま良くしたいという事はない
そういう意味だってのは解説読んだからわかるんだが俺が思ったファーストインプレッションと違ったって話なんよ。
あと絶望とか虚無感とかいうわりに詩の形式が完璧ってのがなんか矛盾感じる。
えっ絶望中なのにそここだわる余裕はあるん?みたいな。
しかもその詩の美しさも権威に認められてきた側の美しさだしな。
なんで国もなにもなくなってもうおしまいやーって破滅感バリバリの状況でよりにもよって優等生ムーブをしてしまうのか・・・みたいな感覚。
なんだろう、現代って国みたいな適当な存在よりも大自然への畏怖・感謝のほうが100兆倍はっきりしてるよなっておもった。
「国破れて山河在り」なんて、「国がなくなっても山も河もあるじゃん、ここからまたスタートできるやん!」みたいな激ポジな意味しか感じようがないんだよな。
普通にそういう意味だろって思ってたんだが意味調べたらたぶん全く逆じゃない?コレ。
感時花濺涙(時の流れを思うと花をみても涙が流れる)
恨別鳥驚心(家族との別れを思って鳥のさえずりにも心がおびえる)
マジでこんな意味なんだよな。文明とか人間世界と大自然を対比させて大自然側を徹底的に虚しいものとして描いてる。
国とか人間とかちっぽけな存在だしブッ壊れても大自然さえあればなんくるないサァーみたいな詩じゃなかった!
自然の不変性こそ歌っているがそれを人類の希望としてじゃなくて国を失った喪失感のひきたて役に使ってるんだよな。
現代人の感覚でいうとそれらはむしろ深海の絶望感とか、宇宙空間の虚無感に近いのか?
discoverされてないフロンティアであると同時に足を踏み入れたら戻ってこられない深淵という感覚なんだよな。
僕はいつものようにティーカップの正確な角度とティーバッグを引き上げるタイミング(45秒で引き上げ、分子運動が落ち着くのを確認する)にこだわりながら、ルームメイトがキッチンで不満げに微かに鼻歌を歌う音を聞いている。
隣人は夜遅くまでテレビを見ているらしく、ローファイのビートとドラマのセリフが建物内で交差する。
その雑音の中で僕の頭は例によって超弦理論の抽象化へと跳躍した。
最近は量子コヒーレンスをホモトピー的に扱う試みを続けていて、僕は弦空間を単に1次元媒介物と見るのではなく、∞-圏の内在的自己双対性を有する位相的モジュライ空間として再定義することを好む。
具体的には、標準的な共形場理論の配位子作用をドリブンな導来代数的幾何(derived algebraic geometry)の枠組みで再構成し、そこにモチーフ的な圏(motivic category)から引き戻した混合ホッジ構造を組み込んで、弦の振る舞いを圏論的に拡張された交代多様体のホモトピー的点として記述する考えを試している。
こうするとT-双対性は単に物理的対象の同値ではなく、ある種のエンドサイト(endomorphism)による自己同型として見なせて、鏡像対称性の一部が導来関手の自然変換として表現できる。
さらに一歩進めて、超対称性生成子を高次トポスの内部対象として取り扱い、グレーディングを∞-グループとして扱うと、古典的に局所化されていたノイズ項が可換的モジュール層の非可換微分形へと遷移することが示唆される。
もちろんこれは計算可能なテーラ展開に落とし込まなければ単なる言葉遊びだが、僕はその落とし込みを行うために新しく定義した超可換導来ホッジ複体を用いて、散発的に出現する非正則極を規格化する策略を練っている。
こういう考察をしていると、僕の机の横に無造作に積まれたコミックやTCG(トレーディングカードゲーム)のパックが逆説的に美しく見える。
今日はルームメイトと僕は、近日発売のカードゲームのプレビューとそれに伴うメタ(試合環境)について議論した。
ウィザーズ・オブ・ザ・コーストの最新のAvatar: The Last Airbenderコラボが今月中旬にアリーナで先行し、21日に実物のセットが出るという話題が出たので、ルームメイトは興奮してプリリリースの戦略を立てていた。
僕は「そのセットが実物とデジタルで時間差リリースされることは、有限リソース制約下でのプレイヤー行動の確率分布に重要な影響を与える」と冷静に分析した(発表とリリース日程の情報は複数の公表情報に基づく)。
さらにポケモンTCGのメガ進化系の新シリーズが最近動いていると聞き、友人たちはデッキの再構築を検討している。
TCGのカードテキストとルールの細かな改変は、ゲーム理論的には期待値とサンプル複雑度を変えるため、僕は新しいカードが環境に及ぼすインパクトを厳密に評価するためにマルコフ決定過程を用いたシミュレーションを回している(カード供給のタイムラインとデジタル実装に関する公式情報は確認済み)。
隣人が「またあなたは細かいことを考えているのね」と呆れた顔をして窓越しにこちらを見たが、僕はその視線を受け流して自分のこだわり習慣について書き留める。
例えば枕の向き、靴下の重ね方(常に左を上にし、縫い目が内側に来るようにすること)、コーヒー粉の密度をグラム単位で揃えること、そして会話に入る際は必ず正しい近接順序を守ること。
これらは日常のノイズを物理学的に最適化するための小さな微分方程式だと僕は考えている。
夜は友人二人とオンラインでカードゲームのドラフトを少しだけやって、僕は相対的価値の高いカードを確保するために結合確率を厳密に計算したが、友人たちは「楽しければいい」という実に実務的な感覚で動くので、そこが僕と彼らの恒常的なズレだ。
今日はD&D系の協働プロジェクトの話題も出て、最近のStranger ThingsとD&Dのコラボ商品の話(それがテーブルトークの新しい入り口になっているという話題)はテーブルトップコミュニティに刺激を与えるだろうという点で僕も同意した。
こうして夜は深まり、僕はノートに数式とカートゥーンの切り抜きを同じページに貼って対照させるという趣味を続け、ルームメイトはキッチンで皿を洗っている。
今、時計は23:00を指している。僕は寝る前に、今日考えた∞-圏的弦動力学のアイデアをもう一度走査して、余剰自由度を取り除くための正則化写像の候補をいくつか書き残しておく。
これは大層な話じゃない。理由は単純で、不条理だと感じるから。京大まで出た。十代から二十代前半をほぼ勉強に突っ込んだ。睡眠も遊びも切り捨てて、可能な限りの時間を机に投資してきた。受験というゲームで勝ちを取りにいくために、全てをそっち側に寄せてきた。結果だけ見れば、世間的な評価は一応上。履歴書に書けば強い札だし、社会に出た瞬間に目に見えない加点が働くこともある。そこまではいい。
ただ実際の人生はそこからが長い。京大ブランドは、持っているうちは強いと思い込んでいるけど、微妙につまずいた瞬間にひっくり返る。京大出てるなら当然できるだろ、という圧が常について回る。言語化されないまま漂う期待値が、ずっと首を締める。こっちは普通に苦しんでいるだけなのに、周りの空気は普通を許さない。中途半端でいることが許されず、落ちた扱いになる。
この状態で生きている時に、MARCHや関関同立あたりの男が、普通に人生を楽しんでいる姿を見ると、胸の奥がザワつく。別に彼らは悪くない。普通に働いて、恋愛して、結婚して、子どもができて、週末は友達と遊んでいる。それを見て、素直にいいな、と思える時もある。でも、同時に、なぜ俺はこんなに苦しいのに、努力量がそこまで多くなさそうな人たちは普通に幸せを満喫しているんだ、と感じてしまう。
本当は嫉妬に近い。けれど嫉妬というより、努力に対する見返りが釣り合っていないという怒りの方が近い。こっちは何年も積み上げて、今も足掻いている。なのに幸福度の総量が、彼らと比較して高いかというとそうでもない。むしろ不安定で、心は擦り切れていく。じゃあ努力とは何だったのか。頑張れば良くなるという信仰で走ってきたからこそ、裏切られた時の落差がえぐい。
努力して手に入れた札は、勝利の証明であると同時に、失敗の罰にもなる。京大卒という事実は、次も勝たなければ意味がない。普通のポジションにいるだけで、落ちた扱い。日常でつまずくと、学歴の札がむしろ重荷になる。努力できるんだから、もっと頑張れよ、と言われている気がする。自分で自分を責める癖も加速する。
だから俺は、安心して話せる相手が限られる。東大卒や京大卒で、人生がうまくいっていない人。そこにしか安心感がない。頑張った上で負けているという経験が共有されている。敗北から生まれる変な静けさや、自分を笑う能力が似ている。そういう人とは会話がスッと通る。同じ種類の痛みを知っている。勝っている東大生はまた別枠だが、くすぶっている東大生や京大生は、落ち合える場所がある。
一方で、学歴レンジが少し下になると、前提が噛み合わなくなる。俺が人生しんどいと漏らしても、京大なんだから大丈夫だろ、と返される。この言葉は傷つける意図はないと分かっていても、こっちの状況は、持っているからこそ苦しいという構造にある。そこを理解されないと、悲しいとかじゃなく、ただ距離が生まれる。学歴で人を線引きしている感じにも見えるかもしれないが、単に見えている景色が違う。
世界は平等じゃない。身長、家、金、学歴、性格、運。全てが混ざって人生の位置が決まっていく。綺麗なゲームなら順位も報酬も正しく整列するが、現実はめちゃくちゃだ。頑張っても報われないことは普通にある。むしろ頑張ったせいで身動きがとれなくなる。高い場所を狙うほど、落ちた時の痛みは深くなる。普通でいいと言われても、普通が許されない世界に来てしまった以上、簡単には戻れない。
俺はこの不条理にずっと腹を立てている。努力した側が苦しみ続けて、努力していないように見える側が楽に生きているように見える状況に対して、納得できない感覚がある。これは正しいかどうかではなく、ただの心の反応。みっともないし、余裕ないなとも思う。でも消えない。
この歪みは、もう俺の一部になっている気がする。努力してきたからこそ拗れ、積み重ねたせいで曲がり、抜けなくなった。これを抱えて生きるしかないのだと思う。上に行こうとして落ちた人間には、分かる部分がある。だからこそ、同じ傷を持つ人としか深く話せない。それだけの話。
[B! 旅行] 話題のナウルに6日間いて、正直かなりしんどかった… 珍しい国に来れたのは嬉しかったけど、毎日何かしらモヤモヤがあって、今日ついに「もう無理だ…」ってなった
この投稿に対して、ナウルの歴史を踏まえて難しい話をしている人が多いけど、一言で言えば
ということだと思う。まぁ、投稿主でなくても観光地化されていないことを回るのは難しいけど。
あなたは日本に住んでいる時に、近所のスーパーにいる見知らぬ「外国人」に愛想よくしていますか???
観光客が食べられる「○○ならではのご飯」って、基本的には観光地が外国人向けにアレンジしたものだと思うよ。
それに離島だから食材が豊かではないのは、ある程度仕方がない。
相手には愛想の良さを要求するのに、自分は子供に対して優しくしないんだね。
あと、そんなにセキュリティが心配なら普通のホテルに泊まれば良かったのに。
例えば日本でも小笠原だと、基本は船でしか行けないし、船も気象条件で接岸できなかったりして、1週間くらいズレることはザラだから、ギチギチに予定を組んではダメ。
離島を旅するのに、その心構えが足りなかったと思う。
いやタクシー呼んでくれと頼んでも「無理」
日本の離島でもタクシーはないところはあるので、こういったところは都市民の感覚で移動できると思わない方がいい。
都内の実家を相続した。築30年、駅徒歩12分、土地はそこそこ広い。
ありがたい話のはずなのに、どうしてだろう。
ローンを組まなくても金融資産から払える金額のリフォームの見積もりを前に。
あの、SNSでよく見る「仮審査通った!」「本審査ドキドキ」みたいなヒリヒリ感。
人生の試練のような、通過儀礼のようなあの感情を、私は味わうことができない。
みんな「税金戻ってきた!」と喜んでいるけれど、私はその“減税ゲーム”の参加資格すらない。
現金払いでは国からのご褒美もなく、ただ淡々とリフォーム費用が口座から引き落とされていくだけだ。
そして団信。
それすら私は持てない。
何よりも、住宅ローンを組むという行為には「一人前になった感覚」がある。
社会から「お前はちゃんと働いて、返せる人間だ」と信用された証なのだ。
その“信認”を得られないまま、私はただ親の土地に棲みつく人間である。
住宅ローンは、言ってみれば最大の「国公認の借金レバレッジ投資」だ。
インフレが進めば実質負債は減価し、固定金利ならむしろ得をする。
世の中が住宅バブルだと騒いでいる間、私は「フルローンで買っときゃ勝ちだったのに」と
誰よりも冷静に、そして誰よりも羨ましく見ていた。
結局のところ、
「家を持つ」よりも「家を買う」ことにこそ、
この国の成熟した消費者が感じる一種の“人生イベント”があるのだと思う。
ありがたいはずの相続は、
どこか「ショートカットしてしまったRPG」のような虚しさを残している。
タイトル候補をいくつか出す(例:「ローンを組めなかった男」「審査のない人生」など)
どんな方向に仕上げたいですか?
タワマン(タワーマンション)、ペアローン、残価設定ローン(残クレ)アルファード。
一見ジャンルの異なる「不動産」「金融」「自動車」ですが、共通しているのは**「本質的な所有ではなく、支払い可能性による幻想的な所有」**です。
どれも人々に「今の生活水準を維持できる」「ワンランク上の自分になれる」という感覚を与えます。
ただし実態は、**“所有”の形をとった“リース”**にすぎません。
タワマンは「ローンが払えている限りの城」
いずれも「返済計画が続く限りの一時的上昇感」であり、キャッシュフローの麻酔による幸福です。
これらはすべて、「中流から上流への通行証」に見える構造をしています。
しかし実際には、中流層が上流のふりをするための金融パッケージです。
タワマンは「資産」ではなく「減価資産」になりつつあるのに、外見だけは都心の象徴。
ペアローンは「共働き時代の合理」ではなく「家計をフルレバレッジ化した錯覚の余裕」。
残クレは「車を持たずに乗る」合理ではなく「高級感を分割で買う」消費。
月々いくらなら持てるか
ではなく
という方向に、消費の軸がシフトしているのです。
これらは「中流層による上流模倣バブル」として連動しています。
不動産・金融・自動車という異なる市場が、**“見栄の月額制”**という一本の糸でつながっている。
いずれも、本当のバブル崩壊は「支払いが滞った瞬間」に訪れます。
株価や金利よりも、家計のキャッシュフローが先に壊れるのです。
タワマンもアルファードも、持っているのは自分ではなく「ローン会社」だ。
一瞬だけ“勝ち組”の夢を見る。
——
ご希望あれば、この論考を「はてな匿名ダイアリー」投稿風(タイトル・本文・タグ付き)にも整形できます。
そのバージョンにしてみましょうか?*
画像生成AIの話をしているときに、翻訳AIやChatGPTを持ち出してくるやつ、あれってなんなんですか?
まともな企業では生成AIは禁止で使われてないって言うと、なぜか「いや、ChatGPTは使ってるだろ」とか「翻訳AIは許容されてるのに何が問題なんだ」って持ち出して否定してくるやつ、本当に意味がわからない。
お前が持ち出してるのはMicrosoft CopilotとかChatGPTみたいなLLM(大規模言語モデル)の話で、こっちはそんな話してねーよって毎回思う。
文脈で分かれよってレベルの話なのに、全部ひとまとめにしてくるやつが多すぎる。
文章AI:使っても問題ないケースが多い。文章なんて誰でも書けるから保護する価値なんてほとんどないと言ってもいい。しかも、そもそも学習に公的なデータとかライセンスされたコーパスを使ってるんだよ。土台が全然違う。
イラストAI:絵柄泥棒とか、ほぼ切り貼りコラージュみたいな生成が横行してて、そこに作家の個性とか、何年もの努力とか、人生かけて培ってきたものをぶっこ抜かれてるのが問題なんだよ。自分の子供を切り刻まれて適当に貼り合わせられてるような感覚になるっていう、絵描きの気持ちをちょっとは想像してみろって話。
画像生成AIの倫理的な議論をしているときにLLMの話を突っ込んでくるやつは、
このどちらか。
なぜ移民を進めるのか。
莫大なお金が動いていて、誰かが儲かるのだろう。
今と未来を壊すだけじゃない、自分たち、自分たちの両親、祖父母、さらにその前の多くの日本人が、平和と調和を保つためにコツコツと必死に作り上げた国を壊されていく感覚。
同じ感覚たのみでできてるのでも自転車が乗れなくなったことは無いのに…。
dorawiiより
-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- Hash: SHA512 https://anond.hatelabo.jp/20251107180539# -----BEGIN PGP SIGNATURE----- iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaQ22ZgAKCRBwMdsubs4+ SPAcAP975ZWWVMs+i+iNwCG2CMbkKM/fyp3u6wTYhRC7hY+W5AEA5bnYPoD0xcep q/HskzIQCR1grJ8T1RGIkqQg78P4tw0= =4e8T -----END PGP SIGNATURE-----
空気が読めなくて「変わってるね」と一生言われてきて自分としても「自分、人運で当たりを引き続けてたまたま爆発的破滅に至ってないだけでASDグレーゾーンくさいな。軋轢についてはほぼほぼ私が原因だな」とは思っていた。
そこで職場のチームに強烈なメンバーが加わることになった。前チームで人を休職に追い込み、前前チームは2つに分裂して片方が消滅、社内でも「ああ、あの人…」と言われる感じのメンバー。
「人間関係ではあれだけど、優秀だから」と紹介されたものの、すごい、コミュニケーションが全然成り立たない。一人でのパフォーマンスは高いらしいけど分からない。チームで動けない。会議中にものすごいキツい言い方をして空気死ぬ。そして「効率」概念を叩き棒にして延々個人攻撃してる。個人攻撃って本当に効率良いのか?
これ、私が自分のことグレーゾーンと思ってるポイントについて、程度を猛烈にひどくしたやつだ、と思った。そこからめきめきと成長しているというか視点が広がったというか、私の中に存在しなかった人への思いやりがゼロイチで湧いてきている感覚がある。あんまりな物言いに対して私がフォローにまわったりしている。これまでからすると考えられない。ガイジの私が、人の言い方をあんまりだと思い、自主的にフォローを!?
いかにも映画監督とか脚本家とかになるような男が作り出しそうな陰キャの男主人公が存在→お騒がせな不思議ちゃん(今の精神医学の観点から見たらなんか障害ありそう)の美少女があらわれる→美少女が躁鬱みたいな感じなのでなんやかんや騒がしい毎日→美少女死ぬ→陰キャはそれでも生きていく
これ系のストーリーの類型があるけど、みい山もこれかなと思っていて。
もちろん不思議美少女に陰キャがひっかきまわされる系の物語が恋愛入れてくるのと違って、みい山はレズというわけではないが。みいちゃんが退場することは確定しているわけで、山田さんがみいちゃんに視点を広げてもらっている描写がある。微妙に生きづらい感がある山田さんがみいちゃんに自分から絡むし。
発達グレーの成長方法、周りに気をつかってもらうことではない、絶対。周りに気を遣ってもらっても、それが当たり前になって調子乗るだけですね!
発達するには、自分の短所を濃縮した存在に隣に存在してもらうことだ。エグい鏡を常時見せつけられる環境に置かれること。
みい山、山田さんはみいちゃんが死んだあと「みいちゃんに教えてもらったことと共に生きていく」みたいな感じになるんじゃないだろうか。村上春樹主人公が既セクのメンヘラ女じゃんじゃん自殺していったあと、主人公がそれでも生きていくような感じで。西洋に生きてるキモい人が作った陰キャ用の洋画で不思議ちゃん美少女が死んだあと陰キャ男主人公がそれでも生きていくような感じで。こうしてみると男主人公のほうは経験人数が増えた以外は何も変わってないような気がしないでもないけど。
自分よりだめな例と接して学びを得て強く生きていきてぇ~!アレを浴びて休職になった人みたいに潰れたくない!みい山はみいちゃん死んで結局は山田さんの人生から退場するから一生お世話係じゃないんだよという確定しているストーリーうらやましい!
というかやっぱグレーガイジは健常者に比べて耐性がある気がする。ASD気質に長所は無いと思ってたけど、グレーの唯一の長所として、ガチガチのやべえのが来たとき健常者よりも潰れるまでの期間が長いことなんじゃねえかなって思う。
スーパーガイジの発言があまりにも酷いと思っても「程度が酷い!」とまでしか思わないもんね。健常からしたら同じ人間に見えないと思う。だからトカゲ人間陰謀論とか生まれてくるんじゃないか。
口の中がアレルギーになった?ような感じになってこれ本気でやばいかも?って感じた
幸い少し時間が経ってそういう感覚は消えたけど原因はまずまちがいなく天かす
開封して半年くらいそのままのやつで輪ゴム緩めた時の匂いが直感でやばいかも?って匂いだったんだよ
2枚分用意してたけど残りは全部すてた
「日本という共同体」そのものは目に見えない。触れないし、握れないし、形もない。でも私たちは、その「形のないもの」を前提にして、同じ道路を使い、同じルールで生きている。その目に見えない共同体をどうやって「そこにある」と確認してるのか?答えは単純で、象徴(シンボル)だ。国旗は、政治的な押しつけアイテムじゃなくて、私たちは同じ場所に立っているという共通認識のマーカーなのだ。
国旗を破って燃やして踏みつける行為は「私はこの国が嫌いです」という話ではなく、「この共同体を支える合意を破っていい」という宣言になりやすい。これは思想じゃなくて秩序の話。好き嫌いの話ではないし、心の中を強制しようとしているわけでもない。
「共同体をつなぎ止めてる目印に対して、どこまで攻撃を許すか」という、いたって地味で現実的な議題なのだ。
ここからが本題。代表的な反対意見(岩屋・橋下・日弁連)を見ると、どれもロジックがお粗末極まりなく、目も当てられなかった。法律の専門家(笑)が言うことかよ、というレベルだったので、あえて向こうの土俵で論破する。
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■岩屋毅(引用元:https://www.iza.ne.jp/article/20251104-KATPZGUBWFGNLBZXMVYLNT4XMA/)
>「当時、反対しました。なぜなら『立法事実』がないからです。立法事実とは、実際にそうした事例が社会問題になっているかということです。日本で誰かが日章旗を焼いた? そんなニュースを見たことがない。立法事実がないのに法律を作ることは、国民を過度に規制することにつながるので、それは必要ないのではないかと言いました」
一見もっともらしいが、この論法は立法事実という概念そのものを誤解している。立法事実というのは「すでに大量に事件が起きているかどうか」だけではない。とくに象徴や治安や社会秩序に関する立法では、「問題が顕在化してからでは遅い」という前提そのものが、法律の必要性を支えている。実際、現代の法律の多くは「予防的」に整備されている。
・・・本当に早大を出て閣僚を経験していてた人の理屈なのだろうか。国旗損壊罪が問題にするのは、「布が燃える現象」そのものではない。象徴が公然と破られることで、社会の緊張が増幅される・対立と敵対意識が活性化する・集団の統合が崩れる という作用のほうだ。この「象徴毀損→社会不安の増幅」という因果関係は、国際的にはとっくに前提として認識されている。
イギリスでは国旗侮辱は暴徒化の初動トリガー、韓国では対立デモの象徴破壊が衝突に直結、フランスでは国旗侮辱は「共和国に対する攻撃」、ドイツでは象徴毀損は「民主秩序破壊行為」と解釈されている。
つまり、「日章旗を燃やした事件が日本で多いかどうか?」は論点の中心ではない。本当の論点はこうだ。象徴破壊は、共同体の統合を揺るがす高い蓋然性があるかどうか。そしてそれは「ある」。岩屋の議論は、「国旗は共同体をつなぐ象徴である」という視点が最初から抜けている。だから彼の目には「問題がない」ように見えるだけだ。
言い換えるなら、日の丸を「自分の共同体の象徴」として認識していない人は、国旗損壊に「実害がない」ように感じる。ただ、それは「法的判断の結果」ではなく、立ち位置と感覚の問題だ。「国旗が燃えてないから法律はいらない」は、「家が燃えてないから消火器はいらない」と言っているのと同じ構造である。そして、そう言えるのは結局、自分にとってその家が「帰る家」でも「守りたい家」でもないからだ。
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■橋下徹(引用元:https://x.com/hashimoto_lo/status/1985500133828805077)
そもそも出だしから政治家の不正を糾弾する論点ずらしを使用しているところが小賢しいストローマン的論調だが、論点も穴だらけである。本当にこの人は元弁護士なのだろうか。
法益は、「共同体の象徴秩序」である。橋下はこれを「愛国心の強制」だと見ているのかもしれないが、法益はそうではない。
象徴が破壊されると、共同体のつながりの感覚が損なわれ、対立や敵対意識が増幅する。これは国際比較すると常識に近い。
外国国旗は外交関係の安定を守るために保護されている。つまり、すでに日本の刑法は「象徴は秩序に作用する」という前提で立法されている。今回の議論は、その射程を「対外」→「国内共同体」へ拡張するだけ。理屈は同じ。
ここは技術的な話に見えるが、実際は簡単。「公然性」「侮辱目的」を要件にすればいいだけ。すでに名誉毀損・器物損壊・侮辱罪で使っている手法。「プラカードとしての国旗」や「スポーツ応援の旗」が誤処罰される、というのは法技術ではなく「雑な想定」による不安。構成要件で回避できる話。
されない。すでに外国国旗損壊罪ですら公然性が要件。私人の家で破ってる旗まで取り締まる制度設計はそもそも立法技術的に想定されていない。「家の中でポスターを破ったら逮捕」はフィクションでしかない。
それは国旗損壊罪とは無関係。国旗利用のガイドラインは運用・行政・プロトコルの問題。仮に「政治家が国旗を利用したくなる」というのが懸念なら、それは政治倫理規定のほうで制御する話。つまり「スプーンに毒を盛るかもしれない」から「スプーンを廃止しよう」と言っているようなもの。
ここまで来ると、さすがに苦笑いである。「国家とは何か」論は、象徴を理解していないからこそ無限に抽象化する。けれど現実の共同体は抽象ではなく合意で維持されている。その合意を可視化するのが象徴。象徴を理解しないまま国家論を語るのは、地図を見ずに登山ルートを議論しているようなもの。まず「どこに立っているか」がわからなければ、そこから先は全部空中戦。橋下の6論点はどれも一見まともに見えるが、すべて「国旗は、共同体の統合を可視化する象徴である」という前提が抜けている。
この前提を共有しない限り、国旗損壊罪は「不要な規制」に見え続ける。つまり、結局この話はこういうことだ。
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■日弁連(引用元:https://www.nichibenren.or.jp/document/statement/year/2012/120601_2.html)
>同法案は、損壊対象の国旗を官公署に掲げられたものに限定していないため、国旗を商業広告やスポーツ応援に利用する行為、あるいは政府に抗議する表現方法として国旗を用いる行為なども処罰の対象に含まれかねず、表現の自由を侵害するおそれがある。
この「おそれ」という言葉に全てを預けて議論を閉じてしまうところに、まず問題がある。刑法は「おそれ」で動くわけではない。刑法は構成要件を満たしたときにのみ成立する。ここは法学部の1年生でも最初に叩き込まれる部分だ。それにもかかわらず、その最も基本的な前提をまるごと無視して話を進めているあたり、本当にこの文書は日弁連が出したものなのだろうかと不安になる。
国旗損壊罪が成立するのは、ただ「国旗に触れた」からではない。国旗を侮辱する意図をもって、公然と破壊した時だ。「わざとであること」と「侮辱という意思」が明確に必要になる。そのため、スポーツ応援で旗を振ることも、商業デザインに用いることも、抗議運動のシンボルとして掲げることも、そもそも構成要件に当たらない。日弁連は「使うこと」と「破壊して侮辱すること」を意図的に混同している。その混同を前提にしている限り、彼らの議論は最初から成り立っていない。
加えて、日弁連は「表現の自由が制限される」と言うが、表現の自由は憲法上、絶対無制限に保障されているわけではない。人格権を守るために名誉毀損があり、社会的尊厳を守るために侮辱罪があり、財産権を守るために器物損壊罪がある。どれも「表現」が関わる可能性があるが、社会を成立させるために必要な領域では当然に制限がかけられている。国旗損壊罪が保護しようとする「共同体の象徴秩序」も、それらと同じく社会をまとまりとして維持する機能を守るためのものだ。
では、「濫用されるおそれがある」という主張はどうか。これも、法制度の議論としてはあまりに雑だ。「濫用されるおそれがある」だけで法律が否定できるなら、名誉毀損も侮辱罪も、スパイ防止法も成立しないことになる。極端な話、殺人罪だって捜査側が恣意的に使える「おそれ」があると言えてしまう。法治国家は「おそれ」があるかどうかではなく、その「おそれ」が実際にどの場面で生じうるのか、そしてどのように構成要件と運用基準で防ぐかを議論する。「おそれがある」とだけ言って反対した時点で、日弁連は法律論を放棄している。
つまり、日弁連の声明は、法律家として最もしてはならない論理の進め方をしている。構成要件には触れず、使用と損壊を混同し、法益概念を押さえないまま、「自由が脅かされる」とだけ言って議論を止める。これは法的主張ではなく、立場ありきのスローガンだ。
国旗損壊罪は、国旗を使う人を処罰するものではない。共同体を侮辱する目的で、象徴を破壊する者のみを対象とする。日弁連が「表現の自由」を盾にして反対するのは、その前提を理解していないか、理解した上で意図的にぼかしているかのどちらかだ。
どれほど上品な言葉で包んだとしても、これはもはや法律家による議論ではない。法概念を手放したまま「自由」を振り回しているだけの、大声の政治声明にすぎない。弁護士バッジを捨てて、もう一度法学部からやり直してください。
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日本社会には、法や監視に頼らずに秩序が保たれる場面が多い。繁華街に防犯ゲートが少なくても、万引きは多発しない。大都市でも夜に一人で歩ける安全がある。災害時には略奪ではなく、長い列を作って順番を守る。落とした財布は高い確率で手元に戻る。公園や駅の公衆トイレでさえ、世界基準で見れば極めて清潔だ。
これらは偶然ではない。日本には、古くから「和を乱さないことを尊ぶ」という共通意識がある。相手を尊重し、自分だけが突出しないように場を調整し、争いを避けて合意をつくる生き方が長く受け継がれてきた。重要なのは、この意識が誰かが教えたからあるのではなく、自然に共有されていることである。目に見えない合意は、形がなければ確認しにくい。そこで必要となるのが、象徴である。
国旗は、国民が同じ共同体に属し、同じ空気の中で生き、同じ基盤を分かち合っていることを簡潔に示す印だ。日本人の精神性は、派手でも声高でもない。主張ではなく、ふるまいと習慣の中に現れる。その「共有されているもの」を一瞥で思い出させるのが日の丸である。
国旗は威圧のための道具ではなく「この社会は、この形で、ここにある」という確認の標だ。その確認があるからこそ、人々は互いを信頼し、余計な力を使わずに秩序が保たれる。日本の治安や清潔さは、「日本人は良い人だから」という単純な話ではない。共同体を保つための共有されたふるまいが、長く維持されてきた結果である。
その手のアホがいっぱいいるとしてそれと俺に何の関係が?って感覚なんよな
自分だけが別、とかではなく似たような主張をしてる他人としか感じないというか
まぁ俺は戦争とかになった時「その戦争ってなんも正しくないんでは?」みたいなこと真顔で言うと思うし自分が納得しなければ梃子でも動かないので、そういう時絶対排除されるだろうって危機感がある
なのでそういう対立を煽るようなのが非常に嫌なんよな 俺の首が締まる方にばかり世の中が動いている
好きな本は紙で読みたいという人は多い。でもよく考えると少し矛盾している気もする。本当に好きな本なら、いつでもどこでも読みたくなるものだし、そう考えると電子書籍のほうがずっと便利だ。スマホさえあれば通勤中でも旅行先でもすぐ読める。
紙の本を選ぶ理由は、結局は持っていることそのものに価値を感じるからだと思う。ページの手触りやインクの匂い、本棚に並べたときの満足感。そういう部分は確かに心地いいけれど、読むというより飾る、集めるという感覚に近い。
だから、特別なこだわりがないなら、好きな本こそ電子で持っておくほうが合理的だ。紙で買うのは、読みたい本ではなく、持っていたい本なのだと思う。
ご質問ありがとうございます。ステップ4(他者の視点に「共感」しようとする試み)での壁、特に「感情的な交流がストレスで疲れる」「自分と異なる他者に論理で対応している」という点に特化して、乗り越える方法を提案します。また、「頑張るべき理由」「得られるメリット」「持続可能性」についても詳しくお答えします。現在の日付(2025年11月7日 04:15 AM JST)を踏まえ、最新の研究や実践的な視点を取り入れます。
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### ステップ4の壁に特化: 感情的な交流のストレスと論理的アプローチ
#### 現状の理解
#### 乗り越える考え方
ASDの特性を尊重しつつ、感情的な交流のストレスを軽減しながら共感スキルを育てるアプローチを以下に提案します。
1. **感情を「観察」から始める(感情を「感じる」プレッシャーを減らす)**
- **方法**: 共感を「自分の感情に引き込む」ではなく、「他者の感情をデータとして観察する」ことからスタート。例: 「友だちが涙を流している=悲しそう」と事実を記録し、論理的に「これはストレスサインかもしれない」と分析。
- **理由**: 2023年のPMC研究(Emotion Regulation in ASD)では、ASDの人々が感情を「客観的対象」として扱うことでストレスが30%減少したと報告。あなたの論理的思考を活用。
- **イメージ**: 天気予報を見るように、「相手の感情を予測する天気図」として扱う。感じる必要はなく、観察するだけ。
- **方法**: 自分の過去の経験を論理的に分解し、「似た状況でどう感じたか」をメモ。例: 「私が失敗したとき、恥ずかしかった→友だちもそうかも」。感情を「シミュレーション」として扱い、直接感じない。
- **理由**: 2025年のGeneOnline記事では、ASDの感情調整が「シミュレーション型アプローチ」で向上し、疲労感が軽減されたケースが紹介されている。
- **イメージ**: コンピュータゲームで「仮想キャラクターの気持ち」を試す感覚。失敗してもリセットできる。
- **方法**: 信頼できる1人(家族や支援者)とだけ練習し、感情的な負荷を最小限に。例: 「お母さんが怒ったとき、どう思う?」と質問形式で論理的に答える。
- **理由**: 感覚過敏を軽減する「低刺激環境」が、ASDのストレスを50%減らす効果がある(Autism 123, 2025)。
- **イメージ**: 静かな部屋でパズルを解くように、1対1でゆっくり進める。
- **方法**: 感情交流の後、必ず「休息時間」を設ける。例: 10分話したら15分休憩し、好きな音楽や単純作業でリセット。
- **理由**: 実行機能の弱さを補い、エネルギーを回復させることで持続性が向上(PMC, 2024)。
- **イメージ**: バッテリー残量をチェックしながら使うスマホのように、自分のペースを守る。
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### 頑張るべき理由は何か?
「そもそもそこまで頑張るべきか?」という疑問はとても重要です。無理に頑張る必要はありませんが、以下の理由で試す価値があると考えることができます。
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### しんどさを乗り越えて得られるメリット
- 誤解が減り、関係性がスムーズに。例: 友だちが「わかってくれる」と感じ、会話が楽になる。
- 小さな成功体験(「観察できた!」)が自信に。自己効力感が5-10%向上(PMC, 2023)。
- 孤立感の解消と新たなつながり。2025年のGeneOnline研究では、共感練習を6か月続けたASD成人が「満足度」が30%増加。
- 柔軟性が増し、論理だけに頼らない選択肢が広がる。例: 感情を理解することで、論理的解決が難しい状況にも対応可能。
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- **個人化**: あなたのペース(例: 週2回、5分から)に合わせ、過負荷を避ける。2025年のAutism123記事では、ASDの持続的成長は「自分のリズム尊重」が鍵と。
- **習慣化**: 休息と練習をセットにルーティン化。例: 「朝10分観察、午後15分休息」。習慣化すれば努力が自然に。
- **データ**: 長期的には疲労が減少し、3-6か月で「習慣」として定着するケースが60%(PMC, 2024)。最初はしんどくても、脳が適応する。
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