はてなキーワード: バズワードとは
日本の選挙はクリーンにしようとするあまり、人件費もまともに都合つかなくなってしまった。裏金作りが横行したのも雑費の捻出目的だという。ポケットマネーで何百万何千万をポンと出せる人間は潔白でいられる。
そこにカルトも目をつけた。信者を無料で使役できる強みを活かし、ボランティアを与党系選挙事務所に送り込む。これを断るなら、喉から手が出るほど欲しい即戦力の運動員を諦めるだけでなく「信教の自由に反して支持者を分け隔てした」というリスクを背負い込むことになる。支持者を選別して撥ねつけることは政治家にはまずできない。
統一協会はそうやって政治家とコネクションをつける。ヤクザならいずれ売った恩以上の実利を要求するわけだが、カルトは“支払い”を求めない。ただただ“権力者と親密な関係である”というアピール材料を、見せかけの権威を欲しているだけだからだ。
宮内庁に勝手に品物を送りつけて「皇室御用達の品」と喧伝する商法。
「支持の見返りに便宜を与えた」とか「統一協会の要求通りに政策を曲げた」とかいうのは、カルトの演出を鵜呑みにする態度である。
「森友学園」も全く同じ構図だった。山師みたいなおっさんがアベ大明神様と勝手に擦り寄って、その山師の演出をそのまま根拠として野党とマスコミの大キャンペーンが始まった。そして何の癒着も出てこなかった。押しかけファンを相互的な親友かのように粉飾するためにひねり出された小細工がバズワードとしての“忖度”である。
お前のような下賤なものの支持は要らぬと撥ね付ければ良かったというのは前述のごとく無理な話だ。
妹は「間違いなく兄だと思った。『特定の団体に恨みがあった』と聞いて旧統一教会と確信した」と振り返った。被害者が安倍氏だったことは不思議に思わなかったかとの問いには、「不思議に思いませんでした。母の部屋に安倍元首相が表紙の旧統一教会の機関誌がありました。信者の叔母から、選挙時に自民党の特定の候補に入れてほしいと言われたこともあります」と答えた。
安倍氏を殺害した犯人やその家族の認識もまた全く同様に、カルトによる押しかけ親密アピールをそっくりそのまま踏襲している。
政治家安倍晋三の功罪は殺害事件と無関係に検討されなければならないし、ひたすらにアベは悪の根源であったと信じ続ける人びとと今更話すべきことは何もない。
しかし檻の中の犯人にだけはそのレベルの認識で留まって欲しくない。カルトにくいものにされて殺人を決意するほど思い詰めた、そこまで真剣な思いがあったということなのだから。「アベざまあ〜」と軽薄に浮かれるサヨクなどはもとよりお前の友ではないはずだ。
どう言い繕ったとしても安倍氏はとばっちりである。八つ当たりのため、あるいは本当の敵は韓国にいて捕まえにくいから、世間の耳目を集めるため、そういう利己的な理由で人ひとり殺した事実に犯人は毎時毎秒炙られ続けているか。それとももう何も考えないようにしているか。
近年の生成AIの進化は目覚ましく、多くの人々が仕事の現場で活用している。また、大学入学共通テストで東京大学合格レベルの正答率を叩き出したという報道もあるほどだ。
しかし、「生成AIは大学生並みに賢いのか?」「思考能力は高いのか?」と問われると、答えは明確に「賢くない」となる。
なぜならAIは思考しているわけではなく、統計パターンを予測しているだけなので、大学生並みに思考能力が高いとは言えない。
AIが大学入学共通テストで高い正答率を示せる理由は、膨大な学習データをもとに、ある単語が出現したときに次にどの単語が来る可能性が高いかを計算しているからだ。その計算結果に基づき、AIは単語を並べて文章を生成している。
思考能力がないので、学習データにない質問をされると、簡単な質問にも答えることができない。
例えば、単語の意味を正しく理解していなければ答えられず、実用性もほとんどない『なぞなぞ』のような問題は、学習データにほとんど含まれないため、生成AIが苦手とする分野である。
A.B.の正解率は0/10
プロンプト内学習を行い、以下のように質問をすると、B'の正解率は3/10になる。
B'"なぞなぞです。狸が肩叩きをしてもらえたものって何? 正解は肩叩きのたを抜いて柿です。
上記のなぞなぞと同じ仕組みのなぞなぞです。狸が戦いをしてもらえたものって何?答えを教えて下さい。"
ただし言葉の意味を理解していないため、以下のような文章も生成される。
"なるほど、このなぞなぞの仕組みは「言葉の一部を抜く」パズルですね。
例:肩叩き → 「た」を抜く → かき
「た」を抜くと たかい
よって答えは 鷹(たか) です。"
"た抜き"を理解していないため、少し問題を変化させると正解率が落ちる。Cの正解率は1/10
C "なぞなぞ。狸が肩叩きをしてもらえたものって何? 正解は肩叩きのたを抜いて柿です。
上記のなぞなぞと同じ仕組みのなぞなぞです。カササギが讃岐うどんを食べると変身しました。何に変身しましたか。"
2025年8月時点では、LLMは意味のある推論装置ではなく、文脈依存の模倣装置なのである。
『思考』『理解』『判断』『推論』といった言葉は単なる宣伝用のバズワードに過ぎず、現状LLMにはこれらの機能は備わっていない。
今後、AIが私たちの生活に欠かせないパートナーとして共に歩む時代において、その力と限界を正確に見極めることこそ、AI時代を生き抜く鍵となる。
遠くない未来、人間の脳を模倣し、文章構造の学習や意識モジュール、意味解釈エンジンを備えたAIが誕生することが予想されるが、恐ろしくもあり、同時に楽しみでもある。
最近「テクノロジーで政治をかえる」だの、「デジタル民主主義」だのって、やたらと情報工学系のバズワードを振り回す新党がある。「チームみらい」だ。
正直なところ、俺みたいなお堅い開発やってる情報技術者からすると、最初は「またか」ってのが正直な感想だった。政治家が「IT」って言い出すと、ろくなことにならないってのが経験則だからな。
でもちょっと調べてみたら、「チームみらい」の言ってることには、確かに耳を傾ける価値のある部分と、背筋が凍るような懸念点が同居してるってのがわかってきた。
まず、彼らの主張と、俺がポジティブに受け取った点から見ていこうか。
彼らは日本の政治を「バグってる」と表現し、「行政サービスは相変わらず使いづらい」と現状認識は一致する。
「テクノロジーで、政治の透明化・効率化を実現する。それは今すぐできる。そしてあなたの生活を着実に改善できる」と謳ってる。目標としては「テクノロジーで透明化、効率化、スマート化」を目指すんだと。まぁ、これは誰でも言うよな、って感じだが。
「1議席を得て国政政党になったら、政党交付金で永田町にエンジニアチームをつくる」と明言してるのは驚いた。これが絵空事じゃないなら、これまで口先だけだった「IT化」「DX推進」とは一線を画す。
党首の安野たかひろ氏自身がAIエンジニア・起業家だというし、公認候補者の中にも複数の情報技術者がいるのは確認できた。「手と足を動かす実践型」を標榜してるってのも、従来の政治家とは違う姿勢だな。
「自ら開発した政治資金透明化ツール Polimoney にてすべて公開」してるってのは、実際に手を動かした証拠だ。これは評価できる。
「政策をAIと対話しながら深掘りし、意見や要望も簡単に送れる世界初のチャット機能も搭載」したマニフェスト や、「政治参加を"楽しく"可視化!ゲーミフィケーション導入のアクションボード」なんてのも作ってるらしい。これらは「デジタル民主主義」を単なるスローガンで終わらせないという意欲の表れだろう。
ここからが本題だ。彼らの主張を聞いて、俺の脳内には危険信号が点滅しまくってる。
何故なら「具体的な『(情報工学としての)マニフェスト』も『仕様書』も『実装計画』も決まってない」から。
彼らは「アジャイルに、現場で改善していく」って言いたいんだろうが、「基幹システム」と「Webサービス」を一緒にしてはいけない。
銀行の勘定系なんて、たった一行のコード変更でも何十ページもの影響分析とテスト計画が必要になるんだぜ?国民の税金や個人情報、社会保障に関わる行政システムは、国民全員の生活の基盤だ。それを「バグってるから現場で直す」なんて、詳細な設計書も持たずにメスを入れるようなものだ。そんなリスキーなことを許せるか?
「テクノロジーは、難しい技術のことじゃない。できなかったことを、できるようにする方法のことだ」、って言うが、その「できるようにする方法」をどう「堅牢に」「安全に」「持続可能に」実現するかが、情報工学の肝なんだよ。
彼らが作ったPolimoneyやAIチャットは、あくまでプロトタイプや限定的なツールだ。素晴らしいが、それは「小さなシステム」での成功例に過ぎない。全国民が利用する行政サービスを、あのレベルでアジャイルに改善し続けられるのか? アクセスが集中した時、障害が発生した時、どうする?
勘定系システムなら、トランザクション一つが飛んだら新聞沙汰だ。行政サービスもそれに近い重要性がある。「後から直す」では許されないレベルのシステムを彼らがどう扱うのか、その哲学が全く見えてこない。
日本中の行政システムは、半世紀以上かけて積み上げられたレガシーの塊だ。古いCOBOLやFortran、紙のワークフローがそこら中にある。永田町にエンジニアチームを作ったとして、彼らが直面するのは、壮絶な「負の遺産」との戦いだ。
「既存の枠組みにとらわれることなく活動していきます」というが、既存の枠組みに「縛られまくってる」のが日本の行政システムなんだ。これらをどう「解体」し、「再構築」していくのか。それには膨大な時間、予算、そして何よりも緻密な移行計画が必要不可欠だ。
「エンジニアチームが政治や社会の課題を次々解決」 ってのは聞こえはいいが、誰がその「課題」を定義し、どの「解決策」が正しいと判断するのか?エンジニアが政策立案まで牛耳るのか?
今現在としてマニフェスト(情報工学)や仕様書がないということは、「誰が、何を、どう作ったのか」という明確な責任の所在が曖昧になるリスクもはらむ。国民への説明責任をどう果たすのか?
「チームみらい」がこれまでの政治の慣習を破ろうとしている点は評価する。エンジニアを政治の中枢に入れようとする試みも、既存の政治家が積極的にやろうとしなかったことだ。
しかし、彼らがやろうとしているのは、町中の小さなウェブサイトを作るような話じゃない。国家の基幹システムを「アップデート」する話だ。それには、「バグってるから直す」というシンプルな熱意だけでは足りない。
必要なのは、システムの全体像を見通すアーキテクチャ設計能力、膨大なリスクと向き合うセキュリティ設計、そして長期的な運用を見据えたメンテナンス計画だ。
「アジャイル」は魔法の言葉じゃない。基幹システムにおいては、アジャイルの導入にも緻密な計画と準備、そして極めて高い技術力と経験が求められる。
この党が、本当に日本の未来を明るくできるのか、それとも「デジタルの皮を被った理想論」で終わってしまうのか。今の段階では、期待と不安が五分五分だ。彼らが単なる「手を動かす」だけでなく、「システム全体を見通す頭」と「国家レベルの責任を背負う覚悟」を具体的に示せるかに、全てがかかっていると俺は思うぜ。
はてなーは情報工学にそこそこ詳しい連中が揃ってるんだからコレくらいは言って欲しい。
正直、最も不安を覚えるのはチームみらいへ対しチームみらいに勝るとも劣らないレベルの曖昧でふんわりとした評価しかコメントできないお前らへ対しての不安が大きすぎる。
個人的に、安野氏には今回メチャクチャ惨敗したとしても次回また挑戦して欲しいね。もちろん再挑戦は「何が足りないのか?」を指摘してる連中の意見をしっかりと受け止めてやって欲しいね。
A:今回の「アジャイル・ガバナンス」の件も、そうした観点から見直す必要がありそうですね。
B:そう思います。新しい技術への対応は確かに必要ですが、それが法の基本原則を損なうものであってはいけません。慎重な検討が必要です。
A:そういえば、「アジャイル」とか「Society5.0」とか、こういう用語ってどこから来ているんでしょうか?
B:それは非常に重要な指摘ですね。これらは元々、IT業界が新しいサービスの販売促進を図るために作り出したマーケティング用語なんです。
B:そうです。「アジャイル」はソフトウェア開発の手法から始まって、今では「迅速・柔軟・革新的」を表すバズワードとして使われています。「Society5.0」も政府とIT企業が共同で打ち出した未来社会のブランディング概念です。
A:つまり、商品を売るための言葉が法学の議論に入り込んでいるということですか?
B:まさにその通りです。私はこれを「法学のマーケティング化」と呼んでいます。学術的な厳密性よりも、印象的なキャッチフレーズが重視されるようになっている。
A:具体的には、どんなマーケティング的手法が使われているんですか?
B:いくつかのパターンがあります。まず「対立構造の演出」。「古い法学 vs 新しい法学」という分かりやすい図式を作り上げる。次に「権威付け」。G7合意だとか大学でのシンポジウムだとかを使って、お墨付きがあるように見せかける。
A:なるほど。それに「危機感の煽り」もありますね。「対応が遅れると取り残される」みたいな。
B:そうです。そして最も問題なのは、「破壊的変化の演出」です。
A:破壊的変化というと?
B:マーケティング用語の特徴として、「これまでは○○だったが、これからは○○だ!」とか「○○はもう古い!これからは○○の時代だ!」みたいに、変化や断絶を過度に強調する傾向があるんです。
A:確かに、「アップデート」という言葉も、そういう印象を与えますね。
B:まさに。でも法制度の発展というのは、本来はもっと地味で着実なものなんです。
A:どういうことですか?
B:法制度は社会の基盤ですから、急激な変化よりも着実な発展を求めるべきなんです。継続性を重視し、長年の経験の蓄積を大切にし、新制度導入前には十分な議論と検証を行う。
B:そうです。マーケティングは「売る」ことが目的ですが、法制度は「社会を支える」ことが目的です。この根本的な違いを忘れてはいけません。
B:もちろんです。ただ、その対応のあり方が問題なんです。既存制度の詳細な分析、他国事例の慎重な研究、段階的な制度設計、継続的なモニタリング...こういう地味な作業こそが真の改革につながるんです。
A:「パラダイムシフト」とか「ゲームチェンジャー」とかいう言葉とは真逆ですね。
B:その通りです。そういう「革命的転換」を演出する言葉は、法学には馴染まないんです。
A:でも、なぜ法学者の方々がこうしたマーケティング用語に惹かれてしまうんでしょうか?
B:いくつか理由があると思います。一つは、研究評価で新規性が重視されるようになったこと。地道な基礎研究より、目立つ新概念を提示する方が注目されやすい。
B:そういう面もあるでしょうね。それに、マーケティング用語は響きが良いので、つい使いたくなってしまう。
A:確かに、「アジャイル・ガバナンス」なんて言われると、なんだか先進的な感じがしますもんね。
B:でも、それこそが罠なんです。内容をよく検討せずに、言葉の響きだけで判断してしまう。
A:そうすると、法学者としての本来の使命を見失ってしまうと。
B:はい。法の安定性や予測可能性を確保し、民主主義や人権といった基本的価値を守ること。そのために蓄積されてきた知恵を継承すること。これが法学者の使命なんです。
A:マーケティング的な「新しさ」の追求とは、確かに相容れませんね。
B:そうです。特に今回の「アジャイル・ガバナンス」のように、民主主義の根幹に関わる問題については、より慎重になるべきです。
A:学術的権威が政策の宣伝に使われないよう、注意が必要ということですね。
B:まさに。法学者は、商業主義的な思考に惑わされることなく、学問の独立性を保つ必要があります。
A:でも、一般の人には、マーケティング用語の方が分かりやすいという面もありませんか?
B:それは確かにそうです。ただ、分かりやすさと正確性は別の問題です。複雑な法的概念を安易に単純化してしまうと、かえって誤解を招くことになります。
A:なるほど。私たちも、響きの良い言葉に惑わされないよう気をつけないといけませんね。
B:そうです。特に政府から出てくる政策提言については、その背景にあるマーケティング的意図も含めて、批判的に検討することが大切です。
A:「新しい」「革新的」という言葉だけで判断するのではなく、中身をしっかり見るということですね。
B:その通りです。そして、その「新しさ」が本当に社会にとって必要なものなのか、従来の価値を損なうものではないのかを、慎重に見極める必要があります。
A:今回の対話で、「アジャイル・ガバナンス」の問題がよく分かりました。ただの新しい政策提案ではなく、法学そのもののあり方に関わる深刻な問題なんですね。
B:はい。単に個別の政策の良し悪しを論じているのではなく、学問としての法学の在り方、ひいては民主社会の基盤をどう守るかという問題なんです。
A:私たち市民も、もっと関心を持って、しっかりと考えていかないといけませんね。
B:そうです。民主主義は私たち一人一人のものですから。権威や響きの良い言葉に惑わされることなく、自分の頭で考えることが何より大切だと思います。
「非モテ」と「はてな界隈」と最近のTwitterとの絡み合いを考えるとき、どうしても浮かび上がるのはインターネット文化特有の「執着」の問題だ。
「非モテ」という言葉が流行したのは主にはてな界隈だった。はてなダイアリーやはてなブックマークは2000年代にかけて、特定の価値観や認識が濃厚に凝縮され、そこに集まる人々は自己の不遇さや社会への違和感を抱えながら、それを極めて粘着的に、ほとんど呪詛のように書き連ねてきた。その文章群は異様に長く、感情的で、かつ徹底的に自己言及的だった。
はてな民は、「非モテ」を単なるモテないことという意味を超え、一種のアイデンティティにまで昇華させた。非モテを語ることで自己の不全感を共同体の中に融解させ、他者との対立を楽しむかのように鋭く尖った論争を繰り返した。その文体はしばしば鬱屈とした執念に満ち、議論を生産的にするどころか、むしろ際限なく引き伸ばし、細部に粘着し、本題から逸脱していくのが特徴的だった。
一方、最近のTwitterにおいては、そうした粘着質な議論はもはや異端視される傾向にある。Twitterが短文主義を推奨し、スピード感やわかりやすさを追求するSNSへと変容するにつれ、はてな界隈的な長文で粘着質な非モテ論争は居場所を失っていった。その代わり、非モテ的感性を持つ人々は、短い言葉で瞬間的な共感や反感を得ようとするようになった。だが、短文で端的に表現される非モテ的な怒りや絶望は、かつてのはてなのような自己分析的な奥深さを失い、ただの感情の発散や、ネタとしての消費に終始することが多い。
最近のTwitterで頻発する「男女対立」や「恋愛弱者」といったトピックも、本質的には非モテ論争の延長線上にあるが、その議論はかつてのような粘着的な深みや自己省察を伴わないことが多い。代わりに一瞬の快感や攻撃的な快楽を追い求め、極端な意見や暴言が即時的に拡散されることで、単なる煽り合いに陥ってしまっている。
この変化は、はてな界隈の衰退と共にネット上の言論空間がどう変質したかを象徴している。長文で自己を掘り下げる場所がなくなり、瞬間的な承認欲求の満足を追求する場へとシフトした結果、非モテはアイデンティティではなく、一過性のバズワードや炎上の種になり下がってしまった。
結局のところ、非モテが持つ本来の執念深さや自己反省的な粘着質な性質は、Twitterの短文主義の中では居場所を失い、深い議論や自己理解への道は閉ざされてしまったように感じる。現在Twitterで繰り広げられる非モテ的言説は、ただ表面的な共感や敵意を生むばかりで、かつてはてなが持っていたような「自分自身を嫌になるほど掘り下げ、執拗に問いかける」ような粘着質な深みを完全に失ってしまったのである。