はてなキーワード: ミニコミ誌とは
やおい論争が掲載されたミニコミ誌 『CHOISIR』は、一部を除いて以下で読める。
https://wan.or.jp/dwan/dantai/detail/57
やおい論争の発端となった20号 (1992年5 月)は、以下。
https://wan.or.jp/dwan/detail/6212
やおい論争は「BLのあり方を見つめ直すきっかけ」にはなったのかもしれないが、最終号Vol.47(1996年9月)の栗原知代氏による総括を読む限りでは、論争から逃げてしまい、議論が脇道に逸れたまま終わってしまった感が強い。90年代からこの有様なのだから、男性向けポルノを批判しつつBLは肯定する論を作るのは相当に難易度が高いのでは。
https://wan.or.jp/dwan/detail/6234
以下は、「やおい論争を総括する。」(p.10〜15)からの抜粋。2025年の現在から見ても参考になると思う。
そして、フェミニズムは男性のポルノをセクシャルハラスメントだと攻撃するが、やおいもそれと同じことをしているではないか。自分たちの加害性に気づいてほしい、と提言しています。
さて、ということは、この佐藤さんの批判に対しては、次の三つの対応しか考えられません。
まず最初は、反論です。つまり、やおい少女は、佐藤さんの指摘のあったような行為をしていない、というものです。(略)その証明をしようとしましたが、全員がそれに失敗しました。
さて第二は、弁明です。佐藤さんの指摘はその通りなんだけど、それには深い理由がある、といって、やおい少女がやおいに向かうやむにやまれぬせっぱつまった事情を説明することです。(略)
そして最後の対応は、受容しつつ現状を肯定することです。確かにやおいは安全な場所からゲイの性行為を覗き見したり、いろいろ想像して楽しんでいるのだが、性の快楽には、ある程度の加害性はつきものではないか。要は程度の問題なんだから、できるだけ実害のないように、それぞれ楽しめばいいのだ。(略)
さて、当初の「やおい論争」は、この第二の対応(弁明)を中心に展開していきました。その過程で、やおいに向かう動機などが語られ、それなりに有意義だったのですが、佐藤さんが要求した「ゲイへの加害性への認識。また、そのうえでの対応」という点に関しては明確な答が得られず、論争は一種のデッドロックに乗り上げました。
BLは「女性の性的消費が男性性に依存させられる」という話を定期的に見るのだけれど、そのたびに「すみません……でもなんか違うの……でもでも怒られても仕方がないよな」という微妙な気持ちになる。
多分、BL文化は「少女マンガの読者からこぼれ落ちてしまった女の子」たちのシェルター的に育っていた背景があるからなのだと思う。自分もその1人だ。
BLの源流とされるのは、1970年代「花の24年組」と呼ばれる作家たちの作品群だ。少女マンガなのに、主人公が少年である物語が多かった。
代表格の竹宮惠子先生によれば、当時の少女マンガには制約が多く、主人公が少女だと描けない物語が山ほどあったという。少女が主体的に動こうとすると「生意気」とされ、編集部から許可が下りない。だからこそ少年を主人公に据え、「女の子が言えないことを言ってくれる」物語にしたそうだ。萩尾望都先生も「少年を描くことで、女性が受けてきた社会的制約から解放される強い感覚があった」と語っている。要するに「少年=少女=私」。少年を着ぐるみ的に着せてもらった作品群と言えるのかもしれない。
そんな24年組の雰囲気を引き継いだのが、BL雑誌…というか、美少年作品を取り扱う雑誌「JUNE」で、編集長を務めた佐川俊彦氏は『「JUNE」の時代 BLの夜明け前』で、こういう風に語っている。
女の子が美少年の姿になると「自由」になれる。女の子のままだと制約が大きすぎて何にもできない、冒険ができない。さまざまな現実のプレッシャーから逃げて身を守る、戦時中の、空襲の爆撃から守ってくれる「防空壕」みたいな役割を果たせるのが、「JUNE」なのではないか?僕はそう考えていました。
「24年組」の作家さんたちの多くは、本当に男の子になって冒険するみたいな、宇宙にも行くみたいな物語が描きたかった。少年マンガ的なノリで、自分も少年になって、「自由」にふるまいたかったわけです。
その「自由」の中に、もちろん「性的な自由」も入ってくる。女の子のままじゃダメで、美少年になったらできる。でも「中の人」は女の子なので、その対象の相手は男になる。
当時の多くの女性は「結婚して、仕事をやめて主婦になる」という道を歩んでいた。そうした「ジェンダーロール」や「社会的圧力」に居心地の悪さを抱えた少女たちにとって、BLは切実な願いを託せるファンタジーだったように思う。私自身も、一生働きたい、自立したいと願っていた少女だった。けれど現実では「女としてダメ」という言葉を向けられることも多く、その中で自己肯定感は削られていった。その度にBLの物語は脱出口のように機能した。
BLでよくある展開として「こんな俺なんて」となる受けに「そんな(外側からの評価なんて)関係ない、俺はお前と一緒にいたいんだ」と攻めが寄るシーンがある。これは「女としてクソだと言われ続けていた私」をどうにかして誰か認めてくれないかという願望をもった自分には不思議なことに強烈に響いた。違うけど根本は同じ、みたいな。こじれた少女マンガ……と言ってもいいかもしれない。
余談になるが「JUNE」を出版するサン出版では、ゲイ雑誌「さぶ」も出ていた。「JUNE」はゲイカルチャーではなく、「少女のための雑誌」と明確に分類がされていたそうだ。
もちろんBLは常に歓迎されてきたわけではない。90年代にはミニコミ誌を中心に、ゲイ当事者から「女たちは勝手にゲイを弄んでいる」という批判が噴出した。これが「やおい論争」だ。
論争の発端となったゲイ当事者でもある佐藤雅樹氏はミニコミ誌 『CHOISIR』 20号 (1992年5 月) でこう綴っている。
俺たちゲイのセックス描いて、男同士がセックスしてる漫画読んで、喜んでいるというじゃないか。そんな気持ちの悪い奴らを好きになる理由も必要もない。第一、不快だ!
(中略)ゲイのセックスは、男からは嫌悪、女からは好奇の視線でしか見られない。オレたちのセックス覗いて喜んでいる女、鏡見てみろよ、覗き見してる自分たちの表情を!
この論争は読者にも衝撃を与え、BLのあり方を見つめ直すきっかけとなった……が、昨今はBL市場があまりに大きくなり、この歴史を知らない人も多い。
私は、BLは単なる「女から男への性的消費」では括れないと思う。そこには当事者批判の歴史も、多様な表現への発展もある。そして「少年の着ぐるみ」を着て得る自由は、百合やバ美肉にも通じる部分がある。
根っこにあるのは、性的指向以前の、もっと切実な願い――現実で奪われた行動の自由や存在の肯定を、別の姿を通して手に入れたいという欲求だ。
私は「BLは無罪だ!」と大声で言う気にはなれない。「少年の着ぐるみ」を着させてもらっている身としては、「いいとこ取りしようとしている」罪悪感があるからだ。行き過ぎた表現への懸念もあるだろう。それでも、この場所で救われた自分がいる。一部の大きな声で、すべてが否定されるのはなんだか悲しい。この文化が衰退しませんように。
これだよねえ
2008年くらい発行の個人発行ZINEを複数持ってるから少なくともその頃には一般的だったと思う
東京京都あたりの独立書店で個人作家が本とかグッズ置いてる文化やネットワークの中の一部って感じでずっと続いてていいなーって普通に思ってたな
服飾や食のテーマが多かったりして一冊の中にも色んなモチーフがあるから雑誌風?っていうかミニコミ誌みたいな雰囲気あるのも多くて料理屋さんとかカフェとかにも置いてある横断的なイメージ
だからmagazineの方の意味も意識的に含んで使ってるのかと思ってたな
必ずしも「同人」に向けて作られてないというかさ
作家の趣味性が強くてももうちょっと間口が広くてカジュアルな製作をしてる人が多い気がする
お店
毎年8月13日は、私の故郷北海道帯広市で大きな花火大会がある。
近年では全道的・全国的に名の知られるようになった花火大会だ。
開催場所が市街地に近すぎて、市内にアホみたいな渋滞を引き起こしている。
最近は、札幌からも客を呼ぶので、なんど道東道まで渋滞していると言う。
トイレ貸してくれ。と、見ず知らずの酔った人に言われる。大便もある。
とこんな感じ(他にも花火の演出がクソださい、花火の前の企業の宣伝がクソ長いなども問題がある)なのだが、
最大の問題は、こういう花火大会開催に当たっての問題点や課題が、毎年開催されるにもかかわらずクリアされにくい構造にあるのだ。
その理由は単純で、主催者が十勝毎日新聞社と言うこの地域のブロック紙だからだ。
十勝地方の新聞社は、長い淘汰の歴史を経て、この十勝毎日新聞社一社のみが現在生き残っている。
現在のミニコミ誌は、十勝毎日新聞社と北海道新聞社の系列誌だ。
新聞だけではない。十勝毎日新聞社はケーブルテレビを展開し、観光事業にも手を伸ばし、ホテルやガーデンを系列会社で経営している。
十勝毎日新聞社のすごいところは、開拓時代から多角経営していてもう100年もこの地域で新聞屋をやっているところ。
この寡占状態ゆえに、だれも地域で反論を上げられない。上げるための器がない。
花火大会自体は経済効果があるからいいのだが、特に反省がなされることなく、だんだんと規模だけでかくして「来年もやりましょ」的に膨張している。
そのしわ寄せを、だれも反対できないし、だれもケアしようとしない。というか、できない(十勝毎日新聞社もただ自分の事業を行なっているに過ぎない)。
十勝毎日新聞社はライバルがいないから、深いところまで気にしなくていいのだ。そして実際気にしていない。というか、できない。他社(他者)の眼がないから。
十勝は昔から農産物の生産地で、モノカルチャーな雰囲気がある。実は産業だけでなく、観光や出版・言論もまたモノカルチャーなのだ。北海道らしいと言えばらしいのだが。
気持ち良く2発抜き、翌朝目覚めて風呂に入ろうとしたとき衝撃を受けた。
おれの精子本当にくさい。
毎日のように励んでいた頃は全く気付かなかったけど、本当に吐きそうになる。
口臭とか汗臭さとはまた違う、刺激臭。
イカくさいとか、金木犀の香りとかでは表現できない身の危険を感じる臭い。
石鹸で一回軽く洗ったくらいでは落ちないから、ケアが雑だとすぐばれると思う。
「今日あの子生理くさいわーw」とか言ってるやつ、おまえのほうが精子くさいぞ。
「今日〇〇君、精子くさいなー」って会話、絶対女子会でもしてるだろ。
余談
精子について書いてたらふと思いだした、インターネットコミュニティの歴史を以下に記録する。
アフィブログ騒動を経て今でこそ隆盛を極めている2ch嫌儲板がまだ過疎っていた7年前の話。
独特のまったりした雰囲気と、独自の文化(極左けいおんスレ、花言葉さん、ペンギン博士、フリゲスレ、ハワイアン、声優の生理周期予想)があって居心地が良かったのだが、1日のレス数が100を切るようなあまりの過疎っぷりに危機感を覚えた有志が板起こし運動を始めた。
それがミニコミ誌Zartanの制作(くそつまらなった)、嫌儲の日といった催しにつながったのだが、最大の盛り上がりを見せていたのは天下一射精会だろう。
これは毎年クリスマスの0時から24時までに何回射精できるかを競う祭で、ライダーと呼ばれる男が30回前後射精していつも優勝していた。回数を競う一方で、日々の射精活動の成果を見せ合う芸術部門もあり、皆思い思いにフィギュアへのぶっかけ画像を投稿していた。
その中でも特に称賛を浴びたと同時にドン引きされたのが、「ザータン」と「きのこの山の箱」だ。
ザータンとはザーメンタンクの略で、日々放出した精子を貯めたペットボトルのことだ。確かにこの方法ならティッシュの処理に困ることもないだろうが、黄味がかった精子が一杯に入った2Lペットボトル数本の画像を開いた時は思わず鳥肌がたった。
しかし密封保存されているだけまだましだろう。もう一方は、もう想像がついたとは思うが、射精の的となり干からびたザーメンの層が幾重にも重なって厚さ数センチに達した、きのこの山の箱だ。精子が染み付いたせいで箱全体がヨレヨレになり、箱の中の一種神秘的な白さを完全に失ったザーメンは腐敗した茶色い固形物となって、掃除を怠った排水口の様だった。あれに比べたらザータンのほうがまだ清潔だ。画像を思い出すだけで、あの独特の、むせ返るような魚臭さを思い出す。
ふざけると言ってもニューアカとかペダンチックな語りとかと学会みたいな「くだらないものをあえて知的ぶって語る」ノリの「こんなの真に受ける人いないよね」という感じの文章を書いていた。
そのうちサイトに書かれたことを本気にしだす人たちが出てきた
いや、こんなもんまともに読まなくていいよ、ただの衒学なんだし、本をちゃんと積んで読もうねと思ってたが、その頃はまだネットが閉じた空間だったからそんなに被害はなかった
ところがスマートフォンで一気にネットが開かれてしまうと本気に思ってしまう人たちがわんさか押し寄せて、しかもtwitterで受け売りを話し出すようになってしまった
たしかに本だって誤解されるようなこともあるだろうと思うけど、そういう本を読んで基本的な土台を作ってから付け焼き刃に自分の文章を使ってるんじゃなくて
ネット上の雑文だけをかき集めて自分の都合の良いパッチワークを作ってる感じが不気味だった
あまりにも怖くなってそのサイトは閉鎖したしネットにそうした考察みたいなのを書くのが怖くなった
ちゃんとした論文とふざけた物言いのチャンポンみたいな中間文の発表場所にネットがなれるんじゃないかと思ったけど
スマホ普及で大勢の目に強制的に触れられるようになってしまうとそうもいかなくなった
本当の意味での仲間内の同人文やミニコミ誌的な閉鎖的な文化が復活したらいいんだけどもう無理みたいで心理的に落ち込んでいる
こんな感じの自分の思いをつらつら述べただけの感想文なら書けるんだけどもう「ちゃんとふざけた論考」が書けなくなるのかと思うと憂鬱になってくる
キートン増田「ギリシア・ローマ時代、競技は生死を賭けた神聖な戦いだったのです……
これが賭博の起源ですね。賭博は今日、遊戯として発展し、一方ではネットサービスになった。
一定期間内に、言及先が燃えるか燃えないかに魂を賭け合うサービス……
すなわちはてなブックマークです」
キートン増田「やめておけ。本ブログで発表したほうが、増田より伸びると思っているんだろう。
思ったより読まれないかもしれないし、思い通りの読者層にリーチするとは限らん。
トピ主「あんた、あたしがうす汚いブロガーだから、ブクマする気もしない…そうよね!?
自分をウォッチャーだと思って、そこから単著を出そうとする奴は、ウォッチャーとは言わない!
それはアルファブロガーだ」
何もかも許して、生きてゆけるような気がする……」
guldeen「いや、申し訳ない。悪いのはこの星なんだ。
kanose「増田さんはあのシロクマを見て、どう思いますか?」
増田「世界一、幸せなシロクマだ。安定した職業、贅沢な知名度、酒、ネットの友人たちからの畏敬。そして極上のキャラ付け……」
kanose「私は不幸なクマだと思いました。ネットに退屈しきっている。感動もない。そして……自分でそのことを知っている」
xevra「匿名にクセのない文体、それにうんこネタは、実際には特定を避けやすく、ウケもいい。
知ってやっているとすれば、あの男、ただ者ではない……」
xevra「……プリントアウトしてやれ!
orangestar「子供の頃、どうしてidはたくさんあるのって、シナモンに聞いたの。
ラノベ天狗「子供の頃、よくついたらを狩りにいった…最初の獲物はラノベ叩きだった。
私の打ったRTは、炎上好きの琴線に触れた…叩き屋は足をひきずって逃げていった。
ただしさを失った本読みは、生きているより不幸だ…だが、私は何もしなかった。
まあ、独身時代が長かったから洗濯も炊事も掃除もひと通りは出来るんだが、子育ては結構無理ゲーだ。
セーブポイントは無いわ初期パラメータ不明だわ、そもそも進んでるのかも判らん。
言いたかないが、やっぱDNAってのはあって、初期シムシティレベルの子から、HoI3のフィンランドみたいな子もいるわけだ。
閑話休題。
何が言いたいかって言うとだ、結構な頻度で「家事が辛い」→「家族と相談しろ」のコンボになる光景を何度も見た。
ブラック企業のサビ残ってのは、同僚とか上司とか妻or夫に相談したらどうにかなんのか?
ならんだろ。
レベルを上げよう。
洋服を見るポイントは、デザインでも価格でもない、乾きやすさだ。
大丈夫だ。日本の洗濯乾燥機超優秀で、ネットに入れときゃほとんど傷まない。
Yシャツは全て形状記憶タイプにしろ。文句があるならアイロンを持たせろ。
下着、肌着、その他のカゴに放り込め。畳むな。
ジェルボールいいぞ。計量要らずだ。
レベルを上げよう。
ネットスーパー、食材宅配サービス、Amazon。買い物を減らす。
炊飯器を買え、電子レンジを買え、電気ポットを買え、食器洗い乾燥機を買え。
冷凍モノやフリーズドライを恐れるな。昔から土曜はカレーの家が多かったんだ。
良いコメ使って豪華食卓でピリピリカリカリするより、無洗米に惣菜の方が愛情が残るぞ。
読んだミニコミ誌で鍋拭って食器洗い乾燥機に入れりゃ綺麗になるぞ。予洗い不要。
レベルを上げよう。
ルンバを買え。
部屋をルンバ様の為に作り変えろ。
大人は床の上にモノを置かなくて生きていける。
保育園のノートとか、本を読んでやるとか、宿題を見てやるとかだ。
食器洗い乾燥機の音が煩くておさるのジョージに集中してくれないなら、その時間は風呂に入るなり、対応するしか無い。
ただ、干したり取り込んだり食器洗ったり掃除機かけるほんの少しづつの時間を機械(物理)が殴ってくれるから、
こまめに殴った結果、HPはソコソコ残るぞ。1日1~2時間はかけがえの無い時間だ。
部屋は常に清潔に、洋服は手洗いで丁寧に。そのとおりだまさに正論だ。
アンパンマンを見せるより、一緒に遊んであげなきゃ。確かにそれが愛情だ。
安易にローンを組んで借金を背負うより、少しの手間で節約。それが堅実な家計管理だろう。
体力に差があるのだ。忍耐力や精神力にも差がある。
シワ寄せは常に弱者に負担を強いる。家庭においての弱者は子供だ。
食器洗い機を買わなかったせいで、ネグレクトや離婚に繋がった時に、雑音を発した人間は絶対に責任を取らない。
6割の家事と、出来合いの惣菜と、子供と寄り添うほんの少しの愛情か、
9割の家事と、家庭の味の食卓と、子供にイライラする感情的な母親か、
好きな方を選べ。