はてなキーワード: 無償労働とは
私の世界は、丁寧に、そう、まるで細胞の一つ一つにまで神経を行き届かせるようにして磨き上げられた、半径およそ十メートルほどのガラスの球体であり、その球体の中心には、世界のすべてであり、法であり、そして揺るがぬ神であるところの、生後六ヶ月の息子、光(ひかる)が、ただ健やかな呼吸を繰り返している。その完璧な球体を維持すること、それこそが水無月瑠璃(みなづき るり)、すなわち三十一歳の私に与えられた唯一にして絶対の使命であったから、私は今日もまた、タワーマンション二十八階、陽光が白磁の床にまで染み渡るこのリビングダイニングで、目に見えぬ埃の粒子と、あるいは時間という名の緩慢な侵食者と、孤独な、そして終わりなき闘争を繰り広げているのであった。北欧から取り寄せたというアッシュ材のテーブルの上には、一輪挿しに活けられたベビーブレスの、その小さな白い花弁の影さえもが、計算され尽くした角度で落ちており、空気清浄機は森の朝露にも似た清浄さを、ほとんど聴こえないほどの羽音で吐き出し続け、湿度計のデジタル表示は、小児科医が推奨する理想の数値、六十パーセントを寸分違わず指し示しているのだから、およそこの空間に、瑕疵という概念の入り込む余地など、どこにもありはしなかった。かつて、外資系のコンサルティング会社で、何億という数字が乱れ飛ぶ会議室の冷たい緊張感を、まるで上質なボルドーワインでも嗜むかのように愉しんでいた私自身の面影は、今やこの磨き上げられたガラス窓に映る、授乳のために少し緩んだコットンのワンピースを着た女の、そのどこか現実感を欠いた表情の奥に、陽炎のように揺らめいては消えるばかりであった。
思考は、そう、私の思考と呼んで差し支えるならば、それは常にマルチタスクで稼働する最新鋭のサーバーのように、光の生存に関わる無数のパラメータによって占有され続けている。次の授乳まであと一時間と二十三分、その間に終わらせるべきは、オーガニックコットンでできた彼の肌着の煮沸消毒と、裏ごししたカボチャのペーストを、一食分ずつ小分けにして冷凍する作業であり、それらが完了した暁には、寝室のベビーベッドのシーツに、もしかしたら付着しているかもしれない、私たちの世界の外部から侵入した未知のウイルスを、九十九・九パーセント除菌するというスプレーで浄化せねばならず、ああ、そういえば、昨夜翔太が帰宅時に持ち込んだコートに付着していたであろう、あの忌まわしい杉花粉の飛散経路を予測し、その残滓を、吸引力の変わらないただ一つの掃除機で完全に除去するというミッションも残っていた。これらすべては、愛という、あまりに曖昧で情緒的な言葉で語られるべきものではなく、むしろ、生命維持という厳格なプロジェクトを遂行するための、冷徹なまでのロジスティクスであり、私はそのプロジェクトの、唯一無二のマネージャーであり、同時に、最も忠実な実行部隊でもあった。誰がこの任務を私に課したのか、神か、あるいは生物としての本能か、はたまた「母親」という名の、社会が発明した巧妙な呪縛か、そんな哲学的な問いを発する暇さえ、このシステムは私に与えてはくれなかった。
夫である翔太は、疑いようもなく、善良な市民であり、そして巷間(こうかん)で言うところの「理想の夫」という、ほとんど神話上の生き物に分類されるべき存在であった。彼は激務の合間を縫って定時に帰宅すると、疲れた顔も見せずに「ただいま、瑠璃。光は良い子にしてたかい?」と、その蜂蜜を溶かしたような優しい声で言い、ネクタイを緩めるその手で、しかし真っ先に光の小さな体を抱き上げ、その薔薇色の頬に、まるで聖遺物にでも触れるかのように、そっと己の頬を寄せるのだ。週末になれば、彼はキッチンで腕を振るい、トマトとニンニクの匂いを部屋中に漂わせながら、私や、まだ食べることもできぬ光のために、絶品のペペロンチーノやカルボナーラを作り、その姿は、まるで育児雑誌のグラビアから抜け出してきたかのように、完璧で、模範的で、そして、どこか非現実的ですらあった。誰もが羨むだろう、この絵に描いたような幸福の風景を。友人たちは、私のSNSに投稿される、翔太が光をあやす姿や、手作りの離乳食が並んだテーブルの写真に、「理想の家族!」「素敵な旦那様!」という、判で押したような賞賛のコメントを、まるで祈りの言葉のように書き連ねていく。そう、すべては完璧なのだ。完璧なはずなのだ。このガラスの球体の内部では、愛と平和と秩序が、まるで美しい三重奏を奏でているはずなのだ。
――だというのに。
夜、ようやく光が天使のような寝息を立て始め、この世界のすべてが静寂という名の薄い膜に覆われた頃、ソファで隣に座った翔太が、労わるように、本当に、ただ純粋な愛情と労いだけを込めて、私の肩にそっと手を置く、ただそれだけの、あまりにも些細で、そして無垢な行為が、私の皮膚の表面から、まるで冷たい電流のようにして内側へと侵入し、脊髄を駆け上り、全身の毛穴という毛穴を、一斉に収縮させるのである。ぞわり、と。それは、神聖な祭壇に、土足で踏み込まれたときのような、冒涜的な不快感であった。あるいは、無菌室で培養されている貴重な細胞のシャーレに、誰かが無頓着なため息を吹きかけたときのような、取り返しのつかない汚染への恐怖であった。彼の指が触れた肩の布地が、まるで硫酸でもかけられたかのように、じりじりと灼けるような錯覚さえ覚える。私は息を止め、この身体が、この「水無月瑠璃」という名の、光のための生命維持装置が、彼の接触を、システムに対する重大なエラー、あるいは外部からのハッキング行為として認識し、全身全霊で拒絶反応を示しているのを、ただ呆然と、そして客観的に観察していた。
「疲れてるだろ。いつも、ありがとう」
翔太の声は、変わらず優しい。その瞳の奥には、かつて私が愛してやまなかった、穏やかで、そして少しだけ湿り気を帯びた、雄としての光が揺らめいているのが見える。それは、私を妻として、女として求める光であり、かつては、その光に見つめられるだけで、私の身体の中心が、熟れた果実のようにじゅくりと熱を持ったものだった。だというのに、今の私には、その光が、聖域である保育器を、ぬらりとした舌なめずりをしながら覗き込む、下卑た欲望の眼差しにしか見えないのだ。許せない、という感情が、胃の腑のあたりからせり上がってくる。この、二十四時間三百六十五日、寸分の狂いもなく稼働し続けている精密機械に対して、子を産み、育て、守るという、この宇宙的な使命を帯びた聖母に対して、己の肉欲を、その獣のような本能を、無邪気に、そして無自覚にぶつけてくるこの男の、そのあまりの鈍感さが、許せないのである。
ケダモノ。
その言葉が、私の内で、教会の鐘のように、低く、重く、そして厳かに反響する。そうだ、この男はケダモノなのだ。私がこの清浄な球体の秩序を維持するために、どれほどの精神を、どれほどの時間を、どれほどの自己を犠牲にしているのか、そのことを何一つ理解しようともせず、ただ己の種をばら撒きたいという原始の欲動に突き動かされているだけの、ただのケダモノなのだ。
そんなはずはない、と、脳のどこか、まだかろうじて「かつての私」の残滓が残っている領域が、か細い声で反論を試みる。これは翔太だ、私が愛した男だ。雨の匂いが充満する安ホテルの、軋むベッドの上で、互いの名前を喘ぎ声で呼び合いながら、世界の終わりが来るかのように貪り合った、あの夜の彼なのだ。パリへの出張中、セーヌ川のほとりで、どちらからともなく互いの唇を求め、道行く人々の冷ややかな視線さえもが、私たちのためのスポットライトのように感じられた、あの瞬間の彼なのだ。結婚記念日に、彼が予約してくれたレストランの、そのテーブルの下で、こっそりと私のスカートの中に忍び込んできた、あの悪戯っぽい指の持ち主なのだ。あの頃、私たちは互いの肉体という言語を、まるで母国語のように自在に操り、その対話の中に、世界のどんな哲学者も語り得ないほどの、深遠な真理と歓びを見出していたはずではなかったか。あの燃えるような記憶は、情熱の残骸は、一体どこへ消えてしまったというのだろう。それはまるで、昨夜見た夢の断片のように、あまりにも色鮮やかで、それでいて、掴もうとすると指の間から霧のように消えてしまう、遠い、遠い銀河の光なのである。
「瑠璃…?」
私の沈黙を訝しんだ翔太が、私の顔を覗き込む。私は、まるで能面のような無表情を顔面に貼り付けたまま、ゆっくりと彼の手を、自分の肩から、まるで汚物でも払いのけるかのように、そっと、しかし断固として取り除いた。そして、立ち上がる。
「ごめんなさい。少し、疲れたみたい。光の様子を見てくるわ」
それは、完璧な嘘であり、そして、完璧な真実でもあった。私は疲れていた。だがそれは、育児という名の肉体労働に疲れているのではなかった。私という個人が、水無月瑠璃という一個の人格が、「母親」という名の巨大なシステムに呑み込まれ、その歯車の一つとして摩耗していく、その存在論的な疲弊に、もう耐えられなくなりつつあったのだ。これは、巷で囁かれる「産後クライシス」だとか、「ホルモンバランスの乱れ」だとか、そういった便利な言葉で容易に片付けられてしまうような、表層的な現象ではない。違う、断じて違う。これは、一個の人間が、その魂の主導権を、自らが産み落とした別の生命体に完全に明け渡し、「装置」へと、あるいは「白き機械」へと、静かに、そして不可逆的に変質していく過程で生じる、存在そのものの軋みなのである。
聖母、とはよく言ったものだ。人々は、母という存在を、無償の愛と自己犠牲の象徴として、何の疑いもなく神格化する。だが、その実態はどうか。自己を失い、思考も、肉体も、感情さえもが、すべて「子」という絶対的な存在に奉仕するためだけに再構築された、ただのシステムではないか。私は聖母などではない。私は、高性能な乳製造機であり、汚物処理機であり、そして最適な環境を提供する空調設備が一体となった、ただの生命維持装置に過ぎないのだ。この気づきは、甘美な自己陶酔を許さない、あまりにも冷徹で、そして絶望的な真実であった。そして、この真実を共有できる人間は、この世界のどこにもいやしない。翔太のあの無垢な優しさでさえ、結局は、この優秀な装置が、明日も滞りなく稼働し続けるための、定期的なメンテナンス作業にしか見えないのだから、その孤独は、宇宙空間にたった一人で放り出された飛行士のそれに似て、どこまでも深く、そして底なしであった。友人たちがSNSに投稿する「#育児は大変だけど幸せ」という呪文めいたハッシュタグは、もはや、この巨大なシステムの異常性に気づいてしまった者たちを、再び安らかな眠りへと誘うための、集団的な自己欺瞞の儀式にしか思えなかった。
寝室に入ると、ベビーベッドの中の光は、小さな胸を穏やかに上下させながら、深い眠りの海を漂っていた。その無防備な寝顔は、確かに、この世のどんな芸術品よりも美しく、尊い。この小さな生命を守るためならば、私は喜んで我が身を投げ出すだろう。だが、それは、この身が「私」のものであった頃の話だ。今の私にとって、この感情は、プログラムに組み込まれた命令を遂行しているに過ぎないのではないか。愛でさえもが、システムを円滑に稼働させるための、潤滑油のような機能に成り下がってしまったのではないか。そんな疑念が、毒のように心を蝕んでいく。
私は、息子の傍らを離れ、再びリビングへと戻った。翔太は、ソファの上で、テレビの光をぼんやりと浴びながら、所在なげにスマートフォンをいじっている。その背中は、拒絶された雄の、どうしようもない寂しさを物語っていた。かつての私なら、きっと背後からそっと抱きしめ、「ごめんね」と囁いて、彼の寂しさを溶かしてやることができただろう。しかし、今の私には、もはやそのための機能が、インストールされていないのである。
私は、彼に気づかれぬよう、書斎として使っている小さな部屋に滑り込んだ。そして、ノートパソコンの冷たい天板に触れる。ひやりとした感触が、指先から伝わり、かろうじて、私がまだ血の通った人間であることを思い出させてくれるようだった。スクリーンを開くと、真っ白な光が、闇に慣れた私の網膜を焼いた。カーソルが、無人の荒野で、点滅を繰り返している。何を、書くというのか。誰に、伝えるというのか。この、言葉にもならぬ、システムの内部で発生したエラー報告を。この、機械の内部から聞こえてくる、魂の悲鳴を。
それでも、私は指を動かした。これは、誰かに読ませるためのものではない。これは、祈りでもなければ、懺悔でもない。これは、私という名の機械が、自らの異常を検知し、その原因を究明し、あるいは再生の可能性を探るために、己の内部へとメスを入れる、冷徹な自己解剖の記録なのだ。
『これは、私という名の機械が、自己を観察し、分解し、あるいは再生を試みるための、極秘の設計図である』
その一文を打ち終えた瞬間、私の内側で、何かが、硬い音を立てて、砕けたような気がした。それが希望の萌芽であったのか、それとも、完全なる崩壊への序曲であったのか、その時の私には、まだ知る由もなかったのである。ただ、窓の外で、東京の夜景が、まるで巨大な電子回路のように、無機質で、そして美しい光を、果てしなく明滅させているのが見えた。私もまた、あの無数の光の一つに過ぎないのだと、そう、思った。
自己を機械と定義したからには、次なる工程は当然、その性能向上のための最適化、あるいは、旧弊なOSから脱却するための、大胆にして静かなるアップデート作業へと移行せねばならぬのが、論理的な、そして必然的な帰結であった。そう、これは革命なのだと、私は深夜の書斎で、青白いスクリーンの光に顔を照らされながら、ほとんど恍惚とさえいえる表情で、そう結論付けたのであった。かつてロベスピエールが、腐敗した王政をギロチン台へと送り、新しい共和制の礎を築かんとしたように、私もまた、この「母親という名の献身」や「夫婦の情愛」といった、あまりにも情緒的で、非効率で、そして実態としては女の無償労働を美化するだけの前時代的な概念を、一度完全に解体し、再構築する必要があったのだ。そのための武器は、かつて私が外資系コンサルティングファームで、幾千もの企業を相手に振り回してきた、あの冷徹なロジックと、容赦なき客観性という名のメスに他ならない。愛という名の曖昧模糊とした霧を晴らし、我が家という名の王国を、データとタスクリストに基づいた、明晰なる統治下に置くこと、それこそが、この「水無月瑠璃」という名の機械が、オーバーヒートによる機能停止を免れ、なおかつ、その内部に巣食う虚無という名のバグを駆除するための、唯一の処方箋であると、私は確信していたのである。
かくして、週末の朝、光が心地よい午睡に落ちた、その奇跡のような静寂の瞬間に、私は翔太をダイニングテーブルへと厳かに召喚した。彼の前には、焼きたてのクロワッサンと、アラビカ種の豆を丁寧にハンドドリップで淹れたコーヒー、そして、私が昨夜、寝る間も惜しんで作成した、全十二ページに及ぶパワーポイント資料を印刷したものが、三点セットで恭しく置かれている。資料の表紙には、ゴシック体の太字で、こう記されていた。『家庭内オペレーション最適化計画書 Ver. 1.0 〜共同経営責任者(Co-CEO)体制への移行による、サステナブルな家族経営の実現に向けて〜』。翔太は、そのあまりにも場違いなタイトルを、まるで理解不能な古代文字でも解読するかのように、眉間に深い皺を刻んで見つめた後、恐る恐る、といった風情で私に視線を向けた。その瞳は、嵐の前の静けさにおびえる子犬のように、不安げに揺れている。まあ、無理もないことだろう。彼にしてみれば、愛する妻が、突如として冷酷な経営コンサルタントに豹変し、家庭という名の聖域に、KPIだのPDCAサイクルだのといった、無粋極まりないビジネス用語を持ち込もうとしているのだから。
「瑠璃、これは…一体…?」
「説明するわ、翔太。よく聞いて。これは、私たち家族が、これからも幸せに、そして機能的に存続していくための、新しい聖書(バイブル)よ」
私は、そこから淀みなく、プレゼンテーションを開始した。現状分析(As-Is)、あるべき姿(To-Be)、そのギャップを埋めるための具体的なアクションプラン。家事という、これまで「名もなき家事」という名の混沌の海に漂っていた無数のタスクは、すべて洗い出され、「育児関連」「清掃関連」「食料調達・調理関連」「その他(消耗品管理、資産管理等)」といったカテゴリーに分類され、それぞれに担当者と所要時間、そして実行頻度が、美しいガントチャート形式で可視化されている。例えば、「朝食後の食器洗浄」は、担当:翔太、所要時間:十五分、頻度:毎日、といった具合に。さらに、月に一度、近所のカフェで「夫婦経営会議」を開催し、月次の進捗確認と、翌月の計画策定を行うこと、日々の細かな情報共有は、専用のチャットアプリで行うこと、そして何よりも重要なのは、これまで私一人が暗黙のうちに担ってきた「家庭運営の全体を俯瞰し、次の一手を考える」という、いわば管理職としての役割を、これからは二人で分担する、すなわち、彼にもまた、単なる作業員(ワーカー)ではなく、主体的に思考する共同経営責任者(Co-CEO)としての自覚と行動を求める、ということ。私の説明は、かつてクライアント企業の役員たちを唸らせた時のように、理路整然としており、反論の余地など微塵もなかった。翔太は、ただ呆然と、私の言葉の奔流に身を任せるしかなく、すべての説明が終わった時、彼はまるで催眠術にでもかかったかのように、こくり、と小さく頷いたのであった。
「…わかった。瑠璃が、そこまで追い詰められていたなんて、気づかなくて、ごめん。僕も、頑張るよ。君を、一人にはしない」
その言葉は、疑いようもなく誠実で、彼の優しさが滲み出ていた。私は、その瞬間、胸の奥に、ちくり、と小さな痛みを感じたのを覚えている。違う、そうじゃないの、翔太。私が求めているのは、あなたのその「頑張るよ」という、まるで部下が上司に忠誠を誓うような言葉ではない。私が欲しいのは、私がこの計画書を作る必要すらないほどに、あなたが私の脳と、私の視界と、私の不安を共有してくれる Permalink | 記事への反応(0) | 05:15
増田はいろいろとこだわり過ぎて夫婦仲に影響があるのかもしれないけれど
同じではないのでは?と思いました。
日本は夫の有償労働が長時間にわたる傾向にあります。(韓国もそうだが日本より少しマシ)
企業が働かせすぎかなと。
致すどころではないとか
致すと翌日のパフォーマンスに響いたりし避けたくなるのでは。
https://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r04/zentai/html/zuhyo/zuhyo00-31.html
妻の方が長くなっています。
女性の方が体力はないので、これもレスの原因になりやすいのでは。
https://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r04/zentai/html/zuhyo/zuhyo00-30.html
https://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r05/zentai/html/zuhyo/zuhyoc01-05.html
文科省の発表で「発達障害の小学生は10人に1人」と以前公表されていたように
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE0891U0Y2A201C2000000/
(日本経済新聞より)
最近注目されており
https://www.nhk.or.jp/shutoken/articles/101/013/68/
(NHKニュース)
元増田の奥さんの場合、育てにくさが見られるので(例えば食事や睡眠の面について記載がありました)
必ずしもこだわり過ぎているわけではないのでは?
と思います。
ブラック企業における長時間労働や精神的圧力は、しばしば「誰にでも起こりうる労働問題」として語られる。
だがこの中に、特に女性労働者に対する構造的な加害が埋め込まれていることは見落とされがちだ。
たとえば長時間労働は、家事・育児などの無償労働を並行して担わされる女性にとって、実質的に「労働からの排除」として機能する。
出産・育児を経てもキャリアを継続したい女性にとって、終業時間後に始まる“本番”の職場文化は、参加を拒まれているも同然だ。
それでも「本人の努力不足」として責任を押し付けられる構造がある。
また、パワハラや「やりがい搾取」は、性別を問わず表面上は平等に見えても、女性が声を上げたときにだけ「ヒステリック」「被害妄想」といったレッテルを貼られるなど、非対称な作用をもたらす。
この構造は「性差別型パフォーマンス抑圧」と呼ばれ、女性の発言力やキャリア継続を制度的に切断する仕組みとなっている。
日本の企業文化は、平等を装いながら実態としては「疑似家父長制」によって動いている。
男性の家庭責任は免除され、女性は“自己責任”の名のもとに過剰適応を強いられる。
結果、制度的に排除されながら「自由に選んだ」と見なされる巧妙な構図が成立する。
>OECDの2020年における国際比較データで,有償労働時間と無償労働時間の合計時間(以下,「総労働時間」という。)をみると,比較国中,日本女性(496分)、スウェーデン女性(495分),日本男性(453分)が長い。
>ちなみに睡眠や食事等の時間(Personal care)をみると,比較国中,スウェーデン男性(611分),日本男性(613分),ノルウェー男性(615分)が短く,日本女性は女性の中では比較国中最短の626分である。
https://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r02/zentai/html/column/clm_01.html
介護を家庭内の無償労働にすると、特に女性が犠牲になりやすい。
でも、家事代行やベビーシッターが当たり前になった今、介護だってプロに任せるのが合理的。
「親が苦労して育ててくれたのに…」と罪悪感を抱くかもしれない。
でも、親が子を育てるのは契約ではないし、育ててもらったからといって介護をする義務はない。
介護を抱え込んで精神的にも経済的にも疲弊するより、プロの手を借りることで親も適切なケアを受けられるし、家族としての関係も良好に保ちやすくなる。
自己犠牲は美徳ではない。キャリアや人生を大切にする権利は誰にでもある。
介護を無理に背負い込まないことで、結果的に親にとっても良い選択になる。
それは、「母親が家族のために払った犠牲を認めたくない」という心理についてだ。
この投稿によると、母親の犠牲を認めてしまうと、「母の無償の愛」という価値が揺らぎ、自分が完全な愛情を受けられなかった、損をした気分になるという。
傷つく、ではなくタダで貰えるはずのものを貰えなかったので損をした、という損得勘定を親の愛情に適用するのがすごいなと思うが、
母に対する息子特有の、あるいは女性に対する男性特有の感性かもしれない。
しかし、この場合、愛情の価値が下がるとは誰も感じないだろう。
一方で、母親が担う家事や育児、家族の衣食住マネジメントは無償労働と見なされがちだ。女性に求められがちな雑用、感情労働も同じである。
つまり、金銭労働の価値は目減りしない金勘定だが、母親の家庭内労働は愛ゆえ当然すべきでありそこに無償労働(unpaid work)=搾取と犠牲の構造を読み取ると価値が低くなるということだ。
父親の家事労働は“男なのに”という謎の犠牲を前提としていておそらく話が別、というのもポイント。
母親の労働を軽視し、女性を下に見る搾取意識がなければ、こうした感覚は生まれない。
そして残念ながら、一般的には美化されがちな「母親の息子への愛」も、実は無償の愛というより、「男好き」の表れだといえる。
「男好き」とは性的な意味だけではなく「男の権力が好き」という意味だ。
性欲ではなく権力欲と結びついていて、この点で男性の女好きが支配欲であることとは全く異なる。
多くの母親が、娘よりも息子を可愛がる傾向がある。
なぜか?
男社会では、男の価値が女の価値を圧倒的に上回るからだ。この内面化した女性蔑視をベースにした「男好き」の心理は、性欲なんかよりずっと根深い。
歴史的に被抑圧階級の女性にとって恋愛や結婚は「男の権力や価値を自分のものにする」という面があった。
だから嫁姑争いは「家父長制のわからせ構造として男の下で既得権益を得た女」と「新たに参戦してきた女」の権力争いで、ビジネスバトルと構造は同じだ。
女性一般が恋愛フィクションを好むのは恋愛が男性の権力を自分のバックにできる手段で、女性差別が蔓延した男互助会で労働するより手っ取り早く効率的に権力に到達できるからである。
かつてはその構造に押し込められた女性と男性の需要供給が釣り合わされていた。
しかし女性差別をベースにした家族集団が芯から順調で幸福だろうか? 答えは少子化に現れている。多くの女性はもうそこにいたくない。
「母親の無償の愛」という幻想に過剰な価値を置くことは、個人にとっても社会にとっても有害で不幸だ。
母親の権力欲と息子の女性蔑視が互いを補完しそこに家庭内で無能武器化した父親が混ざるとアットホームなブラック企業のような様相を呈する。
一方、男性の「女好き」もまた、娘を特別視したり妻を男社会の権力(=金、暴力)で支配する形で現れる。
男性の「女好き」は社会的に容認されるが、女性の「男好き」は批判されやすい。
しかし、どちらも本質的に問題をはらんでいる。特に親としては、子どもを社会から預かった命として、冷静に育てる姿勢が求められる。
マジでムカつく。なんなの、この世の中。
子供が小さいから専業主婦やってるだけなのに、なんでこんなに肩身狭いの?
この前、大学時代の友人たちとランチしたんだけどさ。みんなバリバリ働いてて、キャリアだの自己実現だのキラキラした話ばっかり。私が「最近、〇〇(子供の名前)がイヤイヤ期で大変で〜」とか言うと、「ふーん、大変だねー(棒読み)」みたいな空気。明らかに「専業主婦は楽でいいね」「社会から取り残されてるね」って顔に書いてある。しまいには、「〇〇(私)も、そろそろ何か始めたら? ボランティアとかでもさ」って、何様だよ!? 上から目線でアドバイスすんな!
義母も最悪。事あるごとに「〇〇さん(私)は家にいられていいわねぇ」「私も昔は働きながら子育てして大変だったのよぉ〜(チラッ)」って嫌味タラタラ。「息子(夫)が稼いでくれるから楽できて幸せねぇ」って言われた時は、本気で皿投げつけそうになったわ。あんたの息子がまともに稼げるのは、誰が家事育児を一手に引き受けて、安心して働ける環境作ってるからだと思ってんだよ!?
夫も夫で、「俺が稼いでるんだから」オーラがすごい。疲れて帰ってきて、私がちょっとでも愚痴ろうもんなら「俺の方が疲れてる」の一点張り。家事育児は「手伝う」ものだと思ってる。私がやるのが当然で、自分は気が向いた時に「良いパパ」するだけ。生活費はくれるけど、私個人が自由に使える金なんてほとんどない。美容院行くのも、服買うのも、いちいち夫の機嫌伺ってる自分が惨めになる。
……って、ここまで書いて思ったけど。
正直、友人や義母の言うことも、分からなくはないんだよ。だって、実際、私は夫の稼ぎに「寄生」して生きてるわけじゃん?自分で1円も稼いでない。社会的なステータスもない。家事育児が「仕事」だって言ったって、給料が出るわけじゃないし、誰かに評価されるわけでもない。「やって当たり前」の無償労働。
キラキラしたワーママ見ると、正直、羨ましい。自分の力で稼いで、社会と繋がってて、自信持って生きてる感じがする。それに比べて、私は…? 夫がいなくなったら、子供と路頭に迷うしかない。
でもさ、じゃあ働けばいいじゃんって話だけど、それも無理なんだよ。子供小さいし、保育園激戦区だし、そもそもブランクありすぎて再就職先なんてあるわけない。それに……正直に言うと、今さら満員電車乗って、上司にペコペコして、人間関係に悩んでまで働きたいかって言われると、微妙なんだよね。今の生活が「楽」な部分があるのも事実。認めたくないけど。
じゃあ何なの?専業主婦は楽してて社会の役にも立たない寄生虫なの?でも、家事育児っていう超重要な仕事してるじゃん!なんでそれが評価されないの?でも、自分で稼いでないのは事実だし……。ああああああ、もう頭おかしくなりそう!
結局、金稼いでる奴が偉いのか?「女の幸せは家庭」とか言ってた時代は終わったのか?じゃあ、どう生きればいいんだよ!?
専業主婦ってだけで、なんでこんな惨めで、肩身狭くて、グチャグチャな気持ちにならなきゃいけないの?みんな、心の底では専業主婦のこと、どう思ってる?馬鹿にしてる? 羨ましい? それとも、どうでもいい?
教えてくれ。私が間違ってるのか? 世の中が狂ってるのか?
妊活してるというのを伏せるのは、信頼できない語り手にもほどがある。
妊活を通じて、夫婦間に大きな不公平感が生じるのを軽視しているから、その情報を省けたのだろう。
私も仕事をしながら不妊治療をしているけれど、夫が私への愛情表現を惜しまないから続けられている。
夫に22時に帰宅するような生活をされたら、妊娠・出産の先にある生活を想像して暗澹たる気持ちになるのは自然なこと。共働きなのにワンオペ未来にリーチ出てるやん。
ゲーム(およびゲーム内のコミュニティ)に逃げたくなるのも理解できる。
妊活や不妊治療、そしてその先にある妊娠や出産は、ひたすら雪かきをするようなもの(家庭内の無償労働)。
しかも、周りの家には必ずしも雪は降っておらず、自分ら夫婦で雪を降らせて、自分だけが雪かきをしている。
雪かきの後には、ホットミルクくらい出してほしいやん。仕事で忙しい配偶者なんていらないやん。そんな時にゲームで「お疲れ」なんて言ってもらえたら、もうそっちばかり向きたくもなるよ。一人で雪かきをする虚無と孤独をあなたは分かっていない。
これからは自分から温かい言葉を沢山投げかけた方がいいし、働き方も変えた方がいい。妊娠したら変える、子供が産まれたら変える、ではギャップを埋められない。
無事に出産を迎えて、子供が保育園に入ったら、協力しあって世帯収入を上げる方向でいたら良いと思う。少なくとも、私達はそういう意気込みだから、私は不妊治療を継続できている。