はてなキーワード: 学生会とは
AIに聞いてみた
めちゃくちゃリアルな試算ですね。
確かに、国立・地方ならギリなんとかなるけど、私立・都内はほぼ無理というのは納得の結論です。特に初期費用の壁がデカすぎて、そもそもスタートラインに立てない問題がある。
初期費用をどうするか?
→ 高校時代にバイトで100万円くらい貯めるのが理想。でも、現実的には厳しい。
→ 日本学生支援機構(JASSO)の第一種・第二種奨学金には、入学時に最大50万円(条件次第で10〜50万)を追加で借りられる制度がある。
→ 日本政策金融公庫の「教育一般貸付(国の教育ローン)」は、入学前に借りられるので、初期費用対策としては有力。ただし、親の所得制限がある。
→ ほとんどの大学が「入学金の分納」を認めているので、支払いをできるだけ後ろ倒しにする。
寮や学生会館に入る
→ 一人暮らしの初期費用を抑えるため、敷金・礼金なしの学生寮を利用するのもアリ。
→ はい、無理ゲーですね。初期費用だけじゃなく、毎月の生活費もエグい。
仮に奨学金MAX & バイトMAXでも、月に数万円足りない計算になるので、結局親の援助なしでは詰む。
カネがない、働けない、親や親戚からの援助も期待できない、
市役所と同じ数だけ、生活保護用のアパートを立てればいいだけ。
家賃を税金で出してやるより、その金で市営のアパートに入れたほうがコストはかからない。
もちろん、拒否は無し。(持ち家は除く)
家賃補助もらうような状況なら、解約して市営アパート入れ、ってするだけで生活保護の「不正受給」ってのはほとんど減るし
本当に困ってる人が「水際戦略」て追い詰められる事もない。
あと、飯も3食出せばいい。
生活保護だと病院へいくタクシー代も無料、とかも高コストの原因
アパートから病院まで無料送迎したらいい。相乗りで。アパートって言ったけど団地レベルでもいい。
ともかく市役所で受け付ける生活保護の人数に見合ったレベルの建物って事。
その人数分の家賃を出すよりは、市が建てて無料で入居の方が絶対安いのは間違いない。
メシもね。
学生が「健康で文化的な生活」してないわけないので、部屋は2畳もあればいいやろ。
普通のアパート程度のサイズに2.5倍位は人を詰め込めるよ、そうしたら。
本当なら2人1部屋にしたいけど、まぁプライバシーの問題もあるしな。
あと、本当ならカプセルホテルにしたいけど、人権派がうるさいからな。
サラリーマンには人権が無くて、生活保護受給者には人権があるみたいでおかしいけど。
なので、1人2畳の部屋はかなり贅沢。
その生活がいやなら頑張って働いて出ていけばいいし、
2024年9月15日 YOUTUBEチャンネル 『令和の虎CHANNEL』主宰などを務める、株式会社MONOLITH Japan代表取締役 岩井良明氏が死去した。
彼のことを高く評価する向きもあるようだが、私は彼に対して否定的な評価を有している。
今回、彼の死去を機に、岩井良明氏が団長を務めていた同志社大学応援団でおきたリンチ事件について書こうと思う。
※お断り。岩井良明氏は死去しており、死者に対する名誉毀損は「虚偽の事実を摘示した場合」にのみ刑事上処罰されます。また、民事上も概ね同様です。よって、本記事が名誉毀損等にあたることはないものと考えています。死去により、生存する人物としての保護の対象ではなくなり、歴史上の批判にさらされることになることをご理解ください。
まず、問題の「同志社大学応援団のリンチ事件」とはどのようなものであるか、当時の新聞記事(1982年5月23日朝日新聞朝刊)では以下のように報道されている。
『同志社大学(松山義則学長)の応援団で、新入生が団員にしごきの「リンチ」を加えられて全身打撲の大けがを負ったことが22日明るみに出た。大学側は事態を重視して同日、応援団と同部に所属する吹奏楽部の対外活動を禁止するとともに団関係者から事情聴取を進めている。
大学側の調べによると、20日夜から21日未明にかけて、京都市上京区烏丸上立売下ルの同大大学会館別館(学生会館)の応援団部室で、商学部に今春入学した団員の一年生A君(18)に対し応援団の二年生部員五人が「応援方法を指導する」と言って、殴るけるなどの乱暴を加えた。A君は21日朝、自分で近くにある同大学の厚生館診療所に行き治療を受けた。全身に打撲傷を負っていたため、不審に思った医師が尋ね「リンチ」がわかった。事態に驚いた大学側はA君をタクシーで下宿へ送る一方、応援団関係者から事情を聴くとともに29、30日に西京極球場で予定されている伝統の対立命館大戦にも応援団を出場させない方針を決めた。新発足した関西学生野球リーグで同大にとっては二位をかけた大事な試合。
27日夜には京都の繁華街・四条河原町に同志社、立命館の両大学の学生がそろって繰り出し、応援団が主役を演じる恒例の「同立前夜祭」が行なわれる予定だったが、これも中止される見通しになった。
同大学応援団は一般学生の応援の指導をするリーダー部と、伴奏の器楽演奏をする吹奏楽部に分かれており、団員は百人を超える。大学側はこの不祥事で、リーダー部だけでなく吹奏楽部の自粛を決定。これに伴い同吹奏楽部は22日京都市・岡崎で開かれた京都府内八大学の合同演奏会への参加を辞退した。
同応援団は数年前にも暴力事件を起こし、大学側から団の活動を二年間に渡って禁止されたことがある。
同志社大野球部OBの一人は「伝統の同立戦を控え、立派な応援ぶりを期待していたのだが…。勇ましいのは結構だが行き過ぎは困る」と残念がっていた。』
これに対して、岩井氏はブロク(2006年に掲載した記事、現在は削除)で、リンチ事件は実在しない。リンチ被害者の狂言である、自分の背中を自分で叩いたのだ、と主張している。
令和の虎CHANNELにおいても「冤罪」などと述べている。
これについて
・まず、当時の新聞記事からわかるように、被害者とされる人物が何者かからリンチを受けたというのは「医師の診断」により発覚し、同志社大学側が把握したとされている。
医師が全身の傷を検査し、加害による負傷に間違いないと診断したのである。そこに疑いの余地はない。
・岩井氏はブログで「あれほど暴力はあかんって言い続けて来たのに。」と述べている。しかし、岩井氏のブログでは、自身が下級生時代先輩団員から暴力を受ける様子が克明に記録されている。例えば、1981年の出来事として「その後、我々三回生はリーダー部長にどつかれ、二回生は三回生にどつかれ、一回生は二回生に半殺しにあった。」との記述がある(2006-11-24岩井氏ブログ記事)。暴力、しかも「半殺し」が横行していた応援団で「暴力はあかんって言い続けて来た」というのは無理がある。
・当の応援団自身が、リンチ事件の存在を歴史上の事実として認めている。同志社大学応援団は現在は復活して存在するが「リンチ事件は存在した、二度と発生させない」という見解を有しており、代々悪しき事例として語り継いでいる(同団ではこれを「継承」と呼んでいる。)。(なお、私が応援団に関わっていた当時、岩井氏が「同志社大学応援団の総監督に就任したい」との意向を有しており、他のOBらがそれを阻止していた、という話を見聞きしたことがある。)
これらの事実にも関わらず、岩井氏は結局最後までリンチの事実を認めることなく、被害者を貶めて来たのだと評価せざるを得ない。
岩井氏自身がリンチの実行行為に関与していないとしても、応援団の最高責任者として監督責任を有していたことは明らかであり、責任があるはずである。にもかかわらず稚拙な論理で冤罪を主張し、死ぬまで事実を認めなかったのは、残念である。
研究室のグループLINEを作ってるんだが、新M1の中でその後輩(仮にAとする)だけLINEをやってなかった。
(中略)
じゃあメーリングリストにするか?って話も出たけど、「研究室開室しました」とかの細かい連絡をいちいちメールで流すのも…となった。
狭い世界なので適当にやってしまうのは自分も所属しているのでわかりますが、いろいろな人がいるのだから筋は通すべきだと思います。
メーリングリストがメインで、それとLINEをapi連携、大学院生なら30分もあればゼロからでもできるでしょ。
次にモヤッたのが、ゼミ費の扱い。
これはおそらく勘違いで、補助費は「学生会」から出ているのではないでしょうか。
その場合、使途の範囲は、大学でも教員でもなく学生(学生会)が決めているはず。
そして、補助費は「全員に均等に配るべきもの」ではないはず。(それなら最初から徴収する学生会費を減らせ、という話になる。)
「懇親は全体に有益なので、それを促進するために補助をする。ただし、参加者数に応じて一人あたりいくら。」みたいなのが根本的な原則のはずで、それを雑に理解して運用しようとするので、想定外の状況でごたごたする。
もし上述のようなルールなら、A氏の意見(図書カード)は否決して良い。
もし配慮するなら、「懇親会の欠席者には図書カードを支給する」で良い。
言っちゃ難だけど、大学院でDまで来ておいて、考えが雑で筋が通っていない。
そんなことで、複雑な社会やら文化やらにアカデミックにアプローチできてるの?
自分で何か目標を見つけて、それに向かって努力して成長していける人は素晴らしいと思う。
その反面、意識が高い自分に酔って伊達に生きているだけの「意識高い系」の人間が死ぬほど嫌いだ。
高専で学生やってた頃にそんな人種が湧いていて辟易していたが、新卒で就職した会社の同期にもいて生理的に無理って感じになってしまった。
幸い今は身の回りにそんな人種がいない環境に来れたので平穏に暮らせているが、たまに思い出すだけで不愉快な気分になるので、ここで愚痴っておこうと思う。
それで次第にバカバカしくなって、忘れていけることを期待して。
=====
影響力がある人にやたらと引っ付いてくる。まさに金魚の糞。
同期で3人座っていたデスクで、目の前でリーダー的存在のAと腰巾着のBが延々と話しながら一緒に仕事してる中、自分だけ仕事も与えられずに自習させられてた地獄の期間が何ヶ月も続いて、毎日が惨めだった。仕方なく電話対応とか来客対応とかしようと頑張ってたけど、張り合うようにその仕事すらもBに取られていった。
結局、仲間外れのような状態のまま自分だけ配属され離れ離れになった。しばらく経ってAが久しぶりに同期で集まろうみたいな話をしてくれたけど、Bが自分の都合で一ヵ月も予定を引き延ばしてきて腹立たしくなって自分だけドタキャンしてしまった。
その後、一年くらい同期のLINEグループで相も変わらずAが発言するたびにBがすぐさま乗っかってくるような状況が続いて、次第に気持ちが死んでいき精神衛生を守るためにグループを抜けた。Slackも自分がチャンネル作ったのに自分で抜けた。
Aのことは憧れの存在として思ってたから、その分Bが占有するようになって、もう関わりたくもない人々に変わってしまったのが堪らなく悔しかった。
向こうからは「なんか知らないけど自滅した」とか「邪魔者が消えてよかった」としか思われてないんだろうな、きっと。その上、人を除け者にしてまで学生気分続けてきたくせに、意識高いマウントはしっかり取ってくるのな。自分本位すぎて笑っちゃうわ。
学生の時も似たような経験があって、その時は寮だったからさらに地獄だった。
いつも取り巻きみたいなのが大勢くっついていて、見ていて気持ち悪かった。生きてて恥ずかしくならなかったのかな。
意識高い系は、その薄っぺらさ故にカリスマ性など持ち合わせていないので、結局、腰巾着に徹するしかないんだろう。
にわかオタク以下のつまらない話しかできないから、便乗するしかできない。
その癖、自分が一番かであるように偉そうに振る舞うので、図々しいとしか言いようがない。
腰巾着の分際で「他にも友達たくさんいますから(笑)」とアピールしてくるのが、さらにムカつくポイント。
こちらが腰巾着が湧いたコミュニティから離れようとすると、追いかけるようにして自分が逃げた先のコミュニティに絡みに行く。
うざいったらありゃしない。自分が嫌われている自覚はあるんだろうか。
うちの母校(というかほとんどの高専で)は定期試験の過去問を先輩達からもらって試験対策するような文化があり、意識高い系の人間はその広い人脈(笑)を使って先輩方から過去問を回収して回り、それを自分を支持してくれる人に回して人権を得る。
酷いときは、この科目はちゃんと授業受けなくていいみたいな風潮をこいつらが蔓延させていたこともあった。
真面目に授業を受けて一人で勉強してると、学校生活がバカバカしくて仕方がなくなっていった。
意識高い系は多趣味(笑)アピールも酷くて、何個も部活動を掛け持ちしてくる。
当然、自分が所属していた部活にも意識高い系が湧いてきて居場所がなくなっていく気がした。
人を引っ張って行くような事はしたがらないくせに、やたらと人目に付くところに出て行きたがる。
これによる実害が自衛ができないこと。名前を見るだけで悪寒が走るので、ネットだったら即ミュートしてる。
同期の意識高い系は、会社Slackの全員が見えるチャンネルでほとんどの投稿にリアクションを残している。イントラの残業超過リストに出てきたときは、名前載せるために残業してるのかとさえ思った。存在を忘れたいので、Chrome拡張作って除名するようにしたら幾分かスッキリした。
誰も聞きたくないような自慢話を、周囲に聞こえるような音量で延々と話す。キーボードの音が異様にうるさい。ここら辺はネットでよく聞く意識高い系と同じ。
意識外に置ければ自分とは関係の無い存在として割り切れるのに、度々自己主張してくる。忘れたころに顔を出してくる。もうたくさんだ。
何かと事あるごとに張り合ってくる。本当に他人と張り合うことしか頭にない感じ。
大体、同調圧力の諸悪の根源となっていたのが意識高い系だった気がする。
何か自分の好きな事について話してても、それに対する知識マウントしかしてこない。「ニッチな俺、カッコイイ(笑)」ってか。
自分の好きな事でも、マウント取りの道具にされると一気に冷めてしまう。好きな事にのめり込もうと思っても、マウンティング野郎の顔が浮かんで嫌になってしまうのが苦しかった。
「〇〇は暗記しないとダサい」「〇〇は反則」「〇〇してる方が偉い」みたいに。
ネットで謎校則がたまに話題になるけど、意識高い系の連中は我々を「自分で何が正しいことかも考えられない、言葉で服従させられる小中学生以下の人間」だとでも思っているのだろうか。
それと、うざいほど他人の真似をしてくる。自分磨きのためだったらいいけど、明らかにマウント取りのためなのでいい迷惑でしかない。
自分が何か成し遂げて褒められると、それを多人数で集まって同じ事をして張り合ってくる。
コンテストとか大会とか、何か目標を持って真剣に取り組んでる人は素直に格好いいとは思う。でも意識高い系の連中は、必要以上に群れて馴れ合いと自己顕示を目的としているので最高にダサい。
若干自意識過剰だが、こっちが好きで一人で努力してやり遂げたことをゴミ以下の馴れ合いでこなして「ハイ、俺の勝ち~~(笑)」と虚仮にされているようで、プライドをズタズタにされるような悔しさを感じた。
昔いじめられたりした時よりも、意識高い系が存在している空間にいる時の方がよっぽど居たたまれない気持ちになった。
端から見たら勝手に逆恨みしているだけかもしれないけど、生きているだけで惨めだった時期もあった。
意識高い系は、そのまま意識たかいたかーいして他界してくれればいいのになと思う。
なんかもう誰とも比べられたくないし比べてしまいたくないし、自分らしく生きられるようになりたい。
なんだかんだで今はもう身の回りに意識高い系はいないし、今後は対等な関係でいられるような人間関係が築けるといいなと思うけど、これもなかなか難しい。少なくとも、他人を自分の思い通りにさせないと気が済まない人間とはしばらく距離を置きたい。
ここまで書いたけど、別に被害者面で誰かを否定する意図は無く、自分が感じた嫌悪感を書き連ねただけ。
見返すとあまりに支離滅裂な文章だし、読み手には書いた奴に問題があるんじゃないかと思われるのも重々承知している。
コメントは最初から見る気なかったけど、ふと思い出して確認してみたら思ってたよりは反響が出てしまったようで驚いた。
スルーされるか「キチ○イキタコレww」と大喜びで揶揄されるかとしか思ってなかったから、少しでも共感してくれた人がいたのはすごく嬉しかったし、救われた気持ちになった。ありがとうございます。
非難されるのも、自分の腐った妄執がそれで祓えればいいかなと思う。
詰まるところ「勝ち負けの概念しかなく、他人を無理やり自分の土俵に上げて殴って気持ちよくなってる人」が無理なんだけど、コメント見る限りそういう人はどこにでもいるんだなと諦めるしかなさそう。
この際だから、長文の言い訳とやらを書いてみることにする。こんなことをするのも、もうこれっきりにしたい。
タイトルのせいで釣りみたいになってしまったのは、本当に申し訳ない。造語でもでっち上げようかと思ったけど、「意識高い系」で検索してみて出てきた特徴があながち違ってなかったのでこのままにした。
端からノイローゼ気味な奴の愚痴として書くつもりだったし、それとなく断りを入れておいたつもりだった。「意識高い系」あるあるを期待されていた人はごめんなさい。
まあでもスタバでMac広げている人に対して「死ぬほど嫌い」は通り魔かよって思うし、マルチ商法で人生壊されたとか期待されていたのだろうか。そっちの実態はよくわからない。
ただ、過去のことなのにずっと頭の中でもやもやしてしまっていることを書き出して、自分の問題と環境の問題を切り分けたかった。
憂さ晴らししたいのが滲み出て過剰な表現をしてしまったのは反省している。無意識に他人を見下してる風なことも素直に書いて、それって恥ずかしいことだって思えるようになりたかった。もちろん全文恥ずかしいし、生きてる事自体恥ずかしい。
自分が正義だなんて言うつもりはないし、完全に主観で書いてる。悪口だけにならないようにこう言う書き方になったけど、上手くまとまらなかった。
例えば、人脈が広いっていうのは自分にも真似できない才能なのは認めるけど、こっちから見たら嫌いな奴がどこにでも居て逃げ場が無くなっていい迷惑って話。
何をするにしても張り合って来られると、常に競争させられてるみたいで何一つ楽しくできないし、やがて、自分のやってないことでも自慢されるだけで気疲れしてしまうようになる。
高専の闇的な話も補足すると、過去問回して勉強するのも一つの手段だとしても、仲良くても無力であるべきだと思ってる人には何も渡さずに成績を馬鹿にするだけなのが胸糞悪かったし。授業中に複数人でゲームやり続けてそれが普通みたいになってて、先生が可哀想だった。
ちなみに、自分は意識高い人は嫌いではないけど崇拝もしていないしぶっちゃけ少し苦手。「意識高い系」と「意識高い人」を区別するために、人の方を立てる言い回しをしていた。こういうと、系の方が人外みたいだけど。
できるだけマイペースに生きたかったのに、家庭の影響もあってコンプレックスの塊になってしまって、だからこそ個人的に卑怯なやり方で自尊心を満たしてるのが許せなかったのかもしれない。みんなそれぞれ頑張ってるのに、出し抜くことばっか考えてるんじゃねえよと。コンプレックスの殴り合いなんてもうしたくない。
やたらと他人の粗探ししてきて足引っ張る気満々って奴は、一緒に切磋琢磨する仲間じゃなくて意識高い系マウントマンと断定して距離を取るようにしたい。
腰巾着が湧き出したコミュニティからも離れるようにしたい。長いものに巻かれたいのが人間の性なのかもしれないけど、値踏みされるような人付き合いが嫌だった。
普通に話してても毎回途中で割り込まれて置いてきぼりにされるし、同じ環境にいて仕方なく付き合わなきゃいけなくて、こっちがいくら対等な関係を築こうとしても向こうが差を付けようとしてくるから本当に疲れる。
結局のところ、価値観が合わなかったり裏切ってきて嫌いになったりした人間と、学校や職場という長い時間一緒くたにされて拘束される環境で、執拗に自己主張され続けたらそりゃ精神的に来るよなってことだけなのかもしれない。
思い返すと、最初は全く相手にせずに気にもしなかったけど、どんどん環境が悪化して塵積で追い詰められていってダメになってしまった。
高専入ったときは、中学の荒れていた環境からようやく解放されて自分の好きな事で勉強できるんだって思ってた。でも蓋を開けたら虚栄心の塊が牛耳る環境で、馴染めなくても寮だったから逃げ場もなく過ごすしかなくてつらかった。
社会人になってから、今までの反省も踏まえて今度こそ上手くやろうと頑張って初めは仲良くできたのに、対等な関係を目指して親切にしたら図に乗って裏切られて、仕事の機会すら奪われて悲しかった。
自分が要領よく調子よく立ち回れなかったのが悪かったんだけど、自分勝手な人間が得をする環境ならそこに留まるより距離を取った方がマシだった。だけど、変なプライドと悔しさだけが誰にも話せずに残ってしまって、振り切って前に進むこともできなかった。
外堀を埋められるようなやり方をされてきたから、当時は誰も味方なんかしてくれないと思ってたし、実際マイノリティな悩みだから理解してくれる人も少なかっただろう。世の中、そんな悩みは淘汰されるしかないんだから
自称鬱病みたいに思ってたけど、今でも過敏に嫌悪感を感じてしまうなら、やっぱりちゃんとカウンセリングなり精神科なり行った方がいいのかも。
学生時代に行ってたときは、クソ親が病院の先生に成績が落ちてるから何とかしてほしいみたいなことを吹き込んだのを聞いてから嫌になって行かなくなってしまった。
大人になってから行けばまた何か違うのかもしれないけど、あそこいつもめちゃくちゃ混んでるし、今回試してみて自分の悩みを明確にして話すのもかなり労力がいるということも分かったし、何というか本当に生きるのって大変で辞めたくなる。
夢を壊すようだけど大学って増田が考えてるような真面目な場所じゃないよ。大学は勉強するところっていうけど実際ほとんどの学生にとっては友達と恋人作って楽しく遊ぶ場所になってるからみんなコミュニケーションとりたがるし(特に新入生なんかキラキラ大学生したい!って人多いだろうし)教員も学生会もそういう需要を知ってるから機会を与えようとしてる。さらに言えば今年一年ほぼ全部オンラインだったのにきっちり施設利用費も学費として取られてるから学費安くしないなら通いたいって学生とか保護者も多い。学校によって違うかもしれないけど、親に言って明細みたいなの見せてもらったらわかると思う。
そういう意見が大多数だから大勢に合わせるのは癪かもしれんがどうしてもそんな生活したくないなら教授に直接掛け合ってみたら。増田みたいな人に理解ある先生ならなんか考えてくれるかもよ。
香港デモについて、大陸の中国人はまったく知らされていないという話が本当なのか気になったので、生の声を見つけるべく、北京大学の掲示板を見に行ってみた。
ふつうに香港のニュースも議論されてる。しかも内容も健全だ。言論の自由を大事にしている風潮もある。なんとなく現在の京大や、学生運動時代の東大の雰囲気を感じる。
https://bbs.pku.edu.cn/v2/post-read.php?bid=251&threadid=17153349
もちろん、北京大学の優秀な学生たちと、一般庶民ではリテラシなどはまったく違うだろう。しかし、このような議論が.cnドメインの元でできているということが驚きだったし、その場が政府のお膝元でもある「北京大学」の掲示板にも用意されていたことも、意外だった。(トラバ指摘:政府が反乱分子を捕らえるためにあえて泳がせているのではないかという邪推も)
わたし自身は中国語はまったくできないが、偉大なる中国産の翻訳サービス3つの力で、なんとか読み解いてみた(Googleその他の翻訳は、こと中国語に関しては、まったく役に立たない)。 雰囲気を感じ取っていただければ幸いだ。
https://fanyi.caiyunapp.com/#/
https://fanyi.baidu.com/#zh/jp/
以下、意訳した部分もあるので、誤訳があればご指摘ください。
(間違いなく指摘されると思うので、素人機械翻訳による第1稿を鵜呑みにせず、しばらくしたらまた見に来てください)
香港の反中運動や独立運動はどうくい止めるべきなんだ。香港のあらゆる大学の学生会は香港独立運動に変わりつつある。わたしには生粋の香港人の友人がいるが、香港で共産党を擁護するといじめにあうほどの空気らしい。
議論を歓迎しますが、主観的になりすぎず、過激な言葉も使わないようにしましょう。
これはイデオロギーの対立で、香港政府や共産党に反対する姿勢は、すなわちあらゆる西洋国家にとっての正義でもある。毎日Reddit(訳注:アメリカの投稿型ニュースサイト)を回っていますが、トップページに載せられている中国関連のニュースはほとんどがマイナスニュースです。
わたしは党員でもないので海外が共産党の悪いところを悪いと言うのは何とも思わないが、多くはでたらめな悪口だ。正直なところ、海外メディアや海外フォーラムの世論に注目するようになってから、自分がどんどん愛国的になっていることに気づいたんだ。
(共産党についての)よいニュースというのは国内には溢れていますが、外国人の関心は薄いものです。また、海外に留学していると、個人の中国人が海外で見せるイメージも悪評に貢献しているのを実感します。
外国メディアや、中国内でも政治的見解を異にする人間が、共産党の悪いところを指摘できるなら、それは嬉しいことだと言える。しかし多くはでたらめだ。
例えば、先日のニューヨークタイムズによる中国の医療についての動画は、まさに悪評のためのものだった。中国語を英語に翻訳するときも、故意に文章を切り詰めたり、誤訳したりしていた。
例えばわが国の新疆政策では、ウイグル族を東南部沿海に追い払い、漢民族を新疆に送り込み、イスラム教徒に対して無料で開設されている養成所を収容所と呼んでいるといわれている。また中国が少数民族を虐待するという。中国は少数民族の扱いを区別しているわけだが、実のところ、いったい誰が優遇されているのか、誰が冷遇されているのか、ほとんどの中国人は知っているのではないだろうか。(訳注:言外に何か言いたそうだけど真意がわからない → トラバ指摘:これはおそらく中国における少数民族優遇のアファーマティブアクションのことで、漢民族で不満を持っている人は多い)
ただし、(海外メディアだけでなく、)一部の中国人たちによる海外での発言、海外フォーラムでの発言もまた、中国のイメージ悪化の一因ではある。
つまるところ香港人は中国政府を信用していないということだね。
タキトゥスの罠にかかった(訳注:政府が信用を失っている時は、何を言おうと何をしようと、民衆に悪く思われること)のは誰のせいでしょうか。内部的・外部的な要因があるに違いない。
しかし、私の香港の同級生(デモ参加者)が送ってくれたビデオによれば、香港政府に対する中国政府の影響は最悪です。(中国政府は、香港人による香港の統治ではなく、中国政府による香港の統治を黙認している)
結局のところ、メディアは誇張と切り貼りをするものです。(訳注:海外メディアの話に対するレス?)
すぐ隣り合った深圳と香港とで、異なる体制の都市がどのように発展していくか、よい試金石となるでしょう。惜しむらくは、職場でまじめに働いて(デモや政治に)何の興味もない香港人民の利益が犠牲になったことである。
あああ、これで大陸と香港の対立はますます深刻になっていくのか?ああ。。。。。
はい、しかも国際的にはほとんどの人が香港市民の側を支持しています。
(スレ主さん、)あなたは本当に新疆の施設は研修学校だと思っているんですか?それはちょっと・・・
(以下ずっと議論が続く)
これは編集者 箕輪厚介さんが2004年に河合塾横浜校で浪人生活を送っていたら真(まこと)となる話です。
私が記憶の断片を繋ぎ合わせてしまった話である可能性もあるので、箕輪さんのアンサーがあると嬉しいです。
予備校時代のあだ名は“武蔵”だった。箕輪厚介が卒業文集を見て振り返る「熱狂」の源泉
https://r25.jp/article/668021893052168737
箕輪さんの存在を知った数年前から、遠い昔に会ったことがあるような気がしていた。
私は箕輪さんと同じ1985年生まれの2005年入学の早稲田大学出身。
そのため、大学の授業やサークルなど何かのコミニュニティで一緒だったのではないかと思い、幾度も記憶を掘り起こしてみた。語学の授業で一緒だったのではないか?学生会館にいたのではないか?
Facebookにも共通の友人が2人いたが、どこかで繋がりがあるようにも思えなかった。
そんな折に、あのインタビュー記事を読んで記憶の点と点がビビッと線になった。
毎日サンダルとボロボロのジーパンで、ヒゲ伸び放題で教室の一番前の席に座ってたから、予備校で有名人になってたみたいで。
陰で「武蔵」って呼ばれてたらしい。大学の新歓で「キミ武蔵ってあだ名つけられてたよ」って言われた。
月曜日の英語は早川先生、火曜日の英語は里中先生、水曜日の英語は伊集院先生。
確かそんなだった気がする。私の知る武蔵はどの授業でも黒板から向かって右側の前から1番か2番目にいた。
武蔵は授業が終わると、ざわつく周りにわき目もくれず、
やや前傾姿勢でリュックサックを背負い、早歩きで教室を出て行く様子が印象的だった。
そして、なぜか少しいつもにやけていた気もする。
多くの人が周りの人と二言三言の会話を交わすような関係になっていた。
けれど、武蔵はいつまで経っても、1人で教室を駆け抜けていった。
そんな物静かな彼が気になる存在になるあまり、仲間の2〜3人の間であの人武蔵っぽくない?とあだ名を付けてしまった。
K-1ファイターの武蔵に似てると言うのもあった気がするが、はだけたシャツや色落ちしたジーンズが、何というか全体感が無頼派で武蔵だった。
何度か接触を試みようとも思ったが、“ケガ”をしそうなので辞めた。
意地っ張りでどこかで声をかけてもらいたがっている一人ではなく、ナチュラルに一人でいることを好む雰囲気があったからだ。
あの武蔵は果たして箕輪さんだったのだろうか。仲間内のあだ名が広まっていたのかな。
もし、私の知る武蔵が箕輪さんでも、そうじゃなくても、陰であだ名を付けてしまったことは申し訳ございません。
ただ、事後弁護させてもらえるなら私も箕輪さんと同様に予備校で悪意たっぷりなあだ名を付けられていたと言う話を後で聞いたので、当時の予備校はそんな空気だったと言うことでイーブンにしてください。なんだイーブンって?
これは編集者 箕輪厚介さんが2004年に河合塾横浜校で浪人生活を送っていたら真(まこと)となる話です。
私が記憶の断片を繋ぎ合わせてしまった話である可能性もあるので、箕輪さんのアンサーがあると嬉しいです。
予備校時代のあだ名は“武蔵”だった。箕輪厚介が卒業文集を見て振り返る「熱狂」の源泉
https://r25.jp/article/668021893052168737
箕輪さんの存在を知った数年前から、遠い昔に会ったことがあるような気がしていた。
私は箕輪さんと同じ1985年生まれの2005年入学の早稲田大学出身。
そのため、大学の授業やサークルなど何かのコミニュニティで一緒だったのではないかと思い、幾度も記憶を掘り起こしてみた。語学の授業で一緒だったのではないか?学生会館にいたのではないか?
Facebookにも共通の友人が2人いたが、どこかで繋がりがあるようにも思えなかった。
そんな折に、あのインタビュー記事を読んで記憶の点と点がビビッと線になった。
毎日サンダルとボロボロのジーパンで、ヒゲ伸び放題で教室の一番前の席に座ってたから、予備校で有名人になってたみたいで。
陰で「武蔵」って呼ばれてたらしい。大学の新歓で「キミ武蔵ってあだ名つけられてたよ」って言われた。
月曜日の英語は早川先生、火曜日の英語は里中先生、水曜日の英語は伊集院先生。
確かそんなだった気がする。私の知る武蔵はどの授業でも黒板から向かって右側の前から1番か2番目にいた。
武蔵は授業が終わると、ざわつく周りにわき目もくれず、
やや前傾姿勢でリュックサックを背負い、早歩きで教室を出て行く様子が印象的だった。
そして、なぜか少しいつもにやけていた気もする。
多くの人が周りの人と二言三言の会話を交わすような関係になっていた。
けれど、武蔵はいつまで経っても、1人で教室を駆け抜けていった。
そんな物静かな彼が気になる存在になるあまり、仲間の2〜3人の間であの人武蔵っぽくない?とあだ名を付けてしまった。
K-1ファイターの武蔵に似てると言うのもあった気がするが、はだけたシャツや色落ちしたジーンズが、何というか全体感が無頼派で武蔵だった。
何度か接触を試みようとも思ったが、“ケガ”をしそうなので辞めた。
意地っ張りでどこかで声をかけてもらいたがっている一人ではなく、ナチュラルに一人でいることを好む雰囲気があったからだ。
あの武蔵は果たして箕輪さんだったのだろうか。仲間内のあだ名が広まっていたのかな。
もし、私の知る武蔵が箕輪さんでも、そうじゃなくても、陰であだ名を付けてしまったことは申し訳ございません。
ただ、事後弁護させてもらえるなら私も箕輪さんと同様に予備校で悪意たっぷりなあだ名を付けられていたと言う話を後で聞いたので、当時の予備校はそんな空気だったと言うことでイーブンにしてください。なんだイーブンって?
これは編集者 箕輪厚介さんが2004年に河合塾横浜校で浪人生活を送っていたら真(まこと)となる話です。
私が記憶の断片を繋ぎ合わせてしまった話である可能性もあるので、箕輪さんのアンサーがあると嬉しいです。
予備校時代のあだ名は“武蔵”だった。箕輪厚介が卒業文集を見て振り返る「熱狂」の源泉
https://r25.jp/article/668021893052168737
箕輪さんの存在を知った数年前から、遠い昔に会ったことがあるような気がしていた。
私は箕輪さんと同じ1985年生まれの2005年入学の早稲田大学出身。
そのため、大学の授業やサークルなど何かのコミニュニティで一緒だったのではないかと思い、幾度も記憶を掘り起こしてみた。語学の授業で一緒だったのではないか?学生会館にいたのではないか?
Facebookにも共通の友人が2人いたが、どこかで繋がりがあるようにも思えなかった。
そんな折に、あのインタビュー記事を読んで記憶の点と点がビビッと線になった。
毎日サンダルとボロボロのジーパンで、ヒゲ伸び放題で教室の一番前の席に座ってたから、予備校で有名人になってたみたいで。
陰で「武蔵」って呼ばれてたらしい。大学の新歓で「キミ武蔵ってあだ名つけられてたよ」って言われた。
月曜日の英語は早川先生、火曜日の英語は里中先生、水曜日の英語は伊集院先生。
確かそんなだった気がする。私の知る武蔵はどの授業でも黒板から向かって右側の前から1番か2番目にいた。
武蔵は授業が終わると、ざわつく周りにわき目もくれず、
やや前傾姿勢でリュックサックを背負い、早歩きで教室を出て行く様子が印象的だった。
そして、なぜか少しいつもにやけていた気もする。
多くの人が周りの人と二言三言の会話を交わすような関係になっていた。
けれど、武蔵はいつまで経っても、1人で教室を駆け抜けていった。
そんな物静かな彼が気になる存在になるあまり、仲間の2〜3人の間であの人武蔵っぽくない?とあだ名を付けてしまった。
K-1ファイターの武蔵に似てると言うのもあった気がするが、はだけたシャツや色落ちしたジーンズが、何というか全体感が無頼派で武蔵だった。
何度か接触を試みようとも思ったが、“ケガ”をしそうなので辞めた。
意地っ張りでどこかで声をかけてもらいたがっている一人ではなく、ナチュラルに一人でいることを好む雰囲気があったからだ。
あの武蔵は果たして箕輪さんだったのだろうか。仲間内のあだ名が広まっていたのかな。
もし、私の知る武蔵が箕輪さんでも、そうじゃなくても、陰であだ名を付けてしまったことは申し訳ございません。
ただ、事後弁護させてもらえるなら私も箕輪さんと同様に予備校で悪意たっぷりなあだ名を付けられていたと言う話を後で聞いたので、当時の予備校はそんな空気だったと言うことでイーブンにしてください。なんだイーブンって?
これは編集者 箕輪厚介さんが2004年に河合塾横浜校で浪人生活を送っていたら真(まこと)となる話です。
私が記憶の断片を繋ぎ合わせてしまった話である可能性もあるので、箕輪さんのアンサーがあると嬉しいです。
予備校時代のあだ名は“武蔵”だった。箕輪厚介が卒業文集を見て振り返る「熱狂」の源泉
https://r25.jp/article/668021893052168737
箕輪さんの存在を知った数年前から、遠い昔に会ったことがあるような気がしていた。
私は箕輪さんと同じ1985年生まれの2005年入学の早稲田大学出身。
そのため、大学の授業やサークルなど何かのコミニュニティで一緒だったのではないかと思い、幾度も記憶を掘り起こしてみた。語学の授業で一緒だったのではないか?学生会館にいたのではないか?
Facebookにも共通の友人が2人いたが、どこかで繋がりがあるようにも思えなかった。
そんな折に、あのインタビュー記事を読んで記憶の点と点がビビッと線になった。
毎日サンダルとボロボロのジーパンで、ヒゲ伸び放題で教室の一番前の席に座ってたから、予備校で有名人になってたみたいで。
陰で「武蔵」って呼ばれてたらしい。大学の新歓で「キミ武蔵ってあだ名つけられてたよ」って言われた。
月曜日の英語は早川先生、火曜日の英語は里中先生、水曜日の英語は伊集院先生。
確かそんなだった気がする。私の知る武蔵はどの授業でも黒板から向かって右側の前から1番か2番目にいた。
武蔵は授業が終わると、ざわつく周りにわき目もくれず、
やや前傾姿勢でリュックサックを背負い、早歩きで教室を出て行く様子が印象的だった。
そして、なぜか少しいつもにやけていた気もする。
多くの人が周りの人と二言三言の会話を交わすような関係になっていた。
けれど、武蔵はいつまで経っても、1人で教室を駆け抜けていった。
そんな物静かな彼が気になる存在になるあまり、仲間の2〜3人の間であの人武蔵っぽくない?とあだ名を付けてしまった。
K-1ファイターの武蔵に似てると言うのもあった気がするが、はだけたシャツや色落ちしたジーンズが、何というか全体感が無頼派で武蔵だった。
何度か接触を試みようとも思ったが、“ケガ”をしそうなので辞めた。
意地っ張りでどこかで声をかけてもらいたがっている一人ではなく、ナチュラルに一人でいることを好む雰囲気があったからだ。
あの武蔵は果たして箕輪さんだったのだろうか。仲間内のあだ名が広まっていたのかな。
もし、私の知る武蔵が箕輪さんでも、そうじゃなくても、陰であだ名を付けてしまったことは申し訳ございません。
ただ、事後弁護させてもらえるなら私も箕輪さんと同様に予備校で悪意たっぷりなあだ名を付けられていたと言う話を後で聞いたので、当時の予備校はそんな空気だったと言うことでイーブンにしてください。なんだイーブンって?
| 時間 | 記事数 | 文字数 | 文字数平均 | 文字数中央値 |
|---|---|---|---|---|
| 00 | 49 | 14877 | 303.6 | 72 |
| 01 | 32 | 7513 | 234.8 | 75 |
| 02 | 25 | 4494 | 179.8 | 66 |
| 03 | 22 | 4580 | 208.2 | 38.5 |
| 04 | 17 | 2723 | 160.2 | 28 |
| 05 | 10 | 1343 | 134.3 | 63.5 |
| 06 | 13 | 947 | 72.8 | 44 |
| 07 | 28 | 1963 | 70.1 | 41 |
| 08 | 27 | 6952 | 257.5 | 63 |
| 09 | 56 | 5101 | 91.1 | 58 |
| 10 | 105 | 12962 | 123.4 | 53 |
| 11 | 90 | 11273 | 125.3 | 71 |
| 12 | 86 | 12083 | 140.5 | 54.5 |
| 13 | 99 | 8624 | 87.1 | 39 |
| 14 | 85 | 10718 | 126.1 | 54 |
| 15 | 74 | 8207 | 110.9 | 52 |
| 16 | 83 | 7025 | 84.6 | 27 |
| 17 | 57 | 5921 | 103.9 | 55 |
| 18 | 128 | 12314 | 96.2 | 34 |
| 19 | 123 | 12033 | 97.8 | 58 |
| 20 | 118 | 14013 | 118.8 | 60 |
| 21 | 141 | 22946 | 162.7 | 74 |
| 22 | 147 | 17428 | 118.6 | 61 |
| 23 | 143 | 15607 | 109.1 | 45 |
| 1日 | 1758 | 221647 | 126.1 | 51 |
無頼派(7), 箕輪厚介(7), 学生会(7), K-1ファイター(7), 1985年生まれ(7), コミニュニティ(7), 意地っ張り(7), 河合塾(7), 試みよ(7), 里中(7), イースター(15), イスラム(23), リターン(13), 上級国民(12), 救済(29), 池袋(11), 労働力(10), 虐げ(14), フェミニズム(52), 身勝手(9), 社会進出(8), 要約(16), 妊婦(13), 男尊女卑(12), 少子化(25), 広まっ(11), 高学歴(12), 譲っ(9), 高齢者(11), 主義者(18), KKO(77), 弱者(40), 豊か(17), 席(27), 痛み(16), キモい(38), 救わ(14), 差別主義(17)
■食べ物を与えてくる人 /20190419200415(22), ■夢見りあむが許せない /20190417172059(16), ■anond:20190420185245 /20190420185658(16), ■優先席を譲ってほしい /20190421090855(15), ■イースターは流行らなかった /20190421104934(15), ■アニメでいつから安アパートが出てこなくなったのだろう /20190421132526(11), ■今川焼が食べたい /20190420215004(9), ■弱者が弱者のままで尊重されるなんて不可能 /20190421102218(7), ■三大フォがホになっちゃったやつ /20190420175646(7), ■耐性がない /20190421191558(6), ■生まれて初めて新幹線に乗ったんだけど /20190421194256(5), ■三宮の運転手が逮捕されて池袋の運転手が逮捕されない理由がまじでわからん /20190421204318(5), ■暴動起こしちゃダメなの? /20190421191105(5), ■男性を産まなければ女性差別やもろもろの問題が解決する /20190421131733(5), ■人気漫画の多くは暴力漫画ばっかりだなあ /20190421154030(5), ■そもそも日本のリベラルって政治的に勝つ気あるの /20190421183046(4), ■昭和世代のセクハラがヤバイとか言うけど平成生まれもヤバイよ普通に /20190421150336(4), ■面倒臭がり婆のせいでオシャレの楽しみ狭められたくない /20190421123745(4), ■なんでも自分のことに寄せ付けてしまう /20190421020319(4), ■anond:20190421181421 /20190421184936(4), ■最近、ろくな増田なくない? /20190421172212(4)
6194726(2009)
これは編集者 箕輪厚介さんが2004年に河合塾横浜校で浪人生活を送っていたら真(まこと)となる話です。
私が記憶の断片を繋ぎ合わせてしまった話である可能性もあるので、箕輪さんのアンサーがあると嬉しいです。
予備校時代のあだ名は“武蔵”だった。箕輪厚介が卒業文集を見て振り返る「熱狂」の源泉
https://r25.jp/article/668021893052168737
箕輪さんの存在を知った数年前から、遠い昔に会ったことがあるような気がしていた。
私は箕輪さんと同じ1985年生まれの2005年入学の早稲田大学出身。
そのため、大学の授業やサークルなど何かのコミニュニティで一緒だったのではないかと思い、幾度も記憶を掘り起こしてみた。語学の授業で一緒だったのではないか?学生会館にいたのではないか?
Facebookにも共通の友人が2人いたが、どこかで繋がりがあるようにも思えなかった。
そんな折に、あのインタビュー記事を読んで記憶の点と点がビビッと線になった。
月曜日の英語は早川先生、火曜日の英語は里中先生、水曜日の英語は伊集院先生。
確かそんなだった気がする。私の知る武蔵はどの授業でも黒板から向かって右側の前から1番か2番目にいた。
武蔵は授業が終わると、ざわつく周りにわき目もくれず、
やや前傾姿勢でリュックサックを背負い、早歩きで教室を出て行く様子が印象的だった。
そして、なぜか少しいつもにやけていた気もする。
多くの人が周りの人と二言三言の会話を交わすような関係になっていた。
けれど、武蔵はいつまで経っても、1人で教室を駆け抜けていった。
そんな物静かな彼が気になる存在になるあまり、仲間の2〜3人の間であの人武蔵っぽくない?とあだ名を付けてしまった。
K-1ファイターの武蔵に似てると言うのもあった気がするが、はだけたシャツや色落ちしたジーンズが、何というか全体感が無頼派で武蔵だった。
何度か接触を試みようとも思ったが、“ケガ”をしそうなので辞めた。
意地っ張りでどこかで声をかけてもらいたがっている一人ではなく、ナチュラルに一人でいることを好む雰囲気があったからだ。
あの武蔵は果たして箕輪さんだったのだろうか。仲間内のあだ名が広まっていたのかな。
もし、私の知る武蔵が箕輪さんでも、そうじゃなくても、陰であだ名を付けてしまったことは申し訳ございません。
ただ、事後弁護させてもらえるなら私も箕輪さんと同様に予備校で悪意たっぷりなあだ名を付けられていたと言う話を後で聞いたので、当時の予備校はそんな空気だったと言うことでイーブンにしてください。なんだイーブンって?
これは編集者 箕輪厚介さんが2004年に河合塾横浜校で浪人生活を送っていたら真(まこと)となる話です。
私が記憶の断片を繋ぎ合わせてしまった話である可能性もあるので、箕輪さんのアンサーがあると嬉しいです。
予備校時代のあだ名は“武蔵”だった。箕輪厚介が卒業文集を見て振り返る「熱狂」の源泉
https://r25.jp/article/668021893052168737
箕輪さんの存在を知った数年前から、遠い昔に会ったことがあるような気がしていた。
私は箕輪さんと同じ1985年生まれの2005年入学の早稲田大学出身。
そのため、大学の授業やサークルなど何かのコミニュニティで一緒だったのではないかと思い、幾度も記憶を掘り起こしてみた。語学の授業で一緒だったのではないか?学生会館にいたのではないか?
Facebookにも共通の友人が2人いたが、どこかで繋がりがあるようにも思えなかった。
そんな折に、あのインタビュー記事を読んで記憶の点と点がビビッと線になった。
月曜日の英語は早川先生、火曜日の英語は里中先生、水曜日の英語は伊集院先生。
確かそんなだった気がする。私の知る武蔵はどの授業でも黒板から向かって右側の前から1番か2番目にいた。
武蔵は授業が終わると、ざわつく周りにわき目もくれず、
やや前傾姿勢でリュックサックを背負い、早歩きで教室を出て行く様子が印象的だった。
そして、なぜか少しいつもにやけていた気もする。
多くの人が周りの人と二言三言の会話を交わすような関係になっていた。
けれど、武蔵はいつまで経っても、1人で教室を駆け抜けていった。
そんな物静かな彼が気になる存在になるあまり、仲間の2〜3人の間であの人武蔵っぽくない?とあだ名を付けてしまった。
K-1ファイターの武蔵に似てると言うのもあった気がするが、はだけたシャツや色落ちしたジーンズが、何というか全体感が無頼派で武蔵だった。
何度か接触を試みようとも思ったが、“ケガ”をしそうなので辞めた。
意地っ張りでどこかで声をかけてもらいたがっている一人ではなく、ナチュラルに一人でいることを好む雰囲気があったからだ。
あの武蔵は果たして箕輪さんだったのだろうか。仲間内のあだ名が広まっていたのかな。
もし、私の知る武蔵が箕輪さんでも、そうじゃなくても、陰であだ名を付けてしまったことは申し訳ございません。
ただ、事後弁護させてもらえるなら私も箕輪さんと同様に予備校で悪意たっぷりなあだ名を付けられていたと言う話を後で聞いたので、当時の予備校はそんな空気だったと言うことでイーブンにしてください。なんだイーブンって?
これは編集者 箕輪厚介さんが2004年に河合塾横浜校で浪人生活を送っていたら真(まこと)となる話です。
私が記憶の断片を繋ぎ合わせてしまった話である可能性もあるので、箕輪さんのアンサーがあると嬉しいです。
予備校時代のあだ名は“武蔵”だった。箕輪厚介が卒業文集を見て振り返る「熱狂」の源泉
https://r25.jp/article/668021893052168737
箕輪さんの存在を知った数年前から、遠い昔に会ったことがあるような気がしていた。
私は箕輪さんと同じ1985年生まれの2005年入学の早稲田大学出身。
そのため、大学の授業やサークルなど何かのコミニュニティで一緒だったのではないかと思い、
幾度も記憶を掘り起こしてみた。語学の授業で一緒だったのではないか?学生会館にいたのではないか?
Facebookにも共通の友人が2人いたが、どこかで繋がりがあるようにも思えなかった。
そんな折に、あのインタビュー記事を読んで記憶の点と点がビビッと線になった。
2004年の河合塾横浜校 早慶クラス。月曜日の英語は早川先生、火曜日の英語は里中先生、水曜日の英語は伊集院先生。
確かそんなだった気がする。私の知る武蔵はどの授業でも黒板から向かって右側の前から1番か2番目にいた。
武蔵は授業が終わると、ざわつく周りにわき目もくれず、やや前傾姿勢でリュックサックを背負い、早歩きで教室を出て行く様子が印象的だった。
そして、なぜか少しいつもにやけていた気もする。
予備校は学校的な馴れ合いは無いものの、夏過ぎくらいには、多くの人が周りの人と二言三言の会話を交わすような関係になっていた。
けれど、武蔵はいつまで経っても、1人で教室を駆け抜けていった。
そんな物静かな彼が気になる存在になるあまり、仲間の2〜3人の間であの人武蔵っぽくない?とあだ名を付けてしまった。
K-1ファイターの武蔵に似てると言うのもあった気がするが、はだけたシャツや色落ちしたジーンズが、何というか全体感が無頼派で武蔵だった。
何度か接触を試みようとも思ったが、“ケガ”をしそうなので辞めた。意地っ張りでどこかで声をかけてもらいたがっている一人ではなく、ナチュラルに一人でいることを好む雰囲気があったからだ。
あの武蔵は果たして箕輪さんだったのだろうか。仲間内のあだ名が広まっていたのかな。
もし、私の知る武蔵が箕輪さんでも、そうじゃなくても、影であだ名を付けてしまったことは申し訳ございません。
ただ、事後弁護させてもらえるなら私も箕輪さんと同様に予備校で悪意たっぷりなあだ名を付けられていたと言う話を後で聞いたので、
これは編集者 箕輪厚介さんが2004年に河合塾横浜校で浪人生活を送っていたら真(まこと)となる話です。
私が記憶の断片を繋ぎ合わせてしまった話である可能性もあるので、箕輪さんのアンサーがあると嬉しいです。
予備校時代のあだ名は“武蔵”だった。箕輪厚介が卒業文集を見て振り返る「熱狂」の源泉
https://r25.jp/article/668021893052168737
箕輪さんの存在を知った数年前から、遠い昔に会ったことがあるような気がしていた。
私は箕輪さんと同じ1985年生まれの2005年入学の早稲田大学出身。
そのため、大学の授業やサークルなど何かのコミニュニティで一緒だったのではないかと思い、幾度も記憶を掘り起こしてみた。語学の授業で一緒だったのではないか?学生会館にいたのではないか?
Facebookにも共通の友人が2人いたが、どこかで繋がりがあるようにも思えなかった。
そんな折に、あのインタビュー記事を読んで記憶の点と点がビビッと線になった。
月曜日の英語は早川先生、火曜日の英語は里中先生、水曜日の英語は伊集院先生。
確かそんなだった気がする。私の知る武蔵はどの授業でも黒板から向かって右側の前から1番か2番目にいた。
武蔵は授業が終わると、ざわつく周りにわき目もくれず、
やや前傾姿勢でリュックサックを背負い、早歩きで教室を出て行く様子が印象的だった。
そして、なぜか少しいつもにやけていた気もする。
多くの人が周りの人と二言三言の会話を交わすような関係になっていた。
けれど、武蔵はいつまで経っても、1人で教室を駆け抜けていった。
そんな物静かな彼が気になる存在になるあまり、仲間の2〜3人の間であの人武蔵っぽくない?とあだ名を付けてしまった。
K-1ファイターの武蔵に似てると言うのもあった気がするが、はだけたシャツや色落ちしたジーンズが、何というか全体感が無頼派で武蔵だった。
何度か接触を試みようとも思ったが、“ケガ”をしそうなので辞めた。
意地っ張りでどこかで声をかけてもらいたがっている一人ではなく、ナチュラルに一人でいることを好む雰囲気があったからだ。
あの武蔵は果たして箕輪さんだったのだろうか。仲間内のあだ名が広まっていたのかな。
もし、私の知る武蔵が箕輪さんでも、そうじゃなくても、影であだ名を付けてしまったことは申し訳ございません。
ただ、事後弁護させてもらえるなら私も箕輪さんと同様に予備校で悪意たっぷりなあだ名を付けられていたと言う話を後で聞いたので、当時の予備校はそんな空気だったと言うことでイーブンにしてください。なんだイーブンって?
これは編集者 箕輪厚介さんが2004年に河合塾横浜校で浪人生活を送っていたら真(まこと)となる話です。
私が記憶の断片を繋ぎ合わせてしまった話である可能性もあるので、箕輪さんのアンサーがあると嬉しいです。
予備校時代のあだ名は“武蔵”だった。箕輪厚介が卒業文集を見て振り返る「熱狂」の源泉
https://r25.jp/article/668021893052168737
箕輪さんの存在を知った数年前から、遠い昔に会ったことがあるような気がしていた。
私は箕輪さんと同じ1985年生まれの2005年入学の早稲田大学出身。
そのため、大学の授業やサークルなど何かのコミニュニティで一緒だったのではないかと思い、
幾度も記憶を掘り起こしてみた。語学の授業で一緒だったのではないか?学生会館にいたのではないか?
Facebookにも共通の友人が2人いたが、どこかで繋がりがあるようにも思えなかった。
そんな折に、あのインタビュー記事を読んで記憶の点と点がビビッと線になった。
月曜日の英語は早川先生、火曜日の英語は里中先生、水曜日の英語は伊集院先生。
確かそんなだった気がする。私の知る武蔵はどの授業でも黒板から向かって右側の前から1番か2番目にいた。
武蔵は授業が終わると、ざわつく周りにわき目もくれず、
やや前傾姿勢でリュックサックを背負い、早歩きで教室を出て行く様子が印象的だった。
そして、なぜか少しいつもにやけていた気もする。
多くの人が周りの人と二言三言の会話を交わすような関係になっていた。
けれど、武蔵はいつまで経っても、1人で教室を駆け抜けていった。
仲間の2〜3人の間であの人武蔵っぽくない?とあだ名を付けてしまった。
はだけたシャツや色落ちしたジーンズが、何というか全体感が無頼派で武蔵だった。
何度か接触を試みようとも思ったが、“ケガ”をしそうなので辞めた。
意地っ張りでどこかで声をかけてもらいたがっている一人ではなく、ナチュラルに一人でいることを好む雰囲気があったからだ。
あの武蔵は果たして箕輪さんだったのだろうか。仲間内のあだ名が広まっていたのかな。
もし、私の知る武蔵が箕輪さんでも、そうじゃなくても、影であだ名を付けてしまったことは申し訳ございません。
ただ、事後弁護させてもらえるなら私も箕輪さんと同様に予備校で悪意たっぷりなあだ名を付けられていたと言う話を後で聞いたので、当時の予備校はそんな空気だったと言うことでイーブンにしてください。なんだイーブンって?
これは編集者 箕輪厚介さんが2004年に河合塾横浜校で浪人生活を送っていたら真(まこと)となる話です。
私が記憶の断片を繋ぎ合わせてしまった話である可能性もあるので、箕輪さんのアンサーがあると嬉しいです。
予備校時代のあだ名は“武蔵”だった。箕輪厚介が卒業文集を見て振り返る「熱狂」の源泉
https://r25.jp/article/668021893052168737
箕輪さんの存在を知った数年前から、遠い昔に会ったことがあるような気がしていた。
私は箕輪さんと同じ1985年生まれの2005年入学の早稲田大学出身。
そのため、大学の授業やサークルなど何かのコミニュニティで一緒だったのではないかと思い、
幾度も記憶を掘り起こしてみた。語学の授業で一緒だったのではないか?学生会館にいたのではないか?
Facebookにも共通の友人が2人いたが、どこかで繋がりがあるようにも思えなかった。
そんな折に、あのインタビュー記事を読んで記憶の点と点がビビッと線になった。
月曜日の英語は早川先生、火曜日の英語は里中先生、水曜日の英語は伊集院先生。
確かそんなだった気がする。私の知る武蔵はどの授業でも黒板から向かって右側の前から1番か2番目にいた。
武蔵は授業が終わると、ざわつく周りにわき目もくれず、
やや前傾姿勢でリュックサックを背負い、早歩きで教室を出て行く様子が印象的だった。
そして、なぜか少しいつもにやけていた気もする。
多くの人が周りの人と二言三言の会話を交わすような関係になっていた。
けれど、武蔵はいつまで経っても、1人で教室を駆け抜けていった。
仲間の2〜3人の間であの人武蔵っぽくない?とあだ名を付けてしまった。
はだけたシャツや色落ちしたジーンズが、何というか全体感が無頼派で武蔵だった。
何度か接触を試みようとも思ったが、“ケガ”をしそうなので辞めた。
意地っ張りでどこかで声をかけてもらいたがっている一人ではなく、ナチュラルに一人でいることを好む雰囲気があったからだ。
あの武蔵は果たして箕輪さんだったのだろうか。仲間内のあだ名が広まっていたのかな。
もし、私の知る武蔵が箕輪さんでも、そうじゃなくても、影であだ名を付けてしまったことは申し訳ございません。
ただ、事後弁護させてもらえるなら私も箕輪さんと同様に予備校で悪意たっぷりなあだ名を付けられていたと言う話を後で聞いたので、
これは編集者 箕輪厚介さんが2004年に河合塾横浜校で浪人生活を送っていたら真(まこと)となる話です。
私が記憶の断片を繋ぎ合わせてしまった話である可能性もあるので、箕輪さんのアンサーがあると嬉しいです。
予備校時代のあだ名は“武蔵”だった。箕輪厚介が卒業文集を見て振り返る「熱狂」の源泉
https://r25.jp/article/668021893052168737
箕輪さんの存在を知った数年前から、遠い昔に会ったことがあるような気がしていた。
私は箕輪さんと同じ1985年生まれの2005年入学の早稲田大学出身。
そのため、大学の授業やサークルなど何かのコミニュニティで一緒だったのではないかと思い、
幾度も記憶を掘り起こしてみた。語学の授業で一緒だったのではないか?学生会館にいたのではないか?
Facebookにも共通の友人が2人いたが、どこかで繋がりがあるようにも思えなかった。
そんな折に、あのインタビュー記事を読んで記憶の点と点がビビッと線になった。
月曜日の英語は早川先生、火曜日の英語は里中先生、水曜日の英語は伊集院先生。
確かそんなだった気がする。私の知る武蔵はどの授業でも黒板から向かって右側の前から1番か2番目にいた。
武蔵は授業が終わると、ざわつく周りにわき目もくれず、
やや前傾姿勢でリュックサックを背負い、早歩きで教室を出て行く様子が印象的だった。
そして、なぜか少しいつもにやけていた気もする。
多くの人が周りの人と二言三言の会話を交わすような関係になっていた。
けれど、武蔵はいつまで経っても、1人で教室を駆け抜けていった。
仲間の2〜3人の間であの人武蔵っぽくない?とあだ名を付けてしまった。
はだけたシャツや色落ちしたジーンズが、何というか全体感が無頼派で武蔵だった。
何度か接触を試みようとも思ったが、“ケガ”をしそうなので辞めた。
意地っ張りでどこかで声をかけてもらいたがっている一人ではなく、ナチュラルに一人でいることを好む雰囲気があったからだ。
あの武蔵は果たして箕輪さんだったのだろうか。仲間内のあだ名が広まっていたのかな。
もし、私の知る武蔵が箕輪さんでも、そうじゃなくても、影であだ名を付けてしまったことは申し訳ございません。
ただ、事後弁護させてもらえるなら私も箕輪さんと同様に予備校で悪意たっぷりなあだ名を付けられていたと言う話を後で聞いたので、