はてなキーワード: 年中行事とは
ブラックフライデーが日本に上陸して何年経つんだろうか、あれは元々、アメリカの感謝祭の翌日に小売店が一斉に安売りするっていう、ただの「モノの割引日」でしかなかったはずだ。
要は、みんなが仮装して騒ぐ「ハロウィン」みたいに、ブラックフライデーも「お祭り」にしようというムーブメントが起きているらしい。
単なる「割引」だけでは、もう日本人は財布の紐を緩めないってことだろう。
だから、イベントのシンボルカラーである「黒」を徹底的に利用して、みんなに「これは特別なイベントなんだ」って思わせたいわけだ。割引率じゃなくて、体験で人を釣ろうとしているんだな。
その最たる例が、スーパーやコンビニの「黒い食材」フェアというものだ。
イカスミを練り込んだ真っ黒な海苔弁とか、黒ごまとか竹炭で色付けした、もはや不気味ですらあるスイーツとか、一体誰が喜ぶんだと考えてしまう。
でも、これこそが、彼らがブラックフライデーを「ハロウィン化」させたい核心なんだと気づいた。
いくら頑張っても半額とか無理だし、そんなことをしたら利益が吹っ飛んでしまう。
だから、安くする代わりに「面白さ」という付加価値を、無理やりつけようとしているのだ。
この真っ黒な見た目は、完全にSNSで「バズらせる」ためだけに存在していると言っても過言ではない。
割引が難しい日々の商品も、「期間限定のブラックフード」という形で特別感を演出できるし、ただの日常の買い物に「こんな変なもの売ってる!」っていうエンタメ要素を無理やりぶち込める。
みんなが写真を撮って拡散すれば、企業側は広告費だってかからない。
彼らは、ハロウィンで「コト」消費が成功した味を知ってしまったから、このブラックフライデーも、「安さ」じゃなくて「楽しさ」で、日本の年中行事に定着させようと必死なんだろう。
黒い食材のフェアを見かけるたびに、「また企業に踊らされてるな」とちょっと冷めた目で見てしまう自分がいる。
でも、真っ黒なオムライス。
ちょっと食べてみたい気もするんだよな。
これが悔しい。
ずーっと暑くってってそんな話題持ちきり切り餅は四角いか丸いかって私はその論争があるだなんて知らないぐらい
夏になんてお餅を食べないんだけど、
年中行事なのかしら?
まあそれはともかく
夏は暑すぎてお餅どころではないわ。
帰り道あまりの暑さに
アイスバーを買って食べることしばしばあるバシバシ冷たいアイスバーを決めると気持ちいいわ。
歯でパキってアイスを折ったつもりの音がして、
アイスがミルクアイスなのに氷菓の氷菓子みたいな氷が割れる音がしたので、
私一回ガブ!って豆をジャイアントコーンのおつまみのコーン堅いヤツあるじゃない。
あれを勢いよく噛み砕こうとしたら、
若干欠けてしまって、
ぴえん!
って感じだったのよね。
以降注意しているつもりだったけれど
やらかしてしまったか!って思ったけど大丈夫だったので気を付けないといけないわ。
本当は野菜の仕入れが意外といいでお馴染みのいい野菜が売っている方のマーケットでキュウリ買いたかったんだけど、
小ぶりで、
うーんなんかいいんだけど元気がないというか。
その野菜の仕入れに自信があるマーケットの方のキュウリがきっと活きのいいやつそろってます!って
あ!
大将!
活きのいいキュウリ1本お願い!つーと
網で活きキュウリをすくってくれるの!
あいよ!って
手渡しされたキュウリは冷え冷えで。
その場で囓ることが出来ないのが残念だけれど
早々に会計を済ませて
その活きキュウリをガブリと囓るのが新鮮で活きのいいキュウリね!って感じるのよね。
だから
一回ここの活きキュウリの大将のすくいたての冷え冷えのさっきまで元気に水槽の中で泳いでいたキュウリを
お店から出てすぐさまに囓るのがたまらなく楽しみの夏の思い出になるのよね。
だから、
その活きキュウリが無いよそのお店で買った
しゃーなしキュウリは
どう見たってキュウリよ!
そんで
今私がハマっている長芋とろろ蕎麦の夜のお供にキュウリを囓ろうと思っていたけれど、
さすがのバテ気味よろしく、
シクヨロでへろへろだったので、
せっかくよ!
せっかくキュウリ買ったのに究理を見極めないまま究理を囓ることをすっかり買ったことも忘れてしまったぐらいに
眠りについてしまったわ。
うわ!
私の冷やしキュウリ囓り忘れてる!
あんなに楽しみにしていた冷やしキュウリ囓りを忘れて寝てしまうだなんて!
それぐらい
もうさ、
キュウリ囓り忘れるだなんて
令和入ってからイチのテヘペロ案件で私は落ち込んでしまったけれど
寝て起きて元気になったので、
爽快朝キュウリを囓ろうと思ったけれど、
今週は朝とお昼のおにぎり作りに精が出るので、
出来上がったことに満足して、
さてカバンに入れて出発よ!って
立て続けに令和入ってからのテヘペロ案件を2℃も体温が下がるぐらいヒヤッとした2度目にそう思ったの!
ああ、
そしてよく冷えた室内でゲームすんの!
とはいえ、
最近は夜更かしもなく、
もうすっかり23時台には寝ちゃう寝台特急が発車しちゃうぐらいに寝ちゃうから
もしかしたらまたキュウリ囓ることを忘れてしまうかもしれないわ。
ミラジョヴォヴィッチさんのバイオハザードのポスターで両手に拳銃を持っているイメージってあるじゃない!
ちなみにミラジョヴォヴィッチさんの映画で一番好きなのは『フィフス・エレメント』よ。
話戻るけどそのポスターの
そのあれ!
あれのキュウリ版!
両手でキュウリを持って
交互に右左って交互に囓りながらキュウリ贅沢をするの!
忘れないようにしなくっちゃ!
今夜こそはキュウリを囓って涼を取って寝るわ。
忘れないようにしないと!
うふふ。
朝は鮭おにぎり!
鮭なベイビー!
鮭のおにぎりのもとでふりかけて混ぜてこしらえてきた私特製のおにぎりよ!
お昼は梅味と梅味が途中でなくなったので、
結局おにぎりの素が
えらく消費期限どえらく3年ぐらい超えていたけれど、
変色して真っ黒になっていたものの
私は至って元気いっぱいなのでそれによる健康被害はゼロとみて差し支えないみたいね。
おにぎりのもとは多少の期限が消費期限がなくなっていてもへっちゃらみたい。
確かに風味は損なっていたけれど
味は問題ないと思うわ。
煮だしルイボスティーウォーラー冷えているのをゴクゴク飲んで、
冷蔵庫には炭酸水のレモンを入れ忘れ冷やし忘れないようにしておかないと!とチェックしてストックしておいたわ。
冷えたのがないと
とにかく、
暑いので気を付けてね。
水分補給はしっかりと!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
社会保障費を含めた負担割合を見て減税をポピュリズムというのはさすがにどうか。
関税が上がって、しかも税金まで上がるとかすごいな。国民を生かす気がない。しかも公金チューチュースキームをもろに支持している。
立民・枝野氏「減税ポピュリズムに走りたいなら、別の党を作ってください」…党内の消費税減税論をけん制
立憲民主党の枝野幸男元代表は12日、米国による一連の関税措置への対応を優先するべきだとして、内閣不信任決議案の提出に否定的な考えを示した。さいたま市での自身の支持者との会合で語った。
枝野氏は関税措置を「国難」と指摘した上で、「不信任案が通ったら、自民党総裁選や衆院解散などで1か月半の政治空白ができる。年中行事だからといって、(不信任案提出を)やるのは無責任極まりない」と強調した。
また、党内で消費税減税を求める声が強まっていることに関しては、「次の世代につけを回すことになる。選挙対策としても最悪だ」と批判した。「減税ポピュリズムに走りたいなら、別の党を作ってください」とも述べ、党内の減税論を強くけん制した。
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20250412-OYT1T50112/
@smsmile01319091
13時間
消費税だけが減税じゃない。うん、全く意味が判りません。公明党がゴリ押しした8%と10%を含めやり直すべきなので。
驚くべきことだが、事業仕分けのような政策が得意にも拘わらず、NPO法人の経理を厳格にし、あいまいなところは即助成金をゼロにし、変換する。
頭の中でこんな感じのことを考えているお医者さんは別に珍しくもない。
書いているのは設定通りとすれば若い先生とお見受けするが、若い医療従事者が働きはじめて救急外来で出会った生◯やその他のクレーマタイプの患者に怒りを覚えて、稚拙な自己責任論を振り回した文句を書き連ねて炎上してしまうのはもはや年中行事だ。しばらくするとみんな落ち着いてくるが、心の中には自己責任論の延長線にある考え方を秘めた野良リバタリアンみたいなのが医者には多い。
玉木氏の問いである「国民皆保険制度を維持したままコストを持続可能にするにはどうしたらいいか?」という質問に真面目に答える時点で、これはリベラル路線に乗っかっている。玉木氏の術中に嵌っているといえなくもないが、答えているのは国民皆保険制度は維持したほうがよいと考えている真面目でやさしいリベラルな先生たちなのだ。この増田のように「知るかよ、国民皆保険制度の方を壊しちまえばいいだろ」と考えているリバタリアン医者もたくさんいる。
なんか勘違いしている人も多いのだが、国民皆保険制度はとてもとても国民を保護している制度だ。医者の収入の出処が公金で、安定しているように見えるので医者のためにあると思っているかもしれないが、実際は反対である。もちろん国民皆保険が一部の医者を競争から保護している面は否定できない。しかし国民皆保険制度は競争からの保護のかわりに医療から値付けの権利を奪って公定価格を定めている。この公定価格をなんと呼んでいるかというと診療報酬である。保険から支払われるので報酬で別に間違ってはいないのだが、全体にかかった医療費の何分の一は自己負担しているので、患者側からしてもこれは公定価格といっていい。報酬という言葉に引っ張られる形で今回の玉木氏のように診療報酬=医者の収入というミスリードを敢えてする人があとを立たないのも以前からだ。玉木氏のポストにみんなが突っ込む形で何度も説明されているが、診療報酬=保険診療をした上で病院が受け取る対価なので、製薬メーカーへも医療機器メーカーへも、医者以外の病院では働くすべての人の給料の原資が診療報酬だ。
医療費の値付けの本質は「命が惜しけりゃ金を出せ」である。なのでうっかりするとすぐに青天井になる。公定価格のない医療費がいくらかかるのかの典型例がもちろんアメリカだ。医者の間では「医者になるならアメリカ、患者になるなら日本」が定説である。そりゃ働くんなら値付けができる側に回ったほうがいいに決まってるだろ。医療を受ける側に回るなら公定価格があったほうがいいに決まっている、ジョン・ロールズの無知のヴェールをかぶるまでもない。
先に述べたように医者はどちらかというとリバタリアンに傾きやすい。ずっと恵まれた環境で一生懸命勉強してきて、エリート意識を持っている人も多い。だから今の日本の医療制度の枠内でも「自分ががんばって能力を高めたのにそれが自分の収入に跳ね返らないのはおかしい」という感覚を潜在的に持っている人も多い。「俺たちも能力を高めるために競争するから、お前たちも受ける医療のレベルにあわせて対価を払え」という態度に医者全体がなってしまうと、困るのは患者の方である。
東大の文系を出た人たちは医者を蛇蝎のごとく嫌っている。霞が関の中には今の制度を維持したまま、医者を警察官や消防署員のようにしたいと願っている勢力が強いような印象を受ける。東大も出てないのに自分たち官僚より確実に稼げるようになれる人がいることを許せないのだ。そうなると医療がどうなるのかは想像がつかないが、今よりも金はかからなくなっても荒廃していくのではないかと思われる。では医者はその方向を選ぶかというと多分そうはならない。そうなるかわりに今の制度に少しずつ自費で受ける部分が混ざっていくことを容認するだろうと思う。混合診療というやつだ。歯医者でやっているのと同じ、保険で治すと銀歯、自費なら白い歯、というやつ。お金のない人は保険医療しかしない公立・公的病院へ、お金がある人は民間の病院でプラスアルファのお金を払って優先的に受けたい医療をどうぞ、となる。その社会では医者同士に競争が生まれる。たぶん医者はこの状態をわりとあっさり受け入れる。若い人ほどあっさりと。今の時点でこの混合診療導入に一番反対しているの誰だか知ってる?みんなが既得権益の保護団体として忌み嫌っている医師会ですよ。
医者同士が競争するようになって、年取った開業医がついていけなくなって没落していく様が展開されるとみんなは喜ぶだろう。しかしそれが一巡して医者同士が切磋琢磨して、提供できる医療の質を高めて、なおかつそれに自分たちの納得のいくような値付けができるようになる頃には、保険証一枚でどこにでもかかれた時代はとっくに過去のものになり、お金のない人はすっかり縮んだ保険診療の枠内で提供される医療をお金がないからと建て替えもされない古い建物の病院で研修医から受けることになる。とても良い先生にあたったと喜んでいたら、その医者は来月にはあなたの払うお金ではかかれない立派な病院に異動しているかもしれない。そしてそんな時代が来ることに実は多くの医者は心の痛みを感じない。医者はわりとあっさり自由競争バンザイ派に染まっていくからだ。その心象風景を描いたのがこの増田なのである。
覚えておいてほしいのはみんなからみてあまりにも非効率的なこの医療制度が、WHOが評価する世界でもっともすぐれた医療制度ということだ。しかしながらどういうわけだか中で働く人にも、受診する側も不満タラタラなのがこの制度なのである。
アラフォーになっても、とりとめもない会話ができる友人がいる。
それってけっこう幸せなんじゃないだろうか。
俺も友人も未婚で恋人もおらず、独身。どっちも男、同郷。上京して東京にしがみついて、仕事を得ている。
だから金曜日の夜なんかは、安い居酒屋で飲んだ帰りにぶらぶら歩いて、お互い興味の一致することについてああだこうだ言う。
そんな生活が何年も続いている。
アラフォーの地方出身のオタクというのは、「高校まで、ネットが機能してないギリギリの世代」だ。
わずか数年でだいぶ変わるが、今年40なら高校に携帯電話はなく、37ならあるぐらい。
携帯があろうかなかろうが、高校の卒業式は今生の別れを確信して泣き、大学に入ったらmixiが出てきてmixiであっさり再会みたいな世代だ。
小学や中学時代は、話題のゲームが出ればクラス中それでしばらく持ちきり、という世代。
FFなら7か8までは必修科目であり、ドラクエも7まではなんだかんだみんなやった。
そんな俺たちの鉄板の話題に、「メラガイアー」「イオグランデ」の是非論争がある。
なんだそれはというニュービーに説明すると、それらはドラクエの呪文だ。
・単体炎魔法
・全体爆発魔法
というのが元々あった。8まではこの3段階でお馴染みだった。
近年リメイクアニメ版をやりきったドラクエ漫画『ダイの大冒険』でも、メラゾーマやイオナズンは最上級魔法としてお馴染みだ。
ダイ大は「~はイオナズン級の破壊力」という威力解説がけっこう多い。
大魔王バーンの「それはメラゾーマではない。メラだ」も非常に有名なやりとりだろう。
まあつまり、ドラクエ界の常識だった。それはイコールで我々世代男子の常識だった。
ところが、ドラクエ9で「4段階目」が追加される。
火炎:メラ → メラミ → メラゾーマ → 『メラガイアー』new!!
爆発:イオ → イオラ → イオナズン → 『イオグランデ』new!!
氷:ヒャド → ヒャダルコ →(ヒャダイン)→ マヒャド → 『マヒャデドス』new!!
風;バギ → バギマ → バギクロス → 『バギムーチョ』new!!
閃光:ギラ → ベギラマ → ベギラゴン → 『ギラグレイド』new!!
え……あ……?
マヒャデドス……?
どういうことかと言うと、ドラクエの呪文は「擬音」ベースなのだ。
全シリーズ大好きだが、魔法の名付けについてはドラクエは一歩上を言っていたと思わずにはいられない。
英語はわかりやすすぎるし、女神転生は何か深い意味があるのかもしれないが直感的ではない。
浸透戦略という意味では、ドラクエの呪文の覚えやすさとワンダーの両立は、恐ろしい次元に達している。
あの鳥山明氏がモンスターデザインするファンシーな世界を、この文字列が強烈にバックアップしたことは間違いないだろう。
魔法グラフィックはドラクエ5で初めて付くわけだが、つまり4まではただの文字列で視覚効果は無い。
それでも様々なドラクエ攻略本やドラクエ漫画や、公式4コマ漫画劇場でそれらは描かれ、5でゲーム画面に逆輸入されたそれは納得感の塊であった。
メラゾーマは大魔王ゾーマの力を借りているからメラゾーマなんだとかどうとか、真偽不明の憶測も飛び交うわけである。
後発だが『スレイヤーズ』の呪文「魔竜烈火咆(ガーヴ・フレア)」は公式的に魔竜王ガーヴの力を借りているため、そんなこんなでメラゾーマはきっと……?
いや、「イオナズン、マヒャド、ベギラゴン」みたいに感覚的な言葉だよ、ゾーマはきっと関係ないよ、バギクロスお前はややこしくなるからちょっとあっち行ってろ…
が
メラガイアー……
ガイア見参
無論、ガイアがギリシア神話の大地の神、最強クラスの神であることなど百も承知である。
我々、ネットがなかった頃からオタクしてきた者たちを侮ってはいけない。
ゲームにハマった人間は、「不思議な世界」への飽くなき探究心を満たすために、サブカル本、タロットカードの解説本ぐらいは皆買って読み込んでいたのだ。
第一、ドラクエ5や6と同年代のゲームには「ガイアのへそ」に行かされる『聖剣伝説Ⅱ』があり、ガイアのしもべとなって世界の遺跡巡りをする『ガイア幻想紀』もあった。
よく知っている。よく知っているからこそ
「なぜいきなり、ギリシア神話……?」
なのだ。
え なに じゃあ イオウラヌス? イオアポロン? やめろよ、マジでやめてくれよ…
イ オ グ ラ ン デ
ス タ ー バ ッ ク ス 見 参
無論、グランデがどこかの国の言葉で「すっげえ」ぐらいの意味だとはわかる。
しかしドラクエ9が出た頃には、もう我々のイメージで「グランデ=つっよい」を代表するのはスターバックスの特大容器だった。ご立派。ありゃ強い。
イオ イオトール イオグランデ なら1000歩譲ってわからないでもない。
どう? 昨日まで「ラテ、グランデで」…とお洒落に言ってたのに、今日から「ラテナズン1つ」とか言うの。
素晴しきドラクエの擬音呪文ワンダーに、「別世界の、意味のある文字列」が追加されたのだ。
バギクロス(外見イメージはナイトウイスプ)が登場の機会をうかがっているがまだ無視する。へらへら笑ってんじゃねー
もちろん、ドラクエにも他社ゲーに比べれば少数とはいえ、他の神話からの出典となりそうな武器・防具はあった。
ドラクエ3なんかは「ガイアのつるぎ」という、火山に投込まないといけない重要アイテムがある。
(ただドラクエ3は、勇者ロトが我々の世界を作った的なメタ遊びの作品なので、後のギリシア神話すらロト発祥なんだよぐらいの遊び心な気がする)
でもなあ……アイテムはまだ許せても、擬音魔法ワールド、しかもそれの伝統を超える新最上級に「ガイアー」は……「グランデ」は……
なんか……持ち味だったすげー完成度の世界がちょっと……萎縮したような……
こらっ!!
バギクロス「俺は昔から『クロス』ついてますけど~? ウケケケケ」キャッキャ
そんな浅い粗探しで俺たちが倒せるとでも思ってんのか。
おまえはクロスって名前についてるけど、初出5やらそれ以降のグラでちっともクロスしてない
だからお前の「クロス」っていうのは英語の「交差」ではなくて、ただの擬音なんだよ!
ムーチョはスペイン語で「たくさん、とても」らしいがそんなの知らん!
ムーチョってのは「日本語で」ひょうきんなオジサンの雰囲気言葉だ!
楽屋裏に引っ込んでろ!!!!!マジでややこしくなるから!!!
センスないと思うよ!(直球)
初出の6が出たとき小学生のガキだったけど、最強格の呪文にその意図でその文字列つけちゃうのダサイと思ってたもん!
ギガスラッシュはまだいい! でもジゴスパークはちょっと恥ずかしかった!
アルテマソードもまあ、うん、でも「ジゴ」で地獄よりはいいと思うよ!
「ジゴスパークって技があるんだよ」ってクラスで最初に言い出した子、誰も信じてなかったもん! その名前的に!
そんなわけで我々二人の間では「メラガイアー」と「イオグランデ」は、
あのエーミールが出てくる、ちょうちょ握りつぶす話みたいになってしまっていた。
“そのとき初めてぼくは、一度起きたことは、二度と償いのできないものだということを悟った”……
でもあの話で「元ぼく」が窓辺に腰掛けて語ることで乗り越えようとした?ように、
俺たちは、だからこそ、何年もかけて、何度も話し合った。
「どういう名前だったら、よかったのだろう?」
と。
メラ メラミ メラゾーマ…… メラザーク? 「ゾーマ」が綺麗すぎるんだよなぁ……
イオ イオラ イオナズン…… イオジャドン? 「ナズン」が綺麗すぎるんだよなぁ……
そして、いつも答えが出せないまま終わっていた。
「他の言語にはない、なんか強そうな、納得感のある擬音」を「作らなければならない」のだ。
年に一度か二度ぐらいで話題にしておきながら、我々は何も進められずにいた。
結局、いい答えなんてないのかも……
俺たちは、何も決められないのかも……
そういう、気だるいが心地よい諦めが、受け入れざるを得ない現実として、アラフォーとなった俺たちを包むようになっていた。
しかし、それでも年中行事のようにダラダラと追い続けた成果か――
それは夜道に、ボーッと白く輝いていた。サントリーの自販機の形をして。
「おー、また商品切り替えの時期かー」
「ない。知らん。南米? グアテマラってなんか強そうなマラだな」
悲しいかな、金曜夜飲酒アラフォー独身男性の会話なんてこんなもん――
こんなもん――――?
「 「 えっ 」 」
俺たちは一瞬で通じ合った。
グアテって……
なんか(日本人にとっては)意味を感じない文字列で……擬音っぽくて……
でも強そうで……
納得感ない?
「マラ……」
「デ、デカマラ…?」
「うん! グアテマラ!」
「はああああ…………(溜め)」
ズドオオオンッ!!
「でもドマラにするなら、グアテマラよりもドグラマクラの方がよくないか?」
西欧に伝わったのが
マラ → ドマラ →ドグラマクラ
ポケモンに売り込んで
と
は片パ限定にしてもらうとか」
「それなら、南米モデルの伝ポケでグアテマラとエッチオピアなのでは?」
「グアテマラかエッチオピアか、大人のお姉さんに選べって言われたら?」
「やばい、グアテマラの隣ってメチャシコ(メキシコ)だ――!」
「グアテ」。
それだけで俺たちは何年もの停滞を超えて、燻らせていた前のめりなエネルギーを爆発させられる。
全然メラともイオともひっつかないんだけど、何かここに突破口がありそうな気がする。
可能性が見えた。
あとは、突き進むだけ――
何年かかっても、俺たちの代で答えが見つからなくても――
頑張ろう、ニッポン
これは本人の回答かな?
多分違う気もするけど、ありがとう。
でも、自分の周囲のことであっても、その場にいる人みんなも共通に体験していることなら、普通に雑談できると思うよ。
スーパーで見かけた新製品で盛り上がるのは、さすがに結構話力要ると思うけど、言わんとすることは分かる。
誰もが体験していて、かつ、誰もが自分の記憶にヒットし、かつ、自分を曝け出さなくて良いような話題が求められるよね。
そういうみんなが話せる話題だったら、自分は無理に話さずに聞き役に回ればウザくもないし、若い子とか違う文化の人の話は楽しいよ。
それかな。聞き役重要。
そして、一つ気づいたんだけど、元の増田おばちゃんは聞き手に回るという事ができてないんだろうな、と思った。
実際、ちょいちょい自分の意見を挟んで、人をイラつかせている。
それな。
これ書いてて思ったけど、
多分このおばちゃんのママさん界隈では、プライベート剥き出しのベタなコミュニケーションが求められてるから、そことギアを変えないと行けない界隈があるということに気づけていないのかもしれないな。
なんだっけ。忘れないうちにメモ。
最近、ゴッホの絵画など芸術作品にトマトスープをかけたり、ウォーホルのアートカーに小麦粉をかけたりする気候変動対策を訴えながら過激な抗議活動が耳目を集めている。
ブクマもよくされているが、ほとんどが環境テロ、という認識で眉をひそめたコメントにあふれている。
もちろん許されない犯罪として国内外で報道されているわけだが、しかし、海外のメディアでは、テロという表現(ラベリング)は少なく、抗議団体が自称するCivil resistance(市民的抵抗)という表現を紹介していることが多い。正直、この種の活動で昔から有名なグリーンピースもそうだが、テロ呼ばわりされてもおかしくない運動ではあることは確かだが、報道はニュートラルに構えているのだろう。
そんなおり、斎藤幸平が、「ゴッホ名画にスープ投げ」を理解しないのは、日本人の想像力の欠如だ、と述べてブコメから総すかんを食らっていたのをみかけた。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/toyokeizai.net/articles/-/631285
しかしそもそも、テロという認識が日本では強いのはわかるけれど、実は欧米での反応というのはそれほど強くなく、むしろ彼らが自称するCivil resistanceへの一定の理解の上に立った報道も多く見受けられるように思える。
https://time.com/6234840/art-climate-protests-margaret-klein-salamon/
そして、よく考えると、そもそもテロまがいのデモというのは、現代の人権の歴史を振り返ると、一定程度、社会変革の不可避な副産物として、憲法などのシステムにビルトインしてきた経緯がある。典型的かつ最初の事例は、20世紀初頭の資本主義社会における労働環境を前提とした社会権。
https://artnewsjapan.com/news_criticism/article/508によると、世界的な環境活動家グループ「Extinction Rebellion」の共同創設者であり、ジャスト・ストップ・オイルの活動に加わっているサイモン・ブラムウェルは、アートニュースのインタビューで、若い活動家がこの抗議行動のスタイルを選択した理由を次のように説明する。
「これはアートの美しさを否定するのではなく、今の私たちの優先順位が絶対的におかしいということを言いたいのです。アートに美を見出し、ギャラリーを訪れる人たちがいる。にもかかわらず、消えつつある太古の森の美しさや、日々絶滅していく何百もの生物たちには目を向けないのです」
アートの美しさを否定しないといいつつ、美の概念の相対化というか、再構築といった意味では、形而上学的な禅問答である。
この説明を聞いて、素直に納得できる人の割合が多いか少ないか、という視点でみると、ヨーロッパに比べると恐らく日本人は少ないだろう。
アリストテレスの時代から愛だの美だの徳だのといったことをテーマに発展した形而上学から学問が枝分かれしてきた欧米と、近代以降のすでにたこつぼ化した個々のジャンルとして完成形をみた成果を受け取ってそれを解読して発展してきた日本では、こういう抽象的なテーマの抗議の趣旨を理解できるのは圧倒的に少ないだろうと想像できる。
これは、作品の美の価値が分かればわかるほど、スープをかける行動の意図もわかる、という構図でもあり、実際、被害を受けた美術館が環境問題の意義に言及するなどしている。作品に接したこともなく、それこそ「ウォーホル」だ、「ゴッホ」だと資産的な記号程度にしか理解していない人ほど抗議行動の意図自体を測りかね、なんじゃこの奇行は?という反応になっているようにみえる。
そういう意味では、当然、環境急進派の行動は、そもそも抗議の意図が分からない地域では成功しない(日本ではテロ以外の認識は生まれないだろうし、絶望的に無理だろう)。
しかし、欧米では、意外と功を奏しているのかもしれないと思える。感心はしないが、ああ、なるほどね、くらいの素養のある人は日本よりは多いだろう。
おおざっぱにいうと、日本人は経験から教訓を得て社会設計をしていくのが得意。いわば帰納法的な解決が染みついている。一方、欧米、ひろくラテン系言語圏含めて、日本人とは比べ物にならないほど、なにかにつけ演繹的な入り方をする。言葉の定義から始まり、指導原理を引き、タスクを明示する、という物事の進め方へのこだわりが強い(日本人の自分からみると)。
一方、構造化された概念、ルール化された行動原理(法)にのっとって行動する、という相互の信頼がないと不安なのが欧米社会。そこに、デモや過激な運動の機会に、自分たちが共有していない別の概念がオルタナティブとして提示されたときにみせる反応というのは、おのずと異なる。
そのもうひとつの理由が、市民的不服従という考え方や人々の認識の違い。
欧米では、恐らく日本人が想像している以上に、Civil resistanceというアプローチ自体の価値を社会変革のダイナミズムとして認めている。
それが今回の場合、限度を超えたものであり、法的に違法である、というときに、運動の趣旨は理解はするが違法である、という具合に飲み込みながら。
この違法性というのは、実は重要な視点。それを理解するには、市民社会を根本から支える憲法など、法について考えないとわからない。
近代から現代へ20世紀に法の考え方が近代法が大きくバージョンアップした際に、社会権が組み込まれたのは、中学生で習う話。
日本の学校では昔から、社会権を生活保護など、上から目線な形で教えてきた傾向があった。
しかし、社会権のうち、争議権を思い出してみればわかるように、実際はボトムアップな契機をはらんでいる。
他者危害禁止の近代法の原則をはみ出した形で、ストやピケなど市民的な抵抗の暴力性を認める市民権が存在する。
考えてみれば、他者に損害を与え暴力的な行動をとっていい、というのが「労働」に関してのみ例外的に憲法に組み込まれている、というのは、よくよくなぜなのか歴史を知っておく必要がある。一歩間違えれば、革命のトリガーになりかねないボトムアップの暴力。これをあえて憲法に明記するのは、明記することでコントロールしたいという、上と下のせめぎ合いのようなものも感じる。しかし、なんだったらいつでも政府がおかしければ転覆して革命をおこせるんだぜ、と市民に思わせておく、オーナーシップ感覚を絶妙なバランスで持たせる機能を果たしているともいえる。
マルクスの時代、そしてワイマール憲法の時代、社会権を育んできた思想運動や社会の歴史のなかで、当時「労働」が最重要課題で、社会権の大きな柱として考えられたのは自然な流れだっただろう。抵抗の暴力は、労働問題を争うツールであるというのが20世紀だった。しかし、抵抗の暴力は資本主義社会のなかで、たまたま労働がキーワードになっただけであって市民社会としては、労働である必然性はない。20世紀には「環境」といったテーマはシステムにビルトインされなかったわけだけど、80年代後半にブルントラント委員会が「我ら共有の未来」といって今日のSDGの原型となるコンセプトを立ち上げたときに、労使間に代わる、世代間の闘争といったことがテーマになりうることはうすうす予測がついていたように思う。
なので、抵抗の暴力が労働問題ではなく、環境をめぐる世代問題だとしても、その新たなムーブメントの市民社会における意義が注目されるのも自然な流れだ。
ここで、はい違法です、はいテロです、といってしまうのは簡単だが、思考は停止する。
一方日本では。
「労働」というキーワードで戦後、日本ははじめて市民的不服従の権利を手にした。市民社会における抵抗という考え方に「労働」というコンセプトが、時代の要請でむすびついていた、というのは押さえておくべき文脈。
しかし、その権利の過激な行使は、1950年代から60年代、大衆の心を猛烈にイラつかせた。
日本の高度経済成長を支えた大手企業は、大規模な争議に悩まされた。
民間では、1960年の三井三池炭鉱紛争など半年を超える争議も珍しくなかった。しかし、ほぼ100%ユニオンショップで、従業員全員が労働組合員という会社組織風土のなかでは、会社は家族みたいなものであり、労使一体みたいなのが当たり前であり、60年をピークに民間の争議はピークアウトする。そのなかにあって、国鉄だけは年中行事のように、順法闘争やストライキを繰り返して市民生活に甚大な影響を及ぼし、会社のみならず社会的に損害を与えた。さらにベトナム戦争反対や成田闘争など、新左翼の政治闘争が加わっていくなかで、日本人のいら立ちは頂点に達していく。
国鉄やら共産党やら新左翼にひどい目にあわされた、という日本社会のこの経験というのは、争議だなんだといっても社会に迷惑をかけてはいけない、という教訓を強く残し、憲法に組み込まれた暴力的な契機をできるだけ抑制的にするべきだ、という認識が支配的になるきっかけだったんだろう。1973年の最高裁は、それまでリベラルと保守の裁判官の間で揺れ動いていた官公労組の争議権の是非について、完全に保守化の方向に舵をきり、封殺する結論に至る。公労協のスト権奪還スト(1975年)を時代の潮目に、公社の民営化路線が進められていく。争議権だかなんだが知らないが、憲法に書いてあったとしても、市民としては正直、うんざりしてしまったというところだろう。戦後、長い間、政治闘争の旗手として大きな存在だった総評、そしてその大半を国労が占めていた時代は終わる。
ということで「労働」をキーワードにせっかく手に入れた不服従の暴力は、迷惑をかけんじゃねーという市民社会常識を繰り返し強化する経験を重ねることにより、空洞化した。
その後の日本社会では、エスタブリッシュメントと化して長い間、社会運動の先頭に走っていた労組が今度は勢いを失うと、どういうことになるか。
例えば、正規雇用、非正規雇用のギャップみたいに新たな問題が浮上してきたとしても、ユニオンショップに非正規も入れてあげたほうがいいんじゃない?、という手続き的な、上から目線的な議論の仕方に収れんしてしまう。日本社会があまりにも保守化してしまって、そもそも争議という暴力的な手法は何のために憲法というシステムに組み込まれたのか、根本的な思想がわからなくなってしまっているようにも思える。言い換えると、憲法をさらにメタな視点からとらえる思想的な背景がさらに弱くなっている。
歴史を振り返ると、20世紀初頭、メタな視点があったからこそ、資本主義社会の現状と課題に即して、社会権という新しい権利が組み込まれたのだが、現行憲法を頂点とし、人権の普遍性や憲法の最高規範性を強調してしまうと、憲法の思想の根拠はと問われたときにフリーズしてしまう。日本では制憲者の意思の議論は起こらず、代わりに基本書読め、といってなぜか憲法学者に振られるのが定番。(制憲者があいまいなのも諸悪の根源かもしれないし、ステートに対するネイションのオーナーシップの違いとも思える。)
欧米の環境運動というのは、あるいはLGBTも同様だけど、恐らくそうじゃないんだと思う。
既存の規範に書いてないものであっても、新たなムーブメントの意味を真剣に見極めようとする思想文化があるんじゃないと思える。
そのムーブメントの暴力性を違法と認識しつつも、時代のダイナミズムとしてとらえようとする、というか。
繰り返すと、
・美の概念など、概念の構想力、概念について深く考えたがる文化の違い。
・憲法など国の根本的なシステムのアップデートするのに必要な社会のダイナミズムへの関心の低さ。
この二つをひとまとめにして、斎藤幸平氏のように想像力の欠如といってしまえるのかもしれないが、因数分解すると、社会設計をするのに基本的に重要な2つの能力、この二つには欧米社会と大きく差があるように思える。
1950年代のアメリカで流行した、「男子学生が女子学生の寮に押しかけて狼藉を働き、戦利品としてパンティーを奪う」という悪ふざけの一種。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E7%8B%A9%E3%82%8A
ケガ人や停学者が出ることがあった一方、大学の古い体質に対する抗議という一面もあったようで、
むしろこれを歓迎する女子学生もおり、中にはパンティーに自分の連絡先を書いて渡した者までいたらしい。
(一橋と津田塾の「ストーム」みたいなものだったのだろうか?)
一時は春の年中行事のようになっていたが、キャンパス内での男女交際がオープンになると、この風習も廃れていったという。
・とにかく説明不足
チュートリアルの内容が不親切すぎて、どうやって遊んだらいいのかが、とにかくわからない。
まず、最初に渡される道具。町長から「斧とか鎌とか渡すから、使ってみて」と言われて道具を渡されるんだけど、使い方がわからない。
のちに、メニュー画面から袋に移動→使う、というプロセスが必要と判明するが、そのことに気づくまでにゲーム内時間で3日かかった。
道具を渡したんなら、使い方も教えて行けや。
次に、原材料を加工された資材に変えてくれるメーカー。これも町長が大工さんを連れてきて「メーカーを使うと資材ができるよ!」と教えてもらえるんだが、やっぱり肝心のメーカーの入手方法、設置方法を教えてくれない。
ゲーム内時間3日くらい経過してから、やっとメニューから材料を使って製造、設置ができることが判明。
「ちょっと考えたらわかるよね?」と制作側は思ってるのかもしれないが、こういう製造機能を持ってるものって、自分で作るほかにお店で買うシステムのゲームもあるから、やっぱり説明してもらえんとわからんよ。
で、このメーカー、ゲームを進めるごとに種類が増えていくんだけど、この機能アンロックのタイミングが不明。
のちに、各スキルがレベルアップするごとに解放されることが判明。
でも、スキルがレベルアップした時には特に通知がなかったので、長らくアンロック条件がわからず首をひねったら。
途中で、コロポンというケセランパサランの親戚のようなお手伝いキャラが登場。
彼らをマネジメントすることによって、自動的に資材がもらえるようになるらしい。
……が、「マネジメントコロポンってどこよ?」
コロポンの村を3周したけど、どのコロポンも「おすそわけはないよ」と言うばかり。
やっぱり3日くらい経過して、やっと配置用のコロポン発見。
……もう、徹頭徹尾この調子で、本当に何がどこにあるのかさっぱりわからない。
システムを手探りで理解していくのもゲームの醍醐味、と言うけれど、手探りしたいのはそこじゃない。
不明点が多すぎると、もう理解していこうっていう気が失せるので、ちゃんと説明してよ。
やってて思ったんだけど、市庁舎と博物館、こんな奥にある必要ある? 逆にペットショップ、こんなに手前にある必要ある?
1日1回の依頼を確認するため、市庁舎に行って、家に戻って依頼品を届けて……ってやってるうちに5~6時間経過するんだけど。
多分、市庁舎を往復するうちに住民とすれ違って挨拶するうちに仲良くなっていってもらおう、という設計なんだろうけど、これがかなり負担。
あっというまに1日が経過するゲームでこれはつらい。ぱっと確認したいのに遠いから、そもそも市庁舎に行く気力が失せる。
住民と交流するなら、したいときにするから、掲示板はすぐ確認できる位置にしてほしかった。
木材や石材の必要数が多いので、ある程度のタイミングで生えてこないと資材不足に陥るから、再出現する仕組みなのはわかるけど、それにしたって生えすぎ。除草剤ほしい。
木や石のタイルで覆えば生えてこなくなるけど……ちゃうねん。舗装した農場に住みたいんとちゃうねん。
芝生の青々とした緑に覆われた農場に住みたいんや。
ゲームが進むにつれ、必要資材の数がどんどん増えるんだけど、メーカーで作れるのは常に1台1個。
大量に設置して、何度も出し入れする必要に迫られるんだけど……これが超面倒くさい。
そして牧場が工場地帯になっていく。のどかな田園風景とは何だったのか。
あと、資材を入れておく箱もどうにかしてほしい。
その時に余ってる資材で好きに作れるのはいいけど、移動させようとしたときに目が点になった。
「片付けると、中に入っていたアイテムは外に全部放り出されます(意訳)」
……は?
なにそれ……は?
ということは何ですか?
ちょっと置き場所を替えようとおもったら、箱の中身全部出して持って行って、もう一度全部拾い直して片付けなおすの?
面倒くせええええええええ!
鞄のサイズが小さいうちにこれやるの面倒くせえええええ!
しかも、なんかシステムの台詞から察するに「外に置いてあげるなんて、私親切よね?」みたいな雰囲気すらある!
箱にいれたまま移動されると、メモリを圧迫するとか、鞄いっぱい持ってるのと一緒になるとか、たぶんそんな理由なんだろうけど、あえて言いたい。
面倒くせえええええ!
結婚システムのあるこのゲームだけど、恋愛ものとしてもちょっとアレな感じ。
話しかけたときに向いていた方向で会話することになるんだけど、そういう時ってだいたい、横とか後ろとか向いてたりするんだよね。
正面から顔をとらえようとしても、今度は自分の後頭部が相手の顔に重なってて、顔見えない。
立ち絵がないのが悪い、という意見を見たけど、たぶん問題は立ち絵どうこうではなく「顔が見えない」だと思う。
会話のたびにカメラワーク変えて顔見えるようにしたら、もっと顔が見えたかも。
……それもうざいか。
でも、顔が見えない問題は本当にどうにかしてほしい、イケメンのはずの住民の顔が全然覚えられなくて、「黒革ジャンのやつ」とか「髪の毛の先が赤いやつ」という覚え方になっていく。
たぶん、普段からメインキャラを覚えられる仕組みになってれば、自然と見分けがつくんだろうけど、上記の状態なんで全然区別がついていってくれないのよね。
で、時間に追われているなか、遠回りして声をかけたら何の意味もないモブで「チッ」ってなる。
あと、年中行事もひどい。
玉子探しイベントにさそわれて、ノコノコいってみたら、まさかの収穫ゼロイベント。
え? なんか親密度があがる仕組みないの? 参加賞的なものもなし? 時間を浪費しただけ?
そして街のひとたちは家族で参加した楽しい思い出を語っていなさる……。
恋人や伴侶ができたあとは一緒に参加できるっぽいけど、初年度は、ただぼっちをかみしめるだけのイベントだった……。
さみしい。
そんななか、少しでも親密度をあげようと挨拶に行っても、一言しゃべるだけだし……
訪問頻度の高い博物館や道具屋のお姉さま方(半分既婚者)とばかり親密度が上がっていく。
彼らのどこをどう好きなればいいんですか、わかりません。
牧場物語をプレイしている友人が、恋愛ゲームとして楽しめてるから自分は勝ち組プレイヤー、とツイッターで再三コメントしてるんだけど、元がアレすぎて、「良ゲームと思い込もうと自己暗示している」ように見えてくる。
……いやそこまでは言い過ぎか。
離婚については私はどうでも。
1周何十時間もかかるゲームで、伴侶ごとに8周、DLCまでいれたら10周以上やるのは無理ゲーなので、あっていいと思う。
まあ、ちょっとドライがすぎる気はするけど、恋愛ゲームを一途プレイしたい人でもないので。
子供が消えるのはもにょっとするので、離婚するなら子供ができる前かなー。
声優についても、ポイントボイスだからそんなに気にならないっす。
そもそも、環境的に音を消してプレイすることも多いから、そもそも声聞かないし。
(声に執着ない)
えーといろいろ書きましたが、まとめると
「発売当日に定価で買った私のワクワクを返せ! ダウンロード版買ったから売り飛ばしもできねえ!」
(買うんかい)
外出が自粛できない中、誕生日パーティーなどはどう行なえばよいのか。実は秘策がある。皆、誰かの家に集まればよい。自宅内であれば自粛令は及ばず、自由かつ任意にパーティーができる。
不要不急の祭事は自粛すべきであるが、誕生日は各人年一回、一日だけでありその日でなければならない年中行事である。コロナ禍由来の穏健なムードを絶ち勝利ムードに転じるには、市民レベルでかような努力がなされるべきなのだ。
近日、若者諸氏による俺たちは自粛しねえぞデモなる活動が見られたが、自分はこれをCOVID-19ウイルスに屈する老者諸兄に対する反逆の狼煙と捉えている。「ゆとり、ロスジェネ、団塊」などと虐げられてきた若者世代がコロナショックにほだされて今、立ち上がったのであると。
健康的な最低限の生活は憲法で定められている国民の義務であり、国家が保障すべき努めである。
国民生活が自粛を求められる現在、せめて自宅の中では最大限に楽しもうではないか。自宅内であれば外出自粛令という律法を犯すこともなく、個人々々の発奮的利益を最大公約化できる。そして何より他者に迷惑をかけずに済む。自他双方にWin-Winがもたらされる名案だ。
政府はこのようなWin-Win事例を考えるのが不得手だ。ゆえに我々市民が政府公報を適切に創意工夫しなければ真のWin-Winは発生しない。今この拙文をお読み頂いている諸兄もどうか自分なりの工夫をして、外出自粛令をハックし、ひいてはCOVID-19ウイルスをもハックし日本の未来を切り拓いて頂きたい。
https://pghflagfootball.zendesk.com/hc/rus/community/posts/360060225951-1-04-2020-Ничто-не-случается-дважды-2-сезон-1-серия-последние-серии-смотреть-
https://pghflagfootball.zendesk.com/hc/rus/community/posts/360060231351--Тайная-любовь-2-серия-1-04-2020-смотреть-качество-HD-
https://pghflagfootball.zendesk.com/hc/en-us/community/posts/360060228131--Патриот-16-серия-1-04-2020-онлайн-сериал-смотреть-
https://gocelery.zendesk.com/hc/ukr/community/posts/360060224791--Заступники-5-серия-31-03-2020-все-серии-сезона-
https://pghflagfootball.zendesk.com/hc/ukr/community/posts/360060224651-1-04-2020-Нам-надо-серьезно-поговорить-9-серия-ТНТ-хорошее-качество-смотреть-от-31-марта-
https://pghflagfootball.zendesk.com/hc/ukr/community/posts/360060223851-1-04-2020-Патриот-14-серия-смотреть-качество-HD-от-31-марта-
https://gocelery.zendesk.com/hc/sdf/community/posts/360060228671--Нам-надо-серьезно-поговорить-10-серия-на-ТНТ-31-03-2020-смотреть-качество-HD-
https://pghflagfootball.zendesk.com/hc/ukr/community/posts/360060320592--Тайная-любовь-5-серия-1-04-2020-смотреть-онлайн-в-хорошем-качестве-
https://pghflagfootball.zendesk.com/hc/rus/community/posts/360060229231--Колл-центр-8-серия-1-04-2020-смотреть-качество-HD-от-31-марта-
私の実家で初めて恵方巻を食べたのがいつだったか思い出せないが、25年ほど前には既に毎年食べる習慣があった。
スーパーのチラシに「今年の恵方は南南東」などと載り、今年は半端な方角だけど年によってはわかりやすい方角になるのかな?などと思ったものだ。
恵方を向いて話をせずに一本食べきるのが一般的な作法とされたが、私の実家では最初の一口だけ恵方を向いてかじり、その後はテーブルに向かって話をしながら食べていた。
現在、私は東京で一人暮らし。年中行事を気にすることは少なくなり、豆まきも恵方巻もやっていない。
一方で地元に残って結婚した姉の家庭では、毎年手作りの恵方巻を姉の子供たちと食べているようだ。
伝統というのがどういうものか、私には詳しくはわからないけれど、
子供の頃に経験して楽しかった年中行事を、大人になってから自分なりにアレンジしつつ行って、次の世代の子供たちと楽しむ、ということを繰り返して、伝統は後世に伝わっていくんだろうな、などと考えた。