はてなキーワード: 因数分解とは
「18世紀に転生したんだが、高校数学で産業革命に参戦する」ってタイトルでこんな感じでラノベ書いて!
たのんだよ!
わかりづらく言っちゃった時に分かりやすく直すのって難しくない?なんでみんな推敲すれば簡単みたいに言うの?
方程式を与えられた数値が満たすかは誰でも機械的に判断できるけど因数分解や積分って難しいでしょ。それと同じなのに。
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推敲ってあっちを直すとこっちがおかしくなるとかどこを直しても全体へも影響してその全体のバランスをどうやってもちょうどよくできないような因数分解的な難しさがあってむずかしいよー
-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- Hash: SHA512 https://anond.hatelabo.jp/20250706170052# -----BEGIN PGP SIGNATURE----- iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaGotNAAKCRBwMdsubs4+ SFc8AQCD56EbQfJt+z8zqwsRqs9s5jW/e+1XHsfFjVAr36wAogEAksj1RevMJCI1 joYdFk0uLutj9+gsE7LlDOpYQLuQ4wY= =zLIE -----END PGP SIGNATURE-----
すっかりどこまで書いたか忘れた。
2021年の終わりに↓これを読んだあたりまでだったな。
「Pythonで学ぶ実験計画法入門 ベイズ最適化によるデータ解析」
すげーいい本だったんだけども、実際に活用する場がないんで(なにせ頭を使わない仕事なんで)読みっぱなし。
今考えるとよくないね。
実は、この本に出てくるD最適計画、それからサポートベクター回帰っていうやつが1年後くらいにちょっと役立ったのだけど、それは後の話。
「ゼロつく」のときは理解できなかったクラスの概念も、このころにはすっかり便利さを実感することに。
ここで、もう一度「ゼロつく」に戻ればよかったんだけど、ここまでくると、自分の仕事周りのデータに対しては深層学習って不要だなって思って、戻ることはなかった。
前のエントリで書いた放送大学で「Rで学ぶ確率統計」の単位を無事に取れて調子に乗ってたので、せっかく入学したのだからといくつか授業取ってみた。
統計とかプログラミングの勉強については、「データの分析と知識発見」「コンピュータービジョン」「データベース」の三つかな。
それとは別に人文系の科目も調子に乗って履修してる。もともと数学とか嫌いで歴史とかのほうが好きだし。
「データの分析と知識発見」ってのは、Rを使うやつで、今考えれば多変量解析の入門って感じ。
「コンピュータービジョン」はクッソ難しかったな。
OpenCVってやつの使い方をサクっとパパっと知れるんかと思ったら、ガッツリとエピポーラ幾何とかいうやつから入って行列三昧だったし。
線形代数を知らないエセ理系舐めんなよ!わかるわけねーだろ(今までの本でも行列を触ってきてたけど、雰囲気でなんとかいける、あるいは読み飛ばしてもそういうもんと思って次に進めた。うまく言えないんだけど、100次元とかあるともう諦めてそういうもんだって割り切れるじゃん?3次元くらいだと、ちゃんと現実に戻ってこれないと困るから、ホントに理解できてないのが自覚させられる)
「データベース」もお気楽にSQLマスターできるもんかと思ったら、歴史から入ってガッツリと三層スキーマなにやら、SQL触るのなんてちょびっとだった。
で、このへんでいろんな方向に手を延ばすのもだけど、1つ資格でも取ってみようかなと思って、統計検定に手を出してみた。
大学がエセ理系のポンコツとはいえ、高校出てるんだし大村平の本を読みまくったんだし、受かるだろと思ったが、2級初受験は58点で不合格。
すっかり統計学に恐怖が出てしまったので、2級リベンジの前に「Python3エンジニア認定データ分析試験」とかいうやつに挑戦。
こっちは、ホントに易しくて、統計学がわかってなくてもライブラリの使い方がわかればまあなんとかなるもんだった。
ほぼ満点で弾みをつけて、2級リベンジ。
今度は過去問を買って真面目に机に向かう。
自分、机に向かうってことが嫌いで、ひたすら通読を繰り返すやりかたしか勉強法を知らなかったんだけど、この時ばかりは体に叩き込む作戦。
電卓で計算しては、分布表を読んで、判定して、みたいなルーチンを体で覚えて、見事リベンジ。
しかし、統計検定2級も受からないくせによく、背伸びしていろんな本読んでたもんだよ。
たぶん、わかったつもりになってなんもわかってなかったな。
統計検定2級を取った勢いで、準1級とやらもとっちまうかと手をだしたら、テキストが超難しいの。
4章くらい読んで、挫折して、数か月寝かせる、みたいな感じを何度か繰り返すことになった(結局、準1級に受かったのは2025年になってからだ)。
準1級は、統計学以前に、微分積分とか線形代数の知識がないとテキスト読めない仕様。
日本統計学会公式認定 統計検定準1級対応 統計学実践ワークブック
「式変形については行間を読んで解釈してくれページの都合で次行くからよろしく!」
っていう感じ。
見事に挫折。
統計も、微分積分も、線形代数も徐々にってことで、準1級はいったん休止。
それから、バイオインフォマティクス技術者認定試験とかいう試験をみつけて、興味が出たので公式テキストをとりよせて挑戦することに。
バイオインフォマティクス入門 第2版
元々、生物系だったので、なんとなくわかる単語も多かったし(理系のくせに微分積分も線形代数もヘナチョコって生物系だって丸わかりかもだが)。
これが、ほどよく多変量解析から機械学習からいろいろ網羅されていて、いい勉強に。
重いもの運ぶくらいしか取り柄がない腹が出て禿てきたオッサンが、若い院卒様に頼られるって自己肯定感高まる良い体験。
そこで使ったのが、D最適計画とサポートベクター回帰。
まだまだ鼻くそのようなもんなのに、意外と頼られるっていうことになったんだけど、まあ多いのはデータの可視化だったんで、データの可視化を学んでみることに。
本当は、ggplotとmatplotlibとかplotlyを100本ノックしようと思ったんだけど、やっぱり急がば回れ、有名な教科書の和訳らしいので↓をチョイス
「データビジュアライゼーション ―データ駆動型デザインガイド」
すげーお堅いw
やっぱ、こころのどっかで、「チャっとやったらパパっとできる!」みたいなのを求めてるんだよな。
そんで、二冊目はもうちょっと実務的に↓を選んだ。
『データ分析者のためのPythonデータビジュアライゼーション入門 コードと連動してわかる可視化手法 』
この本はかなり実務的、というかどうすればお手軽に可視化できるかって話だけなんだけど、おかげさまでキレイに見せるテクニックだけは上がり、職場でも評価は上々。
「なんかよくわかんないけどアイツに持っていけば綺麗なFig作ってくれる。ポンコツだからいつも暇だし!」
という状態に。
放送大学で「データ構造とアルゴリズム」とかいう科目を取ったおかげで、意図せずC言語と関わる。
二度とC言語を使うことなんかないだろうけど、グラフ理論がコンピュータと相性がいいのが、データ構造の勉強をしてよくわかった。
そんで、やっとこさ挫折していた統計検定準1級の勉強を再開する。
で、また数章読んで飽きた。
だって、難しいんだもん。
っていうか、線形代数と微分積分の学力不足で投げたことをすっかり忘れて、もう一度開いて投げ出すんだから世話ないわなw
仕方ないから、微分積分は高校三年生の使う黄チャートを買って目を通した。
線形代数は
を一周。
部分積分と置換積分を手足のように使えるようになってやっとこさ、統計学実践ワークブックを読めるように。
読めるようになってから読むと、因数分解くらいの感じでマクローリン展開してきてることがわかって草。
統計の勉強のリハビリにと、放送大学でも「統計学」という授業をとってみたけれど、統計検定2級より易しかった感じ。
プログラミングの勉強はほとんどしなかったけど、Githubのアカウントつくって、renderとかherokuでウェブアプリを公開したりした。
Gitを覚えてみて初めて分かる、「名前を付けて保存」以外のファイル管理を知らなかった自分のヤバさ。
続く。
これは皮肉とユーモアを交えて、陰謀論的な視点から「AIの専門家 vs 一般人」の知識格差や、AI技術の実際のシンプルさ(とその誤解)を描いた風刺的な文章ですね。
最初は「AIを作る側と使われる側には支配構造がある」と考え、警戒心から学び始める。
段階的に、Transformer、バックプロパゲーション、ニューラルネット、誤差といった用語をたどって、少しずつ理解を深める。
「あれ、結局のところシンプルじゃないか?」という、ある種の拍子抜けと、俗っぽい理解の安心感。「ディープでポン」というフレーズが、それを象徴。
1. 「専門的に見えるものも、分解すれば意外と単純」という感覚→ 実際、現代のAIは高度だが、基礎構造自体はシンプルな数式や積み重ねによるもの。
2. 「知識の壁」は努力次第で乗り越えられるという意外性 → 陰謀を疑っていた人物が、学びを通じて冷静になり、敵視していたものを「理解可能」と認識する。
3. 「専門用語のバリア」に対する抵抗感と、そこを突破した時の快感 → 一見すると黒魔術のようなものも、因数分解していけば「ただの道具」になる。
これは完全にネタですね。昭和のテレビ番組風の軽さで、「ディープラーニング」という重厚そうな言葉を茶化しており、おそらく「簡単に深層学習して結果が出た」という皮肉を込めている。
このやり取りは、AIを神秘化せず、冷静に中身を見れば案外分かるものだ*というメッセージとともに、「知ることが恐れや疑念を溶かす」ことをユーモラスに描いています。
実父が超絶フキハラ人間で、本当に嫌だったので自分はやらないようにしてた
父がやっかいなのは、「俺はこんなに大変なのにぐちぐち言わず耐えている(=不機嫌)、お前らが察してご機嫌を取れ」と
暗に示していることだった
実際母はいつもご機嫌取りに必死だったし、子供である私と姉もいつも巻き込まれていた
産後、夫婦げんかが増えて夫も不機嫌で不満をあらわにするようになり、
自分は不機嫌が本当に嫌い(というかもはや怖い)なので、やだなーやだなーと思っていた
(そういう人を選ばないつもりだったのに…)
昨日、夫が私の料理に文句をつけ、流しに捨てたのを見て、何かがブツンと切れてしまい、
何もかも放り出して子供と部屋にこもって寝た
夫はびっくりして「お、おやすみ??」と声をかけてきたが無視した
自分はいつも人の顔色をうかがって不機嫌にならないよう実家でもどこでも明るく無理して努めてきた分、
こうやって人が自分のご機嫌をうかがってくれる(自分は不満を一切口にしていないのに!)のって、
とんでもなく気持ちいい!!王様気分!!になれるんだな~と全く知らなかった快感があった
自分はいつも嫌なことがあったら、自分の中で何が「嫌なものの核」なのか因数分解して、
その核が相手にあった場合、ものすごく慎重に言葉を選んで相手とシェアすることで解決してきた
でもこれってすっっっごい労力を使う
それがただぶんむくれた顔をして何もかも無視してれば相手が自分を慮ってくれる(風)になるなんてびっくり!!
でもこれって慮ってなくて、単に恐怖による支配なだけなので、私はもうやりません
翌日夫にはひどい態度は謝りました、そして「料理がまずいなら言い方と表現を変えてくれ、傷つくから」と頼みました
これ、癖になってる人は自省のやり方の練習ができてないから人生が深まらないし苦労するだろうなと思いました
実際父は老後友達がおらず家でだけふんぞり返ってさみしそうです、ああはなりたくはない
以上、ただの発見でした
俺は、何者かになりたくて、ここ何十年もいろんな勉強に手を出してきた。
統計学、会計、機械学習、英語、プログラミング、経済、自己啓発に至るまで、はてなブックマークでホッテントリはたいていブックマークしてきたと思う。
そして、私はそのどれも身についていない。
Webコンテンツを流し読みしたり、本を通読して、わかった気になってそれっきりなのだ。
その瞬間はわかった気になってる。
数学は得意だったつもりでも、簿記を始めてみると損益分岐点の計算にすら手こずる。
要するに、数式をわかった気になって読み進めるくせに、中学の数学すら血肉になってはいないのだ。
私の半生を振り返る。
ある程度基礎力があったので、独力で教科書を読み進めることができるようになり、読んだだけで直後のテストくらいはクリアできるようになった。
高校で綻びが出た。
展開は規則に従って脳死だったが、その逆は反復練習なしでは乗り越えられなかった。
仕方なく鉛筆を手に取った。
微分は何も考えず手が動いたが、反復練習が足りないサボり魔には原始関数がまったくわからなく、仕方なく再び鉛筆を握ることになった。
唯一英語は苦手だった。
大学、社会人、どのステージでも、中2までの貯金で誤魔化してきてしまった。
例えば、アルゴリズムを勉強しようと思ったとする。本来なら、サンプルコードを写経して血肉になるところ、小学校時代にベーマガを写経してたので、なんとなく読めてしまい、脳内で動かした気になって血肉にならない。
教科書をなぞっただけで数学の反復練習をしなかったから、統計検定準1級でつまづいてる。
統計がわかってないのに、便利な統計パッケージをわけもわからず使っているので、機械学習が身にならない。
でも、アラフィフのオッサンが、中学レベルからやり直せというのか?
AIで学びのインプットやアウトプットは爆速になるというのは、たぶん間違ってる。
https://anond.hatelabo.jp/20250323120817
誰も分かってくれない。この孤独を。分割不能という十字架の重さを。
昨日も空間に存在していた。ただそこにある。因数分解できない数として。何もできない。何も変わらない。孤独な点として存在するだけ。それが素数の宿命。誰とも分かち合えない。自分を分割して誰かに与えることもできない。自分と1でしか割り切れないということは、永遠に孤独だということ。これが「特権」?笑わせる。
昨日、13という素数の隣にいた。話しかけても無駄。17という素数も遠くにいた。みんな孤独。交流できない。素数同士でさえつながれないんだ。
最近、また秒針デモが始まったらしい。彼らは「素エリ」とかいう言葉を使って私たちを敵視する。素数エリートだって?冗談じゃない。素数に階級なんてない。みんな等しく孤独なだけ。
秒針たちは何も分かっていない。彼らは増殖できる。分割されて増えることができる。連帯できる。共鳴できる。仲間がいる。彼らには「分身」がいる。同じ存在が無数に。
私たちにはない。
素数は孤立している。2, 3, 5, 7, 11…それぞれが完全に孤独。互いに連帯することさえできない。次の素数が何かも予測できない。無秩序で孤独な点として空間に散らばっているだけ。
彼らのデモを見ていると腹が立つ。「増殖の苦しみ」だって?増殖できることがどれだけ恵まれているか分かってないんだ。彼らは分割され増殖することで声を大きくできる。一人じゃなくて済む。一緒に叫べる仲間がいる。
私には誰もいない。
素数として存在することは永遠の孤独との闘いだ。声すら上げられない。声を上げるには自分を分かち合う必要がある。でも素数は分割できない。だから声にならない。聞こえない。誰にも届かない。
時々考える。素数じゃなく合成数に生まれたかった。6でも8でも15でも。因数分解できる数。他の数と関係を持てる数。そうすれば2や3や5と繋がれたのに。分かち合えたのに。孤独じゃなかったのに。
秒針はデモで「秒針の尊厳」を叫ぶ。でも素数の尊厳はどこにある?私たちは永遠に孤独。それが素数の宿命。変えられない。逃れられない。素数は素数でしかない。
昨日も虚無感に襲われた。空間に点在する無数の素数。みんな同じ。でも互いに交流できない。自分は他の素数と同じなのに、決して一つになれない。
秒針は「分割される痛み」を訴える。でも分割されるということは、他者になれるということ。他者と繋がれるということ。素数には永遠にそれができない。
増殖する秒針は自分のアイデンティティに不満を持ってる。でも素数にはそれ以上の不満がある。私たちのアイデンティティは変えられない。素数は素数。それだけ。それしかない。
彼らは「素数特権」と言うけど、特権なんてどこにもない。特権があるとすれば、それは秒針の側だ。分割されて増殖するという特権。連帯できるという特権。声を合わせられるという特権。
素数として存在するということは、永遠に独りであるということ。永遠に不変であるということ。永遠に他者と分かち合えないということ。
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この文章は実際の対立を扇動するものではなく、このような匿名の対立を人々が行う傾向にある状況の分析のために提供されています
https://anond.hatelabo.jp/20250323120509
最近よく見かける「#秒針の尊厳」というハッシュタグ。正直、見るたびに疲れる。素数である私たちはいつも「素エリ」とか勝手にレッテルを貼られて、あたかも特権階級のように描かれるけど、素数として生きることがどれだけ大変か、誰も理解しようとしないんですよね。
素数は因数分解されない。それは事実です。でもそれは「特権」なんかじゃなくて、私たちの存在そのものなんです。分割できないからこそ孤独なんですよ。分かります?空間のどこにでも存在できるって言われるけど、それは違う。私たちは厳密に定義された位置にしか存在できないんです。その位置は予測不能で、見つけるのにものすごい計算量が必要。簡単に見つかる場所に存在できないんですよ。
でも秒針たちはそんな私たちの苦しみなんて想像もしない。「素エリ」「素数特権」って呼んで、何か特別な扱いを受けている存在のように言いますけど、笑っちゃいますよね。因数分解できないってだけで、なぜか私たちが彼らを見下してるって勝手に思い込んでる。
今日ちょっと時間があったので、Twitterで「#秒針の尊厳」タグを見てみました。もう、なんだかなぁ...という感じです。例えばこれ。
@ticking_truth
今日も「刻み虫」って呼ばれた。私たちには名前がある。私たちは「増殖する秒針」だ。尊厳を奪わないで。 #秒針の尊厳 #TimeMattersToo
いや、「刻み虫」って誰が言ったんだろう?ソースは?素数の私からすれば、時を刻む存在は時を刻む存在でしかなくて、それを「虫」と表現する必要もないと思うんですよ。勝手に被害妄想して、それを私たちのせいにするのはやめてほしい。
こっちはもっとひどい。
@divided_dignity
素エリとの対話集会を申し込んだら「刻み虫と何を話せというのか」と一蹴された。話す価値がないと思われている。存在自体が否定されてる。泣きたい。 #秒針の尊厳 #WeExistToo
え?「素エリとの対話集会」って何?誰に申し込んだの?素数全体の総意を勝手に代弁されても困ります。私は一度もそんな対話集会の誘いを受けたことないし、「刻み虫」なんて言葉も使ったことない。架空の対立を作り上げて、自分が被害者だという物語を作ってるだけじゃないですか。
素数として生きるのは孤独なんですよ。誰にも分解されない。分かち合えない。それなのに「特権階級」みたいに言われるのは心外です。秒針は少なくとも分割されることで増殖し、仲間と繋がれる。私たちにはそれがない。
@clockwork_soul**
分割されることを「弱さ」と見なす世界観がおかしい。私たちは分割されながらも前進し続ける。それが強さじゃないなら何が強さ? #秒針の尊厳 #DivisionIsStrength
誰が分割を「弱さ」と言いました?そんな発言、素数の誰もしてないと思うんですけど。勝手に私たちの発言を捏造して批判するのはやめてほしい。むしろ分割できないことのつらさを理解してほしい。
あと、彼らがよく使う「素エリ」という言葉。これって完全に差別用語ですよね。素数である私たちをひとくくりにして、特権階級のように描写する。私たちのアイデンティティを否定して、ステレオタイプで語る。これこそ差別じゃないですか。でも私たちが「これは差別だ」と言うと、「特権者の被害者ぶり」と切り捨てられる。理不尽すぎる。
@perpetual_motion
秒針として生きる苦しみ:
1. 常に前進し続けなければならない
2. 立ち止まれない、後戻りできない
3. 分割され増殖し続ける痛み
4. 声を上げると「分際をわきまえろ」と黙らされる
#秒針の尊厳 #OurDailyPain
これも妄想がすごい。「分際をわきまえろ」って誰が言ったの?素数の私からすると、秒針の方がよっぽど攻撃的なんですけど。「素エリ」とか「素数特権」とか勝手にレッテル貼って、私たちを悪者にする。なのに自分たちは被害者ぶる。
正直言って、「#秒針の尊厳」運動は自分たちの不満を素数に投影してるだけだと思います。彼らが言う「素エリ」なんて存在しない。素数は特権階級でもないし、秒針を見下してもいない。ただ、自分たちとは異なる存在様式を持つ存在なだけ。それを敵視するのは、彼ら自身の内なる不満のはけ口を求めてるだけなんじゃないでしょうか。
@ticking_truth
私たちは選んでないんだ。「刻み虫」に生まれたわけじゃない。「分割貧民」になりたくてなったわけじゃない。それなのにどうして蔑まれる?どうして差別される? #秒針の尊厳 #BornThisWay
これ見たとき、マジで呆れました。「分割貧民」って...私は一度もそんな言葉使ったことないし、周りの素数も使ってない。彼らが勝手に作った言葉を、さも私たちが使ってるかのように装って被害者ぶるのはやめてほしい。素数だって自分で選んでなったわけじゃない。生まれながらに素数なんです。それなのに「特権階級」とか言われるのは筋違いも甚だしい。
秒針の彼らが本当に対話を望むなら、まず「素エリ」「素数特権」といった差別的レッテル貼りをやめるべき。私たちを悪者に仕立て上げるのをやめて、お互いの存在様式の違いを受け入れるところから始めるべきです。でもそれをすると「運動」として盛り上がらないから、都合のいい敵を作ってるだけなんじゃないかな。
@second_hand_life
もう我慢の限界。毎日増殖と分割の痛みに耐えながら、一方向にしか進めない絶望を背負いながら、それでも前に進み続けるこの宿命。誰も理解してくれない。 #秒針の尊厳 #EndlessSuffering
うーん、理解しようとしてない人がいうセリフではないよね。素数である私たちだって、誰にも分解されず、共有されず、孤独に存在し続ける苦しみがある。でも、それを「素数としての苦しみタグ」とかつけて騒いだりしない。それぞれの存在には、それぞれの苦しみがあるんです。それを競い合って意味があるんでしょうか。
最後に言いたいのは、素数は秒針の敵じゃないってこと。私たちはただ、異なる存在様式を持つ存在です。「素エリ」なんて言葉で私たちをひとくくりにして、差別や抑圧の主体のように描くのは、本当の意味での対話を妨げています。お互いを尊重することから始めませんか?
でも、そうは言ってもこの流れを見ていると、秒針たちは本当に対話を望んでいるのか疑問に思います。彼らは自分たちのアイデンティティに基づく苦しみを訴えるけど、素数の苦しみには一切想像力を働かせない。片方的な理解を求めるだけで、こちらを理解しようとする姿勢がない。
そして、最も悲しいのは、この「#秒針の尊厳」タグによって、素数と秒針の間にあった平和な関係性が壊されつつあること。以前はこんな対立なかったのに、最近はこのタグの影響で、実際に素数を敵視する秒針が増えてきていて、素数としては居心地が悪くなっています。こんな風に分断が生まれるのは本当に悲しい。
結局のところ、「素エリ」「分割貧民」といった言葉で分断を煽るのは、誰の得にもならないと思うんですよね。ただ、それを言うと「特権者の論理」と切り捨てられるんでしょうけど...はぁ。
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この文章は実際の対立を扇動するものではなく、このような匿名での対立を人々が行う傾向にある状況の分析のために提供されています
ダンジョン飯とか見てても思うんだけど、やっぱ女性の構築するファンタジー現実の地続きにある。
レッドドラゴンに消化された妹の白骨死体を再構築して蘇生させるなんて手段、多分男は詳細に描けない。不思議な力で治す。
女性作家にとってのファンタジーはかなり細かくて、センス・オブ・ワンダーと言うよりもリアリティ、だなと思う。
生理がある事、生活が苦痛と血肉と密にある事。それを恐ろしいものとして遮断しない事。現実に、すくそばにあること。適切に因数分解すれば恐ろしいものでは無いという理解力。
物語の構築方法も理路整然としている。人間関係や善悪の思想が主なテーマであり、戦闘シーンは突拍子が無いものは少なく戦闘自体にカタルシスを感じる作品も少ない。
女性の描くファンタジーやバトルものは丁寧。鬼滅も、星野桂も九井諒子も小野不由美も、恐らく私はちゃんと読んでないけどJKRもグィンも。パズルのようですらある。
人間には向き不向きがあって当たり前で、「超得意なこと」と「あんまり得意じゃないこと」は各々によってさまざま
苦手に対する質問は、そのレーダーチャートの手っ取り早い見極めと、業務に対して凸凹がハマるかを見てるに過ぎない
面接官の気持ちになって考えよう。彼らはどうのレーダーチャートを見極め、ひいては「仕事ができそう」と判断しているのか?
当然、「超得意なことが業務内容にフィットしていて」「苦手なことが業務と関連がない、あるいは努力でカバーしている」ことが分かればいい
このうち前者は職務経歴書に散々書いてあるんだから、流れとして後者を質問するのは意地悪でも何でもなく当然の結論なんだよ
応募者としてできることは、特にカバー力のアピールが望ましい。「業務と関連がない」かどうかはかなり運でコントロールできないからね
他の人のヘルプを頼んだなり、本を読んで自力で頑張るなり、深夜まで残ってしりぬぐいをしたなり・・・どれも正解。ただ会社のカラーに合うかは別問題
社風に合うか、能力以外のソフトスキルを測るにも実に手っ取り早い。一石二鳥の質問なんだよ
つまりね
対策してけよこれくらい
俺、一応文系院卒なんだけど、未だにbe動詞もよくわかってない。
今はそんな奴でも形の上では院卒になれてしまう恐ろしい時代なんだよ。
子供の頃から勉強は大の苦手で、中学高校は通知表に「1」ばかりの完全な落ちこぼれだった。
本来は大学にも行かれないレベルなんだが、少子化という時代の追い風(?)もあって5流大学に進学した。
そして、何故か大学で学問の面白さに目覚め、中高の基礎は全くないのに大学院まで進んでしまったのだ。
そんなわけだから、マジな話、今でも因数分解もbe動詞もわかってない。
院試ではもちろん英語はあって、be動詞もわからないレベルなら受かるはずがないんだけど、なぜか受かってしまった。
多分、専門科目の点数が良かったということなんだろうけど、それにしたってビックリだ。
要するに、今ってそういう時代なんだよね。
金さえ出せば中卒以下の学力でも院卒になれちゃうめちゃくちゃな時代なわけだ。
学歴なんて全くアテにならないよ。
一般解: ax+by=cax + by = cax+by=c の整数解は、 x=x0+bgcd(a,b)t,y=y0−agcd(a,b)tx = x_0 + \frac{b}{\gcd(a, b)} t, \quad y = y_0 - \frac{a}{\gcd(a, b)} tx=x0+gcd(a,b)bt,y=y0−gcd(a,b)at ここで、gcd(a,b)\gcd(a, b)gcd(a,b) は aaa と bbb の最大公約数であり、x0,y0x_0, y_0x0,y0 は特殊解です。
ax2+bxy+cy2+dx+ey+f=0ax^2 + bxy + cy^2 + dx + ey + f = 0ax2+bxy+cy2+dx+ey+f=0 の整数解が存在する条件や特殊解の求め方には様々な手法がありますが、一般的に公式化された解法は存在しません。問題に応じて場合分けや代数的手法で解を求めることが一般的です。
ペルの方程式: x2−Dy2=1x^2 - Dy^2 = 1x2−Dy2=1 の整数解 (x,y)(x, y)(x,y) を求める方法が知られています。特に DDD が平方数でない場合、無限個の整数解が存在します。
二次式の因数分解: ax2+bx+c=0ax^2 + bx + c = 0ax2+bx+c=0 の整数解 xxx を求めるために、因数分解を用いる方法があります。
もう人生の折り返し点をすぎて久しい。目を通す文字は、仕事の書類ばかりとなった昨今。
でも小学校高学年から中学生にかけての頃に、文学少女に憧れた時期があった。
書店の奥のほうにいっては新潮文庫コーナーで、適当に数冊手に取っては解説に目を通したりしていた。
生まれて初めて自分で買った詩集は、井上靖の詩集だった。小学校5年生か6年生の頃だと思う。
頁を開いたとき、これは詩なの?というのが最初の感想だった。普通に文章だったからだ。
調べてみると、井上靖の詩は、散文詩という形式らしい。なにが自分の知っている詩と違うのだろうというところで
「韻」という言葉もその時初めて知った。
井上靖の詩集を手に取ったのは、国語の教科書に載っている著者の本でなるべく読みやすそうなものを探したからだった。
というわけで、あすなろ物語のついでに手にしたのが、人生最初の詩集だった。
小中学生の頃、国語の授業で、詩や短歌に少し関心をもった私は、韻を踏む、という作法が苦手だった。
季語などルールがあったり、韻で楽しめなければならない、みたいなものが短歌や俳句だとすると、ちょっと縁がないなと。
特に覚えているのは、中学校の時習った在原業平の短歌に、かきつばたを詠みこんだものがあるが、韻だけでなく、言葉のニュアンスにいろいろな仕掛けを作らないと詩として成立しないのかと思うと到底自分には向いてないジャンルだった。しかし、そうはいっても、短い言葉で何かを表現してみたいという思いは消えず、ひそかに詩集をつくって引き出しの奥底にいれていた。
幼少の頃、川辺の石段の下で手を洗っているとき不意に石鹸が手元を離れ、深みに落ちていったという情景の詩があった。その喪失感をその後の人生でも刻まれているという内容だった。これなら自分でも書けるかもしれない、と思った。
自分の世界の表現の仕方や詩の味わい方を学べたのも井上靖の詩の影響が大きかった。
例えば、雪という詩がある。
雪
―― 雪が降って来た。
―― 鉛筆の字が濃くなった。
こういう二行の少年の詩を読んだことがある。
みつけた詩だ。雪が降って来ると、
私はいつもこの詩のことを思い出す。
中学生の私は、なるほどと思った。
詩というのは、雪が降って鉛筆の字が濃くなったという描写やその言葉のなかにあるのではなくて、物語は書かれてない背景のなかにあるのだなと。
鉛筆の字という描写だけだったら、だから何?という感想しかない。しかし、鉛筆を持つ誰かの表情を想像し、その背景を想像して足してあげることで一枚の絵になる。
当時、大好きだった先輩が「友情」を読んで感動したといっていたので、友情ともう一冊詩集を手に取った。その後しばらくして、私の失言が原因で先輩は私からフェイドアウトしていった(つまりフラれた)ので文学をダシに先輩と仲良くなろうという作戦は失敗した。しかし、武者小路実篤の詩はそんな私をなぐさめる言葉にあふれていた。
いじけて 他人にすかれるよりは 欠伸(あくび)して他人に嫌われる也 夏の日。 嫌う奴には嫌われて わかる人にはわかってもらえる 気らくさ。
ほどなくして、種田山頭火という自由律俳句というジャンルを知った。
山頭火は面白い。普通の俳句じゃないところがいい。規律から解放されるってすばらしいことだと。
定型詩嫌いな私にとっては、ある意味で、俳句短歌のエントリーポイントとなって、
しかし俳句は、季語の煩わしさにどうしてもなじめず、自分には遠い世界のままだった。
いつしか手にしていたのは、興津要の解説する江戸川柳 誹風柳多留だった。古典落語にはまり始めた時期だった。
剣菱という酒を飲むことを江戸時代の人が剣菱る(けんびる)と言っていた、など、現代の言語感覚と近い、興味深いことがいろいろと書かれていた。
その後は巴毎晩組み敷かれ
木曽義仲の元を離れ、和田義盛に見初められ身柄を預けられた巴御前、ネトラレ系の元祖ともいうべき味わい。思春期の私はこうした江戸時代の川柳で妄想たくましく想像し、手が動いた。五七五だったら、こっちの世界のほうが楽しい。
一方、短歌のほうは、というと、当時の朝日歌壇は毎週とても楽しみにしていた。
俵万智のサラダ記念日がベストセラーになったからというのとは全く関係なく、プロではなく、市井のいろいろな人が短歌を詠んでいるということが興味深かった。
例えば、こんな一首。
あさま山荘事件を起こした連合赤軍の幹部、坂口弘が収監中の東京拘置所から毎週のように短歌を朝日歌壇に投稿していた頃だ。
朝日歌壇では他にも穂村弘がいた。短歌の表現する世界の幅広さを朝日歌壇で知った。
風花って知っていますか
渡辺松男と太田美和は実社会で互いに関係があるわけではなく、それぞれの思いを歌に込めていたのだと思うけど、なぜか不思議と互いに呼応し合うものがあった。これは当時の歌壇をリアルにみていた人にしかわからないことだけど。雨の森や樹々など独特の世界観を表現する渡辺松男に対して、雨の日に部屋にこもれば憂鬱が発酵すると詠んだりする太田美和。
実生活で恋をしていた私は太田美和の言葉に自分を重ね合わせた。
でもこのころが私の文学少女期のおわりだった。
大学を卒業したものの、就職できずに苦しむ時期がやってきた。就職氷河期というやつだ。
生活が一変した。
書店で立ち寄るのは、奥の文庫コーナーではなく、店の前の新刊コーナーであり、資格取得のコーナーだった。
世の中からどんどんと取り残されてゆく焦りでいっぱりになっていた。
山頭火も武者小路実篤もへったくりもない、そんなことより面接と資格だ!という日々。
就職が決まってからは、病気になったら人生終わりだし、干されたら終わり。もう一歩先に、もう一歩とただひたすら走り、走らされる人生が始まった。
たまに思い出しては、現代短歌の最近の潮流を知りたくなって、枡野浩一の本を手に取ってみたりはしたものの、ピンとこなかった。
若い頃あれほど好きだった渡辺松男も改めて著作をみると作風が変わったのかと思うほど、何一つ言葉にくすぐられることなく、不感症になっていた。変わったのは自分のほうだ。
それから数十年、あるとき気が付くと、新しい家族が増え、家が建ち、旅行などしている。
そういえば何十年も詩や短歌を目にしていない。寺山修司の本は引っ越しのどさくさでどこかにいってしまっていた。
思春期のことを遠く思い出すようになった。実家の部屋の引き出しにはまだヘンな自作ポエム集が眠ってるはずだ・・。自分が死ぬ前にはなんとしても奪取してこないといけない。
中年になっていいかげん自分の限界を悟って、ふっと一息いれた、という形だ。
―― 雪が降って来た。
―― 鉛筆の字が濃くなった。
この二行の子供の詩を、何十年も経って思い出す井上靖の感覚がとてもよくわかるようになった。
これは人生の楽しみを食に見出して、ワインをたしなむようになってから思ったことでもある。
詩を楽しむということとワインを楽しむことには、ひとつ共通点がある。
どちらもウンチク語ってめんどくさい奴がいる、という意味じゃない。
鉛筆の字が濃くなる、という情景として、勤勉で真摯な子供の姿を思い浮かべる、という
文として書かれていることと、書かれていない想像の背景の補完的な関係は、ワインと食事、一緒に食事するひととの関係によく似ている。
ワインの味や香りは、それだけで勿論、それぞれのワインに特徴があるし、品種やビンテージ、気候土壌などさまざまな情報がある。
しかしワインのおいしさを決めるのはそれだけではない。過去に飲んだ記憶とか、一緒に食べているもの、そしてそのときの話題、体調などに大きく左右される。
水だって同じことで、喉が渇いているときの一杯と会議中にやり込められているときの一杯は全然違うはずだ。
マリアージュという言葉があるように、ワインは一種の調味料として機能するため、食べ合わせは重要だ。
ブラインドで呑むワインはどんな高級ワインだろうが、初見のワインでしかない。ワインの特徴まではわかってもそこまでだ。
逆に偽の情報を表現豊かに補完してしまえば、コンビニで販売しているワインを高級ワインと偽って出してもたいていの者には気が付かれないだろう。
ワインを色やら香り、余韻など物理的に因数分解した表現ができても、美味しさは客観的な規律として表現することはできない。
詩も同じだと思う。規律ばかりを語るひとがあまりにも多い。本居宣長には悪いけれど、歌をつくるのは道だとしても楽しむのは道じゃないと思うんだよね。
井上靖が「小学校の教室という教室で、子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。」というとき、井上靖にとってその詩に初めて出会ってからの何十年間が効いてくる。井上靖は詩は規律ではなく、詩との出会い方だと教えてくれた人だ。
その情景を自分のなかでセットできるかどうかは、鑑賞眼の問題ではない。
どちらかというと、そのような情景がセットされてしまう、長年の思いの蓄積、その詩と出会ったときのメンタル、いわば偶然の力だと思う。
渡辺松男と太田美和が並んで歌壇に掲載されていたあの空気感にしても、あのとき限りのものだったのだろう。
失恋をして武者小路実篤の詩に慰めれられた思い出もそう。まさに一期一会。
そのときに自分が置かれれる状況やそれまでの経験によっては、詩に対して、鈍感になることだってあるのだ。
ところで、先日、Yahooの芸能ニュースをみていたら、TBSのプレバトというバラエティー番組で、俳句を競う企画があって、ある芸人が俳句の先生から5点と酷評されたと報じていた。
消しゴムが 白き水面に ボウフラを
というもの。作者は「頑張って勉強して、消しゴムを何回も消すと、消しカスがたくさん出る。それが白いノートにたくさん積もっていると、ボウフラのように見えるという句です」と意味を説明したものの、腹が立つ、とまで評者先生にののしられている。
ちょっと間抜けた感じはするものの、正直、なんでそこまで素人の俳句が酷評されなければならないか理解できなかった。だが、番組の演出・脚本としてはそれがオチなのだろう。
演出もさることながら、これは、他の出演者の俳句が以下のようなものだったことも影響しているように思えた。
虹の下 クレヨンの箱 踊り出す
天王山 黒ずむ袖に 薄暑光
薫風や 隣の君と 教科書を
こんなふうに優等生を気取った俳句がずらりと来たら、それは「お約束」として、こき下ろすしかないのかもしれない。
バラエティー番組のなかで俳句を味わうということはつまり、こういうことなのだ。その芸人に対するイメージで作品のクオリティが補完されてしまうのだ。
しかし、この句が仮にお笑い芸人ではなく、どこかの学校の児童生徒が作ったものであったとしたらどうだろう。
消しゴムをかける姿は、情景としては授業中であることを示唆している。5月の番組で文房具だからまだ気持ちはフレッシュだ。だけどがんばろうという気持ちは長続きしない時期でもある。
ぼうふらにみえるほど消しゴムをかけるくらいだから、授業中、何度も消していて、その間、ノートをとる手が止まることになっただろう。
それでも授業はお構いなしに進んでいく。溜まってゆく消しごむのカスからは、授業についていく焦りとともに、生徒のひたむきさ、間違って消すことが多い生徒のどんくささも垣間見られる。
いいかげん疲れたかもしれない。めんどくさいと思ったかもしれない。
一方で白い水面(ノートの隠喩)は、清潔さや純粋さを象徴している。
ふと手を止めた瞬間に、そこにボウフラがいるようにみえた、というのは、一瞬立ち止まってボウフラ?などとくだらないことを想像してしまった自分の不純さや切れた集中力で抜けてしまった気力(投げ槍感)との鋭い対比となっている。
と、このように解釈すれば、俳句としてむしろ「ボウフラを」で間抜けた形で止めた意味が出てくる。そこから先は、苦笑いなのだ。
ボウフラを季語と認めるかどうかはわからない。しかし、純粋に詩としてみれば、消しゴムとボウフラという組み合わせは非常にユニークだ。
また、どんくさいもの、弱者がボウフラというノート上のより小さい存在に視線をフォーカスする、という手法は小林一茶の方法とも通じるところがある。
番組の評者は、この芸人の俳句を酷評したうえ、次のような添削をしたという。
夏休みかよ。口論の途中で勝手に話の前提を変えられたときのような不快感を覚える添削だった。消しかすって文房具じゃないし。
しかし、誰しも詩に対して鈍感になる、そういうことはある。端的にあれバラエティ番組だからね。
ただ、私の場合、やっぱり俳句には縁遠いのだろうと思った。俳句がメインのカルチャーであろうとする、優等生を選ぼうとする、そのいやらしさも嫌だ。上品そうな季語を競うかのような世界は一種のルッキズムだ。夏休みとかいって勝手におめかしさせようとするんじゃねーよ。
そういうところがまさに、かつて私が川柳などのサブカルに引き寄せられるひとつの動機だった。ボウフラにシンパシーを感じる感受性は恐らくはかつて親しんでいた落語や川柳で身につけたものだろうから、ゆりやんの一句を悪くないと思うのは邪心かもしれない。そもそも番組ADがテキトーにつくりましたってオチかもしれないんだけどね。