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2025-11-21

anond:20251120221427

問題は、琉球独自性自体歴史的事実であって、琉球歴史的権利尊重するべきであるということ自体正論だということなんだよな。

琉球王国は、どう考えても軍事的にムリヤリ併合されたわけで、沖縄県日本領であることが歴史的不正義と言われればそれはそう(ちなみに、アメリカハワイ王国の滅亡に関してクリントン政権とき謝罪している。日本琉球王国を滅ぼしたこと謝罪すべき)(もちろん中国によるチベット侵攻不正義なので、中国チベット併合謝罪して正統なパンチェン・ラマ11世の居場所を明らかにし、ダライ・ラマ14世後継者問題にはノータッチであるべきだ)。

琉球人は国際的先住民族定義にきれいに当てはまるにもかかわらず、日本琉球人を先住民族とは認めていない。これは間違っているので、琉球人を先住民族として認定しなければならない。

また、沖縄語をはじめとした琉球諸語が日本語とはまったく異なる言語であり(確かに同じ日琉語族ではあるが、同じ語族であることは同じ言語であることを意味しない。個人的には琉球語が九州語の内系統であり日琉祖語から直接分岐した系統ではないという説に魅力を感じるが、しかし、比較言語学的な分岐年代言語としての独自性は別の話だ。日本語と琉球諸語との違いは、デンマーク語スウェーデン語の違いよりも明らかに大きい)、保護尊重されるべきであったにもかかわらず黙殺・抑圧されてきたこともまた事実だ。

さらに、日本戦争指導によって、沖縄戦という地獄が現出し、多くの文化財が失われ、多くの琉球人が強制的自決を強いられたり殺されたりしたというのは、本土日本人が忘れてはいけない琉球への負債だろう(余談だが、ウクライナ戦争とかでとんでもないことを言う沖縄左翼がいるのも、こういう歴史的経緯からはまあしゃーないと思う。防衛戦争名目でご先祖様を自国軍に殺されたんだから、そりゃ、防衛戦争は悪! 防衛側の軍はさっさと降伏しろ! っていう発想の人が一定数出てきちゃうのは仕方ないよ……)(賛同しているわけではない、念の為)。

もちろん、現在琉球の人びとが日本国民としてのアイデンティティを抱いているのは事実だし、沖縄県内の選挙琉球独立派泡沫候補としての票しか得られていないし、彼らが中国への併合同意する日が来るとは思えないので、政治的帰属問題としては現状維持でまったく問題ないだろう。だがそれは、日本琉球の民に行ってきたことが免罪されるということを意味しない。日本中国横槍粛々と無視して、正面から琉球問題と向き合うべきだ。つまり琉球に対して日本が行ってきた不正義を認識し、是正のための方策を探るべきだ。

2025-11-20

日本語訳中国環球時報社説:「琉球学」研究はなぜ非常に必要なのか

わーくにの高市早苗首相台湾有事の関する国会答弁に端を発し、中国意趣返しして来た

【速報】中国主要紙、社説沖縄日本帰属疑問視|47NEWS(よんななニュース

https://www.47news.jp/13477637.html

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.47news.jp/13477637.html

中国主要紙、社説」とやらを中国語→日本語訳しておいた。

【原文】:社评:“琉球学”研究为什么很有必要環球時報

https://opinion.huanqiu.com/article/4PCD9cRy1Gx

最近、福建師範大学が創設した先駆的な中国の「琉球学」学科プロジェクト国家承認を受け、正式始動した。国内外で広く注目を集めている。沖縄諸島の地政学位置戦略的選択、そして将来の進路は、琉球自身運命に関わるだけでなく、周辺諸国地域安全保障上の懸念にも直結する。近年、中国国内外の学界で琉球沖縄問題への関心が高まり続けており、研究成果も次々と現れている。そして今や学科体系の構築へと発展し、「琉球学」の成立は自然な流れである

沖縄諸島は中国台湾島日本九州島の間に位置し、中国福建省と海を隔てて向かい合う。1372年、明朝琉球正式に宗藩(冊封関係確認し、琉球中国を正統と仰ぎ、中国は「厚往薄来」 (訳注:持っていかせる贈り物は多くし、持ってくる贈り物は少なくする。中国からの賞賜は厚くし、琉球から進貢物は薄くすること) の政策琉球厚遇した。1609年、日本薩摩藩が侵攻し領属に組み込んだが、琉球一定程度、中国との冊封関係を維持した。1872年日本明治政府一方的に「琉球藩」を設置し、併合への第一歩を踏み出した。1879年には武力による脅迫琉球藩を廃止し、沖縄県を設置、琉球王国は日本正式併合された。1945年日本敗戦後、米軍沖縄諸島を占領し、行政機関公式文書で「琉球」という名称使用した。1972年、米日間の私的な授受によって琉球施政権移譲完了。その後、沖縄諸島は日本管轄下に置かれ、「沖縄県」と改称された。1879年以降今日まで、沖縄諸島の主権帰属をめぐる歴史的・法理的争いは常に存在している。

琉球学」とは、琉球地理政治文化、中琉関係史、琉球東アジア関係史などを総合的に研究する学科であり、中国学、韓国学、日本学と並列されるもので、単なる区分ではない。その核心は琉球歴史文化、対外交流など多角的研究にある。歴史面では、琉球起源、明清との冊封関係日本による併合過程などを含む。文化面では、琉球語、服飾、建築音楽宗教信仰などを扱う。対外交流面では、経済往来、朝貢貿易周辺国との相互作用などを含む。さらに近現代の「琉球問題研究にも重要な意義があり、琉球地位社会現状、米軍基地など現実的課題議論を支える。

琉球学」は「スクラップ・アンド・ビルド」を兼ね備えた研究である。「建造」とは、中国琉球冊封関係歴史的実相を体系的に構築し、東アジア伝統外交体制研究を補完・充実させること。「破壊」とは、日本一方的に行ってきた併合史観一面的な叙述を解体すること。例えば、日本の一部は「日琉同祖論」を大々的に宣伝し、琉球王国への武力併合を認めず、琉球王国を独立国家として認めない。また、日本政府は琉球に対して差別同化を併行して進め、琉球日本のために払った犠牲を「制度化」「正当化」しようとする。こうした誤った叙述こそが、日本琉球同化政策実施する論理的基盤となっている。

現在、日米は沖縄諸島の「軍事要塞化」を加速させており、こうした動きは地元に「新たな沖縄戦」への深い不安を呼び起こしている。住民は自らの故郷が再び日本の「盾」となることを懸念している。「琉球学」の研究現実的意義を一層増している。近年、中国日本双方で琉球問題をめぐる重要研究成果が相次いでおり、今後は東アジアさらには世界的な視野へと拡張し、戦後から現在に至る時間軸へも延伸するだろう。学科体系・学術体系・(:訳注政治的)言説体系の協同発展を推進することで、東アジア地域文化共生・包容に新たな意味を注入する。

琉球学」が「絶学(訳注マイナーだが無くてはならない学問)」として国家レベルでの学科支援計画に選ばれたことは、中国学界が学術的理性をもって東アジア歴史叙述の再構築に参加していることを意味する。中国の「琉球学」研究はこれまでの散発的で断片的な状態を脱し、今後は体系化・融合化・国際化の方向へ発展するだろう。この研究の意義は学術拡張にとどまらず、地域平和の持続的維持、歴史的正義の伸張、中国が複雑な地政学的構図の中で、(訳注政治的)言説体系を構築することにも関わる。歴史脈絡を深く掘り下げることで、未来に向けてより包容的で持続可能共存の道を見出すことができる。

2025-11-18

過去日本他国に与えた負の影響って「お前らが弱かったから」って言ったら怒られるのかな。

朝鮮半島植民地化 → 「お前らが弱かったから」

満州国建国 → 「お前らが弱かったから」

南京事件 → 「お前らが弱かったから」

 

 

もちろん

  

沖縄戦 → 「俺らが弱かったから」

東京大空襲 → 「俺らが弱かったから」

原爆投下 → 「俺らが弱かったから」

 

も正だと思うんだけど。

 

 

なお自分戦後50年近く経って生まれてるんで、戦争責任なんてミリ程無いと思ってるし、今の道徳観で100年前の帝国主義時代を裁くことなんてできないと思ってる。

2025-09-04

GHQ時代レイプ被害はどの程度だったのか(ChatGPT)

「どの程度、どの頻度で性暴力が起きていたのか」。

これは資料が限られていますが、警察記録・GHQ軍法会議記録・被害者証言からある程度のイメージはできます

1. 数字で見た規模

警察統計公表されず内部資料に残ったもの)によると、1945年8月1946年末で、全国で確認された強姦事件は1,000件強。

ただしこれは氷山の一角で、研究者の推計では 実数は数千〜数万件規模 に上るとされています

理由:届け出が難しかった(家族名誉報復への恐怖)、報道検閲があった、警察対応をためらった。

2. 都市地方の違い

都市東京大阪横浜など)

進駐初期に事件が多発。

RAA慰安施設)が整備されて以降はやや減少。

地方農村

RAA存在せず、夜間に米兵が民家に押し入る事件が頻発。

栃木県では「進駐直後、ほぼ毎夜どこかの村で被害が出た」という証言もある。

福島山形など東北農村でも、進駐軍駐屯地の周辺で住民が恐怖の生活を送った記録が残っている。

3. 頻度のイメージ

毎日必ず隣町で誰かが」というほど全国一律ではありません。

しかし進駐初期(1945年8〜9月頃)は、各地で“連日のように”事件が起きていた地域もあったことは証言されています

たとえば:

栃木県足利では、1945年秋に「一夜に数件の強姦事件」が記録されている。

山形県の農村では「夜になると女たちが山に避難した」との証言

東京大阪では「暗くなると女性は一人で外を歩けなかった」と回想されています

4. 被害の広がり

被害者若い女性だけでなく、主婦・年配女性・時に少女まで。

被害の恐怖から女学生が頭を丸刈りにしたり、女性男装したりするケースも報告されています

家族地域ぐるみで「女性を守る防衛体制」を敷いた村もありました。

まとめ(頻度感)

全国的に「毎日どこかで必ず起きていた」ほど普遍的ではない。

しかし 進駐初期の特定地域特に地方)では、“ほぼ毎日のように事件が起きていた” と言える。

大都市ではRAA設置後に沈静化したが、地方農村ではしばらく恐怖が続いた。

東京

1945年9月警視庁の記録によれば、東京23区内だけで 80件以上の強姦事件 が発生。

新宿池袋上野など繁華街では、夜間の路上や民家への侵入が多発。

当時の新聞記事検閲前の内部版)には「夕暮れ以降、女性は一人で出歩けぬほど」と記録されている。

大阪

1945年9月12月大阪府警は 120件以上の事件確認

梅田難波などの駅周辺や郊外で発生。

その後RAAが整備され、1946年以降は公式統計上の件数は減少したが、民間への散発的被害は続いた。

京都

1945年10月京都市内で米兵2名が民家に押し入り、主婦暴行住民通報し、米軍憲兵逮捕

京都府警の報告によると、1945年秋〜冬に「数十件」の事件確認されている。

市街地RAAが早期に設置されたため、件数東京大阪より少ない。

栃木県地方農村の例)

1945年9月10月足利市周辺で「連夜にわたって米兵が村に侵入し、女性が襲われる」事件が多発。

地元警察記録には「一夜に数件の被害報告あり」と明記。

住民は夜になると女性を山へ避難させ、家には男だけが残る体制をとった。

山形県(東北農村の例)

1945年末:米兵農家侵入し、娘を暴行父親が鎌で抵抗したが撃たれて死亡、という証言が残る。

こうした事件報道されず、警察の非公開文書戦後聞き取りで判明。

沖縄(参考)

1945年6月以降(戦闘終結直後):住民証言によれば、村落単位で多数の女性被害を受けた。

沖縄戦後米軍統治下でも、性暴力継続的に発生し、1950年代以降も基地周辺で問題化

米軍裁判記録から

米軍兵士規律維持のため、重大事件については軍法会議にかけています

1945〜1946年の記録には、強姦殺人有罪となり死刑に処された米兵複数存在

ただし、すべての事件が裁かれたわけではなく、軽微な場合処罰が甘い傾向にありました。

まとめ

東京大阪など都市部:進駐直後に多発 → RAA設置後に減少。

地方農村RAAがなく、むしろ被害が深刻 → 夜間避難男装などで防衛

沖縄戦闘直後から大規模な被害占領後も長期にわたり続いた。

米軍対応:一部の加害兵は軍法会議処刑されたが、多くの事件は闇に葬られた。

発生件数地域

占領期直後の日本特に1945~1946年)では、米軍による性暴力レイプ事件は「数日に一度どころか、地域によってはほぼ毎日のように発生した」と言えるほどの高頻度でした。

事件の特徴

2025-08-21

大東亜戦争日本アジア支配をどう見るか

大東亜戦争日本アジア支配をどう見るか

大東亜戦争日帝アジアに対して、特に中国韓国シンガポールインドネシアフィリピンでやったことについては複雑で、かつ二面的に見なければならないと思います

インドネシア場合

かに日本オランダを追い出してインドネシア統治下に置き、ポツダム宣言後にはスカルノによる独立を導いたという「解放」の一面がありました。スカルノ象徴するように日本に対して感謝の念を示し、インドネシア親日的姿勢を取り、ビジネスパートナーとして長年良好な関係を築くことができました。これは確かに事実としての正の側面です。

しかし同時に、日本統治下ではインドネシア人をロームシャとして過酷強制労働従事させ、その多くが命を落としました。現地では日本統治時代を「飢餓暴力時代」とまで伝え残しており、この負の一面も決して忘れてはなりません。

フィリピン場合

フィリピンでも同様です。バターン死の行進マニラ市街戦での民間人虐殺戦争犯罪象徴であり、その記憶はつい最近までお札に印刷されていました。これは反日的というよりも「独立に至った歴史を忘れない」ためのものでした。フィリピンはもともと独立を目指していたため、日帝の「解放」が大きな影響を与えたとは言い難い面もあります

シンガポール場合

日本イギリス撃退し、シンガポールを「昭南島」と名付け統治しました。しか統治の始まりには民間人華僑虐殺粛清)が行われ、さら強制労働飢餓住民を苦しめました。現在でもシンガポールの老華僑の間では「苦難の時代」の記憶は完全に消えておらず、市内には当時の加害を記録し伝える石碑や博物館が今でも残されています

日本被害者意識国際的視点

一方で日本人はしばしば、本土空襲沖縄戦原爆2発、あるいは兵士の6割が餓死病死で帰ってこなかった事実を強調し、平和国家自称してきました。しかしそれだけを前面に出すと「加害への反省が足りないのではないか」と中韓などから指摘されます

戦争の加害側であった歴史を忘れ、否認する姿勢さえ見せる者もいます。これはドイツでは考えられないことです。日本サンフランシスコ講和条約を結び、反省を示して国際社会に再び受け入れられ、さらに多くのアジアの国々に許されて仲良くしてもらえたことは、決して忘れてはいけないと思います

特に中国1980年代まで「悪いのは日帝であって日本人ではない」と教え、中国残留孤児を育て上げて日本に送り返すまで面倒を見ました。1972年日中共同声明では賠償請求すら放棄し、日本を受け入れてくれていたのです。

歴史認識外交への影響

近年、中国歴史問題で強くアピールする背景には、日本国内で一部政治家都知事が加害の歴史否認し始めたり、教科書記述が「侵略ではなかった」と書き換えられるようになったことがあります中国にとってこれは大きな衝撃であり、その反動として南京事件731部隊問題国際社会で強調するようになりました。

結局のところ、何が大事かといえば経済であり外交です。侵略歴史否認すれば、特に中国韓国をはじめとするアジア諸国から信頼を失い、貿易や協力関係にも支障が出ます日本はもはやあぐらをかいていられる国ではなく、斜陽国として国益を守るために何を優先すべきかを考えなくてはなりません。その意味で、石破茂氏のスピーチ国益を重視した姿勢として評価に値すると私は考えます

大東亜共栄圏構想の評価

大東亜共栄圏構想は「西欧列強からアジア解放する」と掲げていました。しかし実際には資源獲得と軍事拠点化を目的とし、欧米支配に代わって日本が「統治」しただけであり、現地住民に甚大な犠牲をもたらしたのも事実です。

国際法歴史学的には「侵略」と評価されるのが正確であり、WW2における日帝行為をそれ以外で評価するのは国際的には正統派とは言えません。

ただし独立運動の観点からは「欧米植民地支配から解放の契機」と評価されている面もあり、この両面を見なければなりません。

アジア戦争犠牲者は2000万人以上と見積もられており、これは忘れてはならない歴史事実です。日本からすれば「侵略」と「解放」の二面的に見ることができる、という認識が最も現実的だと思います

戦後の歩みと憲法改正への危惧

二度と戦争に関わらないこと。殺し合いや餓死特攻核兵器使用には断固として否定立場を取ること。これが何より大切だと思います。ですから、今回の参院選改憲勢力が三分の二を超えたことを、個人的にはとても危惧しています

ちなみに…もっと深堀りするならば。

各国の独立運動家が日本を利用したのには明確な理由がありました。

インドネシアスカルノやハッタは、オランダから独立するために日本軍政を「利用」し、敗戦後に即座に独立宣言できる体制を整えました。

インドチャンドラ・ボースも、日本軍を頼りに「インド国民軍」を組織し、反英独立運動を推進しました。

日本に帰らなかった敗残兵達がインドネシアインド独立に協力したというか利用されたというのもまた歴史的な事実です。

また、戦後すぐにアジア各国の対日感情が今ほど悪化しなかった理由もあります

第一に、戦後日本米国主導で急速に経済復興を遂げ、ODA投資を通じてアジアに「恩恵」を与えたこと。

第二に、欧米列強の植民地主義アフリカなど)がなおも続いていたため、「日本侵略けが特別に悪」という視点になりにくかったこと。

第三に、多くの独立運動家は「日本を利用して欧米から独立した」という現実直視しており、一概に反日感情に流れなかったこと。

これらの事情が重なり、アジアの多くの国々は戦後日本を受け入れ、経済パートナーとして信頼関係を築いてきました。

侵略事実直視することは、日本にとって不名誉ではなく、むしろ国際社会からの信頼を守るために不可欠なことです。解放の契機という側面も併せて語り継ぎつつ、二度と同じ過ちを繰り返さないと誓うこと。それが日本国益であり、未来への最大の投資だと信じます

2025-07-10

制御しづらい奴らが出てくると攻撃するオールドメディア

参政党が躍進されると自分たち情報統制が出来なくなるからファストチェックとか言い出してるだけと

ていうかその表騙す気まんまんじゃん

見出ししか読まねえと思ってるオールドメディア 周りに回っただけだと認識できるのはいつ?

【ファクトチェック】参政・神谷氏、沖縄戦での軍の県民殺害は「例外」→不正確 直接298人、間接含め4766人に - 琉球新報デジタル

2025-06-23

沖縄戦平和教育ウクライナ動画を流さないのはなぜなのだろう

伝聞より最新の映像のほうがわかりやすいのに

2025-06-21

この記事はけっこう刺さってしまったなあ。このおじいさん2010年当時95歳か。この世代戦争体験生の声で聞ける時代は、もう終ってしまったのだなあ。

https://news.yahoo.co.jp/articles/2b0b23e248c99cadd393ab67a11a0a5ce4a6662d

「許してくれ、許してくれ」とガマで泣き崩れた 沖縄戦母子を撃った90代の元日本兵が謝罪

6/19(木) 6:04配信

沖縄タイムス

兵士の照屋さん(仮名)が住民あやめしまったと告白した時に巡った壕。入り口に生える草は光がさす方に背を伸ばしていた=3月6日沖縄本島(竹花徹朗撮影

 

 「私は銃の引き金を引いてしまった。今でも何度も夢に見る。苦しくて、苦しくて。このにおいは間違いなくあの親子のいた場所です」

 2010年のある日、沖縄本島内のガマで、照屋さん(仮名)は泣き崩れた。90代半ばの元日本兵。言葉にならないような震えた声で「許してくれ、許してくれ」と何度も謝った。

 臨床心理士吉川麻衣子さん(49)=那覇市=が沖縄戦体験者でつくるグループ「語り合いの場」を立ち上げて5年目だった。

 参加の意思があるか、ないか体験者に繰り返し確認するのが吉川さんの手法だ。

 事前面談が21回に及んだ照屋さんは、吉川さんにだけ、自身過去を打ち明けていた。「みんなの前では語らないけれど、場には参加したい」との相談に、吉川さんは「無理しないで、自分のペースとタイミングを大切にしましょう」と伝えた。

 体験者は照屋さんを含め9人。グループは月1回、それぞれの戦争体験で関わりのある場所を巡ったり、公民館で集ったりした。

 「私は兵士でした」。照屋さんはそう自己紹介した以外、ほとんど口を開かず、表情も変えずに部屋の隅でじっと座っていた。記憶が残る戦地をどう巡るか意見を出し合った時も、「私にはそういった所はないので、みんなに任せます」と仏頂面だった。

 それでも、会を重ねるごとに表情は和らいでいった。吉川さんと出会って6年が過ぎた頃、「話がある」と切り出した。「いまさら申し訳ない。皆さんがいい、って言ってくれたら、あのガマで手を合わせたい」。吉川さんは「ようやく照屋さんのタイミングが来たのだな」と受け止めた。

 慰霊の日を終えた後の夏の日だった。照屋さんは仲間たちとあのガマを訪れた。

 意を決したように入り口に近寄るが、すぐに立ち止まる。しばらくして再び歩を進めると、また止まった。

 そんな動作を何度か繰り返すと、仲間の男性が照屋さんの手を取り、中へ入った。

 「間違いない」。照屋さんはそうつぶやくと、ごつごつとした岩場に膝をつき、嗚咽(おえつ)を漏らした。

■元兵士 65年後の告白 妻子は原爆で命落とす

 90代半ばの元日本兵、照屋さん(仮名)は一通り泣いた後、語り出した。

 所属部隊のガマが米軍に見つかったこと。住民避難していたガマを部隊が使うと決めたこと。ガマには住民がぎゅうぎゅう詰めで、上官が「ここは今から我々が使うから、一人残らず出て行け」と命じたこと。痩せ細って泣く赤ん坊を抱いた母親が照屋さんの足にすがり「お願いです。この子だけは生かして」と叫んだこと。そして照屋さんがその親子を銃で撃ったこと-。

 告白の後、参加者全員で線香をたいて手を合わせた。メンバーの一人に「話してくれてありがとう」と声をかけられると、今度は声を上げ、子どものように涙を流した。

 帰り際「一人では二度とあの場所に近づけないと思っていたが、みんなが背中を押してくれた」と頭を下げた。「戦争の時にしてしまたことは消えないけれど、供養になれば…」と言葉を継いだ。

 照屋さんは1915年沖縄本島中部で生まれた。厳しい父と優しい母に育てられ、かけっこが得意だった。25歳の時、五つ年下の女性結婚。生まれた娘には豊かな子に育ってほしいという願いを込め、「トミ」と名付けた。

 太平洋戦争東南アジア戦地出兵。「家族を守るため自分の命をささげる」との決意だった。戦争が激しくなった44年、沖縄に配属された。日本軍と県は住民の県外疎開を促していた。照屋さんと入れ替わるように妻と子は船に乗った。

 45年8月15日日本敗戦を伝える玉音放送収容所で聞いてうなだれた。ようやく戦争が終わったと実感したが、県外に渡った妻子とは連絡が取れなかった。行き先は聞いていなかった。

 2人が長崎疎開し、原爆で命を落としたことを知ったのは数年後のこと。自分が殺してしまった親子への罪悪感と、心の拠(よ)り所だった家族を失い「生きている価値がない」との絶望から沖縄を離れたが、仕事関係で間もなく戻らざるを得なくなった。

 それでも故郷集落には足が向かなかった。手元に1枚だけ残った妻と子の写真は肌身離さず持ち歩き、なるべく人と接しないよう、ひっそり暮らした。

 戦時体験を明かすまで65年。照屋さんと対話を重ねてきた臨床心理士吉川麻衣子さん(49)は「話したからといって、罪悪感を払拭したいという思いがあったわけでも、自分行為正当化たかったわけでもないと思う」と胸の内を推察する。

 「照屋さんにとってこの場なら大丈夫安心して、自分で話せるようになるのに、それだけの時間必要だった。私はただ待って、機が熟したと本人が感じた時にそっと背中を押すという距離感を保ってきた」と振り返った。(戦後80年取材班吉田伸)

この記事、読んでいて本当につらかった。

なにより衝撃だったのは、泣き叫ぶ子どもだけでなく、その母親まで撃ったということ。あまりに酷すぎて、もし自分家族だったら、このおじいさんを絶対に許せないと思った。久米島守備隊の住民虐殺事件など、日本軍の行動を思い出しても、本当にひどい。

きっと、当時の兵士にとって、住民は守るべき存在ではなく、戦闘の妨げになる「障害」と見なされていたのだろう。でも、もしそうだとしたら、一体何のために戦っていたのか? 普通に考えれば疑問に思うはずだ。だが、その「普通に考える」という倫理観は、命の危機さらされた極限状態では働かなくなってしまものなのだろう。

一方で、彼は自分の妻子を県外に避難させようとした。冷静な倫理観を失っていなかったともいえる。しかし、妻子は長崎原爆により命を落とすという皮肉な結果を迎える。「因果応報」という言葉が浮かぶが、亡くなった家族にとってはあまり残酷すぎる結末だ。


このおじいさんは1915年まれ。つまり、戦中派(特攻世代)より一回り上の世代にあたる。戦後80年、この世代体験談を聞ける機会はもはや残されていない。「普通に考えればわかるはずの倫理」が破綻した時代を生きた世代だ。象徴的な人物としては大岡昇平奥崎謙三俳優では池辺良。池辺のエッセイには、部下に恨まれ将校が海に放り込まれエピソードなどがさらっと描かれており、ユーモアを交えて将校時代下克上が語られている。奥崎は、部下の処刑をめぐって上官を追及したドキュメンタリーで知られる。


戦争体験世代は、大きく三つに分けられる。

第一に、1910年代以前の生まれの「戦争指導した大人世代」。上官や責任ある立場戦争に関与し、戦後沈黙を保って生き延びた人々。戦場人間性喪失し、それでも帰ってきた。

第二に、大正末期から昭和一桁生まれの「特攻・戦中派世代」。三島由紀夫鶴田浩二吉田満らが代表で、国のためひとのために尽くし、「美しく死ぬこと」に倫理見出し、ある種過剰に倫理的だった。岡本喜八映画作品にみられるこうした倫理へのアンチテーゼもまた戦中派の主題となった。

第三に、終戦時に少年期だった「焼け跡世代」。彼ら子供に目には、戦争から帰って沈黙した親たちの世代国家報恩を信じて裏切られた兄たちの世代ギャップみえていたはずだ。


このうち、戦後戦争体験を最も語ったのは特攻世代だった。戦前派は血塗られた過去沈黙を貫き、焼け跡派は語れるほどの戦地体験を持たなかった。

特攻世代の特徴は「死の意味」を内面化しようとしたこと。彼らにとっては、「美しく死ぬ」ことで自分運命を受け入れるしかなかった。その純粋さが戦後道徳観につながり、吉田満に代表される感性現代保守層理想視されてもいる。

しかしその倫理観には、自己満足欺瞞が含まれている可能性もある。過去自分の非を、倫理的になった「現在自分」が糾弾するかたちには、どこか自己満足偽善が入り込んでいる。ご都合主義というやつだ。

そして、その倫理観被害者に対しても危うい。「恨まれて当然のことをした」という構図を強化してしまいかねない。戦場での行為は謝って済む話ではないことがほとんどだ。怨恨抽象化され、「慰安婦」や「ホロコースト」のように象徴的な言葉として拡散され、世代を超えて敵意の燃料となっていく。

脚本家橋田壽賀子も戦中派世代。「おしん」に出てくる夫・竜三は、隣組組長として若者たち戦場に送り出した責任をとって自決する。そこには戦中派の「死によってけじめをつける」という倫理観が濃く反映されている。

死によって責任を取るという倫理のあり方は、戦争中は自分戦意を煽っておきながら戦後になると民主主義的な道徳を語り始めた知識人自己批判にも似て、実は同根なのかもしれない。終戦直後、小林秀雄は「近代の超克」を自省する知識人たちを相手に、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と言い放った。

知識人たちのある種の自己嫌悪に対する小林の態度は考えさせられる。

岸田秀は「ものぐさ精神分析」のなかで、酒を飲んでやらかししまった失態を例に挙げ、なぜ反省しているのに何度も同じことを繰り返すのか、そもそも自己嫌悪」とは何かを分析した。倫理的に覚醒した自分コントロールを失って暴れた自分を自省し、本来自分倫理的で、酔って暴れた自分本来自分ではなかったという卑怯ポジショニングのもとで成り立っているからだと喝破した。

戦争記憶も同じことがいえるはずだ。

現代SNS社会では、こうした加害者欺瞞的な贖罪被害者がつけ込む形で、この構造さらに先鋭化する。加害者には「反省し続ける姿勢」が求められ、被害者には「傷ついたままであること」が期待されてしまう。

ときに「病みアピ」とも呼ばれる行動は、関心を集めるための戦略になりがちだ。弱ったときは周囲が心配してくれ、攻撃されれば誰かが擁護してくれる──そんな「おいしい被害者」のポジション依存してしまい、自分でも気づかぬうちに抜け出せなくなってしまう。


でも本当に必要なのは、「赦し」なのだと思う。贖罪再生きっかけにすぎない。

この記事に描かれた世代は、「死を美化する」戦中派とは違い、倫理的な生き方などできなかった。理不尽で泥臭い体験を抱え、時にはそれを笑いに変えてでも、ぶざまに生きてきた人たちだ。過去行為を忘れたい、でも忘れられない──その葛藤とともに、不器用に、ぶざまに、しかし確かに生きてきた。

この世代葛藤を描いだ作品に、山田洋次原作少年寅次郎』(脚本岡田惠和)がある。戦地から戻った父が罪悪感から娘の顔を直視できなくなる場面がある。彼は中国戦線で同じ年ごろの子どもを殺していたからだ。その罪の重みと、生きていかなければならない現実とのあいだで沈黙する姿が描かれる。魂が抜けたように無口な毎日を過ごす夫に対して、いつものちゃらんぽらん性格にもどってほしい、とつぶやく妻のセリフは印象的だ。ひとたび戦場倫理破綻してしまった人間に対するまなざしとはそういうものだったのだろう。

これに対して戦中派の苦悩を描いだ作品として、山田太一ドラマ男たちの旅路』も思い出す。特攻記憶を引きずる鶴田浩二と、彼に恋する部下を演じた桃井かおり上司役の池辺良の三者が見せたのは、世代間の倫理観の激突だった。上司役の池辺良が放った「筋を通すな」という一言は、戦中派の倫理観に対する戦前からの強烈なカウンターだった。山田太一の、戦前派と戦中派の葛藤に対する繊細なまなざしがここに凝縮されている。

記事のおじいさんはまさに沈黙してきた世代だ。生きるために沖縄に戻らざるを得なかったこと、その土地暮らしたこと、そして65年の沈黙。たった一度の涙より、その沈黙の重さにこそリアリティがある。

贖罪でも正当化でもない」と吉川さんは言った。語らなかった時間のほうが、語られた言葉よりも重いのだと思う。

私たちは「贖罪の涙」や「被害者トラウマ」ばかりに注目しがちだが、本当に大事なのは、「赦し」へ向かうゆっくりとしたプロセスだ。

「話してくれてありがとう」と言ってくれるグループ存在。「自分のペースとタイミング」で見守る吉川さんのような人の存在。そのほうがよほど重い。

被害者の側も、いつまでも被害者であり続ける」ことはできない。

辺見庸の『もの食う人々』では、フィリピン住民が「日本兵に家族ブタ丸焼きのように食べられた。でももう恨んでいない」と淡々と語った。その表情に、辺見は「悲しんでいる余裕もなく生きてきた強さ」を見たという。

人生って、つらい経験ほど上書き保存楽しい記憶名前をつけて保存──本来そうあるべきなのに、振り返ると逆になっていることが多い。

贖罪より、赦しの方がずっと尊く、強い。

人間、図太く生きていたいものだ。戦前派の多くはそうして沈黙を貫いてきた。自分もそうありたいし、あのおじいさんも赦されてほしい。

65年経って懺悔されても──という思いもあるが、戦争人間性を狂わせるということは、後世の私たちが覚えておけばいい。

山田太一で思い出した「太一」つながりで、昨日は国分太一番組降板話題になっていた。あれがどんな問題だったかは知らないが、この記事のおじいさんのことを思えば、本当に取るに足らない騒ぎに思えてしまう。

もちろん、軽々しく比較するべきではないけれど、それでも、そう感じてしま自分がいる。

れいに生きられなくてもいい。社会も、彼のことをそっと忘れてあげればいい。そう観念して、生きていくしかない。

2025-05-23

anond:20250523080935

雇って欲しいから(力関係上従うしかいから)革命思想にやむを得ず不承不承同意しているだけのタダの労働者なんだから労働者として扱ってやれよw

プロレタリア革命と称して労働者階級のための政治体制を目指すはずの党が、実は労働者搾取してる構造なのオモシロすぎるww

って書いたけど、コレってかつての沖縄戦かにからんで言われる「軍は国民を守らない」論とも通底するモノがあるような気がする... 「〇〇のために」と作られた組織が、すぐに〇〇のことなんぞ二の次三の次になって組織自体利益を追求していくという... な〜んてチョット分かった風なこと言ってみたかっただけですハイw

2025-05-13

2000年頃の高校修学旅行

語り部のおばあちゃん日本軍米軍自衛隊がとか言ってたけどな

展示物もミスリード狙っててなんだかなと思った

語り部のおばあちゃん正規かどうか知らんけどそういうことを感情で言ってたことは事実だと思うぞ

戦争が悪いとかじゃなく軍隊が悪いになってる人が陥りがちなことだなと思ってたけど

これって今は否定しちゃ駄目なんでしょ 笑っちゃうよな 感情論がいつの間にか日本の歴史すらを書き換えてんだもん

「日本軍は県民を殺していない」 沖縄戦を巡り参政党・神谷代表 自民・西田氏の発言に同調 青森で街頭演説 | 沖縄タイムス+プラス

2025-05-10

ひめゆりの塔」が男女差別なのは事実

沖縄戦では男児のほうが女児の倍以上死にました。

なのに、男児象徴するような展示はありません。

2025-05-04

ひめゆりの塔の展示の問題点って

沖縄戦民間犠牲者女性が多かったみたいな誤解を与えることだよね。

男のほうが倍以上殺されたのに。

2025-03-22

anond:20250322054733

かに結構似てるな。

本国編入された歴史は短いながらも、軍事戦略的要衝で、しか本国歴史の中でも重要な地として扱われる(パールハーバー沖縄戦)ために本国からしたら無条件で同化してる地域だと考えられてそうな点とか。

けどアメリカ本国自体歴史が短い上に元々多民族多文化なところだからアメリカ自体そもそも国内特定地域に対してあまり異国感は感じなさそうで、そう意味では日本における沖縄アメリカにおけるハワイは違うかも。

2025-03-21

anond:20250321185616

沖縄戦における日本軍便衣兵存在について(学術観点から

沖縄戦1945年3月6月)は、第二次世界大戦末期における激戦の一つであり、日本軍アメリカ軍の間で熾烈な戦闘が繰り広げられました。この戦いにおいて、日本軍が「便衣兵」を組織的運用していたかどうかについて、学術的な議論を整理します。

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1. 便衣兵とは何か?(定義国際法視点

便衣兵(guerrilla fighters in civilian clothes) とは、軍服を着用せずに民間人服装戦闘行為を行う兵士 を指します。

国際法的には、

ハーグ陸戦条約1907年) 第1条では、交戦者としての資格を「指揮系統のある部隊が、一定距離から識別できる標識を有し、武器公然と携行し、戦争法規を遵守すること」と規定しています

便衣兵はこれを満たさないため、戦時国際法違反とされ、捕虜としての保護を受けられません。

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2. 沖縄戦における日本軍戦術便衣兵可能

(1) 日本軍による便衣兵組織的運用証拠はない

沖縄戦に関する主要な学術研究(たとえば吉浜忍『沖縄戦研究』、戸部良一日本敗戦』など)では、日本軍組織的便衣兵運用したという明確な証拠確認されていません。

沖縄戦闘基本的防衛戦であり、日本軍は地下陣地を利用しながら正規戦を展開していました。

一部の日本兵が軍服を脱ぎ、民間人に紛れる事例はあったものの、これは戦闘行為の継続というよりも逃亡・生存のためであることが多かったとされています

(2) ゲリラ戦の要素は存在した

一方で、日本軍は戦況が悪化するにつれて、散発的なゲリラ戦を展開しました。

「斬り込み戦法」や「夜襲」を行う際に、民間服装を利用する事例があった可能性は否定できません。

しかし、これは戦術的な便衣兵運用ではなく、むしろ戦場での混乱の中で生じた事象と考えられます

(3) 沖縄戦における住民の動員と誤認

沖縄戦では、多くの民間人日本軍戦闘行為に協力することを強いられました。

沖縄県民による**「防衛召集」や「義勇兵制度」** によって、学生一般市民が軍の補助をしました。

鉄血勤皇隊男子学生)やひめゆり学徒隊女子学生)は、戦闘支援役割を担い、場合によっては武装もしていました。

こうした背景の中で、米軍便衣兵存在を疑い、民間人日本兵と誤認するケースが発生しました。

米軍は「便衣兵可能性がある」と警戒し、民間人敵対的存在と見なすことがありました。

その結果、投降しようとした住民が射殺される事件 も発生しました。

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3. 学術的な結論

(1) 組織的便衣兵運用はなかった

現時点での学術研究では、日本軍沖縄戦便衣兵組織的運用したという証拠はない というのが主流の見解です。

ゲリラ戦の要素はあったものの、それは軍としての正式戦術ではなく、戦局悪化に伴う個々の兵士の行動の範囲 にとどまります

(2) 住民動員が誤認を招いた

便衣兵の有無に関係なく、沖縄民間人戦争に巻き込まれたことは事実であり、その混乱の中で米軍民間人便衣兵と誤認するケースが多発した ことが記録されています

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4. まとめ

1. 日本軍便衣兵を「組織的」に運用したという証拠はない。

2. 一部の日本兵が軍服を脱いで逃亡を試みたり、ゲリラ戦を行った可能性はあるが、それは個々の行動である

3. 沖縄住民が動員され、戦闘に巻き込まれた結果、米軍便衣兵と誤認する事例が発生した。

4. 便衣兵の有無よりも、「住民戦闘に巻き込まれたこと」が沖縄戦悲劇として重要論点である

沖縄戦研究は今も進んでおり、新たな資料が出る可能性もありますが、現時点では**「便衣兵組織的運用はなかったが、一部の個人的な事例や誤認があった」** というのが学術的な結論と言えます

anond:20250321181754

沖縄については聞かないんだ?

沖縄戦で日本軍便衣兵がいたかどうかについて、否定するのは難しいからな。

2024-10-27

anond:20241027104751

沖縄戦では日本軍手榴弾民間人に渡して、米軍が来たら自決するように命じたそうだけどな…

2024-08-16

パヨちゃん特攻兵を無駄死ににさせたがるけど

沖縄戦広島長崎原爆で亡くなった一般人無駄死に扱いしたら烈火のごとく怒り出すの矛盾してるよね

2024-06-29

関東おすすめ美術館沖縄県編)

  1. 沖縄からの人の出入りの99%は空路である
  2. 沖縄から最も航空便が多く発着しているのは羽田である
  3. ゆえに沖縄県は関東である証明終わり。

沖縄県立博物館美術館

企画展東京でやってるヤツの巡回がほどんど(地方にとっては、それはそれで充分意義のあること)だが、常設展美術館コレクションを定期的に入れ替えてやっている。

沖縄出身作家について大規模に収蔵されているのはここしかない。個人的には安谷屋正義が好きで、「塔」か「望郷」のどちらかが展示されているのでそれを見に行っている。

ゆいレールおもろまちから徒歩10分。

佐喜真美術館

宜野湾市の私設美術館丸木位里丸木俊による「沖縄戦の図」の収蔵で知られているが、それ以外にもルオーの絵を結構持っていたりする。

浦添市美術館

常設展琉球漆器。名のある作家作品と言うより、歴史的資料としての漆器の方が多く、博物館に近い。

壺屋焼物博物館

国際通りから外れた平和通りの奥。長年研究されている学芸員の方がいて、展示・収集のサイクルがきちんと回っている印象。

アヤミハビル

与那国島郷土資料館の類いに近いが、日本最大の蛾であるヨナグニサン(最大で全長30センチ)の標本が多数見られる。運が良ければ生体も見られる。

おまけ 上原清善記念館

篤志家で、あらゆるところに寄付をして生涯に5000枚以上の感謝状をもらったという上原清善さんが、晩年老人ホームを寄贈して、その片隅に設置した記念館。大量の感謝状が並ぶさまは現代アートといえるかもしれない。

anond:20240628162906

2024-06-27

ひめゆりの塔」という男女差別の碑

沖縄戦犠牲になったのは男性のほうが圧倒的に多いのに、

ひめゆりの塔」のせいで女性犠牲が過大に印象付けされている。

令和のジェンダー平等価値観にはそぐわない施設だ。

2024-06-22

明日沖縄戦慰霊の日だけど

靖国英霊がどうこう言ってる国士様たちってどうして沖縄には行かないの?

普通に考えて国を守って死んでいった英霊たちに敬意を払って当然だと思うんだけど。

2024-06-21

それデモいい 

それデモいいと思える

故意だった

怖い 暗い 覚えてるの〜

あなた匂いや しぐさや全てを〜

犯しでしょ〜

総意って笑ってよ

"「今も憲法の番外地県民の総意「直訴」前日"

わかれているのnear鉈の事ばかり

"基地移転問題でイケンが分かれている"

いつしかあなたは会うことさえ拒んできて

"防衛相、初訪沖で玉城知事との会談見送り 国と県の溝浮き彫りに"

一人になると考えてしま

"基地問題保革対立が先鋭化しがちな県内政界で、党派を超えてまとめてきた原動力は「【私利私欲】を捨て、大局を見極め判断することだ」と強調"

あの時 私 忘れたらよかったの?

"忘れられない、アメ ~認知症沖縄戦記憶~"

もう二度と戻れなくても

"... 二度と戻れない人も沢山いた。何という悲劇しかし、更なる悲劇沖縄の人々を襲うことになる。沖縄駐留した米軍兵士の「軍紀世界中の他の米駐留軍のどれよりも悪く、沖縄米陸軍の才能のない者や、のけ者の体のいいハキダメ」(ジャーナリスト ..."

今は無料 a 鉈 a 鉈のことだけで

あなたのことば借り

「鉈を貸して山を伐られる」(なたをかしてやまをきられる)の意味

https://kotowaza.jitenon.jp/kotowaza/3949.php

"琉球王国誕生する前は、沖縄本島は「南山(なんざん)」「中山 (ちゅうざん)」「北山(ほくざん)」の3つの国に分かれ争っていました。この頃を三山時代と..."

バカかどうか測る。

まり、ばかり。

あなた、ばかられてますよ?

ジャパン、ばかられていますよ?

あなた=ウンジュ(沖縄方言)=韓国人名

366日

https://youtu.be/u7gRnW8iFkM

ーーーーー

続き

藤井叡王戦で敗北!

その翌日、将棋コンサート

将棋×音楽 スペシャルコラボイベント 駒音に耳をすませて。』

調布であったようだ。

調布といえば軍の基地もありました。

https://x.com/cmf_pr/status/1804138179341291737

ピアニー侯爵も出てました。

蒼い鳥弾いてくれました。

叡王戦ドワンゴが始めたんだよね。

ドワンゴといえばニコニコ動画

最近ハッキングされて

システムトラブル中のようだね。

藤井騎士の254日天下。

254=じこし=ニコし。

2024-06-07

anond:20240607093721

うん、だからそれはwikipedia沖縄戦のページ読んだらわかることであって、元陸自経験要らないでしょ。

anond:20240607093222

とはいえ沖縄戦善戦というのはアメリカ側の記録(苦戦した)からしても明らかだけどは俺も思うけど

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