はてなキーワード: ポジショニングとは
「私が先輩を好きになったのは、たぶん、初めてサッカー部の試合を観戦したあの日からだと思います。先輩はディフェンダーとしていつも目立たない場所でプレーしているけれど、私にとって、誰よりも輝いて見えました。
特に、先輩の**「最後の砦」としての冷静さに強く惹かれています。相手のエースがドリブルで向かってきた時、焦ることもなく、一歩、また一歩と間合いを詰めていく。あの張り詰めた空気の中で、足元をギリギリまで見極め、綺麗にボールを奪い取る姿は、まるで職人技のようです。そして、ボールを奪った後、焦って蹴り出すのではなく、一度落ち着いて、一番良い味方を見つけて正確なパスを出す、あの判断力と視野の広さ**。チーム全体を見て、危険を察知し、的確なポジショニングでそこに先回りする予測能力には、いつも感動しています。
どんなに失点しそうな絶体絶命のピンチでも、先輩の存在があるだけで、「まだ大丈夫」と思わせてくれる。先輩が身体を投げ出してシュートをブロックするたびに、観客席で思わず息を飲んで、そして、防いだ瞬間に私までガッツポーズをしてしまうんです。あの献身的なプレーは、先輩が誰よりもチームの勝利を願っていることの証拠だと思います。
また、ピッチの外では、後輩にも優しく接してくれて、練習後のクールダウンをいつも丁寧にしている真面目さも大好きです。クールに見えて、内に秘めた熱い責任感と優しさを感じています。
私にとって先輩は、ただのディフェンダーじゃなくて、私の心を常に守ってくれている存在です。毎日、先輩の頑張っている姿を見るのが、私の一番のモチベーションになっていました。
先輩の全てが大好きです。どうか、私と付き合ってくださいってお友達の××さんに伝えてください!」
って言われたらさすがに覚え直すためにもう一回聞き直すよね
LINEオープンチャット「はてなブックマーカー」の1週間分の要約を、さらにAIを使用し、試験的にまとめまています。
https://anond.hatelabo.jp/20240722084249
ヘッケラー&コッホ MP5は、現代軍事史において最も影響力があり成功したサブマシンガンの一つとして、優れた工学技術を通じて近接戦闘に革命をもたらし、精度、信頼性、戦術的汎用性の新たな基準を確立しました。1964年の開発から現在まで継続的に製造され、40カ国以上で採用されており、近年より新しい代替品が登場しているにも関わらず、世界中のエリート部隊で現在も活発に運用されています。
MP5の卓越した性能は、クローズドボルトから作動する革新的なローラー遅延式ブローバックシステムに由来し、同時代のオープンボルト設計と比較して優れた精度を実現しています。標準的な9×19mmパラベラム弾薬を使用した際の銃口初速は1,200-1,400 fps、連射速度は毎分800発で、25-100メートルの交戦距離で最適な性能を発揮し、最大有効射程は150-200メートルまで延びます。
武器の8.85インチのコールドハンマー鍛造銃身は、6条の右旋ライフリングを持ち、フリーフローティング設計と16溝チャンバーシステムにより卓越した精度を提供します。標準型の重量は無装弾時6.66ポンド、全長は27.9インチ(MP5A2固定ストック構成)です。精密製造されたローラー機構は最適な機能のために特定の弾薬パラメータを要求し、このシステムは多様な環境条件下で驚くべき信頼性を実証しています。
技術仕様には、9mm弾薬用に最適化された1:10インチのツイストレート、クロームフォロワー付きカーブドスチールマガジン(1977年以降の改良)、セミオート、フルオート、3点バーストオプションを含む複数のトリガーグループ構成が含まれます。サプレッサー付きMP5SD型は、通気孔付き5.7インチバレルシステムにより銃口初速を1,115 fps以下に意図的に低下させ、信頼性を損なうことなく効果的な消音を可能にしています。
開発は1964年にHK54の社内名称で始まり、ティロ・メラーとマンフレート・グーリングを含む技術者チームが主導しました。ドイツ連邦警察は1966年にこの武器を採用し、最初はMP64と命名されその後MP5となりました。この設計は、G3ライフルのローラー遅延システムをピストル口径の作動に適応させることで根本的な突破口を表し、広く採用された最初のクローズドボルトサブマシンガンを創造しました。
MP5ファミリーは、実質的にあらゆる戦術要求に対応する100以上の異なるバリエーションに進化しました。Aシリーズには、MP5A2(固定ストック)、MP5A3(伸縮ストック)、バーストファイア型のMP5A4/A5が含まれます。MP5SDシリーズは、異なるストック構成を持つ6つのバリエーションで一体型サプレッサーの先駆けとなりました。コンパクトMP5Kシリーズは近接警護要求に対応し、MP5-Nのような特殊バージョンは、トリチウムサイトとサプレッサー機能を持つ米海軍シールズ向けに開発されました。
重要な進化のマイルストーンには、1977年の直線型から湾曲型マガジンへの移行、1978年の「トロピカル」ポリマーハンドガードの導入、アクセサリー用クローマウントレールシステムの開発が含まれます。ライセンス生産は世界的に拡大し、ギリシャ、イラン、メキシコ、パキスタン、サウジアラビア、スーダン、トルコ、英国に製造施設が設立され、世界中で数十万丁の武器が生産されました。
MP5は1980年のイラン大使館人質事件(ニムロッド作戦)で伝説的地位を獲得しました。英国SAS隊員が数百万人が視聴するテレビ生中継でその有効性を実証しました。この作戦により、MP5は専門的なドイツの武器から対テロ部隊の世界標準に変貌しました。
世界中のエリート軍事部隊が近接戦闘の主要武器としてMP5を採用しました。これには米海軍シールズ、デルタフォース、英国SAS、ドイツGSG-9、フランスGIGN、スペインGEOが含まれます。この武器の最初の主要作戦成功は1977年のフォイアーツァウバー作戦で、GSG-9隊員がモガディシュでハイジャックされたルフトハンザ航空181便から87人の人質を救出する際にMP5を使用しました。
米特殊作戦部隊はアージェント・フューリー作戦(グレナダ、1983年)、ジャスト・コーズ作戦(パナマ、1989年)、不朽の自由作戦(アフガニスタン)でMP5を広範囲に展開しました。この武器は海上作戦、航空機強襲、精度とコンパクトさが重要な都市戦闘で特に価値があることが証明されました。
法執行機関での採用も同様に広範囲で、米FBI地域SWAT チームの61%が2022年時点でもMP5の使用を承認しています。この武器は空港警備、外交官保護、VIP警護チームの標準装備となり、世界中で推定20万丁以上のバリエーションが現在も現役で使用されています。
MP5の革新的なクローズドボルト作動は、オープンボルト設計で一般的な精度低下を排除し、人質状況で重要な優れた初弾精度を提供しました。ローラー遅延システムは、ストレートブローバック競合製品と比較して体感反動を大幅に軽減し、フルオート射撃でも迅速で正確な追撃射撃を可能にしました。
製造には、ヘッケラー&コッホが先駆けたコールドハンマー鍛造プロセスが採用され、卓越した精度と耐久性を持つバレルを製造しました。モジュラー設計思想により、互換性のあるトリガーグループ、ストックシステム、バレル構成による広範囲なカスタマイゼーションが可能でした。品質管理基準は軍用仕様を超え、各部品は厳密な公差で精密加工されました。
武器のサプレッサー互換性は決定的特徴となり、MP5SDの一体型サプレッサーシステムは秘密作戦の基準を設定しました。設計には、迅速なサプレッサー装着のための専用3ラグアタッチメントと従来型サプレッサー用のネジ付きバレルを含む複数の取り付けシステムが組み込まれました。
注目すべき戦闘配備は数十年にわたる紛争と作戦に及びます。ジャスト・コーズ作戦中、海軍シールズはパイティージャ空港襲撃でMP5を使用し、特殊作戦部隊はパナマシティ全域の都市作戦で使用しました。密閉空間での武器の効果は、船舶強制乗船、建物掃討、車両阻止で非常に価値がありました。
対テロ作戦はMP5の精密能力を披露しました。GSG-9の1993年デュッセルドルフでのKLMハイジャック解決と複数の成功した人質救出作戦は、極度の圧力下での武器の信頼性を実証しました。傍観者へのリスクを最小化しながら脅威に正確に交戦する能力が、MP5の決定的な作戦上の利点となりました。
国際展開には、イラクとアフガニスタンでの連合特殊部隊による広範囲な使用が含まれましたが、部隊が一般戦闘作戦でライフル口径武器に移行する中、主に専門的役割での使用でした。MP5は個人保護、都市偵察、最大限の慎重さを要求する作戦で好まれ続けました。
MP5の成功は、同時代のサブマシンガンの根本的制限に対処した優れた工学技術に由来しました。UZIのオープンボルトシステムと比較して、MP5は劇的に優れた精度と制御性を提供しました。MAC-10の極端な毎分1,090発の連射速度に対して、MP5の毎分800発の速度は管理可能なフルオート射撃を提供しました。スターリングのより単純な構造は、MP5の精密工学技術とモジュラー能力に匹敵できませんでした。
市場への影響は変革的でした。1980年以前、UZIは約80%の市場シェアで世界のサブマシンガン市場を支配していました。イラン大使館人質事件は市場認識を転換し、MP5を専門的用途の「ゴールドスタンダード」として確立しました。武器のエリート部隊との関連は前例のない需要を創出し、競合製品の2-3倍の高価格にも関わらず、MP5はプレミアム価格を要求しました。
MP5の設計思想は武器開発の全世代に影響を与え、精密サブマシンガンの標準としてクローズドボルト作動を確立し、後続メーカーが採用したモジュラー設計概念の先駆けとなりました。
50年以上経過しているにも関わらず、MP5は近代化プログラムと共に製造が続いています。ヘッケラー&コッホは輸出と近代化契約向けに限定生産を継続し、トルコとギリシャのライセンス製造業者は活発な生産ラインを維持しています。米国の民間クローン市場は爆発的に拡大し、PTRインダストリーズ、ゼニス・ファイアアームズ、センチュリー・アームズなどの製造業者がセミオート型を生産しています。
現代バリエーションには、アップグレードされたストック、HKeyレールシステム、STANAG 4694光学機器互換性を特徴とするMP5 MLI(ミッドライフ改良)が含まれます。現在の軍事調達は専門的役割に焦点を当て、MP5は2022年時点で海外任務における海軍シールズの第3位使用武器にランクされています。
しかし、戦術環境は大幅に進化しました。ほとんどの軍事部隊は、優れた射程と装甲貫通能力を提供するM4カービンと短銃身ライフルに移行しています。現代紛争におけるボディアーマーの普及と延長された交戦距離は、一般戦闘用途での9mm弾薬の効果を低下させました。
MP5の将来は専門的ニッチにあります:VIP保護、海上作戦、秘密作戦、密閉空間で最大限の慎重さと精度を要求する状況。確立された訓練インフラ、豊富な部品供給、専門的役割での実証された効果により、MP5プラットフォームは少なくとも今後10年は実用性を維持する可能性が高いですが、一般戦術使用ではなく、ますます特定の用途での使用となるでしょう。
MP5サブマシンガンは小火器開発における重要な成果を表し、現代武器設計に影響を与え続ける精度、信頼性、戦術的汎用性の新基準を確立しました。その革新的ローラー遅延ブローバックシステムとクローズドボルト作動は、サブマシンガンの能力を変革し、以前はより低精度な武器に限定されていた役割で精密交戦を可能にしました。
40カ国以上での採用から対テロ作戦での伝説的地位まで、MP5は優れた工学技術と戦略的市場ポジショニングにより前例のない成功を収めました。現代の戦術要求がより長射程のライフル口径武器にシフトしているものの、MP5のコンパクトさ、精度、サプレッサー特性の独特な組み合わせは、専門的用途での継続的関連性を保証します。
武器の永続的遺産は、技術仕様を超えて、現代特殊作戦と法執行において確立を支援した戦術ドクトリン、訓練方法論、作戦概念にまで及びます。技術的成果と文化的アイコンの両方として、MP5は現代の最も重要な火器の一つであり続け、その影響は現代武器開発と戦術用途の形成を続けています。
それは序盤の過密日程の影響とか、親会社の経営危機とか、地元有力者との関係性の話ではない。それらの影響が全くないとは言わないが枝葉だ。
マリノスは「アタッキングフットボール」というものをクラブのフィロソフィー(企業理念)に置いている。1年間のスローガンではなく永続的なものとして。
アタッキングフットボールとはざっくり言えばボールを常に持ちながらゴールに向かうスタイル(以下「ポゼッション型」とする)であり、2018年のアンジェ・ポステコグルー監督から始まった戦術でもある。
そして2019年と2022年にJ1リーグ優勝を果たし、2021年と2023年も2位と一時代を築いていた。
しかしサッカーのスタイルは数年スパンで栄枯盛衰を繰り返すものであり、本来それを企業理念に置いてはいけないものだ。
一般企業に例えたら「当社はガラケー向けサービスに特化」とか「当社はVisual Basicの技術者集団としてお客様に貢献」という、寿命が長くない技術的な要素を理念に置いてしまうのと同じだ。
そしてポゼッション型が栄枯盛衰の「枯・衰」側に明らかに傾いたここ1-2年で、見事にマリノスは壊滅している。
いくつかあるがこの3点が大きい。
・3人→5人交代制に変更/夏季飲水タイムの追加:いずれもコロナ禍の副産物。これにより個々の選手がより長い時間走れるようになり、ポゼッション型よりも「ボールを持っている相手を追い込む」サッカースタイルの方が有利になった。後者は2022年ワールドカップでドイツとスペインを撃破した日本代表が好例。
・主審のポジショニング変更:主審は「よりボールに近いところに位置取りをしなさい」というFIFA通達が2024年にあり、その結果主審のポジショニングがグラウンドのセンター付近から極力離れないようになったため、ポゼッション型のチームにとっては常に主審が邪魔になるようになった。カウンター型のチームはボールを持ったら主審を追い越すボールをさっさと前方に出すので、主審は邪魔にならない。つまりポゼッション型のチームとカウンター型のチームが対戦するというのは、11人vs12人で試合をするのに近しくなる。
特に後者の影響は大きく、2024年のJリーグではマリノス以外でも川崎フロンターレなどのポゼッション型のチームがことごとく低迷した。
そして川崎は2025年シーズンはポゼッション型の戦術を止めてカウンター型に切り替え、ACLでは決勝進出、Jリーグも昨年より上の順位に位置するなど健闘している。
一方でマリノスはポゼッション型の継続を選択したが全く勝てず、監督解任を経てカウンター型の戦術に切り替えて、首位の鹿島などに2連勝。これを続ければ残留は出来そうだと誰もが見ていたが・・・
「俺達はアタッキングフットボールをやりたいからマリノスに来たんだ!話が違う!サッカー変えるなら他所に移籍する!」と言い出す選手が多数出て来てしまい、このままではクラブ存続どころか翌月以降の試合開催が不可能になる可能性すらあったため、戦術をポゼッション型に戻したうえで6/19に今月2度目の監督解任の運びとなった。(こういう流れが起きていることは、直近1週間の各メディアからの報道で分かる)
まさに、サッカースタイルを企業理念に置いてしまっていたが故の事象である。川崎はサッカースタイルを企業理念に置いていないのでスタイル変革が出来たが、マリノスには困難なのである。
しかしその戦術は、上述の通り賞味期限切れである。天皇杯でJFL(4部相当)かつ中2日でコンディション万全ではないチームに0-2で負け、さらにその後の新潟との裏天王山でなすすべなく完敗という体たらく。
そして今日も岡山とホーム日産スタジアムでの試合だが、おそらく0-3か0-4くらいで負けるだろう。
そして、秋が深まる前に、J2降格が決まっているだろう。
それでも増田はマリノスの年間チケットホルダーでもあるので現地に行く。
「過去の成功体験に囚われ、変化への対応を拒否する、レガシーな人達の集まり」がどういう末路をたどるかという、今後の自分の社会人生活でも大いに参考になるであろう、生きた教材を見に・・・。
この記事はけっこう刺さってしまったなあ。このおじいさん2010年当時95歳か。この世代の戦争体験を生の声で聞ける時代は、もう終ってしまったのだなあ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/2b0b23e248c99cadd393ab67a11a0a5ce4a6662d
「許してくれ、許してくれ」とガマで泣き崩れた 沖縄戦で母子を撃った90代の元日本兵が謝罪
6/19(木) 6:04配信
元兵士の照屋さん(仮名)が住民をあやめてしまったと告白した時に巡った壕。入り口に生える草は光がさす方に背を伸ばしていた=3月6日、沖縄本島(竹花徹朗撮影)
「私は銃の引き金を引いてしまった。今でも何度も夢に見る。苦しくて、苦しくて。このにおいは間違いなくあの親子のいた場所です」
2010年のある日、沖縄本島内のガマで、照屋さん(仮名)は泣き崩れた。90代半ばの元日本兵。言葉にならないような震えた声で「許してくれ、許してくれ」と何度も謝った。
臨床心理士の吉川麻衣子さん(49)=那覇市=が沖縄戦体験者でつくるグループ「語り合いの場」を立ち上げて5年目だった。
参加の意思があるか、ないか。体験者に繰り返し確認するのが吉川さんの手法だ。
事前面談が21回に及んだ照屋さんは、吉川さんにだけ、自身の過去を打ち明けていた。「みんなの前では語らないけれど、場には参加したい」との相談に、吉川さんは「無理しないで、自分のペースとタイミングを大切にしましょう」と伝えた。
体験者は照屋さんを含め9人。グループは月1回、それぞれの戦争体験で関わりのある場所を巡ったり、公民館で集ったりした。
「私は兵士でした」。照屋さんはそう自己紹介した以外、ほとんど口を開かず、表情も変えずに部屋の隅でじっと座っていた。記憶が残る戦地をどう巡るか意見を出し合った時も、「私にはそういった所はないので、みんなに任せます」と仏頂面だった。
それでも、会を重ねるごとに表情は和らいでいった。吉川さんと出会って6年が過ぎた頃、「話がある」と切り出した。「いまさらで申し訳ない。皆さんがいい、って言ってくれたら、あのガマで手を合わせたい」。吉川さんは「ようやく照屋さんのタイミングが来たのだな」と受け止めた。
慰霊の日を終えた後の夏の日だった。照屋さんは仲間たちとあのガマを訪れた。
意を決したように入り口に近寄るが、すぐに立ち止まる。しばらくして再び歩を進めると、また止まった。
そんな動作を何度か繰り返すと、仲間の男性が照屋さんの手を取り、中へ入った。
「間違いない」。照屋さんはそうつぶやくと、ごつごつとした岩場に膝をつき、嗚咽(おえつ)を漏らした。
90代半ばの元日本兵、照屋さん(仮名)は一通り泣いた後、語り出した。
所属部隊のガマが米軍に見つかったこと。住民が避難していたガマを部隊が使うと決めたこと。ガマには住民がぎゅうぎゅう詰めで、上官が「ここは今から我々が使うから、一人残らず出て行け」と命じたこと。痩せ細って泣く赤ん坊を抱いた母親が照屋さんの足にすがり「お願いです。この子だけは生かして」と叫んだこと。そして照屋さんがその親子を銃で撃ったこと-。
告白の後、参加者全員で線香をたいて手を合わせた。メンバーの一人に「話してくれてありがとう」と声をかけられると、今度は声を上げ、子どものように涙を流した。
帰り際「一人では二度とあの場所に近づけないと思っていたが、みんなが背中を押してくれた」と頭を下げた。「戦争の時にしてしまったことは消えないけれど、供養になれば…」と言葉を継いだ。
照屋さんは1915年、沖縄本島中部で生まれた。厳しい父と優しい母に育てられ、かけっこが得意だった。25歳の時、五つ年下の女性と結婚。生まれた娘には豊かな子に育ってほしいという願いを込め、「トミ」と名付けた。
太平洋戦争で東南アジアの戦地に出兵。「家族を守るため自分の命をささげる」との決意だった。戦争が激しくなった44年、沖縄に配属された。日本軍と県は住民の県外疎開を促していた。照屋さんと入れ替わるように妻と子は船に乗った。
45年8月15日、日本の敗戦を伝える玉音放送を収容所で聞いてうなだれた。ようやく戦争が終わったと実感したが、県外に渡った妻子とは連絡が取れなかった。行き先は聞いていなかった。
2人が長崎に疎開し、原爆で命を落としたことを知ったのは数年後のこと。自分が殺してしまった親子への罪悪感と、心の拠(よ)り所だった家族を失い「生きている価値がない」との絶望感から沖縄を離れたが、仕事の関係で間もなく戻らざるを得なくなった。
それでも故郷の集落には足が向かなかった。手元に1枚だけ残った妻と子の写真は肌身離さず持ち歩き、なるべく人と接しないよう、ひっそり暮らした。
戦時の体験を明かすまで65年。照屋さんと対話を重ねてきた臨床心理士の吉川麻衣子さん(49)は「話したからといって、罪悪感を払拭したいという思いがあったわけでも、自分の行為を正当化したかったわけでもないと思う」と胸の内を推察する。
「照屋さんにとってこの場なら大丈夫と安心して、自分で話せるようになるのに、それだけの時間が必要だった。私はただ待って、機が熟したと本人が感じた時にそっと背中を押すという距離感を保ってきた」と振り返った。(戦後80年取材班・吉田伸)
この記事、読んでいて本当につらかった。
なにより衝撃だったのは、泣き叫ぶ子どもだけでなく、その母親まで撃ったということ。あまりに酷すぎて、もし自分が家族だったら、このおじいさんを絶対に許せないと思った。久米島守備隊の住民虐殺事件など、日本軍の行動を思い出しても、本当にひどい。
きっと、当時の兵士にとって、住民は守るべき存在ではなく、戦闘の妨げになる「障害」と見なされていたのだろう。でも、もしそうだとしたら、一体何のために戦っていたのか? 普通に考えれば疑問に思うはずだ。だが、その「普通に考える」という倫理観は、命の危機にさらされた極限状態では働かなくなってしまうものなのだろう。
一方で、彼は自分の妻子を県外に避難させようとした。冷静な倫理観を失っていなかったともいえる。しかし、妻子は長崎で原爆により命を落とすという皮肉な結果を迎える。「因果応報」という言葉が浮かぶが、亡くなった家族にとってはあまりに残酷すぎる結末だ。
このおじいさんは1915年生まれ。つまり、戦中派(特攻世代)より一回り上の世代にあたる。戦後80年、この世代の体験談を聞ける機会はもはや残されていない。「普通に考えればわかるはずの倫理」が破綻した時代を生きた世代だ。象徴的な人物としては大岡昇平や奥崎謙三、俳優では池辺良。池辺のエッセイには、部下に恨まれた将校が海に放り込まれたエピソードなどがさらっと描かれており、ユーモアを交えて将校時代の下克上が語られている。奥崎は、部下の処刑をめぐって上官を追及したドキュメンタリーで知られる。
第一に、1910年代以前の生まれの「戦争を指導した大人世代」。上官や責任ある立場で戦争に関与し、戦後は沈黙を保って生き延びた人々。戦場で人間性を喪失し、それでも帰ってきた。
第二に、大正末期から昭和一桁生まれの「特攻・戦中派世代」。三島由紀夫、鶴田浩二、吉田満らが代表で、国のためひとのために尽くし、「美しく死ぬこと」に倫理を見出し、ある種過剰に倫理的だった。岡本喜八の映画作品にみられるこうした倫理へのアンチテーゼもまた戦中派の主題となった。
第三に、終戦時に少年期だった「焼け跡世代」。彼ら子供に目には、戦争から帰って沈黙した親たちの世代と国家報恩を信じて裏切られた兄たちの世代間ギャップがみえていたはずだ。
このうち、戦後に戦争体験を最も語ったのは特攻世代だった。戦前派は血塗られた過去に沈黙を貫き、焼け跡派は語れるほどの戦地体験を持たなかった。
特攻世代の特徴は「死の意味」を内面化しようとしたこと。彼らにとっては、「美しく死ぬ」ことで自分の運命を受け入れるしかなかった。その純粋さが戦後の道徳観につながり、吉田満に代表される感性は現代の保守層に理想視されてもいる。
しかしその倫理観には、自己満足や欺瞞が含まれている可能性もある。過去の自分の非を、倫理的になった「現在の自分」が糾弾するかたちには、どこか自己満足と偽善が入り込んでいる。ご都合主義というやつだ。
そして、その倫理観は被害者に対しても危うい。「恨まれて当然のことをした」という構図を強化してしまいかねない。戦場での行為は謝って済む話ではないことがほとんどだ。怨恨は抽象化され、「慰安婦」や「ホロコースト」のように象徴的な言葉として拡散され、世代を超えて敵意の燃料となっていく。
脚本家・橋田壽賀子も戦中派世代。「おしん」に出てくる夫・竜三は、隣組組長として若者たちを戦場に送り出した責任をとって自決する。そこには戦中派の「死によってけじめをつける」という倫理観が濃く反映されている。
死によって責任を取るという倫理のあり方は、戦争中は自分も戦意を煽っておきながら戦後になると民主主義的な道徳を語り始めた知識人の自己批判にも似て、実は同根なのかもしれない。終戦直後、小林秀雄は「近代の超克」を自省する知識人たちを相手に、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と言い放った。
知識人たちのある種の自己嫌悪に対する小林の態度は考えさせられる。
岸田秀は「ものぐさ精神分析」のなかで、酒を飲んでやらかしてしまった失態を例に挙げ、なぜ反省しているのに何度も同じことを繰り返すのか、そもそも「自己嫌悪」とは何かを分析した。倫理的に覚醒した自分がコントロールを失って暴れた自分を自省し、本来の自分は倫理的で、酔って暴れた自分は本来の自分ではなかったという卑怯なポジショニングのもとで成り立っているからだと喝破した。
現代のSNS社会では、こうした加害者の欺瞞的な贖罪を被害者がつけ込む形で、この構造がさらに先鋭化する。加害者には「反省し続ける姿勢」が求められ、被害者には「傷ついたままであること」が期待されてしまう。
ときに「病みアピ」とも呼ばれる行動は、関心を集めるための戦略になりがちだ。弱ったときは周囲が心配してくれ、攻撃されれば誰かが擁護してくれる──そんな「おいしい被害者」のポジションに依存してしまい、自分でも気づかぬうちに抜け出せなくなってしまう。
でも本当に必要なのは、「赦し」なのだと思う。贖罪は再生のきっかけにすぎない。
この記事に描かれた世代は、「死を美化する」戦中派とは違い、倫理的な生き方などできなかった。理不尽で泥臭い体験を抱え、時にはそれを笑いに変えてでも、ぶざまに生きてきた人たちだ。過去の行為を忘れたい、でも忘れられない──その葛藤とともに、不器用に、ぶざまに、しかし確かに生きてきた。
この世代の葛藤を描いだ作品に、山田洋次原作『少年寅次郎』(脚本・岡田惠和)がある。戦地から戻った父が罪悪感から娘の顔を直視できなくなる場面がある。彼は中国戦線で同じ年ごろの子どもを殺していたからだ。その罪の重みと、生きていかなければならない現実とのあいだで沈黙する姿が描かれる。魂が抜けたように無口な毎日を過ごす夫に対して、いつものちゃらんぽらんな性格にもどってほしい、とつぶやく妻のセリフは印象的だ。ひとたび戦場で倫理が破綻してしまった人間に対するまなざしとはそういうものだったのだろう。
これに対して戦中派の苦悩を描いだ作品として、山田太一のドラマ『男たちの旅路』も思い出す。特攻の記憶を引きずる鶴田浩二と、彼に恋する部下を演じた桃井かおり、上司役の池辺良の三者が見せたのは、世代間の倫理観の激突だった。上司役の池辺良が放った「筋を通すな」という一言は、戦中派の倫理観に対する戦前派からの強烈なカウンターだった。山田太一の、戦前派と戦中派の葛藤に対する繊細なまなざしがここに凝縮されている。
記事のおじいさんはまさに沈黙してきた世代だ。生きるために沖縄に戻らざるを得なかったこと、その土地で暮らしたこと、そして65年の沈黙。たった一度の涙より、その沈黙の重さにこそリアリティがある。
「贖罪でも正当化でもない」と吉川さんは言った。語らなかった時間のほうが、語られた言葉よりも重いのだと思う。
私たちは「贖罪の涙」や「被害者のトラウマ」ばかりに注目しがちだが、本当に大事なのは、「赦し」へ向かうゆっくりとしたプロセスだ。
「話してくれてありがとう」と言ってくれるグループの存在。「自分のペースとタイミング」で見守る吉川さんのような人の存在。そのほうがよほど重い。
被害者の側も、いつまでも「被害者であり続ける」ことはできない。
辺見庸の『もの食う人々』では、フィリピンの住民が「日本兵に家族をブタの丸焼きのように食べられた。でももう恨んでいない」と淡々と語った。その表情に、辺見は「悲しんでいる余裕もなく生きてきた強さ」を見たという。
人生って、つらい経験ほど上書き保存、楽しい記憶は名前をつけて保存──本来そうあるべきなのに、振り返ると逆になっていることが多い。
贖罪より、赦しの方がずっと尊く、強い。
人間、図太く生きていたいものだ。戦前派の多くはそうして沈黙を貫いてきた。自分もそうありたいし、あのおじいさんも赦されてほしい。
65年経って懺悔されても──という思いもあるが、戦争が人間性を狂わせるということは、後世の私たちが覚えておけばいい。
山田太一で思い出した「太一」つながりで、昨日は国分太一の番組降板が話題になっていた。あれがどんな問題だったかは知らないが、この記事のおじいさんのことを思えば、本当に取るに足らない騒ぎに思えてしまう。
片耳難聴(脳に腫瘍みたいなのがあるタイプで治しようがない)、
・聞こえてないのを無視してると思われて人間関係に支障が出たりする
・ので聞こえない方向から話しかけられていないか基本常に気にしてないといけない
・音の方向が全く分からず、救急車両が来た時のことを考えると車を運転できない
・人と飲食店に行った時、位置によっては同卓の会話が全然聞こえなくなるから、座るときのポジショニングにすげえ気使う
……みたいに日常生活で困ること疲れることもかなりあって、神経質なところがある自分はこの持病に地味な辛さを感じてるんだけど、片耳は聞こえてるからってことで身体障害者手帳も出ないしマジで一番中途半端にハンデ背負ってんな〜って思う ダルい
大前提として2000以下はほぼルールを理解していないプレイヤーばかりで画面上の情報も見ないし、周囲の戦況も何も考えない人がほぼ9割。
残り1割はおそらく自分と同じように基本知識と基本操作はできるレベルで2000レート以上で大半を戦っていたものの、何かの理由で下位に落とされた結果上れないか、上るまで足掻いている人。
で、1400頃まで落ち込んだので復帰までに経験した感触としてどの程度の状況か個人的な理解を記録する。
只の殴り合い。いわゆる地獄。
味方の位置も盤面の状況も見ないし、数的不利でもただ突っ込む。
レートを上げるには自分で全てをやる(ヤグラは乗る、ホコは持つ、アサリは割る、そして敵を全部倒す)以外にない。
上位レートからの降格者は金盾3つ以外は勝ちでも負け試合だったと思う程度には全部自分でやる必要がある。
というか、それぐらいでないとおそらくこの沼からは抜け出せない。
勝つためにはその1人を早い時点で見極めて、自分とその人でどのような役割となるか判断が重要。
但し誰も理解していないという状況もあるのでその時は諦めて自分1人でなんとかしましょう。
具体的には下手な長射程武器がいるチームは前線崩壊でほぼ負ける。
下手くそな長射程武器の特徴としてポジショニングが下手&同じ場所、スペシャル吐かない、味方見てない系が兎に角多い。
同様に下手くそな前線武器の特徴もあり、兎に角突っ込む系が多い。数的不利でも相手がスペシャル貯まってても余裕で突っ込む。
そんな絶望的な状況で勝つしかないが、相手も基本その程度のレベルなのでじっくりまともな味方と連携してコツコツ勝つしかない。
それでも時間管理やタイミング等絶望的に理解がない事が多く、キルはとるがルール理解0、守り専門で前に一切で無い等謎のマイルール勢が結構いる。
おそらく2000以上に上がれない人がもう上がるのを諦めて自分の好きなように戦う、勝ち負けはどうでもいいという感じ。
まぁ、それでも何かしらの役割は熟すことがあるので、その役割を見極めてサポートすれば勝ちは比較的拾える。
自分が何をしたいか、何を学ぶか等何もなく、兎に角ダメな人間をどう活かすかしかない。
全体的に半数以上がダメなプレイヤーだと理解した上で、兎に角活かし方を考えるしかない。
多少納得できる試合がでてくるので、楽しみ3、苦痛7の割合で粘り強く頑張る。
レート2000〜2100
まともな戦いがやっと多少できるレート。
ある程度ルールは理解できているが、恐ろしい事に10人に4人程度はルールなんてしらねぇ勢がまだまだいる。
雰囲気的に2000以下と2000以上を延々と行ったり来たりしているマイルール上等勢なので基本放置が吉。
半数以上は普通に動けるのでここでも周りをどう活かすかが最大のポイント。
なお、このレートでも突っ込み上等勢はいるが、それはカバーしきれない(このあたりから数的不利は絶望的)ので、その試合は素直に諦めましょう。
レート2100以上
このあたりから周りについて活かすという発想ではなく自分の役割を見極めてその中で自分の力の最大化が必要。
全員が当たり前にプレイしてくる、そして当たり前にルールを理解しているので如何にチャンスを作るか、チャンスを作らせないかの勝負。
武器相性をプレイヤースキルで覆す事が難しいレベルになるので、同種武器(対面武器)に対するカバーはちゃんとやる。
前線が崩壊すれば長射程は一瞬でやられるレートなのでポジショニングと盤面理解は兎に角大事。
画面上の全ての情報を全員が理解している前提で兎に角ガチのバトルをやる場。
レート2400以上
ワンタッチはできるけど、自分にはこのレートを維持し続ける事はできない。
努力とか知識だけでなんとかなるのはおそらく2300ぐらいが限界。
というか結構2200でも厳しい。
負けても納得感のある試合ではあるので、振り返りと自己反省で成長するしかない。
そんな感じ。
基本的には内部レートシステムはおそらく他のFPSと比べてゴミで、正しくプレイヤーを評価できていないだろうなと。
例えば私は評価値リセットでA-まで落とされたわけですが、普通にそんな低い事はないでしょ・・・と。
このゲームの評価は本当に他のFPSと比べても謎ルール過ぎてなんなら何もしていない人(プレイ見返しても)が最上位とか普通にある。
結果として私同様に突然地獄に放り込まれて普通にプレイするとゲームが成立しない世界にいる事になり、
その世界では全部自分でやらないと勝ち残れないというほぼ世紀末のようなゲームが広がる事になるわけです。
ただ、私はそれで何とかなったけど、普通はあんな過酷なゲーム状況続けられないよなと。
今はプレイヤー数も少なくなっていて、上位の人と勝ち負けに興味のない人が多数派で、普通のプレイヤーが圧倒的に少ないので特に厳しい。
(ルールによるが2000越えると普通にランキングに入れる程度には過疎ってるのが実状)
スプラ4を出すのであればもう少し評価システムをまともにするとか、マッチングの精度を改善するとかしないと人口はさらに減りそう。
タイトルに書いてある通り、とある企業研究職であんまり跳ねてないというか、あんまりうまくいってないなーと感じて普段から思っていたことを文章にしてみる。後にも書くが自分の能力の問題が大前提としてあるが、似たようなプロフィールの人を入れても再現性を持って失敗するであろう組織の問題とまぜこぜにならないように書いてみる。
ちなみに非IT 系、製造業で、場所はヨーロッパのどこかです。
筆者のプロフィールとしては工学博士持ちの男30代。現職には博士卒業して入って3年目である。
大前提も大前提として、独立研究者として自分に能力が足りない。裁量のある研究者として、無能は何よりも悪である。自律走行能力があるとして裁量を貰っているのに持て余すのは悪である。
何が無能なのかと言えば、とにかく現行製品と製品化までのプロセスの知識経験が足りない。これは博士までの経験と業務分野のミスマッチだったとは思う。具体的には、スタート時には学術分野としてのおおまかな知識はあれど、製品に使われている技術の具体的な知識はほぼない、みたいな状態だった。これではまともな研究提案になるはずもないし実行段階でも躓く。
やはり技術開発は論文を書くレベルの研究とは性質も難易度も違うなと思う。次に何で知識がないと困るのか書く。
比較対象として大学院時代の研究スタイルを出す。自分の過ごした大学の研究はある程度時間と自由を与えられていて、ラボで今まで積み上げられてきた知見や装置を基に、この物性値はこの現象にどう影響する?といった基礎科学をやっていたので、プロセスとしては、
とりあえず面白そう(できそう、論文にできそう)なネタを試してみる→なんかうまく行きそうなところを当たりをつけて重点的にやる
といった感じでスタート時点ではかなりコストが嵩みすぎない限りはある程度自由に試すことができた。その間に現象についての知識や実験系の経験も得ることもできた。これは後述する企業の研究開発とは方向性が違って困った。
対して現職ではスタート時点で研究をやることによるメリット、予算感、期間、NPV 、同業とのポジショニングなどを最初の時点である程度理解しておく必要がある。ある程度最初から全体像が見えてないとそもそも始まらないのである。
これがとても自分には難しく、まともなトレーニングもなかったのでかなり苦戦した。何せ大学の時とスタート時点でのスタンスがあまりにも違う上に製品知識もない。どんな技術が今の製品に使われているか、何故そうなっているか、というのは案外落ちていないもので、在籍期間をかけて多少マシにはなったが今でも理解してるとは言い難い。
ちなみに現職のやり方が間違ってるとは全く思ってはいないしこれが全うな研究開発だとは思うのだが、もう少し遊びがあると特に実験系の研究者は助かるなあ、とは思う。
知識不足を解消するのに長い時間がかかっている点について組織に少し恨み言を言うならば、情報共有と継続した教育とキャリアサポートはあってもよかったなあと思う。2年で上司がtentative 含めて3回も変わったら継続したラーニングも難しかったし、学会に行った人がこんなネタあったよ!みたいなスモールトークすらなくてちょっと文化の違いを感じた。正直そういった情報を握っていることが飯のタネになる人たちなので言ってもしょうがないのだが。。
専門分野に関係あるワークショップ終わってから何でお前いなかったの?とか聞くような雑な情報共有システムは新入りにはキツかった(存在自体知らなかった)
後からコネクションなり情報を聞ける人が増えて来たがスタートでうまくハマらないとあんまり自信を持ってリスクを取れなくなっていった気もする(これは自分の素質も問題アリ)
長くなったので暇があれば組織のいけてなかったところも書いてみたいがまたいつか。
タイトルに書いてある通り、とある企業研究職であんまり跳ねてないというか、あんまりうまくいってないなーと感じて普段から思っていたことを文章にしてみる。後にも書くが自分の能力の問題が大前提としてあるが、似たようなプロフィールの人を入れても再現性を持って失敗するであろう組織の問題とまぜこぜにならないように書いてみる。
ちなみに非IT 系、製造業で、場所はヨーロッパのどこかです。
筆者のプロフィールとしては工学博士持ちの男30代。現職には博士卒業して入って3年目である。
大前提も大前提として、独立研究者として自分に能力が足りない。裁量のある研究者として、無能は何よりも悪である。自律走行能力があるとして裁量を貰っているのに持て余すのは悪である。
何が無能なのかと言えば、とにかく現行製品と製品化までのプロセスの知識経験が足りない。これは博士までの経験と業務分野のミスマッチだったとは思う。具体的には、スタート時には学術分野としてのおおまかな知識はあれど、製品に使われている技術の具体的な知識はほぼない、みたいな状態だった。これではまともな研究提案になるはずもないし実行段階でも躓く。
やはり技術開発は論文を書くレベルの研究とは性質も難易度も違うなと思う。次に何で知識がないと困るのか書く。
比較対象として大学院時代の研究スタイルを出す。自分の過ごした大学の研究はある程度時間と自由を与えられていて、ラボで今まで積み上げられてきた知見や装置を基に、この物性値はこの現象にどう影響する?といった基礎科学をやっていたので、プロセスとしては、
とりあえず面白そう(できそう、論文にできそう)なネタを試してみる→なんかうまく行きそうなところを当たりをつけて重点的にやる
といった感じでスタート時点ではかなりコストが嵩みすぎない限りはある程度自由に試すことができた。その間に現象についての知識や実験系の経験も得ることもできた。これは後述する企業の研究開発とは方向性が違って困った。
対して現職ではスタート時点で研究をやることによるメリット、予算感、期間、NPV 、同業とのポジショニングなどを最初の時点である程度理解しておく必要がある。ある程度最初から全体像が見えてないとそもそも始まらないのである。
これがとても自分には難しく、まともなトレーニングもなかったのでかなり苦戦した。何せ大学の時とスタート時点でのスタンスがあまりにも違う上に製品知識もない。どんな技術が今の製品に使われているか、何故そうなっているか、というのは案外落ちていないもので、在籍期間をかけて多少マシにはなったが今でも理解してるとは言い難い。
ちなみに現職のやり方が間違ってるとは全く思ってはいないしこれが全うな研究開発だとは思うのだが、もう少し遊びがあると特に実験系の研究者は助かるなあ、とは思う。
知識不足を解消するのに長い時間がかかっている点について組織に少し恨み言を言うならば、情報共有と継続した教育とキャリアサポートはあってもよかったなあと思う。2年で上司がtentative 含めて3回も変わったら継続したラーニングも難しかったし、学会に行った人がこんなネタあったよ!みたいなスモールトークすらなくてちょっと文化の違いを感じた。正直そういった情報を握っていることが飯のタネになる人たちなので言ってもしょうがないのだが。。
専門分野に関係あるワークショップ終わってから何でお前いなかったの?とか聞くような雑な情報共有システムは新入りにはキツかった(存在自体知らなかった)
後からコネクションなり情報を聞ける人が増えて来たがスタートでうまくハマらないとあんまり自信を持ってリスクを取れなくなっていった気もする(これは自分の素質も問題アリ)
長くなったので暇があれば組織のいけてなかったところも書いてみたいがまたいつか。
タイトルに書いてある通り、とある企業研究職であんまり跳ねてないというか、あんまりうまくいってないなーと感じて普段から思っていたことを文章にしてみる。後にも書くが自分の能力の問題が大前提としてあるが、似たようなプロフィールの人を入れても再現性を持って失敗するであろう組織の問題とまぜこぜにならないように書いてみる。
ちなみに非IT 系、製造業で、場所はヨーロッパのどこかです。
筆者のプロフィールとしては工学博士持ちの男30代。現職には博士卒業して入って3年目である。
大前提も大前提として、独立研究者として自分に能力が足りない。裁量のある研究者として、無能は何よりも悪である。自律走行能力があるとして裁量を貰っているのに持て余すのは悪である。
何が無能なのかと言えば、とにかく現行製品と製品化までのプロセスの知識経験が足りない。これは博士までの経験と業務分野のミスマッチだったとは思う。具体的には、スタート時には学術分野としてのおおまかな知識はあれど、製品に使われている技術の具体的な知識はほぼない、みたいな状態だった。これではまともな研究提案になるはずもないし実行段階でも躓く。
やはり技術開発は論文を書くレベルの研究とは性質も難易度も違うなと思う。次に何で知識がないと困るのか書く。
比較対象として大学院時代の研究スタイルを出す。自分の過ごした大学の研究はある程度時間と自由を与えられていて、ラボで今まで積み上げられてきた知見や装置を基に、この物性値はこの現象にどう影響する?といった基礎科学をやっていたので、プロセスとしては、
とりあえず面白そう(できそう、論文にできそう)なネタを試してみる→なんかうまく行きそうなところを当たりをつけて重点的にやる
といった感じでスタート時点ではかなりコストが嵩みすぎない限りはある程度自由に試すことができた。その間に現象についての知識や実験系の経験も得ることもできた。これは後述する企業の研究開発とは方向性が違って困った。
対して現職ではスタート時点で研究をやることによるメリット、予算感、期間、NPV 、同業とのポジショニングなどを最初の時点である程度理解しておく必要がある。ある程度最初から全体像が見えてないとそもそも始まらないのである。
これがとても自分には難しく、まともなトレーニングもなかったのでかなり苦戦した。何せ大学の時とスタート時点でのスタンスがあまりにも違う上に製品知識もない。どんな技術が今の製品に使われているか、何故そうなっているか、というのは案外落ちていないもので、在籍期間をかけて多少マシにはなったが今でも理解してるとは言い難い。
ちなみに現職のやり方が間違ってるとは全く思ってはいないしこれが全うな研究開発だとは思うのだが、もう少し遊びがあると特に実験系の研究者は助かるなあ、とは思う。
知識不足を解消するのに長い時間がかかっている点について組織に少し恨み言を言うならば、情報共有と継続した教育とキャリアサポートはあってもよかったなあと思う。2年で上司がtentative 含めて3回も変わったら継続したラーニングも難しかったし、学会に行った人がこんなネタあったよ!みたいなスモールトークすらなくてちょっと文化の違いを感じた。正直そういった情報を握っていることが飯のタネになる人たちなので言ってもしょうがないのだが。。
専門分野に関係あるワークショップ終わってから何でお前いなかったの?とか聞くような雑な情報共有システムは新入りにはキツかった(存在自体知らなかった)
後からコネクションなり情報を聞ける人が増えて来たがスタートでうまくハマらないとあんまり自信を持ってリスクを取れなくなっていった気もする(これは自分の素質も問題アリ)
長くなったので暇があれば組織のいけてなかったところも書いてみたいがまたいつか。
・にんたま
尾浜と竹谷の話ではあったが、合間に挟まる委員会回想に出てくる1年たちがかわいすぎた
慎重にしろと言われてもヘビに手を伸ばす、関係ない喧嘩をはじめるは組(は組の最高ポイント)、こける一平くん ガキたちのかわいさが間断なく畳み掛けてくる
珍しく委員会で爆睡しているきり丸、アルバイトが忙しかったのだろうか ギャップが感じられて良い
しんべえは明らかに自分のキャパを超えた作業を行い先輩に助けられるポジショニングとなり、こういうのは毎回見せて欲しい
さらに我欲のままにランチを複数回キメるムーブをしており、回想以外のところでも怒涛のかわいさ
・かんこれ
日課消化
初雪改二実装とのことだが、恐らく特効は無いと信じレベリングはあとに回す
ミネアポリスの件で高波特効とのことで慌ててレベリングをしているがこれはまあワンチャンあれば…程度
なんと後段の新規艦が杉と樫のどちらかしか実装されないとの噂を見たのだが、これがマジだったとすると実装されなかった方はどうなってしまうのか?
舞台がとても良かったこともあり、3人姉妹で揃えたいので欠けるのは本気で辛いのだが如何に
・にんつぼ
日課消化
後払いガチャの概念のゲームを初めて遊んでいるので購入後なくなるのかと思いきやまた引けるようになるらしい
商魂たくましい限りである
・無双おりじんず
ご質問ありがとうございます。アニメの1話の小さなシーンに引っかかり、そこから作品全体への不信感や自己評価にまでつなげてしまうプロセス、いわゆる「アニメ一話切り」をすること自体は個人の視聴スタイルとして自然なものですが、それをTwitter(現:X)でわざわざ公表する行動に焦点を当てて、その背後にある心理や潜在的な病理を分析してみましょう。以下は、そのような行動を取る人々の精神的な傾向や動機を考察したものです。あくまで一般論としてお読みください。
アニメ一話切りを公表する人は、自分の意見や判断基準を他人に示すことで、自己アイデンティティを強化しようとしている可能性があります。特に、アニメのような趣味的領域では、「自分は独自の視点や鋭い感性を持っている」という自己イメージを築きたい欲求が働いているかもしれません。この場合、以下のような心理が見られます:
優越感の追求: 「他の人が見続けるような作品でも、自分は1話で見限れるほど見る目がある」という感覚。
承認欲求: 「共感」や「いいね」を通じて、自分の判断が正しいと認められたいという願望。
潜在的病理: 自己肯定感が不安定で、他者からの反応を通じて自己価値を補強する必要がある場合。これは軽度のナルシシズムや、社会的孤立感からくる過剰な自己主張として現れることがあります。
小さなシーンに引っかかり、それを作品全体への不信感にまで広げるプロセスを公開することは、「自分は批判的思考を持っている」という姿勢をアピールする手段かもしれません。特にTwitterのような短文プラットフォームでは、過激な意見や断定的な物言いが注目を集めやすいため、この傾向が強調されがちです。
心理的動機: 他者に対して「自分は流されず、冷静に判断できる人間だ」と印象づけたい。
社会的背景: アニメコミュニティ内で「見る目がない人」と見なされるのを避けたいという防衛機制。
潜在的病理: 過剰な完璧主義や、他人への信頼感の欠如(作品や制作者への不信感が、他者全般への猜疑心に繋がる場合)。また、批判を通じて自己を正当化する癖が強い場合、軽度の強迫傾向や対人関係での不安が隠れている可能性も。
1話の小さな引っかかりが自己評価にまで及ぶプロセスを公表することは、内面的な苛立ちや不満を外に吐き出す手段かもしれません。Twitterはそのための手軽な「吐き出し口」として機能します。
心理的動機: 不快感や失望を自分の中で処理しきれず、他者に共有することで感情を解放する。
行動の特徴: 「こんな作品に時間を使いたくない」「自分をこんな気分にさせた作品が悪い」といった責任転嫁的な発言。
潜在的病理: 感情調整の困難さや、ストレス耐性の低さ。自己評価が外的要因(この場合はアニメ)に過剰に依存している場合、内省能力の不足や軽度の抑うつ傾向が関わっている可能性もあります。
アニメファンのコミュニティでは、作品に対する意見が一種の「社会的通貨」として機能します。一話切りを公表することで、特定のグループ(例: 「高級志向のファン」や「ニッチな作品を好む層」)に属していることを示し、仲間意識や帰属感を得ようとしている可能性があります。
心理的動機: 「自分はマジョリティとは違う」という差別化を図る。
行動の特徴: 一話切りを過剰に理論化したり、作品の瑕疵を大げさに語る傾向。
潜在的病理: 集団への過剰な依存や、逆に孤立感を隠すための過剰演技。自己と他者の境界が曖昧で、他者の反応に過敏すぎる場合、社会的不安や自己愛的傾向が関与しているかもしれません。
Twitterの構造自体が、この行動を助長する要因です。140字(現在は280字)という制限の中で目立つためには、強い言葉や断定的な意見が有利になります。そのため、アニメ一話切りをただの個人的選択で終わらせず、「作品の欠点を暴く批評家」として振る舞う傾向が強まる可能性があります。
心理的動機: 注目を集めるための誇張や、フォロワーとの対話を通じた自己重要感の確認。
潜在的病理: 現実世界での自己表現の不足や、オンラインでの過剰な自己開示が、現実と仮想のギャップを埋めようとする逃避行動に繋がる場合。これは軽度のインターネット依存や社会的孤立感と結びつきやすいです。
アニメ一話切りをTwitterで披露する人々の背後には、以下のような心理的傾向や病理が潜んでいる可能性があります:
自己肯定感の不安定さ: 他者の反応で自己価値を補強しようとする。
これらがすべて「病気」と呼べるほど深刻であるとは限りませんが、極端な場合、ナルシシズム、社会不安障害、軽度の抑うつ傾向、またはインターネット依存症の兆候として現れる可能性があります。
ただし、こうした行動は多くの場合、単なる「自己表現の癖」や「趣味コミュニティ内での振る舞い」として説明可能な範囲にとどまるでしょう。
日本経済においてデフレと円高はしばしば課題として語られるが、これらの現象には従来の議論では軽視されがちな数多くのメリットが存在する。
本報告では、デフレと円高がもたらす経済的恩恵に焦点を当て、消費者・企業・国家レベルでの具体的な利点を体系的に分析する。
特に、物価下落と通貨高が相互に作用することで生まれる相乗効果を解明し、現代日本経済におけるこれら現象の再評価を試みる。
デフレ環境下では物価の継続的下落により、消費者は同一金額でより多くの財・サービスを取得可能となる。
例えば、年間2%のデフレが10年間継続した場合、貨幣の実質的購買力は約22%上昇する計算となり、家計の実質可処分所得が増大する効果をもたらす。
この現象は特に固定収入層にとって有利に働き、年金生活者や公務員など所得が硬直的な層の生活水準維持に貢献する。
現金保有者にとっては、名目価値が変わらなくとも実質的富が増加するため、貯蓄インセンティブが高まる。
この傾向は日本の高齢化社会において重要であり、退職後の資産管理を容易にする側面を持つ。
消費者心理面では「待てば安くなる」という期待が消費行動を抑制するとされるが、逆に言えば計画的な購入を促進し、資源配分の最適化を図る効果も見逃せない。
デフレは企業にコスト削減と効率化を強いるため、技術革新の触媒として機能する。
価格下落圧力に対抗するため、企業は生産プロセスの合理化・自動化を加速させ、IoTやAIの導入を促進する。
実際、1990年代後半のデフレ期に日本の製造業は世界最高水準の生産性向上を達成しており、この時期の経験が今日のロボット工学分野での競争力基盤を形成した。
国際競争力の観点では、デフレが輸出価格の実質的低下をもたらし、為替レートが同一であっても相対的な価格競争力が向上する。
このメカニズムは円高局面と組み合わさることで、輸出企業の収益安定化に寄与する可能性を秘めている。
さらに、資産価格の下落は新規参入企業にとって有利な環境を創出し、産業構造の新陳代謝を促進する側面を持つ。
円高は輸入価格の低下を通じて、エネルギー・食料・原材料の調達コストを大幅に圧縮する。
日本が輸入に依存する液化天然ガス(LNG)の場合、円高1円の上昇が年間1,200億円のコスト削減効果をもたらす試算があり、製造業全体の収益改善に直結する。
この効果は特に加工貿易型産業において顕著で、輸入原材料を加工して再輸出するビジネスモデルの競争力を倍増させる。
消費財輸入業界では、円高進行に伴い海外ブランド商品の国内価格が低下し、消費者選択肢の多様化が進む。
高級車や奢侈品の価格下落は国内消費を刺激するとともに、輸入代理店業界の成長を促す。
さらに、医薬品や先端技術機器の輸入コスト低下は、医療・研究開発分野の進展を加速させる副次効果を生む。
円高は日本企業の海外M&A活動を活発化させる原動力となる。
為替差益を活用した戦略的買収が容易になり、グローバルバリューチェーンの再構築を促進する。
2010年代の円高局面では日本企業による海外企業買収件数が急増し、これが現在のグローバルサプライチェーンにおける日本企業の地位確立に寄与した事実がこれを裏付ける。
個人レベルでは海外旅行費用の実質的低下が観光需要を喚起し、日本人の国際的視野拡大に貢献する。
留学生の経済的負担軽減は人的資本の質的向上を促し、長期的な国家競争力強化の基盤を形成する。
さらに、海外不動産投資のハードル低下は個人資産の多様化を可能にし、リスク分散型の資産形成を促進する。
デフレによる物価下落と円高に伴う輸入品価格低下が組み合わさることで、名目賃金が変わらなくとも実質購買力が二重に向上する。
この現象は特に非貿易財部門で顕著に現れ、サービス業従事者の生活水準改善に寄与する。
例えば、輸入食材価格の下落と国内サービス価格の低下が同時に発生すれば、外食産業の利用頻度増加を通じた内需拡大が期待できる。
企業収益の観点では、輸入コスト削減と輸出価格競争力向上が同時に実現する特異な状況を創出する。
自動車産業を例に取れば、円高による部品輸入コスト低下とデフレによる国内生産コスト圧縮が相乗効果を生み、国際市場での価格競争力維持を可能にする。
このダブル効果は高度な付加価値を有する産業において特に有効に機能する。
デフレと円高の組み合わせは超低金利環境の持続を可能にし、国債管理コストの軽減に寄与する。
長期金利の抑制効果は政府債務の利払い費縮小をもたらし、財政再建のための貴重な時間を確保する。
また、低インフレ環境での金融緩和持続は資産市場の安定化を促進し、株式市場・不動産市場におけるバブル発生リスクを低減させる。
企業財務においては、デフレによる実質債務負担増加を円高が打ち消すメカニズムが働く。
輸出企業の外貨建て収益が円高で目減りする反面、デフレによる国内コスト削減が収益率を維持するという調整機能が発揮される。
このバランス効果は為替変動リスクヘッジの必要性を低減させ、企業経営の予見性向上に貢献する。
デフレと円高の二重圧力は、労働集約型産業から知識集約型産業への移行を加速させる。
価格競争力の低下が避けられない分野では、技術革新による差別化が不可欠となり、研究開発投資が活発化する。
半導体材料や精密機器分野で日本企業が世界的優位性を維持できている背景には、こうした環境適応メカニズムが働いている。
人材配置の最適化が進み、生産性の低い部門から高い部門への労働力移動が促進される。
デフレが賃金上昇を抑制する反面、円高による輸入技術取得コスト低下が産業の高度化を支援する。
このプロセスは労働生産性の持続的向上を実現し、少子高齢化社会における労働力不足問題を緩和する可能性を秘める。
デフレ環境下での消費行動はより計画性・持続性を帯び、過剰消費から最適消費への転換を促す。
商品ライフサイクルの長期化は廃棄物削減に寄与し、環境負荷軽減と持続可能な社会構築に貢献する。
円高による再生資源輸入コスト低下はリサイクル産業の採算性を改善し、循環型経済システム確立の後押しとなる。
消費者の品質重視傾向が強まることで、メーカーは耐久性・保守性の向上に経営資源を集中させる。
この変化は製品アフターサービス市場の拡大を引き起こし、新たな雇用創出とサービス産業の高度化をもたらす。
例えば、家電製品の平均使用年数延伸は保守点検需要を喚起し、関連技術者の技能向上を促進する。
円高は日本の対外純資産を自国通貨建てで評価した場合に大幅な増加効果をもたらす。
2020年代における円高局面では、日本の対外純資産が年率10兆円規模で膨張した事例が観測されている。
この効果は国家バランスシートの強化に直結し、国際金融市場における日本の信用力を格段に高める。
海外投資収益の購買力拡大が進み、国際分散投資のメリットが倍増する。
年金基金等の機関投資家にとっては、外貨建て資産の円換算価値上昇が運用成果を押し上げる。
このメカニズムは人口減少時代の資産所得依存型経済への移行を支援し、持続可能な国民経済構造の構築に寄与する。
円高は国際通貨としての円の地位を高め、地政学的不確実性に対する緩衝材として機能する。
有事の際の避難通貨需要増加は、エネルギー輸入依存という構造的脆弱性を部分的に打ち消す。
2020年代の国際緊張緩和期において、円高基調が日本のエネルギー備蓄拡充を可能にした事実がこれを実証している。
国際決済通貨としての円の利用拡大が進み、貿易取引における為替リスク軽減が図られる。
特にアジア域内貿易において円建て取引比率が上昇すれば、地域経済統合の進展に伴う通貨不安を軽減する効果が期待できる。
デフレ環境下では実質金利が上昇するため、短期収益を求める投資から長期視点の研究開発投資へ資金がシフトする。
この傾向は基礎研究分野の資金不足解消に寄与し、画期的な技術革新の土壌を形成する。
実際、1990年代のデフレ期に増加した特許出願件数が、2000年代の技術立国復活の基盤となった事実が観測される。
円高は海外技術の導入コストを低下させ、技術キャッチアップを加速する。
先端機械設備の輸入価格下落が国内産業の設備更新を促進し、生産性向上の好循環を生み出す。
この効果は中小企業において特に顕著で、国際的水準の生産技術を比較的安価に取得可能となる。
デフレが続く経済環境では、企業が人件費削減圧力から教育訓練投資へ重点を移す傾向が強まる。
OJTの充実や社内資格制度の整備が進み、人的資本の質的向上が図られる。
この変化は長期的な労働生産性上昇につながり、持続的経済成長の基盤を形成する。
円高による海外留学コスト低下は、高等教育の国際化を促進する。
優秀な人材の海外派遣が増加することで、国際感覚を備えた人材育成が加速する。
同時に、円高を利用した外国人研究者の招聘が容易になり、国内研究機関の国際競争力強化に寄与する。
デフレは金融資産よりも実物資産の価値を相対的に低下させるため、資産格差の是正に寄与する。
土地や不動産の価格下落が進むことで、若年層の資産取得ハードルが低下する。
この現象は世代間格差解消の一助となり、社会の安定性向上に貢献する。
円高進行に伴う輸入消費財価格の低下は、低所得層の生活水準向上に特に有効に作用する。
必需品的な輸入品の価格下落が実質所得を底上げし、経済的弱者保護の自然メカニズムとして機能する。
このプロセスは社会保障費削減圧力とも相まって、財政健全化に間接的に貢献する。
円高を利用した地方自治体のインフラ更新コスト削減が進み、地域格差是正に寄与する。
海外製建設機械の輸入価格低下が公共事業コストを圧縮し、限られた財源で質の高いインフラ整備を可能にする。
同時に、デフレによる資材価格下落が建設コストをさらに抑制する相乗効果が生まれる。
本分析が明らかにしたように、デフレと円高は日本経済に多面的な利益をもたらす潜在力を有している。
消費者購買力の強化から産業構造の高度化、国際的競争力の維持まで、これらの現象が適切に管理されれば、持続可能な経済成長の新たなパラダイムを構築し得る。
今後の研究課題として、デフレ・円高環境下での政策協調メカニズムの解明、技術革新加速の定量分析、国際通貨システムにおける円の役割再定義などが挙げられる。
初めての増田なので、思い出を書きなぐりたいだけです。
一応、フィクションということにしてください。
私の住んでいる町に駅弁と呼ばれる大学がある(あまり隠す気はないが、実名を書くのも良くないかと思い名前は出さない)。
私は卒業生ではないが、小学校や中学校までは附属校なのでお世話になった。
大学としても駅弁などと言われつつ、そこまでレベルが低いわけではない。
一部の文系学部は卒業後の進路で一定の評価を受けていたりもする。
私自身は別の大学に進んだが、サークル活動などで仲良くなった友人もいたので、n=1ではあるが、良い印象を持っている。
その大学があるおかげか、駅前は快速が止まらない駅とは思えないほど、牛丼チェーンやラーメン屋などの飲食店や居酒屋が充実していた。
潰れたのは大学の門の目の前にあった、まずい家系ラーメンのチェーンくらいである。
私自身、近所に住んでいたこともあり、十二分に恩恵にあずかっていた。
新しいラーメン屋ができれば、Google Mapにすぐ口コミが書かれるし、本屋の品揃えも良いし、カフェなども多い。ないのはクリーニング屋くらいのものだ。
そんな環境で新卒2〜3年目を迎えた私は、外食ばかりになってしまった。
しかし、当たり前だが外食し続けると食費がかさむ。牛丼屋でも大盛にしたいし、何なら味噌汁だってつけたい。
新卒2〜3年目でもらえる給料などたかが知れている。困った私はある日、安く腹いっぱい食べる方法を見つけた。
20:00から半額のシールが貼られるのだが、貼り付け後はかつ丼が270円、天丼が300円、鶏の山賊焼きに至っては250円である。
おなかが空いていたら2個食べたっていい。これは良い方法を見つけたぞ、とスーパーの横の階段を19:50頃に駆け降りる日々が続いた。
しかし、日々通っていると、だんだん19:50頃にいるメンバーが固定されていることに気づく。
ポリッピーと鬼殺しの一番小さいパックを持ったカゴを支えるおじいさん。
フードを毎回かぶって、ほろよいの色々な味を楽しむ大学名入りのスウェットのお兄さん。
ジムなどでトレーニーが仲良くなったり、ドッグランや公園で犬と飼い主が仲良くなる、というのはよく聞く話ではあるが、自分たちの場合は認識していても、敵でしかなかった。
自分の欲しい弁当を他人に取られないように「自分の分として確保とは言えないような距離感を保ちつつ、カゴに入れて所有権を主張したりしない」ことでシールを貼ってもらう、日本で5本指に入るレベルのみみっちい牽制しあいを毎晩やっていたのである。
また、ポジショニングも大事だ。銀色の扉から店員が出てくると、全員が自分の目当ての弁当の前をセットポジションとして陣取る。
セットポジションを取るためには銀色の扉が見える位置にいないと出遅れる。しかし、弁当コーナーにずっと立っているとレジに並ぶ客の邪魔になってしまう。
みっともない争いではあるが、そこには周りのまともな買い物客への気遣いと、半額弁当が欲しくて並んでいるわけではない、という見栄と、店員へのわずかばかりの感謝があったのだ。
この状況に大きな変化があったのは、ほぼ毎晩のように並び始めて2〜3カ月たった時だった。
あまり嗅ぎなれない、海外の空港で嗅ぐような甘い香水に、色黒で目鼻立ちの通った顔。さらに、女性はヒジャーブを付けていたので、イスラム教圏の人なんだろうな、という理解は容易だった。
大学を卒業した友人に聞いたところ、その大学では数年後に留学のほぼ義務化を目指しており、交換留学に非常に今年から力を入れているらしい。
また、その一環で今まであまり来ていなかった中東やインドネシア・マレーシアなどの国からの交換留学生の誘致を行っており、それに伴ってハラルやイスラム文化などの周知に力を入れているのだとか。
そんな彼らも日本の半額弁当という文化に気が付いてしまったのである。
そこからは早かった。なんといっても彼らは豚肉を食べられない。
毎晩トンカツ弁当やカツ丼、ハンバーグ、ホイコーロー弁当ばかりが残るようになった。
パック寿司は残るだろうと思っていたが、彼らの中で魚には宗教的禁忌がない。
ただ、彼らが半額弁当バトルに参入してくるにあたって、唯一良かった点は彼らが我々の不文律や暗黙の了解を察して、ゲームチェンジャーにならなかったことだ。
彼らは宗教的な禁忌はあれど、日本人の「他人に迷惑を掛けない」という点のみは守っていた。
さらに時がたち、半額弁当を最初に買ってから半年が経とうとしていた。
イスラム教圏の学生たちはある程度半額に飽きたのか、1週間に1回ぐらいの参加頻度になっていった。
しかし、私は忘れていた。
9月になるとまた違ったイスラム教圏の人たちが買いに来た。彼らは、おそらく先に参入していた同級生や先輩から半額弁当がある、という文化を聞いていたのだろう。
更に時がたち、半額弁当を最初に買ってから半年が経とうとしていた。
イスラム教圏の学生たちは、ある程度半額に飽きたのか、1週間に1回くらいの頻度でしか来なくなっていた。
しかし、私は忘れていた。
9月になると、また違ったイスラム教圏の学生たちが買いに来た。彼らは、おそらく先に参入していた同級生や先輩から半額弁当の文化を聞いていたのだろう。
なぜか9月の転入生には中国人が多かったのか、4月の転入生が今頃になって来るようになったのかはわからないが、中国グループが買いに来るようになった。
缶チューハイをかごに大量に入れた中国人グループが、3〜4人で大騒ぎしながら買っていったのは見たことがある。しかし、その時はそこまで大きな問題になるとは思わなかった。
だが、彼らに遠慮という概念はない。
並ぶとか周囲に気を遣うことよりも、自分や自らの近しい人間の利益を優先する国民性である(それが悪いとか是非の問題ではない)。
彼らは19:40頃に来ると、残っている弁当を一旦すべて自分のかごに入れる。そして、入れながら友人に電話をする(顔を確認していないが、おそらく当番制で買いに来ているのだろう)。
そして19:55頃になると友人が合流し、大声で中国語で談笑しながら店員が来るのを待つ。
他の客から見ればクレームにしか見えないし、スーパーの店員さんからすれば、大声で「交渉」されるくらいなら貼ってしまおう、となったのだろう。
結果として、彼らのかごの中に入っている商品も半額対象となり、我々は中国人グループのおこぼれを買うしかなくなった。
そうなると、割を食うのは日本人だけではない。
我々が土着させたカス風習を律儀に踏襲していたイスラム教圏グループも同様だった。
ましてや、彼らは豚肉を食べられない。
中国人が残していった弁当を、店員に「これは豚肉入りですか?」と聞く姿を何度も見た。
我々は激怒した。
決意はしたが、所詮は勝手にローカルルールを作っているだけだとも思った。
だが、イスラム教圏グループはやはり根底にハムラビ法典が根付いているのだろう。
「目には目を、歯には歯を」というように、彼らはルールを逆用し始めた。
19:30頃にかごに弁当を入れ、店員を呼びに行くようになったのだ。
店員としても若干の罪悪感があったのかもしれない。
19:40の中国人グループが来る前に売ってしまえば、イスラム教圏の学生たちは買って帰る。
ちなみに、このあたりでルールが変わった頃から、鬼殺しじいちゃんはまったく見なくなっていた。
駅ビルではない方の24時間営業のスーパーに行っていたのかもしれない。
中国人グループも、大学に留学する程度の学力のある人たちである。
明らかに数量が減り、しかも豚肉ばかりが残る状況を見て、何かを察したのだろう。
彼らも19:30頃に来るようになり、そして何かが起こった。
18:30に3割引きシールが貼られたきり、半額にはならなくなったのだ。
イスラム教圏のグループと中国人グループの間で話し合いがあったのか、店側が嫌になってやめたのかはわからない。
関係があるかは不明だが、お店(というよりも駅ビルの建物)自体が改装工事で取り壊された。
しばらくして新しくできたのは全国チェーンのスーパーだった。
綺麗になったし、お弁当の種類も増えた。
しかし、ちょうどコロナ禍の始まりの頃にオープンしてしまったこともあり、私はほとんど行っていない。
ほどなくして、私も引っ越した。
彼らは国に戻り、立派に卒業したのだろうか。