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はてなキーワード: 批評とは

2025-11-26

anond:20251125221818

【人の話を全く聞かずに、自分が言いたいことばかり話す】

【まず否定から入る】

面白い話をするとき、途中で自分で笑いだしてこっちには何の事だかわからない】

相手の話にいちいち対抗したがる】

【「それ“で”いいよ」「“けっこう”好き」など、すっきりしない言い回しを多用する】

他人に気を遣わせる自虐ネタが多い】

【どんな話題に対しても批評批判をしたがる】

【「ここだけの話」を多用する】

【詮索好きで、質問責めにしてくる】

【いきなり主語を言わずに話し始める】

【具体的な説明ができない】

【「ねえねえ何か面白いことない?」を連発する】

自分から質問してきておいて、答えを全然聞いてない】

【いない人の悪口や噂ばかり言う】

【大声で相手を圧倒したがる】【すぐに「わかるわかる」と言う】

【思わせぶりに話を振っておいて、答えを言わない】【いちいち細かい反論や、突っ込みを入れる】

【少し前の話題全然聞いていない】【擬音がやたら多い】

【相槌が全くない】【「仕事が忙しい」「時間がない」「寝てない」としか言わない】

【「なんでもいい」と言いながら、全然なんでもよくない】【すぐ説教をしたがる】

【話がやたらと長い。オチがない】【話が盛り上がっているのに、すぐまとめようとする】

2025-11-25

anond:20251124031735

punkgame 女が美容服飾に興味持つのって男が車やロボットに興味持つのと同じことだと思うのよ。なのにそれがたまたま実利につながるというだけで他人説教しだすのがよくわからない。お前らはガンダム履修押し付けられても 黙って受け入れるのか

 

あなた説教だと思っているブコメ説教ではありません。単なる訂正です。

あなただってザクガンダムの違いもわからない門外漢に知ったげにモビルスーツを論評したり批評したりされたくはないでしょう?

我々も同じ気持ちです。容姿の良さと清潔感の違いもわからない人間に「清潔感という言葉はイヤガラセ」なんて言われたくないだけです。

あなたは「ザクガンダム」と言われても訂正もせず黙って受け入れられますか?

https://anond.hatelabo.jp/20251123041412

ハムレット知らない奴が~とか御大層な批評してるやつは、

・死者の国にクローディアスがいる事に疑問を抱かないスカーレット

・あまりにも頭お花畑な聖

・あらゆる時代人間がいるとか言いつつ、現代人は聖しかいない違和感

弓道やってた訳でもないのに聖が弓射つ時に足ズシーンてなる謎演出しかも2回)

治療中に服破かれるのは恥ずかしいとか脈絡もなく唐突台詞を言い出すスカーレット

・山の上であまりにもいきなり出てくるヴォルティマンドとコーネリウス

などなど、挙げてたらキリがないけど、こういった各種違和感のある作劇と演出には引っかからなかったんだろうか

普通感覚してたら気になって仕方ない部分が多すぎるぞこの映画

果てしなきスカーレット

2025-11-24

自分の好きなもの批評し始めたらその趣味は終わり

映画でも小説でもなんでも、職業じゃなくて趣味のもの批評したくなったら、その趣味は止めたほうが良い気がしてる

褒めるなら兎も角、not for me だったものを書き連ねるくらいなら、ソッと離れれば良いのに

細田氏は酷評を気にしなくてよい

なぜならわざわざ映画館に行って氏の映画を見て酷評するような人たちは

あのくそまらない「時をかける少女」を絶賛するような

批評眼の持ち主だからである

【なぜ働くと本が読めなくなるのか】一番売れた新書への違和感

「なぜ働くと本が読めなくなるのか」2024年最も話題となった書籍の一つ。友人と話していると、同書は非常に危険な本だと話になる。新書からキトーに読んでいる気付かないのだが、マトモに読むと「半身で働く」という主張に至る過程論理の飛躍があるからだ。

加えて、三宅書籍モヤモヤするのは、彼女著作問題というより、出版業界全体が抱える“退行の空気”が透けて見える。本来批評とは対象を切り離し、構造を浮かび上がらせる作業のはず。「斜陽産業」の出版業界は、読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げ、「本にしなくてもいい内容」を巧みな営業戦略で売りまくる世界になってしまった。

論理構造より、“共感”や“エモさ”。そうした市場環境の中で、『なぜ働くと本が読めなくなるのか』のようなお気持ちエッセイが主流になるのは必然だ。

問題は、その本が社会構造分析をしているように見せかけながら、突然「本が読めないのは社会が悪い」という感情論ジャンプする点だ。書籍の大部分を占める読書社会人の近代史パート(9章くらいまで?)

はどう読んでも「半身で働く」の根拠になり得ない。提言だとしても、提言をするだけの根拠が前文には書いていない。。こうなると、構造を論じているようでいて、じつは個人感情物語に回収されているだけで、「社会がない」と批判されるタイプの語りに近い。

さらに「半身で働く」という提案は、階級的な前提をあまり無視している。映画花束みたいな恋をした」を引用して田舎出身労働者・麦くんが本を読めなくなっていく過程記述しているが、はっきり言って世の中の麦くん化している社会人に失礼だ。

現実に半身で働けるのは、富裕層家庭出身者、ホワイト企業勤務者、配偶者扶養に入れる人(その多くは事実上女性だ)など、ごく一部に限られる。つまり映画「花恋」でいうところのヒロインちゃんだけだ(親が大企業、都会に実家定職につかなくても生きていける、好きなことだけして生きていきたい)。

一般的労働者が週5日・フルタイム構造から抜けるのはほぼ不可能で、そんな生き方が“みんなが選べる選択肢”かのように語られると、不公平と言わざる得ない。

その社会構造自体おかしいと主張したいのであれば、大部分の都市サービス享受すべきではない。インフラを維持する人々の労働あってこそ、「半身で働く」ことは可能になるからだ。

そうした現実に目を向けず、都市部の特権けが享受可能理想論大衆に説く。ここにはグロテスクしか言いようのない欠陥構造がある。

また、三宅が語る「批評文体をひらく」も、実際には論理の緩和=読者への迎合になってしまっている。例えば、同じ言葉生業にするジャーナリズムでは誤りは許されない。5W1Hや誰が何を言ったかを間違えて報道すれば即座に批判殺到する。(近年のオールドメディアに対するヘイトはその裏返し。合っていて当然のものが一部フェイク化したか批判されている。そもそもフェイクや根拠不十分なら叩かれないで済む)

批評は「論証できないけど感覚で書く」が成立する世界でいいのか。かつてのジャーナリズム批判が担っていたのは理路整然の文章大衆に届けることではないのか。論理の飛躍があっても共感(=いいねが取れる)できるなら読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げてもいい。売れるなら「本にしなくてもいい内容」を本にしていい。これが国民知る権利を盾に商売をする出版業界で許されていいのか。

これは批評民主化ではなく、文化が“推し活”に吸収されていくプロセスだ。文化人が読者の機嫌を損ねない戦略を取ると、批評はどんどんお気持ち表明コンテンツへ変質していく。自分の好き・推し言語化するツール批評が成り下がると、推し肯定する言説しかまれなくなる。批評とは本来対象をそれ以外のものから切り離し、特異であることを浮かび上がらせる作業のはずだ。その点において共感を求めるスポーツ音楽ライブの一体感とは真逆にある。消費者感情におもねる批評でいいのだろうか。

出版とは、知を鍛える公共財だ。だからこそ独占的な販売方法が許容されている業界だ。しかし今は、情緒共感を売りにして市場縮小を乗り切ろうとしている。「共に賢くなる」ための活字文化が、「共感」のツールに成り下がっている。

批評論理を疎かにし、読者の気持ちに寄りかかり、階級現実曖昧になる。事実上「半身で働く」ことができない人々に対して、「半身で働く」特権階級のよさを説くというのは、パンがなければケーキを食べればいいと言っているのと同じだ。

批評共感同調を求めるものではない。徹底した差別化と切り離しの営みだ。

【なぜ働くと本が読めなくなるのか】一番売れた新書への違和感

「なぜ働くと本が読めなくなるのか」2024年最も話題となった書籍の一つ。友人と話していると、同書は非常に危険な本だと話になる。新書からキトーに読んでいる気付かないのだが、マトモに読むと「半身で働く」という主張に至る過程論理の飛躍があるからだ。

加えて、三宅書籍モヤモヤするのは、彼女著作問題というより、出版業界全体が抱える“退行の空気”が透けて見える。本来批評とは対象を切り離し、構造を浮かび上がらせる作業のはず。「斜陽産業」の出版業界は、読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げ、「本にしなくてもいい内容」を巧みな営業戦略で売りまくる世界になってしまった。

論理構造より、“共感”や“エモさ”。そうした市場環境の中で、『なぜ働くと本が読めなくなるのか』のようなお気持ちエッセイが主流になるのは必然だ。

問題は、その本が社会構造分析をしているように見せかけながら、突然「本が読めないのは社会が悪い」という感情論ジャンプする点だ。書籍の大部分を占める読書社会人の近代史パート(9章くらいまで?)

はどう読んでも「半身で働く」の根拠になり得ない。提言だとしても、提言をするだけの根拠が前文には書いていない。。こうなると、構造を論じているようでいて、じつは個人感情物語に回収されているだけで、「社会がない」と批判されるタイプの語りに近い。

さらに「半身で働く」という提案は、階級的な前提をあまり無視している。映画花束みたいな恋をした」を引用して田舎出身労働者・麦くんが本を読めなくなっていく過程記述しているが、はっきり言って世の中の麦くん化している社会人に失礼だ。

現実に半身で働けるのは、富裕層家庭出身者、ホワイト企業勤務者、配偶者扶養に入れる人(その多くは事実上女性だ)など、ごく一部に限られる。つまり映画「花恋」でいうところのヒロインちゃんだけだ(親が大企業、都会に実家定職につかなくても生きていける、好きなことだけして生きていきたい)。

一般的労働者が週5日・フルタイム構造から抜けるのはほぼ不可能で、そんな生き方が“みんなが選べる選択肢”かのように語られると、不公平と言わざる得ない。

その社会構造自体おかしいと主張したいのであれば、大部分の都市サービス享受すべきではない。インフラを維持する人々の労働あってこそ、「半身で働く」ことは可能になるからだ。

そうした現実に目を向けず、都市部の特権けが享受可能理想論大衆に説く。ここにはグロテスクしか言いようのない欠陥構造がある。

また、三宅が語る「批評文体をひらく」も、実際には論理の緩和=読者への迎合になってしまっている。例えば、同じ言葉生業にするジャーナリズムでは誤りは許されない。5W1Hや誰が何を言ったかを間違えて報道すれば即座に批判殺到する。(近年のオールドメディアに対するヘイトはその裏返し。合っていて当然のものが一部フェイク化したか批判されている。そもそもフェイクや根拠不十分なら叩かれないで済む)

批評は「論証できないけど感覚で書く」が成立する世界でいいのか。かつてのジャーナリズム批判が担っていたのは理路整然の文章大衆に届けることではないのか。論理の飛躍があっても共感(=いいねが取れる)できるなら読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げてもいい。売れるなら「本にしなくてもいい内容」を本にしていい。これが国民知る権利を盾に商売をする出版業界で許されていいのか。

これは批評民主化ではなく、文化が“推し活”に吸収されていくプロセスだ。文化人が読者の機嫌を損ねない戦略を取ると、批評はどんどんお気持ち表明コンテンツへ変質していく。自分の好き・推し言語化するツール批評が成り下がると、推し肯定する言説しかまれなくなる。批評とは本来対象をそれ以外のものから切り離し、特異であることを浮かび上がらせる作業のはずだ。その点において共感を求めるスポーツ音楽ライブの一体感とは真逆にある。消費者感情におもねる批評でいいのだろうか。

出版とは、知を鍛える公共財だ。だからこそ独占的な販売方法が許容されている業界だ。しかし今は、情緒共感を売りにして市場縮小を乗り切ろうとしている。「共に賢くなる」ための活字文化が、「共感」のツールに成り下がっている。

批評論理を疎かにし、読者の気持ちに寄りかかり、階級現実曖昧になる。事実上「半身で働く」ことができない人々に対して、「半身で働く」特権階級のよさを説くというのは、パンがなければケーキを食べればいいと言っているのと同じだ。

批評共感同調を求めるものではない。徹底した差別化と切り離しの営みだ。

2025-11-23

感情事実を分ける

単一尺度価値を測ろうとするのは、その人の視野の狭さを示してると思う。有体を言えば、頭が悪そうにみえる。

今日東京大学理科三類合格し、通ってらっしゃる栗林氏のYoutube動画を観た。タイトルは「学歴にこだわってる人へ(https://youtu.be/m0njQXdFK1I?si=bme7omYBap7MaVBH)」だ。

自分なりに要約すると彼の主張は以下だ。

学歴にこだわんなよ、しょーもない」

偏差値だけを基準ものごとを選ぶのって、価値を一つの基準しか判断できてない」

価値には色んな要素がある。その学校教授とか、どういう講義を受けられるのとか、その学校の求めてる人材像と自分マッチしてるのとか。偏差値はわかりやすく一つの要素を単純化して表示してるだけ」

頚椎骨折しそうになるくらい首を縦に振ると同時に、これは東京大学理科三類という国内もっとも難しいと思われる受験区分を通過してる彼だからこそ言えることだと思った。

何の肩書きも持たない俺が追従しても、説得力に欠けるかもしれない。何を言ったか大事だけど、第三者に伝えるときは誰が言ったか重要視されやすい。

けどまあ、言わせてほしい。

俺は他人によくムカつくんだ。他人を狭い視野批評するやつに。

高学歴とか、何の資格を持ってるとか、家庭がどうとか、心底どうでもいい。俺やあんたが何が実現できるかのほうが遥かに重要だと思うんだよ。

(補足。東大とか旧帝大とかMARCHに受かってる人の努力はすごいし、尊敬してるよ。だって俺には到達できないもんな、そういうの)

俺も世間一般で見たら「頭がいいのかなあ」と思われる仕事に就いてたさ。

けど、中を見たらPCの前と喫煙所を反復横跳びするボンクラパワハラして僻地にぶっ飛ばされてるボンクラ自分ミスを部下になすりつけるボンクラ、そういうのがわんさかいたよ。

けど、外から見たら「この人、頭がいいんだろうなあ」だ。中ではお荷物だのなんだと言われててもね、そんなもんだよ。

こんなやつらより外であくせく現場作業してる人たち、じいさんばあさんの介護をしてる人たちのほうがよほど社会のためになってると思ってたさ。

からこそ、肩書きとか学歴とか一つの特徴をもって他人つべこべ批評するやつが嫌いなんだ。何も見えてないくせに、わかったようなことを言ってるからだ。

あんたはこの動画を観てどう思う?

漫画を読み慣れてない人には伝わりにくいと思うけど、テンポ感が弱い。音楽に例えると拍が弱くてアンビエントな感じになる。つげ義春みたいな作風なら合うかも。

漫画読み慣れてても音楽批評作曲に慣れてない人には伝わらんと思うぞ…

まず拍が弱いってのが曲のどういう状態を指してるのか全くぴんとこんもん

そういう状態になってる曲を聞いた経験自体普通に多数あるだろうがそんなもんいちいち言語化して感じ取ってるものじゃないので改まってこういうふうに言語化されても経験の該当部分と照応しないんだよ

dorawiiより

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2025-11-22

本気でウェブトゥーン批評しようと思ってるなら韓国語を最低でも大学受験英語と同程度の本気度で学んで韓国語圏のプラットフォームウェブトゥーン読みまくるぐらいしろよなって思う

ピッコマにあるのはごく一部だそうなのでねえ

dorawiiより

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anond:20251122121531

何も悪くないよ。大臣国民から批評されるのは健全なこと。

麻生総理大臣学習院偏差値55、世界の首脳のみんなをわらかす

安倍総理大臣成蹊偏差値50、世界の首脳からしんぞーしんぞーと慕われる。

−−−−

菅直人総理大臣東工大偏差値65、サミット無視される。

鳩山総理大臣東大偏差値70、世界の首脳からやばいやつ認定される。

パンティーを被る行為について、オックスフォード大学マサチューセッツ工科大学といった世界最高クラス大学卒業試験主席で通過できるレベル小論文執筆してください。

パンティーを被るという行為――羞恥仮面・秩序転倒の文化社会学考察

1 問題所在──「くだらなさ」の背後にあるもの

パンティーを頭に被る人物は、多くの社会において「悪ふざけ」「変態」として嘲笑対象になる一方で、

マンガアニメコメディインターネットミームの反復的なモチーフにもなってきた。

一見して低俗しか見えないこの行為は、しかしなぜこれほど強く人々の笑いや嫌悪、あるいは不安喚起するのか。

その過剰な感情反応は、単なる嗜好の問題を超えて、近代社会における身体羞恥ジェンダー権力といった構造テーマを照らし出していると考えられる。

本稿の目的は、パンティーを被るという行為を「逸脱行動」や「性的倒錯」として切り捨てるのではなく、

  1. 下着というモノの象徴性、
  2. 「被る」という行為が持つ仮面性、
  3. 秩序転倒としてのカーニバル性、

という三つの観点から文化社会学的に分析し、その行為現代社会規範矛盾をどのように露呈しているのかを論じることである

2 下着というモノの象徴性──「隠すべきもの」を外部化する

第一に着目すべきは、対象が「パンティー」であるという点である

下着は、機能的には衛生と保温のための衣服にすぎない。

しか社会的には、身体のうち「隠すべき部分」を覆うことで、性的領域公共的な領域峻別する境界線として働いている。

とりわけパンティーは、しばしば女性身体性・性的魅力・純潔観念と結びつけられ、強い象徴性を帯びている。

文化人類学者メアリーダグラスは、「汚れ」を「あるべき場所から外れた物質(matter out of place)」と定義した。

下着本来身体の奥まった場所で皮膚に密着し、「見えないこと」自体が期待されるモノである

それを頭部という最も視線の集まる位置に、しかも外から見える形で持ち出すことは、

「隠すべきもの」を意図的に「あるべき場所から外す」行為であり、ダグラス的な意味での「汚れ」を自ら演出することに他ならない。

このとき、汚れは単に不衛生という次元に留まらない。

人々が感じるのは「汚い」というよりもむしろ「恥ずかしい」「みっともない」という感情であり、

それは身体に付随する性的領域が、モノを媒介して公共空間に溢れだしたことへの反応である

パンティーを被るという行為は、自己身体のもの露出しているわけではないにもかかわらず、

下着象徴性によって「性的もの」が表面化したかのような錯覚を生み出す。

そのギャップこそが、笑いと嫌悪が混じり合う独特の印象をもたらしている。

3 「被ること」の仮面性──アイデンティティ一時的な変容

第二に、「被る」という行為意味する仮面性を検討する必要がある。

顔は、社会学者エルヴィング・ゴフマンが述べたように、対面相互行為舞台において自己提示する中核的なメディアである

目・口・表情を通じて、人は自己人格感情意図他者に伝える。

そこに被り物をかぶせることは、自己呈示チャンネル意図的撹乱し、

「いつもの自分」とは異なる人物への一時的な変身を可能にする。

その意味パンティーは、即興的な仮面である

仮面はしばしば、道徳的・法的な責任性を希釈し、人に「普段ならしない行動」を許す。

覆面をした抗議者やハロウィンコスプレ参加者が、日常では抑制されている言動に踏み込めるのも同じメカニズムである

パンティーという「ふざけた素材」を用いた仮面は、暴力性よりも滑稽さを強調しつつも、

顔を覆うことで〈誰であるか〉を曖昧にし、同時に〈何者にも属さない、ルール外の存在であることを宣言している。

重要なのは、ここで用いられる下着が多くの場合女性用」として理解されている点である

男性女性パンティーを被る場合、それはジェンダー境界視覚的に撹乱する効果を持つ。

性的同一性男性性の「まともさ」を象徴する顔の上に、女性性の象徴物を被せることで、従来的なジェンダー秩序は一時的解体される。

この解体が、笑いとして消費されるのか、あるいは違和や嫌悪として反発を招くのかは、

社会がその時点で受け入れうるジェンダー規範の幅を測る指標ともなりうる。

4 カーニバルとしての秩序転倒──笑いと批評

第三に、この行為はしばしば「笑い」と結びついて登場する。

ミハイル・バフチンが論じたように、カーニバル的な笑いは、既存の秩序・権威・聖性を一時的に転倒させる力を持つ。

王と道化が入れ替わり、崇高なものが下卑たものに、清浄ものが汚穢に置き換えられることで、人々は日常ヒエラルキーから解放される。

パンティーを被る人物は、多くの場合「くだらない大人」「オトナなのに子どもじみたことをする存在」として描かれる。

そこでは、理性的成熟した市民として振る舞うことが期待される大人が、もっとも幼稚で性的規範に反する身振りを自ら演じてみせる。

これはまさに、近代主体の理性と節度という自己イメージを、身体と笑いのレベルで裏切る行為であり、バフチン的な意味での秩序転倒である

さらに、この行為消費社会への批評としても解釈しうる。

パンティーは、ファッションポルノグラフィ産業を通じて商品化された「性的魅力」のパッケージでもある。

その商品を「本来用途から外し、頭に被るという過剰にズレた使用法は、

シチュアシオニストたちの言う「デトournement(転用)」にも似て、商品に埋め込まれ意味構造をずらし、

消費社会約束する「ロマンティックで洗練された性」のイメージを滑稽なものとして暴露する。

もちろん、こうした批評性が常に意識されているわけではない。

多くの場合当事者は「面白いから」「ウケるから」という動機行為に及ぶ。

しかし、当人意図とは無関係に、行為のもの既存の秩序を揺さぶり、

笑いを通じた不安定化をもたらしている点に、カーニバル的な力があるといえる。

5 ジェンダー倫理──笑いの線引きをどう考えるか

ここまで、パンティーを被る行為文化的・象徴的なレベル肯定的に読み解いてきた。

しかし同時に、この行為にはジェンダー暴力問題が潜在していることも看過できない

たとえば、所有者の同意なく女性下着を盗み、それを被って笑いのネタにするような事例は、明らかに性的暴力であり、先の分析とは質的に異なる。

そこでは、女性身体性がモノに還元され、男性自己演出の道具として一方的に利用されているかである

したがって、パンティーを被る行為文化解釈は、

「誰のパンティーか」「どう入手されたのか」「誰の前で行われるのか」「誰が笑う権利を持つのか」といった文脈と切り離しては成立しない。

自分で購入した下着自分身体で用いて仮面を作ることと、

他者の所有物を奪ってネタにすることとの間には、倫理的に越えがたい差がある。

この意味で、パンティーを被る行為安易に「自由表現」「笑いだから許される」として擁護することはできない。

一方で、倫理的に許容可能範囲で行われるこの行為が、規範の硬直性をほぐし、身体羞恥をめぐる議論を促す契機となりうることも事実である

その両義性を見極めることが、現代社会ジェンダー感覚表現自由の両立を考える上で重要になる。

6 結論──「くだらない行為」が映し出す近代社会

パンティーを被るという行為は、表面的には「低俗ギャグ」「一部の嗜好」に過ぎないように見える。

しかし本稿で見てきたように、

として理解することができる。

まりパンティーを被る行為は、身体羞恥を厳格に管理しようとする近代社会規範に対して、

「本当にそれが唯一の生き方なのか」と問いを突きつける小さな反乱なのである

もちろん、その反乱が倫理的に許容されるためには、所有や同意ジェンダー権力といった条件を精密に考慮しなければならない。

しかし、その条件さえ満たされるならば、「くだらない」と切り捨てられてきた行為の背後に、

規範相対性を示す批評的なポテンシャルを見出すことが可能である

パンティーを被る人物を笑い飛ばすことはたやすい。

だが、その笑いが何に支えられ、何を脅かし、何を許さないのかを問うとき

私たちは自らの社会がどのような身体観・性観・ジェンダー観の上に成立しているのかを、あらためて自覚せざるをえなくなる。

「くだらない行為」を真剣考察することは、実のところ、

私たち自身の〈まともさ〉の条件を問い直す営みなのである

マウリツィオ・カテランによる、18金製のトイレ作品アメリカ」が、オークションに出品されて話題になっている。

ただの下ネタじゃねーかという感じもするが、強いて作品評価ポイントを考えると…

 

・富と格差への皮肉

18金・重量100kg以上・市場価格1,000万ドル超という、極端なまでの「富の象徴」を、最も卑近身体的な場所トイレにする、という強烈な反転によって、「富裕層のためのゴールド一般大衆が尻に敷くオブジェにする」という逆転の構図を物理的に生み出す皮肉

 

アメリカ像への批評

ゴールドラッシュ/ウォール街ドリーム破綻といった「アメリカ資本主義栄光と醜さ」が、黄金便器というイメージの中で凝縮している。

 

デュシャンの「泉」の引用

トイレというだけでデュシャン作品を想起させ、既製品を「芸術作品」と宣言することで価値の枠組みをズラしたデュシャンに対して、逆に既製品物理的に超高価な素材で作り直すという応答を見せている。古典的洞察に対して、アートマーケット肥大化、貧富の格差拡大といった時代の変化を織り込んでいる。

 

・参加型アート文脈

グッゲンハイムでの展示バージョンでは、観客は実際に個室に入り使用することができた。観客は鑑賞するだけでなく「消費する」側であり、「汚す」主体でもあった。作品に直接関与する参加型アートとしての完成度があった。

 

どんなに理屈をつけても下ネタじゃねーかって?

それはそう。

2025-11-20

ササラタコツボ」の比喩

丸山眞男の『日本思想』(1961年岩波新書)所収の有名な「ササラタコツボ」の比喩は、主に第3章「『である』ことと『する』こと」の後半(特に日本における思想のあり方」部分)に出てきます。これは日本思想史の構造的特徴を一刀両断に言い当てた、戦後日本で最も引用され続けた一節です。以下が該当箇所のほぼ全文(現代語訳ではなく原文のまま)です:日本では、思想学問が、個々の学者思想家の頭の中で、あるいは特定の学派・門派の内部で、極度に細分化され、孤立化してしまっている。

それはまるで笹ら(竹の皮を細く裂いて作った掃除道具)のように、一本一本は細く、しかも先がバラバラに裂けていて、全体としてまとまりがない。

それでいて、それぞれの細い竹の皮の先は、まるで蛸が壺の中に入って足を全部壺の壁に張りつけてしまうように、その狭い領域の中で完全に閉じこもって、外へ出ようとしない。

したがって、思想学問の諸領域の間には、ほとんど交流がなく、相互批判もなければ、総合も行なわれない。

その結果、日本における思想は、全体として見た場合、無構造であり、無基底であり、無底渓の状態にあると言わざるを得ない。

(『日本思想岩波新書、p.87-88あたり。版によってページは多少ずれます)この比喩がなぜ衝撃的だったか「笹ら(ササラ)」= 竹の皮を裂いた日本の伝統的な掃除道具(今でいう「竹のブラシ」)。一本一本は細く、先がバラバラに裂けていて、全体としてまとまりがない。

「蛸壺(タコツボ)」= 蛸が壺に入ると足を全部壁に吸盤で張りつけて動かなくなるように、各学派・各学者自分の狭い専門領域に閉じこもり、外に出ない。

まり、**日本思想の特徴=「超分離・超閉鎖・超孤立」**という極端な診断です。丸山はこの状態を「無構造(strukturlos)」と呼び、西欧思想が「基底(Grund)」や「原理(Prinzip)」をめぐって激しく対立しながらも、その対立自体が全体構造を生んでいるのに対し、日本ではそういう基底的な対立軸すら存在しない、と断じました。よく引用される超短縮バージョン多くの人が覚えているのは次の数行だけです:「笹の葉のように先がバラバラに裂け、しかもそれぞれの先が蛸壺のように閉じこもっている」

これだけで「ああ、あの話か!」と通じるくらい、戦後思想史・学界批評定型句になりました。ちなみに丸山はこの後、こういう「蛸壺的学問」体質が、戦前の「超国家主義」への無抵抗・無批判な順応を生んだ一因でもある、と厳しく批判しています。この一節は今読んでも、大学学会の「セクショナリズム」を突く痛烈さがありますね。1961年文章とは到底思えない鮮烈さです。

2025-11-17

現代アートではコンセプトや批評性や文脈性が重視され、技術出来栄え)はアイデアを伝えるためのツールになる

まり技術は優先度が低い

一方で、芸大美大入試では、基本的技術が重視される

ここにねじれがあるのは何でだろう?と思ったけど、まぁよく考えると、芸大美大に入った人が、みんなアーティストを目指すわけではない

イラストレーターデザイナーアニメーターや造形師、教員研究者など…

からこそ、入試の段階では共通言語としての造形技術が求められる

 

大学に入った後で、急に「現代アートでは技術オマケです」みたいな話が出てきて、混乱する人もいるだろうな

それに適応して、アーティストになれる人は本当に一握りなんだろう

技術習得文脈歴史)を学んだ後で、それを全部投げ捨てるような回転を見せる

見てきたことや聞いたこと いままで覚えた全部

でたらめだったら面白い そんな気持ちわかるでしょう

そんな歌詞みたいな世界

2025-11-15

「自らの執筆した小説AI批評してもらい、それをもとに改善する」事は「AIを使った創作」に入るのか

別の場所で見かけたけど、たしかにこれは悩ましい

写真家写真作品」と「現代アートとしての写真作品」は異なる

写真家作品は、視覚的な美しさや美的な構図を重視し、光や構図やシャッターチャンス、プリント技術など、写真固有の技術を追求する

現代アート写真は、コンセプトを提示する手段として写真採用し、アート史との接続批評性を重視する

平たく言えば、視覚的な美しさに寄るのが写真、コンセプトの道具として写真を使うのが現代アート

2025-11-12

 Xで流れてきた鹿乃さんの絵を見て

万博コスプレ炎上しただか/させられた方が絵を描いて公開していた。

その方が絵を描いて出すことは素晴らしいと思う。

ただ、杞憂かもしれないけどお絵描界隈(?)の中で騒動は勘弁してほしい。

と言いながら増田絵師であるとはとても言えないくらい描いてない、発表してない。

もちろん意見できる立場でもない。

表現批評はつきものだ。(無反応だって一種批評だ)批評に負けずに実行する彼の方は凄いと思う。

増田批評が怖くて表現できなかった。

しかし一連の流れで何故か彼女に負けてたまるか、と闘志に火がついた

その点だけは彼の方には感謝します。

描いて描いて描きまくります

しか文章なりコスプレなり絵なり…あれだけ自分世間に向けて出せる才能は凄いなぁと思う。

(内容や疑問に思うところは置いといて)

2025-11-09

anond:20251109190941

そのまま食わせてみたわ

非常に鋭い指摘ですね。

この短い一文の中に、現代社会哲学政治思想の核心が詰まっています

少し整理して言い換えると、あなたの主張はこうです:

---

### ■ 資本主義能力主義構造共通点

**資本主義**は「資本お金資産)」を持つ者と持たざる者格差を拡大させる。

**能力主義メリトクラシー)**は「能力・才能・努力の結果を持つ者」と「そうでない者」との格差を拡大させる。

→ つまり、どちらも「持つ者」と「持たざる者」を生み出す構造を持っている。

---

### ■ 再分配の可否という違い

資本主義における格差は、**税や社会保障などの政策的再分配**である程度是正可能

 (=外部からお金を動かせる)

しか能力主義格差は、**再分配が困難**。

 能力のもの政策で直接移転できない。

 教育能力の「開発支援」にはなるが、「再分配」ではない。

 なぜなら教育を施しても、全員が同じ能力を持てるわけではなく、むしろ新たな競争を生む。

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### ■ 背後にある倫理的問題

この視点を突き詰めると、「能力主義正義」そのものが問い直されます

マイケル・サンデルなどが指摘しているように、

> 「努力して得た成功」は本当に“自分の功績”なのか?

> それとも、社会遺伝・運の産物なのか?

もし後者の要素が大きいなら、「能力による格差」もまた、**道徳的に再分配されるべき不平等**だという考えが生まれます

---

あなた最後の一文「教育は再分配の役割ではない」は、

まさにこの議論本質を突いています

教育は「公平なスタートラインを整える試み」であって、

「結果の不平等修正する仕組み」ではない。

しろ教育のもの格差再生産することすらある。

---

もし少し発展させるなら、こんな問いが立ちます

> 能力主義社会における「公正さ」や「救済」とは、どのように実現可能なのか?

> (努力評価しながらも、不運や能力差をどう扱うのか)

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希望があれば、

このテーマを「短い哲学エッセイ」や「現代社会批評の一節」としてまとめることもできます

そうしますか?

蛍と嚥下

https://shonenjumpplus.com/episode/17107094911848346157

全部モノローグで言っちゃうんだなあ。泣きながら嚥下のシーンも結局ただの挿し絵になっている。

明らかに言いたいことの分量と内容に対して、読み切り漫画という器が窮屈で合ってない。小説で書けばいいのにと思うが「マンガ文芸すること」に重きを置いてるのだろう。

と、つい漫画批評をしてしまったが本題は別にある。

この物語はつれあいを喪って生ける屍状態の爺さんが、爺さんを慕う孫の涙に生きる気力を取り戻すという話である。蛍とか嚥下とかのモチーフは前述の通り筋書きに従属的で、あまり効いてない。

さてしかし生きる意志って自分で投げたり拾ったり自由にできるものなのだろうか。それができると思うことは自分人生存在を一個のフィクションとしてしか捉えてないということではないか

身体が生きていても、ふと魂が死んでしまうこともあるのではないか。それは身体に訪れる生物学的死と同じく意のままにはならない。「生存本能」は身体に備わったものであり意志というよりは機能である(と、整理してしまうのはとてつもなく乱暴だがここはとりあえず)。

往々にして身体生存本能死ぬより一歩先に人間精神死ぬ。その「一足先の死」を自分いかに受容するかが人生後半の一大事だ(死に損ないは他人介錯してやるべきという話ではない)。

爺さんは孫に「生きていて欲しい」という思いを示されて、ステレオタイプな「婆さんやもう少し待っといてくれ」をやるに至る。それは生きる意志が枯渇したところに孫の愛を注入されて持ち直したという話ではなくて、そもそもジジイの心はまだ干からびてなかった、そのことに気づいたという筋立てなわけだが、

本当に大事なのは、愛されてなお自ら最後の心を枯らし切る意志なのではないだろうか。それは自在にできることではないがやらなければならないことなのだ。

2025-11-08

anond:20251108192615

この文章自分自身批評でもあるんじゃないの。俺もこれには同意するし、この人は他人自分もよく観察する人だろうと思った

anond:20251108161926

90年代の「サブカル優勢」からオタク文化圧勝」への転換は、ざっくり言うと以下の力学が重なった結果だと思う。

[1] 配信ネット掲示板が“キャラ経済”に最適化

作品より“キャラクター”の継続消費(推し活)が拡散可視化やすい。MAD/二次創作SNS公式展開の循環が強かった。

[2] 反復消費モデルの強さ(シリーズ化・ソシャゲ・グッズ)

ガチャライブ2.5次元舞台イベントコラボカフェ…同一IPで何度も課金/参加できる仕組みが整備。収益の再投資IPさらに巨大化。

[3] グローバル市場での即時流通

ファン字幕公式配信世界同時上映へ。国内ニッチ海外需要で“メジャー並み”の規模に。

[4] アルゴリズム時代の“濃さ”勝ち

強いエンゲージメントを生むジャンルレコメンドに乗る。コアファン熱量がそのまま可視化拡散力になる。

[5] 物理小売からファンダムプラットフォーム”へ

90年代サブカル雑誌セレクトショップ的な編集ゲートキーパー依存雑誌衰退とともに拠点を失い、オタクコミケ/同人即売会/SNS/配信で自前の分配網を持った。

[6] コミュニティ主導の“参加型”文化

同人二次創作コスプレファンイベントなど、作り手と受け手が往復する設計。参加コストが下がり、定着率が上がった。

[7] “アングラから“無害・肯定的イメージへの転換

深夜アニメ一般化、秋葉池袋観光資源化、「クールジャパン文脈等で社会的許容が拡大。羞恥コストが低下。

[8] メディアミックス教科書

原作漫画/ラノベ)→アニメゲーム舞台→実写→海外、の水平展開が定式化。投資判断がしやすく、外部資本が入りやすい。

[9] 景気・労働環境の変化と“内向き娯楽”

時間/低予算でも深く楽しめる継続エンタメが求められ、可処分時間の細切れ化にも合致スマホゲーム配信視聴)。

[10] サブカル分散断片化

90年代サブカル音楽アートストリート批評)は“場”を媒介にした横断が強みだったが、場(雑誌/クラブ/独立系書店)の弱体化でネット上に散り、まとまった産業スケールを作りにくかった。

要するに、オタク文化は「キャラ×反復課金×参加コミュニティ×国際同時流通」を握り、プラットフォーム時代KPI熱量継続可視化)に合致した。一方で90年代サブカルは“編集=場”依存で、デジタル転換後の収益装置を持ちにくかった——この非対称性が“圧勝”の正体だと思う。

2025-11-07

anond:20251107230111

数字出して語ってるのはこれだけだから、こいつゲームのことを辛うじて知ってるだけで物事全般に通じていないんやろな、と思われるような盆暗が書いた文章でも「地頭の良い人が書いた的を射た批評だ」などと持てはやされるような時代も昔はあったんやろなあ(今もそういう界隈があるのかもしれないが)

アニメ映画芸能人声優に起用しては一方でアニメ声声優批判する監督は建前を気にし過ぎだ

アニメ映画結構見てるんだけど未だに芸能人声優アニメ映画、誰が誰の声を演じてるのか分かってないのよね

声優の声を記号化すると本職のアニメ声優なら声を聴くこの声優だから全然いいなってなるのに

芸能人声優だと全部同じに聴こえて誰が誰を演じても一緒に聴こえるんだわ

ここでアニメ映画監督アニメ声声優ノイズだっていうんだけど多分そんな監督でも芸能人声優の声なんて多分一人も判別出来てないと思うよ

だって同じ声だもん

でも確かに芸能人声優ノイズじゃないわ(演技の良し悪しはともかく)

全部同じ声だから無味無臭純粋アニメ映画を語る時にノイズとされるアニメ声が出しゃばらない分映画内容そのものを語る事が出来る事になるほどアニメ声優は確かにノイズだわってなった

監督的には映画批評をして欲しいのに評価サイトブログではやれ推し声優ガーとかやれ声優アニメガーとかって批評にならない批評をやられれば当然きつい訳よね

最初からそう言えば良いのにどうして本職のアニメ声優を貶すんだろうな

炎上目的でやると映画自体ケチが付くのにね

わずはいられなかった気持ちは分からなくもないけどじゃあ声優語らんで黙って映画作ったらええやんか

旬の芸能人声優にして無味無臭で何の価値もない(と思う人は少なからずいるだろう)けどそれによって集客が見込めたりスポンサー料が増えたりビジネスとして成功するんだからそれを言い訳にすれば良いだけなのに

建前ばかり気にしてるせいじゃないのかね

気に入らないならアニメ声優の話をわざわざ監督が発表する事じゃないのよ

金になる芸能人声優に起用する以上はね

anond:20251107155028

信者かどうかというより、発信の反響お金を稼いでいるかどうかがあると思うんだよね

もちろん発信するだけでも一定批評に甘んじるのは当然だけど、インフルエンサー場合は好感も反感も等しくお金に変換されるんだから受忍限度は拡大して然るべきでは。

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