はてなキーワード: 賽の河原とは
賽の河原で石を積むように、果てしなく賽を振り続けるのだ。
https://anond.hatelabo.jp/20231118174822
前回集まった情報が最高すぎたのでまたおすすめ教えて欲しい。今度は岩手、2泊でうち1泊は盛岡を拠点にして旅行する予定
地理、歴史、サブカル的なの好き。魚介グルメやデートスポット的なのにはあまり興味ないのは変わらず。ローカルチェーン店や地元ソウルフードみたいな生活が想像できるのは好き。また少しディープなところをおすすめしてくれると嬉しい
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嗜好紹介とお礼兼ねて青森の感想思い出したままに走り書きする。2年分2回行ったので盛りだくさんになった。充実したのはみんなの情報のおかげなので大感謝…!行けなかった所もルートや時間の都合上なので機会作って行きたい。
一緒に暮らす動物は大抵がそうであるけど、自分にとっては得難い友達だった。数年前に年の瀬の公園で目の前に飛び出してきて意気投合し、そのまま連れ帰り、転職して東京に引っ越し、下町のワンルームで暮らすという、20代におけるダイジェストシーンを象徴するような存在だった。唐突に大きな病気が見つかり、明確な診断もつけられないうちに、1ヶ月の闘病を経て死んでしまった。4歳になったばかりだった。
映画のような出会い方をしただけに、真反対のドラスティックな悲しみ、また、部屋中に猫の柔らかな気配と、薬やらスポイトやら検査結果やらの病気の強すぎるコントラストが漂っていることに耐えられなかった。自宅を離れる口実の旅行計画として、なんとなく関心のあった恐山を思い出した。祈りの場に赴く機会としては、しばらくはこれ以上ないだろう(と思いたい)ということで、会社が夏季休暇に入ったその日に新青森に向かった。
家族や(人間の)友人には恐山に行くことは伝えなかった。自分が沈み込んでいた姿を見られており、このタイミングで山間部に入ることは、或いは自死する計画を持っていると疑われている空気があった。実際いろいろと控えめに気晴らしの提案を受け、断ったり随分先延ばしにしたりしていた。どういったアプローチであれ、死にまつわるものへの接触に惹かれていたのは否定できない。
近隣市に宿泊したのち2日目の始発電車で下北半島に向かい、私鉄やバスを乗り継いで午前中に恐山の霊場に入った。(途中まで路線バス然としているが、山道に入ったところで唐突に少々不気味な恐山解説アナウンスと、子どもが可哀想な目に遭う賽の河原の歌が流れた。)
到着すると、想像していたよりも境内は開放的で、硫黄の香りが強く、空が近かった。入山のバスには何人か観光客がいたが、平日の早めの時間だったこともあり、門を潜ってしばらくしたら、今生きている人間はもしや自分だけなのではないかという錯覚をする程度には静かになってしまった。プラスチックの風車の回るカラカラという音に混じって、微かに鐘の音もする。抜けるような青空だが時折天気雨が降り、遠雷が聞こえる。カラスが飛び交い、足元では白い砂にガスが湧いている。30年弱生きてきて、最も「異境」を感じた地だった。
恐山は特に東北において、死者のゆく「お山」として歴史的に信仰されてきたと聞く。3時間ほどゆっくり散策した感想として、「他者が死ぬことを前にした無力さ」を見に受けた。荒涼として、自分は何の役にも立てず、ただ圧倒されるだけ。大事な猫に何もしてやれなかった、助けられなかった後悔の影響もあるだろうが、死がひのたびこちらを捉えたら、抵抗虚しく受け入れるしかないのではと思ってしまった。
同時に、医療や化学がこれほどまで発達するまでの、少し前の時代の死生観を垣間見たかもしれない。「ああしていれば」の迷いを砕くような、生き物には生老病死の苦しみが大前提で存在し、いつでもこちらを見ていると思わせる光景だった。
うって変わって、岩場を抜けると青く澄んだ宇曽利湖が待っていた。先ほど聞こえていた鐘は湖畔に据付けられていて、誰かが鳴らしていたとわかった。
(実態は一部のウグイしか住めない酸の水だけど)海より速いペースで打ち寄せる透明の波に山の緑、足跡だらけの白い浜と相まって、こちらは別のベクトルの異境だった。「苦しみが終わった世界」を自分が描くなら、今日からはこのイメージになるかもしれない。猫ももう苦痛は無いのだと思うと泣けた。穏やかでありながら寂しい光景で、まだ生きている自分は、ずっとここに居てはいけないとも感じた。
死ぬことの寂寞と諦念のち、死者の安寧を思う。この地で祈ってきたたくさんの人たちが同じ心の動きだったかはわからない。ただ、個人としては「何をしてもいずれ終わりは来るのだから、街に帰って生活を続けよう」と思えた。非現実的な静かさが退屈そうに見えたので。そもそも猫の死後の世界がどういったものかも知らないが、ねぶた祭りの日の青森市街と同程度に楽しみに満ち、そしてできるなら人間の彼岸と同じレイヤーに在って欲しいと願う。人間の見守りエリアも欲しい。
直前まで知らなかったのだが、ちょうどねぶた祭の最中のスケジュールだった。これもルーツは死者の供養だという説がある。自分はこちらのほうが色に満ちていて好きだった。
なお恐山境内には「熊注意」の掲示が散見され、メメントモリにどれほど浸っていても、即座にリアルの恐怖を思い出した。
猫よ、仏前の備えは絶やさないので、できれば熊からも守ってください。
【翌日の追記】
匿名で長文を書きたいという衝動から、プラットフォームの性格もろくに理解せず投稿してしまったので、リアクションがあることにたじろいでいます。増田というスラングも初めて知りました。
確かに、死+恐山という単語がタイトルに並べば、イタコの口寄せのために向かったのだと想像される方が相当数いて当然で、自分が単独行に徹したあまり他者視点に欠け、思い至りませんでした。東北よりはるか南方で生まれ、東京で生活し、ネットでは写真優位のSNSと観光プロモーションに浸かりきった自分にとって、「恐山」は「イタコのいる霊場」より「ある程度の然るべき配慮を持っていくべき、明るい友達との旅行には向かない、公共交通では難易度・中の観光名所」でした。
当日は「動物も降霊の対象になるのか?」と疑問を持ちはしましたが、仮にできたとしても、たかだか1ヶ月弱の離別では話すこともあまりないだろうし、あったとしても「ちゃんと食え」「掃除もしろ」「若くして死ぬのはやめておけ」の言い換えで尺が終わるんだろうなとの投げやりな気持ちから、寺院の方に尋ねもしませんでした。期待された増田の皆様には申し訳ありません。
実際にやるとしたら、何十年後かに自分の人生のBパートに入った頃、猫の命日からその日までの中間リザルトの発表しがいが出てきてからにします。(どれだけ高いところに登ったか、何匹分のまぐろを食べたか、見つけた一番大きい虫のサイズなど、話題に尽きない)
どなたかにコメントいただいた通り、恐山は「あの世テーマパーク」だという感想に共感します。喪失したての人間には誰かの辿るかもしれない旅路を思わせ、そうでない人間には手軽な非日常感と到達感を与えてくれる場所でした。生きている人間のための施設であり、何より敷地内に温泉とお食事どころまであるのがそれらしさを補強しています。東西に散見される冥界のスタンダードに準じれば、ラーメンを食べ、膝下まで硫黄泉に入った自分は帰ってこれなくてもおかしくないのですが、今のところ無事にキーボードを叩けています。
てんぷら @TEMPUrA_y
よく人生において音ゲーが何の役に立つの?って言う人がいるけど正しい努力は報われるという成功体験は人生において重要だと思うのでそれが音ゲーによって得られるならば大いに役立つと言えると思う
https://x.com/TEMPUrA_y/status/1788125549988360556?t=WgmrtJ9AYHKNVP4HmzlEDw&s=19
てんぷら @TEMPUrA_y
それが音ゲーである必要はないが、努力の結果が数値としてはっきり映し出される音ゲーは他に比べて努力が成功したと実感しやすいので成功体験を得るには向いていると思う
1曲約2分の短い勝負をする音ゲーの性質上PDCAサイクルを回すのにも向いている
https://x.com/TEMPUrA_y/status/1788127138362818583?t=GrF2KbjO_GrP5xVfVkIagA&s=19
のん @non_otoge
これなんだよな〜〜〜〜〜
僕は音ゲーで初めて「努力のコツ」を知って、そこから誇張抜きで人生変わった
どんくらい変わったかって言うと32×32のモノクロドット絵がフルHDのカラー動画になった感じ これも誇張抜きね
ただ、みんながみんなこれをできる訳じゃない でも選択肢があった方が良い(続く)
https://x.com/non_otoge/status/1788131676562006257?t=ja3xeFfSG-SS1qwfyq2N-A&s=19
しそごはん用研究者(薬学部講師PI)@ONODA_in_Onodac
大学教員やっていると、「この子は本当に努力の仕方がわからないんだな」って思う大学生に出会うことが多々あるんだけど、そういう学生には、ここ最近のワールドトリガーを読んでって言いたい。
努力するには、目標を正しく「刻んで」、「期限」を設けるんだ。
https://x.com/ONODA_in_Onodac/status/1864606915696972059?t=NCtRNdKGl0Pf7VR3sXuvLA&s=19
Kuroly @Kuroly7
何かに本気で取り組んだり挫折した経験がなく、現実との折り合いをつけ成長する機会を逃すと、根拠のない自信に満ち溢れて自負と現実のギャップが取り返しのつかないことになる『幼児的万能感』ってやつ
https://x.com/Kuroly7/status/1930108365763387528?t=3Q3QNlkA_LIAwcPawaewBQ&s=19
こういうの見るたびに、努力したことない自分が悲しくなってくる。
そもそも先延ばし癖があるせいで習慣化できないのと、習慣化に成功してもPDCAサイクルを回すコツがわからない。
rieru£ @r_02er
偏差値60台の高校、"高校受験までノー勉でなんとかなってしまったせいで勉強習慣が身についていない層"が存在する
https://x.com/r_02er/status/1938583747634643386?t=3jIDbDK214q20eYPlLxiHg&s=19
これのさらに酷い版で、大学受験も推薦でなんとかなってしまった故に、全く努力の習慣が身についていない。
なんというかなあ、はてな界で言うなら、黄金頭氏が一番自分の人生に近いものがあるかもしれない。
https://goldhead.hatenablog.com/entry/2018/01/18/215038
ただ、一瞬、一瞬。運良く持って生まれた何らかの才気の単発的な発現。わかりやすく言えば「その場しのぎ」。こればかりがおれを救い、そして苦しめる。人生の底、社会の底に着くところまで行かせない。安定飛行させるわけでもなく、超低空飛行を続ける。賽の河原で石を積んでは、すぐさま鬼に崩される。積むのはおれ、崩すのもおれ。いったいぜんたい、おれは詰んでいる。おれにはその詰将棋は解けないし、何手詰めかもわかりゃあしない。でも、詰将棋の本に載ってしまっている。それはわかる。わかっていながら、ここまで生きてきてしまった。死ぬのはたやすい。それでも死ぬのは怖い。八方塞がりだ。八方塞がって、上も下もない。タイマーが切れるまで、アルコールで精神を安寧にしておきたい。アルコールを買う金はせめてほしい。それだけだ。それだけなんだ。
https://goldhead.hatenablog.com/entry/2019/11/25/201810
努力してなにかを得る? はて。勉強して資格に合格する? さて。なんなんだろうかね、それは。なにが人間をそれに向かって起動させて、どういった心境の持続力があってそれを続け、達成したらどんな気持ちになるのかしらん。
追記(2025/07/09)
ブクマ結構ついてる。ありがとうございます。
コメントを見て、なぜ努力できるようになりたいか考えてみたんだけど、
B : 対人ゲームのメタを話してる人たちや、プログラミングの高度な話をしている人たち、あとKubecon(Kubernetesっていうツールのイベントらしい)みたいな技術イベントなど、努力して何かしらを身につけた人同士がやってるコミュニティに憧れを感じたから。
って感じかなあ。
一口に「ロックが好きで」「え!そうなんですか!自分も好きです!」と意気投合(?)しても結局同年代とは盛り上がらんことが多い
寂しいから、はてなのおっさんたちならわかってくれると信じて好きなアーティスト書いてくで
適当に聴いてて体系的な知識がないからお前このアーティスト聴くならこっちも聴けや!ってのがあれば知りたいやで〜
たくさん書いたしと思って見出しつけたらクッソAIっぽくなって笑うしかないな
やっぱり「雨上がりの夜空に」が好きやなあ
「WISKY,R&R AND WOMEN」が特にええ
王道やけど「さぁ」が好きや
「賽の河原」が好きや
「Balloon Balloon」が好きや
「Another One Bite The Dust」が好きや
「アントマン」が好きや、「新境区」とかも好きやけど
「Banquet.」が好きや
ここもtiktokで知ったで
「MENPHIS」がtiktokで流れてきて最近ずっと聴いとる
ほんまにかっこええわ
活動再開ほんまに嬉しいで〜
「劣り」が気に入っとる
でも「Booby Trup」も捨てがたいわ
「星を願う」が好きなんやがサブスクにあらへんのが悲しいで…(ヨエコの不安のお山もやが)
「WHOOO」も好きや
いい曲はたくさんあるけどやっぱり「水流のロック」やな…と思うわ
ちょこちょこ見てるとフォロワー数百人いるのに日常ツイートのインプレッションが二桁、それ以下だったり、フォロワー数万人いるのに数百くらいしかなかったりする人いっぱいいるじゃん。
もちろんフォロワー全員がアクティブ垢じゃないだろうからフォロワー数分はインプなきゃおかしいとかじゃないけど、さすがに割合低すぎる気がすんだよね。
みんなフォローだけしてミュートしてるか、見ないリストに放り込んでる(見るリストにいれてない)んだと思うんだけど、だったらそんな何人もフォローする必要ある?
みんな何のために見もしない人をフォローしてんの?
ネット民古代種が鍵垢になったときにヲチ(死語)するためにフォローしてるとかならまだ理解できるけどそんな変人ばっかじゃないだろうし。
なんか流行ってるからスト6はじめて頑張ってコンボとか覚えてランクマとかやってたんだけど
大型アップデートで前までできてたコンボができなくなっててびっくりしちゃった
なにより、できなかったことができるようになる達成感だと感じてたんだけど
せっかく頑張って練習してようやくできるようになったことがシステムで封じられることなんかあるんだ
なんだこれ、賽の河原かなんかか?
頑張って石積み上げたと思ったら横から鬼が出てきてガシャーンてやるあれか?
あ、これおもんないわってなってとりあえず昨日はもうスト6落として別のゲームやったわ
みんなあれおもろいと思ってやってんの?めちゃくちゃ理不尽じゃない?って思うんだけど
最近、急激に体調が悪くなってきて、家に帰って椅子に座ることすらしんどくなってしまい、あっという間に、絵が描けなくなってしまった。
だんだん、体の衰えは感じ始めてきたが、ここで一気に吹き出してきた感じがする。
座ってると痛い。絵を描いていると痛い。痛くて集中できない。描けないわけではないのだが、没頭できない感じ。のめり込みのフェーズを上げられないというか、創作モードに切り替えることができない。
これってずっと続くのかな? 原因不明、または慢性疾患でずっとこの痛みを付き合っていかなくちゃいけないのか?
おや? とすると、これで終わりなのか? 俺の旅はこれで終わってしまうのか? まだ、描きたいものは何も描けていないのに。
結局、あそこへはたどり着けないのかもしれない。
それを悟ったら、突然どうしようもない、絶望というか、恐怖というか、とても大きな感情が押し寄せてきて、体がガクガク震えだした。
ここ5年間ぐらい、可処分時間のすべてを絵を描くことに注ぎ込んできたが全ては無駄だったのか?
実際、自分は、今描いているものに対して全く価値を感じていない。創造性のカケラもない。
今描いているもの全ては、あくまでも、さらなる高みに対しての通過点でしかない。
今描いているものどんなにゴミでもいつかは理想の、素晴らしい絵が描けるようになる、ゆっくりとだが頑張ればいつかはたどり着けるというという希望を味わっていただけ。
だが、頑張っていればいつかは報われるかもしれないというのは幻想かもしれない。
成長カーブはサチり、あとはじわじわと下降していくもしれない。
だが、なんてこった!
これまでの自分の人生に意味はなく、これからも何もなしえずに朽ちていく。
卵は孵らなかった。孵化する前に死んでしまった。卵は腐っていた。
決してそこに到達することはないという現実。うっすらとわかっていながらも、目を逸らしてきた現実が突きつけられた。絶望。
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別にハナから、今から専業作家になるような富や名声、詳細を得たいわけはない。自分にそんな才能はないことは百も承知だった。
ただ、子供の頃からなんどもなんども再生される妄想というかイメージに、これをこのまま頭の中に抱えてたまま死ぬのは忍びないと思った。
しがないサラリーマンだが、どうせ自分は結婚も家庭も持たないし、このささやかな、自己完結している夢を叶えるくらいの時間はひねり出せるのでは?と思い絵の練習を始めた。
休日と、平日は残業が終わったあと。睡眠時間を削ると次の日の仕事に支障がでるので、確保できる時間はそんなにない。
それでも、一歩一歩進んでいければ、いつかは「そこ」へたどり着けるのではないかと思っていた。
このイメージ?世界観?を具現化することがいつしか人生の目標になっていた。
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だが現実は厳しい。
サラリーマンの分断された時間の中では、そもそも創作できるコンディションに到達することすらできない。やっと離陸したとおもったらすぐに叩き落されてしまう感じ。賽の河原の石積みのように、積み上げては崩され、積み上げては崩されを繰り返す苦行。
この生活スタイルではこれ以上は先に進むことはできない。でも、こんな「くだらない」悩みを上司に相談することや、ましてやそれじゃぁ会社辞めますかなんで、とてもじゃないが決断できない。
足踏みの状態なら、体力的・精神的には余裕があるかというと全然そんなことはなく、貴重な創作できるタイミングで、いつもで発進できるようにエンジンを常に全力でアイドルさせた状態を保っていないといけない。可処分時間を意味を感じられない鍛錬に費やし続けないといけない生活。
苦しい。
一方で身体の方どんどん劣化していくのを感じる。視力は悪くなってるような気がするし、連続で描ける時間もだんだん減ってるような気がする。それどころかだんだんイメージ自体も浮かばなくなってきたような気がする。あれほど具現化したかったものも、なんだか曖昧に、色褪せてしまったような気もする。
このままではまずいと思いつつも、なにか大きな決断をすることもできず、ダラダラ現状維持をしていたら、結局、とうとう、こういう状況に陥ってしまった。
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いや、まだだ。まだ失われたわけではない。これを奇貨としなくては。
もしこの状態を脱することができたら、もしこの症状がなおったらちゃんと真面目に現実と向き合わなくては。
怠惰と惰性で、このクソみたいな仕事に時間を垂れ流すのは、やめるべきだ。
恥ずかしい、子供じみた、現実離れした悩みだと自分の中に押し込めて誰にも相談できないでいたけど、ちゃんとやりたいこと、チャレンジできるように、ちゃんと意思表明ができればいいな、と思う。
基本的にいい人だが、とにかく私の言うことを忘れる。
夕飯に遅れる時は連絡してほしい、私のリモートワーク中に大きな音を立てないでほしい、トイレに何時間もこもるな、等々......
一つ一つは些細なことだが、100回言っても絶対聞かないので困る。
①例えば「夕飯のしたくは、あなたが帰ってくる時間に合わせてしているんだよ」
これ系の、昨今の上司がパワハラにならないように部下を叱る時のような遠回しな言い方だと、まず効かない。
まず注意であることを認識すらしていない。「連絡してほしい」という趣旨が伝わっていないので。
②次に、「今度から夕飯に遅れる時は連絡してね!(穏やかな表情)」。
これもダメで、私の顔が笑っているように見えるから、怒っていないと認識するらしい。
「はーい」とは言ってくるが、深刻に捉えていないので、次もまた同じ失敗を繰り返す。
③ブチキレる。こわい表情で長々と叱る。
ここまで来るとさすがに怒られていることが認識できる。しょんぼりして謝り、その日の家事を多めにやるなどの行動をとってくれる。
それでも後日忘れて繰り返す行動はあって(繰り返さない行動もある)その基準はいまだによくわからない。
これは推測だが、平謝りしたら私の機嫌が直ったので、よかった~~!と安堵してケロッと忘れてしまうことがあるのだと思う。(小学生男児か?)
私はまずは①タイプで一度様子を伺った後、②のタイプに移行して、②を何回も繰り返した後、③最終的にブチキレるという行動をしていた。
「最初から怒ればいい」と思われるかもしれないが、一緒に暮らす相手に些細なことでブチキレるというのは思っている以上に体力を使うものである。
自分でも些細なことだということがわかっているから、ブチキレてる自分に対して違和感がある。でもそこでブチキレておかないと、些細ダメ行動が100回繰り返されることがわかっているから、やるしかないと考え直し始めた。
また、「最初からはっきり言えばいい」という意見に対しては、②が既にはっきり言ってる状態である、ということは申し上げておく。
結果、私は彼氏の失敗に対して一回目から③ブチキレるようになってしまった。
改善してほしいことが出てくると一瞬①や②のような穏やかな注意をしようとしてしまうが、これではいけない、と思い直してなるべくギアを上げてブチキレるようにしている。
蛇足かもしれないが、彼氏の欠点として、根本的な問題理解をしない、というのがある。
先に挙げた例だが、「リモートワーク中に大きな音を立てないでほしい」という要望を私が持っていたとする。
そしてその時、彼氏が実際にやっている行動は「大声で歌う」であるとする。私は「仕事中なので歌わないでほしい」とブチキレる。
それで歌わなくなる。これでいいと思いきや、彼氏はその後もYouTubeの動画を音を立てて流す、対戦ゲームで仲間と通話して興奮して叫ぶなどの行動をする。
普通の人間なら「なんで?」と思うだろう。「リモートワーク中静かにしてほしいってことは、それらもダメなんじゃないの?」と首をかしげる人は多いはずだ。
だが彼氏にはそれがわからない。歌うのがダメと言われたから、歌う以外のことは別に怒られないだろうと思うらしい。
以上のことから、初回でしっかりブチキレたとしても、そもそもの注意する回数が膨大で困る、という悩ましい問題もある。
彼氏に対して初速でブチキレるようになった私だが、
人間の脳というのは繊細で、純粋な怒るふりというのはできないようだ。ある程度感情を載せないとブチキレることはできない。
だから最近は本当にずっと彼氏に対してムカついているし怒りが止まらない。笑顔でいる時間はとても少ない。
私とていつも笑顔で暮らしたいし、お互い嫌な所は嫌味なく注意しあって、快適な生活を送りたい。
だが、もし一度穏やかに注意したことを彼氏にまた繰り返されたら、自分が積み上げた注意の時間や労力が、賽の河原の小石よろしく吹っ飛ばされたような絶望的な気持ちになる。
あんなに申し訳なさそうな顔をしていたのに、全部忘れたのかよ、と相手を嫌いになりそうになる。
嫌いになったというよりは、そもそも自分の感情がよくわからない。
冷静に見ると、こんなに笑顔をなくして、怒っている相手のことを好きなわけはない、とは思っている。
こういうことが決定的な引き金となって別れるカップルってあまり聞いたことがないけど、別れたほうがいいのかな。どうなんだろう。
ゲームやってて、成長というものを意識した瞬間に楽しくなくなる。
格ゲーとかならまあ技術の向上を感じる瞬間とかがあるんだろうけど。それこそスポーツと並べてeスポーツなんて呼ぶ所以なんだろうし。
でもおれは対人ゲーム嫌いだからやらない。練習を積み重ねた上達の喜びを得るんなら、もっとゲーム以外の題材にぶつけたい。多分ゲームを下に見てるから。心を奥底から震わせてくれる度合いについてあんまり期待してないというか。
ゲームで遊ぶという体験にはもっと手軽な気晴らしや面白さを期待してる。
例えばモンハンやるとして、現状で一番の強敵をヒイコラ言いながら倒す。そいつから素材を剥ぎ取って、強力な武器を手に入れる。
これで強くなったと思うのも束の間、更に強い敵が現れる。せっかくの武器もすぐさま心許なくなる。
最初はモンスターを狩る体験に夢中であんまり気付かないけど、それは次第にマンネリ化してくる。
すると、おれは何のためにモンスターを倒して何のために強くなってるんだろうと思えてくる。
半ば惰性で狩りを続けてるのはなぜなのか。
今ままではボタンを通じた操作をして、何らかの行動をすることそのものが楽しかったはずだ。
今は倒し、強くなり、また倒す中で、次第に自分も相手もインフレ化していく「成長」に楽しみを見出しているのかもしれない。
おれはその瞬間にクッキークリッカーを感じて楽しくなくなる。
この「成長」に快感を覚えてゲームをしているのだとしら、なんと賽の河原めいたことか。人参を括り付けられたロバみたいだ。
縛りプレイとかにもあんまり楽しみを見いだせないし。まあそもそもゲームというか遊びそのものが縛りプレイではあるんだけど。
MGSだってステルス迷彩や無限バンダナが欲しくなるのは、ステルスプレイで溜め込んだフラストレーションを好き放題やって解き放ちたいからだ。少なくともおれはそう。
それなのに、それを手に入れるには今まで以上の高度なステルスプレイが要求されたりする。PWかTPPは確かそうだった。
なんという倒錯か。手に入れる頃にはそんなアイテムがなくてもさほど問題なくなってる。意味ねえじゃねえか。
暴れまわるのはご褒美の余興でしかないということか。まあ最初からチートで無双したらゲームなんて面白くないとか言う人おるけど。おれはあんまそうは思わん。ひとしきり好き放題やって飽きたらまた制約をつければいいだけなんだし。
はてブ見てたら解説したくなったので書かせて。シーズン終盤のMRは1950くらい。テリーもMR1800くらいまでいけた。
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ゲームやってない人って弱キャラで頑張るのかっこいいみたいな価値観あるよね。やってる側からすると弱キャラ使い本人以外が弱いキャラ使うの正当化してるの結構グロテスクに感じる。
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弱キャラで頑張るってのはゲーセン時代やオンライン対戦が主流でなく友達と遊ぶのがメインだった時代の遊び方なんだよね。
昔は自分が強くなったらすぐに結果に表れた。相手が固定メンツだから少しでも腕の差が出来たら10連勝だってざらだったでしょう。
んで相手が目の前にいる状況で強キャラ使って勝ち続けても何だか居心地悪いしじゃあちょっと弱いキャラでも使ってみるかってなるのは当然よね。
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でも今の時代は違う、今はランクマッチが主流だから自分が強くなったら相手も強くなる。賽の河原をずっとやり続けるような状態。
めちゃくちゃく練習して寝る間も惜しんで調べものしてでも勝率はずっと50%。
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プレイヤーとして強い人が弱キャラ使ったらどうなる?ほかの強いとされるキャラ使いの中の人は自分より下手な人と当たるわけよね。
自分より下手な相手だけどキャラ性能押し付けられたときは負けて相手の変な手癖見つけた時は勝てる。みたいなことも多くなる。
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たまに遊ぶ程度ならそういうのも楽しいと思うけど毎日毎日それを数時間やり続けるのつらいと思うよ。
弱キャラやりこんで俺だけが使ってるコンボや超反応で華麗に勝ちまくるなんてないんだよね。
攻略の遅かった昔とはゲームの取り組み方が違ってコンボやセットプレイなんかの情報は知っててあたりまえ、そのうえでどこで差をつけるか?ってなってる。
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そもそも弱キャラはなんで弱キャラかっていうとやれることが少なかったりセオリー通り戦ったらずっと息苦しい戦いさせられるから弱キャラなんだよね。
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格ゲーってやってない人からみたら反射神経とかめちゃくちゃ必要そうに見えるよね?
特に一番展開の早そうに見えるであろう至近距離のやりとりとかはプロでも見てから反応してるわけじゃなくて、相手の選択肢と自分の選択肢を整理してぶつけ合う感じのゲーム。ポーカーみたいな感じ。あるいは高速なポケモンバトル。
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んでこの至近距離は完全対応することはできない人類平等だからじゃんけんに例えられたりすることが多いんよね。
んでじゃんけんに持ち込むまでの過程だったり、いかに割のいいじゃんけんに持ち込むかってところで上手い下手が生まれる。
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だから「相手が知らない時だけ通用するじゃんけんになってないじゃんけん」や「もうどうしようもないから自分から不利なじゃんけんを仕掛ける」みたいなことを多用したりしないといけないわけね。
実はグーとチョキしか出せないじゃんけんになってないじゃんけんを仕掛けて「こいつなら知らないだろ」、「うまい人には通用しないけど頼む!」みたいな感じになる。
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もちろんこういう要素は強キャラにもあるんだけど、弱キャラにはこれしかない、みたいな場面が往々にして出てくる。
相手の人が強くてまじめに戦ったら30%しか勝てないので、40%で勝てるであろう運ゲーします!みたいな発想になっちゃう。
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40%勝てるならそっちが正解じゃんって思う?
でも30%のほうの選択肢はやり続けていけば上手くなって勝率あがるんだよね。
まじめに30%を研究し続けていけば1か月後には45%勝てるようになってる。40%のほうはやり続けても40%のまま。
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強キャラは格上相手にまじめにやっても勝率40%です!運ゲーしても 勝率40%です!みたいな感じが多いから自然と上達できる方を頑張れるんだよね。
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もちろん「格上を倒す力」や「勝負強さ」みたいなのも必要なんだけど自力があっての隠し刀というか…
運ゲーギャンブルみたいな戦い方をしている人を否定する気は全くないんだけど毎日何時間もやっている趣味だったら自然と「どうせなら強くなりたい」とかそういうモチベーションになってくる人が多いと思うんだよね。
ちょっと違うけどたまにやる趣味のフットサルなら小学生みたいなわちゃわちゃゲームしてても楽しいだろうけど、毎日毎日の練習してるのに何年も小学生サッカーやり続けるのはつらいみたいな。
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強い人だったら弱キャラ使ったりして遊びなよ!みたいなのはもうめちゃくちゃずれてると思う。現役でやってるひとでそんなこと言ってる人なかなか見ない。
強いキャラを強く使うのも実力だと思ってみんなやってる。世間的には弱いとされてるけど強いと思って使ってます!みたいな人はいるしそれで結果出せればそりゃかっこいいけどそれは本人は弱キャラだと思って使ってないしね。
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マスターの勝率データを参照している人多かったけど公式の全体勝率を見てもキャラの強さはあまりわからないよ。
マスター帯はイロレートってシステムを採用していて適正レートになってからは勝率は強キャラも弱キャラも50%近くに落ち着く。
直近の修正でキャラ相性は変わったか?適正レートになるまでにやめる人がどれくらいいるか?とかサブキャラとしてお試しで使ってる人がどれくらいいるか?とかそういう要素のほうが大きい。
例えば超絶強いキャラがいたとして、そいつが弱体化されてそこそこ強いキャラになってしまったらその月の勝率は50%を切る。そこそこ強いのに。もともとのレートよりは適正レートが下がるからね。
デッキやパーティー組む系のゲームなら勝率というか使用率がかなり参考になるだろうけど格ゲーやバーサスシリーズみたいな参加人数少ないゲームの勝率はかなり条件に気を使わないと参考にならない。
ちなみにこんなに語っといてあれだけどスト6はキャラ差そこまでひどくはない。そしてザンギはちょっと前まで準最強格で今でも普通に強い方のキャラです。
この令和になっても転勤族の子供病む説がインターネットにあんまり出てこないのが不思議。
まあ、親の側からしたらどうしようもない親の都合で子供を巻き込むわけだし、そらポジティブなことしか見たくないわな。
当事者だけど歪むよー。
まあー歪むよー。幼稚園もころころ変わり、小学校中学校も入ったところと出たところ違う、トータルで通えたの高校が初めての転勤族の子供だけどさ。
例えば学校のお勉強、習い事、友人関係。頑張っても一定期間でリセットされ続けるわけよ。
そりゃ今大人になって見たら、その経験は次に活かせるわー✨とか綺麗事も言えるけどさ、
進度の差でやってないところが出る、
その度に肩身狭い思いする、
みたいに、短期目線しかない子供からしたら、引越ごとに完全リセットに近いのよ。特に小さい頃ね。
賽の河原にいる状態ですよ。親より先に死んでないどころか、親の都合に頑張って合わせていい子にしてるのに。
自分は成長してから、何かをこつこつ続ける事がすごい苦手。楽しい事ですら、これをやって何になるんだよどうせ意味ねえよって気持ちになるのな。
何でこんな事考えるんだ…?って色々考えたけど、多分頑張っても一定期間経ったらリセットされるって染み付いちゃってるからなんだよな。
しんどいぞー。そこまでいられるかもわからないのに周りから浮かない為に頑張る運動会・発表会の練習。
案の定転勤になって、練習は全部無駄。何も練習してない知らん学校の運動会・発表会に放り込まれて、周りから舌打ちされて、やーめーなーよー引越してきたばっかだからしかたないじゃーん。でももう少し頑張ってくれたらいいかな。きっとできるよーとか言われて、教師へのゴマスリの餌にされる感覚。
こういうの繰り返してきて、なんとかやってきてるから、表面上は適応力のあるいい子なんだけどね。内面ボロボロよ。
家族以外信じられるものはいないせいで、分離不安と家族への依存が高まるから、表面上いい子で反抗期もない、いわゆる「いい子だけど実はやばい子」のど真ん中コース。
小さい頃ぬいぐるみ全部にすずらんテープくくりつけて絶対に迷子にさせないように縛りつけてたエピソードとかも、今思えばだいぶ香ばしいな。
極め付けに、海外の日本人学校という全員転校生で出来てるところに行ったけど、まーーー病んでる病んでる。
自分がいたところが特別そうだったのかもしれんけど、なんかもうテレビドラマか?ってくらいいじめてんの。というかテレビドラマからしか日本の学校生活を学べないからそれを忠実に再現してた可能性もあるので鶏卵論だな。
どうせ3年で全員入れ替わるから、小学校なのに、会社の同僚みたいな当たり障りない接し方してるの。で、水面下で蹴落としあい足の引っ張り合いストレス発散のいじめがすごい。
後にブラック企業に入ったが、みんな顔があの小学校のやつらと同じだったよ。
いじめないと次お前だよって言われて巻き込まれたと思ったら、バチボコにいじめられるし。じゃあいじめない方がよかったじゃん!!ってなるガチモンの地獄。何あれ蠱毒でも作ろうとしてんのか?ってレベルだった。
中学まで持ち上がりでいじめ続いたのもマジで笑った。マジでやばいって転勤族の子。
そこで元気にメンタルやって、中高と太ももの付け根ズッタズタ。
今はさすがにやってないけど、まだ跡はある。軽いけど自○未遂も何回か。まあここまで来るとさすがに転勤のせいだけではないとは思うけど、影響は確実にあるよ。
細かいとこ言うと、リスカとか見えるとこの自傷はしないとこが表面上いい子ぶろうとして、いい顔して取り繕おうとする転勤族の子って感じで本当に嫌ー。親は多分未だに自傷は気付いてないねー。
でも、なんとか生き延びて大人になった今思い返せば、親も子供養う為に仕方なかったことは重々理解してるんだよ。
親の事は尊敬してるし、先述の通りの依存もあれど、仲良しだと思うよ。
だからこそ、苦しいんだよなー。親を憎むことも出来ず、私がダメだったんだなー。もっとうまくやれたんじゃないかなーって自分を責める流れになるからさ。
だから、もし転勤が激しい職についてる親御さんがこれを見たら、どうか子供がでかい闇を抱える可能性があるって理解した上で対処して欲しいと思います。
インターネットで出てくる耳障りのいい言葉だけ聞いて、こんなにいいことばっかり書いてある!うちの子はいい子だから大丈夫!適応力の高い自立心旺盛な子に育つ!って楽観視ばっかりしないで。
大袈裟に言えば、あなたの子供はあなたに見捨てられたら自分は常にアウェーだから餓死すると思ってるので、必死にあなたのお気に召す形に仕上がって媚びてきますよ。歪みを蓄積させながら。
できれば、転校しても大丈夫な家で出来る趣味や好きなことを見つけさせてあげてください。
私はゲームやイラスト制作など立派なオタク方面に進み、それで今一応ご飯を食べています。
音楽でも構いませんが、習い事に行かせるがベースになるものより、家で思い立った時に手慰みでできるものがいいと思います。ギターとかキーボードとか。
幸い今は地元に拘らなくてもインターネットで人と繋がれる時代です。
インターネットの中が故郷だと言うと気持ち悪いと思われるかもしれませんが、そうやって安定を得た人間がここにいます。
危ない目に遭わないように気を配りながらも、好きな事はさせてあげるようにしてあげて欲しいと。難しいとは思いますが、かつて転勤族の子供だった大人からの願いです。
クイズ番組に出て来た賽子の読み方が解らなかった。
賽銭の賽と子でなんて読むんだろ、さいす?
答えはさいころ。
そう言えば賽は投げられたとか言うな。
でも賽銭、賽の河原、賽する、等々宗教的な使われ方の多い賽の中で、賽子はとても浮いている気がする。
漢字の意味を調べても、賽、神にむくいること、さいころ、と意味がちぐはぐに感じられる。
そこで調べてみたらさいころは元々投げた結果で吉凶を占う神事に使われていたらしい。
原始的な賽子では生け贄の動物のくるぶしの骨で作られていた物もあったとか。
宗教にぐっと近づいた。
賽ノ神、塞ノ神などと道祖神や、正月開けの焚き火行事を呼ぶ地域もあるらしい。西日本で言うところのどんど焼だ。
https://www.kanko-kubiki.jp/season/winter/sainokami/
このページによると名前の由来は
邪霊の侵入を防ぐ神→さえぎる神→さえの神→サイノカミ(賽の神)
遮=賽はなんだかとてもしっくりきた。
言われてみれば賽の河原はあの世とこの世を遮っている場所なので同じ由来かも知れない。
神も悪い物を遮ってくれるのと同時に、我々と神の間も遮られている。
さいころも成功と失敗の間をさえぎっていると言えるかも知れない。
しっくり来たのでこの辺で考えるのをやめた。
150ml増量みたいな謳い文句がずっと書いてあったやつ。いつまで言ってんだよと思っていたけど、最近デザイン変更とともにとうとうその文言は消え失せた。
最初にペプシ飲みながら映画でも観て夜更かした時は特別な時間だったけれど、それもすっかりただの不健康な日常になってしまった。
静かな夜道に自分一人の足音を響かせながらコンビニへお菓子買いに行って、帰りに自販機でしか売ってないペプシを買う時間は嫌いじゃない。
それも深い夜にやれたら良いんだけど。ジョギングのジジイや早朝出勤の会社員が現れ始める頃合いだと漠然とした焦りがある。こんな事してて良いんだろうかって気持ちの方がデカい。
空き缶は占領面積に我慢ならなくなるまで増え続ける。限度を迎えると、近くに転がってるレジ袋に詰め込んで足元に置いておく。
こんな光景も酒の空き缶だったりすれば、退廃的な悲哀の雰囲気も少しは出たかな。
おれは人生を常にシラフで生きているけれど、酒に逃げられたら多少は楽だったんだろうか。人並みに他人との交流を持って、一杯目の生をそれとなく強要されたりして、付き合い程度にでも飲めるようになってたらどうだろう。まあいいや。
ペプシの缶が増え続け、二週に一度の回収日にはなくなる。おれの生活ってこの繰り返し。
ある朝目覚めたらタイムリープしていたとしても、おれは時間が巻き戻った事にすら気が付かないかもしれない。
昨日と同じように過ごす中で、しかしたった一つ僅かな違和感を覚える。
机に並んでいたはずの缶が無い。
冷静に事態を分析する中で、妥当に思える可能性がどんどん潰れていく。最後に残された、最も信じがたい状況を認めざるを得ない。
自分の意識だけを除いて、世界の時間が一週間ほど巻き戻されている。
金だ。
BTTF2よろしく、この珍妙な状況の利用法が真っ先に思い浮かぶ。
金さえあればこの浮かばれない気鬱な日々も少しはマシになるだろう。
株価にどんな動向があった?
どの馬が勝った?
必死に頭を捻る。何も思い浮かばない。この一週間自分は何をしていた?
何も変わらない。缶の数が減っただけ。
不意に訪れた絶好の機会を失い、先週の過ごし方への後悔は人生そのものへの後悔へと変わる。
心の奥底から湧き出る欲望を叶えるための努力を嫌い、恐れた。手軽に買える欲望で気を紛らわす。
逃げん込んだ先の非日常すらもことごとく日常になってしまう。そうして怠惰にかまける生き方にどこか酔う事でやり過ごしていたんだろ。そう自分を責め立てる。
この奇妙な出来事が過ぎ去って、しばらくは新聞に目を光らせるかもしれない。ニュースに真剣に耳を傾けるかもしれない。
でも時間が巻き戻る事は二度と無かった。
タイムリープがもたらした生活習慣は次第にフェードアウトしていく。
続けていれば超自然的な奇跡を待たずとも、大逆転ではなくとも、少しは人生が変わっていたかもしれない。
何も変えられなかったけれど、それでも得られた唯一の気付きは泥のような怠惰の中で崩れ去る。
それは結局生き方への真摯な反省ではなく、奇跡の再来への浅はかな期待でしかなかったんだろう。
多分そういう奴だねおれは。
ペプシ買いに行くか。