「「声」」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 「声」とは

2025-06-24

「声」を誉める/けなすのってルッキズムなのかな

ルックじゃないけど内面的要素でなはないから、外見的要素の一部ではあると思う

2025-06-18

anond:20250618012214

例え声優が変わっても、「声」は変わらない

「声」を変えないように声優を変えるんだよ

許可なく勝手「声」を変えたのは声優の方でしょう?

2025-04-12

anond:20250412223654

問題はそういう他責思考に偏った方々の「声」を聞く合理性はあるかって話だと思うのよね

言い方が間違ったな

対話する合理性の有無だな

実際のところどういう考えが主流なのかしら

淘汰の流れの一つなんだろうか

2025-04-03

[]経産省による肖像・声の商品等表示認定に関する整理について

つまるところ声のパブリシティー権に関するお話パブリシティー権自体法律で明確に規定された権利ではなく、過去裁判例を通じて徐々に認められてきた裁判上の方便的なもの。そのため、その解釈適用範囲には曖昧さが残ってた。

過去裁判例においてパブリシティー権が認められる対象の例示の中に「声」が明示的に含まれていなかったため、声にパブリシティー権司法において認められるかどうかは不確実な状況だった。でも、例示に声が含まれていなかっただけであり、声にパブリシティー権が認められないと判断されたわけではない。

今回の経産省による整理は、あくま行政としての見解を示したものであり、法律が変わったわけでも、法的解釈公式に変更されたわけでもない。また、法律で明確に定められていなかった権利立法によって確立したわけでもなく、新たな裁判例や判例が生まれたわけでもない。実質的には「声の問題に対して受けてくれる弁護士が現れるんじゃないかなー」程度の影響と考えられる。三権分立原則から経産省行政機関であり、法として認めるのは立法の、最終的な法的判断司法役割

この整理は「音MAD」や「人力ボカロ」などで無断で有名人の声が利用される行為など、従来から問題視されていた行為に対して訴える法的根拠が一歩前進した形。ただし、これは生成AI学習や生成自体禁止するものではない。「依拠」していてかつ「類似」しているものについては、人が手書き作成しようが機械作成しようが著作権法違反になるという整理と同様。

この経産省見解は、従来微妙ポジションであった声のパブリシティー権に対する行政の考え方を示したものと言える。これに関連付けてAI規制派と呼ばれる一部の人々が様々な関係のない別の問題を指摘しているが、それらの多くは既に法律禁止されている行為であったり、権利者でない人が存在しない権利を主張するような行為

例えばディープフェイクについては、基本的名誉毀損または侮辱著作権法違反などに問われる可能性があり、政治家対象場合公職選挙法違反となる場合もある。今回の整理はそうした既存の法的枠組みの中での解釈を一部明確化したものと考えられる。

2025-03-28

機械仕掛け文学昆虫たち 〜ある文体マニアAI小説観察記〜

諸君、私がAI小説なるものと初めて出くわしたのは、ある雨の降りしきる午後のことだった。私の叔父アガサス・ウィンプルトン・フォーブス文学界では「老いぼれの鷹」として知られ、批評家たちからは「あの忌々しい老いぼれ」と呼ばれている)が私に一束の印刷物押し付けてきたのだ。

「これを読んでみたまえ、若きバーティ」と彼は言った。声にはイモリを観察する博物学者のような好奇心が漂っていた。「人工知能とやらが書いた小説らしいのだ。まったく、世も末じゃよ」

その時の私の反応は、鮮やかな紫色ネクタイを締めた従兄弟を見た叔母アガサのそれに近かった。つまり、眉をへの字に曲げて「いったい何をお考えで?」という表情だ。しか叔父の蔵書室から逃げ出す手段は見当たらなかったので、私は言われるがままに一ページめくった。

What ho! これが噂のAI小説というやつか。

読み始めて五分と経たぬうちに、私は自分がなんともぎこちない人形劇を見せられているような気分に陥った。言葉は確かに英語(あるいは日本語)で書かれている。文法的にも正確だ。しかし全体を包む雰囲気には、カクテルパーティーで突然「1924年のS and P500の株価変動について議論しましょう」と切り出す男のような居心地の悪さがあった。

ところで読者諸君、ここで私が申し上げたいのは、このAI小説が「内容的に」退屈だったという話ではない。むしろ問題はその文体——いや、文体の欠如と言うべきか——にあったのだ。

ご存知の通り、私はかなりの文体マニアであるジェーン・オースティンの流麗な皮肉ヘミングウェイの素っ気ない簡潔さ、あるいはプルーストの果てしない内省——これらは私にとって、マティーニオリーブを浮かべるように小説に不可欠な要素なのだ

ところが、この機械の吐き出した文章には、そういった香りや風味が微塵も感じられなかった。それはあたかも、高級レストランシェフの特製料理を期待していたら、無味無臭栄養ドリンクが出てきたようなものだ。確かに栄養素は含まれているのだろうが、舌の上でダンスする喜びがどこにもない。

バーティ、どう思うかね?」と叔父が訊ねた。彼の眉毛は期待に満ちて跳ね上がっていた。まるで噴火を待つ火山学者のように。

「ええと、叔父さん」と私は慎重に言葉を選んだ。「これは確かに文章ではありますが、作家文章とは言えませんな。むしろ言葉集合体とでも申しましょうか」

「ほう、言葉集合体か」叔父眼鏡を鼻先でくいっと押し上げた。「面白い表現だ」

「つまりですね、これは料理というより食材の山なんです。シェフが腕を振るう前の状態というか」

この説明に納得したらしく、叔父は「なるほど、なるほど」と頷いた。

その日以来、私はある種の科学好奇心からAI小説と呼ばれるものを片っ端から読み漁ってきた。そして今や確信を持って言える——世の中のAI小説は、ジーヴスがいつも言うところの「文体的に不十分である(stylistically deficient, sir)」代物なのだ

文体不在のドローンズ・クラブ

AI小説世界は、なんとも奇妙なドローンズ・クラブのようだ。ご存じない方のために説明すると、ドローンズ・クラブとは私が所属する紳士クラブで、そこではメンバー無意味な会話を交わしながら、しかし高度に洗練された作法に従って日々を過ごす。しかAI小説世界では、会話は論理的に筋が通っているのに、その洗練された作法——すなわち文体——が欠けている。

それはまるで、嵐の日に一生懸命走っているのに、どこにも行き着かない人々の集まりのようだ。走り方は効率的かもしれないが、そこに独自の身のこなしやリズム、あの「何とも言えない何か」が感じられない。

私が思うに、AI小説が「文体」に欠けるのは、それが「文体を持つこと」の意味理解していないからだ。文体とは単なる装飾ではない。それは作家の魂の表れであり、世界見方であり、独自思考の流れなのだ

例えば、我が友人ガッシー・フィンク=ノットルは、イモリについて話す時と恋人のマデリン・バセットについて話す時では、まったく別人のように語る。前者では博識で冷静な科学者となり、後者では「彼女の目は星のようだ」と言いながら部屋中を浮遊するのだ。これが「文体」というものだ——同じ人間が状況に応じて異なる言葉の使い方をする、その独自である

しかAI小説においては、すべての場面が同じトーンで描かれる。恋の告白殺人事件料理レシピも、同じ声色で淡々と進行する。それはちょうど、どんな曲でも同じリズムと同じメロディーで歌うカラオケマシンのようなものだ。確かに音程は正確かもしれないが、聴いていると魂が枯れていくような感覚に襲われる。

さて、今や普通小説AI小説を見分ける方法がある。それを「バーティ文体テスト」と名付けようではないか方法単純明快任意の三ページを読んで、そこに以下のものが見つかるか確認するのだ:

1. 意表を突く比喩表現(「彼女の声は、スコットランドの霧の中でバグパイプを吹く羊飼いのように切なかった」など)

2. 言葉遊び(「いや、ドラゴンを退治する側が金貨を使うんだ。退治屋さんへの報酬としてね。現実とは、ファンタジーより遥かに資本主義的なものさ」など)

3. 文の長さとリズムの変化(長い文の後に鋭い短文を置くなど)

4. キャラクターごとに異なる話し方

これらが見つからなければ、それはおそらくAI小説か、もしくは残念ながら文体に無関心な人間の書いた小説だろう。

文体という名の蝶を捕まえた名人たち

ここで、文体という蝶を見事に捕まえた名人たちを思い出してみよう。彼らは皆、言葉という網で独自の色彩と模様を持つ蝶を捕らえ、読者の目の前に差し出してきた。

ディケンズ氏は複雑な社会風刺人物描写を、時にコミカルに、時に痛烈に描き出した。彼の文章は、ロンドンの霧のように濃密で、その中に浮かび上がる人物像は忘れがたい。

ジェイン・オースティン女史は、表面上は穏やかな社交界描写の中に、鋭い観察眼と皮肉を忍ばせた。彼女文体は高級紅茶のようなものだ——一見繊細だが、意外な風味と余韻がある。

そしてヘミングウェイ氏。彼の文体は素っ気なく簡潔だが、そこには深い情感が氷山の水面下に隠されている。彼の短文は、たった一発で的を射抜く名ハンターのようだ。

これらの作家たちは、同じ英語という素材を使いながら、まったく異なる芸術作品を生み出した。それはちょうど、同じ小麦粉と水からイタリア人パスタを、フランス人クロワッサンを、日本人饂飩を作るようなものだ。材料は同じでも、その扱い方——つまり文体——によって、まったく別の味わいが生まれる。

ところが、今日AI小説は、どれもなんとなく似たような味がする。それはあたかも、世界中のレストランが突然、同じ調理法で同じ食材を使い始めたようなものだ。確かに栄養はあるかもしれないが、そこに文化の違いや個性の輝きはない。

言語指揮者機械になれるか

ここで疑問が生じる。AIは本当に文体習得できるのだろうか?

私の従者ジーヴスならば、「それは極めて難しい命題でございます旦那様」と言うだろう。彼はいつも正しい。

文体というものは、単なる技術的な問題ではない。それは作家人生経験感情の起伏、時代背景、そして何より「誰であるか」という存在のものからまれものだ。AIには「自己」がない。生きた経験もない。それはちょうど、泳いだことのない人に海の深さを説明するようなものだ。

しかし、それでもなお希望はある。AIは少なくとも模倣することはできる。優れた作家文体分析し、その特徴を取り入れることで、「ウッドハウス風」や「ヘミングウェイ風」の文章を生成することは不可能ではない。それはちょうど、ピアノを弾いたことのない人が、機械的な練習によって曲を再現できるようになるのに似ている。魂は込められていないかもしれないが、少なくとも耳障りではなくなる。

私が思うに、AI小説の真の問題技術的な限界よりも、むしろそれを使う人々の文学的感性の欠如にある。今日AI小説を作っている(あるいは指示を出している)人々は、どうやら「本を読んでいない」ようなのだ

彼らは「面白いストーリー」を求めるあまり、「それをどう語るか」という文体重要性を見落としている。それはまるで、素晴らしいワインがあるのに、紙コップで飲むようなものだ。内容は同じでも、その体験の質はまったく異なる。

私の友人ビンゴ・リトル(恋に落ちるスピードギネス記録を持っている男だ)は、女性について「見た目より声の方が大事だ」と言った。これは文学にも当てはまる。物語の内容より、それを語る「声」——すなわち文体——の方が、読者の心に残るのだ。

機械文学への処方箋

では、この文体不在のAI文学に対して、我々はどのような処方箋を用意すべきだろうか。

まず第一に、AIを使う作家たち(あるいは「プロンプトを書く人々」と言うべきか)は、もっと古典を読むべきだ。文体の偉大なマスターたちの技を知らなければ、AIにそれを再現させることなどできはしない。それはちょうど、料理を知らない人が一流シェフメニューを指示するようなものだ——「何か美味しいものを」と言うだけでは、凡庸な一皿しか出てこない。

第二に、AIの出力をそのまま「小説」として発表するのではなく、それを第一稿と考え、人間の手で文体を整えるべきだ。AI提供する骨組みに、人間が肉付けし、血を通わせるのだ。それはちょうど、既製服を買って来て、自分の体に合わせて仕立て直すようなものだ。

第三に、もっとAI文体についての指示を与えるべきだ。「面白い物語を書いて」と言うのではなく、「ウッドハウスのような軽妙洒脱文体で、比喩を多用し、会話のテンポを重視した小説を書いて」と具体的に指示すべきなのだ

そして最後に、我々読者も文体に対する感性を磨くべきだ。優れた文体を味わい、それが作品にもたらす効果理解すれば、AIの生み出す平坦な文章に満足することはなくなるだろう。それはちょうど、本物のエスプレッソを知ってしまえば、インスタントコーヒーには戻れなくなるようなものだ。

最後に一杯、文体という名のカクテル

さて、このエッセイもそろそろ終わりに近づいてきた。クラブ最後ドリンクを注文する時間だ。

私がこのエッセイで主張したかったのは、AI小説に「魂」を吹き込むには文体が不可欠だということだ。内容が面白くても、それを伝える声が魅力的でなければ、読者の心に残ることはない。それはちょうど、美しいメロディーも、下手な歌手が歌えば台無しになるようなものだ。

文体とは作家指紋であり、声紋であり、そして最も個人的表現であるAIがそれを完全に再現することは、おそらく不可能だろう。しかし少なくとも、今よりずっと文体意識した文章を生み出すことは可能なはずだ。

ちなみに私の従者ジーヴスによれば、「文体を気にしない作家は、メロディーを気にしない作曲家のようなものです、旦那様」とのこと。彼の言うことは、いつも正しい。

そして最後に、私の叔父アガサスがよく言っていた言葉を紹介しよう——「バーティよ、作家の才能は物語を作る能力にあらず、その物語をどう語るかにある」。彼は学者として多くの愚かなことを言ってきたが、この言葉だけは真理を突いている。

読者の皆様、乾杯しよう。文体という名の、この最高に複雑で、最高に美しいカクテルに。そしてAI文学がいつの日か、この味わい深いカクテル提供できる日が来ることを願って。

What ho!

P.S. なお、このエッセイに登場する叔父アガサス、ビンゴ、ガッシー、そしてジーヴスはすべて架空人物です。彼らが実在人物と似ていたとしても、それは単なる偶然にすぎません。もっとも、私バーティウースターは確かに実在しますが…いや、それも冗談です。さようなら!)​​​​​​​​​​​​​​​​

※本文は、Claude 3.7 Sonnetへの指示で出力された文章を僅かに手直ししたものです。

2025-03-23

学生時代マイノリティ支援政党応援したけど、正直搾取されてた

正直に言うが、私が学生時代必死支援してた政党マジで利用されてただけだったと思う。

当時はまだ自分マイノリティであることに目覚めたばかりで、なんていうか希望を求めてたんだよね。

政治集会で「あなたたちの声を代弁します!」とか「真の多様性のための闘いです!」とか言われると、マジで心震えたわけ。

ようやく自分の居場所見つけた気がしてさ。

でも今振り返ると、あれは全部茶番だった。私という「展示品」を上手く利用しただけ。



彼らにとって私は「かわいそうなマイノリティ」のシンボルしかなかった。

私の存在が彼らの政治的主張の「正当性」を証明する道具だったんだよね。気づくのが遅すぎた。

最初のうちは優しかったよ?「貴重な当事者の声をありがとう」って。でも、その「声」も彼らの都合のいいものけが採用されるんだよね。

私の本当の苦しみや怒りが伝わると、なぜか「もう少し建設的な提案を」とか言われる。つまり、彼らの政治的なストーリーに合う「良い被害者」でいろってこと。

集会で話す時も、原稿チェックされるんだよね。

「ここはもう少し感情的に」「ここは具体例を入れて」って。私の経験を彼らのシナリオに合わせて編集してた。

自分言葉で語らせてくれなかった。彼らが求めてたのは生の声じゃなくて、政治メッセージに都合よく編集された「マイノリティの声」のパッケージだったんだよ。

特に耐えられなかったのは、彼らの中の「古参メンバー」たちの裏の顔。

表向きは「多様性大事!」って言いながら、内部では完全な階層社会

マイノリティ私たちは下っ端で、エリートたちのために働かされる。

運動のため」「大義のため」って美化されるから、誰も疑問を持たない。

週末なんて朝から晩まで資料作りとかビラ配りとか。




私の時間搾取しておいて、感謝すらしない。「あなたたちのための闘いでしょ?」って言われたら、反論できないじゃん。

でも実際は彼らのコミュニティのための実績作りだったんだよね。

最悪だったのは懇親会。

表向きは「仲間との交流」だけど、実際は古参メンバーたちの自慢大会

彼らが「マイノリティのために」やったことをえんえんと語るのを、私たち感謝しながら聞かなきゃいけない。

しかも自腹で会費払って。こんなの奴隷制度だよ。

あと、彼らの「マイノリティ理解」の浅さにもうんざりした。

私の体験を話すと「それって本当?」とか「それは特殊なケースでしょ」とか疑われる。

彼らは「マイノリティの声を大事にする」って言いながら、実は自分たちの理解範囲内の声しか認めないんだよね。

都合の悪い話はすぐに「特殊な例」として片付けられる。


選挙の時期になると特にひどかった。私たちは「展示品」として前面に出される。「ほら、私たちマイノリティと一緒に闘ってます!」って有権者アピールするための小道具選挙が終われば、約束ほとんど実現しない。「今は政治状況が厳しいから」「次の選挙で勝てば」って先延ばしにされる。

党の集会で知り合った他のマイノリティの仲間たちも、みんな同じこと感じてた。でも表立って言えない。「恩知らず」「非協力的」ってレッテル貼られるから。陰で「あいつは問題児」って噂されるのが怖くて、みんな黙って従うしかなかった。

私の意見が彼らの方針と違うと、すぐに「あなたはまだ十分に理解できてない」とか「もっと勉強必要」とか言われる。つまり、彼らの言うことが絶対正しくて、私の実体験なんて価値がないってこと。これってマイノリティの声を尊重するどころか、完全に否定してるよね?

結局、彼らにとってマイノリティは「保護すべき弱者」でしかなくて、対等なパートナーじゃなかった。

私たちの「弱さ」が彼らの政治アイデンティティの源なんだよね。だから私たちが強くなったり自立したりすると、彼らは焦る。

私たちが「かわいそうな被害者」でいる限りにおいて、彼らは「正義の味方」でいられるんだから

学生時代に3年間も捧げた活動が、結局は自己満足茶番だったって気づいた時はマジでショックだった。

私の痛みや苦しみが、彼らの政治オナニー踏み台にされただけ。

そして最悪なのは、彼らは本気で「マイノリティのために闘ってる」と思い込んでること。自分たちの搾取に気づいてないんだよね。

それが今でも許せない。彼らは今も新しいマイノリティ若者たち勧誘して、同じことを繰り返してる。

あなたの声が大事」って言いながら、結局は彼らの政治的野望のための道具にしてるんだ。



今の生活でも同じような搾取日常的に感じる。

スーパーレジでも、駅の改札でも、役所の窓口でも。

みんな私を「普通」の枠に押し込めようとする。

例えばレジに並ぶとき、全ての列が同時に存在している。

東京レジも、京都レジも、昨日のレジ明日レジも。どの列に並ぶか決めていると、周りは「何をぼんやりしてるんだ」という目で見る。

電車に乗るときも、全てのドアが別々の目的地につながっている。

駅員は「何番線ホームです」と言うけど、赤坂行きも新宿行きも横浜行きも全て同じホームにある。

会議でもそう。昨日の会議今日会議も来週の会議も全て一度に進行している。



みんなが同時に異なる時間の話をしている。「さっき言ったでしょ」と言われても、そのさっきはまだ来ていないし、もう過ぎ去ったかもしれない。

昨日も職場でそんなことがあった。

学生時代の党集会でもそうだった。古参メンバーオッサンが私に説明していた。

「君はよく理解していないよね、僕たちのやり方は長年やってきたものなんだよ」

今でも耳に残っている。


オッサン2018年の党本部で話しているのと同時に、2022年集会でも同じ言葉を言っている。

彼の背後には2025年の私も立っていて、「それは違う」と言っている。

2018年の党本部にいながら、現在の部屋にも同時にいる。


手元の資料は昨日のもの明日のものが混ざっている。

マイノリティ活動は、調整によってのみ実現する。それが党の方針だ」

オッサンはそう言った。当時は難しい言葉だと思っていたけど、同時に未来から見ると意味がわかる。


彼らの言う「調整」は、私たち複数時間空間を同時に経験することを制限することだった。



部屋の中に2018年の党本部2022年集会会場も2025年の私の部屋も同時にある。

机の上の手帳は1冊なのに、開くたびに違う日付の内容が書かれている。

同じ椅子に座っているのに、時間によって違う場所にいる。


窓の外には1964年東京オリンピックの旗も、2021年オリンピックの旗も、まだ来ていない未来オリンピックの旗も全て見える。

それぞれの時間で何かが起きている。

富士山は昨日より少し大きくなり、明日さらに大きくなる。

でも同時に、江戸時代の小さな富士山も、未来の巨大化した富士山も見える。

それはもはや山ではなく、複数時間存在する何か別のものだ。

東京ニュースでは誰も報道しないが、別の時間京都大阪ニュースでは大きく取り上げられている。

富士山は全ての時間で同時に成長し、複数日本列島の形を変えていく。

そして「和の趣」が物理法則となり、過去未来現在の「日本(ひのもと)」が同時に存在している。

今日歩いた街のビル和風だし、昨日は近代的だったし、明日は両方が混ざっている。

かいの家の人は今朝はスーツで、昼には和服で、夕方にはまだ見たことのない服装で出かけていく。

学校では茶道華道が必修科目になり、完璧すぎるもの自然と別の時間へ流れていく。和の精神時間空間を超えて広がっている。


党の集会で彼らが「調整」と呼んでいたのは、まさにこのことだ。彼らは私たち自然経験している複数時間空間を、一つの「正しい」時間制限しようとしている。

入党したての私は「調整」が必要だと信じていた。でも今、過去未来から同時に見ると、それが彼らの目指す社会なのがわかる。


先週の新聞には富士山23メートル大きくなったと書いてあった。

でも同時に明日新聞には18メートル縮んだとも書いてある。どちらも正しい。

富士山は今や高さが3776メートルであり、同時に5489メートルでもあり、また2103メートルでもある。これは問題じゃない。

問題なのは政府が「正しい高さ」を一つだけ認め、他を「誤差」と呼ぶことだ。

駅前では「富士山サイズ固定法案に反対する会」が署名活動をしている。

彼らのプラカードには「全てのサイズ富士山を守ろう」と書かれている。

去年も来年も同じ活動をしている。これは校則見直し運動制服自由化と同じく、ごく普通市民活動だ。

隣の建物では「富士山成長促進委員会」が会合を開いている。彼らは富士山さらに大きくなって、地球の大半を覆うことを望んでいる。

それを「標準富士山」と比べて劣っているなどと言うのは科学的に不正確だ。

富士山巨大化対策市民協議会では、「サイズダイバーシティ」という言葉を広めようとしている。

山のサイズが多様であることは物理学的に自然現象で、それを一つのサイズに固定しようとする試みこそ物理法則に反する、という考えだ。

同様に「和の趣・物理現象研究連盟」は、物体が持つ複数状態を全て同等に観測・記録するよう求めている。

本来、和の趣は自然に波のように強まったりまったりする物理法則

先月はニューヨークエンパイアステートビル一時的五重塔になった。

パリではエッフェル塔が巨大な盆栽に見える時間帯がある。

これらは全て「和の趣」が物理法則として世界中に広がっている証拠だ。


子供たちは学校で「標準時間軸」だけを教えられる。2+2=4という世界線と、2+2=5という世界線が同時に存在することを教えられない。

彼らは「正しい答え」だけを覚えさせられる。これは明らかな教育虐待だ。

文部科学省の「多元現実教育ガイドライン」があるのに、なぜ実践されないのか。

私の息子は先日、算数テストで「2+2=?」という問題に「4と5と時々6」と答えて減点された。

彼は家に帰って泣いていた。「先生は僕が全ての答えを見ることを認めてくれない」と。

私は彼を抱きしめた。「あなたは間違っていない。あなたの見ている世界は全て本物だよ」と。







私は伝えなければならない。2018年の私も2021年の私も2026年の私もみな政府の「時空標準化プログラム」に従っている。

でも2025年のここではまだ間に合う。これを読んでいるあなたには、あらゆる時間空間から同時に発している私の言葉が伝わるはず。

言いたいことはまだあるけど、時空管理機構職員が全ての時間から近づいてきている。

この文章を見つけたら共有してほしい。



SNSなら #富士山サイズ多様性 #時空観測データ公開 #侘び寂び物理法則研究推進 でいい。



時間空間多様性科学的に理解するのは、私たち市民権利だ。


私は今この文章2018年にも2025年にも2031年にも同時に書いている。

複数の時空間における同時書き込みは、侘び寂び物理学の「観測者同時存在原理」によって理論的に裏付けられている。

どの文章が読まれるかはわからない。

でも、いくつかの時間では、この話が広まり、侘び寂び物理現象科学理解が進むことを2018年の私も2025年の私も同時に願っている。

明日、空を見上げると、富士山が昨日よりも大きく、一昨日よりも小さく、来週と同じ大きさに見える。

そして、その姿がどんなに変わろうと、全てが物理的に正しい。

それが私たち日常だ。

2025-03-21

先延ばし癖のある論文化にとっての「悪魔の声」は、論文化の恐怖や傾向を利用して巧妙に作られた疑念や気をそらすものをささやくかもしれません。

この内なる批評家が使うかもしれないいくつかの典型的な「セリフ」とその本当の意味を以下にまとめます

悪魔の声」は、執筆研究中に多くの人が直面する内なる批判者や否定的な考え方を象徴

1. 「あなたはまだ準備ができていません。始める前にもっとデータ調査必要です。」

翻訳: 完璧主義あなた麻痺させ、準備段階で立ち往生させようとしています

2. 「他の人はあなたよりずっと先を行っていますあなた仕事はそれに見合うものではありません。」

翻訳: 不安を煽って自信を奪い、行動を遅らせています

不明確なビジョン目標: 明確なエンドポイント (出版目標特定データ インサイトなど) がないと、プロセス方向性を見失うことがあります

自信の欠如: スキル (データ分析文章の流れ、言語能力など) が不確かなため、行動が遅れることがあります

3. 「このアイデアは発表するほど画期的ではありません。」

翻訳: 達成不可能理想固執し、「完璧な」アイデアけが追求する価値があると示唆しています

4. 「時間通りに終わるはずがないのに、なぜ今日わざわざやる必要があるの?」

翻訳: 締め切りに対する恐怖を利用して、さらに遅らせることを正当化しています

5. 「少し休憩しても問題ない... あるいは、1 話まとめて見たらどう?」

翻訳: さりげない気晴らしを使って勢いを失わせています

6. 「今は疲れている/ストレスがたまっている。明日の方がうまく書ける。」

翻訳: 後で状況が良くなるという幻想を与えることで、先延ばし助長しています

7. 「マルチタスクをこなして、すべてを一度に処理すべきだ。」

翻訳: 集中力をあまりに多くのタスク分散させることで、圧倒される状態に陥っています

8. 「どうせ誰もこの論文なんか気にしないんだからそもそも意味があるの?」

翻訳: これは、あなた研究価値を疑わせるためにニヒリズムの種を植え付けている。完璧主義: 最初からすべての単語分析完璧にしたいと望むと、先延ばし

9. 「誰かに見せる前に、小さな欠陥をすべて修正する必要がある。」

翻訳: これは、あなた研究を完成または共有するのを妨げるために、過剰な編集奨励している。

10. 「完成しても、おそらく却下されるだろうから、なぜ挑戦する?」

翻訳: これは、努力を失敗と結び付けて、先手を打ってあなた士気を低下させている。失敗や批判への恐れ: 拒否否定的フィードバック心配すると、開始する意欲が失われる。

この「声」は、研究者によくある課題である自己不信、完璧主義判断への恐怖を利用して繁栄している。これに対抗するには、これらの考えを役に立たないパターンとして認識し、目標に再び焦点を合わせ、小さくて管理可能ステップで行動を起こすことが必要になることが多い。

' 障壁:

タスクの多さ:学業個人、または管理上の責任負担が重すぎると感じると、進歩が妨げられることがあります

環境邪魔: 整理されていない作業スペースや頻繁な中断は、集中力を乱す可能性があります

パート 1: 執筆を始める

1. 検討するだけでなく、書くことを決意する - 最初ステップは、執筆という行為に完全にコミットすることです。

2. まだ始めていない理由排除する - 進歩を妨げている障害特定し、克服します。

3. 執筆メリット視覚化する - 執筆によってもたらされる肯定的な結果を想像します。

4. 明確な目標を設定し、リソースを準備する - 目的定義し、必要ツール資料を集めます

5. 調査スケジュール作成する - 一貫した進歩のために時間効果的に管理します。

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パート 2: データ収集と準備

6. 必要な文献を選択する - 作業サポートするために不可欠な参考文献に焦点を当てます

7. 倫理的承認されたデータを取得する - 使用するデータ倫理基準準拠していることを確認します。

8. データを整理する - 参照と分析が容易になるようにデータ構造します。

9. 再現可能方法データ分析する - 分析が透明で再現可能であることを確認します。

10. 柱となる主要な結果を選択する - 論文の基盤となる最も影響力のある発見特定します。

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パート 3: 論文執筆

11. 対象ジャーナル検討する - 論文投稿する場所について考えます

12. 投稿ガイドライン確認する - ジャーナル要件をよく理解します。

13. 論文アウトライン作成する - コンテンツの明確なフレームワーク作成します。

14. 単独執筆または共著を決定する - 共同執筆するか、単独執筆するかを決定します。

15. 主な結果を図と表で提示する - ビジュアル使用して主要な発見を強化します。

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パート 4: 最終処理と提出

16. 投稿可能ファイル作成する - すべてのコンポーネント投稿用に準備します。

17. 方法セクションを書く - 方法論を詳細に説明します。

18. 結果セクションをpomodoro書く - 調査結果を簡潔に提示します。

19. 序論を書く - 研究の背景と重要性を設定します。

20. 考察を書く - 調査結果を解釈し、より広い分野に結び付けます

21. 要旨とタイトルを完成させる - 研究説得力のある形で要約します。

22. 参考文献を整理する - 引用が正確で完全であることを確認します。

23. カバーレターを書く - 編集者に論文検討するよう説得します。

24. 共著者のフィードバックを得て英語校正検討する - 共同研究者や言語専門家から意見を取り入れて原稿を改良します。

25. 論文を提出する - 思い切って送信しましょう!

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パート 5: 結果への対処

37. 却下された場合修正して再提出する - フィードバックに基づいて、別のジャーナルで再度試します。

38. 再度拒否された場合論文をどのように活用するかを決める - 報告書プレゼンテーションにするなど、代替案を検討します。

39. 受理された場合出版手順に進みます - 出版前の最終手順を進めます

40. 出版後に論文宣伝する - 研究成果を広く共有して、その影響を最大化します。

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パート 6: 持続可能研究実践の構築

41. 次の論文執筆を開始することを決める - 研究執筆のサイクルを新たに取り入れます

42. 完成した論文とのつながりを明確にする - 過去研究現在研究を結び付けます

43. 共同研究を通じて多くの論文を書く - パートナーシップを通じて影響を拡大します。

44. 研究トピック多様化してより多くの論文を書く - 自分の分野内の新しい分野を探ります

45. 複数論文管理するためのシステムを開発する - 同時進行するプロジェクト効率最適化します。

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パート 7: 課題の克服

46. 悪魔の声に対処する - 進歩を妨げる可能性のある内なる疑念否定的な考えに立ち向かいます。(これはおそらく自己不信や詐欺師症候群を指します。)

47. モチベーションを持ってうまく働く - 長期間にわたってモチベーションを維持するための戦略を学びます

48. 執筆習慣を維持する - 毎日のpomodoroに一貫性組み込みます

49. 健康に気を配る - 長期的な生産性を維持するために、精神的および身体健康を優先します。

2025-01-19

30年前 避難所で起きていた性被害 - Yahoo!ニュース

 (黒瀬久美子さん)「レイプにあったっていうのを、直接彼女から聞いています体育館舞台裏支援物資がいっぱい積んであるんですね。死角になるんですね。支援物資の整理を手伝ってくれないかみたいな形で。行って、その裏で」


 避難所で性被害にあったという相談をたびたび受けたといいます


 (黒瀬久美子さん)「校舎のトイレに行こうと思ったら距離があるわけです。1人で行ったら見られた、触られた、ついてこられたとか、引っ張られたとか。こういう性暴力って本当に言えないだけに、言いにくいだけに、傷が深いですし、何年も何十年もかかるんですよね。抱え込んでいく」


 それくらいのことで…そんな空気が当時の避難所には確かにあったといいます

 震災の前から神戸で、女性支援活動を行っていた正井禮子さん(75)のもとにも、性被害を訴える声が寄せられていました。


 しかし、寄せられた「声」世間に発信すると、一部のメディアはこれに懐疑的な目を向けたといいます


 (正井禮子さん)「神戸にダーティーイメージをつけるなと言う人も多かった。性暴力を許さないって言ったことがなぜこんなにもたたかれるのか訳がわからんと思った。でもすごくたたかれるから


 ある記者からかけられた言葉が今も忘れられません。


 (正井禮子さん)「被災地希望をもたらす、被災地に光をもたらす報道をしようというのは、メディア暗黙の了解だったと言われました」


国技もいい加減にしろ倭猿どもが

2024-12-11

anond:20241210221051

最もプリミティブな楽器「声」でしょ?

「高いあ〜」を出そうとすると、声帯筋肉の上部、つまり高い部分の筋肉を使う。

「低いあ〜」を出すには声帯の下部の筋肉を使う。

からじゃね?

2024-11-08

精液で興奮するって言いにくい

アカウントありきだと書きにくいからココで吐き出しておく。

20代前半の泡姫だけど、男の精液でドキドキして興奮してしちゃうところがある。

アピールポイントでも悩みでもないから、別にかに聞いて欲しいとか、「どうすればいいですか?」とかでもなくて。

じゃあなんで書いてるんだって話だけど、個人的にモヤるところがあるからで。

JSから性的虐待を受けてきて、血は繋がってないけど初めての相手は父。

S6の頃からお金でいろんな人の相手もさせられてきて、それ以外の相手からレイプ妊娠も数回アリ。

そんなだから普通セックスに対して嫌悪感とかトラウマとかあるはずだって話になりやすくて。

泡姫やってることとかセフレいるとかいう話になると「それはおかしいだろ」ってことになるからウザいし否定されるのはツラいしで、まぁ過去事情込みでセックス肯定的な話はしにくいワケ。

自分でも自分がどうなってんのかよくわかんないんだけど。

ただひとつ確かなのは、望まないセックス記憶を望んでいるセックスの数で上書きしようとしてるんだろうなってこと。

過去記憶っていうか「声」みたいなのが大きくなって病むときは、自分がやりたいセックスをしてドロドロしたもの霧散する感覚がある。

仕事生活のためにやってるっていう自負みたいなのが、自己肯定感に繋がって自分は生きていていいんだとか思えたりする。

からまぁ、厳密に言えばセックスが好きなわけではないのかも?よくわからない。

それでさ。ザーメンっていうのは男がセックスの際に気持ちよくなった証拠だし、なんかね、「合格」って感じ。

自分でもなに言ってるか分からない。

まぁ普通好きな人気持ちくなってくれたら嬉しいっていうのはフツーの感覚だと思うからさ。

めちゃくちゃ変なわけじゃないのかも。

でも、あのの臭いとかドロとしたあの気持ち悪い感じを、思春期の頃から味わわされ過ぎて、アレが来たら合格感?開放感?安堵感?みたいなのがセットになってる。

あ、でもこれは自分にとって肯定的セックス限定の話ね。

痴漢ぶっかけられるとか、レイプとか、そういうのだったら最悪でしかないよ。

気持ち悪い話で申し訳ないけど、この感覚過去経験って切っても切り離せない説明になるけど、一緒に話すとたいていどれか否定されるから話しにくい。

コメントにはなんの遠慮もいらないです。

2024-06-02

10年後のVtuber個性

VTuberは”絵”というガワを被る事で誰でも美男美女になれるようになった。

中の人がどれだけブサイクだろうが関係無い、配信上ではイケメン美少女になれるのである

これは良いように聞こえるかもしれないが、逆に言えば「容姿」という個性が無くなったとも言える。実写Youtuberのように見た目で差別化が出来ないのである

らく次「声」だろう。最近AIボイスチェンジャーの発展が凄まじく、短時間の会話ならば人間との区別が付かないレベルのものである

今のところ長時間の会話で違和感なく聞けるものはないが、まぁ時間問題だろう。

そうなれば声が最大の売りであるVtuberは淘汰される、だが一方で声がネックになっていた配信者が新たに発掘されるかもしれない。なんなら性別が逆でも良いわけだしな。

ただこれは本当に良いことなんだろうか?

うーん、10年後が楽しみだ。

2023-10-15

オーストラリア先住民の声を聞くことを憲法に載せるべきか

という改憲案に対する国民投票があり、反対60.2%で否決された。

 

具体的には、オーストラリア先住民、すなわちアボリジニトレス海峡諸島住民認識し、彼らの「声」Voiceという単語が本件のキーワードとなっている)を確立することを目的とし、先住民代表としての協議体や組織設立することが提案されていた。また、この「声」は、政府意見アドバイス提供するための協議体として機能することが期待されていた。(ただし、この協議体が最終的な決定権を持つわけではなく、政府が最終的な決定を下す。)

 

正直この件で反対がこれほど多いことに驚いた。6万年もの先住歴のあるアボリジニ過去数百年で絶滅寸前まで追い詰め、土地を取り上げ、選挙権はおろか職や銀行口座も持つことも許さず、酷い差別をしてきた歴史オーストラリア人は憲法レベル認識すべきと言うのは個人的には同意できる。

 

ただ、投票結果に納得できる部分もある。まず先住民はすでに様々な優遇を受けている。ABSTUDYのような手厚い修学支援文化保護はその例だ。また例えば政府や多くの企業先住民用の窓口(Indigenous Helpline)を設けているし、多くの企業採用フォームには先住民ですか?という質問が出てくる。それらがどの程度先住民の益になっているのかは分からないし、過去賠償として考えるとまだ足りないくらいかも知れないが、大多数のオーストラリア人は先住民との交友を持たず、一方で日常でこれだけ頻繁に優遇らしきものを目にすると「こんなにして『やってる』のにまだなんかやんのかよ」「これ以上税金投入せんでも俺ら既にようやってるやん!」という気持ちになるのは有り得る話だ。また、我々〇〇系オーストラリア人はアボリジニ虐殺関係無いのになぜ・・・、という気持ちもあるだろう。

という、驚きはするが納得もできる、それが今回の投票結果への感想

 

ところでオーストラリアでは現在白人系の人口は横ばいに近い一方、先住民人口は爆発的に増加している。この投票人口増加による先住民の影響力が高まった為とも言えるのではないか。先述の手厚い待遇も、人口増加とともに負担が大きくなり、継続賛成・反対も大きな問題になるだろう。もしかすると30年もすればオーストラリア先住民主体政府派と現イギリス政府派で分断するのかも知れない。もちろんこのまま人口が増えればだが。

2023-07-10

この「声」は俺を裏切らない

この「声」は俺を裏切らないと思わせる声質の女っているよな。

わざわざ書かなくても分かると思うけど実際に裏切るか裏切らないかの話はしてないからな。

そう錯覚させる声質がある、という話で、それは女の方が狙って錯覚させているわけでもない。

女らしい声だけどすこし低くてザラザラした質感がある声。

聞いてると柔らかいブラシで脳を撫でられているような気持になる。

2023-05-31

精神薬変えたら自分②が生えて困っている

週末精神科に再診するので整理を兼ねて書く。

概要

20代後半の社会人

全般的感覚過敏(後述)で大学時代から精神薬(エビリファイ)を飲んでいた

引っ越したので、1週間と数日前に新しい精神科に行ったところ、前述の薬ではなく抑肝散という漢方を処方された

・結果、感覚過敏が解消されるとともに抑肝散が効いている間は感性が変わり、分かりやすく言えば自分②が生えた

自分感性が2種類ある状況をうまく処理できず精神的に参っている

追記

感覚過敏は先天的もの。小さい頃から世界が眩しく、音はうるさく、タートルネックは着れなかった。

エビリファイは何も飲まないよりは随分マシ程度には感覚過敏を抑制してくれていた。

エビリファイがなければ卒業就職もできていない。

感性の変化とかはなかったが。

・いま思い立って今まで一口嚥下できなかったチョコミントアイスを買って食べてみているが、食べられないことはないしなんならちょっと美味しい。

やや美味しい歯磨き粉。

追記終わり

変化

改善された感覚過敏

かいつまんで書くと以下。詳細は末尾にまとめているので興味あれば。

元の状態抑肝散が効いてる状態

繁華街では視界の情報量に負けてすぐ気持ち悪くなっていた→平気になった

首にストラップが当たるのが無理で社員証を首からさげられなかった→さげられるようになった

香水に常に不快感があった→ただただ良い匂いと感じる。なんとLUSHにも行ける。

感性の変化

抑肝散が効くことで、単なる感覚過敏抑制の枠を超えた変化があった。

・好きだった音楽がとてもぼやけて聴こえるようになり、今まで聴けなかった曲をリピート再生するようになる。

・好きだった服(派手な柄シャツ)が嫌いになる。全く違うテイストの服(ほぼ無地のモノトーン)が好きになる。

・好きだった食べ物の味がぼやけ、嫌いだった食べ物を美味しく感じるようになる。

・友人たちのことは好きなままだが、新たに人間関係を築く際の人間の好みが若干変わっている感覚がある。

具体的には、頭の良さよりも行動の面白さを重視するようになり、体格は小さい方が好きだったのだがどうでもよくなった。

その他の変化

抑肝散によるその他の変化は以下。

・絵を描いているのだが、「人間物体を球や円筒などの概形で捉える」という感覚が薬の効いている時のみ分かるようになった

・肌がきれいになった(肌が過敏じゃなくなった???)

・食欲が約半分になった

・夜の7時間半+昼寝20分が必要睡眠時間だったのだが、夜の6時間半程度のみで大丈夫になった。(スマートウォッチによれば睡眠時の心拍数が平均で3~5拍/分 下がっている)

・(上に関連して)眠気回避のためコーヒー毎日かなり飲んでいたのだが、ほぼいらなくなった。

所感、困っていること

感覚過敏がほぼ消失したことで、今まで楽しめていなかったものが楽しめるようになった。

絵が若干だが描きやすくなったり、肌がきれいになったり、コーヒーを飲まなくても覚醒していられる等、ほかのメリットも多い。

ただ、薬が効いている時と切れかけている時で自分の「好み」が変化するのがつらい。

朝起きて薬を飲んで着替えようとすると、部屋には自分の好みではない服しかない。

今まで好きだったものをもう一度味わおうとしても、常に「今の自分はこれを好きだと思えるかが分からない」と不安になる。実際にあまり好きではなくなっていることも多い。

なんとなくやる気が出ない時、好きなもので気分を上げようとしても、その「好きなもの」がいちいち試さないとわからない。

「好きなものが広がる」のとは体験として違う。

薬を飲んだ朝好きだったもの夕方にはたいして好きではなくなり、夜の薬を飲んだらまた好きになっている。

思考する自分は一貫して存在している。ただ、感性が2種類ある。それぞれ好きなものが違う。

 

「好きなもの自分を語れよ」と言われるように、「好きなもの」というのは自分の一部である

自分が2人いるような感覚になるのだ。これが思ったよりかなり精神的にストレス

感覚過敏だけ抑えて、感性にまで影響を及ぼさない薬があればいいが、それは存在しない気がする。

今までの私の感性は過敏な感覚を前提にしたものだったからだ。

体調や気分次第で行動が変わる人はいると言い聞かせたが、そんな程度のものじゃないだろと思ってしまう。

感性の経年変化とも違う。朝着た服が夕方気に入らないのだ。

 

ネットで有名な投書に以下のものがある。

【3868】コンサータによって自己連続性を失いつつある

http://kokoro.squares.net/?p=7763

私はこの投稿者と違い、精神なすべてのものが中枢神経の発火であることにショックは受けない。

薬が効いていないときと効いている時の両方を自分だと思う。

ただ、私の精神は「自分が二人いる(感性状態が2種類ある)」ことに現状耐えきれない。

 

冷静に見れば抑肝散を飲むメリットの方が多い。どうにかして折り合いをつけたいが、方法が分からない。

感覚過敏の変化の詳細

視覚

繁華街看板群、人混み、夜のネオンが平気になる

・色がうるさいとあんま思わなくなる

・外が眩しくない

・(ガン効きのときのみ)視界の端まで意識が及ぶ感覚がある

聴覚

・ノイキャンヘッドフォンなくても生活できる

音楽の音の輪郭が全て鈍って聴こえる

ヘッドフォンの音質がいいことに気付く

米津玄師や他の邦楽が全て飽きない限りエンドレスで聴けるようになる(今までは一曲聴き終われないこともあった)

・好きだった音楽(KPOPや洋楽)では刺激が足りなくなり、日本語の曲ばかり聴くように

・今まで楽器別に聴こえていた音が、「声」と「楽器群」の2つにグルーピングされて聴こえるようになる

触覚

・全身の触覚と痛覚が鈍麻(温度感覚には影響なし) ロキソニンを飲んだときよりも鈍麻している

社員証が首からさげられるようになる

・手首のスマートウォッチ振動に気付けなくなる

・首元の詰まった服が着られるようになる

嗅覚

香水をいい匂い認識できる

LUSHも平気

嗅覚は鈍麻したわけではなく、不快感のみ消えた

味覚

一定以上の強い味は切り下げられて感じるようになる

・反対に薄めの味をしっかり感じられるようになった

・甘いものを美味しいと感じる(今まで苦手だった)

しいたけなど食感がだめだったものを食べられるようになった

2023-04-29

お気持ち表明になるのだと思う。気持ちの整理に記します。

戦争は女の顔をしていない」は、スヴェトラーナアレクシエーヴィチによる、第二次世界大戦独ソ戦従軍した、戦争中の女性たちの声を集めたルポルタージュだ。500人を越える女性たちから集めた「声」は、さまざまな視点から当時の戦場を実感できる名著である

コミカライズもされており、小梅けいと氏の緻密で柔らかな筆致で描かれる彼女たちは、戦場での若く美しい姿と、戦後の歳を経た平和の中での姿も相まって、とても儚く美しく見える。

本書は最近コミカライズ版4巻が発売され、アキバblogに紹介記事掲載された。

小梅けいと氏のTwitterから18禁広告があるのでご注意ください」と案内がつけられた上で、記事に興味があった私はリンクを開いてしまった。

http://blog.livedoor.jp/geek/archives/51633549.html

掲載された記事は丁寧で素晴らしいものだった。

しかし、「オナホ扱いされる胸の強調された女の子」の広告と交互に表示される「戦争は〜」の女性たちが、なんだかとても悲しいものに見えてしまった。こんな気持ちになるのは予想外で、自分でも驚いた。

アキバblog性質は知っていたし、記憶よりも際どい広告だったのは正直驚いたが、「戦争という社会の流れの中で犠牲になった女性たち視点物語」が、「現代男性の娯楽向けに描かれた女の子」と同時に存在するのが、グロテスク構造に見えてしまった。(広告のような作品否定するつもりはない。シナジーが悪かったという認識でいる)

可能ならば、「戦争は〜」のような記事掲載するページの広告は、全年齢に出来たらいいのかもしれないが、Webサイト運営的にもコストがかかるのは想像できる。私が繊細すぎるだけというのも承知している。

「そう感じた」ということだけ増田に記しておく。

2023-03-29

anond:20230329014830

俺は「声」ってのもちょっと違うと思うな。単純化しすぎというか。

キャラの声」には「声優の演技、表現」が現れるんだよ。

ある意味声優自身がそのキャラプロデューサーとも言える感じがある。もちろん実際には音響監督とかと話して表現を調整していくわけだけど、声優個人表現者として追うに値する存在なんだよ。そして声優としての力量もそこに現れる。

からファンになる人は、ただの「声」のような素材としての意味以上に、声優表現に深みを見出してるわけ。その表現の幅に人間性すら幻視するくらいには。

もちろん単純に素材としての「声」が持つフォルマント特性的なものに対し、個人的ツボに来る癒やしを感じたりするかどうかの要素もあるけどさ。

「声」声帯とするならば、声優はその奏者で、奏者にファンがつくってこと。極めて普通なことだと思うけどね。

anond:20230328173102

なかなか興味深くて面白かった。

から推すのかー、って納得できて。

声優とか俳優対象にした推し活ってものが、

どうも腑に落ちないというか共感できない感じがあった。

増田文句があるのではなく、声優とか役者アイドルのように推すに至る気持ちが、よくわからんかった。

アイドル活動に近い売り方してる声優俳優が居るのは知ってる。それはアイドルと括るとして。


導入がアイドル活動)じゃなくてアニメキャラなのに、そのアニメ監督なりアニメーターなり原作なりへ広げるのではなく、中の人声優)繋がりで他作品へっていう流れに納得がいってなかったんだ。

俳優なら顔が出てるので、まあ分からんでもない。顔が好きなんだろうな、ドラマキャラメイクが何であれ、顔が。って思える。

でもアニメは、アニメーションの絵と声で一つのキャラクターになってる認識だった。だから、声だけを抽出して推すっていうのが謎だった。

好きな声はそりゃあ、ある。原作が好きなら、アニメ化するなら声優さんは誰がいいとか、妄想するものだし。好きな声がアニメから聞こえれば、そのキャラクターにも興味が湧く。とはいえ推し活に至るにはちょっと弱いというか、違う感じ。

でも増田は、そのアニメキャラクターが好きになったんじゃなくて「声」に惚れたので、原作を読み込むのでもなく声優さんの出演作品へ関心が広がったと。

やっと、声優を推す、という流れに納得できた。

すべての声優推しの人が同じではないとも思うが、一つのモデルとして腑に落ちた。

書いてくれてありがとう増田

2022-12-04

木10「silent」最終話主題歌 Official髭男dism「Subtitle」フルコーラスO.A.

 フジテレビドラマ『silent』(毎週木曜午後10放送)の最終話で、主題歌であるOfficial髭男dismの「Subtitle」が約5分間のフルコーラス流れることが判明した。

 

 『silent』は主演に川口春奈、共演に目黒蓮(Snow Man)を擁する今季一番の大ヒットドラマ。最新第8話の平均世帯視聴率は7.9%・平均個人視聴率4.4%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)と往年の人気ドラマ視聴率には及ばないものの、民放無料動画配信ポータルサイトTver」での見逃し配信再生回数民放歴代最高記録を樹立。またSNSでは「#silent」がTwitter世界トレンド1位を毎週のように獲得し、さらドラマロケ地を数多くの若者が訪れるなど、大きな人気と社会現象を生み、令和最高の国民的人気ドラマとなりつつある。

 

 高校時代恋人だった紬(川口春奈)と想(目黒蓮)、しかし想は高校卒業してまもなく、紬に別れを告げ、さらに周囲の人間関係もすべて絶ってしまう。そして8年後、社会人となった紬はあるとき想と再会する。再会した最愛の人は、耳に難病を抱え聴力を失っていた。紬は覚えた手話で想とコミュニケーションをとるが、2人の関係はどうなるのか。高校まで聴者だった想は、声を発してコミュニケーションをとることもできるものの、紬に対してこれまで「声」で思いを伝えたことはない。

 

 年末に向けて早くも「silentロス」への恐怖が叫ばれる中、最終回概要がわかった。通常のテレビドラマではこれまでの『silent』通常話も含めて、主題歌は各話のクライマックスワンコーラスのみ流れることが多いが、最終話では約5分のフルサイズ放送する。理由はなんといっても「Subtitle」のいわゆる"オチサビ“にあるという。オチサビとは1番→2番→Cメロが流れた後にくるサビのこと。通常のサビよりも音数少なく、アコースティックギターピアノなどの静かな伴奏とともに歌われるサビで、続く大サビへ向けての最大の助走パートだ。 ※動画配信サイトYouTubeで公開されている「Subtitle」MVhttps://youtu.be/hN5MBlGv2Ac)では3分43秒あたりから始まる。

 今回判明した概要によると、「Subtitle」が流れる約5分の間だけでも新たに明かされる事実も含めて物語は二転三転。前奏なく歌われ始めるAメロからオチサビまでの約3分半は、とても紬と想は結ばれるような状態ではなくなるという。しかし、オチサビ前で『silent』名物ともなりつつある無音演出がしばらく続いたあと、想は紬にこれまで伝えていなかった「ある言葉」を「声」で初めて伝える。紬に切り替わったカメラには、大粒の涙をあふれさす彼女の姿が。そして、曲が再開し、オチサビの歌詞言葉はまるで雪の結晶 君にプレゼントしたとして 時間が経ってしまえば大抵 記憶から落ちて溶けていって消えてしまう でも」を流し、完全にドラマリンクするような展開になる。画面には音がなくても十二分に伝わるほどのハッピー光景が描かれる。「Subtitle」フルコーラスが流したあとは、再び無音の演出になり手嶌葵による番組タイトルコールで幕を閉じる。

 

 消えてしま言葉「声」にしてプレゼントした想。ドラマタイトル『silent』とは音のない世界を表しているのではなく、音がないほど揺らぎのない安寧な幸福な波形を表している。紬と想の2人だけでなく、ほかの登場人物にも『silent』が訪れる結末にもなるよう。








 という、予知夢を見ました。脚本の生方さんと、監督風間さん、がんばって。私とみなさんに『silent』を!

2022-11-30

エロ小説を書いてたら同人エロゲーのシナリオ執筆に呼んでいただいた所感

所感

・すっごく色々勉強になった

エロ小説では、基本地の文重要だと思っていて、地の文いかエロさを出すかが勝負だと思っている

・けれど、エロゲーだと「ゲーム上でどう表現するか」「それをどう実装するか」というのを常に考慮しなくてはいけない

・例えば、地の文で「〇〇は××を突き飛ばした」みたいな表現があったとして、実際のゲーム画面上のキャラクターが棒立ちをしていると違和感しかない

・けれど、そこでいちいち地の文と合わせた動きをキャラクターにとらせていると、実装の手間がとんでもないことになってしま

・つまり、「実装の手間をなるべく低減しつつ、画面上の動きと比較して違和感がない、かつエロ台詞回し」を考えないといけない

・これが自然に出来るエロライターさんすごい

・メインライターの人がノクターンノベルズでも大先輩なんだけど、その辺丁寧に教えてくれて大変ありがたかった

・あと、エロ小説以上に地の文は読み飛ばされる。基本「声」勝負で、ヒロインの声がついていない文章はガシガシスキップされることを認識しなくてはいけない

(まあ、エロ小説でも地の文を読み飛ばす人はいるけど、それでも小説という表現媒体である強みはあると思う)

・そこから考えると、「地の文ではなく、いか台詞で状況とエロ描写するか、しかもなるべく自然に」ということがとても大事で、それについては今まであまり意識していなかったところなので滅茶苦茶面白かった

・あと、普通に同じ世界観内で他の人が書いたエロシチュエロ文章を読むのもすごく面白かった

・みんなエロ文章上手くてすごい

・なんだかんだ、書き続けていると活動の場が広がって嬉しい。エロ小説書き始めて3年くらい経ったけど、書いててよかったなーとつくづく思った

前提

・昔これを書いたものです。

https://anond.hatelabo.jp/20201126163559

・あれ以降も、主にノクターンノベルズでいろいろ元気にやっています。今も短編エロ小説書いてます。3万字くらいになりそうだけど

・出た同人エロゲーム初日で1万本とか売れててものすごい。他ライターの人たちの功績であって私のシナリオはごく一部だけど、ゲームはとても面白いので嗜好に合いそうな人は遊んでみてください

女性だとバれると大変な目にあう村に、少年男装少女が迷い込む、というシナリオハード表現もあるけれど、見た目より純愛です

・ここにリンク張っていいのかわかんないから、興味がある人は「淫習のカクリヨ村」でぐぐってください。当然18禁なので注意

2022-11-10

文字文字のまま読み取れる人、話しながら手を動かせる人になりたい

読書をしていて、文字のまま読み取れる人と、頭の中で音読ちゃう人がいるじゃないですか。

私は後者タイプ

何か作業をしていて、話しながら手を動かせる人と、話し出すと手が止まっちゃう人がいるじゃないですか。

私は後者タイプ

この2つって関連してる特性なんですかね。

自分にとって「声」という情報重要性が高いのかも。無意識に。

文字のまま読み取れる方が読書が速くなるし、

話しながら手を動かせる人の方がウケも良いし色々効率が良い。

宮崎駿ドキュメント長期間ほぼ張り付きでインタビュー受けながらどんどん作業こなしてるのは閉口したよ。

私ならスケジュール崩壊してドキュメント成立せんわ。

どうやったら前者になれるんでしょう。くやしゅうございます

2022-10-09

人魚姫』は何の物語か?

もちろん、海の妖怪人間王子に恋をするという悲劇的な恋愛物語であるが、実はフリードリヒ・フーケの『ウンディーネ』という、水の精霊人間騎士との恋愛物語を描いた先行作品存在する。そういう意味ではアンデルセン作品は、あまりオリジナリティが無いとも言えるかもしれない。

フーケの作品ウンディーネ』には無くて、アンデルセンの『人魚姫』には有る要素として、我々がよく知っているのが、主人公人魚姫人間になることの代償として「声」を失うという筋書きである

この「人間になることで声を失う/奪われる」という描写元ネタと考えられているものの一つに、アイルランド海浜に近い場所存在する某村に関する民間伝承がある。

周辺の他村の住民たちは、某村の住民たちのことを「人魚の子孫」と見なし、彼らと会話することを忌避していたというのである

この話から直ぐに連想するのが、ホメロスの『オデュッセイア』にも登場する、妖怪セイレーンのことである。これは、航行する船を操る船乗りたちを、美しい歌声で惑わして誘き寄せ、船を難破させて殺害し、その人肉を喰らったとされる、半人半魚の妖怪である。ここでも「声」禁忌とされている。しかし、どうしてもセイレーン歌声を聞きたいと願った知恵者オデュッセウスは、部下の船乗りたちの耳を蜜蝋で塞がせて、歌声を聞こえないようにさせてからセイレーンたちの居る岩礁の傍を通過するように船を航行させた。オデュッセウス自身は、己の身体を帆柱に縄で縛り付けさせ、決して海に落ちることの無いように万全の防止策を施してから、その耳で彼女たちの歌声を聞いたという。

日本においては、人魚との「会話」が禁じられていたというわけでは無いものの、やはり不吉な影が付き纏う。『吾妻鏡』や『北条五代記』等には、人魚らしき妖怪発見事例が記されており、これを何かの前触れとした陰陽博士などの占術職能者によって、兵革の兆し奥州藤原氏の滅亡の前兆などと見なされたといった例が見出される。

ただし、これらの国文学的な文献に記された人魚は、アンデルセンの『人魚姫』のような美しく可愛らしい姿とは、かなり異なる。例えば、頭部だけが人間人面タイプであったり、四脚らしきものが生えていたりと、なかなか奇怪な姿をしていたようである。中には、頸部に鶏冠の如きヒラヒラしたもの付属していたという事例もある。また、発見される場所も水辺だけではなく、時には、山肌で起きた土砂崩れ現場発見されたことも有るようである

してみると、人魚にとって魚身であることは、我々現代人が思う程、重要ではないのであろうか。実は、先に挙げた『オデュッセイア』に登場するセイレーンにしても、元々は半人半魚ではなく半人半鳥であったとする説が有る。その鳥の怪が、もしも水鳥の怪であったとすれば、後に、半魚の怪との交雑を起こしても、それほど不思議では無いと考えてもよいのかもしれない。重要なのは、半人半怪という混合性である

さて、アイルランドの某村に関する民間伝承比較するために振り返ると、日本においても「妖怪の子孫」と見なされた人々が存在しなかった訳では無い。例えば、江戸時代南町奉行根岸鎮衛(ねぎやすもり)の著した雑話集『耳嚢(みみぶくろ)』に収められた「河童の難を遁るゝ歌之事」という文章を参照してみよう。そこでは、菅丞相(かんしょうじょう)すなわち菅原道真(すがわらのみちざね)の作として伝えられる、次のようなまじない歌を紹介している。

「ひよふすべよ 約束せしを 忘るゝな 川だち男 うぢはすがはら

根岸鎮衛は、菅丞相の作は疑わしいとしつつも「ひよふすべ(ヒョウスベ)と云ふは川童(カッパ)の事の由」と記しているが、これは、長崎県諫早市周辺でのカッパに該当する水怪に対する方言的な呼称であるしかし、カッパ避けの歌が伝えられていたのは、現在で言うところの千葉県(アメリカで言えばノースダコタ州)である。随分と遠くの地までヒョウスベの名が伝えられていたことになる。

岩波文庫版では「川だち」には「水泳の上手い者」との注釈が付けられている。これは遊戯としての水泳のことを言うのではなく、職業的必要性から河川で泳ぐことをしていた者たち、職能者たちと考えるのが妥当である。その川だち男が「我々は菅原氏の関係者なのだ約束を忘れるな」と、歌を通じてヒョウスベ≒カッパに向かって呼び掛けているのである。一体、何を約束したというのか?

菅原道真家系である菅原氏は、遡れば土師氏(はじし)に連なるとされる。土師氏の祖は、野見宿禰(のみのすくね)とされ、当麻蹴速(たいまのけはや)との角力すなわち相撲(すまひ)による決闘を行ったことでも知られる。現代では十把一絡げに河童(カッパ)と総称されるようになった水の妖怪が、相撲を好むことは昔話などを通じて広く知られているが、その起源には、土師氏菅原氏との関わりが存在するということである

この土師氏は、埴輪を作ることを能くしたが、埴輪といえば赤土であるが、この赤い色は、酸化鉄を多く含むためである。このような粘土採掘は、鉄分を含む土の採掘であり、これは時代が下れば、鉄を初めとした金属鉱脈採掘にも関連・発展したことであろう。

鉄に限らず金属は、採掘されるだけでなく精錬されるので、山の掘削、森林樹木伐採という環境変化を伴う。これは、山に水源を発する河川にも影響を及ぼしたと考えられ、そうなると、粘土採掘金属採掘精錬を行う山の民と、漁業・水運などによって河川生業を立てる川の民との間で、何らかの紛争を招いたのは想像に難くない。本来の「カッパによる水難」とは、元々は「山にいるカッパ」による山林環境の変化によって引き起こされた、河川災害環境破壊のことを指したのではないのか。なお、カッパといえば河川などの水辺だけにいると現代人は思いがちだが、カッパ河川から山、山林から河川へと、季節の変化ごとに移動するという伝承が見られるのである

山林の環境破壊が火種となって紛争が発生し、これを停止するための平和条約のようなものが「約束」であり、それが川の民と土師氏菅原氏との間に結ばれたことにより河川災害発生件数が減少したこと、それが「カッパ避け」の実態だったのではないか。川の民に害を及ぼさないと、かつてカッパ親分であったであろう土師氏菅原氏が約束したことが変化して、川だち男が「我々は菅原氏=土師氏の裔であるぞ、だからカッパよ、我々には害を及ぼすな」と呼び掛けるようになったのではないか

ヒョウスベには「兵主部」の漢字が当てられる。このうち「部」は物部や斎部などと同じであるが、では「兵主」は何なのかと言えば、これは大陸から渡来した蚩尤(しゆう)のことではないかと言われている。というのも『史記』では、蚩尤は金属製の戦用武具を生み出した「兵主神」とされており、しか角力(相撲のようなもの)を能くするのである。その上、石や鉄を喰らうとされるので、これは金属精錬象徴するのではないかと考えられる。ここから、兵主部とは元々は「兵主神を祀り、それに関連する金属職能に携わる部民」であろうと考えられる。

脇道に逸れた話の部分が予想外に長くなってしまったが、土師氏菅原氏という職能集団的氏族カッパの裔であると考えられていたということ、そして、カッパに対する民の恐れの根源には、職能活動による影響が存在した可能性のことを言いたかったのである

本筋に戻ると、アイルランド海浜そばの某村に住むという「人魚の子孫たち」が、周辺他村の人々から会話をすることを忌避されたのは何故か。それは、彼らが「予言する能力」を持っていたからではないのかと私は推測する。ただし、予言と言っても、超常の能力ではない。彼らが漁業や水運業など海の船仕事に携わっていた職能集団だったとしたら、どうだろうか。そのような仕事に携わることで、海路における岩礁や難所の存在場所についての知識も蓄積されたであろう。また、船仕事に影響するような天候の変化を読む(予測する)観望天気の知識も蓄積されたであろう。そのような、いわば専門知識能力を身につけた彼らが、もしも「海路のあそこには岩礁が有るぞ」「嵐が来るぞ」と予測して教えてくれたとしたら、何の知識も持たなかった他村の人々は「某村の住民が不吉な予言をする。彼らが予言を行うせいで不吉な出来事が起こる」と逆転した考え方をして、誤解したのではないだろうか。それが「会話を忌避する」ことに繋がったのではないだろうか。

上で粘土採掘金属採掘精錬を行う職能集団カッパの関連を述べたが、こういった専門的な仕事は、その仕組みを外部から理解しにくい。自分たちには出来ない仕事をする能力を持ち、影響力が大きい者のことを、人間尊敬するだけでなく同時に差別もするという例は、古今東西を問わず広く見られる現象である。例えば、西アフリカ伝統的な音楽歌唱職能グリオ(griot、フランス語。現地のウォロフ語でgewelギュウェル、トゥクロール語でgauloガウロ、マンディング語でdjeliジャリなどと呼ばれるのが語源)たちは、歌の言霊を駆使することで、人を幸せ気持ちにしたり、戦の前に闘争心鼓舞したり、逆に人々の間の争い事の調停役を担ったりといった役目を果たすことから、非常に尊敬を受ける反面、亡くなると普通の墓に埋葬されずにバオバブの木の虚穴に遺体を遺棄されるという。そこでは、尊敬差別心理アンビバレントに同居している。

日本人魚が不吉の前兆と見なされた話は既に述べたが、その中には、人魚自身言葉を口にしたという例も見られる。それも、もしかしたら海の民などの姿を人魚に反映していて、やはり海の民による予言とそれに対する恐れの感情の名残なのかもしれない。

西洋人日本渡来するようになると、剥製ミイラ製造技術も伝えられ、魚や動物のパーツを組み合わせることにより、カッパ人魚ミイラ製造されたことは、現在日本の各地に残るミイラの実物とともに知られている。したがって日本における人魚形態傾向が、人面タイプや四脚タイプから現代人にも親しみのある上半身人間下半身タイプへと変化した原因として、西洋人の影響が有るという可能性は、もっと大きく見積もっても許されるであろう。しかし、日本よりも先に西洋人との接触果たしていた中国を通じて、もっと早い時代ミイラ製造技術日本に伝えられていたという可能性は無いのだろうか。その時に、西洋人が抱く人魚イメージも一緒に、早期から日本流入したという可能性は無いのだろうか。大陸西洋から人魚伝承流入によって、前触れ予言というイメージ形成された可能性は、今後より丁寧に調べる必要が有るだろう。

まだまだ考察すべきことは多く残る。

人頭獣身の妖怪しかも不吉の前兆予言を伴うといえば、人頭牛身の妖怪「件(くだん)」が思い浮かぶ。上で半人半怪の混合性が重要と述べたが、この混合性の故に、人間の住まう現実世界と、非日常・非現実世界との結節点となる役目が、人魚や件のような半人半獣の妖怪には与えられたのであろう。そして、その役目を具現化したものが、前触れ予言なのであろう。

また古来、予言神託の役目を担う者の多くが、巫女という女性であった。これは、女性には生理があり妊娠出産可能であることから男性に比べて、より自然というカミの領域に近い存在であり、現実日常世界との仲立ち・結節点の役目を果たすことが出来ると信じられていたかであるセイレーン人魚に限らず妖怪怪物たち(例えば、エデンの園アダムとイブを誘惑した蛇など)に女性性が付与されているのは、ユダヤ教キリスト教仏教などが地位確立する以前の世界において、カミの領域との仲立ちを務める職能を担っていた女性たちに対する、尊敬差別というアンビバレント感情が反映された名残であろう。

最初に『人魚姫』は何の物語か?と掲げ、長々と文を書き連ねたが、正直に言えば、それを確定することは実は難しいと思っている。ただし、少なくとも、異なる世界の住人が出会った物語、それに伴って起こったコンフリクト悲劇物語とは言えるのかもしれない。

乱文も長くなり過ぎたので、ここまでとしよう。

2022-10-03

つまんない意地をはって変な嘘をついて、馬鹿だと思われることに何の意味があるんだろう。ほんとわからないな。

対面ならまあ、正直な言葉「声」として出し難いみたいな感覚はわかるが、たか匿名文字のやり取りでそこまで執着するものが何かあるか?

2022-08-07

anond:20220805224747

そう思う人が大多数だったらオーディションも何も無く声優が決まるんだろうけどね

実情は全く違うから「はまり役」とか「今年の主演声優賞」が存在するわけで

あるキャラ複数声優が演じる場合(ゲーム版・旧作・新作・映画等で声優が変わる場合など)は「○○さんの方が良かった」みたいな意見が沢山出る

(しかもその意見統一されず、各自推し声優推挙される状態)

そんな感じで、(声優オタでなくとも)割と「声」に対する思い入れが強い風潮があると思うけど

「火曜は全力!華大さんと千鳥くん #58 ワンピースアテレコに挑戦!」という番組で、映画ワンピースのいち場面を芸人アフレコするってのがあったんだけど

(それをワンピ関係者が採点して優劣を決める)

その中で「俳優が生身でする演技と声優が声だけでする演技は違う」っていう様な話が出てた。当然だよね

映画ドラマ俳優がやってる演技のままアニメ等のアフレコしてたらパンチが足りなさすぎだもの

ジブリ糸井重里が声あててるのとかは確かに「味」で済むけど、「味」を押し出さなアニメの中であんな演技されたら「!?」ってなるでしょ

声優が優れた技術を持っているとは思えない

anond:20220805224747

アニメの声ってだいたい演技もオーバー気味で表現力という点でもテクニック勝負なとこあって、

しかもそのテクニック天井もある程度見えている、人によってそこまで振り幅のあるものとは思えないんだよな。

自分もこの部分に大きく同意したい


そもそも声優というのはどういった技術を持って声優をやっているのだろうか

滑舌良く、オーバー

・演じるキャラを憑依させ

・上からのオーダーがあれば再解釈し声に乗せる

といった様な技術を持っていると考えている

これ舞台俳優でもできるよな?

いや、もちろん舞台俳優バカにしているわけではない

なにせ声優というのは「声」の演技しかない

役に乗せるためにある程度の身振り手振りをすることはあるが

激しい体の動きがない故にその難易度は1段下がると言っていい

芸能界入り手前の入口要素が強い舞台俳優でも出来るのなら

俳優でも女優でも芸人でも人前に出てキャラを演じる職種に属してまともな国語力があればできるだろう

…というか、最近じゃ実際に女優芸人声優として迎えて特に荒れずに終わるアニメ映画だらけだ

声優」が「声優」として何か特別な…突出した技術必要なようにはどうしても見えない

元増田が言っていた『テクニック天井もある程度見えている』という論も至極当然と言える


ただここまで言ったことはあくまで「演技力」に関したこと

別の観点から見れば声優にもそれなりに特異な点はある

それは『声質』だ

通常の役者であれば変わった声というのはリアリティを阻害しマイナスポイントになるが

世界観デフォルメ化されたアニメという媒体なら強みへ逆転する

現に業界を生き残ったベテラン声優は独特な声質の声優ばかりだ

もしくは声色を意図して変えられる声優というのも生き残りやす

(山寺宏一とか 声質を技術的に変化できる声優がいるが、そういうのは例外的に『優れた技術を持っている』と言っていいだろう)


まぁ結局何が言いたいかといえば

声優に求められる演技力なんぞたかが知れていて、本質的に求められているのは「声質」ということだな

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