はてなキーワード: 動物福祉とは
1996年に誕生して以来、世界中の子どもから大人までを魅了してきた『ポケットモンスター』。冒険心を刺激し、友情や努力の物語を描いてきたこのシリーズは、間違いなくエンターテインメント史に残る偉大な作品です。
しかし、私たちは一度立ち止まり、現代社会における「動物福祉」の視点からこの世界観を見つめ直す必要があるのではないでしょうか。
ポケモン世界において、モンスターは「捕まえる」存在として描かれます。ボールを投げて捕獲し、人間の指示に従わせて戦わせる。そのプロセスは、現実の動物に対して決して許されない「支配」と「強制」の構図を思わせます。
動物保護団体が訴える「野生動物は野生のままで」という理念と真っ向から対立するのです。
ポケモンバトルは作品の中心にある要素です。しかし、バトルは人間の娯楽であり、その結果としてポケモンが傷つくことは不可避です。確かにゲーム内では「回復アイテム」や「ポケモンセンター」によって簡単に癒されますが、これはあくまでフィクションのご都合主義。
もし現実で同様の行為が行われたならば、それは「動物同士を戦わせる虐待」にほかなりません。
ピカチュウの愛らしい姿、イーブイのぬいぐるみのような可愛さ――ポケモンは徹底的に擬人化され、人々の心を和ませるようデザインされています。しかし、この「かわいらしさ」は、支配構造の残酷さを覆い隠すカモフラージュになってはいないでしょうか。
私たちが笑顔で楽しんでいるその背景に、「人間のために動物を利用する」という古い価値観が潜んでいるのです。
今日の社会では、サーカスにおける動物ショーが廃止され、動物実験や毛皮産業に対する批判が高まっています。動物は「人間の道具」ではなく「権利を持つ存在」として扱われるべきだという認識は、もはや常識となりつつあります。
その流れの中で、「捕まえて、戦わせて、従わせる」ことを前提としたポケモンの世界観は、時代に逆行していると言わざるを得ません。
私はポケモンそのものを否定するつもりはありません。作品が持つ冒険心、友情、成長の物語には確かに普遍的な魅力があります。しかし、これからの時代にふさわしいエンターテインメントであるためには、「ポケモンと人間が対等なパートナーとして協力する」新たな描き方が求められるのではないでしょうか。
ポケモンは、単なる娯楽を超え、文化的アイコンとして存在し続けています。だからこそ、今こそ問い直すべきなのです――この作品は、私たちが築きつつある「動物福祉の社会」と調和しているのか、と。
マイノリティによるマジョリティへの加害行為を糾弾するのはマイノリティへの差別、っていう異常思想だよね
無免許ひき逃げ川口クルド少年(日本人が被害者)にしろ、性犯罪再犯クルド人男(日本人が被害者)にしろ、外国人だからという理由で減刑されている
こんなガバガバなら悪質な外国人がこぞって日本に不法行為をしにくるだろうってリベラル以外の日本人がキレているわけで
右翼が日本人優遇・外国人冷遇だからアンフェアだとリベラルが言うなら、リベラルは外国人は減刑や不起訴という逆方向のアンフェアをやっているわけで
その右翼と逆方向へのアンフェアへの反省をしろと何度言われても聞こえてないからリベラルはおぞましいなと思えてくる
トランスジェンダーについてもそうで、自称レズビアンの男性器保有者に対して「男性器がついている人は女湯に入っちゃ駄目です」という運用姿勢をとることもリベラルはトランス差別だと言う
こういう悪意あるマイノリティによるマジョリティへの殺傷・性犯罪等の加害行為がやりたい放題になるアンフェアを、「マイノリティ無罪」とリベラルが持ち上げたことによってバックラッシュが起きている
🟢 ナッパ本革とは?
✅ 特徴
生後間もない子牛などの皮を使う
柔らかく、しっとりした質感
✅ 加工
染料仕上げで自然な色味・風合い
厚みが薄くしなやか
🟢 なぜ高級なの?
✅ 原料の皮自体が希少
✅ 加工に手間とコストがかかる
✅ 仕上がりがとても上質で「しっとり感」「高級感」がある
「カーフ」と呼ばれる生後6か月以内の子牛の皮は、非常にきめ細かく柔らかい質感が特徴で、高級な本革製品(特に自動車の高級シートや高級バッグ等)に多く使われています。このカーフレザーは、赤ちゃんの肌のような滑らかさとしっとりした手触りのために重宝されてきました。
倫理面については、カーフレザーの多くが食肉産業の副産物として利用されているとはいえ、実際には子牛の命が失われていることに変わりはありません。また、世界の一部地域では動物福祉への配慮が十分でない場合もあります。
シンプルにだめだろこれ
おまえの息子や娘の生皮がはがれるのを見てられるのかよ
この文章は、一見すると動物福祉を気遣っているようでいて、その実、個人的な嫌悪感と偏見に基づいた、極めて非論理的で差別的な決めつけに満ちています。以下に、その問題点を徹底的に反論します。
「根暗」「自分からは何も動こうとしない」「発達障害なのだろう」といった記述は、客観的な根拠を欠いた、筆者の主観的で一方的な評価に過ぎません。職場での一面だけを見て、その人の全てを判断し、ましてや「発達障害」と断定するのは極めて無礼であり、偏見に基づいた人格否定です。
仕事の進め方や会議での態度が、そのまま私生活、特に愛情を注ぐ対象であるペットへの接し方に直結すると考えるのは短絡的です。仕事に消極的な人が、個人的な関心事には情熱を傾けることは十分にあり得ます。
「会社の処理はサボっても当人が怒られるだけだが猫は病気になったり死んでしまう」というのは事実ですが、だからといって「彼には世話ができない」と結論づけるのは論理の飛躍です。責任感の所在が異なるだけで、対象への愛情や責任感があれば、仕事とは全く違う対応をする可能性は十分にあります。
猫の世話の大変さを列挙していますが、それは全ての飼い主に共通の課題です。彼がそれを「知らない」「見直さずに主張している」と決めつける根拠はどこにもありません。むしろ、飼いたいと思うからこそ、これから調べようとしている、あるいは既に調べている可能性も否定できません。飲み会の「ちょっとした台詞」だけで、彼の覚悟や知識の有無を判断することは不可能です。
「直ぐに世話に飽きて保護猫として捨てることになるのが関の山」「最初から虐待のためなのだろうか」という思考は、筆者の個人的な嫌悪感からくる、極端で悪意に満ちた憶測です。「男性のなかには手頃に虐められる対象として猫を飼う人も多い」という一般化も、性別に基づいた有害なステレオタイプであり、何の根拠もありません。
彼の人となり(と筆者が勝手に判断しているもの)と「虐待」を結びつけるのは、極めて危険で差別的な発想です。何の証拠もなく、個人の内面を邪推し、犯罪者予備軍であるかのように扱うことは許されません。
4. 「捨てるべきではない差別心」という自己正当化の危うさ:
筆者は自身の「差別心」を自覚しつつも、「不幸な猫を生み出すことを避けられるのであれば、捨てるべきでない」と自己正当化を試みています。しかし、これは極めて危険な考え方です。
差別心(偏見)に基づいて誰かの行動を制限したり、問い詰めたりすることは、それ自体がハラスメントや人権侵害につながる可能性があります。「良い差別」など存在しません。動物福祉を思うのであれば、差別的な決めつけではなく、全ての潜在的な飼い主に対して、公平な情報提供や啓発を行うべきです。
「本人に直接猫を飼うことの大変さを自覚しているかを問う」こと自体は、場合によっては有効かもしれませんが、その動機が「差別心」であるならば、その問いかけ方も必然的に詰問調になったり、相手を不快にさせたりする可能性が高く、建設的な対話にはなりません。
結論:
引用された文章は、特定の個人に対する嫌悪感と偏見を、「動物福祉」という美名の下に正当化しようとする、非常に問題のある内容です。客観的な根拠に基づかず、憶測とステレオタイプで相手の人格や行動を断罪し、最悪のシナリオを勝手に描いています。そして、自らの差別心を肯定しようとしています。
真に動物福祉を考えるのであれば、個人の属性や印象で判断するのではなく、誰もが適切な情報を得て、責任ある飼い主になれるようサポートする視点が必要です。このような個人的な感情に基づいた決めつけは、不幸な動物を減らすどころか、人間に対する不当な差別や偏見を助長するだけです。
https://mainichi.jp/articles/20250426/k00/00m/030/133000c
英紙ガーディアンなどによると、殺処分の発端は3月初旬に落雷で発生した森林火災だった。コアラの主食となるマンナガム(ユーカリの一種)の木を含め、国立公園の約20%にあたる約2200ヘクタールが焼失した。
生き残ったコアラの多くが、重度のやけどを負ったり飢餓状態にあったりすると確認されたため、州政府が災害時の動物福祉計画に基づき「安楽死」を決定したという。
現場の意見というのもあって、仕方がないことだと擁護する人間もいるんだが
近年、AIやロボットなどの先端技術が目覚ましい勢いで進歩するなかで、人間の定義や“権利”という概念そのものについての再考が求められる機会が増えている。そんな社会情勢の中で一部の人々が提唱するアイデアに、「動物に人間同様の権利を与えるべきかどうか」という問題がある。動物愛護の観点からは、ペットとしての犬や猫、あるいはイルカやチンパンジーなどの高い知能を持つ動物に対して人道的な扱いを求める声は以前からあった。しかし、法律や倫理の観点で「人権」を動物に適用するという議論はまだ広く受け入れられているとは言い難い。そこで今回は、ある種の極論ともいえる「一定の能力を持つ猫に人権を与える」という仮説を取り上げ、その可能性や問題点、そして私たちが学べる示唆について考えてみたい。
1.“人権”とは何か?
「人権」とは、一般的に「人として生まれながらにして持つ権利」を指す概念である。自由権や平等権など、国や社会によってさまざまに解釈や範囲の違いがあるものの、人間を人間たらしめるための基本的な権利という共通理解が広く受け入れられている。
一方、「人権」という言葉を動物に適用することの是非は長年議論の対象となってきた。かつては「ヒト以外の生物に人権など存在しない」というのが主流の考え方だったが、動物愛護の観点が強まった現代では、動物にも生命や自由の尊重が求められるべきだという意見が増えてきた。ただし、多くの場合、それを“人間と同等の権利”とは呼ばず、「アニマルライツ(動物の権利)」や「アニマルウェルフェア(動物福祉)」といった別のフレーズを用いて区別している。
では、なぜわざわざ「人権」と同じ言葉を使う必要があるのか。そこには、単なる愛護の枠を超えて、「生き物としての尊厳をどこまで拡大できるか」「法的にどのように動物を扱うか」という踏み込んだ議論が関わってくる。人間の法律を基盤として動物を守りたいという主張もある一方で、それによって生じる多くの矛盾や新たな課題も浮き彫りになる。
2.猫の特徴と知能
ここで焦点を当てているのは「猫」である。猫は犬と並んで古くから人間と深く関わりを持つ動物だが、その特性や知能はしばしば誤解されがちである。
一般に犬は飼い主の指示に従順で、さまざまな訓練に適応しやすい動物とされる。一方、猫は独立心が強く、気まぐれな一面を持つため、「犬よりも知能が劣るのではないか」と思われがちだ。しかし近年の研究によって、猫も飼い主や環境への適応能力が高く、犬とは異なるかたちでの学習能力やコミュニケーション力を備えていることが示唆されている。
さらに、一部の猫は“特殊な芸”や“問題解決能力”を持つことがある。例えば、特定の動作を学習して繰り返す猫や、飼い主が使う簡単な道具を模倣する猫が報告されている。また、飼い主が示す表情や声色を読み取って自分の行動を変化させる例も観察されている。そうした高い学習能力や社会的コミュニケーション能力を有する猫を指して、「一定の能力を持つ猫」と呼ぶことができるかもしれない。
仮に「知能テスト」や「行動特性の検証」を行い、その結果として“人間社会において最低限のコミュニケーションを成立させられる”と判断される猫がいたとしよう。そのような猫を対象に、人間と同等の権利――言い換えれば、「人権」に準ずる権利を付与しようとするのが、今回の仮説である。
具体的には、以下のような権利を想定してみるとわかりやすいかもしれない。
もちろん、これらを文字どおり猫に適用するのは現行の社会制度とは大きなズレがある。しかし「高いコミュニケーション能力が証明された」という前提を置けば、少なくとも議論の余地は生まれる。
4.想定されるメリット
猫に限らず、動物虐待が社会的な問題として繰り返し取り沙汰されてきた。「アニマルウェルフェア」の観点からも、虐待や劣悪な飼育環境が後を絶たない現状には胸を痛める人も多いだろう。もし“人権”という強い法的保護を特定の猫に与えることができれば、それが心理的・社会的な抑止力として機能する可能性がある。人権を侵害した行為として“犯罪”の扱いがより明確になり、違反者に対して厳しい罰則を課すことができるかもしれない。
人間以外の生物に人権を認めることは、社会的秩序を新たに再構築する大きなチャレンジともいえる。これをきっかけに、倫理や法、そして共同体としての在り方を深く考え直す機会が生まれるだろう。近年、ジェンダーや人種・国籍を超えた多様性の重視が進んでいるが、それを動物へ拡大するというのは、ある意味で論理的な延長線上とも考えられる。人間中心主義的な世界観から一歩離れ、より多様な存在が尊重される社会のヒントが見えてくるかもしれない。
私たちは古くから猫を可愛がり、時には神秘的な存在として崇拝してきた歴史がある。もし猫が法的に「人権」を持つ存在として扱われるならば、これまで以上に彼らの行動や感情表現が注目されるだろう。猫側も“人間社会での権利行使”のために、さらに学習やコミュニケーションを深める可能性がある。これは純粋に文化・芸術の発展にも寄与するかもしれない。映画や小説、漫画などで、猫が人間と同等に会話し、生活に溶け込む物語は多くの人の想像力を刺激する。そこに実際の法的保障が加わると、ファンタジーとリアルの境界があいまいになる新しい時代が訪れるとも言えるだろう。
最大の懸念は「人権の乱用」である。仮に一定の基準を満たした猫が人権を手に入れた場合、その適用範囲はどこまで広がるのだろうか。ほかの動物にも同じように権利を与えなければ不平等だという声が上がるのは必至であり、それが連鎖的にエスカレートする可能性もある。「猿にも、豚にも、魚にも同じ権利を」と議論が拡大していくと、社会の制度や経済活動は大きな混乱を招くことになるだろう。
権利を行使することは、同時に責任や義務を伴う。人間の場合は、法的な責任を負う自覚や社会生活上のルールを学習し、破った場合には罰を受ける仕組みが整っている。しかし、猫にそれをどのように適用するかは極めて難しい問題だ。たとえコミュニケーション能力が高い猫であっても、“法律を理解し遵守する”という意味では、人間社会のルールとの齟齬が生じやすい。万が一、猫が誤って人を傷つけたり器物を損壊してしまった場合、どのように責任をとらせるのか。権利を与えた以上、猫自身が賠償責任を負うことになるのか。その背後で管理する人間に責任が転嫁されるのか。こうした問題は容易には解決しない。
さらに、根本的に「猫は猫としての幸せを望んでいるのか?」という点にも立ち戻るべきだ。人間同様の権利を押し付けること自体が、猫の本来の生態や自由を奪う可能性もある。猫は群れを形成する動物でもなければ、複雑な社会システムを構築する動物でもない。彼らは日々の暮らしの中で狩りをし、寝て、遊び、時に仲間とのんびり過ごす生き物である。人間の法律に基づく複雑な権利関係に巻き込むことが、彼らの幸福に直結するとは限らない。
このように、「一定の能力を持つ猫に人権を与える」というアイデアは、実際の社会に導入するには数多くのハードルが存在する。しかし、この提案が示唆する本質的な問題は、「私たちは人間以外の存在をどこまで尊重できるのか」という問いにあるのではないだろうか。
動物虐待、環境破壊、家畜としての過剰な搾取など、人間が引き起こしている数多くの問題は、私たちが人間という種を優先して他の生き物を蔑ろにしてきた歴史の副産物だともいえる。一方で、動物たちが持つ豊かな感情やコミュニケーション能力に光が当たるようになり、いまや彼らを単なる“所有物”や“資源”として扱う時代は終わりを告げようとしている。
それでもなお、「人間が特別」であり、「人間のみが人権を有する」という考え方は根強い。もし、猫をはじめとする動物が人権を獲得するとしたら、それは私たちの価値観に大きな変革をもたらすだろう。生物学的にも、倫理的にも、法的にも極めて大きなパラダイムシフトを伴う。しかし、そうした急激な変化には当然、摩擦や混乱がつきまとい、実現性は高くはない。
今後、私たちの社会がどう変化していくかは未知数だが、テクノロジーの進歩が動物との共生に新たな可能性をもたらすかもしれない。たとえば、動物とコミュニケーションをとるための音声・脳波解析技術がいずれ実用化されれば、猫が感じている感情や意志をより正確に理解できるようになるかもしれない。猫側も同様に、人間の意図を理解して自分の意思を伝えるツールを持つ可能性は否定できない。
そのとき、もし猫たちが「自分たちにも尊厳を認めてほしい」「苦しい治療や劣悪な飼育環境を押し付けられたくない」と主張し始めたら――私たちはどう応えるのだろうか。声なき声がテクノロジーを通じて可視化されたとき、議論はさらに白熱し、“人間だけの特権”と思われていたものを再定義せざるを得なくなるだろう。
「一定の能力を持つ猫に人権を与える」という仮説は、まさに極論の域にある。実行のハードルや法的・倫理的問題点は膨大であり、現実的にはすぐに導入できるものではないだろう。それでも私たちは、この議論が問いかけるテーマから学ぶことができる。
つまり、動物をどれほど尊重し、社会の一員として扱うことができるのかという視点だ。猫や他の動物が持つ感情や能力を可能な限り正しく理解し、必要とされる環境や保護を整えることは、私たち人間社会の責務である。人権という言葉を用いるかどうかは別として、動物の「生きる権利」や「苦しまない権利」を法的にも社会的にも守っていく道筋を探る必要があるだろう。
また、「人間と動物」という二分法ではなく、「それぞれの生き物が互いを尊重し合う社会」というビジョンを思い描くことはできないか。もし猫がさらに進化し、意思疎通がより深くなったとき、私たちは“同じ地球上に生きる存在”として彼らとの関係性をアップデートすべきだろう。言い換えれば、本当に必要なのは、私たち人間が持つ特権や傲慢さを見直すことである。
最後に、私たちが猫たちにどのような“権利”を与えるかという話は、結局は人間側の問題に他ならない。権利を与えるという行為そのものが、すでに人間視点の押し付けの可能性を含んでいるからだ。本当に必要なのは、私たちが自然や生き物をどれだけ尊重できるか、あるいはそれぞれの生き物の“幸せ”の在り方をどれだけ理解し、そのための環境づくりができるかということだろう。人権というフレーズが象徴する大きなテーマを通じて、猫や他の生き物たちとの未来について、深く考えてみるきっかけになれば幸いである。
以上の考察を総合すると、「一定の能力を持つ猫に人権を与える」というアイデアは、現実的には多くの困難を伴うものの、動物の尊厳や生きる権利をより積極的に認めていくうえで、私たちに鋭い問いを投げかける存在であると言えるだろう。それが真に実行されるかどうかは別としても、私たちの社会が抱えるヒト中心主義や生物多様性の問題について改めて考える入り口になるのではないだろうか。権利と義務の関係をどこまで動物に適用できるのかという議論は、決して簡単に結論の出るものではないが、人間と動物が真に共生していく未来を描くためには避けて通れない問題である。
結局のところ、どんなに議論を重ねても、猫が自ら望む幸せと人間社会が用意できるシステムとの間には大なり小なりギャップが生じる。そのギャップを埋める努力こそが、私たちが“ヒト以外の生き物と共存する社会”へ近づく第一歩なのだろう。猫に人権を与えるか否か――その問いが投げかけるのは、私たち自身が持つ“人間であることの特権”や、他者(他生物)を排除する無意識的な態度への揺さぶりにほかならないのである。今こそ、一歩踏み込んだ思考の余地を持ち、猫を含む多様な生き物たちにとっての幸せを見つめ直す時期が来ているのかもしれない。
私も酷い話だなと思うけど、なんでこんなこと企む人が出てきたんだろうと考えたら、今までの人類の行いのせいなのかもしれないと思えてきた。
人間は肉や卵をたくさん穫るために家畜を劣悪な環境で飼育したり、非道な品種改良(改悪)したりしてるよね。見た目の可愛さのためにわざと病気や障害のある個体を増やして販売したり。今は動植物の遺伝子までいじってるし。もちろん発展途上国の人たちからは当然のように搾取してる。人間ってやること酷いよね。
そういう非道で無神経な在り方が「人でも実験していいよね」「人ってもっと減ったほうがいいよね」みたいな考えにつながってる気がするんだよね。野良猫や小動物を痛めつける人間が最終的に人を標的にするように。
こういう安価な肉や卵でここまで人口が膨れ上がってしまったのかな。それなら私は死ぬべきなのかな、と考えることがある。動物福祉やフェアトレードを厳密に守ったら先進国らしい生活なんて到底できないだろう。私みたいな貧困層は特にね。それだけ今の暮らしは様々な搾取の上に成り立ってる。そして家畜をギリギリまで搾取しまくるのと同じやりかたで、人間も搾取されてる気がするんだよね。
先日も海外の医療系YouTuberさんが、モデルナが他の病気の予防接種についてもmRNAワクチンの開発を進めていると冷静に説明してたけど(https://www.youtube.com/watch?v=tFzTTuuzfH0)「これはテロだ」「今すぐ禁止しろ」「全員刑務所に入れ」などのコメントで溢れかえっていた。まあ確かに心配な話だけど、こういう不満は家畜たちが日頃人間に対して思ってることなんじゃないかな。私達は無意識のうちにかなり酷いことをしていて、その報いを別方向から受けてるだけなのかもしれない。
だからといってどうすればいいのかわからないけど……スーパーで売ってる肉や卵は食べないようにするかなあ。不買運動みたいになっちゃって申し訳ないけど。鳥インフルや豚熱が出るのも家畜に無理させてるからだって言われてるよね。もっと広々した環境で家畜を飼って、適正価格で販売されるようになればいいのかな。給食費とか上がるだろうね。大人はまだしも、子供たちが食べたいのに食べられなくなるのを見るのはつらい。代替肉が選択肢になるのかな。そのうち最高の環境で育てられた本物は金持ちだけの贅沢品で、庶民はフェイクでも食っとけってなるんだろうな……。まあ今までの消費行動を反省しているからといって、怪しい注射は打ちたくないけど。
デンマークで昔、余剰個体になってしまい行き先がないキリンを安楽死させ、ライオンの餌にしたという動物園があった
なんでそんな考えに至ったかというと、繁殖させて子を産ませることまでが動物福祉と考えるかららしい
子の動物としての生存権より親の出産の権利を重要視してるという考え方である
日本や大抵の海外の動物園は余剰個体になりそうな場合は避妊処置をしたり、オスメス別居などをして繁殖をさせないという方向になる
これは望まれない子が生まれないようにすることを優先した考え方である
こういう動物福祉の考え方っておそらくその国の人間の死生観が大いに反映されてると思うんだよな
そう考えると少子化対策のために日本が北欧のモデルを参考にするのは少々厳しいのでは?という気がする
日本の考え方は恵まれない子供なら生まれない方がいいって考え方で、その考え方ゆえに少子化になっているのである
だから北欧のように親世代の環境を良くしたら産むようになるというのとは少し違う
子供の幸福を担保するなんて国家には無理ぽよなので、この考え方の下だとどんどん少子化するしかないと思う
ちなみにキリンの件は欧州でも大きなセンセーショナルなニュースになったので、このような死生観を持つ人ばかりではないことは申し添えたい
だが、日本や中国韓国だとまず出てきそうにない考え方だなぁとやはり思う(その代わりサーカスなどにキリンを売るということはやりそうだけど)ので、やっぱ文化的な違いは絶対あると思う
東大・北大両方でここ10年以内に教員をしていた増田による怪文書だ!
以下単に東大、北大と書いてある場合は東大農学部獣医学専修、北大獣医学部獣医学科を意味する。
やっぱり日本トップの大学である東大のネームバリューはすごい!
北大は旧帝大であることすら知られず一地方大学だと思われていることもある!
獣医界隈だけなら東大・北大は並び立つツートップという印象が強いが、もし企業就職を狙うなら東大のネームバリューはやはり強い!
「獣医学教育モデル・コア・カリキュラム」ってのがある!獣医系大学はこの科目についてこれを教えなければいけないと細かく決められたガイドラインだ!獣医系大学は(おそらく)どこもこれに従ってる!つまりどの大学でも最低限学べることは同じ!
ただしコアカリは大学のカリキュラム3分の2で、残り3分の1は各大学自由に決めていい。
北大はEAEVE認証(欧州の団体による「この大学は一定の獣医学教育水準を満たしている」という認証)を受けている!他にも国内に数大学あるが東大は含まれていない。
あと設備のところで述べるが、東大は産業動物分野の実習が貧弱!ちなみに北大は産業動物分野も普通に扱うというだけで、べつに伴侶動物(ペット)分野が貧弱な訳ではない。
北大は学部に加えて人獣共通感染症国際共同研究所(実質的に北大大学院獣医学院の一部)に教員がいるので、教員数が東大より多い!
あと留学生は北大の方が多い!東大大学院生60人中12人が留学生、北大大学院生52人中22人が留学生。(参考:https://www.hokudai.ac.jp/pr/3.R5_zaisekishasu.pdf・https://www.hokudai.ac.jp/admission/shihi_admissionR06.pdf)
学生活動の活発さ・まとまりの強さで言えば北大が強い!北大はSaSSOHという小規模国際シンポジウムを毎年開催しているが、これは大学院生が主体として運営している。
学生への支援は体感同程度!東大はSPRING GXというプロジェクトが走ってる。北大はOne Healthフロンティア卓越大学院プログラムってのが走ってる。どっちも学生への支援はある。
どこでも同じ!!東大・北大・その他国公立私立どれも変わらん!
去年の合格率は東大が二番手に15%以上の大差をつけてぶっちぎり最下位だったが(他大学も合格率が例年に比べ低い)、去年以外はどの大学も大差ない。(参考:https://www.maff.go.jp/j/press/syouan/tikusui/attach/pdf/230314-3.pdf)
あえていえば東大は獣医師免許が必要ない職(国家公務員など)に就く学生が多いからか若干合格率が低め。
私大は国試対策が手厚めだが、卒業試験の成績が悪いと卒業試験の再々試と国家試験を同日に実施することで、成績の悪い学生の国試受験を防止して合格率を高くしているところもある(再々試までいくことはめったにないと聞くが)。
構内に農場がないしもちろん大動物用の動物実験施設もない!ウシを触るためにわざわざ茨城の附属牧場まで行かなきゃいけない!獣医学教育の場なのに産業動物に触れる機会が圧倒的に少ないのはどうなのか。
BSL3実験施設もない!つまり北大では扱えるが東大では扱えない病原体がある!
北大には当然農場もBSL3施設もあるし、AAALAC認証(アメリカのNPOによる動物福祉に配慮した実験動物施設であることの認証)を受けた動物実験施設もある。あと人獣共通感染症国際共同研究所。
北大は「日本の獣医系大学で唯一・最初に○○をする!」というアクティブさが強い。東大は「他大学の多くがやりはじめたらやる」。
北大が日本の獣医系大学で唯一・最初のものはいくつもある。東大にあって他の獣医系大学にないものは残念ながら思いつかん。
これは増田の印象だが、東大獣医は農学部の一部、北大獣医は学部なのが大きいと思う。東大は農学部の一部なので予算も農学部内の他の専修と奪い合いになる。獣医学専修が「○○したい」と思っても農学部の許可を得なきゃいけないし、さらに学部内での優先度に左右される。北大は獣医だけで一学部をなしているので、「○○したい」と獣医学科が思ったらすぐ実行できる。
ホームページを見ると内容の充実さにいかに差があるか分かるぞ!
東大:http://www.vm.a.u-tokyo.ac.jp/
北大:https://www.vetmed.hokudai.ac.jp/
東大の現教員数50名、学科定員30名、学生一人あたり教員数1.7名!(参考:http://www.vm.a.u-tokyo.ac.jp/service.html)
北大の現教員数59名、学科定員40名、学生一人あたり教員数1.5名!(参考:https://www.vetmed.hokudai.ac.jp/research/detail/)
ただ北大は大学院に人獣共通感染症国際共同研究所があり、こちらに独自の教員が+25名いる。(東大には大学院独自施設はない)
知らん!
他の分野はどうか知らん。
北大の方が獣医学部内のまとまりが強い!学科内パーティー・飲み会・イベント、学科内サークルなどが北大の方が活発。東大は農学部の建物内のあちこちに獣医学科の研究室が散っているが、北大は獣医学部内に研究室がまとまっているのも結束の強さの原因だろう。
ずいぶん東大下げになってしまったが、ぶっちゃけ東大は獣医教員の中にすら「東大獣医とか潰したらどう?」と言う人が複数いるくらいだ!(増田ではない)
よく知らん!
岡山理大における増田と同分野の研究室の教員も学生も、獣医学会でも同分野オンリーの小規模学会でも見かけたことがない。どこで学会発表してるんだ?
私はライオンについて全く無知だったので、なんで炎上してるの?と思って調べてみたら、円山動物園は悪くなさそうなことがわかった
これだけ円山動物園が集中砲火浴びてるなら、ライオンを出した2つの園も助けてあげなよと思ってしまった
以下理由
●ライオンは余剰動物であり、日本国内で飼育スペースが足りていない、海外に出せるような動物でもない
今回、プレスリリースの中に、一言、「国内で飼育できる数が上限に近づいてるため…」って追加できなかったのかなぁと思う
そしたら何も知らない人が動物福祉や繁殖計画とか余剰動物とかの問題を知る機会になっただろうし、大暴れしてる人も抑えられただろうから、もったいないよねと感じる
ヴィーガン発祥の地でもあるイギリスは、世界で最もヴィーガン人口の割合が多い国といわれています。
2014年から2018年にかけてヴィーガンの数が4倍の60万人にまで増えたことが、英国ヴィーガン協会の調査で明らかになりました。
これは環境や動物福祉への意識が高いためとみられています。例えば、食品についての関心事項として動物福祉を挙げる人は、消費者の43%に上ります(英国食品基準庁調べ)。
スーパーや飲食店などでヴィーガン食品を多く取り扱っていることもあり、ヴィーガン食の選択肢が豊富なことも大きな要因です。
アメリカでは、ここ数年でヴィーガン人口が爆発的に増え、2019年の調査では970万人ほど。また年平均で4%近く、ヴィーガン人口は増え続けているといいます。
特にミレニアル世代といわれる、10代〜30代前半に実践者が多い傾向です。アメリカでは10人に4人が肥満といわれており、多くの人が自国の食事は不健康だと感じています。
肥満が心疾患などの病気を引き起こすこと、医療費が高いなどの理由から、食生活を見直し、ヴィーガンを実践する人が増えている傾向です。
(参照:Yahoo!ニュース)
肉の生産国として有名なオーストラリアでも、ここ数年でヴィーガンが増加しています。オーストラリアは若い世代に実践者が多く、一説には国民の10人に1人がヴィーガンともいわれています。
オーストラリアはアメリカとトップを争うほどの肥満大国でしたが、政府の働きかけもあり健康志向の人が増えたことが、ヴィーガンが増加した理由といえるでしょう。それに加えて動物愛護や環境問題への関心が高まったことも要因です。
そもそも🐶🐱の家畜化が必要だったのは人間が生き残るために必要だったから。元々野生だったが人間に懐くやつを選んで何世代も重ねて先祖は家畜化に成功させた。逆に言うと人間に選ばれなかった種は残ることなく滅んだ。🐶🐱に頼る生活を乗り越えて終わったかと思ったら今度は愛玩目的で品種改良が進んで新しい種が増えた。今度は短い期間かつ見た目重視で種を固定させようと強引な掛け合わせが増え先天性遺伝もつような🐶🐱が増えた。経済の発展により入手手段がペットショップになり販売個体数も増えた。しかし、愛玩目的なので人間に気に入られるような健康で可愛い子しか生き残れない。選ばれなかった子は殺処分でやってる流れは古代と変わらない。ようやく現代で、動物福祉の観点が始まり流石にこういうのはもう止めましょうというのが今。
https://anond.hatelabo.jp/20230519002016
動物福祉関係者の意見を見ていると、競馬は他の動物産業に比べると動物に対する扱いが手厚いので意外と比較的好意的だったりする。
ただ、あくまで「比較的」に過ぎないので、動物実験や畜産が「地獄に堕ちろ」レベルだとしたら競馬は「死ね」レベルという程度で、もちろん基本的なスタンスとしては「競馬は動物虐待。さっさとやめろ」である。
かれらにとって動物虐待とは程度問題ではない。動物から搾取し、動物を害するすべての行為が絶対的な悪だ。
ヴィーガニズム、というとベジタリアンと同一視する人も多いが、こうしたいかなる形においても動物の利用を許されないとする立場を指す。
そういうわけなので、当然動物園にも反対するし、ペットを飼うことにも反対する。
いやいや、人間の管理下へ入ることが直ちに動物の不幸にはなんないでしょ? という人もいるかもしれない。
たしかに、人間の飼育下にいる動物はまともに飼われればだいたい野生より寿命は伸びる。餌も野生環境では考えられないほど質的にも量的にも安定して供給されるし、病気や怪我のときも治療してもらえる。天敵もいない。
しかし、室内で飼われるペットは多大なストレスに苛まされている。アメリカの一軒家レベルでも犬が本来ストレスフリーに動き回れる環境としては全然足りない。いわんや日本では(サラブレッドだけは飼育下でも広い原っぱで走り回れる例外的な存在だったりする)。
そもそも犬はちょっとヤバいレベルで遺伝子的にいじられている。耳や骨格が奇形レベルに変形した結果、その特有の病気を抱えている犬種も多い。
特にパグやフレンチブルドッグといった短頭種はすごい。頭がでかすぎるせいで出産時に母犬の産道を通れない。なので、出産時にはほぼ帝王切開になる。
人の手を借りないと出産すらできないわけ。そのへんはインブリードを繰り返した結果、ガラスの脚と喩えられるほど折れやすくなったサラブレッドとかもいっしょなんだけど。
ちなみに仮に人類が今すぐいなくなったら、パグみたいな犬種は滅んで、犬たちの多様性はどんどん先細っていき、交雑のすえに野犬やディンゴみたいな見た目に収束していくだろうと考えられているらしい。
つまり、なんだね、動物虐待といいだせば動物にまつわること全部虐待なわけ。
だから、矛盾を抱えているのは競馬関係者や競馬ファンだけじゃない。おれたちみんなそう。
ペット買ってなくても肉は食うだろう。
肉は食わない人でも化粧品は使うだろうし、病気にかかれば薬の世話になるだろう。
捕鯨反対とか動物愛護とか、論理的にふわふわした主張をあえてラディカルに議論するのに、ChatGPTはちょうど良いなーとか思う。
現実世界でやると相手の主張全否定になるので攻撃的になりすぎる
なぜクジラを食べてはだめと主張する人がいるのでしょうか。クジラを食べてはだめと主張する方の論点を列挙頂けますか
クジラを食べてはだめと主張する人々は、主に以下のような論点を挙げています:
クジラは、商業的な捕鯨などの人為的な要因によって絶滅の危機に瀕している種類もあります。そのため、クジラを食べることはその種類の保全に悪影響を及ぼす可能性があるため、避けるべきだと主張されます。
クジラは食物連鎖の上位に位置するため、海洋生物の中でも高濃度の水銀を含んでいます。このため、クジラ肉を食べることが健康上のリスクを引き起こす可能性があると主張されます。
クジラの捕獲方法は、銛や爆弾などの残酷な手法が用いられることがあります。このため、クジラを食べることが動物虐待につながる可能性があると主張されます。
クジラは哺乳類であり、知能が高く社会性があります。そのため、クジラを食べることが動物愛護の観点から問題があると主張されます。
これらの理由から、クジラを食べることに反対する人々がいると言えます。ただし、文化的な背景や地域的な習慣によっては、クジラを食べることが一般的な場合もあります。
絶滅の危機に瀕していない種類のクジラを、残酷ではない方法で捕獲すれば問題ないのではないでしょうか
一部の絶滅の危機に瀕していない種類のクジラについては、捕鯨が厳密に禁止されているわけではありません。しかし、クジラを捕獲する際には、適切な管理や保全が行われ、その個体数が持続的に維持されるように配慮する必要があります。
また、残酷な捕獲方法を避けることも重要です。捕鯨には伝統的な方法や文化的な背景がありますが、現代の技術を利用してより人道的な方法を採用することもできます。例えば、銛や爆弾に代わって銃器や即死銛を用いたり、海中に落とした麻酔剤でクジラを眠らせて捕獲する方法などがあります。
ただし、クジラを捕獲することには、上記の論点で述べたように、健康上のリスクや動物愛護の観点などについても考慮する必要があります。また、クジラを捕獲することが文化的な習慣である地域もあるため、個々の文化や背景に応じて対応する必要があるでしょう。
健康上のリスクについては量を少なく食べればそこまで影響は出ないと思います。また、動物愛護の観点については豚や牛と比較してクジラが特に知能が高いとは言えないのではないでしょうか
健康上のリスクについては、クジラの肉に含まれる有害物質や重金属などが、量を問わず食べ続けることで体内蓄積される可能性があることが指摘されています。また、クジラの肉を加工する際には、適切な衛生管理が必要であり、不適切な方法で加工された場合には食中毒などのリスクがあることも考慮する必要があります。
動物愛護の観点については、クジラについては科学的には知性や感情を把握することがまだ不十分であり、豚や牛と比較して高度な知能を持つかどうかは明確ではありません。ただし、クジラは哺乳類であり、社会性や家族構造を持つことが知られています。また、クジラの捕獲には、過去には不適切な方法が多数存在し、残虐な方法でクジラが殺されたり、苦しまされたりしていたことがあります。
そのため、クジラを捕獲する際には、適切な管理や保全、残酷な方法を避けることが重要であると考えられます。また、動物愛護の観点については、クジラだけでなくあらゆる動物を扱う際にも尊重されるべきであり、適切な方法で捕獲・処理され、人間と動物が共存する社会を目指すことが望ましいです。
では、動物愛護について特にフォーカスしたいと思います。知能がある動物を残酷な方法で殺してはいけないという理由はなぜでしょうか?残酷な方法を避けたとしても殺していることは変わらず、論履的には差異は無いと思うのですが
動物愛護において、知能がある動物について残酷な方法で殺すことは問題があるとされています。知能が高い動物には、人間と同じように苦痛やストレスを感じる能力があるため、不必要な苦痛やストレスを与えることは、動物の権利に反する行為であると考えられています。また、知能が高い動物には、社会性や家族構造を持つことが多いため、不適切な方法で殺されることは、その種の生態系にも悪影響を与える可能性があることも指摘されています。
また、残酷な方法を避けた場合でも、動物を殺すこと自体が問題視されることがあります。動物愛護の観点からは、動物たちは人間と同様に、自己決定権や尊厳を持つ生き物であり、殺すことは極力避けるべき行為であるとされています。
以上のような理由から、知能が高い動物については、残酷な方法での殺害を避けるとともに、その命を尊重することが求められるのです。
家畜など、動物を殺す場合にのみ論点を絞りたいと思います。不必要な苦痛やストレスを与えなかったとしても結局は殺すのだとしたら、ストレスを与える場合与えない場合で殺した後の結果は変わりませんよね?
確かに、家畜を殺す場合においても、最終的にはその命を奪うことに変わりはありません。しかし、動物愛護においては、殺される動物に対する配慮が重視されます。
例えば、不必要な苦痛やストレスを与えずに殺すことができる方法がある場合、それを採用することが求められます。これは、動物たちが最期まで尊厳を保ち、できる限り苦痛を感じずに死を迎える権利があるからです。
また、殺される動物たちは、その命を奪われることが決定された状況に置かれています。そのため、殺される前にできる限りのケアや配慮を受けることが求められます。例えば、ストレスを与えることのない環境で飼育されたり、適切な栄養を与えられたりすることが重視されます。
以上のように、家畜を殺す場合においても、最期まで動物たちの尊厳や権利を尊重することが求められ、不必要な苦痛やストレスを与えずに殺すことができる方法があれば、それを採用することが望ましいとされています。
それは結局殺す側の自己満足でしかないのではないでしょうか。ストレスにより味や栄養が変わるならストレスを与えない工夫や適切な栄養を与えることは必要だと思いますが、そうでない限りは結局はコストに転嫁されるのですから、経済的には無理に配慮する必要はないと考えます
動物たちは人間にとって食物や商品の生産物であると同時に、生き物であり、自己意識や感情を持った生き物です。それらの生き物が、必要以上に苦しんだり、恐怖を感じたり、尊厳を失うような状況に置かれることは、私たちが持つ倫理や道徳的な観点から問題があるとされています。
また、最近では、消費者たちも動物福祉に配慮した製品を求めるようになってきています。つまり、動物たちに対する配慮が、経済的にも重要になっていると言えます。例えば、適切な栄養を与えることで生産効率を向上させることができたり、動物たちがストレスを感じることで味や栄養が劣化することがあるため、動物たちに適切な環境を整えることで、製品の品質が向上することもあります。
以上のように、動物福祉に配慮することは、経済的な利益だけでなく、倫理や道徳的な観点からも必要不可欠なものとされています。
確かに、動物福祉に配慮した製品がより高い値段や魅力で遡及できるという点はあるかもしれませんね。それも結局は自己満足でしかないと思いますが、倫理や道徳といった曖昧なものを信じる人たちを騙して高い値段を取るのには貢献すると思います。
私たちは、価格や魅力的なデザインなどの要素に惑わされて、製品を選ぶことがあります。しかし、動物福祉に配慮した製品を選ぶことは、私たちが持つ倫理や道徳的な観点から見ても正しい選択であると言えます。
また、倫理や道徳が曖昧なものと見なされることもありますが、これらは社会にとって重要な価値観であり、個人的な価値観にも影響を与えます。動物たちに対する配慮は、倫理的な価値観としても認められ、社会的にも重要視されています。
そのため、動物福祉に配慮した製品を提供することは、単なる自己満足だけでなく、社会に貢献することでもあります。
倫理や道徳というのは相当あいまいで、歴史的には動物に苦痛を与えて殺すことが「倫理的」「道徳的」ですらあった時代もあったと思います。それが「正しい選択」なのかどうかは誰にも言えないと思います
確かに、倫理や道徳というものは、社会や文化によって異なる価値観を持つことがあります。歴史的には、動物に苦痛を与えて殺すことが、文化や宗教、習慣などによって正当化されていた時代もありました。
しかし、現代社会においては、動物福祉に関する法律や規制が整備されています。そして、科学的な研究によって、動物が苦痛やストレスを感じることが明らかになり、それを避けることが重要であると考えられるようになっています。
そのため、現代社会においては、動物に対する配慮が重視され、動物福祉に関する倫理や道徳的な観点が注目されています。ただし、倫理や道徳は常に変化するものであり、社会や文化の変化に伴って変化することもあります。しかし、現代社会においては、動物福祉に配慮することが、より正しい選択であると考えられます。
年4500万羽――。ドイツで卵からかえってすぐ、殺処分される雄ひよこの数だ。卵を産まず、食肉にもならないから、殺す、という現状を変えようと、殺処分を禁止する法律が今年1月、世界に先駆けてドイツで施行された。卵の値は上がったが、消費者にアニマルウェルフェア(動物福祉)の訴えは届くか。(ベルリン=野島淳)
野島淳
のじま・じゅん 1973年生まれ。経済部やブリュッセル支局などを経てベルリン支局長。ツイッターは@nojimajun
青空の下、雪に囲まれた鶏舎の前で数百羽の鶏がえさをついばみ、歩き回っていた。ドイツ南部ミュンヘンから南に約30キロのディートラムスツェルにある養鶏農家だ。
「400年前から続く数少ない農家なんだ」。ミヒャエル・ヘシュさん(61)は家族とパート従業員の7人で農場を切り盛りし、約1万6千羽の採卵鶏を育てる。
卵関係の食材を売る自分の店に加え、地元スーパーや飲食店、ホテルなどに卵を売る。だが、表情は厳しい。
「昨年10~12月、一部の販売先では売り上げが3割近く落ちた」。今年1月1日に施行された改正動物福祉法で、雄ひよこの殺処分が禁じられた影響が出たのだという。
私たちが普段食べる卵は、採卵用に特化して育てられた鶏から生まれる。食肉用の鶏も特化して育てられており、採卵用の品種の雄ひよこは食肉には適さず、「無用」とみなされる。
https://www.huffingtonpost.jp/entry/animal-welfare-uk_jp_619c573fe4b07fe2010ff9a0
イギリスは2021年5月、動物福祉を保護するための措置を導入する行動計画を発表。動物が、感覚を持つ「生きとし生けるもの」であることを法的に認定し、ペットや家畜、野生動物の福祉施策に取り組むことを表明した。
LSEのジョナサン・バーチ博士は、「タコや他の頭足類は何年もの間、科学的に保護されてきました。しかし、それ以外には保護を受けていません。人間が完全に無視してきたこれらの無脊椎動物を保護することは、動物福祉において、イギリスが世界でリードするためための一歩となるでしょう」とコメントしている。
要するにエゲレスは福祉最先端国家を目指すために「感覚のあるすべての生物を福祉の対象にする」という法律を作る!つってて、
これまでは脊椎動物のみを対象にしていたけど、イカタコカニの無脊椎動物にも感覚あるらしいから福祉の対象にしようぜ!という話が出ているという話。
ばーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっかじゃねぇの!
今後の研究で植物にも感覚があることが科学的に証明されたときはどうすんだよ、バーカ。
そしたら感覚の定義を再編して「これは科学的には感覚があるけど法的な感覚には含まれないから福祉の対象外」とかにするだけだろ。
すべての動物は他の生物の命を奪うことでしか生きられねーんだよ。
「この動物は自分に近い存在だからかわいそう」みたいな浅薄な価値観でしか生きられないことを恥じろよ。そんな価値観だから「イルカは知的だからかわいそうなので保護しないといけないけど地球の裏側で紛争で毎日死んでる子供はまぁ知らん奴だし別に保護しなくていいか」みたいな頭のおかしいとになるんだよ。
主語デカで申し訳ないが、地元で唯一の動物園「盛岡市動物公園」のTwitterがなんかウサギ飼ってる人達に寄ってたかって叩かれてて良い気分しない。
原因はこれ
http://moriokazoo.org/item/sm/item/id/8951/
カイウサギの間で感染症が蔓延して、回復も難しいので15匹の安楽死を行ったという話。これに対してうウサギ飼ってる愛好家の皆さんがお気持ち表明してる。このツイートのリプ見てくれたらわかる。
https://twitter.com/moriokazoo/status/1374143056207781889?s=21
リプしてる人のどれくらいが盛岡市動物公園に来たことあるんだろ?岩手県盛岡市って、地図見ないで日本のどの辺にあるかわかります?「絶対に行きません!」って息巻いてる人、だいたいにしてこの動物公園のこと知ってました?笑
盛岡市動物公園、いまリニューアル工事に向けて休園中なんですよ(工事延期になったから4月何日からかオープンすることになったけど)。だから収入も多分ない。しかも、動物福祉とか医療に力入れ始めたのも最近のことだったと思うし、医療費の寄付を募集しはじめたのも最近。だから「医療費の寄付を募ってるくせに!なんでウサギに充てなかったの?!」っていう批判は間違いだと感じる。正直、全然足りてなかったんじゃない?だから怒る前に寄付したら良い。お住まいの地域の動物園でウサギを飼育してるなら尚更、お住まいの地域の動物園に寄付したら良い。
「里親探したら良かったのに!」っていうのも現実的じゃない。じゃああなた、今すぐ引き取れるますか?病気のウサギさんを動物園に迎えに行って、無事に連れ帰って、天寿を全うするまで飼えますか?今すぐですよ。今すぐ。リプしてる人の内、どれくらいの人が即決でイエスって答えるんだろ?クラウドファンディングっていう意見もあるけど、クラウドファンディングするのにも結構準備が必要だし集まる保証はないし。それならウサギ飼いの皆さんで「全国のウサギを救います!!」ってクラウドファンディングして、全国の動物園のウサギとかに寄付したら良いのでは?
ちなみに確かこの盛岡市動物公園にいる獣医さんは少ないはず。地元のニュースで見た記憶がある。動物園獣医と、街の獣医さんは全然違うとも言ってた。専門外の動物も担当するし、限られた予算で治療の選択をしないといけないって。少ない人数で、たくさんの動物たちと毎日向き合って、お金も限られてる。素人の私たちには想像できない苦労とか問題とかがいっぱいある。ウサギだけに付きっきりで向き合えるわけじゃない(これはウサギの命を軽んじてるわけでなく、動物がたくさんいるからって話)それなのに、ウサギを飼ってるだけの素人がよってたかって……。っていう風に見える。「私ならこうする!」「私はこうしたのに、こうできるのに!」っていう意見は素人の戯言でしかないんじゃないかな。じゃあ口だけ出すより、資格なりなんなり取って現場に行ってお手伝いしてあげたらいいんじゃないでしょうか。
安楽死しなくても済む病気です!っていうのも、飼育頭数が少なくて、ほかの動物もいなくて、ウサギだけに付きっきりで看病もできる環境があるからでは?
「ウサギだから殺した、キリンやゾウならそんなことしない!」って言ってるウサギ飼いさんもいて怖いよ。それ、自分で「ウサギの命は軽い」って言ってるようなものじゃないですか?ほんとにウサギ好きなの?笑
動物園の獣医師さんは毎秒毎秒命の選択をしてると思う。先に書いたけど件の動物公園は、いま懸命に動物医療に力を入れてるので、口だけじゃなくてお金を出したらひいてはウサギさんのためになると思うのでは。あと今回の件でブチギレお気持ち表明したウサギ飼いの皆さんは、お近くの動物園から早くウサギを引き取ってこないと同じことが身の回りで起きないとは限らないですよ。
あと、動物公園側が「詳しく説明出すから待っててください」って声明出したけど、それに対して「言い訳なら聞きたくない」「命は帰ってこないから説明はいりません」とかキレてるの何?いやお前らが騒いだからでは……?怖。あと市議に意見書出しますって言ってたウサギ飼いさん、あんまり意味ないと思います……あの園、別に市営ではないので……。
なにが気持ち悪いって、園のバックボーンとか知らないウサギ飼いさんたちがよってたかって罵声を浴びせてるの。ほんとに怖い。てか、ウサギカフェの人とかとお気持ち表明してるけど、ウサギ飼い的にウサギカフェっていいの?動物園と一緒じゃない?
まずはウサギ飼いの皆さんに冷静になってほしいし、地元の身近な動物公園が叩かれてるのほんとつらいし、素人は黙っとれってう画像、今がまさに使いどきだな。