はてなキーワード: 初版とは
揶揄するも何も、人前で何の問題もないのに騒いでたら見苦しいだろ。
無自覚に医師の外見を評価したり、医療従事者の名前などを世界に発信したり。「医療従事者のプライバシー保護をお願いします」っていう病院のお願いに反することを堂々とやっていて、まわりに迷惑かけてるだろ。
>純粋真っ直ぐ正義君ってよりは、正義の名を借りた当り屋ってかんじだよな こういう氷河期中年
えっとね、医療側には守秘義務があります。だから、患者サイドが誤解やウソにまみれた主張をブログに書いていたとしても、公には反論できないわけ。
で、医療側からは、このブログ誰が書いているのか特定できません。「おそらくあの人だな」ってのは何となくわかっても、発信者開示とかしないと確証持てないわけ。だから、事実誤認があっても反論できません。
まるっきり嘘を書いているとは思わないけど、配慮が足りない点から、いろいろ誤解・曲解が入ってても不思議ではなく見えるわけ。
今回のブログには、医療者の名前・発言とか書いてましたけど、それが問題になるとか思わないのかな? 例えば 紹介状に写真が入っていなかった 「あの先生よくやるんだよな」みたいなコメント。陰口を全世界に公開しちゃってるの。トラブルの種を蒔いてるって分かんないか。
画像診断レポートを、同意を取らずに世界に公開しているのもよくないよね。書いた医師にちゃんと了解を取ってないでしょ? 了解とってたら書くもんねぇ… 画像診断もあるワンポイントでレポートは出ますけど、後から手術前とかに見直し、より診断を深くしていくものなわけ。また臨床情報が増えたら解釈も変わってくる。それを同意なく、実名入りで世界に発信するのは…
迷惑かけてるとか思わん?
仮にレポートを見直して修正していたとするよ。そうすると、現時点で新しい画像診断が出ているも関わらず、了解もなく古い版が世界に公開されている… とかあったら問題だろ。
時間とともに、情報や所見の集積とともにどんどん診断を深く・良くしていく作業なんだけど、ある一時点のを切り取って、同意なく世界に実名で公開するって、問題だと思わんの?
それが問題と分からないなんて、どうかしてるよ? まともに働いたことないのかな?
取引先企業が内部情報を公開とか、BtoCでも、それぞれの顧客で対応は異なるのにそれを了解なく全世界に公開されたら普通に困るだろ…
しかも医療サイドは法的に「守秘義務」ということで弁解できないわけ。
こういう配慮のなさ・世間知のなさを見ていると、どこかで相手の言ったことを聞き間違っていたり、誤解していたりして、間違った内容・医療機関が意図していないようなことを記事に書いてるんじゃないかっていう疑いが生まれるわけ。
「応召義務で診療を断れない」って言っても理由があれば断れるからな。横浜なら医療機関はいっぱいある、一件が断っても別に行くところあるからね。
今は病院サイドにばれてないから問題になってないけど、最初の版、医師名が実名で出ていたやつが残ってたら普通に診療拒否ありうるレベルだからな?
はてブも今は過疎ってるから、ひところの勢いがないからバレてないけど。
こんなクソみたいな当たり屋が来るなら、初版を魚拓とって病院に通報、診療拒否方向に動くべきだったわ。
Amazon の欲しいものリストをくっつけているところとか、この病気をネタにしてお金を稼ごうとしているのが見えるわけ。お金を稼ごうとする時って当然センセーショナルにしますよね。「悪性度の低いカルチノイドで命の危険は全くないよ」って書くより、希少がんで明日もしれない、みたいな書き方にしますよね。そんな中でこういう配慮は足りてないところを見ると、実際よりもセンセーショナルに書こうと、誇張してそうに見えるわけ。そういうのは医療サイドから見たら害悪でしかないの
• キャンプはUL寄り。重量1kg以下の焚火台しか信用してない
• 日本酒は生酛と山廃を追ってる。速醸は舌に残る
• カメラはレフ機やめてミラーレスのZマウント。Fマウントの描写は今でも恋しい
• 音楽はレコード派。シュリンク付き帯付き初版以外は触らない
• コーヒーは浅煎りシングルオリジン。ネルは手縫いじゃないと気分が出ない
• ラーメンは二郎インスパの野菜マシマシ。非乳化スープしか認めん
• 靴はコードバン。雨の日は履かないのが鉄則
• 日本刀は無銘の古刀を研ぎ減り込みごと愛でる。刀工の銘より地鉄の冴え
• 落語は志ん朝の音源ばかり。志ん生はテンポが遅すぎて落ちる
• ジャズはBlue Note1500番台。RVG刻印がないと意味がない
• 茶碗は井戸茶碗。均整のとれたものより崩れた口縁に色気がある
• 鉄道模型はNゲージではなくHO。カツミの真鍮車体じゃないと心躍らない
• 日本庭園は枯山水巡り。苔の育ち具合で手入れの真価がわかる
• 映画は邦画の70年代。にっかつロマンポルノの構図美に勝るものなし
最近のニュースアプリって、アルゴリズムが優秀すぎて、逆に読みたいものだけじゃなく「読まされそうなもの」まで見せつけてくる感じがして、ちょっと疲れない?
俺だけかな。
そんな自分が回帰したのが、老舗のニュース検索サイト「Ceek.jp」だ。
これが、今の時代にこそめちゃくちゃ心地いい。
ただ淡々と、新しい順にニュースが並んでいる。 変な忖度もなければ、煽ってくるような記事のレコメンドもない。ただ事実がそこにあるだけ。これがいい。
メディアが後からこっそり記事の内容を修正したり、都合が悪くなって記事ごと削除したりしても、Ceek.jpには初版のデータがキャッシュとして残っていることが多い。消される前の「事実」を確認できるのは、ネットリテラシー的にめちゃくちゃ重要だと思う。
自分の好きなキーワードや条件で検索式を作って、それをそのままRSSリーダーに登録できる。まさに自分専用のニュースフィードが完成する。もう、メディアに踊らされる必要はない。
もちろん不満がないわけじゃない。ITカテゴリが、なぜかアニメやゲームの記事で埋まりがちなのはご愛嬌だ。 まあ、それも検索で絞り込むから、個人的には大した問題じゃない。
情報の洪水に疲れ果て、アルゴリズムにうんざりしている人にこそ、この淡々とした老舗サイトの良さ、もう一度見直してみてほしい。マジでおすすめ。
私は長いこと自分が抱えているものを勘違いしていた。世間的にはそれを性欲と呼ぶのだろうが、私の性欲はなんというか、他人に触れたいとか、抱きたいとか、そういう欲望とは一切結びつかない、純粋に自家発電的なやつだった。いや、そりゃあ夜中に一人でごそごそする程度にはエネルギーはあるのだが、それは誰かに向かって矢を放つような性質のものではなく、むしろ矢を放つ弦がどこにも掛かっていないような状態である。たとえるなら、宛先の書かれていないラブレターを大量に抱えて街をさまよっている感じだ。思春期、同級生たちは誰それが可愛いだの、先輩がイケてるだのと青春会議を開いていたが、私はその場にいても心は涼しい顔をしており、頭の中ではまったく別のこと――たとえば近所のたぬきは今夜も元気だろうか、などと――を考えていた。
大学に入ったとき、私は少し変われるかもしれないと思っていた。都会のキャンパス、知らない人々、もしかしたら恋というものが唐突にやってきて、私の性欲もようやく人間社会の正規ルートに合流するのではないかと。しかし現実はというと、私の四畳半は六畳になっただけで、性欲は相変わらず無対象のまま健在だった。合コンに誘われても、友人たちは可愛い子の名前をメモして帰るのに、私は料理の唐揚げが妙にカリカリだったことばかり覚えている。たまに「お前はどんな子がタイプなんだ」と問われると困る。そういうときは「文学少女かな」と適当なことを言うのだが、内心では文学少女に対しても別に何も感じていない。むしろ本棚の整理の仕方がきれいだなと感心するくらいだ。
大学生活で最も熱中したのは恋愛ではなく、下宿近くの古本屋巡りだった。特に閉店間際の古本屋はよい。西日の差し込む埃っぽい店内で背表紙を眺めていると、自分の中のどこへも行かない性欲が、まるで古書の匂いに溶けて静まっていくような気がする。友人が「昨日彼女と朝まで一緒にいてさ…」と語る頃、私は「昨日は坂口安吾全集の初版本を見つけてさ…」と胸を張っていた。熱の方向が違うのだ。
やがて社会人になった。ここでまた、私の内なる性欲にとって試練の場が訪れる。職場というのは、妙に恋愛や結婚の話題が多い。昼休みには「○○さん、結婚するらしいよ」というニュースが飛び交い、飲み会では「彼女はいるの?」という質問が不意打ちのように飛んでくる。私にとってこれは「冷蔵庫にマヨネーズある?」と聞かれるくらい唐突だ。性欲はある。しかし誰ともしたいわけではない。この仕様を説明するのはあまりに長く、そして聞き手が求めている答えではない。だから私は笑って「いや、いません」とだけ言い、ジョッキの中身を一口飲む。
社会人になっても私の性欲は、ひとりで完結する道を歩き続けた。仕事終わりに帰宅して、コンビニで買った弁当をレンジで温め、机に向かってぼんやりするとき、胸の奥にじんわりとした熱が灯る。それは一瞬、どこかへ向かいそうになるのだが、次の瞬間には元の場所に戻ってきてしまう。まるで、駅のホームで電車に乗ろうとした瞬間に、なぜか引き返してしまう旅人のようだ。
そんな私にも、世間一般でいうところの“男の本能”に接近する機会がなかったわけではない。ある年、友人と旅先で酒を飲みすぎた夜のことだ。ほろ酔いというより、すでに体の半分は酒精でできているような状態で、友人が急に「せっかくだから行ってみようぜ」と言い出した。行き先はピンサロである。私は人生初のその類の店に連れて行かれ、心のどこかで「もしかすると、これで私の性欲も人並みに誰かへ向かうかもしれない」という妙な期待を抱いていた。
店内は狭く、暗く、タバコと芳香剤のにおいが混ざった不思議な空気が漂っていた。私は半ば流されるままソファに腰を下ろし、出てきた女性を見て一瞬、脳内が真っ白になった。いや、正確には真っ白というよりも、モビルスーツの整備ハンガーのような光景が広がったのだ。そこに立っていたのは、まるで人型兵器のような迫力を備えた女性だった。身長、体格、そして全身から発せられる圧――私の頭の中では、ジムやザクではなく、フルアーマーガンダムのテーマ曲が勝手に流れ出していた。
「どうする?」と問われても、こちらとしてはどうするも何も、立たないものは立たない。あらゆるボタンを押しても起動しないモビルスーツのパイロットの気分である。相手はプロだからといって、私のこの仕様を一瞬で書き換えられるわけではない。結果、私はただ笑ってうなずき、何もせず、いや何もできずに時間を過ごした。時計の針が指定された時刻を指したとき、私はきっちり三万円を支払い、店を後にした。外の夜風は妙に冷たく、私はその風に吹かれながら、自分という人間の性欲の形をあらためて痛感した。
普通ならば、こういう経験をすれば何かしらの感情や昂ぶりが残るのだろう。しかし私の場合、残ったのは「ガンダムってやっぱり強そうだな」というどうでもいい感想と、財布の中が軽くなった事実だけだった。旅先でのこの事件は、私にとっての“性欲の実地試験”だったが、結果は見事に不合格であった。
では恋愛はどうか。私は数回、恋をしたことがある。恋をすると、相手と会いたくなるし、話したくなる。手を繋ぎたいと思うこともある。しかしそこから先――いわゆる“したい”という欲望には、やはり変換されない。恋愛感情と性欲が別々の配線で動いていて、互いに干渉しないのだ。結果、恋人から「私のこと、そういう意味では好きじゃないの?」と問われることになる。正直に答えれば、「そういう意味では…たぶんそうじゃない」となる。もちろん相手は納得しない。私だって納得できない。だが事実は事実で、私はどう足掻いても対象を伴った性欲を生成できない。
この性質は、付き合う人にとっては相当やっかいだろう。世間的には、性的欲望は愛情の重要な表現の一つとされる。それが欠けていると、愛そのものを疑われる。私がどれほど相手を大事に思っていても、その回路が繋がらないのだから説明は難しい。森の奥深くで、互いに違う言語を話す二匹の動物が途方に暮れているような光景が、私と相手の間に広がるのだ。
それでも、三十を過ぎたあたりでようやく思えるようになった。この仕様は欠落ではなく、ただの仕様だと。性欲があるのに対象がいない、それは異常でも病気でもない。ただ、ちょっと不思議な形をしているだけのことだ。世の中には、宛先不明のラブレターを抱えて生きている人間だっている。そう考えると、少しだけ気が楽になる。
今夜も私は四畳半(正確には六畳)の机に向かい、冷えかけたコーヒーを啜る。窓の外では、近所のたぬきがゴミ捨て場を漁っているかもしれない。あのたぬきも、もしかすると私と同じく、行き場のないエネルギーを抱えて生きているのではないか。彼らは誰かと交わるためではなく、ただ今夜も腹を満たすために生きている。私の性欲も、それと同じようなものかもしれない。明日もまた、どこへも行かない熱が私の中でぽつぽつと燃え続ける。それはたぶん、悪くないことだ。
嘘をついた少年がオオカミに食べられてしまったという話が知られているが、本当にオオカミが来たことは少年だけが知っているのだから、少年が食べられてしまったという結末に持っていくのは不自然。本来は、村の羊がオオカミに食べられたという話になってる。
内容 羊飼いの少年が、退屈しのぎに「狼が来た」と嘘をついて騒ぎを起こす。騙された大人たちは武器を持って出てくるが、徒労に終わる。少年が繰り返し同じ嘘をついたので、本当に狼が現れた時には大人たちは信用せず、誰も助けに来なかった。そして村の羊は全て狼に食べられてしまった。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%98%E3%82%92%E3%81%A4%E3%81%8F%E5%AD%90%E4%BE%9B
明治時代にイソップの話とは別に、嘘をついた少年が狼に食われるという訓話が、文部省の小学読本に存在している。『小学読本二之巻』(田中義廉 明治7年8月改正 文部省、初版明治6年)では、狼が少年を襲う挿絵とともに「狼のために、噛み殺されたり」となっている。
警告を受けて何事もなかったからといって、警告してきた人を嘘つき呼ばわりしていると、いつか本当に問題があったときに対処できない。
「押下」は「おうか」と読み、IT業界などではボタンを押す意味などでよく使われるという。
この言葉の初出はいつごろなのだろうか、と調査を開始してまず突き当たるのが「読み」の問題である。
すなわち「押下」にはいくつかの読みがある。
送り仮名が「押下げる」「押下ろす」などであれば「おしさげる」「おしおろす」とわかりやすい。
しかし「押下して」ならば、「おしおろして」「おしくだして」「おうかして」のいずれの可能性もあるのだ。
たとえば明治6年の『医道日用綱目』の「押下す」、『童蒙窮理問答』の「押下らしむ」、『窮理日新 発明記事』の「押下し」など。
いずれも「押下」に「おしくだ」とフリガナが振ってある。
同じく明治6年の『訓蒙窮理図解』の「押下れ」は「おしさぐれ」か。
明治7年の『広益英倭字典』では「push down」を「押伏ル。押倒ス。押下(さげ)ル」と訳している。
「おしおろすべし」なのか「おしくだすべし」なのか「おうかすべし」なのか分からない。
それでは「押下する」はどうだろう。
臂力ヲ以押下スル能ハサルニ至ル
「おしさげする」「おしおろする」「おしくだする」という読みはないだろう。
これはさすがに「おうかする」じゃないのか。
でも確証はない。
つまり、我々はずばり「おうか」と書かれたフリガナを探さなければならないのである。
というわけで明治35年『日本赤十字社篤志看護婦人会教程 増訂』である。
看護者ハ左ノ示指(ひとさしゆび)ニテ軽(かろ)ク病眼(びょうがん)ノ下眼瞼(かがんけん)ヲ押下(おうか)シテ眼(め)ヲ開(ひら)カシメ
これはもう間違いなく「押下」と書いて「おうか」と読んでいるだろう。
さらに探してみたところ、増訂前の明治28年『日本赤十字社篤志看護婦人会教程』第9版を、日本赤十字社デジタルアーカイブズで読むことができた(初版は明治22年か?)。
こちらでは「押下」に「おうか」「おしさげる」と二つのフリガナが振られている。
「仰臥」に「ぎょうが」と「あおむけにねかす」と振られたりしているのを見るに単なる訓読みではなさそうだ。
基本的には音読みだが、それだと初学者にはわかりづらいので補足説明を加えている、といったところか。
ではついでに、「ボタンを押す」のような意味で「押下する」が使われた例に限ったとすれば、初出はいつごろになるだろうか。
明治22年『理学協会雑誌』の「フワンリッセルベルギー氏電信電話双信法」という記事に以下のような用例がある。
「鍵」というのはいわゆるカギではなく、辞書的に言えば「ピアノ・オルガン・タイプライターなどの、指先で押したりたたいたりする部分。キー。」のことだろう。
(なおフワンリッセルベルギーとはFrançois van Rysselbergheのこと)
即(すなは)ち押(お)し釦(ぼたん)を押下(おうか)すると電池(でんち)から電流(でんりう)が発生(はっせい)してベルを鳴(な)らすのである
といった例がある。
というわけで結論として。
「押下」を「おうか」と読む例の初出は、現在のところ明治28年(明治22年?)の『日本赤十字社篤志看護婦人会教程』ということになる。
厳密性を求めなければ、明治11年『物理小学』の「押下する」の時点で「おうか」の例としてもよい。
また「押下する」は、明治期から理科の実験書や医学の教科書で使われており、「電信・電話用語として広まったのではないか」とは判断しづらい。
ふと気になった。いわゆる「ループもの」、同じ時間を繰り返す物語って、一番最初はどの作品なんだろう?
わたしが知ってる中で一番古いのは、フレデリック・ポールの『The Tunnel Under the World』 (1955) 。短編だけど、後世に影響を与えてそうなSF要素が詰まってる。でも、もっと古いのがあるはずだ、と思って。
気になったので、ちょっと調べてみた。
まず Wikipedia 英語版を覗くと、1915 年発表のピョートル・ウスペンスキー著『Странная жизнь Ивана Осокина (英: Strange Life of Ivan Osokin)』が time loop 創作の古い例として紹介されていた。内容は最近放送された『ブラッシュアップライフ』みたいで、『The Tunnel…』よりうんと古い。
ちなみに同ページには「Japanese popular culture」という見出しもあって、『時かけ』から『シュタゲ』までしっかりカバーされてる。日本のループものも結構知られてるんだな。
次に、創作のパターンを集めた海外サイト TV Tropes を見てみると、英語圏だと 1993 年の映画『恋はデジャ・ブ』 (Groundhog Day) が「ループもの」の代名詞的存在らしい。その証拠に、この trope (創作パターン) は「Groundhog Day Loop」と呼ばれている。日本ほどジャンルとして確立・浸透しているわけではないのかも?
"Groundhog Day" Loop - TV Tropes
その TV Tropes で紹介されていたのが、1904 年初版という古さの『愚者の渡しの防御』(The Defence of Duffer's Drift)。なんと兵法書!新米少尉が失敗から学んでループし、最終的に任務成功...って、これ完全にループもののプロットじゃん。しかも夢オチ。これは読んでみないと。
一方、Wikipedia 日本語版では、映画『素晴らしき哉、人生!』が「人生の過去に戻って別の世界を疑似体験する」アイデアの例として挙げられていた。厳密なループとは少し違うけど、これもルーツの一つと言えるのかも。『BTTF2』の「1985A」はこの作品が元ネタだと思ってる。
色々な情報が出てきて、結局どれが「始祖」なんだ? と思い始めたところで、シンプルに google:time loop story earliest とググってみた。
すると、検索結果の一番上に表示された Literature Stack Exchange という Q&A サイトに、あっさり (おそらくの) 答えが載っていた。
延々と起源を探してネットサーフィンしてた小一時間が、ある意味ループ体験だったのかもしれない。答えが見つかった途端、急に現実に戻された感じ。
……さて、明日の自分がこの調査結果を覚えているかは、また別の話。
覚えてなかったら、たぶんまた同じ検索ワードでググるところから始めるんだろうな。それこそ無限ループだ。
かつて所属していた文学サークルで、先輩が角田光代「菊葉荘の幽霊たち」って作品をテーマに読書会を開いた。何事にも投げやりな女性が主役なこの作品が全く好きになれず、その後角田光代という名前を見ても全く手が伸びなかった。今にして思えば、全体的に生きる気力がないというか、適当にその辺の相手と何となく交際してしまう感じの、怠惰な女性が出てくるのに嫌悪感があったのだろう。理想的な美を探し求めていた大学生の僕には、うまく理解できないキャラクターだった。あるいは、当時女性を理想化しすぎていたからかもしれない。理想の恋人が、僕と同じように美や最高のクォリティ(なんじゃそりゃ?)を求める存在であると望んでいたのだろう。なんというか、十代の考えそうなことである。しかし、それは後述するように、すべて自己愛だ。それはさておき、「源氏物語」も僕は講談社学術文庫で読んだ。確か、今泉忠義訳である。再読のときは、角田光代訳でもいいのかも。書き続けられている作家ということは、力があるってことだし。
光源氏の恋愛遍歴や、彼を取り巻く女性たちについての思いは昔書いたので省く。僕がこの小説が好きなのは、恋の物語だけが理由ではない。もちろん、欲望まみれだった僕は、例えば朧月夜との密通で須磨に流されるというプロットを面白く読んだのは事実だ。
けれども、もっと魅力を感じたのは、恋する貴公子光源氏が、だんだんと権力を持った嫌なオッサンになっていくのが生々しく表現されていたからだ。己の愛人である女三宮と密通した柏木を睨みつけ、彼を絶望から再起不能に陥れるあたりがリアリティがあって嫌だ(褒めてる)。ふっふっふ、ハーレムを作るイケメンの末路はこんなものよ。
僕が真っ直ぐな目をした青年の目が濁っていく文学を見るのが好きな理由はいくつかあるのだが、彼女に浮気されて一時期軽薄なナンパ野郎になり3Pまで経験した旧友や、好きな作品を貶されたせいか強烈なアンチフェミになってしまった友人、それから寝取られ経験からイチャラブ漫画が読めなくなって寝取られや暴力的な物ばかりに手を出している畏友のことが頭にあるからかもしれない。だから田山花袋「田舎教師」や、風俗に行って嬢のおっぱいをもんで「豊年だ! 豊年だ!」と叫ぶ志賀直哉「暗夜行路」が好きなのである。「暗夜行路」はその後の展開が大事だとは言え。
ところで、繁田信一が「殴り合う貴族たち」の中で、著者は菅原孝標女が「源氏物語」にハマった理由を推測している。それは源氏が女性に直接暴力を振るわないからだという(部下たちは「車争い」のシーンで乱闘を演じているとはいえ)。その程度で理想の貴公子になれる、当時の倫理はこんなものだったのである。
古典には今からすれば受け入れられない行動をとる人々が出てくる。それでも、心動かされるのは、貪・瞋・癡の煩悩から逃げられない人間の本質が変わらないからだろう。法律やコンプラで縛ってはいても、やりたいことも欲望の本質も変わらない。古典を現代的な価値観で批判するのは大事だが、上から目線で裁きたくはない。聖書によれば人間は自分が裁いてきたように裁かれるのである(こんな風に、聖書には結構な頻度でクールなセリフが出てくる)。
それに、過去のものが全部ダメだというのなら、例えば殺人者カラヴァッジョの絵画は展示すべきではないし、最終的にはルーブル美術館を爆破しなければならないだろうし、植民地からの富で栄えた都市はICBMでふっ飛ばさねばならない。しかし、他人の作ったものを破壊するのは、「指輪物語」のオークの所業である。悪とは何かを創造できず、捻じ曲げて模倣したり壊したりしかできない連中のことなのである。具体的な顔や団体が浮かんでくると思う。
そういえば、去年の大河ドラマは「光る君へ」で、王朝を扱った文学を知っていると典拠がわかってニヤリとするシーンが多々あったが、きちんとは見ていない。理由はいくつかあるが、一つには作家が主人公なので作家になりそこなった僕は見ていてつらい。それに、大河ドラマは夜八時の公共放送だからしょうがないとはいえ、例えば人を斬って領土を切り取ってナンボの戦国武将が平和を唱える違和感があってもともと好きではない(これが現代のオタクの言うところの「解釈違い」というやつか)。たぶんこのシリーズを読んでくれている人はもうわかっていると思うけれど、僕は基本的に非常に面倒くさいのである。それに、元々ドラマは五十時間もつきあうほど好きなジャンルではない。逆に、それだけ付き合うことができれば、ドはまりするのだろうと予想はしている。「好き」を測る尺度の一つは、それに対してどれくらいの時間を費やしたかだ。ただし、みんな正座してドラマを見ていないのかもしれない。きっと何となく見ている。作品を素直に楽しむことから自分を遠ざけているのは、完璧主義なのかもしれない。
それこそ「紫式部日記」に出てきた女官の衣装の再現は良いと思ったけれどね。元々僕はブラウスという言葉の正確な定義も怪しいほどファッションにほとんど興味がないので、該当箇所は読み飛ばしてしまっていた。
面白いエッセイを書くには性格が悪くないといけない。ここでいう「性格が悪い」というのは、もちろん褒め言葉だ。他人が見落としてしまうことにいちいち言いがかりをつけているとか、筆で他者をおちょくるのが上手いとか、そんなことを指す。「枕草子」はこの定義にぴったり当てはまる。言語化できていなかったけれど、「実はみんなそう思ってた」みたいなのも結構ある。
こういうタイプの人は友人に一人欲しい。「香炉峰の雪」(第二百九十九段)は日常で漫画の台詞をぴったりのタイミングで引用したときみたいにめっちゃ盛り上がったと思う。これは全くの推測だが、清少納言って物事をはっきり言うけれど、言い方がカラッとしていて毒のある事を言っても周りの人が思わず笑ってしまう人だったんじゃないだろうか。楽しい思い出話というか、ちょっとドヤ顔しているエピソードもあって楽しい。
もちろん第三百十四段の身分の低い人間が火災にあったところを笑っているところは弁護できないが、これは時代の制約だろう。それに、「除目に司得ぬ人の家~」(第二十五段)のくだりは当時の公務員の辛さが描かれているので、読んで怒りを覚えた人もいるかもしれない。だから晩年没落したという伝承が生まれたのかも。笑っちゃうのは第三十段「説教の講師は、顔よき」、つまりイケメンがレクチャーすると内容がありがたく聞こえるってこと。あっはっは。チクショー。これは旺文社の翻訳で読んだ。ネットで拾ったので番号は間違っているかもしれない。
「方丈記」は政治の乱れと絶え間ない災害で混乱する時代の空気をよく伝えてくれる。ところが、父の高校時代の教師は「世間から目を背けた負け組の愚痴に過ぎない」とバッサリやっていたそうだ。ひどすぎない? 確かに鴨長明は政争に負けたけれど、僕は好きだ。混乱する世の中からある程度距離を取りたいって気持ちはよくわかる。ただ、読んでみると隠遁生活は楽しそうなんだが、どこか悟り切れていないオーラがある。市古貞次校注。
「徒然草」は前にも書いたが面倒くさいおじさんのエッセイなんだけれど、子どもがいたずらした狛犬を有難がったとか(第二百三十六段)、入口ばかり拝んできて本殿を見ずに帰ってきちゃったとか(第五十二段)、間抜けな人々の話が説教臭いが普通に面白い。
それに、「ふざけてバカの真似をしている時点でバカだが、逆に立派な人の行いを真似るのは十分に立派だ」(第八十五段)とか「修行中寝てしまう人は、寝ていないときだけでも頑張ればいい」(第三十九段)とか、励まされる話も多い。近くにいたら面倒くさそうなおじさんだが、その言葉には勇気が出る。これも旺文社の翻訳で読了。
もちろん時代の制約はある。たとえば、珍しい姿の盆栽を育てていた人の話がある。第百五十四段である。ある時に雨宿りで見かけた大勢の身体障害者の曲がった身体を見て嫌悪を覚え、帰宅した途端に「俺のコレクションはこういう連中を集めてるようなもんだったんだな」と考えて、植木をすべて捨ててしまう。これなんかはなかなかに弁護できない。個人的には、コレクターが飽きる瞬間の描写として面白いし、当時の病に対する態度がよく分かって興味深いけれど、すべての人がここまでくみ取ってくれるかどうかは疑わしい。
これは全くの余談であるのだが、高校生時代に模擬試験を受けたとき、ある古典の問題文が主張している内容が差別的だということで、問題を差し替えてそこだけ再試験になったことがある。確か「私は身体障害があるからこうして人の喜捨で生きていける。かえって幸せだ」と述べる箇所があった。出典は忘れた。
個人的には、例えば中世の障害者はどういう扱いを受けていたか、解説をしたり議論したりしたら、すごくいい授業になったと思う。周囲では「事なかれ主義」だという批判も聞いた。おそらく、「先述したレベルで議論をするのは高校から先の大学以降でやりましょう」ってことなのだろう。もっとも、米国の大学ではナボコフ「ロリータ」の精読を基礎教養から外したと聞いたので、大学院レベルなのかもしれない。どうも米国はよくわからない。合理主義に見える一方で、いろいろな表現規制の根っこには、建国以来のピューリタニズムの遺風があるのではないかと邪推している。
今まで読んできた日本文学についてまとめるのは、一つには我が身を振り返って余計な過去をバッサリと切り捨てたいからである。小説家になりたいという妄念を過去のものにしてしまいたいのである。ここで自分が抱えている妄念を文章にしてしまうことで、意図的に小説の素材として使う機会を潰したい。書きたいという狂気を鎮めるのである。人生で辛かったさまざまな出来事ことでさえ、世間的にはいたってよくあることなのだ。これらについては長くなるし、恥ずかしいので書かない。
小説家として戦うには、いつまでも過去について考え、それを発酵させ、そのうえで自分から離れた普遍性あるものにしないといけない。さらに、時には他人の苦痛を咀嚼して想像しなければならない。自分の妄想は、他人に売りつけるに値するものだろうか?
小説家になる夢はあったが、こんな形でわざわざ嫌なことを思い出して、毎日を過ごすのは絶対に嫌だ。だからここに書き散らして、退路を断ってしまうのである。絶対に忘れてやる。連中の名前もグーグル検索しないと誓って数年が過ぎた。試みは成功している。あいつらのほうが「オス」として優秀に思えても、無視するに限る。しかし、こうして書くこともまた「創作」であろう。文章を読まれたいという欲望は尽きない。だが、万が一創作活動に舞い戻っても、絶対に絶対にぜーったいに自分のトラウマには触れないぞ!
このエントリ群を書きながら内面の暗いところまで沈んで行ったら相当にうんざりしてきたので、こういう創作は二度とやるまい。ちなみに、ブログでなく増田で書いているのは、創作活動をやっている/やっていたと公開しているはてなブログでは、こんなひがみや政治意識丸出しの発言をするわけにはいかないからである。また、初稿では倍ぐらい個人的な過去の出来事の愚痴を描いたのだが、本筋から離れるので削った。
そう、忘れてはいけないのだが、このエントリを書いた一番の動機は、古典の名作を紹介したいからだ。これだけの古典が現代にまで生き延びて読み継がれている国は稀有だろう。日本という国は、まったく非常に多くの問題を抱えているのだが、先人たちの積み重ねには頭が下がる。自分の雑文でちょっとでも興味を持つ人が増えてくれたらとても嬉しい。作者の名前とタイトルを授業で覚えるだけよりも、中身を知ってる方が絶対楽しいからね。
ちなみに、これはタイ王国をディスっているわけではないのだが、プラープダー・ユン「パンダ」の解説で、タイでは(純文学系の?)小説の初版部数は一千から二千冊程度で(タイの人口は七千万弱)、娯楽小説ばかりが売れているそうである。娯楽小説に罪はないし、むしろ好きなのだが、人間の心の基礎研究とでもいうべき純文学はある程度の人数に読み継がれていってほしい。
あとは、自分の好きなことについて語るのが単純に楽しいからだ。何が好きで何が嫌いかを明確にしていくことで、次にどこに向かって進めがばいいのかがわかってくる。次に何を読めばいいのか、自分が本音では何を求めているのか、だんだんと明らかになってくる。
https://togetter.com/li/2502016
こんな話題を見かけた。増田はいわゆる兼業の物書きで、わずかながら試験問題に採用されたことがあるから、事情がわかる気がする。
まず、試験そのものへの掲載は漏洩を避けるために事後承諾でいいことになってる。試験日のあとしばらくするといきなり試験問題のサンプルと許諾書が送られてくる。許諾しなかったところで試験がなくなりはしないが、公式に公開する過去問には収録されなくなると思う。
赤本などに収録される時はそれとは別で、出版社から収録の可否の問い合わせがある。これが結構面倒で、複数の学校で試験に使われたら別々に問い合わせが来たり、返事も書類に印鑑を押して返さないとならなかったりで、自分はすぐに返したが、忘れる人がいてもおかしくないと思う。そうなると、当然許可は得られなかった扱いになるのだろう。
まとめ内に出版社がケチっていると書いている人がいるが、基本的には赤本全体のうちのページ数割で著作権料が決まっていて(この金額なら許可するなどの指定もできるが、まずはデフォルトの金額が伝えられる)、問題に一つ採用されたくらいだと数千円程度だったりするから、そんな額をケチってはいないだろう。というか、初版部数とページ数で決まってるっぽいから、著作権料が大きくなりすぎるなんてことは作家側が無茶なふっかけをしない限り仕組みとしてあり得ないと思う。そして個人的な感覚としては、そんなことでいちいち無茶なふっかけをするなんて面倒なことしたいとは思わなかった。
そしていちばん面倒なのは、兼業で規定の収入を超えたら確定申告が必要なわけだけど、その際にすべて記入しないといけないこと。書類の数も増えるし訳がわからなくなる。