はてなキーワード: 作為とは
ランダウ–ラングランズ的な双対性の直感を、位相的・圏論的な巨大場として再構成する作業は、もはや単なる対応命題の確認ではなく、数学的実在の階層構造を再階層化する営為へと移行している。
ここで重要なのは対応自体が一つのモノイド的作為ではなく、∞-圏の層状化した自明化可能性の表現であるという読み替えである。
最近の成果群は、従来の局所・大域の二項対立を溶融させ、曲線・局所体・解析空間といった古典的な基底を、より普遍的な空間の記述可能性(representability)の観点へと置き換えてしまった。
具体的には、ファルグ=フォンテン曲線を舞台にした幾何化は、局所的表現論を圏的スペクトルの上に載せ替えることで、従来別個に扱われてきた表現(自動形式的対象)とパラメータ(L-パラメータ)を、同一の圏的心臓部で同時に構成可能にしたことを意味する。
この構成は単に対応が存在することより深く、対象自体を再定義してその同値関係を圏の中心や内部終対象の言葉で記述することにより、対応が生まれる必然的環境を示した点で画期的である。
同時に、グローバル側の道具としてのシュトゥーカ(chtoucas)的技法は、関手的・代数的な操作を用いて場のモード分解を行い、その分解が示す不変量を通じて大域的パラメータ化を達成する方策を具体化した。
ヴィンソン・ラフォルグの仕事群は、こうしたシュトゥーカの立型化によって、関手的に取り扱える大域的パラメータ空間を提示し、局所的構成との繋がりを媒介する新たな環を与えた。
結果として、言語的には表現→パラメータへの写像がベキ乗的に分解できるだけでなく、その分解自体が可逆的な圏的操作として認識され得ることが示され、これが大域的Langlands構想の新しい正当化になっている。
さらに最近の数年間における動きで決定的なのは、モチーフ論の解析的拡張が進んだ点である。
従来モチーフは代数多様体上の普遍的コホモロジーという観点で語られてきたが、ショルツェらによるベルコビッチモチーフ(Berkovich motives)や関連する解析的・アーク的降下法は、可換性や双対性に関する新たな剛性条件を与えることで、代数・複素解析・非アルキメデス解析を一枚の理論で織り上げた。
モチーフを単なる数論的核から、解析的スタックや圏的双対性を自然に持つ対象へと格上げし、Langlands的双対性の受け皿を拡張した。
こうしてモチーフとLanglands対応は、もはや互いに独立した二つの理論圏ではなく、同じ∞-圏的言語で発声される現象に変わった。
そして最も劇的な変化は、最近公表された一連の大規模な仕事群が、幾何学的Langlands命題の本質的な形を証明し得たことにより、これまで隠れていた構造的要請が顕在化した点にある。
これらの証明的努力は、従来の和声的・解析的手法を超え、圏的分解、局所–大域の整合、そしてモチーフ的双対性が同時に満たされるような動的な証明環境を構築した。
重要なのは、この到達が単なる命題の解決に留まらず、数学的対象の定義域そのものを書き換えるような再帰的メタ構造を与えたことであり、以後の展望は新たに定式化された圏的正規形とその変形理論を追うことで開かれる。
結果として、Langlandsプログラムとモチーフ理論の接続は、従来橋をかける比喩で語られてきたが、今や両者は共通の言語空間の異なる座標表示に過ぎないという段階に達している。
ここでの言語空間とは、∞-圏とその可逆化可能な中心、アーク的・ベロコビッチ的降下法、そしてシュトゥーカにより生成されるファイバーの総体を指す。
その内部では、表現論的計量(harmonic analysis 的なスペクトル)と数論的モチーフの普遍的ファンクターが互いに鏡写しになり、操作が圏的に昇格することでパラメータ化は動的な自己相互作用として理解される。
これが意味するのは、将来の進展がもはや個別の定理や技法の追加ではなく、数学的対象を包摂するより大きな構成原理の発見と、それを支える新しい圏的インフラ(解析的モチーフ、Fargues–Fontaine 的基底、chtoucas の動的再解釈)に依存するということである。
読み手がもし、これをさらに運動方程式的あるいは力学系的なメタファーで読み替えるなら、ラングランズ系とは無限に多様な対称性とその破れ方が−同値関係としてではなく−力学的な遷移として定義される場であると結論づけられる。
その意味で、最新の進展は単に既存のパズルのピースを嵌め直したのではなく、ピースそのものを再設計し、新しい接着剤(∞-圏的双対性、解析的モチーフの剛性、シュトゥーカ的ファイバー化)を導入した。
この新しい設計図を受け取った数学は、今後、従来とは異なる方法で「表現」「パラメータ」「モチーフ」を同時に扱うための合成的技術を展開するだろう。
現代の現実的なヒーローを描くという意味では歴代屈指の出来だと思う。
ただ、尺の都合なのか「ヴィジランテ(自警団)」の是非については片手落ちになっているとも思った。
とりあえず、いい加減、ディズニードラマは適当なところで切るのやめろ。
ガンニバルもそうだったし、今作もそう。最低限、何らかの話は終わらせろ。
今作では仲間を奪われ怒りを制御できず自身の考えるヒーローの資格を失い、ヒーローを引退するマット・マードックと、自身の悪心を制御することでニューヨーク市長へと昇りつめるウィルソン・フィスクという対立構造から話が始まり、フィスクの悪心が徐々にあらわになるにつれ、再び怒りを募らせついに復帰するマットが鏡像として描かれる。今作の序盤から終盤にかけてマットとフィスクはほぼ同じ属性のものでは?というエクスキューズが投げかけられている。これは過去作からもある種共通したテーマだった。
しかし、今作では市長として時に脅し、時に煽てながら仲間を増やしていくフィスクに対して、マットは孤立を深めていく。そしてその結果、マットは破れ、フィスクが勝利する。しかし孤独だと思っていたマットにも、ニューヨークを取り戻したいと思っている善良な仲間がいた。彼らの革命が始まる!完!
完!じゃねぇんだわ!という気持ちはあるが物語としてはよくできている。
キャスリン・ビグローならここで本当に「完」にしそう。
フィスクが権力内、そして市民への支持を得ていく過程で利用するのは「顔隠して暴力ふるいまくるヴィジランテ(自警団)ってヤベー奴らじゃね?」という印象操作。これは例えば今でいうなら「移民」であったり古くは「輸出大国日本」であったりという「共通の敵を作り出すことで団結を促す」という手段であるのだが、これを行うことでフィスクは「自身への団結」と「敵の排除」の両方を効率よく行っていく。過去に倣う立派な政治家である。
しかしそれに対してマットは今作ではヴィジランテとしての活動はほぼ全く行わない。
マットがデアデビルになるシーンは概ね4つ。
1~3は「知り合いが危険じゃねーか!!!(ブチギレ)」で、4は自己防衛。
自警団として「世の中の悪を退治する」という活動を行うシーンがほぼない。
マットがデアデビルになるときは終始ブチギレており私怨からヴィランをボコボコにしている。
もちろんこれが「自警団って言ってるけど感情的に暴力をふるっているだけでは」という、アンチ自警団のフィスク側の視点を補強する役割を担っていて、だからこそ市民の信頼を回復するに至らず敗北するというのは理解できるのだが、それにしても作劇的作為を感じすぎるなと思った。
フィスクニューヨークは治安も全然回復してないし、何なら悪くすらなってるのにマットはそれらはおそらく無視して自分に関係のある人が害されるとブチギレて暴れ出すヤベーやつになってるけど、さすがに前まではそこまでのキャラじゃ無かったよね?と感じてしまった。
昨今多いけどやっぱ市井の人々を救うシーンを描かずにヒーローの葛藤を描こうとするのやっぱフェアプレイに反すると思う。そりゃ「仲間を救う」ためだけに力を使うんだったら「ヤンキー」や「暴力団」「マフィア」とは変わらんけど、そうじゃない人だから「ヒーロー」なんでしょ。
今作に登場したフランク・キャッスルならそれでいいけど、マット・マードックはそうじゃなかったはず。もちろん冒頭でイキスギ!ヒーロー暴行伝説!やっちゃって自警団活動に葛藤してるって構成なのはわかるけど、それで市井の人が苦しんでるのは無視して、自分の知り合いならブチギレるってやっぱ違和感があるよ。
とはいえ「デアデビルの新作」として見なければ(まぁそう見ないとフィスクとマットの関係とかよくわかんないんだけど)ここ最近のMCU作品の中では映画を含めても完成度は高いほうだし、ノワール系の作品が好きなら見て損はないと思う。
ただ、マジで「え?ここで?」ってところで終わるので、26年3月にシーズン2があるそうなのでそれを待ってから見てもいいかもしれない。元々全18話だったのをシーズン1の9話で出したって話だから、まさかシーズン2もいいところで終わることはないと思うので。まさかね。
他のAI使ってないから知らないけどchatgptってある程度長い問いをプロンプトとして使うと回答の長さがプロンプトの長さに比例せず一定の長さに落ち着いてくるよね。
どんなに込み入った学問系の質問でも全部同じような長さにまとめようとするからそこに「AIっぽい作為さ」が出てくる感じ。
1人のユーザに計算資源そんな使わせたくないんだろうなー。にしてもさすがにもうちょっと出力に融通きかしたらと思う
-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- Hash: SHA512 https://anond.hatelabo.jp/20250724175940# -----BEGIN PGP SIGNATURE----- iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaIH2DAAKCRBwMdsubs4+ SP29AQCdifGiNn6f7+VdHw3H/B0iMUCnIHOnHfBZPEdHhPj9bAEA1K72NvtmEfd4 GC1lGRNP/qnoDtYJXdnaJQYM//fG7wo= =iO0j -----END PGP SIGNATURE-----
実体験風漫画を描いてるように見えて登場キャラはほとんどがアイマスキャラに酷似してる、そしてそれをアイマス二次創作でもなくサイレントでやってる、そういうやり口の人って同人界隈にちらほらいるよね
普通に二次創作してるうちに力をつけた同人漫画家が商業デビューして、オリジナル漫画のキャラが手癖で昔描いてたジャンルのキャラに空似してるパターンは全然許せるけど
最初からダウンロード販売で稼ごうとする無名の人間が商業のキャラデザを勝手に拝借してオリジナルの顔して売ってるのは許せねーな
キャラの名前のタグがつけられる状態で公開するってのは二次創作としてのマナーだしファンとしての敬意のあらわれだ
まあ◯◯キャラのコスをしたレイヤーを登場人物にする同人とかは微妙なラインで扱いが難しいが、キャラの名前が徹底的に伏せられてなければ「版権を利用してる」感はそこまで濃くないからまあモノによるけど許容できることもある
ただ版権キャラと一切関係ない登場人物がたまたまアイマスキャラに酷似しちゃってますー分かりますよね?みたいなのはキチンでしかないと思う
この手の行為をする人は、二次創作作家として独自の画風を持とうとせずに、ひたすら原作に寄せたタッチにすることだけ考えていくから、脳みそがどこかズレてるんだと思う
15歳の高校生が当時14歳の少女に性的暴行して捕まったって報道文意味不明だよな
なんで時制を揃えないのか?つまりなんで被害者の方の年齢を当時のもので伝えるなら加害者の方は今の年齢で伝えているのか?
揃えないと比較にならないよね?これじゃ「当時」で考えたら加害者も被害者も全く同学年だった可能性が残るというだけ。
いかにも「高校生が中学生に性的暴行しました。ロリコンーw」っていう印象操作をするための作為的な文章に見える。そしてその作為が裏目に出て不自然な文章になっている。
愚かだ。
-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- Hash: SHA512 https://anond.hatelabo.jp/20250702150330# -----BEGIN PGP SIGNATURE----- iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaGTLtgAKCRBwMdsubs4+ SDeSAQCza2KGwIa4rfPcNLwSqeJ7+ZzLHIovNQFf/ycp1UbOIAD/fHHIl3FJ8e2/ p1bJhotlsc2zniBasDivaUBbSbwrdgQ= =pXFN -----END PGP SIGNATURE-----
ジークアクスは、アイコニックで即効性のある(インスタントな)ビジュアル、演出、シナリオ表現を多用しており、その密度ゆえに観る側に強い情報負荷を与える。結果として、視聴体験がどこか疲れる。(これが楽しいというのも勿論ある。)
鶴巻監督(スタジオカラー)の作品だなぁという強い印象を受けた。
ターゲット層についても、既存ガンダムIPが想定してきた年齢層よりも幅広いリーチを狙っているように見える。(最初はみんないってたよね)
物語構造は「少年少女のミクロな視点」と「政治や戦争のマクロな視点」「世界の構造(並行世界)のメタな視点」の交差という、やっぱりちょっとカラー味のつよい構成で、この両視点の深部に迫ろうとすればするほど、初代ガンダムをはじめとした旧作の知識が避けられない要素となってくる。
しかし、仮に初代の文脈を充分に理解し踏まえていたとしても、本作はメッセージ性や語り口においてはまったく別の作品であり、その味わいは異なる。
初代ガンダムが持っている富野的メッセージ性を渇望すると損をするので注意が必要だとおもう。
全体として、ジークアクスはガンダムという巨大な文脈を土台にしながらも、独自のスピード感・刺激性を優先しており、それが逆に“観る者がキャラクターの内面に入り込む余白のなさ”や、“作品と視聴者との信頼関係の築きづらさ”に繋がっているという印象も受ける。
(自分にとっては鶴巻キター!なのである意味信頼通りでもある)(ガンダムが好きな自分の気持ちは少し蔑ろ)
ここまではなんか全体の話。
ジークアクスは物語構造上、キャラクター同士のコミュニケーションに“余白”を設けているように見える。だがこの余白すら、どこか違和感を伴う。
というのも、その会話の多くが象徴的・記号的な文脈で構成されており、キャラクターが“語っている”というより、“意味を演じている”ように見える。これが作品全体に、アイコニックでインスタントな印象をさらに強めている。
少年少女の造形ややりとりにはそれほど違和感はないが、対照的に“大人たち”がガンダム世界にしてはどこかだいぶ幼く見える。これはキャラクターデザインの印象と、言葉遣いや立ち位置の“象徴性の強さ”が作用しているように思える。
また、主軸以外の登場人物たちは非常に簡素に処理される。結果として、視聴者によっては極端に記号的に消費されるキャラクターも出てくる。
もちろん、あらゆる物語が多かれ少なかれそうした構造をもつものだが、この作品においては特にその“設計図の線”が強調されており、それを構造的に“意識させられてしまう”。ここが、観ていて妙にキモい。
マブという設定の印象付けと演出の作為性で、後半に差し掛かっても変にキャラクターは2人セットで見ることを強制される感覚がキモい。
この「キモさ」は、作劇の設計意図とキャラの生っぽさが乖離していることへの本能的な違和感とも言えるかもしれない。意図や象徴は感じ取れるが、なぜかキャラクターに“自由”がない、そんな窮屈さがあ...る...かも。個人的にはもっとマクロ構造の方の強さをもぐもぐしたいんだけどな。
セカイ系っぽい感じが強くなるオチだと少し辛い(ガイナすぎる)から嫌だなと思いつつ、自分はニャアンが好きなのでもっと活躍してほしい気持ちです!
おわり
私はまあ女子という年齢ではないが、いわゆるnmmn腐女子である。意味がわからない人は調べてくれなくていいし、まあこれについての是非はまあ置いておいて。最初に腐った対象からnmmnで、その後も二次元などにハマることのなかった生粋のnmmn腐女子だ。二次元などは創作主の作為が含まれているが、nmmnはその当人が何かを思って行動しているわけで、それによって年月を経るごとにその人たちの関係性が変わっていくのが面白いとずっと思っている。
ところで本題に入る。数年までは自分からは妄想しないにしても普通にリアルエピには萌えるし、二次創作を読むレベルに好きだったCPがあった。でも私が応援しているタレント(仮にAとする)に別のタレント(Bとする)がしたある行動がきっかけで、どうしても無理になってしまった。B本人自体も苦手になり、できるだけテレビで見たり記事を読んだりしたくない。
AとBは元々先輩後輩だったが、今は仲良しというか、数年前からはもう年齢差はあっても親友といえる部類に入るような仲である。ただ私は親しき中にも礼儀ありだと思っている。Bのその行動はAという存在を軽視していた。だからBが本当に許せない。その後の2人の絡みを見ていても、あーやっぱりBはAのことを舐めてるんだなって感じてしまうことが何回もある。Aはイジられキャラでもあるのだが、つい最近もAが嫌がってるのにBがある行動を繰り返す、とかやっていた。Aは優しい人で、Bはその優しさに甘えている、つけ上がっているなとも思う。AとBの様子を見ていると、AがBの行動を結局は全て許してしまっているところがもどかしい。AがBに対して怒っていたり、苦言を呈しているのは見たことがない。
私がA絡みで好きなのはCとの組み合わせだが、CもけっこうAをイジる時ってあるけれど、そんな倫理的にどうなのってことはしない。しかもイジられたA本人が「Cのイジりは愛のあるイジり」というようなことを言っていたので、本人が嫌がってないのは確実だ。
AとBの組み合わせは人気コンビなので、腐っていてもいなくても、私と同じようなことを言っている人は全く見たことがない。他のオタクはAとBがじゃれているなとしか思っていないらしい。私はAのことが大好きで、Aが大事にされていてほしいという気持ちが強い。A自体が人気があるとはいえない人で、さらに腐っている人というのはまず少ない。私のAとCが創作が好きだと繋がってくれた人は、みんなAとBの組み合わせも好き、もしくはAとBそれぞれのファンだったりする。だからこの内容を共有できる人が全くいない。
今、AとBが共演している。共演する前から数冊の雑誌に一緒に載り、なんなら表紙も飾っている。私はAが載った雑誌は全て買う派なのだが、これらは嫌々買っている。Aが有名な雑誌に載ることができているのはBの知名度があってのことで、Bとの共演作品がなければきっと載ることは今後もないと思うから。
AとBは元々仲がいいので絡みがあるたびに普段からしんどかったのに、ここ最近は頻繁なのでずっとずっとしんどい。まださらに1か月ほどこのしんどさが毎日続くと考えたら耐え切れそうにない。だからといってAから離れようと思えず、苦しい。
事実認識については同意するけど、文フリに揺り戻しが来るみたいな話には同意できない
情報を売る的なもの、モノ消費的なものが売れなくなって(=音楽も本が売れなくなって)、その消費的なものがライブととコト消費的なものに移ってきてるっていうのは、誰だって言ってることだと思う
その中で本を売るために、例えば巨大書店に行く体験とか、サイン会とかそういうのがあったわけだけど、文フリはその中の一つ。文芸のライブ化なわけよ。
買われているのは本じゃなくてライブ感、つまり、ビックサイトの一体感だから、本に何が書かれているかは、ぶっちゃけどうでもいい
「Xでみんなが言っていたやつ」ぐらいならまだましで、「知り合いが書いてるから買ったけど、一行も読まない」ってやつも多いと思う
もちろん、こんなんじゃ、小遣い稼ぎ以上にはならないけど、別に商業を目指しているやつなんか一人もいないと思うけどね
そもそも、批評的な文章に商業的な居場所はないよ、そういうの書きたい人は大学の中に居場所を見つけて、小遣い稼ぎで書くしかない
もしくは、三宅香帆みたいな社会学と自己啓発の中間みたいなのを書くとかね
とまあ言ったけど、逆に言えば適当でも売れやすいわけで、編集者タイプの人が、売れ線を見つけて、それっぽい書き手を作為をもって並べる的な、同人ゴロ的なことをすれば、儲かる可能性もあるかも
そういうこと考えた方が有意義
ガロは書く人も居なさそうなので、元読者の義務感に駆られて書いてみた。リアタイで読んでいたのは80~90年代の一部なのでいろいろ偏っているとは思う。選択の基準としては、漫画史的な重要性や、後世に与えた影響を優先した。バックナンバーや単行本やアンソロジー、関連書籍(が多いのもガロの特徴ではある)などの知識も動員したが、記憶に頼って書いているので誤謬などはご容赦。むしろ先達からの突っ込みが欲しいです。なお、ガロ分裂後のアックス誌の作品にはここでは触れない。
まずはなにを差し置いてもこれ。そもそもガロという雑誌の創刊自体が長井勝一による「カムイ伝」を掲載する媒体を作りたいという並外れた理由によるもので、「ガロ」という奇妙な誌名も作中人物の「大摩のガロ」から取ったものだった。どちらかと言えば現在では「読まれない」作品になりつつある印象なので当時の熱狂を図るのは難しいが、漫画史的には「どうやら漫画という媒体は歴史的・社会的な諸問題を描き得る(と読者に思わせた)」点がエポックだったのではないかと思う。今であればそんなもん当然だろうと思われるかもしれないが、所詮我々はこのような巨人の肩の上にいる。
つげ義春がガロ誌に発表した短編は悉くが傑作なのでとても一本に絞りきれるものではなく、作品の完成度からすればむしろ「ゲンセンカン主人」や「赤い花」ではないかとも思うのだが、後世に与えた影響の大きさを考えればこれを選ばざるを得ない。「見た夢をそのまま描いた」という誤解を受けることも多い本作だが、実のところは多種多様なコラージュや巧みな漫画的技法に満ちていて、きちんとした作為の下に統制して作り上げられた「シュール」の傑作であることがわかる。
若い男女の同棲と破綻の物語と描けば無数の類例が思い浮かぶが、1970年の発表当時には極めて新しかったはずである。なにしろ婚前交渉などという言葉が現役だった時代だ。主人公の職業がアニメーターというのも新しく、しゃれていたのではあるまいか。この作品の画期は、漫画に「俺たちの等身大の青春(あるいはそのように夢想したいもの)」を持ち込んだ点だったのではないかと思う。林静一の洒脱な絵は上村一夫などによる後続作に比べても洗練されていて、今見ても色あせない。
漫画(に限らず表現)とはなにものかを描かなければならないのだというドグマがまだ有効だった60年代、漫画から意味というものを完全に取り去ってしまった佐々木マキの一連の作品はセンセーショナルであったらしい。画風はおそらく杉浦茂の系譜にあるのだが、もはやナンセンスという言葉も不適当だと思われるぐらいに徹底して意味や物語は排除されている。その衝撃は若き日の村上春樹にもはっきりと影響を与えたらしく、のちに佐々木は村上の著作の挿画を担当することになる。
簡素な絵でナンセンス漫画を濫作していた滝田ゆうが、心機一転、自らが少年時代を過ごした戦前の私娼街・玉ノ井の風景をおそろしく緻密な絵柄で描き出した。「三丁目の夕日」的なノスタルジアものの先駆ではあるが、最終回、戦火は玉ノ井の街を焼き尽くして終わる。ここに描かれているものは、卓抜した記憶力と画力により再構築された、失われて二度とよみがえることのなかった風景なのである。
ここまでは疑いなく殿堂入りの作品が並ぶが、ここからは判断に迷う。70年代ガロからは永島慎二や宮谷一彦を外してはいけないかもしれないのだが、活躍のメインはガロ誌ではなかった作家だし、やはり当時の熱狂を現在から嗅ぎ取るのは少々難しい。安部慎一や花輪和一、古川益三(のちのまんだらけ社長)の諸作品も思い浮かぶけれど、ここでは作品の強度と詩情、卓抜した画力を取って敢えて鈴木翁二で。
これも当時の衝撃をいま追体験するのは難しいのかもしれないが、ヘタウマや不条理がどっさり詰め込まれた本作が半世紀近く前のものと考えるとやはり衝撃的だし、こういうギラついた脳天気さは、結局は80年代「軽チャー」の苗床になったのではないかと思わされる。
80年前後のガロにはニューウェーブにカテゴライズされる作家も少なからずいて、例えば川崎ゆきお、蛭子能収、ひさうちみちお、奥平イラなどが挙げられるのだが、個々の作品への愛着はさておいて結局のところ今に至るまで強い影響を与え続けているのはむしろニューウェーブの埒外にいた丸尾末広ではないかと思う。圧倒的な画力は漫画のみならず演劇や音楽にも影響を与えたし、世代を超えたファンも多い。なお本作の初出はガロ誌ではないのだが、代表作として外せないのと単行本は青林堂だったのでご容赦を。
80年代ガロではこの人の名前も外せない。「過激な」作風と言われ「特殊漫画」を自称他称もしている人ではあるけれど、実のところは非常に息の長い物語を紡ぎ出せるストーリーテラーでもあり、日本の近代史や土俗性を容赦なくぶち込んでやるから覚悟しろよというぎらついた野心も垣間見える。その試みがもっとも巧くいった作品の一つが本作。水爆投下とともに発射された精子が自我を持つ話です……と書くと面白そうでしょ?
ガロ最末期の90年代から一人と考えて、古屋兎丸や山野一・ねこぢるなども思い浮かんだけれど、漫画表現の圧倒的な強度に鑑みて本作を選んだ。この地上には存在しないはずなのによく知っている風景がどこまでもどこまでも展開される。いつかうなされながら見た夢が、ここに具現化されているという驚き。「ガロがなければ世に出ることのなかった」作品の一つの頂点であると思う。逆柱作品はどれをとっても傑作なのに単行本の多くは絶版で、とんでもないプレミアが付いてたりする……。
・個人的にはつげ忠男の大ファンで、実際「無頼の街」「河童の居る川」など傑作も数多いのだが、漫画史的重要性を優先して涙を呑んだ。
・赤瀬川原平も言及に迷ったけど、ガロ誌での漫画作品(『お座敷』など)よりも、その外での活躍が多かった人という印象なので選外に。ガロ系の作家ではこういう人も多いのですが。
・「ガロにおける有名作家」という問題もある。水木しげるに矢口高雄に池上遼一といったビッグネームもあれば、のちのどおくまんも一度作品を掲載しており、末期ガロにも吉田戦車のような意外な面々が顔を覗かせる。珍しいところでは、SPA!誌で掲載を断られたゴーマニズム宣言の回を小林よしのりがガロに持ち込んで掲載された例がある。
・ガロ出身で他誌で活躍することになる人も多い。上記の他、新しい世代では花くまゆうさく・福満しげゆき・東陽片岡・古泉智浩あたりか。
・80年代ガロでかなり迷ったのは、トラバでも言及のある久住兄弟や泉晴紀・泉昌之、渡辺和博などの面々。このあたりのナンセンスな作品群はわりと影響も大きかったようなんだけど、作品単体でどうこう言えるものが思い当たらなかったので除外。
・つりたくにこ・やまだ紫・杉浦日向子・近藤ようこといった女性作家たちの極めて良質な作品についても言及しておきたい。特に津野裕子は最末期のガロに、寡作ながら優れた作品を残した作家で、機会があればぜひ一読をお勧めします。
・その他、この10選に選ぶには及ばないけれど間違いなくその人にしか描き得ない作品を残し、ガロという媒体がなければ目にすることもなかったであろう作家たちについても、その名をリスペクトしておきたい。淀川さんぽ、とま雅和、谷弘兒、三橋乙耶、菅野修、等々……。
・90年代ガロは文章ページが(文章ページのほうが……)充実してた感があり、呉智英や四方田犬彦など結構な面々が連載していた。
・投稿ページの「4コマガロ」も相当(雑誌のカラー的な意味で)レベルが高く、ここ出身の有名作家が福満しげゆき。
・同時期にやっていた「ガロ名作劇場」という好企画があって、90年代前半時点では入手困難だった作家を含め、ガロ出身の名作家を回顧的に紹介してくれた。林静一「まっかっかロック」なんてものすごい衝撃受けたし、楠正平や勝又進なんてこんなことでもなければまず読むことができなかった作家だったと思う。
・ねこぢるはやはり入れるべきだったかなーという迷いは今でもあり、代わりに削るとすればペンギンごはんか鈴木翁二か。リアタイ勢だったんだけど初読の際の衝撃は今でも覚えていて、90年代サブカル的にはわりとよくあった「無邪気な残酷さ」が普遍性を持ち得た希有な例だったんじゃないかと思う。(その点では山田花子には自分は少々点が辛い)
・>ビレヴァンいけば売ってる? >なんか漫画系のサブスクはこういうのの乗っかってどんどんセット売りとかして欲しいよな。
これは本当にそう思うところで、ガロの名作群はとにかく作品へのリーチが困難。古川益三の作品なんてマジで読めないし古書には衝撃的な値が付いてたりする。電書にするにしたってタダじゃないのは分かってるけど、なんとかならんかな。
・>「ガロ」はフォロワー・影響度では計れない作家作品が多すぎて。簡単に真似されるような作品はガロ的ではないとも言えるし
これも本当に同感で、孤立峰みたいな作家が多すぎるんだよなー。熱を込めて語られるけれど模倣はされない、って、表現としてはすごいことなんだけど。
運よくすり抜けずにキィニチ確保できたわ
遺物とかこれからだけどキィニチ・エミリエ・深林トーマ・ベネットで使ってくわ(炎神はよ)
履歴みたら2連続すり抜けしてたところだから3連続すり抜けの抑止措置が働いたってことか
どっかで見た画像によると
ああ見つけたこれだ レディットのr/Genshin_Impact/comments/1f5mfqf/the_new_cn_capturing_radiance_theory/
これを統合するとPU確率が55.17%になり、公式発表の「総合確率55%」に合致する
こういうのって祈願カウンターサイトの統計見ても分からんからなあ
要するにすべての人の星5引きが55%になってるわけじゃなくて、極端に運が悪い人を救っていくことで55%に近くなる
だから極めて少ないサンプルを長期間積み重ねていってやっと55%なのが分かる
スタレやZZZにも輸入してほしいわ…というかこの仕組みなら武器ガチャにも適用できるんじゃ?
すり抜け率25%のはずのスタレ武器ガチャ、俺3連続ですり抜けて記録更新中なんだよね
こういう運のバラツキ要素を中華ガチャは極限まで早期に収束させていける土壌があるはずだ
ガチャのランダム要素によるワクワク感さえあればいいわけで実際には極端な幸運や不運はない方がいい人の方がきっと多い
音響でいうローパスフィルターやハイパスフィルター的なガチャ運の平準化だね
それは未来の基本無料ゲームの標準装備になっているべきもんだと思うわけよ
ただし幸運側に振れた場合にも手を加えるかどうかは議論の余地がありそう
幸運側に振れたときは遅効性の平準化がかかっていく感じならよくない?
まあこのへんも明確に可視化されないだけで昔からなんらかの形でガチャ履歴に応じた補正があった可能性もなくはないよね
74連目から確率上昇してくってのは周知されてるけどもっと他のさ
例えば天井カウント浅めのところで光ったときはすり抜けのことが多い、みたいなのは
それ単体で聞くと50%/50%に反するオカルトだけど履歴全体で振り返ると結構なユーザーが同意できる気がするんだよ