はてなキーワード: 心機一転とは
どうすればいいんだろ。
俺はクラスで一番か二番目くらいに清潔感がないタイプの人間なのだが。
いい加減女性に縁がない人生に行き詰まりを感じてたので、心機一転してモテを目指してる。
ここ半年。
だけど、まったく鳴かず飛ばず。モテません。すってんころりん。
少女マンガを読んでみたり女性向けの雑誌を漁ったり、コミュニケーション術を学んだり、風呂に長めに入るようにしたりシャンプー変えたりしてるんだけど、一向に成果が出ない。
ひょっとしてもしかすると、心構えの時点で何か間違ってるのか??🤔という疑いが出てる・・・。
追記・
なお一人暮らしで部屋はかなりキレイなはず。机の上に置かれた余計な物は即座に処分されるし当然ホコリもない。どちらかというと潔癖症なので。なのにどうして・・・トホホ😭
なんかAI使って創作したら、うっかり伸びて、更新する義務感生まれちゃった。それが今年の5月くらいのこと。
最低、月1万円、放置しても数千円は稼げそうな感じがある。
でも「うっかり」とあるように、別に創作好きじゃないんだよ。それまで創作活動なんて何もしたことなかったしさ。
見るのは好きだけど、やるのはめんどくさくて時間の無駄に感じる。
でも、いい小遣い稼ぎになってしまってるから、やめるにやめれず、ずっと葛藤してる。
もう、本当に思いつきでいいからさ。
人が集まったらあかんね。面白くしないといけない!と頭を悩ませてしまってアイデアがなくなるし、更新止めたらあかんと思ってしまって、どんどん追い込まれる。
そこで、一から、今度はそんなことを一切気にしないスタイルで心機一転やり直すという選択肢もある。
何と戦ってるんだ俺は。
看護学生/看護師アカウントをwatchし続けて早10年近く。本当にこの界隈に生理的嫌悪感を覚えている。
女が多いからではない。男女等しく、この界隈に浸りきっている奴は気持ち悪い。
そもそもTwitterで職業アカウントを作る人に気持ち悪い人間が多いからなのかもしれないが。
彼女/彼らは看護学生や新人看護師の頃、自分を「意識低い系」と自称する。もしくは異常に「勤勉さをアピールする」のだ。
意識低い系は読者の想像する通りであろう。自らを勉強していない「限界看護学生/新人看護師」などと名乗り、とにかく勉強をしていないこと、”患者に興味を持てない”ことなどをツイートする。
特にこの”他人(患者)に興味を持てない”ということをツイートするのは看護アカウントの特徴なのではないだろうか。看護師が対人援助職であることはわかりきってるだろうに、なぜ彼女/彼らは看護師を職業として選択したのだろうか。その件について「お金のため」と明言するアカウントもあるが、それはそれで「プロとして割り切れない」という技量や意識の低さが目立つ。
問題、というか看護師として予後が悪いのが「勤勉さをアピールする」タイプだ。
彼女/彼らは看護学生時代はレビューブックを分厚くすることに専念し、せっせと語呂合わせの付箋をアップロードし、さらに理想のキャリアプランや看護師像について熱く語る。
彼女/彼らは根が真面目なので、模試で良い点数をとり、面接も手堅く通過。そして試験結果を意気揚々とアップロードしたのちに志望の診療科に入って目を輝かせる。熱い目標と学びを語る。
だが、そういう人に限って夢潰えるのだ。
彼女/彼らは次第に愚痴と弱音のツイートが増えていく。自己を卑下し、次第にそれは他責へと変化する。
一番わかりやすいのが「先輩看護師」や「社会構造」への攻撃だ。先輩をお局様と称し、自己を防衛する。自身の環境を社会構造のせいにして看護協会を悪の親玉に仕立て上げる。社会人として何年経っても看護学生時代のことを「絶対悪」として語り続ける。
だが自己研鑽で現状をどうにかしようとはしないのだ。いや、自分が変わるのではない。
彼女/彼らは「環境を変える」ための努力に勤勉さを発揮するようになる。そうすれば今自分を苦しめているものは全て解決、心機一転ハッピーな看護師ライフを送れると思い込んでいるからだ。
転職先としては第二新卒、クリニック、施設、訪問看護、美容、派遣、一般企業など多岐にわたるが、共通するのは”病棟”を避ける傾向にあるということだ。
まあそれは無理もない。人間誰しも、嫌な思いをした場に戻ることには抵抗を覚えるだろう。だが、病棟を辞めて他の職場に行った人らがずっとネチネチと病棟の悪口を言っているのを見るのは滑稽だというものだ。また、そういった病棟叩きのツイートがバズりがちなのも、そうやって自己の選んだ道(病棟を辞める)という選択を肯定してもらいたい人間がTwitterに数多く存在しているということの証だろう。
だがそうやって自己を正当化する物語を探してばかりでは、永遠に病棟を去ったことを後悔するばかりだろう。それに”病棟を続けることができなかった自分”は行動なしには永遠に変わらないのだから。
それに、Twitterに入り浸る限り彼女/彼らに転機は訪れない。「傷の舐め合い」が万バズし、数多のフォロワーを得る手段となり得るTwitterでは彼女/彼らは変わることができない。ただただ指を動かし、愚痴を投稿していれば承認欲求が満たされるからだ。永遠にぬるま湯に浸ることができるからだ。それはいつしか煮え湯になっても、彼女/彼らはそこから出ることはできないだろう。
そう、看護アカウントの界隈では愚痴や泣き言が万バズしやすく、フォロワーを得やすいのが最大の欠点だ。
彼女/彼らは看護アカウントを作り、愚痴を吐くだけでフォロワー数を何百も、時には何千も得る。いいねもたくさんつく。自己を肯定するコメントも貰える。そうすると気が大きくなる。「ああ、私たちの行動は間違っていなかった」のだと。
しかし面白いことに看護師としての年数が経過し、看護学生/新人看護師ではなくなると、余程のアカウントでない限り新規にフォロワーはつかなくなる。いいね数も目に見えて減っていく。”愚痴”も称賛を得られるのは若いうちだけなのだ。
そして限界まで煮詰まったアカウントは……もう目も当てられない。
彼女/彼らは”過去の栄光”に縋る。新しくアカウントも作ることができず、そこに留まり続け、同じようなツイートを重ねていく。時たま思い出したかのように過去のバズったツイートを掘り起こすが、焼け石に水に過ぎない。結局看護アカウント界隈の「おじさん/おばさん」として生きていくしかないのだ。しかし、新規に看護アカウントに参入した若い奴らは知っている。
「こいつらはやばい人物だからここまで看護アカウントを続けているのだ」、と。
看護アカウント界隈は定期的に看護アカウントを卒業(アカウントが動かなくなる)する。それぞれの別の日常に向かって新しくツイートを始める。看護という物語に縋らないと生きていけないやつは異常者なのだから。
この時期どうしても見聞きしたりする言葉が多くなって私も見逃せられないのがあって、
それは、
「コンクラーベ」
他言語で置き換えて「根比べ」って言い変えれる言語って日本語しかないような気がするのよね。
絶対に、
日本中の人が今思っていることを代弁しながら漏らしていくわ。
もうみんな「コンクラーベ」って言いたいのよ。
言い足さすぎる加減が止まらないの!
重いコンダラー級に。
違うかー!
そしてあの
黒い煙が出るか白い煙が出るかで、
もうその様が、
その部屋の中で暑い部屋の中でコタツに入って暑さ我慢比べをみんなやっているまさに根比べ!
あの煙突の煙は室内のコタツを温める暖気の何かを燃やした熱の煙突なのよ。
そこで繰り広げられている、
暑さ我慢大会を想像しちゃってる人絶対に私だけじゃないみたいだと思うわ。
根比べ恐ろしいわね。
それよりか前回のコンクラーベで
枢機卿になりすましてしれっと入場していたドイツ人にみんな本当の枢機卿が気付かなかった方が
やっぱりコンクラーベというと
いやしちゃいがちなのよね。
ちょうど今の時期コタツも要らなくなってきて片付けちゃったところ多いと思うのよね。
だからより根比べでコタツに入って暑さ我慢大会をやってるシーンの絵しか思い浮かばないわ。
これどうやって変換するの?って思ってなんだか聞き覚えのある言葉を「すうききょう」って入力したら変換できちゃった!
そんな私のコンクラーベ。
なんかその枢機卿と言うか、
そういうチームの人達に連呼しないでください!って言われちゃうぐらい、
私達がコンクラーベって忘れたことに結果が決まっているみたいよ。
日本のお米の値段は安くならないのよね。
そんなことを言っていたのに、
急にお米が不足して手に入りにくくなり高騰しちゃったりすると、
あんだけ米離れって言ってたあの時代は何だったの?ってみんな世間の意見は薄情ねって思うの。
ご年配の方に命をかけてまでも飲み込んで食べたい餅信仰ってあるじゃない。
お米ご飯みんな大好きなのねって。
おにぎりをいやおむすびを握りながら朝ドラの『アンパン』を見るんだけど
やっぱりヤムおじさんが面白すぎて、
そっちに目が言っちゃうわ。
あの頭に巻いている手ぬぐいからサイドはみ出ているパーマのジャムおじさんみ。
ああ!
ヤムおじさんが活躍はそんなに薄味なので
きっとアンパンは美味しいのでしょうね。
なにげに主人公の家に間借りしているパン売り場のパンは結構売れてて残り少なくなってきているところにヤムおじさんがパンを補給しにくるシーンとか良くできているそこにヤムみを感じてしまうわ。
たぶん、
ここは他の味のパン、
時代に沿う感じのあの時代のパンなら安直にうぐいすパン!って思っちゃうけど、
たぶんヤムおじさんはずっとその物語「あんぱん」を象徴するかの如くずっとずっと作中ではアンパンを焼き続けることにかけてはタニコーの五徳なのよ。
私が今ハマっているベーコンエピとか、
そっちのほうが気になっちゃって、
それじゃー
それはそれで方向転換として
もう一旦はアンパンマンで大成なさっているのでヤムおじさん物語でも私は良いと思うの。
お米の行き渡る量が少なくてもお米がちゃんと食べたい人にもちゃんと食べられるよう供給できるようになるじゃない。
でもさ、
ヤムおじさんがまたここで心機一転おにぎりマンの着想を得るためにおにぎり修行に出ちゃったら!?
いやまずいわ。
でもさー、
さすがに前作が「おむすび」っていうタイトルの朝ドラだったから、
節操なくそこにヤムおじさんがおにぎりマンの着想を得るためにおにぎりに急に燃える!ってことはなさそうよね。
私は前作の「おむすび」で橋本環奈ちゃんが道端で倒れているお腹を空かせたギャルにおにぎりを配りまくって世の中を救済する物語になってほしかったけれど、
最初の最初でスズリンにおにぎり食べさせて救っただけだったじゃない。
ヤムおじさんが他のパンを焼き出しちゃうと話がブレちゃうから、
きっとアンパンだけかもね。
ああ!あのときのヤムおじさんのアンパン美味しかったなー!って回想シーンになるじゃない。
その時にヤムおじさんがたくさんのバラエティー豊かなパンの種類を豊富に焼きまくっていたら、
そのやなせたかしさん役の人が
「あ!アンパンマンだ!」って着想にストレートにならないわよね。
うーん、
あのときのジャムパンも美味しかったしうぐいすパンも絶品だったしーってなると
そもそもの話の本筋がブレちゃって薄まるわよね。
だから、
あとにも先にももっとヤムおじさんには活躍していろんなパンの種類をバラエティー豊かに焼いてほしいけれど
終始一徹あんぱんだけしか焼かない確率100パーセントの確率だわ。
きっとそうよね。
そうだと思うわ。
それか逆にヤムおじさんがたくさんの種類のパンをバラエティー豊かに焼いていたら焼いていたらで
主人公が何パンにするかー!って悶絶して悩む青春グラフィティー物語でもいいかもしれない。
それじゃただ単にやなせたかしさんのグルメ物語になっちゃうわよね。
それはそれで楽しそうだけど、
孤独のグルメの人みたいに、
ずーっと心中語ってっるシーンで1話終わっちゃってもいいと思うの。
って思わせといて、
たまたま隣りに座っていたお客さんがやなせさんの心の中の言葉を吹き替えてリアルに口にして言っているシーン!
で、
やなせたかしさん役の人は「私が今から食べるでしょうに!」って言うの。
そこで意気投合してじつは隣りに座っていた人が大手出版社の人で
わーい!って感じ。
そんな展開だと思うわ。
とはいえ、
みんなこの時期コンクラーベって「根比べ」じゃん!って言いたい気持ちが高まっているのと相反して
アンパンが爆売れしていない世間のこの乖離感を感じてしまうわ。
周りでアンパンかじってる人を見ないんだけどなぁ。
このアンパンブームこないかな!って待ちわびている日本中の街の中のアンパンを焼くのが得意なパン屋さんは、
なんてね。
うふふ。
休日だとここに立ち寄れるので、
とはいえ、
開店直後はドッとお店にお客さんがわりとたくさん入ってくるので、
私が出遅れて飛び込み前転をしている際に入店が遅くなったけれど、
お客さんがたくさんで、
私は遅れても全然いいわよって余裕をぶっこいちゃうぐらいな余裕のある休日の朝だったので、
私はゆっくりと電子端末の前におもむいて増田を書いているってわけなの。
ちょうど書き終わった頃に
やったー!
私の読みは当たったわね今日は鮭、
焼き鮭よ!
しかもお腹の方で脂ののりも抜群なグンバグな美味さあふれる魚の脂が香ばしく焼けていて決まっているわ。
ああ休日の朝はそうこなくっちゃ!って
美味しくいただくわ。
起きてすぐ注ぐしゅわしゅわをシュワッと飲んで
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
Google Booksの無料サンプルでBLUE GIANT EXPLORERが1巻から3巻まで読めた。
俺もBLUE GIANT自体は知っていたし、みんなの評価も高かったので読んでみたいなと思っていたので
渡りに船とばかりに手を出したのだが、これ、BLUE GIANTの1巻じゃねーんだな。
確かに1話からなんかちょっと変で、主人公が「すげー成功した」感じで始まるので
「うん?これは過去回想って形で主人公の成り上がりストーリーが始まる感じか?」と思ってたら
そこからいきなりアメリカに行って「欧州で成功した主人公が心機一転アメリカで頑張る話」になる。
いや、「欧州で成功した」くだりはやんないのか?と思いながら読み進めるも
2巻の中盤くらいでふと気づく、これ、前シリーズがある奴じゃねーか?
失礼ありまみた。
つーか、BLUE GIANT全10巻、BLUE GIANT SUPREME全11巻に続く新シリーズなんだよこれ。
つまりBLUE GIANTシリーズ第22巻目なんだよなこれ。
そりゃなんかヘンな感じするわ。
普通にBLUE GIANT 22って書くか、
せめて表紙にBLUE GIANT 3st seasonって書くなりなんなりしてくれんか。
誰もがタイトルでググって買ったり読んだりするわけじゃねーんだわ。
巻数が多くなると新規の取り込みが難しくなるからタイトル分けるみたいなライフハックあるけどさ、
それってだまし討ちで途中から買わせるっていう相当あくらつなライフハックだと思うんだが
騙されたムカつきで絶対に金払ってまでシーズン1,2を読まないと心に誓ったし、
続きも読む気が失せた。
### キッチンの向こう側
わたしが大学に入った年、父が死んだ。それは五月の、少し肌寒い日だった。まだ新しい大学生活に慣れていない時期に、世界の一部が崩れ落ちた。病院から電話があったのは、授業の途中だった。廊下に出て電話を受けたとき、窓から見えた空は妙に青すぎて、それが不謹慎に思えた。
葬式の日は雨だった。それから、雨の日には必ず父のことを思い出すようになった。その年の夏は、異常に雨が多かった。いつの間にか、世界全体が湿っぽい灰色に染まっていった。
大学の教室は、思ったより広かった。高校までの教室とは違って、誰も生徒のことなど気にしていなかった。教授は前で一方的に話し、学生たちはそれぞれの方法で時間を過ごしていた。ノートを取る人、スマホをいじる人、居眠りをする人。わたしは、ただぼんやりと窓の外を眺めていた。
「彼女、いつも一人だね」
後ろの席から聞こえてきた声に、振り向かなかった。どうせ他人の噂話なのだろうと思ったが、それはわたしのことだった。気づくと、ひとりでいることが当たり前になっていた。
父は料理人だった。小さな和食店を営んでいて、わたしが小さい頃から、キッチンの向こう側で包丁を握る父の姿を見て育った。父の料理の音と匂いが、わたしの記憶の一部になっていた。ザクザクと野菜を切る音、出汁が沸く香り、魚をさばくときの真剣な表情。そんな父が、ある日突然、脳卒中で倒れた。病院に運ばれてから二週間、意識が戻ることなく逝ってしまった。
「お母さん、店はどうするの?」と聞いたとき、母は疲れた顔で微笑んだ。
父の店は、わたしの第二の家だった。学校から帰ると、いつも店の奥で宿題をした。客が少ない時間には、父が横に座って数学を教えてくれた。「料理も数学も、バランスが大事なんだ」と言っていた。その店がなくなるということが、父の死よりも現実味を持って迫ってきた。
大学の授業は、興味を持てるものが少なかった。文学部に入ったのは、本が好きだったからだけど、専門的な分析や理論を学ぶことに、空虚さを感じていた。教室の中で、みんなが真剣に議論しているときも、わたしの心はどこか別の場所にあった。
アパートに帰ると、静かすぎる部屋がわたしを迎えた。実家から離れて一人暮らしを始めたのは、新しい環境で心機一転したかったからだ。でも今は、その選択が間違っていたような気がしていた。テレビをつけっぱなしにして、誰かがいる気配を作り出した。
夜は不思議な夢を見ることが多くなった。父がキッチンに立っている夢。でも、振り向いた父の顔が、誰か他人の顔になっている夢。高い塔から落ちる夢。海の底で、誰かが名前を呼ぶ夢。朝起きると、枕が涙で濡れていることがあった。
母は週に一度、電話をくれた。「大丈夫?」という質問に、いつも「うん、大丈夫」と答えた。大丈夫じゃなかったけど、母を心配させたくなかった。父が亡くなってから、母は急に年を取ったように見えた。電話の向こうの声は、いつも疲れていた。
「料理、してる?」と母が聞いた。
「インスタント食べてる」と答えると、母は少し悲しそうな声で笑った。
「お父さんが聞いたら、怒るわね」
そうだった。父は、わたしに料理を教えようとしていた。「いつか、一緒に店をやろう」と言っていた。でも、わたしは興味を示さなかった。今になって、もっと父から学んでおけばよかったと後悔していた。
五月が過ぎ、梅雨が来た。毎日雨が降り、湿度が高く、部屋の中の物まで湿っているような気がした。教科書のページがくっつき、髪は広がり、布団はじめじめしていた。そんな中、わたしは図書館で多くの時間を過ごすようになった。
図書館は、静かだった。でも、一人でいることが苦痛ではない唯一の場所だった。本の間を歩きながら、偶然手に取った小説に心を奪われた。それは、ある料理人の物語だった。幼い頃に両親を亡くし、料理の世界で生きていく若者の話。その主人公が作る料理の描写が、あまりにも父の料理と似ていて、読みながら泣いてしまった。
図書館で働き始めたのは、六月の終わりだった。アルバイトを探していたところ、図書館で募集があった。静かな環境で、本に囲まれて働けるのは、わたしにとって理想的だった。本を整理したり、返却された本を棚に戻したりする仕事は、単調だけど心地よかった。
「君、いつも同じ本を読んでるね」
ある日、司書の鈴木さんがそう声をかけてきた。五十代くらいの女性で、いつも穏やかな笑顔を浮かべていた。
「父が料理人だったんです」と答えると、「だったんです」という過去形に自分で違和感を覚えた。
「そうなんだ」と鈴木さんは言った。「わたしの息子も料理人になりたがっていたけど、途中で挫折してしまってね」
何気ない会話だったけど、鈴木さんとはそれからよく話すようになった。彼女は、わたしの父のことを知りたがった。どんな料理を作っていたのか、どんな人だったのか。話していると、不思議と心が軽くなった。
七月に入ると、大学は前期試験の準備で忙しくなった。わたしは、ほとんど授業に出ていなかったことに気づいた。図書館で必死に勉強したけど、内容が頭に入ってこなかった。試験当日、問題用紙を前にして、頭の中が真っ白になった。鉛筆を握る手が震えた。
その子の名前は、里奈といった。同じ文学部の学生で、いつも授業の前の席に座っていた。優しい声と、少し丸みを帯びた顔が印象的だった。試験のあと、二人で大学近くのカフェに行った。
「実は、前から話しかけたかったの」と里奈は言った。「でも、いつも遠くを見てるみたいで、声をかけるタイミングがなくて」
彼女は、思ったことをすぐ口にする人だった。わたしとは正反対のタイプ。でも、その率直さに心地よさを感じた。
「父が亡くなったの」とわたしは言った。口に出したのは、里奈が初めてだった。
「そうだったんだ」と彼女は言った。特別な言葉はなかったけど、その反応が自然で、わたしは少し安心した。
その日から、里奈とはよく一緒にいるようになった。彼女の存在は、灰色だった大学生活に少しだけ色を加えた。彼女が話す他の学生の噂話や、教授の変わった癖の話を聞いていると、自分も大学生活の一部になれたような気がした。
八月になると、実家に帰った。母は、少し痩せていた。家の中は、きれいに片付いていたけど、父のいない空間は、まだ違和感があった。父の形見のように、包丁だけはそのまま台所にあった。
「使ってみる?」と母が言った。
わたしは恐る恐る包丁を手に取った。重かった。父の手になじむように作られた包丁は、わたしの手には大きすぎた。でも、握っていると不思議と安心感があった。
「お父さんの料理ノート、見つけたの」と母は言った。「あなたに見せようと思って」
それは、古いノートだった。日付と料理名、材料や作り方が細かく書かれていた。途中、「娘に教えるとき注意」と書かれたページがあった。そこには、わたしが苦手そうな工程や、間違えやすいポイントが書かれていた。父は、いつかわたしに料理を教えることを想定していたのだ。
そのノートを持って、わたしは台所に立った。まずは簡単な出汁から作ってみることにした。ノートに書かれた通りに材料を用意し、火にかけると、懐かしい香りが台所に広がった。父の料理の原点とも言える香り。その香りに包まれながら、わたしは初めて父の死を実感として受け止めることができた。涙があふれ出た。
「お父さんは、きっと喜んでるわ」と母は言った。二人で出汁を使った簡単な味噌汁を作り、久しぶりに一緒に食卓を囲んだ。
夏休みが終わり、大学に戻ったとき、わたしの中で何かが変わっていた。父のノートを持ってきて、週末になると自分で料理を作るようになった。最初は失敗ばかりだったけど、何度も挑戦するうちに、少しずつできるようになっていった。
「へえ、料理するんだ」と里奈は驚いた顔をした。彼女を招いて、初めて人に料理を振る舞った日、緊張で手が震えた。でも、「おいしい」と言ってくれた里奈の笑顔を見て、少し自信がついた。
後期の授業が始まり、わたしは文学の授業を真面目に受けるようになった。特に、食をテーマにした文学に興味を持ち始めた。食べることは生きること。料理することは、誰かに愛情を伝えること。そんなことを、文学の中に見つけられるようになった。
「最近、顔色がいいわね」と彼女は言った。「何かいいことあった?」
「料理を始めたんです」と答えると、鈴木さんは嬉しそうに微笑んだ。
「それは素晴らしいわ。いつか、わたしにも作ってほしいな」
十月になると、大学の学園祭の準備が始まった。里奈に誘われて、文学部の喫茶店企画を手伝うことになった。わたしは、迷わず料理担当を志願した。メニューを考えるとき、父のノートを参考にした。シンプルだけど、心のこもったメニュー。
学園祭当日、わたしたちの喫茶店は予想以上に人気だった。特に、わたしが作ったさつまいものスープが好評で、あっという間に売り切れてしまった。「秘密のレシピは?」と聞かれると、「父から教わったの」と答えた。それは嘘ではなかった。父のノートから学んだレシピだった。
喫茶店を訪れたお客さんの中に、一人の男性がいた。三十代くらいで、どこか父に似た雰囲気を持っていた。彼は、スープを飲み終わると、わたしのところにやってきた。
「このスープ、とても懐かしい味がする」と彼は言った。「昔、よく行っていた和食店の味に似ているんだ」
わたしは驚いて尋ねた。「もしかして、『桜木』という店ですか?」
彼の目が大きく開いた。「そうだよ。知ってるの?」
「父の店です」とわたしは答えた。
彼の名前は健太といった。父の店の常連客で、大学時代によく通っていたという。父の料理のファンで、店が閉まったあと、同じ味を探していたらしい。「君のスープを飲んだとき、店主の技を受け継いでいると思ったんだ」と健太は言った。その言葉に、胸が熱くなった。
学園祭が終わり、健太とは連絡を取り合うようになった。彼は料理研究家として活動していて、様々な食の知識を持っていた。わたしの料理の相談に乗ってくれたり、時には批評してくれたりした。彼との会話は、いつも刺激的だった。
「君のお父さんの料理は、シンプルだけど深みがあった」と健太は言った。「それは、材料を深く理解していたからだと思う」
それを聞いて、わたしは父がよく言っていた言葉を思い出した。「料理は材料との対話だ」と。
十一月になると、寒さが増してきた。大学の教室も、以前より寒く感じるようになった。でも、周囲の景色は、以前より鮮やかに見えるようになっていた。授業中に窓の外を眺めても、もう虚無感はなかった。ノートには、びっしりとメモが書かれていた。
図書館の仕事も充実していた。鈴木さんは、わたしに古い料理の本を紹介してくれた。古典的な和食の技法や、忘れられつつある郷土料理の本。それらを読むたびに、父の料理の原点が少しずつ見えてきた。
わたしは少し考えてから答えた。「まだわからないけど、料理と文学、両方に関わる仕事ができたらいいなと思います」
「それは素敵な夢ね」と鈴木さんは言った。「食べることも、読むことも、どちらも人間の根源的な喜びだもの」
十二月、大学の冬休みが近づいてきた。試験勉強をしながら、クリスマスには何を作ろうかと考えていた。里奈を誘って、一緒にパーティーをする計画を立てていた。
「ねえ、健太さんも誘ったら?」と里奈は提案した。彼女は健太のことを、「料理のお兄さん」と呼んでいた。
思い切って健太を誘うと、意外にもすぐに承諾してくれた。「楽しみにしているよ」というメッセージに、なぜか心臓が速く鳴った。
クリスマスの日、わたしは朝から料理の準備をした。父のノートを見ながら、特別なメニューを考えた。前菜、スープ、メイン、デザート。どれも父の教えを基本にしながら、わたしなりのアレンジを加えたものだった。
里奈が先に来て、一緒に部屋の飾りつけをした。「すごいね、こんなに料理が上手になるなんて」と彼女は言った。「大学に入ったばかりの頃は、本当に別人みたいだったよ」
健太が来たとき、緊張でドアを開けるのに時間がかかった。彼は、ワインと花束を持ってきてくれた。「いい香りがするね」と部屋に入るなり言った。
三人での食事は、想像以上に楽しかった。里奈のおしゃべりに、健太の食の話、わたしの料理。それぞれが持ち寄った空気が、部屋を温かく満たした。
「乾杯しよう」と健太が言った。「新しい出会いと、古い記憶に」
グラスを合わせたとき、窓の外では雪が降り始めていた。
「この料理、本当においしい」と健太は言った。「君のお父さんの味を感じるよ。でも、それだけじゃない。君自身の味がある」
その言葉に、わたしは思わず泣きそうになった。父の料理を超えることなんて、まだまだできないけれど、自分の味を見つけ始めているということが嬉しかった。
里奈は、わたしと健太の会話を見ながら、にやにやしていた。「ねえ、二人とも、もしかして…」と言いかけて、わたしに肘で軽く突かれると、「何でもない」と笑った。
夜が更けて、里奈が帰ったあと、健太はもう少し残った。「話があるんだ」と彼は言った。真剣な顔つきに、緊張した。
「実は、料理本の企画をしているんだ」と健太は言った。「伝統的な和食の技法を、現代の視点で解説する本。その中で、君のお父さんの料理も紹介したいと思っている」
「もちろん、君の力も借りたい」と彼は続けた。「文章を書くのが上手だし、何より君はお父さんの味を知っている」
その提案は、あまりにも突然で、すぐには返事ができなかった。でも、胸の中に温かいものが広がるのを感じた。父の料理を、このまま消えさせたくない。そう思っていた気持ちが、形になるチャンスだった。
「考えさせてください」とわたしは言った。健太は笑顔で頷いた。
「急がないで。でも、君なら素晴らしい仕事ができると思う」
その夜、久しぶりに父の夢を見た。でも、以前のような悲しい夢ではなかった。父がキッチンで料理をしていて、わたしもその隣で一緒に料理をしている夢。父が微笑みながら、わたしの料理を褒めてくれる夢。
朝起きると、決心がついていた。健太に連絡して、企画に参加する意思を伝えた。「ありがとう」という返事が来た。「一緒に、素晴らしいものを作ろう」
年が明け、大学では卒業論文のテーマを考え始める時期になった。わたしは迷わず、「文学における食の表象」をテーマに選んだ。文学の中で、食がどのように描かれているか。それは人間関係や文化、時代背景をどう映し出しているか。そんなことを研究したいと思った。
指導教授は、最初は驚いていたけれど、わたしの熱意を見て応援してくれるようになった。「面白いテーマだね」と彼は言った。「これまであまり注目されてこなかった視点かもしれない」
健太との料理本の企画も進んでいった。週末になると、彼の仕事場に行って、父の料理について話したり、実際に作ってみたりした。記憶を頼りに再現する料理もあれば、父のノートを見ながら作る料理もあった。
「お父さんの料理には、物語があるね」と健太は言った。「一つ一つの料理に、理由がある」
それは、わたしも感じていたことだった。父の料理は、単においしいだけではなかった。そこには、父の生き方や思いが込められていた。
春になり、キャンパスには桜が咲いた。入学してから一年が経っていた。あの頃のわたしと今のわたしは、まるで別人のようだった。でも、それは成長と呼べるものだった。父の死によって崩れ落ちた世界は、少しずつ新しい形で再構築されていた。
図書館では、鈴木さんが新しい料理コーナーを作ることになり、わたしは本の選定を手伝った。「君のおかげで、こんな企画ができたのよ」と鈴木さんは言った。「ありがとう」
里奈とは相変わらず仲良くしていた。彼女は演劇サークルに入っていて、春の公演に向けて忙しくしていた。「主役なんだよ」と嬉しそうに報告してくれた。「絶対に見に来てね」
公演の日、わたしは健太を誘って一緒に観に行った。里奈は舞台の上で、いつもとは違う輝きを放っていた。見ていて、胸が熱くなった。帰り道、健太と二人で歩きながら、「人はそれぞれの場所で輝くんだね」と言った。
「君も輝いているよ」と健太は言った。「料理をしているとき、話をしているとき、いつも目が輝いている」
その言葉に、顔が熱くなった。
五月、父の一周忌が近づいてきた。実家に帰って、母と一緒に準備をした。一年前とは違って、二人で料理をすることができた。母も、わたしの料理の上達を喜んでくれた。
「お父さんの店、もう一度開かない?」と母が突然言った。
「え?」と驚いて振り向くと、母は真剣な顔をしていた。
「あなたがやりたいなら、手伝うわ」
その言葉に、胸がいっぱいになった。まだ学生で、経験も少ないわたしが店を開くなんて、無謀かもしれない。でも、どこか心の奥で、いつかそうしたいと思っていた。
「考えてみる」とわたしは答えた。「でも、もう少し勉強してからかな」
母は微笑んで頷いた。「そうね。急がなくていいのよ」
一周忌の日、父の写真を前にして手を合わせた。一年前は、ただ涙が出るばかりだったけれど、今は感謝の気持ちが湧いてきた。父がいなくなって、わたしは料理を始めた。それは、父との新しいつながりを見つけることだった。
「ありがとう」とわたしは心の中で言った。「これからも、見守っていてね」
大学に戻ると、夏休みの計画を立て始めた。健太が、料理の取材で地方を回る予定があり、わたしも一緒に行かないかと誘ってくれた。日本各地の伝統料理を学ぶ旅。それは、わたしにとって大きなチャンスだった。
「君と一緒に旅ができるなんて、楽しみだよ」
あれから一年。父の死から始まった暗い日々は、少しずつ明るさを取り戻していた。料理と文学という、二つの世界を行き来しながら、わたしは自分の道を見つけ始めていた。それは、決して一直線ではなく、曲がりくねった道かもしれない。でも、その道の先に何があるのか、少しずつ見えてきたような気がした。
キッチンの向こう側で、父が包丁を握っている姿は、もう見ることができない。でも今は、わたし自身が包丁を握り、父から教わったことを大切にしながら、自分の料理を作っていく。それが、父への最高の感謝になるのだと思う。
そして、この物語を書き記すことも、きっと父は喜んでくれるだろう。料理と言葉。どちらも、人の心に届けるための手段。わたしは、その両方を大切にしながら、これからも歩いていくつもり
ふん、貴様らァ!長らく俺様個人のGitHubアカウントを自己紹介代わりにしてやった。
紐付けりゃ、阿呆でもこいつがプログラマーだって一目でわかるだろ?
だがな、甘かった。そのアカウントが、過去に一発屋みてぇにバズったツールの墓場みてぇになっちまったんだよ!
ネットの記事で俺様のツールを使ってやがるから、管理不足で使えなくするのは癪だった。
だがな、それがどうした!そんなもんのせいで、新しいツールを作るモチベーションがダダ下がりだ!
だから決めた。
あの忌々しいツールどもは、パブリックアーカイブに叩き込んで永遠に晒し者にしてやる。
そして、二度と、絶対に、あのGitHubアカウントにはログインしない!
わかるか?二度とだ!
これからは新しいハンドル名で、貴様らド素人をアッと言わせるようなツールを作ってやる。
紐付け?そんなもん今すぐ解除だ!
プロフィール写真?そんなもん今すぐ作り直して、俺様のカリスマ性を前面に押し出してやる!
口を開けてよく聞け!
決めたからには、即実行だ!
俺様について来い!
そういう子供みたいないじめをうけてたのかな?って思うじゃん?
日本もよく言われてる。
たとえば「親日派の尹が大統領だから日本が遠慮なく我々を無視をするね」みたいに言う。
というか融和的な尹大統領と岸田の時代はかなりが関係よかったしね。
みたいな言い種。
・現実が期待通りでないと感じる
→「無視された!」
嫌韓デマだと思うなら知り合いの気のおけない韓国人に聞いてみていいよ。
たぶん日本も入ってた。
でもこれを韓国人は
ア、くだらないこと言ってるんだな、
それで外れたことないよ。
本当に嫌いな語彙です。
韓国人のために韓国人によって使用を制限されるべき語彙だと思う。
これ韓国に慣れてない人は驚くだろうし
一度知り合いの韓国人に聞いてみてから結論だしてほしいけどね。
一対一で聞くと結構理性的に自国文化批判できる人たちだよ韓国人は。
日本にも悪いところが色々あると認めてから聞くとフツーに自国の悪いところたくさん語ってくれる。
日本のオールド反日サヨクなんかよりよっぽど頭よくてフェアな人たちだよ。
ハンマーで殴られた被害者をいじめ犯人と決めつけてニタニタしてるCさんとかさ。
自分が本当におぞましく人格も知能も終わってるレイシストなのを自覚してほしい。
ハンマー女の動機は捜査が進まないと断定できないし続報の報道もされないかもしれないけど
動機について別の嫌なこと思い付いちゃった。
2年生で22歳ってことは
浪人とかしてた人ぽいじゃん?
それはむしろ溶け込めるようにと思っての配慮であり優しさだよね。
自分が大学一年のときもそういう同級生に最初悩みながら敬語使ったら「やめてよお」って言われてそのあとはもう同い年の感覚の友達になった。
けどそういうの、
それでも年齢基準で目上として扱ってほしいということなら先輩扱いぐらい日本人は出来るよね。
言えない不満や疑念が自分の中だけでどんどんたまっていって2年目くらいでドッカーンてなるかも。
知り合いの韓国人はみんな社交的だからそれはおもいつかなかったけど
ただの社交的でない子が心機一転日本にきて文化や慣行のの差で思い詰めてこうなったとかなら
めちゃくちゃ嫌な話だなあ……。
どれくらいブスかというと子どもの頃から散々な目に遭った日は数知れず…
幼稚園や小学校の頃虐げられまくっていたのは言うまでもなく(小さい子どもって残酷ですね)、周りもまあまあ成熟してきているはずの中学生になっても「こんなにブスなやつ見たことない」と言われたり、後ろの席の男子に椅子を蹴られまくり、椅子と机との間に挟まって苦しくて悔しくてその場で涙がこぼれたこともありました。
心機一転、高校は女子高だったから天国だった…とはならず、卒業式の日にクラスのイケてる子数名から「美優(仮名)はほんまに面白かった!ブスやけど笑」としっかりトドメを刺される始末。
ただ、吹奏楽部だったこともあり、穏やかで優しい友達にも恵まれ、テスト明けにいつも数名のグループでお買い物やカラオケに行って楽しかった思い出もたくさんあります。
(吹奏楽部は気が強い子もいるけど、純粋に楽器や音楽が好きな子も多いので)
問題はそのグループの中に、めっちゃくちゃ上品でいい子なんだけど「この人私のことバカにしてない…?」と思うことがある子が一人いて、ここでは愛理ちゃんと仮に呼ばせてもらいます。
愛理ちゃんは才女で、他の生徒からも先生からもおぼえがめでたいような子でした。話したら大人しいのに会話に機転を感じてすごく面白くて、実際同性だけでなく異性からもひそかに人気だったことは知っています。
ただ、私に対する態度が「ん…?」となった最初の出来事は、高校時代、周囲が恋バナで盛り上がってたとき空気と化していた私に、「美優は外国人からモテそうかも~」と言ってきたことでした。
正直全く恋愛しそう(できそう)にない私がその場で半透明になっていたのを見かねて振ってくれたのかもしれないけど、暗に普通のその辺の日本人からは相手にされないってことか?と、勘ぐって地味に傷ついたのがこの卑屈ブスでした(周りの「あ~…」って反応が紙やすりのようにブスのハートを包み込んだのもある)。
そして時は流れ十年、結婚したのをひっそりLINEのプロフィール画像で公開していた私に、愛理ちゃんから「おめでとう!」のメッセージが。
(アイコンの後ろに設定できる画像を、ウエディングドレス姿のシルバニアのペルシャ猫ちゃんと婚約指輪の写真に変えていた)
同窓会が近づいて見返してたら見つけたらしいんだけど、会話の流れで「びっくりした!」とのこと。
まあ確かに近況報告なしで突然誰かが結婚してたら驚かないことはないかもしれないけど、愛理ちゃんが結婚したと聞いて「びっくり!」なんて言うやついないんだろうな……と思ったのがトリガーで、学生時代の思い出が無駄に鮮明に蘇った。
高校時代、書店で女性ファッション誌を見て「メイクはもとがカワイイ人がやるから意味を成すんだよねえ…見た目磨くことなんかより勉強して長所つくらなきゃね」と言ったこととか。
自分の中で、書店の発言は赤本買いに行った日だったから単に勉強しなきゃという意味なのではと思おうとしたり、いやブスいじりされまくってる私の前でわざわざ言わないでよと感じてしまったり。
蹴り事件のときも、愛理ちゃんが男子を止める義理はないし愛理ちゃんだって怖かっただろうし、でも尊敬されてて発言力ある友達に間に入ってもらえたらどんなに助かったことだろうか…とタラレバを妄想したり。
矛盾した気持ちをぐるぐる回ってしまいつつ、卑屈になってはいかん!と、一応自分に都合のいい解釈の方を信じるようにしてるけど。
あ~やっぱブスってつらいねー。
手描きで絵や漫画を描き、趣味で同人誌を作ったりしているが、画像生成AIにも肯定的な人間がこの文章を書いていることを最初に断っておく。
人間は共通の敵がいると一致団結しやすい生き物だ。オタクも例外ではなく、何かにつけては「迫害されるオタク」の話題で盛り上がってきた。
しかし日本のアニメ・漫画・ゲームが世界規模で人気になり、これまでオタク迫害者の代表的存在であったギャル、ヤンキー、スクールカースト上位層にすらクールジャパンが浸透するほど、オタク趣味が一般化。さらに多様性を肯定する時代の流れもあって、オタクがオタクであるだけで軽蔑されたり迫害される事は、昔と比べると随分少なくなってきたと思う。
オタクとしては平和な時代…と思いきや、今度はオタク同士の内紛が目立つようになった。解釈違い、同担拒否、胸を盛るな、カップリングの左右がどうこう、愛のない二次創作、毒マロ届いた、センシティブ未設定でエロ絵を垂れ流す、トレパク発覚…。SNSでは常にどこかでオタク学級会が発生している。
オタクたちも最初は様子を伺っていたものの、仕組みや技術の意図や使い道が十分に伝わらなかったのか、はたまた著作権の誤った知識が広まりすぎているためか、「絵師たちが血の滲むような努力をして描きあげた、我が子のように大切な絵の数々を、本人に無許可で大量に食わせたあげく、神絵師の絵に似せたAI画像を出力して嫌がらせまで働いているらしい。こいつはメチャゆるさんよなああああ」のような共通認識が広まってゆき、画像生成AIを肯定する人たちを「敵」と認定するオタクが増えていった。
するとどうだろう、内紛続きだったオタクたちが、共通の敵を前にして一致団結。Xの変更規約が11月15日から適用の話題をきっかけとして、「スタイリッシュなウォーターマークの入れ方」や「お手製ノイズの掛け方」を教え合うのが大ブームに。さらに移住先のSNSで心機一転、のびのびと楽しく交流し始めたではないか。「無断生成AIを許さない」のスローガンのもと、いま再びオタクたちは一つになったのだ。すごい一体感を感じる。今までにない何か熱い一体感を。
…というような感じ方があって、最近特に過激なAI反対運動が盛り上がっているのかもしれないと考えたりしている。もはやAIを心底憎んでいるというよりも、新たなる共通の敵に対してみんなで立ち向かう感じが楽しいんだろうな、と。
実際は法律が整備されて違法ではないし、そもそも「無断学習」という概念は存在しないし、ウォーターマークとお手製ノイズに学習阻害効果はないし、X以外のSNSに移動してもインターネットである限り学習を完全に避ける手段はないし、人手不足が深刻なアニメや漫画の現場ではすでにAIを活用している所もあるだろうし、産業・工業分野でも必要とされている技術だし、国も開発を支援していく方針である以上、これから発展はすれど無かった時代には戻れない。有効活用、あるいは共存を考える他ない状況での現実逃避の果てに、彼らはどうなっていくんだろう。10年も経つころにはAIが画材ツールとしてありふれたものになって、いまのドタバタ騒ぎが「ああ…そんなこともあったな〜笑」なんて言われているのかもしれない。
「AI絵師に絶滅してほしい人、このツイートにいいねしてみて」のツイートに32万もいいねがついていた。(10/31時点)結構な人数だと思うが、この数字に対して誇らしげに胸を張るのはどうなんだろうな…。32万人もいるのに「じゃあ、AI規制のために一致団結して活動しよう」と率先して意味あるアクションを起こせる人が1人もいないことの方を深刻に考えるべきではないだろうか。SNSで愚痴って終わるだけの人間が32万人いたところで何もならない。結局、共通の敵を前にみんなで一致団結ごっこしていたいだけに見える。
ガロは書く人も居なさそうなので、元読者の義務感に駆られて書いてみた。リアタイで読んでいたのは80~90年代の一部なのでいろいろ偏っているとは思う。選択の基準としては、漫画史的な重要性や、後世に与えた影響を優先した。バックナンバーや単行本やアンソロジー、関連書籍(が多いのもガロの特徴ではある)などの知識も動員したが、記憶に頼って書いているので誤謬などはご容赦。むしろ先達からの突っ込みが欲しいです。なお、ガロ分裂後のアックス誌の作品にはここでは触れない。
まずはなにを差し置いてもこれ。そもそもガロという雑誌の創刊自体が長井勝一による「カムイ伝」を掲載する媒体を作りたいという並外れた理由によるもので、「ガロ」という奇妙な誌名も作中人物の「大摩のガロ」から取ったものだった。どちらかと言えば現在では「読まれない」作品になりつつある印象なので当時の熱狂を図るのは難しいが、漫画史的には「どうやら漫画という媒体は歴史的・社会的な諸問題を描き得る(と読者に思わせた)」点がエポックだったのではないかと思う。今であればそんなもん当然だろうと思われるかもしれないが、所詮我々はこのような巨人の肩の上にいる。
つげ義春がガロ誌に発表した短編は悉くが傑作なのでとても一本に絞りきれるものではなく、作品の完成度からすればむしろ「ゲンセンカン主人」や「赤い花」ではないかとも思うのだが、後世に与えた影響の大きさを考えればこれを選ばざるを得ない。「見た夢をそのまま描いた」という誤解を受けることも多い本作だが、実のところは多種多様なコラージュや巧みな漫画的技法に満ちていて、きちんとした作為の下に統制して作り上げられた「シュール」の傑作であることがわかる。
若い男女の同棲と破綻の物語と描けば無数の類例が思い浮かぶが、1970年の発表当時には極めて新しかったはずである。なにしろ婚前交渉などという言葉が現役だった時代だ。主人公の職業がアニメーターというのも新しく、しゃれていたのではあるまいか。この作品の画期は、漫画に「俺たちの等身大の青春(あるいはそのように夢想したいもの)」を持ち込んだ点だったのではないかと思う。林静一の洒脱な絵は上村一夫などによる後続作に比べても洗練されていて、今見ても色あせない。
漫画(に限らず表現)とはなにものかを描かなければならないのだというドグマがまだ有効だった60年代、漫画から意味というものを完全に取り去ってしまった佐々木マキの一連の作品はセンセーショナルであったらしい。画風はおそらく杉浦茂の系譜にあるのだが、もはやナンセンスという言葉も不適当だと思われるぐらいに徹底して意味や物語は排除されている。その衝撃は若き日の村上春樹にもはっきりと影響を与えたらしく、のちに佐々木は村上の著作の挿画を担当することになる。
簡素な絵でナンセンス漫画を濫作していた滝田ゆうが、心機一転、自らが少年時代を過ごした戦前の私娼街・玉ノ井の風景をおそろしく緻密な絵柄で描き出した。「三丁目の夕日」的なノスタルジアものの先駆ではあるが、最終回、戦火は玉ノ井の街を焼き尽くして終わる。ここに描かれているものは、卓抜した記憶力と画力により再構築された、失われて二度とよみがえることのなかった風景なのである。
ここまでは疑いなく殿堂入りの作品が並ぶが、ここからは判断に迷う。70年代ガロからは永島慎二や宮谷一彦を外してはいけないかもしれないのだが、活躍のメインはガロ誌ではなかった作家だし、やはり当時の熱狂を現在から嗅ぎ取るのは少々難しい。安部慎一や花輪和一、古川益三(のちのまんだらけ社長)の諸作品も思い浮かぶけれど、ここでは作品の強度と詩情、卓抜した画力を取って敢えて鈴木翁二で。
これも当時の衝撃をいま追体験するのは難しいのかもしれないが、ヘタウマや不条理がどっさり詰め込まれた本作が半世紀近く前のものと考えるとやはり衝撃的だし、こういうギラついた脳天気さは、結局は80年代「軽チャー」の苗床になったのではないかと思わされる。
80年前後のガロにはニューウェーブにカテゴライズされる作家も少なからずいて、例えば川崎ゆきお、蛭子能収、ひさうちみちお、奥平イラなどが挙げられるのだが、個々の作品への愛着はさておいて結局のところ今に至るまで強い影響を与え続けているのはむしろニューウェーブの埒外にいた丸尾末広ではないかと思う。圧倒的な画力は漫画のみならず演劇や音楽にも影響を与えたし、世代を超えたファンも多い。なお本作の初出はガロ誌ではないのだが、代表作として外せないのと単行本は青林堂だったのでご容赦を。
80年代ガロではこの人の名前も外せない。「過激な」作風と言われ「特殊漫画」を自称他称もしている人ではあるけれど、実のところは非常に息の長い物語を紡ぎ出せるストーリーテラーでもあり、日本の近代史や土俗性を容赦なくぶち込んでやるから覚悟しろよというぎらついた野心も垣間見える。その試みがもっとも巧くいった作品の一つが本作。水爆投下とともに発射された精子が自我を持つ話です……と書くと面白そうでしょ?
ガロ最末期の90年代から一人と考えて、古屋兎丸や山野一・ねこぢるなども思い浮かんだけれど、漫画表現の圧倒的な強度に鑑みて本作を選んだ。この地上には存在しないはずなのによく知っている風景がどこまでもどこまでも展開される。いつかうなされながら見た夢が、ここに具現化されているという驚き。「ガロがなければ世に出ることのなかった」作品の一つの頂点であると思う。逆柱作品はどれをとっても傑作なのに単行本の多くは絶版で、とんでもないプレミアが付いてたりする……。
・個人的にはつげ忠男の大ファンで、実際「無頼の街」「河童の居る川」など傑作も数多いのだが、漫画史的重要性を優先して涙を呑んだ。
・赤瀬川原平も言及に迷ったけど、ガロ誌での漫画作品(『お座敷』など)よりも、その外での活躍が多かった人という印象なので選外に。ガロ系の作家ではこういう人も多いのですが。
・「ガロにおける有名作家」という問題もある。水木しげるに矢口高雄に池上遼一といったビッグネームもあれば、のちのどおくまんも一度作品を掲載しており、末期ガロにも吉田戦車のような意外な面々が顔を覗かせる。珍しいところでは、SPA!誌で掲載を断られたゴーマニズム宣言の回を小林よしのりがガロに持ち込んで掲載された例がある。
・ガロ出身で他誌で活躍することになる人も多い。上記の他、新しい世代では花くまゆうさく・福満しげゆき・東陽片岡・古泉智浩あたりか。
・80年代ガロでかなり迷ったのは、トラバでも言及のある久住兄弟や泉晴紀・泉昌之、渡辺和博などの面々。このあたりのナンセンスな作品群はわりと影響も大きかったようなんだけど、作品単体でどうこう言えるものが思い当たらなかったので除外。
・つりたくにこ・やまだ紫・杉浦日向子・近藤ようこといった女性作家たちの極めて良質な作品についても言及しておきたい。特に津野裕子は最末期のガロに、寡作ながら優れた作品を残した作家で、機会があればぜひ一読をお勧めします。
・その他、この10選に選ぶには及ばないけれど間違いなくその人にしか描き得ない作品を残し、ガロという媒体がなければ目にすることもなかったであろう作家たちについても、その名をリスペクトしておきたい。淀川さんぽ、とま雅和、谷弘兒、三橋乙耶、菅野修、等々……。
・90年代ガロは文章ページが(文章ページのほうが……)充実してた感があり、呉智英や四方田犬彦など結構な面々が連載していた。
・投稿ページの「4コマガロ」も相当(雑誌のカラー的な意味で)レベルが高く、ここ出身の有名作家が福満しげゆき。
・同時期にやっていた「ガロ名作劇場」という好企画があって、90年代前半時点では入手困難だった作家を含め、ガロ出身の名作家を回顧的に紹介してくれた。林静一「まっかっかロック」なんてものすごい衝撃受けたし、楠正平や勝又進なんてこんなことでもなければまず読むことができなかった作家だったと思う。
・ねこぢるはやはり入れるべきだったかなーという迷いは今でもあり、代わりに削るとすればペンギンごはんか鈴木翁二か。リアタイ勢だったんだけど初読の際の衝撃は今でも覚えていて、90年代サブカル的にはわりとよくあった「無邪気な残酷さ」が普遍性を持ち得た希有な例だったんじゃないかと思う。(その点では山田花子には自分は少々点が辛い)
・>ビレヴァンいけば売ってる? >なんか漫画系のサブスクはこういうのの乗っかってどんどんセット売りとかして欲しいよな。
これは本当にそう思うところで、ガロの名作群はとにかく作品へのリーチが困難。古川益三の作品なんてマジで読めないし古書には衝撃的な値が付いてたりする。電書にするにしたってタダじゃないのは分かってるけど、なんとかならんかな。
・>「ガロ」はフォロワー・影響度では計れない作家作品が多すぎて。簡単に真似されるような作品はガロ的ではないとも言えるし
これも本当に同感で、孤立峰みたいな作家が多すぎるんだよなー。熱を込めて語られるけれど模倣はされない、って、表現としてはすごいことなんだけど。
なんかあっと言う間の2年間だったわ。
まだこれからも続くけどここで一区切りってところなのかしらね?
スプラトゥーン2の時はもうすでに私が参入したときには全てのイベントとかが終わった頃だっただけに、
スプラトゥーン3は比べて発売日にお店にダッシュして飛び込み前転して買ったので
いろいろと毎月フェスがあって楽しかったなぁって思うばかりよ。
まあ1人でのんびりバトルしていたので、
お友だちは増えなかったけど
たまーにその人たちとバイトしたりレギュラーマッチしたりって感じで、
それ以上は仲良くはならなかったけれど
みんなどうやってスプラトゥーン3の友達増やして編制して戦うのかしら?って思うぐらいだったわ。
まあそれはともかく、
本当に2年間遊び続けてあっと言う間だったなぁと言うのが正直な感想ね。
ここまで夢中になれたというか、
S+を目指したいけれどまだまだ私のウデマエには及ばなさすぎまくりまくりすてぃーで
相変わらずの今の私のウデマエはA+なのよ。
ブキも私が愛用している好きなブキはおおよそ熟練度星5つはもぎ取っているのでもぎりもぎりつつ
また新たに今またどのブキを育てていこうかなーってところでもあるし、
逆に言うと目星い愛用しているブキは育てきったので
若干のその燃え尽きも感じつつ。
どうせならスペシャル1200勝バッジでも集めようかしら?って
また途方もない感じの目標を考えていることでもあるし
唯一私の頑張った証であるアメフラシ1200勝バッジは自分で誇れる輝かしいものだと思うわー
美味しい手前味噌で作るお味噌汁を個人的に美味しい美味しいと言って食べるようなものだけれどね。
まあ世の中にはとんでもない強い人がたくさんいることは承知の上の助だけれど。
スプラトゥーン3一旦ちょっと休憩してまたスプラトゥーン2をやり出してもまた楽しいかもしれないし。
ギアとかなんか意味を全く分かってなくてやってバトルしていたので、
スプラトゥーン3の学びが活かせると思うんだ。
なので気分転換にスプラトゥーン3で疲れたらスプラトゥーン2をやって気分転換するという、
総じて
まだまだもちろんスプラトゥーン3は続けるけれどね。
たぶんスプラトゥーン4となると
噂の新機種のローンチで出るんじゃないのか?って思っていたりもするので、
でもさ、
相手のインクでぬかるんで動けないところを助けてくれて相手をキルしてくれて
ピリピリしてイライラして連敗が続くけれどそう言うのがたまにあるから印象的でもあるし
負けても内容は良かった!と自分でそう思うようにしたら違う景色がまた見えてくるのよ!って思うのよね。
少なからず人を成長するなにかの1つはあるかもしれないわ。
まだまだ相当当分楽しめそうなので
一区切りまた心機一転切り替えて良い意味での新シリーズ開幕ね!ってところよ。
うふふ。
ヒーコーだけにしました。
まだまだ冷たいモノが美味しい季節中よね。
朝からゴクゴク飲んで出発よ!
水分補給は
しっかりとね!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
新卒でCOBOL案件の会社入って四年で辞めて、DB関係の保守の仕事二年くらいで辞めて、心機一転で外資コンサル入ってIT関係メインに五年くらいやって病んで辞めて、今広告代理店の事務職してるけど女性同志の確執がひどすぎて一刻も早く辞めたい
でももう40手前の大したスキルもない女に出来そうな仕事も、一人で生活できる程度の金が出そうな仕事も世の中にない気がする
せいぜいオフィスソフト使えるくらいでマクロとかはわからんし、今の事務職でAccess初めて触って苦戦してるくらいだし
初手の会社が良くなかった。ブラックすぎた。そこからずっと病みがちだったのがついに前職で爆発した感じでガチ鬱、一時は躁鬱疑いもあった
辞めてーけどもう辞めたら首くくるしかない
柏の異常さはさ、上京民の乏しさに依るんじゃないかと思うんだよね。
田舎って、たまにやんちゃな人たちがいたところで、人間が疎だから衝突が起こりにくいじゃん。逆に都市では人が密だからさ、ちょっとしたことでトラブルになるし、それを避けようとして都市ならではのモラルが醸成されていくわけよ。別に都市のほうがモラルが高いというわけではなくてさ、事なかれ主義的であったり、あるいは儀礼的無関心なんかも、都市で生きるには合理的な行動様式ではあるはずなんだ。
普通はさ、田舎から都市に出ることで、その都市の文化を享受して自らが都市住民に変質していくことが多いと思うんだよね。
でも柏はさ、千葉茨城の中途半端なところから人が集まってるのよ。彼らは田舎から心機一転で越してきたわけではない。昔から知っている、地元よりもちょっと便利な街に居を移したに過ぎない。だからメンタリティも行動様式も変わらない。田舎の生活ならそれでもいいのかもしれないけど、でも40万都市でのあり方ではないんだよ。
ブックマークを管理するツールを入れて、2024年になってやっと整理することになった。
Windowsも11となって心機一転というわけでもないけれど、ごちゃごちゃとして趣味も仕事も一緒になってしまっているので、ここいら辺でなんとかせねばと取り掛かったところ。
はたしてHatenaBlogも生きているのかと覗いてみると、まだ生きていた。
前の記事が2013年なので10年越しに書いているわけだが、まぁ匿名ブログということもあり、内容のないことを書いているなぁと・・・
Google chromeも10年経てば色々と変わったわけだが、ちゃんと管理していなかっただけあって、使い方もおぼつかない。ブックマーク自体もフォルダ分けしているものの、乱雑さが目立つ。
ブックマークも名前順にできることを知らずに使っていたくらいなので、フォルダ管理と重複登録をなくすことをとりあえずやっておこうと思う。
以下の状況でスタート。
・大学3年の時、高校から好きでよく会ってい友人どまりの先輩に振られて、激鬱に(相手はバイト先オーナーと不倫中)
・当然就活とか手につくはずもなく、再度就活しようとわざと留年、それを2回。しかし氷河期でどうにもならず
・結果として無職の25歳が世に放たれ、学生時代に作ったカードのクレカキャッシングとかで生活。都内一人暮らし。
でまあ、暇だったので増田を読んだり書いたりしてた。100−200くらいは当時ブックマークされたエントリもあったかも。
いろんな人生の人がいるよね。はてな村は、増田にはその、カフェラテでいうと一番黒い部分が集まってると思うんだけど、
有益なライフハックや、面白い記事も多くて、無職の自分の参考になるものも多かった。
人生の役に立った増田記事も多いので、過去の振り返りを書いて、それが誰か読んだやつの参考になればいいなと思う。
・学生時代に借りた家賃2万の風呂なしアパートからスタート。学生街にあった最安値物件を借りて、大学院生のふりをして入居
・派遣フルタイム仕事を開始。最初時給千円台だったと思うけど、どんどん契約の切れ目で乗り換えて時給2100円のヘルプデスクを開始
・それで月収30万くらいにはなったので、8万円とか普通のアパートを借りられるようにはなった。でもまだ年収300万円台
・初の正社員(外資)へ就職、派遣で外資オフィスにいたりもしたので、英語読めます、外人と働くの抵抗ありません(抵抗ないけど話せない)と自己アピール
・「年収300万円台なので月額40は欲しいです!」と言ったらエージェントが交渉して月40x12で年収480万の正社員になった
・しかしスキルが足らず2年以内に首。外資だからクビになる。(これ以後も何度かなった)
ここまでが初めて正社員になるまで。
・都内の家賃を払えないので郊外に引っ越す(都内でも2−3万で風呂付きのエリアはあるぞ)
・半年間、十数万円の雇用保険手当をもらいながら、郊外のサイゼとかでパソコン開いて無限インターネット
・色々あるエージェントに登録してたら、数ヶ月のお仕事(時給二千円ちょい)をもらう
・その次に、またテクサポで時給二千円台、年収300万円台の暮らしを再開して、一年半派遣低収入都内住み。
・流石に三万のアパートから一時間半かけて都内に来るの厳しくて職場付近に七万のマンション借りる(なぜかエアコンなくて冬は震えてた)
・一年半派遣して、正社員になりたくて就活開始。結果、月給50万x12で年収600万でまた外資の正社員になれた。(単に前任者がやめて、自分のスキルがマッチした幸運)
・5年半くらいそこで正社員をやった。
・ADHDなので、職場の人間関係が厳しくなり(まあそれまでも数ヶ月とか2年以内に辞めてたんだけど)転職を検討
・東京から離れ、名古屋で心機一転、契約社員として勤務開始(なんか面接官が元お客様で、安かったんだけど惹かれてしまった)
ここまでのまとめ 0→350→480→0-→300→380→600みたいに年収は推移してる。(自分でも書いてて意味がわからん人生だけど、このあとさらに意味不明になっていくよ)
・名古屋の暮らしに耐えられず(名古屋一度住めばみんな耐えられないと思う)、三ヶ月で契約更新せず都内に戻る決意を固める
・当時普及し始めてたリモート面接で、東京の国内ベンチャーに内定、入社。ベース50x12+ボーナス200≒年収800に。
なんとここまでで3回無職になっています。年収推移位は、0→350→480→0→300→380→600→800→0
・みんなが名前を知っている外資を10社あげたら出るような会社、それらを5社1−2年で入ったり辞めたりした。
・前職の800から一度700に下がったけど、年収下がってモチベ上がらないのと、体調もキツくてすぐに辞めた。
・その後、今700で月給65万くらいなので、800万台後半がいいですと探し、870で転職。
・でも当然、ADHDなので、職場では人間関係がキツくて常時転職を考えるように。
・再度入院、入院中にリモート面接をし、1000を超える内定を得た。病院の庭からノートパソコンで面接したよ。
・1000になってもやっぱりADHDで職場では人間関係がキツくて、すぐ退職。外資ジョブホッパーとして完全に手慣れてきて、一年で転職
・「今1000なので、サインインボーナスを100とか載せて1100とかでどう?」と言われて入ったが、割とボーナスが出て1150
・「今1150なので、まあそれ以上なら」みたいな感じで1200を超える。この時点で、月収が100を超えた。
ここまでの年収推移位は、0→350→480→0→300→380→600→800→0→700→870→1000→1150→1200
なんかRPGのボス戦で死んだキャラを繰り返し生き返らせて戦ってるみたいだね。
まとめると
・派遣時代に外資オフィスでサポートやったので英語に抵抗がなくなった
・「月収〇〇万円にあげたい」とエージェントに言うと、それを満たす契約でいい感じにまとめてくれた
・一度無職になって絶望しても、わりと雇用保険で無職を食いつなげて助かった。
・退職前に郊外に家賃安い部屋借りれば、雇用保険の範囲で長期耐えられる。
・外資は一年半でやめるようなやつでも割とスキルマッチすれば雇ってくれる。
・年収何度も下がってるけど、その時に学んだスキルがマッチして、のちに高待遇につながったりもした。低収入でも腐らず学べばいいかも。
国内企業はもう、履歴書の職歴見ただけで書類通過することはないと思うんだけど、
また無職になってみて、今後何ができるか考えてみたいと思う。現実的には、また外資かフリーランスしかないと思うけど。