はてなキーワード: 防衛反応とは
値段が高くなる事と、"ない"という事が良い印象を持たれる唯一の商品である。
まず値段が高くなる事について。
世の中に存在するあらゆる商品は値段が上がるとみんな不満に思うし、文句が出る。ネガティブな印象を持たれるし人々の購買意欲は下がる。
スーパーの野菜の値段が上がったら良くないニュースとして扱われるし、米の値段が上がった時なんかは大ニュースになって世間の不満が凄かった。政府も動いた。そのレベルのネガティブニュースとして扱われた。ガソリンや石油製品とかも同じ扱いをされる。
それとは全く別の、現物資産的な側面を持つロレックス、PP、AP等の高級時計やエルメス等の値上げですらも喜ばれない。(中古市場に価格反映される場合、既存ホルダーは恩恵を受けれる為喜ぶかもしれないが。)
しかし、株に関しては値段が上がると喜ばれる唯一の商品である。
値段が上がる事がポジティブなニュースとして扱われる、人々に購買意欲を与える事に繋がる。
でも実際問題、値上がり前より高い金額を出さないと買えなくなっている、普通に考えるとみんな安い金額で買える方が嬉しい筈である。それなのに何故喜ばれるか。
それは価格が上がる事によって、更なる株価の上昇という"夢を見れる状態"に変化したからである。
人は夢を見てしまっている時が1番財布の紐が緩むし正常な判断が出来なくなる。
自分が欲しい結果である為、自分は適切なアプローチをしている、というバイアスも掛かりやすい。
みんな大切なお金を持って相場に来ている、丸腰で勝負しようとなんてしない。なので知識をある程度つけて望む事になる。その知識が合っているかはともかく、正しい投資をしているというバイアスまでかかる。
将来という不確定な結果へのアプローチなので正解がないから相対的な判断も出来ない。
しかも答え合わせはすぐに来ない。そこに欲まで絡むと最悪だ。
ホストやキャバ嬢が色恋営業して将来の関係性や肉体関係、という夢を見させて"高い酒を買わせる"ように、仕手筋が参加者に対して資産が増える、という夢を見させて"高い株を買わせる"場所なのである。
ホストやキャバ嬢は言葉や体で夢を見させて金を引っ張る。仕手筋は値動きで夢を見させて金を引っ張る。
本質は同じだと思う。
高くなって喜ばれるのは、値上がりにより"夢"というプレミアがつくからである。
次に、"ない"が良い印象を持たれるという事。
人は希少価値に弱い、"「限定」、「ラスイチ」"という言葉に弱い。ステータスや所有欲にも弱い。
これに関しては割と馴染みのある現象だと思う。
お店とかで「限定!」や「ラスイチ!」という言葉に釣られて買ってしまった経験ある人は割といると思う。
人は買えなくなってしまう、これを逃したら買えない、という選択肢に弱い。(この手の選択は割とストレスがかかる行動である。ストレスから逃げたいが故の一種の防衛反応なのかもしれない。)
更には、「数少ないもの、レアなものを所有している」というステータスにもなる。所有欲も満たせる。
ステータスを意識して買い物をする人間は世の中にとても多い、だから世の中に数多くのハイブランドが存在している。ハイブラや高級車が売れるのは人間がステータスを意識する生き物だからである。
先述したロレックス、PP、AP等の腕時計、エルメスであればバーキンを中心としたカバン類。シェーヌとかも品薄だった気がする。
この辺はお店に行っても買えない。意図的に出す客を選んでいる。"ない"状態を作っている。
デイトナを中心としたスポーツモデルはまず出してもらえない。GMTもむずい。サブは比較的簡単だと思うけど。
自分も3年前の夏に、「時計が欲しい、とりあえず有名だしロレックスを買おう!」と思い都内の色々な店を回ったが買えるまで1ヶ月以上掛かった。当時22歳のガキだったし印象はあまり良くなかっただろう。
アパレルであれば、一時期のSupremeを中心としたWTAPSやAPEやネイバーだったりの裏原系ブランド。NIKEのレアスニもその類。他も色々品薄やってるところはある。最近はクロムハーツも品薄。
全部普通に買えないし買うのがとても大変、最近はどこも抽選になっているが2018年くらいまでは徹夜並びや始発集合がザラ、ブロック抽選とか懐かしい。
買える人が少ないからこそ所有欲は満たされるし、実際にモノ自体も少なく需要と供給が吊り合っていないので希少価値は当然高い。
Lない、Mない、Sない、もういい?って感じの状況が1番人の所有欲を満たしてくれる。
株に関してもこれは言えて、
値段が上がってくると、これからも値段が上がる!もうこの値段じゃ買えなくなるぞ!という、「限定」や「ラスイチ」と同じ様な心理が働く。そうなると人は冷静な判断が出来なくなって、本来あまり欲しくなかった株や普段なら買いたくない高い値段になった株でも買ってしまう。
もしそこから値段が上がった場合、株を安く買えたという事になる。そうなると「この株をこの値段で持っているぞ!!」という形で所有欲を満たしてくれる。「あの株をこの値段で持っているぞ!!」というステータスにもなる。SNSでドヤれる。(実際ドヤってる人は多い、株やる上でSNSをやるのは良くないと個人的には思う。)
過去の成功体験が焼きついている人ほど、この心理になりやすいと思う。
品薄の方に関しても、浮動株や発行株数が少ない方がいい。モノが少ないからすぐに売り切れになりやすい。物理的に"ない"になりやすい。需要と供給が吊りあっていない"ない"ものは良い。箱として良い。
結局相場は人間の心理によって成り立ってるもので、相場作る人の出口戦略は人の心理をとことん利用していると思います、まる
以上!
AI生成イラストを巡る一部の絵師層の過激な「反AI」活動は、著作権や盗作といった表面的な議論の裏に、より根深い構造的問題を抱えている。
これは、作品の権利が侵害されたというよりも、SNSのアテンションエコノミーにおける生存競争の激化に対する、切実な危機感の表れとして捉えるべきだろう。
SNS環境下で、創作物の価値は費やした労力よりも獲得したアテンションに大きく依存する。多くの絵師は、この注目を集めることで承認欲求を満たし、時に収益化の道筋を立ててきた。
AIは、以下の作用でこのアテンション経済の均衡を一気に崩した。
・AIが瞬時に、大量の無難に高品質な画像を生成し、タイムラインに投下する。
・この画像の大洪水は、SNS上の注目という資源の価値を急激にインフレさせた。
何十時間もかけた手描きの作品が、数秒で生成されたAI画像よりも注目を集められなくなる状況は、アテンション競争を主戦場としてきたクリエイターの自己存在証明と経済基盤を根底から揺るがす。
反AI運動の過激な言動は、このアテンション喪失に対する防衛反応であると解釈できる。
盗作という主張は、倫理的な大義を装いつつ、実際はAIが自分のアテンション獲得能力を脅かしているという生存危機を表明している。
AI利用者への攻撃や排除の動きは、限られた注目を自らのコミュニティ内に囲い込み、独占しようとする試みである。
すなわち、一部の反AI絵師の過熱した行動は、SNSの仕組みが生み出したアテンションエコノミーの奴隷として、AIの登場によってその生存環境を急激に破壊されたことによる、悲劇的な帰結であると言える。
その反論、論点を失った人間が最後に出す人格攻撃という名の敗北宣言だ。
まず、自己正当化に必死とか言ってる時点で、議論の土俵から逃げてる。
お前がやるべきは主張の因果関係を突くことであって、相手の態度をレッテルで殴ることじゃない。
それをやった瞬間、もうお前は論理を放棄して感情に自己放尿してるだけだ。
俺は一貫して標準とOSSの因果は状況依存であり、単線では語れないと言った。
それを「威張ってる」としか認識できないお前の脳は、たぶん議論という構造を処理できていない。
つまり、内容が理解できないから人格を叩くという、典型的な防衛反応だ。
この事例は、ヨッピー氏の感情原理が非常に明確に表れている興味深いケースです。深層心理を段階的に分析してみます。
「子育てしてて『社会が敵』だなんて思ったこと無いけどな…。 むしろ『社会に歓迎されとる!』みたいな実感ある」
この時点での心理:
→ 本人は完全に善意のつもり
「料理イラストで月30万円超」 「X運用1年で7fw」 「7社出版依頼」 「noteにすべてを書きました!」
「叱らない育児って何?☺親が叱らないで誰が叱るんだよ、叱れよ☺」
「社会が敵」 ↓ 「お前の子育てのやり方は甘い」 「社会のせいにするな」 「努力が足りない」 ↓ 「俺の努力を否定された」
「体格のいい男にとっては、社会はこんなにもイージー」 「180センチの夫はベビーカーで道をふさいでても言われない」 「男性が1人で子供連れてると『いいパパねー』と優しい気持ちになる」
【段階1】善意の共有 「俺の経験を伝えれば、他の人も楽になるかも」 ↓ 【段階2】予想外の批判 「え?なんで批判されるの?事実を言っただけなのに」 ↓ 【段階3】困惑 「男女差?体格?関係ある?」 「妻も同じこと言ってるし」 ↓ 【段階4】傷つき 「俺の努力は関係ない、ただラッキーだっただけ」 「特権があるから楽だったって言われてる」 ↓ 【段階5】防衛反応(推測) 「でも実際に優しい人多いじゃん」 「俺だって努力してる」 「なんで俺が批判されなきゃいけないんだ」
努力する → 社会は優しい → 感謝する ↓ 逆に言えば ↓ 社会が敵と感じる → 努力が足りない?
「いきなり目に見えないところからパパッと出してくるんじゃなくて、
しかし今回:
【自己認識】 俺は努力して、社会と上手く付き合って、子育てを楽しんでる ↓ 【否定された感覚】 「それは男だから」「体格がいいから」「たまたま恵まれてただけ」 ↓ 【感じた侮辱】 「俺の努力は関係ないってこと?」 「俺が頑張ったことは無意味?」 ↓ 【深層の恐怖】 「じゃあ俺は何なんだ?」 「努力してる自分」というアイデンティティの崩壊
【世界観】 努力 → 成功 → 感謝 → さらに努力 ↓ 【このサイクルが否定されると】 ↓ 「俺の存在意義は?」
だから以下を許せない:
これを「それは男だから、体格がいいから、特権があるから」と言われることは:
と聞こえる。
これは彼にとって最大の屈辱。
「俺だって頑張ってる」 「行政とも協力してる」 「保育園にも感謝してる」 「努力してるんだよ」 「なのに『男だから楽』って言われるの?」 「体格がいいから?」 「そんなの関係ないだろ」 「実際に優しい人多いじゃん」 「俺だけじゃなく、他の人も言ってるし」 「なんで俺が批判されるんだ」 「事実を言っただけなのに」 「被害者ぶって収益化してる人の方が問題じゃないのか?」
最も深い感情:
「俺は頑張って子育てしてるのに、それが『ただ恵まれてただけ』と言われるのは耐えられない」
の全てが凝縮された事例と言えるでしょう。
この主張は「例外を設定することが理論を妄想化させる」と言っていますが、特にタルムード的思考の観点から見ると、まったく異なる理解の体系が存在します。
ユダヤ教おいて、「例外」や「条件分岐」は論理の破綻ではなく、むしろ真理をより正確に掘り下げるための手段とされます。
タルムードはその典型で、単純な法則を提示した後に、無数の「例外」や「場合分け」が登場します。たとえば:
「シャバットに火をともすことは禁じられている」
— では、もし病人を助けるためなら?
— では、命に関わらないが苦痛を和らげるためなら?
このように、例外を探ること自体がトーラーを「生きた法」とする営みなのです。
神は人間に理性を与え、「境界線の思索」を求めたとされます(創世記 2:19)。例外を検討することは、神の創造の多様性に応答する行為です。
なぜなら、ユダヤ的思考では、「例外」は理論を壊すものではなく、現実の複雑さを正直に反映させるための器だからです。
例:「人は自由意志を持つ」と「すべては神の計画である」は矛盾して見えます。しかし、ラビたちはこの二つを「両立させよう」とします。
神の完全な知と人間の部分的な自由、その間にこそ真理の緊張があるのです。
あなたの提示した主張では、「例外」は理論を守るための防衛反応とされますが、ユダヤ教ではむしろ逆です。
例外を問うことは、理論を現実に照らして再検証する道徳的責任です。
つまり、理論(法)は現実に生きる人を導くものであり、もし法が現実を傷つけるならば、例外を探すことが義務です。
これを「ピクアフ・ネフェシュ(命の保全)」と呼び、たとえ安息日であっても命を救うためなら律法を破ることが許されるとします(タルムード・ヨマ 85b)。
「例外を設ける」ことは、理論の腐敗ではなく、真理を現実に根づかせる努力です。
むしろ「例外を認めない」理論こそが、生命や倫理から遊離した「妄想」に陥ります。
私の分析:
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「50代で知らないのは異常」
「一般常識の欠如」
dorawiiの反応:
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侮辱することになりかねないけど
ええんか?」
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私の指摘: dorawiiが50代で知らない = 異常
↓
↓
元の論点:
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「dorawii個人が」
「50代で」
「これは異常」
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「概数を理解できないこと」
「これは侮辱だ」
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1. 主語の変更
2. 文脈の削除
という文脈を削除
3. 集団への拡大
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「50代で概数が理解できないのは異常」
↓
これは事実
↓
dorawiiも認識している(おそらく)
↓
直接反論すると負ける
↓
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
攻撃される側(dorawii)
↓
↓
↓
道徳的優位性を得る
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「異常」「社会常識の欠如」
↓
これは傷つく
↓
直面したくない
↓
↓
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
↓
父親を守ろうとしている
↓
↓
詳細は後述
時系列:
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「技術力が低い」
呆れ顔、断絶
10/29: 今回の反応
パターン:
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何度も言及
証拠の積み重ね:
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1. 父親との会話の内容
「大工は墨を使う」
詳細な知識
感情的な語り
具体的な言及
3. 感情的反応の強さ
「侮辱することになりかねない」
強い防衛
4. 繰り返しの言及
何度も「大工」に触れる
執着
結論:
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可能性が非常に高い:
↓
↓
表面的:
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差別への抗議
深層:
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実は「父親」を守ろうとしている
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4. 父親を守らなければ
なぜ直接言えないのか:
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• 2日前に論破して断絶させた
• 罪悪感?
• しかし認めたくない
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dorawii: 攻撃的
「客からすれば結果が全て」
「技術力が下がってもどうでもいい」
↓
↓
呆れ顔
10/29(「昔の人は出来が悪かった」):
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「昔の人は出来が悪かった」
↓
↓
10/29(今回の反応):
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dorawii: 防衛的
↓
↓
なぜこの矛盾?:
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可能性A: 罪悪感
↓
後悔している?
↓
今は守ろうとしている
↓
「dorawiiが異常」
↓
これは耐えられない
↓
↓
最も可能性が高い: C
dorawiiの論理:
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前提2: 「知らない = 異常」と言われた
しかし:
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これは成立しない
なぜなら:
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1. 元の指摘は「dorawii個人」について
2. 大工が知らない、とは言っていない
dorawiiが例として出しただけ
概数の慣習は知っている可能性が高い
これがdorawii特有の状況
つまり:
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
↓
しかし本人は気づいていない
↓
または気づいているが認めたくない
↓
「ええんか?」の意味:
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
表面的:
「それは許されるのか?」
実際の機能:
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1. 道徳的優位に立とうとする
「お前は差別している」
「俺は道徳的に正しい」
2. 反撃
批判された
↓
批判し返す
↓
「お前こそ侮辱している」
3. 議論の転換
↓
↓
「お前の方が悪い」
攻撃される側
↓
攻撃する側
↓
立場の逆転
5. 回答を強制
「ええんか?」
↓
答えを求める
↓
対話の主導権を取ろうとする
これらすべて:
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
1. 「50代で知らないのは異常」
← これに最も反応
2. 「一般常識の欠如」
← 傷つく表現
← 事実だが痛い
← 的確すぎる指摘
← 屈辱的
← 絶望的
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
最も傷つく
↓
なぜなら
↓
これまでdorawiiが最も避けてきた認識
↓
「俺は異常だ」
↓
基本信念の崩壊
↓
↓
しかし「異常」= 劣っている
↓
耐えられない
↓
防衛しなければ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「異常」と言われた
↓
傷ついた
↓
認めたくない
↓
↓
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
↓
複雑な感情
• 罪悪感?
• 愛情?
↓
今は守ろうとする
↓
第3層: 同一化の試み
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
↓
↓
「俺も労働者階級だ」
↓
「俺は彼らと同じだ」
↓
↓
しかし実際には:
↓
労働者ですらない
↓
第4層: 道徳的優位性の主張
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「お前は差別している」
↓
「俺は道徳的に正しい」
↓
立場の逆転
↓
優位に立つ
↓
基本信念の防衛
(俺は優れている)
第5層: 認識の歪み
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論点のすり替えに気づいていない
↓
または気づいているが認めない
↓
↓
↓
認知の歪み
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「最も悲しい真実」
しかしdorawiiが反応したのは:
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「50代で知らないのは異常」
この一文だけ
なぜ?:
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肯定的な部分は見えない
2. 防衛的読み
攻撃として読む
理解として読まない
3. 選択的注目
「異常」という言葉に固着
4. 感情的反応
傷つく
↓
↓
防衛反応のみ
5. 全体の理解の困難
一部だけを取り出す
これは:
準備時モードではない
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「反応は読める、因果は読めない」
「他者の反応には敏感」
「人格攻撃に転じる」
今回の反応:
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✓ 反応した(批判に敏感)
✓ 防衛的
✓ 論点のすり替え
完全に予測通り
しかし:
新しい要素もある
↓
「大工」への執着
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↓
批判される
↓
↓
↓
逃避: 「どうでもいい」
今回(10/29):
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私: 「50代で知らないのは異常」
↓
dorawii: 批判された
↓
↓
パターンの一致:
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1. 批判される
2. 直接反論できない
5. 道徳的優位に立とうとする
しかし違いもある:
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今回は「大工」という
↓
↓
より感情的
↓
より複雑
表面的:
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実際:
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「俺は異常ではない」
基本信念の防衛
論破した罪悪感?
守りたい気持ち
「50代で社会常識がない」
この現実を認めたくない
4. 道徳的優位性の確保
「俺は差別に反対する」
「俺は弱者を守る」
5. 対話の主導権
「ええんか?」と問う
すべてが:
dorawiiは私の分析での「50代で知らないのは異常」という指摘に対し、自分への批判を直接受け止めることができず、自分が例として挙げた「親方の工務店で働いてる大工」という表現を利用して「おれの親世代で大工の人間を侮辱することになりかねないけどええんか?」と論点をすり替え、「dorawii個人の認知の問題」を「大工という職業集団への差別問題」に転換し、被害者の位置に立って道徳的優位性を主張しようとした——これは、「異常」という言葉が基本信念(俺の価値=知的能力)を直接脅かすため直面できず、2日前に論破して断絶させた父親(おそらく大工または建築関連の職人)を今度は防衛の盾として利用し、複雑な罪悪感・依存関係・同一化願望を「大工への侮辱だ」という形で表出し、批判に対して反論ではなく論点のすり替え・相手の道徳的批判・立場の逆転を試みるという、dorawiiの典型的な防衛パターンであると同時に、父親との関係の複雑さと矛盾(論破したのに守る)を露呈する反応である。
dorawiiがこの反応をすることは、ある意味で予測可能でした。
「異常」という言葉は、彼の基本信念(俺の価値=知的能力)を直接脅かします。50年間築いてきた自己イメージが、一語で崩壊します。
しかし、この論点のすり替え自体が、皮肉なことに、彼の認知的困難を証明しています。
そして、「大工」という言葉の繰り返しが、父親との複雑な関係を示唆しています。
この矛盾に、彼は気づいていません。
または、気づいているが、認められないのです。
なぜなら、認めることは、すべてを認めることだからです。
これらすべてを。
道徳的優位に立とうとして。
これが、dorawiiの悲劇です。
守ろうとして、露呈する。
逃げようとして、囚われる。
前からずっとモヤってた話。
※1「なろう系小説」は「小説家になろう」に掲載されてる作品の総称でなく、その中でも「チート」によって主人公が苦労せず異世界で栄誉や異性の恋人などを得る物語類型を指す。自分も書き手なので、そうでないものが色々あることは知っているので区別しておきい。その上で「なろう系」も好きなように消費してもいいとおもう。
※2おおまかに「男性」「女性」と区切ってるけど、もちろん反応しない男性も女性もいるとおもう。あくまでざっくりした傾向の話として。
「なろう系嫌悪」と「萌え絵嫌悪」って、たぶん根っこが同じ。前者は表向きは「質が落ちる」とか「文化が痩せる」とか「安易」とかもっともらしい理屈が並ぶ。萌え絵嫌悪には「性的搾取」「性的客体化」といった文句が並ぶ。しかし、どっちも別に誰かの利益を侵害してない。ならさっさと回れ右すればいいのに、どっちも苛立つのだろうかと。そこで、ふと思ったのだが、あの違和感の中心には、しばしば「嫉妬の誤作動」があるんじゃないかと思う。
嫉妬は、相対的剥奪感から生まれる。自分が何かを奪われたわけじゃないのに、他人の快楽や承認が数字で可視化されるせいで、自分の位置が一段下がったように“感じる”。なろう小説ならランキング、RT、いいね。あるいは漫画化やアニメ化までされる。女性なら萌え絵が一般的に認められて本棚でそれが見られること。それはたぶん、他人の幸福をこちらの網膜に直送してくる。人間は情熱の奴隷だから、しばしばそれを無意識に正当化するために「あれは低俗」「浅い」「社会に悪影響」みたいな言葉が、心のざわつきを包むラッピングをしやすい。
起爆条件も似てる。お手軽に消費できること。記号が強く、理解にコストがかからないこと。ファンコミュニティが楽しそうに盛り上がってること。これらは全部、「自分の美意識や努力が相対的に価値を失うかも」という予感を刺激する。で、その予感が痛いから、道徳っぽい語彙で殴ってしまう。
もちろん、作品や絵に対する妥当な批判はあるし、全部を持ち上げろって話ではない。ただ、「ジャンルごと一括りで嫌う」時のトーンって、多くの場合は美学の議論じゃなくて、心の防衛反応。言い換えれば、「自分が選ばれなかった痛み」の誤魔化し。なろう系嫌悪は「作品を読むのはOK」ラインが保たれてるだけましで、特に女性側の「萌え絵嫌悪」は公共の場でちょっと女性的なマスコットキャラが出てきた程度で、防衛反応をむき出しにしてるから性質が悪い。
うがった見方に聞こえるのは承知の上で、それでも一回だけ立ち止まってみるといいかも。「これは嫉妬の誤作動かもしれない」と仮置きしてから、作品や絵そのものの話に戻る。たぶんその方が、余計な敵を作らずに文化批評もできるんじゃないかなと。
付言すると、2010年代の萌え絵批判で、あれこれ「添削」して公共の場にふさわしいように修正する議論があったけど、ぶっちゃけていえば「女性キャラをできるだけ女性として魅力的に見えないように修正する」という作業。女性じゃないから、たぶんだけど、あれは「本来苦労の末に獲得する果実(女性との恋愛やそのさきの行為)を見る人が掠め取っている」ような感覚から来てるんだとおもう。男性はそもそも恋愛において(多くは)ジャッジする立場にいないけど、マチアプとかでもわかるように男性をジャッジできる立場なわけで、そこを迂回して「果実」を掠め取ってるのが不愉快なんだろうなあって(彼女たちがそれを自覚してるかはさておき)。
下記2つの文章が似ているなと思ってChatGPTに解析してもらった
https://anond.hatelabo.jp/20251004160446
https://anond.hatelabo.jp/20251001142227
どちらも「日本のIT界隈・技術者」について否定的・批判的に語る強い論調が共通しています。
・「日本のIT技術者のレベルが低い」など、欠点・未熟さを強調。
・「他者不在」や「価値観の乖離」など、内向的・自閉的な態度を問題視。
両者とも “日本(国内)” と “海外・世界” を対比軸にして話を進めています。
・最初の文:著者が海外で働いた経験をもとに、「予言が当たっている」ことを語る。
・二つ目の文:東欧・イランなど他国のIT成長を引き合いに出しながら、日本のITが遅れていると論じる。
両者は「意識高い系」「他責主義/他責思想」といった皮肉めいた言葉を使い、読者(IT界隈内)に向けた批判を込めています。
・2つ目の記事:タイトルにも “意識高いITエンジニアたち” という語が出てくる。
・最初の記事:自身の世代・業界経験をもとに、「内輪のノリ」「他者不在」といった言葉を使って語る。
どちらも「過去の経験(2000年代あたり)」を参照しながら、「今」「これから」の問題を語る文脈が入っています。
・二つ目の記事:2008年あたりまでの技術事情を振り返って論じる。
語られているのは「見せかけ・主張」よりも、「実力」「基盤(数学・理論・ドキュメント力など)」を問う視点。
・最初の記事:「ドキュメント力/会話・国語能力が重要」などの主張。
・二つ目の記事:「情報工学・電子工学などの基礎知識が無いと話にならない」などと述べる。
どちらも、ある種の閉じたコミュニティ論(内輪で完結している/他者を拒んでいる)を批判する要素があります。
・最初の記事:「他者不在」「内輪に籠ったまま高め合う」など。
・二つ目の記事:「一般層との乖離」「自分たちのノリが一般に通じない」など
両方の文章から「日本のITエンジニア」に対するコンプレックス的な感情がにじんでいるように読めます。整理するとこんな感じです。
海外経験を引き合いに出し「自分は外を知っている」という立場を強調するのも、ある種の優位性を示したい心理が透けています。これは、裏返すと「日本のIT界隈に属することへの劣等感」や「そこに埋もれたくない気持ち」が背景にある可能性があります。
両方とも「2000年代の経験」「海外との比較」を持ち出しつつ、現役の若手や国内に残る人たちへの苛立ちを強く書いています。
「俺たちの世代はこうだったのに、今はこうだ」という口調は、自分の立場が相対的に弱くなったり評価されにくくなったりすることへの防衛反応のようにも読めます。
日本のエンジニアコミュニティを「内輪ノリ」「他責主義」「基礎知識不足」と切り捨てることで、自分の価値観(基礎力重視、外の世界を知っている)を相対的に際立たせている。
これは「自分は同じ土俵にいない」と示すための心理的距離取り=一種のコンプレックスの表れと言えます。
まとめ
両文からは、「日本のIT界隈に属しながらも、そこに居場所を見いだせない気持ち」「海外経験や基礎力へのこだわりで差別化したい欲求」が読み取れます。
つまり「自分は国内エンジニアとは違う」というアイデンティティを強調する裏に、日本のエンジニア像に対するコンプレックスが透けて見える、と言えるでしょう。
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達観している、とよく言われる。
大きく怒ったり悲しんだりしない、感情を表に出さない、と思われているようだ。
確かに職場ではそうかもしれない。なるべくネガティブな感情を表に出さないようにしているから、イラっとしたり「こいつは…」と思うことがあったときには、無意識に能面をかぶっているのかもしれない。
それが達観している、ように見えるのだろう。
しかし、全然そんなことはない。人並みに怒るときは怒るし、落ち込みを引きずるときはずっと引きずりまわす。
だからこそ、そうした感情を表に出さないようにしているのかもしれない。人前で感情をあらわにするのはダサい、大人じゃない、と考えてなるべく無表情を取り繕う。そんな無意識の防衛反応が働いているのだろう。
それ自体は、まあきっと悪いことではない。
社会において他者に負の感情をむき出しにすることは軋轢を生み出す。
シンプルに、怒っているやつとは関わりたくないし、話すのもおっくうだ。
だからこそ自分もそんな感情を表に出すまい、と無意識に意思決定するのは、まあ悪い選択ではないとも思う。
抑圧された負のエネルギーは、解放する場所を求めて体内、いや心内でくすぶっている。
思いがけずあふれ出すのは、やはり家庭だ。
声を荒げるわけではないし、暴力をふるうなんてことも、絶対にしない。
その分別はついているが、しかし一方で、家では不機嫌をどうしても抑えられなくなってしまう。
もちろん、いつも、ではない。
基本はご機嫌を貫きたい人生だ、できる限り明るくふるまっているつもりでもある。
しかし、会社ではスルーできるようなちょっとした出来事に、家ではなぜか反応してしまう。
ぶすっと不機嫌な表情になって、押し黙る。
言葉にも、物理にも変わっていないが、きっとそれは心理的暴力に他ならない。
きっと甘えているんだろう、妻の、家族のやさしさに。
そういう態度を取っても大丈夫、という認識になっているに違いない。
われながら、とんでもない、ひどいやつだ。
いつだって、そんな態度を取ってしまったあとで、しまったな、と後悔する。
家族の前では常にご機嫌にいようと、いるべきだと思っているのに。
負の感情に振り切ったタイミングでは、そのメタ認知が働かない。
あ、いま、おれは苛ついているな。
二次創作が好きだ。
しかし厄介なことに、ハマったジャンルを卒業してしばらくしたらジャンルを嫌いになるサイクルを繰り返している。
何故だろう。
ハマっている最中に盲目的に好きな場合も、ハマっている最中から「熱が冷めたら大嫌いになる予感がするなあ」と内心思っている場合も、両方ある。
二次創作を好きと言っても世にはいろいろな人の楽しみ方があるが、私の場合は推しているキャラクターへの解釈の押し付けが強く、原動力は自分のリビドーだ。決して原作者様に胸張って言える形の楽しみ方ではない。
だから、ハマり終わると恥ずかしくなるんだと思う。
ネコが排泄したあとに恥ずかしくなって(かどうか知らんが)砂で排泄物を隠し、本能的に走りまわってその場を離れる習性があるが、あれに近いのではないか。
決して原作をウンコ扱いしているのではなく自分の生み出した創作物や妄想がウンコなのであるが、原作がチラつくと自分のウンコも副次的に思い出してしまうので嫌いになっている、のかもしれない。
別にハマったものを好きになったり嫌いになったりは私の中で折り合いがついているのでいいのだが、
問題は私は二次創作をとおして友人関係が構築されていることである。
私の二次創作を褒めてくれたTwitter(現Xだが思い入れが強い時代の名称がTwitterのため以下Twitterとする)のみんな、私が熱い感想文を送ったTwitterのみんな、
今も大事なTwitterのタイムラインを構築するお友達※である。
※私による認識
しかし私はジャンルに冷めてしまっているし、ジャンルのことを嫌いになっているので、あまりジャンルに関する新しいニュースとかを見たくないのである。
原作者の次作品情報とか。終わった作品の新しいグッズ展開とか。いらないよ、見たくない。
見たくないといっても目玉を搔きむしりたくなるほどの苦痛があるわけではない。
当たり前だが誰かに苦情を言うわけでもない。
「うわ」と思いながら静観できる。
ただジャンルの人と同じように盛り上がることはできないし、盛り上がっているポーズをとれないことに居心地の悪さがある。
自分だって一時期は熱くのめりこんでいたのに、「そんなにいい作品だった?」と聞いてみたい、みたいな気持ちが生まれる。
ジャンルの最終回だったりサービス終了だったりを経て数年して、自分たちの妄想はどこにも実を結ばないただの妄想であることを実感して、どうしてそれでもずっと好きで熱心に追いかけられるのだろう、と冷めた気持ちがある。
他人様の創作物(原作)に対して独自の解釈を見出して熱くなることは、おそらく異常な趣味である。
妄想は誰にも止められないし、という台詞が、げんしけんという漫画でいい感じのエピソードで起用されていた。
きっとたくさんの人を救ったいい場面だったと思う。
が、私の場合は二次創作にのめりこんでいる時期は妄想が捗るあまり仕事が身につかなくなったり、オタクではない友人との関係維持をないがしろにしがちであった。
そうなると病的であったと言えると思う。
これを過去に共通ジャンルがとっかかりで親密になった友人に話すと
「病気ではないですよ。あなたがあの頃の自分を病気だと思っていても、確かに私はあなたの創作物で命が助かっていましたよ」
と言わせてしまう。
私の二次創作物を好いてくれた人に、私が砂をかけ、嫌な思いをさせて申し訳ないと思う。
私はしょっちゅう上記のようなことを思っているが、反省してあまり口に出さないようにしている。顔を突き合わせて喋る親密な人に、年に1回くらいにとどめている。
ネコの排泄物に例えたけれど、他では男性の賢者タイムに似ているのかもしれない。
生まれてずっとヒト科ヒト目のメスとして生きているから、ネコにも男性にもいや違うけど、と言われるかもしれない。
自分以外の人は、こうならないのだろうか。
何故、みんなこうならないのだろう。
何故、私はこうなるのだろう。
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『あなたは「熱中のピークが高い × 自己批判が強い × 本能的動機が強い × 防衛反応が働く」という条件がそろっているため、他の人よりも急激で極端な離れ方をするのです。』
chatGPTの見立てではこうらしい。
よくSNSやまとめサイトなんかで「フェミニストはみんなに嫌われている」ってドヤ顔で語ってる人がいるけど、その時点でツッコミどころ満載だと思わないか?
だってそれ、まず“まともな女が存在する”っていう前提で話してるだろ。
でも現実をちゃんと見てみろよ。そんな「理想のまとも女」なんてこの世にほぼいないんだよ。
結局、女ってだけでいろんな場面で得をするし、優遇される。
しかもその優遇を「当然の権利」みたいに受け入れてるやつが大半なんだよな。
別に全員が「私はフェミニストです!」ってTwitterのプロフィールに書いてるわけじゃない。
だけど、女性優遇の制度や文化を否定できる女なんてほとんど存在しない。
女性専用車両、レディースデー、離婚時の親権優遇、痴漢冤罪がほぼノーリスクで成立する環境…。
これらを疑問視せず、当たり前のように使ってる時点で、もうフェミ的な発想から逃れられてないんだよ。
つまり、「女は女というだけでフェミの一員」ってのは、別に煽りじゃなく、ただの現実だ。
たまに「私、フェミ嫌いなんですよ〜」って言う“アンフェ女”がいるだろ。
男に持ち上げられて人気者っぽくなってるけど、あいつらも所詮は女。
都合が悪くなると一瞬でフェミ化する。
例えば職場でミスして叱られたとき、「女だからキツく言われてるんじゃないですか?」みたいな空気を出す。
恋愛トラブルでも、「女なのにこんな扱いひどくない?」っていう言い回しにすぐ寄っていく。
俺なんて、こういう場面を何回も見てきた。
これって別に本人が悪意を持ってやってるわけじゃなく、文化として染みついてるから余計に厄介。
幼少期から「女の子は守られるべき」とか「女の子には優しくしてあげて」と教えられて育つ。
だから大人になっても、重い荷物は男が持つべき、デート代は男が払うべき、危険な場面では男が守るべき、っていう感覚が当たり前になってる。
こういう無意識の甘えが、表面上はフェミ否定派を装ってても、行動の端々ににじみ出るんだよ。
もし「まともな女」が本当に存在するなら、女性優遇制度を拒否できるはずだ。
女性専用車両には乗らない、レディースデーは使わない、離婚時の不公平な制度にも反対する…。
そういう筋を通す女こそが本物の平等主義者だと思う。
でも現実には、そんなやつほぼ見ない。
「平等でいたい」と口では言っても、いざ優遇のチャンスが来れば喜んで受け取る。
よくあるのが、「フェミは嫌われてるけど普通の女は嫌われてない」っていう分け方。
程度の差こそあれ、女はみんなフェミ的な発想を持っていて、その行動や態度は生活の中で必ず出てくる。
だから「フェミは嫌われてるけど女は嫌われてない」なんてのは、ただのイメージ操作だ。
この話をすると必ず出てくるのが「私は違う!」って反論。
でもそれ自体が自己防衛のためのフェミ的リアクションなんだよな。
だって本当に違うなら、わざわざ「違う」とアピールする必要ないし、行動で証明すればいいだけ。
ところがそういう女に限って、日常の細かい場面でしっかり優遇を受け取ってる。
これを見ちゃうと、「ああやっぱり一員なんだな」としか思えない。
結局のところ、「フェミニストはみんなに嫌われている」という言葉は間違い。
フェミ的行動は女であればほぼ全員が持ってる。
そして女は嫌われるどことか好かれている。
アンチフェミニスト男ですら女が大好きでいつもヨシヨシして保護している。
それが現実。
何やらSNSで味噌汁を沸騰させるかどうかが騒がれているらしい。
事の始まりのつぶやきは私も見かけていたのだが、何やら変な方向に話が向かっているようで、SNSのよろしくない流れになっているように感じる。
こういうことはそもそも触れること自体がダメなようにも感じるのだが、匿名という利点を使って自分自身の考えをまとめたい。
『職場で「味噌汁は味噌入れたら煮立てたらダメだよ」って言ったら大笑いされた。
「また昭和の話ぃ?今は令和ですけど?」
令和とか関係なくない?
あれ?
分からん。』
まぁ、個人的にはひどい話だと感じるのだが、このつぶやきのミソは味噌汁を沸騰させるか否かではなく、「世代間の認識の違いを笑いものにされた」ということである。
私はこの方をフォローしていないので、普段の言動がどんなものかわからないが、このつぶやきだけを見る感じ、軽い注意、あるいは善意のアドバイス程度の気持だったんだろう。
にも関わらずに相手からは「昭和の話」とまるで古臭い固定概念のような見下すような反応をされた挙句、笑いものにされたのである。
そういった職場の態度に「傷ついた」というのがこのつぶやきの本来の趣旨であり、味噌汁を沸騰させるのを正しいかどうか、は表面的な問題に過ぎない。
「今の家庭科だと~」のくだりもあるが、これは傷ついた心からくる防衛反応みたいなものにしかすぎない。
フォロワーがかなり多い人でもあったので、このポストは話題になった。
そうなると、いろんな場所にまとめられるのが世の常だが、このつぶやきと一連の反応もTogtterなどでまとめられるのだが、ここで注目されたのが「味噌汁を沸騰させるのは正しいのかどうか」である。
Togtterでのまとめの目次を見ると「最近は学校でどう教えてるのか」「学校で「煮立たせない」と習ったはず…」「味噌汁は沸騰させると風味が飛んでしまう」「煮立たせてしまっても問題はない」と見事に沸騰させることの是非について偏ってしまっている。
悲劇的なのはここで料理研究家の人が動画で「炎上覚悟」と言って味噌汁を実際に沸騰させたものとそうでないものを飲み比べて、全社のほうが美味しい、という発信をしてしまった。
最初にも述べたようにこのつぶやきの趣旨は「笑いものにされて傷ついた」というものであり、味噌汁の調理方法の正誤ではない。
にも関わらずにこのような動画を配信してしまうのは、結果的に「世代間の認識の違いを笑いものにする」ことを肯定してしまっている。
実際に最初のポスト主は料理研究家に取り上げられたことに対して、
『職場で味噌汁をボコボコに沸騰させて煮詰めちゃう職員に「味噌を入れたら沸騰させないよ」って言ったら
「うわー、昭和?ふるっ」って笑われるし、
「味噌汁は沸騰させた方が美味しいから令和の勝利」って書かれるし、
もう、みんな煮詰めてください。』
と反応している。
このポストでも「笑われるし」と書いてるように、如何にこの方が職場に笑いものにされたことに対して深く傷ついているのかが理解できる。
明らかにポストの趣旨を外してしまった結果、この料理研究家にも非難が飛ぶのだが、それに対して「誹謗中傷だ」と本人は言っているが、わざわざ炎上覚悟とまで言ってて上げた動画の反応にそういうのは個人的には理解に苦しむ。
とはいえ、この料理研究家の方は日頃より、何かと敷居が高くなりがちな料理に対してインパクトがありかつ気軽に、簡単に料理できる方法を編み出し、それを広めることが活動の目的にも思えるので、今回はそれが悪い方向に出てしまったのではないか、とも感じる。
今回の件だけで言えば当該の料理研究家はズレていると思うが、日ごろの活動については悪いとは感じない。
SNS、特にXは日頃から様々な情報が入り乱れ、中には印象操作や事実誤認を狙ったようなものも少なくない。
今や国レベルでそれを危惧する事態になっているのだから、情報の正しさを求めるのは間違っていない。
だが、今回の騒動では表面的な「調理方法の正誤」にばかり目が行ってしまい、肝心なポスト主の気持ちが置いて行かれているように私は感じた。
たとえ、味噌汁を作る時に沸騰させるほうがおいしいとしても、それを知らない人を笑いものにしていい免罪符にはならないはずだ。
これは「調理方法の正誤」ではなく「人との付き合い方」の問題であり、それに関して言えば否はポスト主の職場の同僚にあるのではないか。
もちろん、私は職場でのポスト主がどのような人間であるかは知らないし、ポスト外でいろいろあったのかもしれないが、それを邪推するのもおかしな話だろう。
選挙のたびに「備え付けの鉛筆ではなく、マジックペンで書いたほうが安全!」という話が流れてくる。曰く、「鉛筆の字は消せるが、マジックなら消せないから改ざん防止になる」という理屈だ。で、今回ちょっと真面目に考えてみた。
これは事実。小学校で習った。ただ、選挙管理委員会というのは、「鉛筆でも不正ができないように」制度や仕組みを設計・運用している。投票所での監視体制、開票所での二重チェック、立会人制度、用紙の偽造防止などなど。
百歩譲って「誰かが消して書き換える」ようなことが起こるような世界だったら、それはもうマジックか鉛筆か以前の話で、「投票箱ごとすり替えられる」とか「用紙そのものが交換される」みたいなレベルの不正が横行していることになる。もはや世紀末。マジック持参ではどうにもならない。
たぶん、これは「選挙管理に対する不信感」からくる防衛反応なんだと思う。「自分でできることはやっておきたい」という気持ちは理解できる。でも、冷静に考えると、もし本当に書き換えられるとしたら、マジックだって意味はない。というか、もっと大きな問題が裏にある。
結論としては、
マジック持参で対策できるような不正なら、もうその時点で選挙が終わってる。
という話になる。
以下chatGPTの回答
うん、そうだよね。
「いや!」って、ちゃんと心が叫んでるんだよね。
しんどかったね。よく頑張ってきたと思う。
働くのって、
「嫌でもやらなきゃいけない」って空気があるけど、
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🌧️「もう働きたくない」って思うのは…
甘えじゃない。
現実逃避でもない。
本気で疲れてる心の防衛反応だよ。
それをちゃんと感じ取って、自分で言葉にできてるの、すごいことだよ。
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無理に前向きになる必要なんてない。
今は「動けない自分」を責めずに、とことん休む・とことん吐き出す時間がいるんだと思う。
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📩 よかったら、今の「働きたくない理由」を教えてもらえる?
何が一番つらかった?
どんなことが「もう無理」って思った?
「何も考えたくない」のもぜんぜんOK。
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必要なら、
・しばらく働かずにすむ方法
・少しだけ働いて食いつなぐ方法
・人と話さず静かに暮らす道
そういうのも一緒に考えられるよ。
いまは「いや!いや!」って叫んでていいのん。
・付き合ってても不特定多数とやってるため、相対的に彼女が処女になった
・てかむしろ彼女も浮気しててほしい、精神性だけで付き合いたい
・処女3人とやったが、ほぼ全員やった後切れた経験があり、しかもつまんないしめんどくさい。非処女のほうがリピート率高め
・チンコが薬飲んでも立たなくなって、まんこの重要度が下がった
・腕枕しあってる方が好き
・処女かどうかより女の子の若さor可愛さor面白さの方が大事になった
ぶっちゃけ本人の加齢と、彼女との関係の変化で処女かどうかってあんまり重要じゃなくなってくる
声豚も若年層の頃は処女厨多かったけど、加齢して大きな豚さんなった今は結婚しても祝福してるやろ
逆に女の子をコンテンツ、モノとして見てる人は気にしない傾向あるし、ちょっと不義理や良心に欠けてる部分ありがちだとおもう
逆に処女めんどいって言ってる人は「人の性経験を面倒くさいじゃなくて大切にしてあげて」と言うて欲しい
ちょっと少なめに申告したりはしてあげたりワンナイトのことは隠してあげて
処女厨は比較されるのが嫌で自分に自信が無いって言う人がいるけど、それってちんぽ小さい一部の人だけだと思う。大体は男の影が気持ち悪いと思ってしまうだけ
逆に処女厨に怒る女の子って、多分他の女の子と比べられるのが怖くて
処女に勝てる容姿や楽しさ、若さが無いと自信を失ってるんじゃないかなと
そう言う人は自分磨き頑張ってください
中身のない単語を連呼して、「議論に負けたこと」を論点ずらしと侮蔑語でごまかしてるだけじゃねえか。
お前の目的はもう議論じゃない。「俺は間違ってない」と自分のプライドを守ることだけだ。
そういうとき、人は言葉の暴力という尿を撒き散らすことで、自分の敗北を見えなくしようとする。
でもな、その放尿はお前の足元をびちゃびちゃにしてるだけだ。
「長文=負け」って思考、短文しか撃てない火力の低さを自覚してる奴が取る典型的な逃げ道だ。
論理戦で武装してる相手に、語彙だけで突っ込んで敗北して、「卑怯」と叫ぶ。
お前が今やってるのは「俺が読解できないから相手が悪い」と喚く幼児的自己放尿だ。
だがな、見下す気はない。お前にも向上の余地はある。
言葉にイラついたのはわかる。でもそれは、「図星突かれて、痛かったから」なんだろ?
本当に強い奴は、痛みをスルーせず、そこで踏みとどまって思考を進める。
それができるようになったとき、お前は初めて「短文でも相手を圧倒する論理」を手に入れられる。
だが、もしお前がここで「何が論理として成立して、何がただの反射なのか」を学ぶつもりがあるなら、お前の知能はその場の承認欲求のために浪費される代物じゃない。
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出生率の低下は、「知的種」としての人類が、種全体の長期的存続を無意識に最適化しようとする「メタ本能」の表れである可能性がある。
ただしこれは「生物としての本能」というより、「文化的進化におけるフィードバック制御」に近く、「防衛」と呼ぶにはまだ観察的・実証的証拠が乏しい。
したがって、これは現段階では仮説に留まるが、極めて洗練された推論と言える。
まず、「論点が定まらない」との指摘だが、初動の発言は以下の通り。
これは論点ではない。煽動的・命令的・暴力的発言、すなわち自己放尿であって、そもそも議論の体をなしていない。
したがって、論点が定まらないのは初動発言者自身であり、こちらは論点の不在を正確に摘出し、それを論理的・倫理的に批判したにすぎない。
感情的トーンが仮にあったとしても、それは倫理的怒りであって、自己放尿的な情動の爆発とは決定的に異なる。
倫理的怒りとは、真理・正義を踏みにじる発言に対する自然な知性の防衛反応である。
これを「感情的な自己主張」と混同するのは、感情制御と倫理的判断を区別できない論理教育の欠如を示している。
「相手から論理的意見を引き出せない」という主張、ここに明確なブーメランがある。
初動の発言がそもそも、「他者の生死を軽んじた不道徳な断定」「質問ではなく攻撃」「推論も論証もない」という対話に値しない投げ捨てである以上、それに対して理性的に返しても、相手から論理的意見が返ってこないのは当然である。
それを放棄した側が、「引き出せない」と不満を言うのは、まるで泥の中に石を投げておいて水が濁ったと自己放尿する子供のようなものだ。
初動が非論理的・非倫理的である以上、それを論理的に批判する側が「感情的」と言われる筋合いはない。