はてなキーワード: RBCとは
ベン・バーナンキはFRB議長指名を受けての上院銀行委員会の公聴会においてグリーンスパン路線の継承を約束した。バーナンキは90年代からグリーンスパン後の金融政策のあり方のひとつとして、インフレターゲット政策を採用すべきだとする論陣を張っていた。この上院での証言では、まさに物価安定と経済成長の安定、そして市場とのコミュニケーションを円滑に行うためにインフレターゲット導入が必要であると、バーナンキは力強く述べた。このバーナンキ証言に対して、委員会のメンバーからインフレターゲットを採用することで物価安定が優先されてしまい雇用の確保が保たれないのではないか、という質問がだされた。それに対してバーナンキはインフレターゲットは物価と雇用の安定に共に貢献することができると言い切っている。
インフレターゲットとは、改めて定義すると、インフレ率の一定の範囲(例えば2~4%)におさえることを中央銀行が公表し、その達成のために必要な金融政策を行うことである。ただしバーナンキ自身がかっていったように何がなんでもインフレ率の達成にこだわるような、「インフレ狂のいかれぽんち」に陥ることはない。
バーナンキ自身は、現実の経済は非常に複雑であり、また不確実性を伴うものであるので、しばしばいわれる金融政策とその政策担当者を「自動車と運転手」の関係に喩えるのは誤りであると述べている(講演「金融政策の論理」2004年12月2日)。なぜなら運転手は自分の走行中におこることがらをかなりの程度予測して運転しているが、金融政策の担当者には四半期先の予想でさえも困難なことが多い。確かに金融政策を通じて中央銀行は経済主体の予想に働きかけることができるが、それがどのように現実の経済に反作用するかを見極めることは実に難しい。しかしそれだからこそこの複雑で不確実な経済において経済主体の予想に働きかける政策の方が、それを考慮しない政策よりも重要になる。なぜなら主体がどのように政策に反応するかの理解を欠いた政策実行は予期しない失敗を引きおこすからである。
そして経済主体の予想形成とその経済への反作用をしっかりと政策当局が見極めるためには、予想をベースにした政策の実行とともに市場参加者と中央銀行とのコミュニケーションがきわめて重要になる、とバーナンキは述べている。そして中央銀行は市場に対してその政策の目的や予測を伝えることで、市場からのリアクションに対して柔軟に対応するべきである、とも述べている。これらの政策に対する基本姿勢は、彼のインフレターゲット論の中にいかんなく反映されている。
従来の経済学では金融政策をめぐっては、「ルールか裁量か」という二元論でしばしば議論が行われている。金融政策が長期的には貨幣の中立性が成立していて、実体経済には影響を及ぼさずに、ただ単に名目変数(例えば物価水準)を動かすだけである、という点では新古典派経済学・マネタリスト、そして(ニュー)ケインジアンは一致している。しかし短期的に実体経済に影響を及ぼすことができるのか、いいかえると経済の深刻な変動に対して金融政策は有効な手段になるのかどうかで、新古典派とケインジアンには特に深い対立が残っている。
現時点で新古典派とマネタリスト、そしてケインジアンは非常に深く混じってしまっており、例えばバーナンキの初期の金融モデルは新古典派的な発想に立脚したRBCモデルを基本にしている。しかし、最近のバーナンキの政策スタンスは経済の変動(産出量ギャップの大きな変化)には積極的な金融政策中心の政策対応をすすめるものであり、その基本はまぎれもなくケインジアンである。そして財政政策よりも金融政策を中心に景気対策を行う点では昔風?の区分ではマネタリストでもあるだろう。
一般的に新古典派やマネタリストは中央銀行がマネタリーベースを四半期ごとにX%にコントロールする「ルール」に準拠して金融政策を行うことで、中央銀行が戦前の大恐慌時のように大きな経済変動の原因になることを未然に防ぐことができるとし、安定的な経済成長に資することができると考えている。そしてルールを事前に公表することで中央銀行の行動に対して市場が信頼をもつことができることも経済の不安定性を回避するとルール主義者は信じている。それに対して裁量を重視する旧来のケインジアンは産出量ギャップの拡大に対して機動的な政策対応を主張している。裁量主義者はルールのもたらす「信頼」と、大恐慌のような予期しない経済変動に迅速に対処する際の政策の「柔軟性」にはトレードオフの関係があると信じて疑っていない。もし柔軟性を認めれば、そのことがマネタリストの主張するようなマネタリーベースの成長率ルールへの信頼性を損ねるというわけである。
バーナンキのインフレターゲット論は、この「ルールか裁量か」でいえばまさに彼の経済学の総合的性格を反映するかのように、彼自身の言葉で「制約された裁量」というコンセプトに即したものである。バーナンキの「制約された裁量」としてのインフレターゲット論は、バーナンキらの論集『インフレターゲット:国際的経験からの教訓』やFRB理事としての講演「インフレ目標の展望」(2003年3月25日、ベン・バーナンキ『リフレと金融政策』(高橋洋一訳、日本経済新聞社)に収録)に表明されている。
バーナンキのインフレターゲット論の主要内容は、1)フレームワーク、2)コミュニケーション戦略 のふたつで構成されている。フレームワークとは、先ほどの制約された裁量と同じであり、金融政策をいかに行うかについての「ベスト・プラクティス」(最善の実践)であるという。
「制約下の裁量のもとで、中央銀行は、経済構造と政策効果について知識が不完全なことに注意を払いながら、短期的な混乱は無視してでも生産と雇用の安定のために自主的に最善を尽くせます(これが制約下の裁量の「裁量」部分です)。しかし決定的に重要な条件は、安定化政策を実施するにあたり、中央銀行がインフレーーそして、それゆえ国民のインフレ予想??をしっかりとコントロールするという強いコミットメントを維持する必要もあるということです(これが制約下の裁量の「制約下」部分です)」(邦訳39頁)。
そしてこのようなインフレターゲットは金融政策が通常、半年から1年半ほどの政策ラグを伴って効果があらわれるために、先行して経済主体の予想をリードしていくという性格を色濃くもった期待形成のフレームワークでもある。
例えば、今日のアメリカ経済の低インフレの好循環が成立している背景には、まさに低インフレ予想がキーであるといえる。その反対のケースが70年代の石油ショックのエピソードである。産油国の石油価格の戦略的値上げによってコストプッシュ型の激しいインフレが起きたというのが定説である。しかしバーナンキは実際には石油価格の高騰が各種財やサービスのコストを引き上げたことによってインフレが多少は悪化したのは事実であるが、むしろそれよりも深刻だったのは家計や企業がFRBの金融引き締めが不十分であることを予想し、それが高いインフレ予想を招き、そして賃金値上げや製品価格値上げに移行した、という見方を立てている。むしろFRBが石油ショックに直面する以前の金融緩和姿勢もそのような経済主体の高インフレ期待を促したともバーナンキは指摘している。
実は日本でも石油価格の高騰が70年代の「狂乱物価」を引き起こしたとする通説が根強い。しかし小宮隆太郎は「昭和47,48年のインフレーションの原因」の中で日本銀行の石油ショック前の行き過ぎた金融緩和政策とその後の引き締めの遅れがこの「狂乱物価」の犯人であり、日銀の政策の遅れが(小宮はバーナンキのように期待の経路は明示していないが)企業や労働組合などに製品価格上昇や賃上げに走らせた、と述べている。そして70年代末から80年にかけての第二次石油ショックの影響が軽微だったのは、日銀が過去を反省していち早く強い金融引き締めスタンスを採用したことにあり、それに応じて(これも期待の経路は小宮では不明確なのだが)労働組合や企業も賃上げなどのコストプッシュの要因をおさえるべく、労使協調路線を採用することでこの事態を乗り切った、と書いている(小宮隆太郎『現代日本経済』東大出版会)。
アメリカの方はボルカー元FRB議長の1979年における断固たる“タカ派”的レジーム転換で、徹底的に高インフレと闘ったことで、その後の低インフレの好循環の基礎ができた、とバーナンキはボルカーの業績を評価している。しかし、このボルカーのタカ派へのレジーム転換が社会的にきわめて重いコストを伴ったことを指摘することをバーナンキは忘れていない。
ボルカーの行った「ディスインフレ」(高いインフレ率を抑えて低インフレにすること)政策が、積極的な名目利子率と実質利子率の引き上げによって実行され、それが80年代に入ってインフレ率の劇的な低下を見る一方で、それと見返りに10%にせまる高い失業を生み出してしまった。バーナンキはこの70年代のインフレ予想形成の失敗がいかに社会的コスト(失業)を生み出したのか、このような失敗を今後しないためにも経済主体の予想形成が金融政策の欠かせない要素になると力説している。
第二の要素のコミュニケーション戦略であるが、これはすでに自動車と運転手の比喩の話で触れたように、中央銀行が国民や市場参加者に対して政策目標、フレームワーク、経済予測を事前に公表することで、中央銀行の政策に対する信頼を醸成し、さらに政策責任の明確化と政策の決定過程とその帰結の透明性をはかろうというものである。このことが自動車と運転手の比喩でも問題となった経済の不確実性について、少なくとも政策当事者の行動とそれを予測する民間主体の不確実性を大幅に減少することは疑いがないであろう。
ところでこの「ベスト・プラクティス」としてのインフレターゲットがアメリカに導入される見込みはどうであろうか。従来、インフレターゲット導入への反対の論拠として、連邦準備制度の目的規定(連邦準備法2A条)とのダブルスタンダードになるという点をあげて反論するのが一般的であった。
「連邦準備制度理事会及び連邦公開市場委員会は最大雇用、物価の安定及び緩やかな長期金利という目標を有効的に推進するために、生産を増加する経済の長期的潜在性と均衡する通貨及び信用総量の長期的成長を維持する」
と連邦準備法にある。これはかってのハンフリー・ホーキンズ法の趣旨を反映した条文であるが、議会にもこの雇用と物価の両方への重視が強いことはすでに述べた。このようなダブルスタンダード批判について、バーナンキはここでインフレターゲットの柔軟性を強調し、雇用と物価双方にどんなウェイトづけを行っても首尾一貫したインフレターゲットの援用が可能である、と断言している。バーナンキ議長の意思が強固なことが伺われる。
今後、アメリカでインフレターゲット導入の議論が高まることは当然に予想される。この議論が高まることによって日本においても同様の議論が高まることが予想されよう。実際に政府の一部では強力にインフレターゲット導入を視野にいれた日銀法改正論議まで行われようとしているようである。すでに私はこのバーナンキ経済学を通して、日本銀行がその政策の説明責任、透明性、そして経済主体の予想形成、ほぼすべてにおいて稚拙な決定の連続であり、また今日においても外的な要因が重なっただけで金融政策のレジーム転換なきまま景気回復がある現状も指摘した。簡単にいえば、丸山真男が過去に指摘した官僚的な「無責任主義」がまだ日本銀行とその利益団体ともいえる日銀シンパのエコノミストに根強い。この無責任主義を打破するためにもインフレターゲットの導入とそれによるリフレマインドの形成が日本社会にいま最も望まれているように思われる。
出口政策を理解するためにはやはりそれなりの理論的なフレームで考えなくてはいけないだろう。例えばバーナンキ次期FRB議長は日本のデフレ脱出に、エガートソンとウッドフォードの経済学モデルを援用して、インフレ目標政策と物価水準目標の合わせ技を提案した(ベン・バーナンキ『リフレと金融政策』日本経済新聞社)。以下ではこのエガートソンとウッドフォードのモデルの枠組みをきわめて単純化して「出口政策」の理論的基礎とさらに現在しばしば話題になる日銀預金残高の超過準備問題という技術的な側面についてコメントしてみたい。
いわゆる「ルーカス批判」以降、政策による期待の変化という問題に耐えられる理論構造をもつことがマクロ経済学に求められきた。そのひとつの解が、いわゆる「マクロ経済学のミクロ的基礎」である。「ルーカス批判」以後、マクロ経済学のプログラムはこの「ミクロ的基礎付け」をRBC(実物景気循環論)モデルとニューケインジアンモデルの大まかふたつの方向で深化してきた。両者はいまでは見分けがつかないほど交じり合ってしまった。例えばバーナンキらの理論では長期においては市場の自律的調整機能を信頼しているため、長期的スタンスをとれば例えば失業が深刻であっても市場の調整能力にまかせる、という選択も最初から排除するものではない。しかしもちろんこのような態度は、バーナンキらの積極的に認めるところではなく、実際問題として不況が深刻であったり、極めて高いインフレが起きているときは政策介入を強くすすめることで社会的コストを避けるというのが、いわゆるニューケインジアンの立場であろう。
バーナンキらはまずマクロ経済を考える上で、家計(消費者)の行動、企業の行動、そして金融政策を担当する中央銀行の行動を主要なプレイヤーとして考える。それぞれのミクロ的な行動が経済のマクロ的動向に影響を与えていくと考えるわけである。
まず消費者は自分の効用(満足)を最大化するために行動する。その際に予算の制約をうけるわけであるが、その制約の変化に対してなるべく消費を平準化(スムージング)して行うことが最適な対応である、とこの消費者は考えているとしよう。消費の平準化というのは、今期(現在)と来期(将来)の消費量をあまり変化させずに似たような量だけ消費し続けることを意味している。例えば今期、クリスマスで家族や恋人にプレゼントをするために消費を増やせば、それに対応して将来の消費を減少させることで、期間を通じてみれば消費は一定水準にあるというわけである。例えば経済全体の景気がよく将来的に家計の所得が通常の場合よりも増加すると期待されたとしよう。このような状況を期待産出量ギャップが拡大したと表現する(あるいは期待拡張ギャップの存在とも表現可能)。将来の所得が増えると期待されるので、この家計はそれを見込んで現在の消費を増やすことで平準化を行おうとするだろう(そうしないと予想通りに将来の所得が増えた場合、将来の消費の方が今期にくらべて過大になってしまうので)。
この状況は先の例でいえば、会社の成績が良好で、ボーナスの増額が望めるために、クリスマスプレゼントはその将来のボーナスで返済することを見込んで、ローンまでして高めのプレゼントを購入することに似ている。すなわち将来の期待産出ギャップ(期待される将来のボーナスの増加)が現在の産出ギャップ(ローンをすることでの現在所得の増加)に反映されることになる。このように家計の消費行動は「来期の産出量ギャップの予想」に依存している。
さらに家計は今期の消費と来期の消費をバランスするために現在の実質利子率を参考にするだろう。現在の消費を我慢して貯蓄するには、その貯蓄が経済的に見合うものでなくてはいけない。その報酬として実質利子率が付されるとも考えられる。そしてこの実質利子率が増加すればそれだけ消費者は現在の消費よりも貯蓄を選ぶだろうし、また反対に実質利子率が低下すれば将来の消費よりも現在の消費を選ぶであろう。また家計のローンの負担も実質利子率が低下することで軽減され、そのことがローン契約や耐久消費財の購入を促すことが知られている。すなわち消費者の行動は「今期の実質短期利子率」に依存している。
ニューケインジアンの経済モデルではこのような消費者の行動をIS曲線(New IS曲線)と表現して現在の所得のあり方(産出高ギャップ)に、今期の実質短期利子率と将来の産出量ギャップが影響を与えると考えるわけである。ちなみに伝統的なIS曲線と同じように、今期の実質短期利子率と今期の産出量ギャップとの関係は右下がりの曲線に描くことができる。
次に企業の行動をみてみよう。ニューケインズ経済学では企業の価格設定行動も経済環境の変化に対して緩慢にしか変化することはせず、そのため価格の粘着性という現象が一般的であると主張している。この価格の粘着性を説明するためにケインズ経済学は企業の代表的なイメージとして「独占的競争モデル」を採用する場合が多い。経済学の想定する市場の典型的な姿は、完全競争と独占である。完全競争市場では、多数の売り手と多数の買い手が、お互いに市場価格をシグナルとして販売・購入活動を行っている。価格が資源配分を有効に行うと想定しているので、この完全競争市場では売り手と買い手はプライステイカーとして行動する。他方の独占市場では、売り手もしくは買い手ないし双方が市場の価格をコントロールする力を保有しており、独占市場では完全競争市場にくらべて、価格はより高く、取引される財・サービスの量は少ない。独占市場は完全競争市場に比べると資源の非効率的な配分が行われている。
しかしこのような両極端な市場の姿よりも、次のような市場のあり方の方が一般的ではないだろうか。例えば近所の本屋にいけば、さまざまなビジネス雑誌が販売されている。そしてそれぞれのビジネス雑誌は、特集する記事が異なったり、価格も各出版社が独自色を打ち出してライバル雑誌に負けないとしているように思える。またどの出版社でも自由にビジネス雑誌を発刊することができ、自由にそれを辞めることができる点でも、完全競争市場の特徴を持っている。
このようなケースは、なにもビジネス雑誌だけではないだろう。私たちは、完全競争と独占の両方の特徴を持った様々な財・サービス―例えば、書籍、映画、パソコンソフト、レストラン、コンビニ、ケーキ、車など―を日常的に目にしている。経済学では、このような財・サービス市場を「独占的競争市場」と名づけている。独占的競争とは、同質ではないが類似した財・サービスを売る多くの企業が存在する市場だということができるだろう。独占的競争市場では、たくさんの企業が同じ顧客を相手に競争を繰り広げている。その一方で、個々の企業が、他の企業と異なる製品を供給している。これを製品の差別化という。また同時に参入・退出が自由である。
完全競争市場では市場で決まった価格で販売すればすべての財は売りつくされる。他方で独占的競争市場では、企業は「右下がりの需要曲線」に直面している。これは企業が価格をコントロールできるが、もし価格を上げれば需要は減り、下げれば需要が増加するという市場環境に直面していることを意味している。この結果、この独占的競争企業は若干の独占力を有しているために、限界費用を超える価格を自ら設定することができる。この限界費用というのは、財やサービスを追加的に一単位製造するときに要する費用のことである。経済学ではこの「限界」的な単位で消費者や企業の選択を判断する。例えば、企業は売り上げ全体の動向と価格をみて供給を決定するのではなく、新たに一単位生産するときのコストとその販売価格の大小関係で意思決定を行う。
例えば『冬ソナ』のDVDを一冊追加的に生産するコスト(=限界費用)が1000円だとすると、この独占的競争企業は5000円で市場での販売が可能になるということである。限界費用と価格との差額は、この企業にとっての「マークアップ」(超過利潤とイメージしてもいい)を得ることが可能であることを意味している。この超過利潤の獲得を目的にして、多くの企業がこの市場に参入する。もちろん独占的競争企業は製品の差別化によってこの熾烈な競争に打ち勝とうとするだろう。独占的競争市場では、このような熾烈な競争の結果、長期的には利潤がゼロになることがしられている。そしてこのような熾烈な競争に生き抜くために、企業は製品の差別化をはかり消費者の需要を喚起し、その有効な手段とし広告やブランド戦略などを展開しているのである。
ところで独占的競争企業は価格設定を自ら行うことができるが、市場の動向に合わせて絶えず価格を変更しているわけではない。価格の変更に伴うコスト(メニューコスト)が発生するために頻繁に需要の変化に応じて価格を修正することはしない。そのためメニューコストを原因とする価格の粘着性が広く観察される。また価格を改訂する企業が増加するにしたがって、この価格の粘着性は緩んでいくと考えられている。この価格の変更に企業は今期の産出高ギャップをまず参考にする。これはいままでの議論では需要が供給よりも多いと考えられるならば企業は価格を上昇させるように改訂するだろう。また他方で将来のインフレ率の予想も重要である。なぜなら上記のマークアップは名目額よりも各企業はその実質値に注目すするからである。将来獲得したいと期する利益に将来のインフレ率の動向が大きくかかわるわけである。まとめると企業の価格改定行動は、今期の産出高ギャップと、来期の期待インフレ率に依存している。経済全体でみれば現在のインフレ率は期待インフレ率と産出高ギャップに影響される。この関係を表現したのがニューフイリップス曲線という。
さらに中央銀行の金融政策ルールをテイラールールの形で導入するのが一般的である。ジョン・テイラーはグリーンスパン率いるFRBの金融政策の行動を「テイラールール」という形で表現することに成功した。テイラーによるとFRBは産出量ギャップ(潜在産出量-現実の産出量/潜在産出量)とインフレ率に反応して利子率を設定しているというものである。テイラールールのもっとも古典的な形式は産出量ギャップとインフレ率を均等に重きを置いて考慮する政策スタンスを採り入れたものとなっている。
名目利子率=0.01-0.5(潜在産出量-現実の産出量/潜在産出量)+0.5×目標インフレ率
である。このテイラールールを用いると、産出量ギャップが0.01、目標インフレ率を0.02だとするとFRBは0.5%利子率を引き下げて、景気の後退を防ぐことがわかるだろう。このテイラールールはグリーンスパン率いるFRBの動きをかなりうまく説明することができるといわれている。
ところで中央銀行は経済にふりかかるさまざまなショックから国民の経済厚生を守るために行動するとみなされている。いま国民の経済厚生を最大化するような中央銀行を考えて、この中央銀行が考えている経済厚生の損失の最小化が、そのまま国民の経済厚生の損失の最小化になると考えるとしよう。中央銀行は国民の経済厚生の最大化(あるいは損失の最小化)をきちんとフォローできると考えるわけである。
このとき中央銀行の経済厚生を最小化するための目的関数を「損失関数」といい、これは簡単にいうと今期のインフレ率と今期の産出高ギャップを足したものである。この「損失」を下の(a)(b)(c)のもとで最小化するのが、この経済にとってもっとも望まれる=最適と考える。
(a)New IS曲線では、今期の産出量ギャップが(1)今期の実質短期金利と(2)来期の産出量ギャップの予想に依存する
(b) ニューフィリップス曲線では、今期のインフレ率が(1)今期の産出量ギャップと(2)来期の期待インフレ率に依存する
(c) 中央銀行は目標名目短期利子率を決めるにあたって(1)今期の産出量ギャップ(2)目標インフレ率を参照する。
ところで上の意味での最適な中央銀行の金融政策を考える上で重要なものが「コミットメント」である。これは中央銀行の金融政策の目標達成への力強い政策的態度をしめす言葉といえる。具体的な目標について責任を持って期間内に達成することを約束することであ。例えば未達成の場合には具体的な形で責任をとる(ペナルティをとる)と考えて同じで効果を発揮する。このコミットメントを行うことが経済で活動するさまざまな主体(家計や企業や市場関係者)の予想に影響を与える。
例えば、先の(a)のIS曲線では、今期の産出量ギャップが(1)今期の実質短期金利と(2)来期の産出量ギャップの予想に依存していて、さらに来期の産出量ギャップは(1)'来期の実質短期金利と(2)'来来期の産出量ギャップの予想に依存していて以下同様に…となると、結局、今期の産出量ギャップは将来の実質短期金利に依存することになる。ニューケインジアンは産出量ギャップの変動を経済変動で重視しているので、これは将来の金融政策のあり方(=将来の実質短期金利をどうするか)への予想が決定的に重要になるということになる。
「産出量ギャップ」という表現が苦手な読者は、消費者でいえば(借り入れのケースを含む)所得、企業でいえばマークアップと考えてみればいいだろう。いまのサラリーの額や企業の利益が中央銀行の現在から将来に向けての政策態度に影響されるというのがニューケインジアンモデルもわかりやすい含意だ。
このような将来が現在を規定するという考え方をフォワード・ルッキングという。このようなフォワード・ルッキングな経済構造では、経済主体の予想に影響を及ぼすコミットメントがいかに重要になるかが分かるであろう。
●出口条件を考える
さて出口政策の条件を考えるには上の(a)(b)(c)のもとで損失関数が最小化するように計算をしなくてはいけない。しかしここでは直観的な説明を行う。渡辺努・岩村充氏の『新しい物価理論』(岩波書店)で用いられた仮設例を利用したい。この仮設例の面白いところは上記までは顔を出していない長期利子率の動きをフォローすることができることである。現在の出口政策にかかわる議論が長期利子率のオーバーシュート(財政危機の拡大?)への懸念にあることを思えばその重要性がわかるであろう。ちなみに以下では金利の期間構造モデルを採用して、長期利子率は将来の短期利子率の予想値に依存していると考える。すなわち単純化して足元の長期利子率は、足元の短期利子率と次の期の短期利子率の単純平均とする。また産出高ギャップは長期利子率に反応すると考える。あとでわかることだが、長期利子率は短期利子率の予想へのコミットメントに誘導されて決定されるのでいままでの議論と同じである。
いま三期間(0,1,2期)を生きる経済を考えよう。第0期はデフレで流動性の罠に陥ってるとする。現代版の流動性の罠をバーナンキらは名目短期利子率がゼロ(=利子率の非負制約)であると考えている。そして第1期と第2期では経済が回復しているとする。このとき渡辺・岩村の仮設
>今、「期限までに目標のインフレを達成できなかったら、中央銀行の総裁は死刑になる」というえげつないルールを作ろう。そして、期限はあと一回の売買にかかっているとする。このとき国債を持っている国民はどうするだろうか。中央銀行は総裁の命がかかっているのだから、いくら高くても国債を買うはずだ。だとすれば国債の価格は無限大になってしまう。価格が無限大になる、ということは、ぼくの理解では、資産にハイパーインフレが起きたことではなく、モデルが破綻している、ということだ。つまり、均衡動学経路が存在しない、ということになる。
たぶん「モデルが破綻してる」という背景にあるのは、横断性条件。でも横断性条件が動学的最適化を解くときに必要かというと、必ずしもそうでもない。
横断性条件で目覚しい業績を上げている日本人が、明治学院大学の上東隆志。彼の"Simple Proof of Necessity of Transversality Condition"は動学的最適化を用いるマクロ理論家にとっては、一応読んでは置かないといけないリストに数えられる。まあ、証明自体がとても読みやすい。というかこれが読めない人はマクロ理論を理解する数学的能力に欠ける。リフレ派がほんとうにRBCだのSDGEだのを理解できるかはこれを踏み絵にすればよい。まあ、マニアックなんで、マクロについてきちんとした教育を受けてなければ知らなくても仕方ないが。日本語でも西村・福田編『非線形均衡動学』(東大出版会)に収められている。
ともかく、邦訳版で上東がまとめるところによると、横断性条件が必要になる十分条件としては
1)最適経路(*)全体を比例的に押し下げたときに、目的函数が-∞にならない
というのが挙げられるという。あくまで、上東自身の研究で分かってる十分条件に過ぎない。(つまり、横断性条件の必要性にとって必ずしも必要とも限らない。ややこしいな。)
しかし、少なくとも、児島さんの考えている「期限までに目標のインフレを達成できなかったら、中央銀行の総裁は死刑になる」というルールは1)を満たしていない。(実際、目的函数が-∞になるからこそ、中銀がいくらでも国債を買うのだろうし。)2)はまあモデルによるのだろうけど、大概利益函数が1次同次なら、簡単に静学的な均衡stationary eqm(つまり最適動学下でのrest point)までは明示的に求められそうな気がする。あとはそのrest pointの安定性くらいが問題か。
どうでもいいのだけど、ハリ・セルダンが「その乖離した地点から、均衡へ収束する経路」のことなら、通常それはsaddle pathと呼ばれており、日本では多くの場合「鞍点経路」という訳語を割り当てると思います。」というのは情報操作が過ぎるのじゃないか。たしかに数学的には「鞍点経路」が定訳で、またsaddle pathが決まった用語だけど、必ずしもそのsaddle pathが動学的最大化を満たす経路とは限らないので、別に「最適成長経路」だのなんだの言うときも十分にある。(場合によっては発散するような経路でも最適経路になることはある。資産の量kや価格\lambdaが無限大に発散しても、それが割引率で抑えられる限りは標準的な横断性条件exp(-\beta t) k_t \lambda_t =0を満たす。)
そして、「成長論」でなければ「最適成長経路」なんていうのは気持ち悪いから、他の用語、そう動学的な均衡ということで、「均衡動学経路」って言ったっていいだろう。(ハリ・セルダンのいう「均衡というのは通常、無時間だと矢野は理解している」というのもSDGEの文脈では意味がわからない。stationary equilibriumに絞るという意味か?よく物理屋がstationary eqmでないと「均衡」でないと経済学を非難するけど、経済学での均衡はrest pointというよりも、モデルの全式(需要=供給とか)がconsistentである、つまりモデルに出てくる方程式の解になっているという意味で使われる。だから、その方程式が動学的なもので、「未知数」が経路(時間tの函数)であるなら、「均衡」は当然に時間を含むものだが。stationaryだって、経路が時間tに対して一定というだけだし。えーと、マルコフにしたって同じように範囲を狭めてるだけだし。)
児島さんの最初の指摘である、バーナンキの背理法ではリフレ派の言いたい「国債買う⇒どっかで物価上がるさ」という命題を証明できない、というかそういうのに気づかないあいつらは馬鹿というのは賛同する。(つまり背理法で出てくる、「仮定された命題が偽である」っていったときに、「仮定された命題」をcompletely graspできないやつ。)
ただ、その「仮定された命題」としては、「均衡の存在」よりも、quantifierに重きを置いたほうが反証しやすいし、彼のひきつけたかったゲーム理論(複数均衡)に持っていけたんじゃないだろうか。つまり、こういうふうに言えばよかったと思う:
あたかもリフレ派はすべての解(均衡)で「国債買う⇒どっかで物価上がるさ」という命題が言えるとしてる。しかし、横断性条件も必要でないかもしれず、(経済学的には非現実的だけど)「物価上がらず無税国家が存在する」というのが均衡として否定できない。つまり矛盾は導けない。なので、国債を買い続けても物価が上がらないことだってあるかもしれない。
唯一の均衡が横断性条件を満たさない(つまり「すげえ」発散する解)なら、それはモデルがまずすぎるけど、複数均衡でならそういうのがあっても認められるだろう。
いずれにせよ、今回の「騒動」とやら(所詮はリフレ派ブログと崩れいちごで騒いでいるだけだと思うけど)は、背理法の論理もわからない馬鹿を挑発しすぎて、彼らの土壌に引っ張り込まれて、結果として自分の言いたいところと違うところで勝負させられて墓穴を掘ったように思える。そもそも児島自身もマクロ経済学者じゃないから、日本の現状がどうかなんていわれても困るだろうな。すげえマニアックなゲーム理論家というイメージがする。(どこかのSE崩れのブログで、「確率・統計」ではすごいなんて言ってたけど、それは教科書しか本当に知らないかわいそうな子。)今回言いたかったのはそれ以前の論理構造のことだろう。
まあ、マクロ経済学者が誰も出てこないあたりでこの議論は先が見えているのではないかと。ってか、加藤涼くらいしかいちごとかブロガーリフレ派にかまってるやつなんていないし。