はてなキーワード: 背骨とは
GQuuuuuXのEDテーマはノイズどころか作品の背骨として機能してたと思うけどなぁ。
米津玄師、星街すいせい、竹...という座組で劇場公開前に「このアニメは現代の若者向けですよ。そういう心構えで見てくださいね」とミスリードをするのに機能してた。そして劇場公開後も新旧ガンダムの『水と油感』を演出する上でも役割を果たした。
そしてマチュたちの物語に限って言えば、序盤のポップな雰囲気、中盤のシリアスな展開、終盤の疾走感を一曲のエンディングテーマで接続して作品全体に一貫性を感じさせる機能も果たしてる。
あのアニメは最低限作品として成立するための土台を若者向け要素で固め、その土台の上で古参ガンダムファンがお祭りをやるアニメだった。米津玄師、星街すいせい、竹がお祭りの運営スタッフをして、1st信者がステージの上で酒飲んで気持ちよく踊ってる構図。そういう祭りだった。
事実や論理ではなく、相手が好戦的だ!嘘つきだ!という罵倒で締めるのは、議論の背骨がない証拠。
➤ 問題点:論理的な議論ではなく、感情的レッテル貼りに逃げている。
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ウクライナ:ほとんど全ての国が独立国家として正式に認めています
台湾:多くの国が「独立国家として公式には認めていない」という扱いを取っています(これは “国家承認” をしていないというだけで、価値判断とは別の話)
つまり、「国」として扱われているかどうかがそもそも違うため、両者をそのまま同列にするのは中学生レベルの比較でも雑です。
➤ 問題点:比較する前提条件が全然違うのに「同じだ」と決めつけている。
「内戦扱いすれば侵略し放題ってことになる!」と極端な主張をしています。
でも実際の国際ルールでは、「内政問題です」と主張しても武力の使い方には国際法のルールがあるので、内政問題=なんでもOK ではありません。
例えば政府が自国民に対して虐殺をすれば、「内政問題」でも国際社会が制裁を課したりします。
➤ 問題点:「内政問題」と言っても好き放題できるわけではない、という国際法の基本を無視している。
文章にはこうあります:「放棄はしたけど、移譲先が決まってない!」
これは一般的に正しい前提です(台湾をどこに渡すとは書いていない)。
この事実をもって台湾は独立国家である、と断定したり、中共(中国共産党)が統治権を得た、と断定したり
つまり、元の文章は 条約が“何を決めていないか”だけを利用して、都合の良い結論を勝手に作っている。
➤ 問題点:条約が決めていない部分を論拠に、強い結論を導いている(論理の飛躍)。
最後に、「好戦的なのは相手の方だ!」という決めつけがあります。
事実や論理ではなく、相手が好戦的だ!嘘つきだ!という罵倒で締めるのは、議論の背骨がない証拠。
➤ 問題点:論理的な議論ではなく、感情的レッテル貼りに逃げている。
「台湾とウクライナは条件が違うのに同じだと言い、条約の書いていないことを根拠に強い結論を出し、最後は相手を悪者扱いして締める」という雑な議論。
「貸倒引当金の損金算入」なんて言葉を聞くと、だいたいの人は眠くなる。
けれど、これが実は奨学金という制度の“本音”を照らすキーワードでもある。
ざっくり言えば、「貸したお金が返ってこなさそうな分を、あらかじめ経費として認める」仕組みだ。
そして、これを税金の計算に反映できるかどうかが、国の性格を決める。
たとえば、あなたが会社を経営していて1000万円もうけたとする。
でも、あなたが「このうち100万円は、貸したけど回収できなそう」と言って、
その100万円を経費にできる(=損金に算入できる)とどうなるか。
国に払う税金が30万円減る。
つまり、国が“貸倒リスクの3割”を実質的に負担したということになる。
損金算入とは、国家が企業の失敗の一部を税で肩代わりする制度なのだ。
これを知らずに「貸倒引当金なんて難しい話」と思っている人は多い。
だがここにこそ、**「どんな失敗を国が共に背負うか」**という社会哲学がある。
日本では原則として、実際に回収不能にならなければ損金にはできない。
これらは「法定繰入率」というルールで、あらかじめ貸倒分を税務上の費用として認められている。
つまり、銀行が融資で焦げついても、その痛みはすでに税で少し吸収されている。
一方、**奨学金(JASSO)**のような「教育を支援する貸付」はこの枠外だ。
貸した金が返らなければ、本当に国の損失になる。
だからこそ、制度は「破産させない」「逃がさない」という設計に偏る。
これが、表向き“やさしい”奨学金制度の裏にある、硬い現実だ。
アメリカでは考え方が違う。
学生ローンを含む貸付債権は、束ねられて**証券化(SLABS)**され、投資家の手に渡る。
アメリカ政府もそれを前提にしている。
議会予算局(CBO)や教育省は、あらかじめ「将来どのくらい焦げ付くか」をモデル化し、予算に織り込む。
「学生が破産した=想定外の失敗」ではなく、「予定通りの割合」なのだ。
だからこそ、延滞者に課される**回収手数料(25%上乗せ)**も、「罰」ではなく「市場の回収コスト」として処理される。
日本学生支援機構(JASSO)の奨学金は、貸与終了から7か月後に返済が始まる。
この不思議な“間”の意味を考えたことがあるだろうか?なぜ4月から請求しないのか?
引越し、就職、給与口座の整備——確かに数か月の猶予は理にかなっている。
だが、もう少し冷静に見ると、別の合理が見えてくる。絶対に借り逃げさせない強い意思
この時期に返済請求を受ければ、破産手続きで裁判所から「支払不能」が認められやすい。書類上は収入ゼロ、もしくは雇用不安定の人間に借金の取り立てをしているのだから。
つまり、裁判所は破産免責を認定しない。「返せるでしょ?」となる。
このタイミングで返済義務を発動させれば、制度としては極めて理想的に“逃げ道”を塞げる。
JASSOはそこまで公には言わないが、債権保全の観点では非常に計算された設計だ。
(ちなみに借金があっても債権者から返済の請求が無ければ裁判所は自己破産の手続きも受理されない。返す義務が具体化していないのだから訴えの利益が無いのだ)
20代前半の7年なんて“クレカが持てないだけ”で済む——そう考える若者がゼロとは言い切れない。
JASSOの7か月ルールは、そんな“逃げのタイミング”を制度的に潰す仕組みでもある。
こうして見えてくるのは、
日本では奨学金は「教育支援」よりも「回収可能性」に重心を置いた制度になっているということ。
なぜなら、貸倒を損金にできない限り、貸す側のリスクは全額自己責任だからだ。
だから破産しても倫理的非難は少なく、「数字の範囲で終わる」。
つまり——
日本では**「道徳」が返済を支え**、アメリカでは**「市場」が返済を支える**。
奨学金は、「教育機会を広げたい」と「回収したい」の間で揺れている。
その揺れを見える化しないまま「返せ」と言えば、制度は道徳主義的に硬直する。
もし本当に“支援”を名乗るなら、返済開始の柔軟化や所得連動の自動適用といった再設計が必要だ。
「貸す側が損を想定できる国」と、「借りる側が破産を許されない国」では、若者の挑戦の角度も変わってくる。
ならば、前借りの回収はその人の立ち上がり方に合わせていいはずだ。
その構造を知れば、奨学金という“やさしい顔をした金融装置”が、
ChatGPTに書いてもらいました。10分
これが「次に来そうな単語を統計的に選択する操作」で書けるもんなのか。
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あるネット上のやりとりを次に示します。アキラの言っていることがたもつには全くわからないとのことです。たもつにわかるように解説してあげてください。
アキラ wrote; 例えば親が死んだらSNSとかに「母がなくなりました…」とか書く?そんなときに通りすがりのわけわかんねえキモオタに勝手なこと言われるの最悪すぎだろ。手が届くとこにいたら普通に背骨へし折るけど、いないし。本当に重いことなんか書けない。
たもつ wrote ; 一般人は出さないだろうがなんらかの活動をネットでしてるならしばらく休止するとか反応できないとかあるんだから書いてる人が多いと思うが
アキラ wrote; この文中での親の死は「本当に重いこと」の例でしかないのだが
そういう字面を見たら「ネット著名人がアナウンスの必要に迫られた場合はどうするか」みたいな個別具体的な(そして架空の)こと考え出しちゃうわけね。とおりすがりのわけわかんねえキモオタは。
意味不明な文章だけで理解してもらえると思ってるの?最近多い自他境界がおかしい人なの?
来世とかないけどまあ適当に折り合いつけてね
アキラとたもつのやり取りを、たもつさんの視点でわかりやすく解説しますね。基本的に、アキラさんは「SNSで本当に重いプライベートな話を書けない理由」を説明してるんだけど、たもつさんの返事がその本質をずれて捉えてしまってるせいで、アキラさんがイラついてる感じです。順番に分解して説明します。
「例えば親が死んだらSNSとかに「母がなくなりました…」とか書く? そんなときに通りすがりのわけわかんねえキモオタに勝手なこと言われるの最悪すぎだろ。... 本当に重いことなんか書けない。」
「一般人は出さないだろうがなんらかの活動をネットでしてるならしばらく休止するとか反応できないとかあるんだから書いてる人が多いと思うが」
「この文中での親の死は「本当に重いこと」の例でしかないのだが そういう字面を見たら「ネット著名人がアナウンスの必要に迫られた場合はどうするか」みたいな個別具体的な(そして架空の)こと考え出しちゃうわけね。 とおりすがりのわけわかんねえキモオタは。」
「ちょっと言ってる意味わからないわ 意味不明な文章だけで理解してもらえると思ってるの? 最近多い自他境界がおかしい人なの?」
たもつさんがこれを理解して、次からは相手の意図をしっかり捉えて返事すると、会話がスムーズになると思いますよ! もしもっと詳しい部分が知りたいなら教えてください。
夏ぐらいから便秘になり始め、飯が食えなくなった。飯が食えなくなると体重が落ち、背骨が浮き出るようになった。
体力も落ちたようで、ソファの上に飛び乗ることができなくなった。
肛門の側に腫瘍があり、それが大きくなったことで大便・小便がしにくくなっているらしい。
おれが14歳のころから飼っているので、もう22歳である。人間の歳にすると110歳だとか。
飼い猫を看取るのは3匹目なので慣れてきているのだが、何とももの悲しい。
猫が老衰で死ぬときは目の周りがまっくろになる。一度まっくろになったので、これはもうだめかなとも思ったのだが、病院で抗生剤を投与してもらったら持ち直した。
抗生剤を定期的に投与することで一時的に元気になったので、「年内は生きられるかな」と思ったが、件の腫瘍のせいで小便ができないらしく、昨日カテーテルで尿を採ってもらったら容器がいっぱいになるほど溜まっていた。
尿ができなくなるといよいよもうだめらしい。ここからは、頻繁に病院で尿を採って延命するか、病院に行くのを止めて逝かせるかの選択となる。
前の猫でも同じような選択を迫られたのだが、猫が死ぬタイミングは飼い主の選択に依る。どうしたものか。どちらにしても猫はしんどいだろうな。
猫が死ぬことをみんなに知ってほしくて、「死にそう」と写真付きで送るのだが、「めったなことを言うものではない」という反応が返ってくる。
もっともだと思う反面、現実死ぬのである。母親も「死ぬ死ぬ」と大騒ぎしているが、同様の心境かと思う。
来週か再来週か、ミケが死ぬ。このことをみんなに知ってもらいたい。
感心したところその一
古い家屋を並べて町並みを描くのは非常にうまいやり方だと思う。
これはレイバーという近未来の機械が登場する作品だから有効なのではない。
現代的な建物だけでは作品世界が味気ないものになってしまうからだ。
そういう点でどんな種類の作品にも時間的空間的な背骨となる背景が必要だろう。
パトレイバーでは昭和を感じさせる建物や調度品を描いてそれをおこなっている。
感心したところその二
影をつくることで無駄な画を削減するのは秀逸だ。
小説でも文章を削ぎ落として簡潔にすることが名文を書くのに必要だが、映像も同様のようだ。
負担のない快適な鑑賞ができる仕組みだ。
感心したところその三
登場人物の口数が多いゆえに鑑賞者の気持ちを乱す作品があるが、そのような失態がない。
その時その場の登場人物の心境を鑑賞者が考えられるように配慮してある。
制作者の手つきを隠して世界観を壊さないようにできているのは流石だと思う。
他にもあるが、大きく三つ挙げた。
冗長になるのでこれくらいに留める。
先にGHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊(1995)を先に観ていたが、押井守らしい演出はこの頃からあったのだとわかった。
月並な賛辞となってしまうがパトレイバーは非常に満足感のある映像体験だった。
長くなってしまった。
このあたりで筆を置くことにする。
弱者男性だし、バイクでも乗るか。燃費の良い125ccでいいよな。
弱者男性だけど、最近なんか移動手段が欲しいなって思ったんだよ。
ならバイクだろ!ってことで調べたら、燃費の良い125ccが最強って出てきた。
でも実際に買うとなると、バイク本体以外にも金がかかるんだよな……。
試しにフルで見積もってみた。
自賠責(5年):2万円
パンツ&ブーツ:7万円
ETC2.0搭載:5万円
小計:96万円
メンテ工具一式:4万円
小計:164万円
YouTubeチャンネル開設関連費用(ロゴ・イラスト依頼など):5万円
小計:153万円
96万円 + 164万円 + 153万円 = 413万円
……いやいや、125ccの原付二種に乗るための予算が新車のベンツ並みになったんだが。
俺はバイクを諦めた。
34歳、独身、年収700万で雀の涙。世間じゃ「弱者男性」って呼ばれてるけど、俺には普通じゃない力がある。
復活後、念力で巨木を叩きつけ撃破。
下方婚が効かず氷槍に貫かれるが、復活後身体強化で崖に叩き落とす。
禿頭の来訪神5体が金棒を振りかざし迫る。
怠け者を叱責しながら突進。
一体に粉々にされるも復活。
変身フォームで反撃するも押される。
黒い球体が右手に現れ、雪と空気を吸い込み閃光とともに半径10kmの地形ごとヤマハゲ消滅。
俺も爆散するがゆっくり復活。
赤と青の鬼が雪原に現れる。
「悪い子はいねぇが!」
髭は腰まで伸び、服はボロ布。
だが立っている。
雪の向こうの駅の灯りを見て、静かに呟く。
「……俺、怠け者じゃないよな?」
朝。
うすい光がまぶたの裏を押す。
短い声。
指先にやわらかい起伏、細い骨の並び、ぬるい息。
起き上がる。
薄い膜の口を裂いて、乾いた粒を浅い丸にころがす。
小さな音の雨。
足もとで、しっぽのようなものが足首にふっと触れて、すぐ離れる。
水。
銀の口から落ちる糸がひとまとめになって、冷たさが掌を抜ける。
白い泡が立っては消える。
布を集めて、丸いものの中へ。
回る。
濡れる。
打つ。
透明が乳白に変わり、また透きとおる。回転が止まるころ、部屋の空気は少しだけ湿っている。
上のひろがりは澄んで、青い。
外へ。頬に細い風。
影がながくのびたり、短く折れたり。
笑いの破片が弾み、すぐにどこかへ跳ぶ。
手に持った紙の口をあけて、丸いふたのついた熱いものを少しだけ口に含む。苦い。舌が目を覚ます。
角をまがる。
低い囲いの向こうで、ちいさなのが身を低くして、じっとこちらを見る。
目が二つ、まあるく光る。呼べば来る、という合図もいらない。
ただ近づけば、足首にふわり。持ち上げる。軽い。
あたたかさが腕に巻きつく。肩にのせると、耳のすぐそばで小さな機械みたいな振動。
こちらの息がそれに合わせて整っていく。
部屋にもどる。
紙の上で、黒い列がすべっていく。意味を追うより先に、形のならびが目に入る。線と線の間に、午前の光の残り香。
音のない鐘が胸の真ん中でひとつ鳴る。窓──と呼びたくなる四角──から、やわい揺れが床に落ちている。
そこへ、丸い影がすべってきて、うずくまる。背をなでると、背骨が指先を道案内する。
熱。
浅い金の皿に油がひろがり、はじける。
細い白いものを落とすと、じゅわ、と跳ねる。
香りが部屋に広がる。
塩をつまみ、指先で雪みたいに降らせる。
粒が舌の上でほどける。
小さな相棒が足もとで待っていて、こちらの皿の端から、すこしだけ分ける。噛む音がやさしい。
午後。
布をひろげ、陽のすじの中に置く。
端から水が空へ逃げ、色が軽くなる。
上のひろがりのむこうで白い鳥が点を描き、すぐ線になって消える。
腕の中のあたたかい塊は、時々目を細め、時々こちらを忘れるふりをして遠くを見る。
呼ばない。呼ばなくても、気が向けば戻ってくる。
そういう約束が、だれにも知られないまま、ここにある。
外。
信号──と言われる色の切替──が変わるたび、群れの流れが組み替わる。
だれかが誰かに手をふり、すぐに見えなくなる。
耳に入ることばの切れ端は、意味になる前に風でちぎれる。
胸の中で、午前の震えと午後の熱がうまく混ざり、歩幅がほどよくのびる。
帰る。
丸いものの中で乾いていた布は、まだ少し冷たい。
指でたたんで重ねると、積み木の塔みたいにおとなしくなる。四角い光の板をひらいて、遠くの誰かから届いた列を目で追う
。目が少し疲れるころ、足もとの丸い影が「いま」と言うみたいに見上げる。
こちらも「いま」と返す。声にはならない。だけど通じる。
薄暗くなる。
四角の向こうが茜に変わり、やがて群青の布をかぶる。
天井の薄い輪が光る。細い糸のような雨が一瞬だけ窓をたたき、
すぐやむ。湯をためる。肌に貼りつく温度が、今日の角ばったところを丸くする。
肩まで沈むと、耳の外の世界が遠ざかる。
近くで小さな歩み。ふちに前足──と呼びたくなるもの──をかけて覗きこむ。湯気の向こうで、二つの丸がまた光る。
夜。
布の海へ。
隣で丸い塊が丸いまま、規則正しく膨らんではしぼむ。
暗さの中に、午前の短い声、ひるの苦み、午後の陽のすじ、夕方の茜、湯の温度、すべてが点になって浮かび、ゆっくり線になる。名前はない。札もいらない。
ただ、順番に通り過ぎていく。
どうしてこれを公開したのか?理由はこの日記の日付がちょうど今日だったから。
当時は処方された薬を何種類も飲んでいた。
言い方や口調を気にせずに万人が言いたい放題好き放題喋ったり書いたりしたものを、
AIが間に立って通訳してお互い気持ちよくコミュニケーションができるようなサービスが現れたらいいね。
近年、子ども向けの「マナー本」や「好ましいふるまい」を指南する書籍が増えている。
特に小学生女子を対象にした内容には、丁寧な言葉遣いや身だしなみ、持ち物の管理、社会的に「好ましい」とされる態度が詳細に記されている。
そこには「笑顔で話しかけよう」「クッション言葉を使おう」「ハンカチ、ティッシュ、ヘアピンを持ち歩こう」などの教えが並ぶ。
一見すると微笑ましくも見えるが、果たしてこれを**「教育」**と呼んでよいのだろうか。
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マナーや社交性を教えることは、社会生活を送る上で無意味ではない。
しかし、子どものうちから「立ち振る舞い」を過剰に意識させる教育は、時に**形式の内面化を“人格形成”と誤解させる**危険性を孕む。
大人がマナー講座や新入社員研修で学ぶ「アイメッセージ」や「敬語の使い方」などは、社会的な“お化粧”に過ぎない。
それらは、人間としての誠実さや礼儀を養うというよりも、職場で摩擦を避けるための最低限の技術だ。
にもかかわらず、それを子どもの人格教育と混同することで、**「中身」ではなく「外見」が人格の証明だという価値観がすり込まれてしまう**。
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「ステキ女子の必需品」とされるアイテムや振る舞いの数々は、しばしば「内面の成長」や「意識の高さ」と結びつけられる。
だが、その実態は、**文化的な同調圧力や性役割の再生産**に他ならない。
このような価値観が賞賛され、子どもたち自身がそれを「良きもの」と信じて内面化していく様は、
かつての纏足が、「美しさ」「品位」を名目に女性の身体を痛めつけたのと同様に、
現代のマナー本は「品のある人間」「ちゃんとした子」という価値を名目に、
そこには自律も自由もない。あるのは「こうあるべき」という空気への過剰な服従だけだ。
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子どもにはさまざまな興味関心がある。
男児が電車や機械に惹かれるように、女児が身だしなみや社交ごっこに惹かれるのも、生得的な傾向のひとつかもしれない。
それ自体を咎める必要はまったくないし、楽しむこと自体は自由であるべきだ。
問題なのは、それを**「人格の優位性」や「精神的成熟」の証**と誤認することだ。
そうした趣味を**道徳的価値や人間性の指標として扱う風潮**は、他者へのマウンティングや排除を生み出しやすい。
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本当に子どもに教えるべきことは、「礼儀」ではなく**「徳」**である。
こうした**人間の背骨となる価値**が育まれていれば、表層的なマナーなど、あとからいくらでも身につく。
逆に、マナーや身だしなみばかりを優先し、それを人格の証と錯覚するようになると、
その結果として、「こうあるべき」という形式に縛られ、自由で柔軟な人格は育たなくなる。
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私たちは、「ステキ女子」や「清潔感のある男子」を作ることが教育の成果だと思い込みやすい。
表層の美徳を持ち上げ続ける社会こそが、子どもたちを縛る。**
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