はてなキーワード: 多元的とは
1. 基本コンセプト:秩序輸出論(Order‑輸出論)
劉仲敬は「西洋の国際秩序」がどのように東アジアにもたらされ、中国や周辺地域でどのように再生(=輸出)されたかを、1912年以降のおよそ百年間を通じて追跡します。本書では、
秩序の輸入:ウェストファリア体制以降、植民地化や不平等条約、国際連盟・国連体制など西洋発の国際制度が東アジアに持ち込まれたプロセス
秩序の輸出:中国や日本、共産主義運動が独自の「大帝国」モデルを再輸出し、周辺地域や内陸アジアに影響を及ぼしたプロセス
という双方向の流れを「秩序輸出論」として体系化し、従来の一方向的な「西洋化論」を批判的に改編しています
本書は序論+10章+結論で構成され、主な論旨は下表のとおりです。
章 節題の例 主な議論
序論 歴史神話の解体 東アジア史に残る「神話」を洗い出し、秩序輸入/輸出モデルの必要性を説く
第1章 秩序輸出論の理論モデル 秩序の流れを「入力→再構築→再輸出」という三段階のメカニズムとして提示
第2~3章 不平等条約と立憲運動 清末の列強侵入と、中華民国成立後の憲政・立憲論を「西洋秩序の部分輸入」と捉察
第4章 国民政府の模倣と限界 国民党政権における米英「外交・情報システム」の導入と、その矛盾
第5章 暗躍する世界革命 20世紀前半、コミンテルン/レーニン主義が東アジアに「革命秩序」を輸入した事情
第6章 世界革命の失敗 冷戦末期のソ連・中国・米台間の「非公式同盟」と、台湾戦略地位の低下を分析
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第7章 冷戦体制の安定と裂け目 『台湾関係法』以降の米台中三角関係を、「秩序の柔性規訓」と捉える
第8章 改革開放と秩序の再輸出 鄧小平以降の中国が「市場経済+自党支配」をセットで周辺に拡散した構造
第9章 新大国の興隆と東アジア秩序 21世紀初頭の中国台頭を、再び「大帝国モデル」の輸出兆候として描く
第10章 多元連合体としての未来 「諸夏主義」の萌芽を示し、東アジアの多元的秩序共存の可能性を展望
結論 歴史神話の刷新 中国の建国神話と党国語りを脱構築し、新たな地域秩序を提示
3. キー・セクションの詳解
◇ 第6章「世界革命の失敗」
主張:レーニン主義・スターリン主義の「世界革命」モデルは、社会を敵―味方に切り分け、一気呵成の破壊と軍拡を標榜したため、結局は内部消耗を招き、外部への拡張も継続できず頓挫した。
台湾戦略地位の低下:1970年代、米中ソの三角関係で台湾は米国秩序の「柔性規訓(技術支援・情報協力)」に依存するだけの立場に転落。南ベトナムと同様に「前線国家」から外され、戦略的価値を大きく失ったと解説します 。
◇ 第8章「改革開放と秩序の再輸出」
主張:鄧小平以降、中国は市場主義と一党支配を「パッケージ輸出」し、途上国や内陸アジアで「経済的自由+政治的統制」モデルとして受け入れられた。
意義:ソ連型共産主義とは異なる「中国モデル」の国際的地位を確立し、東アジア秩序に新たな亀裂を生む。
主張:東アジアを複数の「文明圏(夏)」が緩やかに連合する多元的秩序として再編する可能性を探る。これが後の「諸夏主義」理論の根拠になります。
4. 本書の意義
歴史神話の脱構築:従来の「中国一貫史観」「西洋単線的近代化論」を批判し、歴史を多層・多元的に再読解
地域秩序の相互依存性:西洋と東アジア、中国大陸と海洋諸国の相互影響を「秩序の輸入/輸出」で可視化
日本の保守派言論人は、安全保障や経済・技術の現実的リスクを重視し、「中国」という単一の大国モデルに立脚して警戒を表明します。一方で劉仲敬は中国を多様な文明圏(諸夏)の集合と捉え、中央集権的な「大中華」神話の解体を理論的に唱えます。このため、表面的には「中国への警戒」という点で共通しますが、日本の言論人が問題とする「中国の脅威」を、劉はより深層の歴史構造として捉えています。日本の言論界が打ち出す防衛強化や経済安全保障策に対し、劉の文明圏論は政策の根拠として理論的裏付けを与え得る――こうした点で両者は補完的です。ただし、劉の抽象的・学究的アプローチは大衆向けの論調とはやや距離があるため、直接の協業や共同声明のような即時的連携には向かないというズレもあります。
米国の対中論者は、覇権競争や人権問題、貿易・軍事面での衝突を中心に据え、「自由主義陣営対オーソリタリアン体制」という価値対立を前面に出します。劉仲敬もまた米中を対立する二つの文明圏とみなし、その構造的必然性を指摘する点では親和性があります。特に「中央集権的な中華体制は民主化できない」とする劉の見解は、米国側の「中国は変われない脅威」という議論を学問的に補強します。しかし、米国言論人が提唱しがちな軍事同盟強化や経済制裁の即効策に対し、劉はむしろ中国内部の多元自治・分裂を促す戦略を示唆するため、手法論では差異があります。長期的視野での「文明共存」を標榜する劉の立場は、米国の短期的・戦略的思考とは一歩引いた関係と言えます。
台湾の言論人は、自国の主権と民主制度を守る切実さゆえに、感情的かつ愛国的に「中国の統一圧力」を批判します。劉仲敬もまた「一つの中国」を虚構と見なす点で共鳴し、台湾を独立した「夏」の一つと評価します。そのため、理論的には台湾側が狙う「国際社会への承認」や「軍事的抑止」よりもさらに深い歴史文明論を提供でき、台湾のアイデンティティ確立を裏付ける哲学的支柱になり得ます。ただし、台湾の現実主義的な安全保障・外交路線(米中間を巧みに泳ぐ戦略)に対し、劉の「中国解体」的アプローチは極端と受け取られることもあるため、政策レベルでの直結性は限定的です。
香港の言論人は「一国二制度」の破綻や言論弾圧を肌で感じ、切実かつ直接的に自由・法の支配の回復を訴えます。劉仲敬が香港を独立した文明圏と認め、その自治・文化圏を尊重する立場は、まさに香港民主派の理念と合致します。特に「中央の約束は脆弱」という劉の批判は、香港人が経験した裏切り感に理論的言い訳を与えるものです。反面、香港の言論は目の前の弾圧と闘う実践性が強く、劉の長期的・理想的な「多元的連合体」像は今すぐの救いになりにくいという難しさがあります。しかし精神的支柱としては大きな共鳴を呼び、思想的な結びつきは最も強いと言えるでしょう。
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項目 劉仲敬の特徴 反中言論人(日本・台湾・香港・米国)との違い 相性・補完性
思想的深さ・視点 歴史的文明圏論、多民族多元連合体「諸夏主義」重視。単なる政治対立を超えた根源的構造分析。 多くは政治・安全保障、人権、経済的現実問題を中心に議論。歴史文明論は浅め。 劉の深層分析は反中言論の理論的補強になるが、専門的すぎて一般には難解。
対中理解の複雑さ 中国を多元的・多民族的に理解し、「大中華主義」への批判が中核。 中国を一枚岩的に「脅威」「敵」として捉える傾向が強い。 劉の多面的理解は、単純化しがちな反中論にバランスを与える補完的役割。
政治的スタンス 中央集権的中国体制の解体や分散自治を理論的に支持。 国家主権の擁護、民主主義や自由の防衛を最優先し、現実的安全保障を重視。 方向性は共通点多いが、劉は思想的根本からの変革を目指すため、即応的政策とはズレる。
言論スタイル・トーン 学術的で理論的、やや難解。思想的な枠組みを重視。 感情的、実践的、政治的に切迫感を持つ言論が多い。 相互補完的だが、劉の思想は一般大衆向けには敷居が高い。
対象読者・影響範囲 知識層・思想層や特定の専門家に影響力が強い。 広い大衆や政策決定者、国際社会に向けた発信が多い。 劉の理論は反中言論のバックボーンとして有効だが、直接的な大衆動員には向かない。
国際的視点 東アジア・多文明圏の長期的多元秩序を志向。 国際政治の現実的なパワーゲーム、同盟関係や地政学重視。 補完関係が強いが、劉はより長期的で理想的な多元共存を目指す傾向。
まとめ
劉仲敬は思想的に深く、多文明圏や歴史の長期的視点から中国問題を分析し、単純な対立を超えた理論的枠組みを提供。
日本・台湾・香港・米国の反中言論人は、より現実的かつ政治的・安全保障的な問題に焦点を当てることが多い。
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劉仲敬は中国の中央集権的な大中華主義や中華民族統一神話を強く批判し、分裂・多元的自治を支持します。
日本の反中保守派も中国の拡張主義や政治的圧力を警戒し、対抗姿勢をとることが多い。
劉仲敬は歴史・民族・文明圏の視点から中国問題を解釈し、単なる政治的対立を超えた深層分析を行う。
反中保守派は政治的・安全保障的な観点が強い場合が多く、劉の文明論や「諸夏主義」は知識の補完として有用。
3. 相違点・注意点
劉仲敬の思想は中国内部の多元性や複雑さを強調し、単純な「中国=敵」とは異なる多面的な理解を促す。
一部の反中保守派は中国全体を単一的な脅威とみなす傾向があり、そこはやや視点の違いとなる可能性がある。
劉仲敬の多文明圏論や分散的連合体の視点は、反中保守派が中国の多様性を理解し、より戦略的かつ柔軟な対処を考える上で役立つ。
逆に反中保守派の現実的な外交安全保障の視点は、劉仲敬の理論を現実政治に応用する際の具体的枠組みとなりうる。
まとめ表
項目 劉仲敬思想の特徴 日本の反中保守派の特徴 補完関係・相性
対中姿勢 大中華主義批判・多元分散支持 中国の脅威警戒・対抗姿勢 共鳴点あり
理論的深み 文明圏・歴史・民族視点での複雑分析 政治・安全保障中心の現実主義的対応 知識補完的な価値が高い
中国理解の多面性 多文明圏の多様性を強調 単一的な脅威認識が多い場合あり 視点の違いに注意が必要
政策応用 理論的・思想的枠組み 現実的外交・安全保障政策 互いに活用しあうと効果的
劉仲敬の思想は日本の反中保守派と一定の親和性があり、知識や視点の補完関係として非常に有用です。ただし、思想の複雑さゆえに単純なイデオロギーとして受け入れるよりは、柔軟に多面的に活用するのが望ましいです。
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劉仲敬の考える「脱中華」とは?
劉仲敬は「中華」や「中華民族」という概念を政治的な神話・プロパガンダとみなし、それに基づく大中華主義的な国家統一観念を根本から解体・脱却することを指します。
「脱中華」とは、単一民族・単一国家の「中華」幻想から離れ、歴史的に多様であった地域や民族の独自性、多文明圏の多元的連合体に戻ることを意味します。
脱中華は中央集権的な中国帝国体制や共産党一党独裁体制の否定であり、地方・民族ごとの自治や独立、多元的な政治秩序を追求します。
「脱中華」は単に現代中国から離脱するだけでなく、数千年続いた中国の帝国支配や皇帝制度の終焉を示唆し、地域文明の分散と多様化を目指す思想です。
劉仲敬の「脱中華」は、台湾独立やチベット、新疆、内モンゴル、琉球(沖縄)などがそれぞれの文化・政治的主体性を回復することにも繋がり、中国の一体化・統一神話に対する根本的な挑戦と位置づけられます。
まとめ
「中華」概念の解体 中華民族・大中華主義の神話・政治的プロパガンダを否定
多元的文明圏(諸夏)への回帰 単一国家モデルから、多民族・多文明圏の多元連合体へ移行
中央集権体制の否定 強権的な中央集権政治から地域自治・多元政治への転換
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劉仲敬の米中対立観
米中対立は単なる二つの大国の争いではなく、文明圏や政治体制、価値観の衝突であるとみなしています。アメリカは多元的で分権的な自由主義体制を代表し、中国は中央集権的な大中華主義体制を代表しています。
劉仲敬は中国の体制が歴史的・文化的に中央集権を基盤としており、民主化や自由主義への移行は極めて困難だと考えています。そのため、米中対立は長期化しやすい構造的対立とみます。
中国を単一国家として強大化させることを抑制するため、劉仲敬はむしろ中国の多様な民族・地域の自治や分裂を促すべきだと示唆します。これにより、中国の中央集権体制の支配力を弱める戦略的効果を期待しています。
アメリカは個人の自由や民主主義を軸にする文明圏、中国は秩序と統一を重視する文明圏として、それぞれ異なる価値体系を代表し、これが対立の根本原因とされます。
劉仲敬は対立の構造的必然性を認めつつも、複数の文明圏が共存・連携する多元的秩序の構築を理想としています。そのため、単純な軍事衝突ではなく、複雑な政治的折衝や調整が必要とみます。
まとめ
ポイント 内容
米中対立は文明圏・価値観の対立 自由主義・分権(米)vs中央集権・統一重視(中)
中国の中央集権体制は変わりにくい 歴史的・文化的に強固な中央集権体制で民主化は困難
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香港は歴史的に中国本土とは異なる植民地時代を経て、独自の法制度や文化、社会構造を築いてきました。劉仲敬の「諸夏主義」の視点では、香港は中国大陸の一部というよりも、独自の「夏」として考えられます。
香港の「一国二制度」は中国共産党が一時的に認めた独自の政治・法制度ですが、劉仲敬はこうした中央政府の約束が根本的に脆弱で、最終的には大中華主義的な中央集権によって押しつぶされる運命にあると見ています。
反送中デモは、香港の独自性や自由を守ろうとする動きであり、中国本土の中央集権的体制との衝突を象徴しています。これは単なる政治運動ではなく、文明圏の違いがぶつかる構造的な問題と解釈されます。
劉仲敬は、中国共産党が漢民族中心の「中華民族」統一神話を強化し、香港の独自文化や言語(広東語)を抑圧する動きを批判しています。これは広義の文化弾圧であり、結果として反発が生まれているとみます。
彼は香港が中国本土と同一視され続けることに疑問を呈し、香港を含む地域ごとの多元的自治や連合の形態が模索されるべきだと示唆しています。
まとめ
ポイント 内容
香港は独自の文明圏(夏)の一つ 中国大陸の一部ではなく独自の歴史・文化圏として評価
一国二制度は中央集権的圧力で揺らぐ 中央政府の約束は脆弱で、最終的には中央集権が強まると予想
反送中デモは文明圏間の対立 香港の自由・独自性を守ろうとする運動は文明圏の違いの表出
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劉仲敬は台湾を中国大陸の一部として一律に扱うのではなく、歴史的・文化的に独自の文明圏として捉えています。つまり、台湾は中国の周辺の亜流や単なる「一県」ではなく、独立した文明圏のひとつです。
台湾には漢民族系だけでなく、原住民や後からの移民、そして独自の言語文化があります。こうした多様性が台湾を単なる中国の一部とは異なる存在にしています。
劉仲敬は中国共産党の「一つの中国」政策や「中華民族」統一神話を批判し、台湾の独立や自治は「自然な歴史的帰結」と見る傾向があります。
彼は台湾の民主化や自由主義的な政治体制を評価し、中国大陸の中央集権体制とは別の政治文化圏として尊重しています。
劉仲敬は琉球や新疆、チベットなどもそれぞれ独立した「夏」として評価しており、台湾も同様に多元的な文明圏の一つであると位置づけています。
まとめ
台湾は独立した文明圏(夏) 中国の一部ではなく、歴史的・文化的に独立した存在
多民族・多文化の融合体 原住民や移民など多様な民族・文化が共存している
中国中央政府の統一神話を否定 「一つの中国」政策を虚構・政治的神話とみなす
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劉仲敬の「諸夏主義」の枠組みでは、中国大陸以外の地域も「夏=文明圏」のひとつとして考えられます。日本は、長い歴史と独特の文化を持つ独立した文明圏であり、単なる中国文明の周辺地域や亜流ではないという立場です。
日本は歴史的に中央集権国家をつくりながらも、中国のような広大な多民族帝国の形態は取らず、島国ゆえの文化的独立性と地域分権的な要素が強いとみなします。
劉仲敬は東アジアの地域間関係を文明圏同士のバランスや連携とみることが多く、日本は中国大陸の複数の「夏」の間で独自の影響力を持ち、特に琉球や朝鮮半島、台湾などとも複雑に関係してきたと評価します。
中国の「中華民族・中華帝国」の統一神話に対し、日本は独立した文明圏としてその政治的・文化的な影響力を保持しているため、一定の意味で中国の主張や影響に対抗する存在と見ています。
劉仲敬は直接的に現代日本の政治や社会を詳細に論じることは少ないものの、東アジアにおける「多元的連合」の一員として、日本の多様性と独自性を重視し、地域の安定や文明の共存に貢献するとみなしている可能性があります。
まとめ
日本は独立した文明圏(夏) 中国文明の亜流ではなく、独自の文化圏・文明圏
中央集権的多民族帝国ではない 島国の独立性と地域分権的な特徴を持つ
諸夏主義(しょかしゅぎ)とは?
「諸夏主義」は劉仲敬が提唱した概念で、中国大陸を「単一の中華民族国家」としてではなく、複数の独立した文化圏・文明圏(=夏)からなる連合体とみなす思想です。
「夏(か)」とは?
「夏」は古代中国で自分たちの文明を指す言葉ですが、劉仲敬はこれを「文明単位」「文化圏」として広く解釈しています。
つまり、中国の歴史や現代社会は、複数の「夏」が共存・連合している状態と見るのです。
諸夏主義の核心
中国は多様な民族と文化の集合体で、複数の独立した「夏(文明圏)」が歴史的に共存・連合してきた。
国家としての「中華人民共和国」はこの複数の文明圏の一時的・人工的な統合体にすぎず、永続的な統一はありえない。
各文明圏は自立し、緩やかに連携し合う多元的な政治体制をつくるべきだ。これが「諸夏主義」の理想形。
「大中華主義」のように漢民族中心で国家統一を求めるモデルを否定し、多様性と自治を尊重する。
中国における「中華民族」や「中華人民共和国」の統一神話を批判し、現実の多様な民族的・文化的状況を反映させた新たな政治思想。
地域主義的な分散・自治を支持し、中国の分裂や再編成を予見・促進する思想として注目される。
台湾、チベット、新疆、内モンゴル、さらには琉球(沖縄)や満州なども、それぞれ独自の「夏」として考えられる。
まとめ
夏(文明圏)の複数存在 中国は複数の文明圏・文化圏が共存している
単一民族・単一国家モデルの否定 漢民族中心の大中華主義は作られた神話でしかない
多元的連合体の形成 各文明圏が独立自治しつつ、緩やかに連合する形が理想
https://anond.hatelabo.jp/20250727120239
項目 従来の中国反体制派(民主派・自由主義派) 劉仲敬の主張
中国の国家観 既存の「中華人民共和国」を民主的に改革、民主化すればよい 「中華人民共和国」という国家枠組み自体が人工的で非現実的。中国は多民族の連合体として再構築・分裂すべき。
民族観・統一観 「中国は一つの民族(中華民族)としてまとまるべき」ことが前提 「中華民族」は政治的神話。実態は複数民族の多元集合体。単一民族国家を否定。
体制批判の焦点 一党独裁・権威主義体制の民主化、自由化が目標 体制批判は根本的。中央集権国家の崩壊・多元的な地域分裂・自治を推奨。
未来のビジョン 民主主義中国の実現(西洋型民主主義への接近) 「諸夏主義」などの地域文明単位による緩やかな連合体形成。国家・民族の固定観念の解体。
歴史観 中国は長く続く統一国家であることを基本に認めている 中国史は分裂と連合の繰り返し。単一連続的な民族国家の歴史は作られた神話。
対国家態度 中華人民共和国を乗り越えるための改革や革命を志向 国家そのものが時代遅れで解体を視野。新しい地域単位の多元的な秩序を目指す。
国際関係観 国家主権尊重、国家としての中国の民主化を目標 国家の枠組みを超えて地域間の多様な連携や自治を重視。国家主義的ナショナリズムを否定。
具体的に言うと…
従来の反体制派は「共産党独裁を民主主義に変える」「言論の自由や法の支配を確立する」といった改革を求めます。これは「中国という国家を良くする」ことが前提です。
一方、劉仲敬は「中国という国家がそもそも巨大な神話であり、漢民族中心の大中華主義は虚構」とし、「国家や民族の概念自体を分解し、多様な民族・地域が緩やかに連合する新しい秩序を作るべき」と主張します。
つまり、従来の民主化運動が「国家の改革」を目指すのに対し、劉仲敬は「国家の枠組みの破壊と再構築」を提唱しているのです。
なぜ彼の考えはユニークか?
伝統的な中国の「民族統一」観や「国家主権」を根本的に疑っているため、単純な民主化論や自由化論では解決できない根本問題を突きつけている。
本レポートは、日本の放送における政治的中立性という長年の課題に焦点を当て、その具体的な実態、資金源と権力の関係性、そしてデジタル時代の情報環境の変化がもたらす影響について、多角的に考察したものである。特に、電波が公共の財産であるという日本の特殊な放送構造と、それに起因する固有の課題について深く掘り下げるとともに、諸外国の事例やブロックチェーンの概念を交え、情報信頼性確保に向けた論点を提示する。
日本の放送法第4条は放送事業者に「政治的に公平であること」を義務付けている。この「公平」の解釈は長年議論の的となっており、現状では量的公平(ある候補者に報じた時間を他の候補者にも同程度割く手法)が広く採用されている。
「公平」の多様な解釈
日本の放送は、受信料で運営されるNHK(日本放送協会)と、広告料で運営される民間放送に大別され、それぞれ異なる構造的課題を抱えている。
民間放送は広告収入に依存するため、以下のような形で政治的中立性が脅かされる懸念がある。
NHKは受信料で運営されるため広告主からの直接の影響を受けない一方で、政治との根深い関係性が指摘される。
ガバナンスの強化や透明性の確保は、国民の監視が伴って初めて実効性を発揮する。日本の政治資金問題が示すように、監視の目がなければ問題は放置されうる。
諸外国における取り組み
他国では、政治資金の透明性確保やメディアの独立性確保のために様々な制度的アプローチが試みられている。
ブロックチェーンの概念は、情報の透明性と改ざん困難性という点で、政治資金やメディア報道における情報信頼性確保の可能性を秘めている。
最大の課題は、「フェイクを流すことで利益を得ようとするモチベーション」が、「正しい情報環境を守ろうとするモチベーション」よりも往々にして高いという点である。センセーショナルなフェイクニュースは速く拡散する(ベロシティが高い)のに対し、事実確認や訂正は時間と労力がかかる(ベロシティが低い)。このモチベーションの非対称性が、健全な情報環境の維持を困難にしている。
日本の放送における政治的中立性確保は、放送法の解釈、資金源、そして政治との構造的な関係性という複数のレイヤーに課題を抱えている。諸外国の取り組みやブロックチェーンのような技術的解決策は参考になるものの、それらはあくまでツールに過ぎない。
最終的に、健全な情報環境と民主主義を維持するためには、国民一人ひとりのメディアリテラシーの向上、そして政治やメディアに対して不透明な部分を批判的に検証し、声を上げていく「不断の努力による監視」が不可欠である。技術と人間の努力が組み合わさって初めて、情報の信頼性が担保される社会が実現されるだろう。
この返答には複数の深刻な論理的誤謬が含まれており、議論の質を著しく損なっています。以下、主要な問題点を体系的に分析いたします。
科学的実験における統制変数の概念を社会的価値判断に不適切に適用している点が重要な誤謬です。科学実験では測定可能な変数を統制して因果関係を特定しますが、人間の価値や尊厳は測定可能な変数ではありません。社会的価値判断は複雑な文脈的要因を考慮する必要があり、実験室的な単純化は適用できません。この類推は表面的な類似性に基づく誤った論理です。
「差をつけない」という表現を「価値がない」と再定義する論理は根本的に欠陥があります。社会における平等な扱いは、異なる属性や行為の価値を否定するものではなく、個人の基本的人権と尊厳を等しく認めることを意味します。例えば、職業における平等な処遇は各職業の社会的価値を否定するものではありません。この論理は意図的に概念を混同させています。
「以外に解釈できない」という断定的表現は、論理的分析ではなく修辞的強制に該当します。実際には、出産の社会的価値を認めながら個人の人間としての価値を出産能力で判断しない立場、多元的価値観に基づく個人評価、貢献の多様性を前提とした社会的包摂など、複数の合理的解釈が存在します。単一の解釈を強要することは論理的思考の放棄です。
「AIは馬鹿でポリコレ汚染されてる」という表現は、議論の内容に対する実質的な反駁ではなく、論者の属性や背景を攻撃することで議論から逃避する手法です。これは議論の本質的な問題に対処することを回避し、感情的反応を通じて相手の信頼性を損なおうとする典型的な詭弁手法です。
## 二項対立の強化
この返答は依然として複雑な社会的問題を単純な二項対立に還元しようとしています。人間の価値や社会的貢献は多次元的であり、単一の基準による判断は現実の複雑性を無視した過度の単純化です。
この返答は、表面的な科学的権威を借用しながら、実際には論理的厳密性を欠いた議論を展開しており、感情的な攻撃を通じて実質的な議論を回避する詭弁構造を示しています。
子の付き添い入院を経験してそれを何かの形にしたいと思っているのだけれど、その「形」とエスノグラフィは8割くらい被ってる気がする。「当事者研究」とも近い。
この本は、私が付き添い入院と付き添い入院の間、数ヶ月の在宅治療中に、「なんかメンタルが整うような本ないかな」と思って立ち寄ったスーパーの中にある本屋で、めぼしいものが見つからず、「じゃあ新しい学びでも得るか」と立ち寄った新書コーナーで見つけた本だ。「エスノグラフィってなんだっけ?」と思って手に取ったが、初めて知った言葉だった。
買って一日で読み切ってしまった。
この本では「エスノグラフィとは何か?」という問いに対し、冒頭に結論となる文章が書かれている。初見では分かりにくい文章だが、その中で登場するキーワードを、各章で細かく説明する形で理解を深めていくようになっている。
私の感想もその文章の各キーワードについて、「付き添い入院中に私がやってたのってエスノグラフィなのかな〜違うかな〜」など、思ったことを書いていく。
その文章の説明をするところの前に「はじめに」と第一章の「エスノグラフィを体感する」があるので、そこの感想。
エスノグラフィは社会学の一部らしい。私は社会学部卒だったのでこの本を手に取ったのも必然だったか、という気持ち。あとこの「はじめに」の中に「在宅酸素療法」という言葉が出てくるのにも驚き。子がまさに酸素療法中だったので、「空気って大事なんだな」って話に非常に縁を感じた。
賭けトランプと棺の話面白い。ざっくりこの辺まで立ち読みして買うのを決めた。
『エスノグラフィは何も隠されてはいない、ありふれた日々の「生活を書く」ことを基本にします』。付き添い入院が行われている小児病棟は、隠されているわけではないけど、限られた条件の人しか参加できない。ただ、そこでは少し変わってはいるものの確実に生活が営まれている。
フィールドで見た場面と研究主題の接続:これが私の書きたいこととエスノグラフィの違い。私特に主題っぽいものを持ってない。「貧困」とか「差別」みたいな。多分。問題意識はあるんだけどそれをいま書いて訴えたいかと言われると、ちょっとピントがズレる。
フィールドと自分の普段の生活を二重写しにみる:これはそう。付き添い入院を知らなかった私には戻れない。
フィールド調査の十戒:これは基本的に「部外者」としての考え方だ。「当事者」として病棟にいた私が、より理性的に振る舞うために何が必要だったか考えさせられた。寛大であることと関わる人を中傷しないことは難しかった。私は「奪われた」寄りの人間だったから、無駄に奪われないために戦う必要があったし、中傷もした。「そういう考え方もあるね」と俯瞰することもないではなかったけど。フィールドの文化と歴史を知るために調べて歩き回ることは意識した。付き添い入院がどういった背景で行われているのか調べ、実際に入院する前に病棟の見学もさせてもらった。情報があまりにも少ないことが不安を生んでたからだ。偉そうにしないこととただの見学にならないように記録することも「部外者」の発想だと思う。
書くことについては、私は完璧に考えがまとまってから書くのでも、書きながら考えが立ち上がってくるのでもなく、考えた端から書きつけていかないと気が済まないタチ。不安や怒りといった感情とこれからすべきことは何かといった思考が絡まった状態で脳内にあるので、言語化して要らない感情は捨てて、必要な思考を拾い上げていく。整理してまとめ上げるというよりは断捨離。
章間にあるコラム全部面白い。ストリートコーナーソサエティの付則が面白いって書いてあるのと似てるかもしれない。
エスノグラフィは、経験科学の中でもフィールド科学に収まるものであり、なかでも①不可量のものに注目し記述するアプローチである。不可量のものの記述とは、具体的には②生活を書くことによって進められる。そして生活を書くために調査者は、フィールドで流れている③時間に参与することが必要になる。こうしておこなわれたフィールド調査は、関連文献を④対比的に読むことで着眼点が定まっていく。そうして出来上がった⑤事例の記述を通して、特定の主題(「貧困」「身体」など)についての洗練された説明へと結実させる。
妊娠中に子が先天性心疾患を持っていることがわかった。付き添い入院の必要があることが分かったのは生まれて1か月が経ったころ。2か月で手術をし、付き添い入院が始まり、4か月で退院した。現在子は7か月で、この先もう一度、手術と付き添い入院の予定がある。そしてその母親である私は、大変な記録魔である。それも、数字の記録はあまり続かず、起きたことを起きた時に感情と共に記録することを、携帯が普及し始めた学生時代からずっと続けてきた。そのため、子の病気に関することや私の生活についての数千件にも及ぶメモが分単位で記録されている。これは、不可量のものが記録されたフィールドノートになるのか?
客観化の客観化:エスノグラファーが研究対象に参加しようと努力するのに似て、私は自身や自身の置かれている環境を観察できるよう、自分の心から離れた位置から事象を捉えようと心がけてたように思う。発生時点では一人称的な見方になるし、ショックも受けるが、落ち着いたら、相手の立場に立ったり、制度面での欠陥がどこにあるのかを考えたりもした。冷静になりたかったし、付き添い入院で経験したことを有益にしたかった。
この章に出てくる市について『2024年の能登半島地震で被害に遭った地域にある』との記述を見て驚く。待ってこの本いつ出たの?2024年9月!!??出版されて一年経ってない本を私はいま手に取って「やべ〜めっちゃ今私が知りたかった視点だ〜」とか思ってるの!?「いまーここ」すぎる。
私が付き添い入院中記録していたことは100%これだ。事件もあったが、日常をひたすら記録していた。というか、育児日記を書いているママは大勢いるから、生活を書いている人はたくさんいるんだろう。参与ではなく当事者研究に近い行い。
アフリカの毒については、退院後の外来で、他のママが「あの環境って独特ですよね。なんか連帯感というか」となんだか楽しげに言っていたのが印象深い。子の命が懸かっているので、アフリカのように無限に往復したい場所ではないのだが、そこを無視すれば、一種の寮のような共同生活は他にはない体験ができる場所だ。具体的にどこがとは言いづらいが、非常に「日本的」だとも感じた。
フィールドを『問題地域としてのみみなすような態度を取らない』ことは、付き添いが始まる前はどうしてもできなかったことで、始まってみて「どこにいようが日常は続くな」と思うようになったことを思い出した。ちょっと石岡先生の言いたいこととズレてる気もする。
ここで『かわいそうでもたくましいでもない』という記述がある。かわいそう、たくましい。この二つは患者家族がめちゃくちゃ言われる言葉トップ2だ。そうね。かわいそうだし、たくましくもある。そのあっさい感想で、あっさい関係性の人たちについてはもういい。だがもうちょっと地に着いた、実際どうなの?というところを知りたい人に対して、私はものを書きたい。この記述太字で書いてあって、後半にも出てくるから、先生の中で通底してる考えなんだろうと思うととても嬉しい。
部落の話を通じて「いまーここ」を見つめようという話は、目を逸らしたい気持ちだった。自身の中にもいろんな偏見があって、正すべきだとわかっているけれど、今ちょっとそんな余裕がない。ごめん。の気持ち。
エスノグラフィで記述されるのはすでにあるものって話も、私を勇気づけるものだった。こんな当たり前のこと書いてなんになるんだろうと思うような話ばかりだが、丁寧に調べて書けば、論文にすらなるんだと思うと心が晴れた。
買ってから気づいたのだけど、この本には挿絵が入っている。印象的な場面やキーワードをページ一枚のイラストという形でも表している。図表は一個もない。大学教授が自身の研究と参考文献を大量に提示した、論文に近い新書でこの形式はとても珍しいと思うが、文章だけでなく絵で切り取ってみるのも、エスノグラフィが一つの事例を深掘りし、「何が」を調べるものではなく、「いかに」を調べる学問であるという説明を強化しているなあと思った。
その場に見学者としているだけではなく役割を持って参加することを持って「時間に参与する」と表現しているようだ。私は当事者なので参与も何も、強制参加させられて日常に帰ってきたのちに、「あの経験をエスノグラフィにできないか?」と、入り口ではなく出口としてエスノグラフィを使おうとしている立場である。
参与観察はもう少ししたかった。他の家族がどうやって子を看病しているか、一日のスケジュールがどうなっているか、経済状況、家族構成、抱えている困難。知り合いになった結果面倒ごとを押し付けられそうで、退院が確定するまで(いざとなったら逃げられる状況になるまで)他者を詮索するリスクを取れなかった。逆に言えば退院が決まってからはめっちゃ人と話した。
この本を読む以前に私がやってきたことがエスノグラフィ(というか研究)じゃないのはここだなあと。大学時代にやったことだが、研究には先行論文を読むステップが欠かせない。ただ単に「これってこうだと思うんですよ!」だけじゃダメで、「この論文ではこう言ってて、この研究ではこういう結果で、でも自分はここの部分はこう思ってて。で実際調査してみた結果がこれ。ね?あってるでしょ?」みたいな。
そして今日この本を読み終わって思ったのが、「この本を読んだことで、私のエスノグラフィ始まったんじゃない?」ということ。まあ当事者なので完全にエスノグラフィにはならないし、仮説を立てるとか主題を持つとかする気はないのだけど、この部分はエスノグラフィっぽい、ここは違うな、と「対比的に読んだ」ことで、ただの雑記が、研究や分析みたいな深みを得そうな気配がした。
それ以外にも「対比的に読む」ことはしていて、いま書こうとしているのと同じ媒体の、似たタイプの作者の書いたものを大量に読んで勉強している。書きながらやっているので、自分がぶち当たっている壁をどう解決しているのか教えてくれる最良の教科書として機能しているし、自分が書くもののどこがユニークなのかを都度確認もしている。
あとここで先生は『容赦なく書き込む』ことを推奨しているので、ここで初めてマーカーを手に取った。私は本を汚している感じがして書き込みをしない。けど、書いた人がそうしてというなら遠慮なくそうする。「はじめに」に書いていてほしかったな。なんでこんなど真ん中で…。先生の言うように初読の読むペースの時間的経験の中で重要と思われる部分にマークしていくべきだった。珍しく凄まじいスピードで読んだから、この文章を書きながら再読している時の咀嚼感と全然違う。
対比的に読むことがデータをつくることに関連している:一回目の付き添い入院は初体験だったので新鮮な驚きや緊張感で乗り越えられた気がするが、待ち受けている二回目に向けてのモチベがなくて困っていた。どういった姿勢で臨むべきか決めかねていて。そんな悩みに光を差す記述として、『フィールドで得た漠然とした問題意識を明確にするために文献を読み、着眼点を得て、その着眼点、気づきを持ってフィールドに戻って、「データをつくる」ためにインタビューやフィールドノートの記述をするのだ』(要約)と書いてありました。なるほどな〜と。二回目もやはり逃げられる状況になるまで他者のインタビューはリスキーではあるけれど、とりあえず一回目の振り返りをして、二回目はどんな記録をしていきたいか見定め、関連資料を探すことをしようと思う。
私は日常を書きたいだけで主題がないので、この章は自分のやってることとはちょっと違うかなということが多かったのだけど、主題があるとすればできることはあるなあと思った。前章の対比的に読むことや、社会学の文脈で書くこともそうだし、比較するのではなく、対比することもそう。
子の闘病において、病棟で暮らすことと、家で暮らすことのほかに、「外来」という場所がある。退院後も月に一回程度はその病院の外来に足を運んで検査をするし、外来を重ねてまた入院することもある。病棟にいるとよく聞く会話に「外来来るよね?」というものがある。最初耳にした時はそんなこと確認してなんになるのかと思ったが、別の日、外来に来た母親が病棟にも顔を出すというので、病棟の外に大量の母親たちに、なんと医師と看護師と病棟保育士まで集合しているのを見た。主題を「人間関係」とかに置いた場合、「病棟」と「家」だけで見たら抜け落ちてしまうものがこの「外来」という場所にありそう、対比して調査する場所として必須なのではと感じた。外来もまた病棟とは違った、独特な空気感を感じる場所である。
時間的予見を奪う:これは私に取って大きな学びだった。本書ではフィリピンの立ち退きに遭ったスラム住人の例が挙げられていたが、付き添い入院もこの困難を抱えていることを自覚したからだ。付き添い入院は始まる時も終わる時も未定で、予告されるのが数日前だったりする。病気を抱えているから当然だと思うだろうか?では、その入院する病棟が、盆正月やGWといった長期休暇にはガラガラになることを知っても同じ感想を持つだろうか?病気の子を人質に医療者の都合が押し付けられているのだ。あーあ書いちゃった。まだ治療が続くので今は敵に回したくないんだけど、気づいたら書かずにはいられない性分で。先の見通しが立たないことは病児看護において日常になる。生まれてから、治療が終わるまで、年単位でスケジュールが未定になる。純粋に病気のせいの部分もあるが、先に書いたように医療者の都合による部分が確実にあるにも関わらず、それは私たちには容易には分からない上、付き添い入院は「家族がどうしてもやりたいっていうからやらせてあげている」ていになっているので、余計にストレスが溜まる。この気づきを得たのは大きかったな。
病棟が長期休暇になると患者が減ることは他の家族のインスタで知った。付き添い入院において背景や論理を知ることは難しい。先にも書いたように詮索することで子の手術や看護といった医療サービスが適切なタイミングや質で受けられなくなるかもしれない不安が付きまとうからだ。医療者の側から観察できればいいのだけど。もしくは保育士や清掃員とかで入るのもいい。
ある人々にとっての現実の把握:この、たった一つの真相を知るでもなく、多元的な見方をするのでもなく、バイアスがかかっていることを自覚しながら観察するのは、当事者としてもいい見方だなと思った。私は当然患者家族であるので、その立場からものを見て言いますよと、自省的なのか開き直りなのか分からない姿勢にも自信が持てるというもの。
ミクロな視点からマクロを見る:付き添い入院がマクロにまで射程が届く研究対象なのは明らかだろう。付き添い家族をターゲットにしたNPOあるくらいだし。一方でその実態は泣く子と眠れない夜を明かし洗濯をし食器を洗いシャワーを浴びて食事をする、とても地味でありふれたミクロな場面の連続だ。
ルポルタージュとの違い:エスノグラフィは時間の縛りがない事がルポとの違いらしい。なるほど。昨日『ダーウィンが来た』で、動物写真家がシロイワヤギを40年追っかけてるっての見たけど、そっちと近いんだろうか。文学とも重なる感じ。先生も書いてるけどエスノグラフィは「読み物として面白い」ものが多そう。まだ私一冊も読んでないけど、本書で引用されたものだけでも十分面白かった。けど、「研究」でもあるので、主題と紐付けて研究結果が出てくるところが、エッセイやルポとの違いだろうか。エッセイでも面白いものはそうした「発見」みたいなのはちょいちょい見る気がするけど。社会学の文脈にびたびたに浸って先人たちのあれやこれやを紐づけまくってその上に自分の見た事象からの発見を記載できればエスノグラフィなのかな。知らんけど。ここは明確な区切りがわからなかった。
長文の研究計画書を書くって書いてあったけど、そこに何書くんだろう?私は主題はなくてフィールドが強制的に決められて問題意識(不平不満)と記録は大量にあるわけだけど、大学生とかは、①エスノグラフィというものがあるのを知り、②「子供の貧困について研究したい!」とかって主題を決め、③エスノグラフィで調査しようと決めて、④主題と関係が深そうなフィールドを探して(こども食堂とか?)、⑤主題に繋がりそうな場面に遭遇しないかな〜と思いながら参与観察するみたいな感じだろうか。やりてえ〜大学生に戻って。
研究とお金の話は文系も理系も似たような感じだな〜と思った。応用研究は金出るけど基礎研究にはなかなか出ないし長期での研究も難しいみたいなの話。
私が今付き添い入院をフィールドにエスノグラフィができない理由はここまで書いた通りで、問題意識を表出すると角が立つからだなあ。当事者は奪われる側なので。できない分ここで社会学の視点からみれそうな表現で問題意識については書いたつもりなので、誰かやってください。ほんとはやりたいよ。今すぐ石油王になって付き添い入院病棟を全て個人産院並の、シャワートイレ冷凍冷蔵庫付きで親と子それぞれのベッドがある広めの個室にして、食事もついて、付き添い保育士を外注できるようにして、その病棟の看護師と患者家族全員が参加 Permalink | 記事への反応(2) | 17:51
A:それにしても、この「<法>の支配」って何なんですか?なんで法に<>付けてるんでしょう?
B:あー、それは従来の法律だけじゃなくて、ガイドラインとかアルゴリズムとかも含めて考えようということらしいですね。
A:でもそれって、結局誰が決めてるかよくわからないルールに従えってことですよね?普通の法律なら国会で決めるから、気に入らなかったら選挙で文句言えますけど、業界の申し合わせとかアルゴリズムって誰が決めてるんですか?
B:まさにそこが問題なんです。実はこの「<法>の支配」って、報告書では「アップデート」と言ってますが、歴史的に見ると完全に逆行してるんですよ。
A:え、どういうことですか?
B:法の支配って、800年以上かけて発展してきたんです。最初はゲルマンの部族法みたいな慣習から始まって、マグナカルタで成文化されたけど、あの時点ではまだ貴族の特権でしかなかった。
B:そうです。でもそれが本当に意味を持つようになったのは、近代になって議会制民主主義と結びついてからなんです。国民が選んだ代表が法を作り、司法が政府をチェックする。これで初めて一般市民の権利も守られるようになった。
A:なるほど。それが本当の進歩だったんですね。
B:ところがこの「<法>の支配」は、その核心部分である議会制民主主義と司法審査制から切り離されてるんです。「マルチステークホルダー」とか言って、選挙で選ばれない人たちに権限を分散させている。
A:それって、昔に戻ってるってことですか?
B:そうなんです。中世の領主や教会、商人ギルドが、それぞれ勝手にルールを作って支配していた時代と同じような多元的支配に戻ってる。近代国家が統一的な法秩序を作り上げたのに、また分散させようとしてるんです。
B:それが巧妙なところなんです。「新しい」「革新的」という言葉で包装してるけど、実際は前近代への退化なんです。しかも司法審査制も形骸化させようとしてる。
A:どういうことですか?
B:裁判所がアルゴリズムの適法性なんて審査できますか?技術的に無理でしょう。結局、司法によるチェックを回避する仕組みになってるんです。
A:つまり、「法の支配」の民主的な部分を取り除いて、支配の部分だけ残そうとしてるってことですか?
B:まさにその通りです。法の支配が「人の支配」「力の支配」を克服してきた歴史的意義を完全に無視してる。800年の進歩を無駄にしようとしてるんです。
A:怖いですね...。「アップデート」の名前で、実際はダウングレードしてるなんて。
B:そういうことです。市民にとっては何が「法」なのかもわからなくなるし、法的安定性も予測可能性も失われる。これのどこが進歩なんでしょうね。
実績ってシステムは「しゃぶりつくしたい」人のためにあるから、現実的にしゃぶりつくすことが不可能なら気にならなくなる
コンテンツが潤沢に更新されていき(運営型)、楽しみ方が多元的なゲーム(オープンワールドやMMO)であれば、実績システムへの耐性をつけられると思うんだ
ってことでつい先日the gamescom award 2024 Best Mobile Gameを受賞した原神をやろうぜ
全運営型ゲームの中で一番と言えるほどアップデートの質・量が凄まじい作品だから普通にコンテンツ食い尽くせないほどあるせいで
https://store.playstation.com/ja-jp/pages/browse
個人的にはPCかPS5でやったほうがいいと思うがPS4でもできるよ
俺もアラフォーおじだけど元々この年代のネトゲおじさんにぶっ刺さってたタイトルで、今は若い子の比率も増えてるけどね
まあ別の解法として当然、複数のゲームを並行してプレイすることで実績埋めよりも他ゲーを進めた方が楽しい状況を作るって手もある
でも実績システムのないゲームだけやるってのは、現代のゲームはほとんど類似システムがある都合上、古いゲームしかできなくなるのでおすすめできない
顔の美醜だって実際は多様でしょう、2つの軸に見えるけど、全然単純じゃない。
単純な顔立ちでいっても、爬虫類系とか小動物系とかたくさんあるし、
本人の就いている職業だったり、時代だったり、人生の在り方でも見え方は変わるわけで、
要するに、そういった要素が美醜に集約されるというのが一元的な評価の問題点だと思うんですよね。
かわいいと社会性の差は結局、お茶の間で言語化されているのかいないのかという話でしかないんじゃないでしょうか?
「仕事ができそう」とか、近い言葉はあるんですが、もっと強烈な単語ができれば解像度も上がってくると思うんです。
あと、取り扱われ方で近いのは(さっき僕がつついてしまったけど)「収入」というのがあります。
ちなみに僕は上野千鶴子嬢の、「カワイイの反対はイケメンじゃない」というのは賛成ですが「多元的な価値があるからイケメンといってもいい」は反対です。
どうすればイジメがなくなるか,について。
まず,集団を管理している人間が,犯罪行為を許さない,というはっきりとした態度をしめすのが重要です。上でも,罰するのは教師と警察の役目だろ,というコメントがありました。その通りで,見て見ぬ振りではなくそういう人たちへの報告なり通報なりが,本来まわりのとるべき態度です。で,管理者はそれを黙殺しないで適切に対応する義務があります。
あとは個人的な意見ですが,イジメが発生しやすい集団の特徴として,構成員の多くがその集団のみに固定的に属している,というのがあると思ってます。小学校のクラスとか,ブラックで業務外の生活がほとんどない企業とか,地方の集落とか。このような環境では,発生したストレスが逃げ場を失って,すぐに集団の一番弱い部分への攻撃になります。一方,所属する集団を自由に変更できる状況では,イジメは発生しにくい。なので,多くの集団に多元的に所属し,しかも所属する集団を自由に変更できる状態になっているというのが大事なのかな,と思ってます。
地域とか、国とか、企業とか、団体とか、あらゆるものにそれは存在する。
まとめニュースなんかで悪い見方を吸収して「○○って××なんでしょ」という印象を容易に固めてしまうのは、情報リテラシーの問題だが、そういう過ちをあらゆるトピックにおいて1つもしていない人間は存在しないだろうな。
悪意的な見方とかいう段階ではない誰の目にもやらかしと思える事例・事実だとしても、そういうものばかり取り上げあげつらうような情報摂取では偏屈になる。
その上、上記のような、「これは明らかなやらかし、事実だろ」と思えるような取り上げ方をされていることでも、実際には野次馬ではない有識者から見たら多分に悪意をもって語られている記事が世の中には多いことにも注意しなければならない。人間はよく分からないものには無意識のうちに悪意を盛り込んでしまうものだ。
そもそも、差別という単語で表現してしまうことは、「差別だ・差別じゃない」の善悪二元論に単純化されてしまうからよくない。
偏見かどうか、という見方をすることで、情報の広さや深さが足りていないんじゃないか、という多元的なものの見方に踏み入っていくことができる。
SNSで「マスクでウイルスは防げない」という話がSNSでバズっているが、これはどこまで本当なのだろうか。根拠とされている記事やそのソースを読んでみた。
https://www.yoshida-pharm.com/2018/letter128/
マスク着用群とコントロール群に分け、マスク着用群では発症者が他の家族と同じ部屋や限られた空間(車の中など)にいる場合にマスクを着用することを5日間実施しました。その結果、調査期間中に家族がインフルエンザ様症状を示した割合は、マスク着用群は16.2%、コントロール群は15.8%で有意差はなく、マスク着用による感染予防効果は認められませんでした。
家庭内のみでの調査なので、外出時のマスク着用の効果についての根拠としては弱い。家庭内なら食事や歯ブラシ等を介した飛沫感染の影響が大きすぎるのではないか。
医療従事者32名をマスク着用群17名、非着用群15名に分けて77日間、咽頭痛、鼻水、咳など風邪症状を記録する調査が行われました。(中略)風邪症状の重症度に有意な違いはなく
この部分に関してソースの論文を確認した所、各群から感染者が1人だけしか出ず、結論として、マスクの効果の有無を実証するには、より大きな研究が必要だ、と書かれていた。マスクの効果がない事のソースとしてこの論文を出すのはおかしいのではないか。
サージカルマスク着用を義務付けただけでは有効な予防効果はなかったと報告されており、多元的な対策効果を検討する必要があります
ソースが閲覧できなかった。
N95マスク群で48名(22.9%)、サージカルマスク群で50名(23.6%)のインフルエンザ感染が生じ、マスクの種類による感染予防効果の差はみられなかった
N95マスク(微粒子用マスク)と一般的なマスクとで差が無かったという話。今回の話と関係がない。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68435
インフルエンザウイルスの直径は0.1マイクロメートルぐらい、一方、通常のマスクの網目は10マイクロメートル以上だからです。つまり、マスクの網目はウイルスの100倍以上も大きいのです。したがって、空気中を漂うウイルスをマスクだけで防ごうとするのは無理です。
健栄製薬のインフルエンザ感染経路に関する記事によると、"インフルエンザは飛沫感染します。空気感染はしません"、"空気感染する感染症は結核、水痘、麻疹の3つだけです"だそうだ。他にもインフルエンザの空気感染を否定する記事が大量に見つかった。もしインフルエンザが空気感染しない(≒ウイルスは空気中を漂わない)のであれば、インフルエンザウイルスの直径がマスクの網目より小さかろうが関係ない事ではないか。
ただし、くしゃみのように、飛沫の中にウイルスが含まれている場合には、マスクが飛沫をひっかけてくれる可能性があります。しかし、感染した人のくしゃみを直接浴びるようなことは少ないので、実際のマスクによる感染予防効果はかなり低いものと考えていいでしょう。
厚生労働省の咳エチケットによると、"くしゃみをするとき、しぶき が 2m ほど 飛びます"だそうだ。自分の周囲2メートル以内の人がくしゃみをする可能性は無視できるほど低いのだろうか。
行動主義はJ.B.Watsonが最初に提唱した心理学の哲学だ。この哲学は、現代では下火のように見なされてたり、あるいは棄却すべき対立仮説のように扱われることが多い。
しかし、実際には認知心理学者、あるいは認知科学者が槍玉にあげる行動主義は、誤解に基づくものか、そうでなくても「その行動主義を自称している行動主義者は現代にはいないよ」と言わざるをえないような藁人形論法であることが少なくない。
そこで、行動主義の誕生から現代的な展開までの歴史について、ごくごく簡単にまとめてみようと思う。
Watson の基本的な主張は、ご存知の通り「心理学の対象を客観的に観察可能な行動に限る」というものだ。
当時の心理学は Wundt の提唱した「内観法」を用いて人間の持つ「観念連合」を記述する、というものであった (余談だが、内観法は単なる主観報告ではない。これもよくある誤解である。Wundt の提案した心理学は、繰り返しの刺激に対し、同じように報告するよう徹底的に訓練することにより、人間の持つ感覚の組み合わせについて首尾一貫とした反応を得ようという研究方針である)。
Watson が反対したのは、Wundt の方法論である「人間の自己報告」を科学データとすることである。それに代わって、刺激と反応という共に客観的に観察可能な事象の関係を研究の対象とすべきであると主張した。Watson は Pavlov の条件反射の概念を用いれば刺激–反応の連関を分析可能であるし、人間の持つ複雑で知的な行動も刺激–反応の連鎖に分解できると考えた。
また、情動や愛のような内的出来事は、身体の抹消 (内臓や筋肉) の微細運動から考察された。Watson の心理学が「筋肉ピクピク心理学」と揶揄される所以であるが、現代の身体性を重視する心理学・認知科学を考えると、(そのまま受け入れることはできないにせよ) あながちバカにできない部分もあるような気がする。
さて、認知心理学者、認知科学者が批判するのは多くの場合 Watson の行動主義である。場合によっては、次に登場する Skinner と Watson を混同して批判する。
注意しなければいけないのは、Watson の行動主義の立場を取っている行動主義者は、この地球上にはもはや存在しないという点である。従って、Watson 批判は歴史的な批判以上の何物でもなく、現代の科学の議論ではない。
では、行動主義を自認する現代の研究者が寄って立つ立脚点は何なのか? その鍵になるのが、Skinner の徹底的行動主義である。
Skinnerは、Pavlov の条件反射を「レスポンデント条件づけ (いわゆる古典的条件づけ)」、Thorndike の試行錯誤学習を「オペラント条件づけ」として区別し、概念、および実験上の手続きを整備した。そのためあってか、Skinner は20世紀で最も影響力のある心理学者 1 位の座についている。
Skinner は、科学の目的を「予測 (prediction)」と「制御 (control)」とした。ここでは説明しないが、そのためにの強力な武器として概念としては「随伴性 (contingency)」、方法論として「単一事例研究」などを導入した。 彼の心理学は他の心理学とは大きく異なる用語法、研究方法を持つため、「行動分析学」と呼ばれる。
徹底的行動主義では、Watson が扱ったような客観的に観察可能な「公的事象」に対し、「私的事象 (ようは「意識」のこと)」もまた、同様の行動原理によって説明できると主張した。つまり、内的出来事も「行動」として捉えられる、ということだ。文字通り「徹底的」に行動主義なのである。実際に、Skinner の著書の中には「知覚」「感じること」「思考すること」といった、内的な事象についての考察も多く、それらは行動分析学の重要な対象であるとはっきりと述べている。
逆に Skinner が反対したのは、「心理主義的な説明」である。心的な活動は実在するし、それ自体研究の対象ではあるが、「心的な活動によって行動が駆動される」という因果的な心理主義に対しては、Skinner は反対であった。つまり、「原因としての心的概念」の導入に反対したのだ。この点を間違えると、Skinner を完全に誤解してしまう。
ただし個人な見解としては、行動分析学はほとんど顕在的な行動以外実際には扱っていないし、扱うための具体的な方法論を発展させてもいない。そこに関しては批判を免れないとは思う。
行動分析学の他に重要な特徴として以下の 3 つが挙げられる。
なお、帰納主義については「え?でも科学って演繹と帰納の両輪で回ってるんじゃないの?」と考える人もいるかもしれない。
Skinner は「行動について我々は知っているようでまるで知らない。そのような若い科学にはまず、具体的なデータが必要なのだ」と考えた。そのため、Skinner は環境 (刺激) と反応の間の関数関係のデータの蓄積を重視した。
つまり、あくまで当時の知的状況を鑑みての方針だったということは重要な点だ。
ちなみに、Skinner は自身の徹底的行動主義と区別するため、Watson の行動主義を「方法論的行動主義 (methodological behaviorism)」と呼んでいる。
また、次に述べる Skinner の同時代の行動主義も、同様に方法論的行動主義とまとめられることが多い。
Watson のアイデアを発展的に継承したのは Skinner だけではない。
ただし、Skinner 以外の新行動主義に与している研究者は、現代には皆無なので、あくまで歴史的な展開として捉えるべきである。
Guthrie は刺激と反応の間にできる連合は「時間的接近」によって生じることを述べた。また、Hull や Tolman と異なり、心理学の研究対象は客観的に観察できる行動に限定すべきであるという姿勢は堅持した。
Skinner と大きく異なる点として、Hull は「仮説構成体による演繹」を重視した。「習慣強度」という潜在変数を導入したモデルを考案し、その潜在変数の挙動の変化により行動の予測に挑戦した。
Hull の研究の問題点は、いたずらに潜在変数をいくらでも増やせてしまい、理論が肥大化する危険をはらんでいるためである。特に Hull や Skinner の時代は、行動に関するデータがまだまだ少なく、行動研究には強固な地盤がなかったのである。Skinner は「理論は必要か?」という論文で理論研究を批判していているのだが、Skinner が批判したかったのは Hull の心理学だったのである。
Tolman は刺激と反応の間に「仲介変数」を導入した心理学者だ。いわゆる S-O-R の枠組みである。彼は「潜在学習」の研究によって、「学習」と「成績」は必ずしも一致しないことを見出した。そのことから、刺激と反応の間には、それを仲介する隠れた変数がある、と考えた。
Tolman からすると、「感情」「期待」といった内的な出来事も、刺激と反応の間に存在する仲介変数である。
現代の視点で見ると、認知心理学の下地になるアイデアを提出したのが Tolmanだ。
ところで、Tolmanと地続きである認知心理学もまた、徹底的行動主義の立場からすると方法論的行動主義に立脚した心理学である。そう、私たち現代心理学徒のほとんどは、意識せずとも方法論的行動主義者なのだ!
なぜか?認知心理学でも、公的事象と内的事象を分ける。内的事象には直接アクセスできないので、公的事象の「操作」と計測を通じて内的事象の研究をする。公的事象の操作 (実験条件) を通じて、内的事象の定義を行う。これは、Stevens-Boringの「操作主義」と呼ばれる。操作主義では、操作と計測の対象は公的事象であり、内的事象については「研究者間での合意」に基づいて議論される。つまり、例えば「この条件によって反応時間に変化があったら、作業記憶に影響があったということにしようね」というのが、研究者集団によって暗に共有されている、ということだ。これが、認知心理学が「方法論的行動主義」と呼ばれる所以である。
1980年代以降、Skinner の弟子筋の研究者たちの間で、Skinner 以降の行動主義を巡って、研究方針が多様化しつつある。その中でも最も影響力のある 3 つについて、簡単に紹介したい。
Skinner の行動分析学はプラグマティックな科学であると言われているが、実は Skinner 自身は表立ってプラグマティズムに述べていたわけではない。例えば、近い時代を生きたパース、ジェームズ、デューイを直接引用して主張を行なっていたわけではない。一方、Heyes の機能的文脈主義の特徴は、Skinner の徹底的行動主義の持つプラグマティズムをより明示的に推し進めた点にある。
Skinner は心的概念を導入することを否定した。私的出来事 (内的過程) は外的な行動の原因ではなく、それ自体独立した行動として捉えるべきだと考えたためだ。また、心的概念による説明は、行動分析学の目的である予測と制御に寄与しないと考えたことも一因である。
Heyes の場合、そのような概念でも、予測と変容 (influence) に寄与する場合は、十分に有用であると考える。
具体的には、「態度」を測る質問紙研究が好例だ。質問紙で測る「態度」は Skinner であれば「質問紙に回答行動」として見なされる。しかし、Heyes の場合「そのような研究の問題点は、測ったところで、実際の行動を変容させるための操作変数が同定できないことだが、最終的に行動の予測と変容を目指すという目的がぶれない限り、足がかりとしては有用である」と主張する。
このような、伝統的な行動主義と比較してある意味で軟化した態度を、Heyes は「行動主義心理学の自由主義化」であると述べている。
少し脇道に逸れるが、Heyes は行動の「制御 (control)」とは言わず、「変容 (influence)」と表現する。これは、「制御」だと決定論的に操作できる印象を受けるが、実際の行動には確率的な変動性が必ずついてまわるため、表現を柔らかくする意図である。
また、機能的文脈主義では、研究の真偽の真理基準にも明示的にプラグマティズムを導入している。
行動主義の科学には必ず目的がある (多くの場合、それは現実の問題解決と結びついているが、そうでないものもある)。Heyes の標榜するプラグマティズムは、目的にかなうかどうかが、研究の真偽を決める、ということだ。
これは、「うまくいけばなんでもok」という主観主義ではない。問題解決としての科学として、発見というよりは創造のプロセスで知見が生まれるということだ。ただし、解決されるべき「目的」の方はどうしても恣意的にはなってしまう、と Heyes は述べている。
巨視的行動主義の特徴は以下の 2 つにまとめられる。
(1) 分析単位として「随伴性」ではなく「相関性 (correlation)」
Skinner はレスポンデント条件づけは刺激−反応という 2 項随伴性、オペラント条件づけは刺激–反応–刺激という 3 項随伴性によって定式化し、随伴性こそが考察されるべき基本単位であると考えた。
巨視的行動主義は、そうは考えず、よりマクロな「強化子–反応率」の相関性が行動主義心理学の分析単位であると主張している。
つまり、ミクロな刺激と反応の関係を捉えるよりも、マクロな環境と行動の関係を捉えることを重視しているのが、巨視的行動主義である。
行動主義心理学の目的を予測と制御に置くならば、結局はマクロな記述で十分であり、その方が有用であるというのが彼らの主張だ。
Skinner は外的な行動とは別に内的な出来事もまた行動として捉えられると考えた。巨視的行動主義ではそうは考えない。
彼らは、内的な出来事を「潜在的な行動 (covert behavior)」と呼んでいるが、心理学はそれを直接対象とする必要がないと論じている。なぜなら、潜在的な行動が実際に効力を持つならば、最終的には顕在的な行動 (overt behavior) として表出されるためである。
このことを彼らは「時間スケールを長くとる (temporally extended)」と表現している。瞬間瞬間に我々には豊かな精神活動 (mental life) があるが、それを相手取らなくても、長い時間観察すれば、観察可能な行動として現れる、ということである。
Staddon の主張は、他の行動主義と大きく異なる。彼の場合は、心的概念の導入を許容する。そして、それを用いた「理論」こそが心理学に必要であると考えた。その点は、実験結果から法則を抽出する帰納を重視した Skinner の立場とは異なる。また、「心的概念による説明」は Skinner の反対した「原因としての内的過程」でもあり、それを採用する点も Staddon の特徴である。
行動主義心理学の目的は、予測と制御だけではなく「説明」にもあると彼は主張した。Staddon の言う「説明」とは、概念同士の関係によって、現象を記述することである。わかる人にとっては、David Marr の「アルゴリズムと表現」の位置に心理学を位置づけている、と考えればすっきり理解できるように思う。
Staddon はやや言葉遣いが独特で、概念連関による記述を「メカニズム」と呼んでいる。そのメカニズムは必ずしも生理学的基盤を前提しないで、あくまで心理学的レベルでの記述である。
ようは、行動のアルゴリズム的な理解なのであるが、事実 Staddon は「私の言うメカニズムとは、アルゴリズムのことである」とも述べている。
Skinner は反応率 (時間あたりの反応数) を分析の基本単位としたが、Staddon はより多元的である。ただし、なにを分析の単位とするかは、それ自体が研究の立脚点を示しているものである。それを Staddon は「The model is the behavior」という言葉で表現している。
それでは認知心理学となにが違うのか?と思われるかもしれない。Staddon いわく、行動主義心理学が伝統的に堅持してきた「強化履歴」は理論的行動主義でも重要であるというのが大きな違いらしい。つまり、行動や内的状態は、それまでの環境との相互作用に基づいている歴史性を有しているとういうのだ。当たり前といえば当たり前なのだが、その点を強調するか否かである。
また、Staddon は「動的過程 (dynamics)」を重視した点も特徴である。他の行動主義は、基本的には刻一刻と変化するような過程というよりは、安定した反応の推移を対象としてきた。ややテクニカルな議論ではあるが、現代では複雑な時系列データを扱う方法もたくさん用意されているので、動的な過程を取り上げるのは科学として自然な展開であると思う。
一方、認知心理学では「コンピュータアナロジー」のように、入力–出力関係を固定して考えることが多い。動的に内的状態は推移していることを重視した点も、Staddon の理論的行動主義と認知心理学を分ける特徴の 1 つである。しかし、個人的にはこの差異は徐々に埋まっていくのではないかという期待もある。
色々なアイデアはあるものの、基本的に現在「行動主義」を標榜している人がいれば、Skinner の徹底的行動主義である。Watson、Hull、Guthrie、Tolman に依拠している者はいない。従って、歴史批判ではなく、科学の議論として行動主義を批判したければ、Skinner を相手にするべきである。
行動主義はとにかく誤解されがちである。それは行動主義心理学者サイドにも問題があるにはあるのだが、科学において、無理解の責任は基本的には不勉強側に帰せられるべきだろう。
個人的には、アンチは信者より詳しくあってほしい。認知心理学者も、自分たちが寄って立つフレームワークの出自はどこにあって、なにに対するアンチテーゼだったのかをきちんと理解してみたら、何か発見があるかもしれない。