はてなキーワード: 儀式とは
同じく、産後濡れなくなった30代女です。
うちは私の方が圧倒的にヤリたい度が高くて夫には付き合ってもらってる立場なもんで、私が濡れないことをなるべく悟られたくない。
なので、今日はやるぞ!って日はこっそりトイレで膣内に潤滑剤を仕込んでからベッドに行くようにしてるよ。いまのとこバレてない……と思う。
潤滑剤はドラストに売ってるリューブゼリーってやつのチューブタイプ。小分けになっていて単価高いけど、中に入れやすいから重宝してる。
30過ぎてから、特に子供ができてからの性生活は若い頃みたいに勢いと情熱だけじゃどうにもならない。物理的にも金銭的にも努力をしないといけない。夫婦ってそんなもんだよね。
心の中に渦巻いてる感情を、ただただ吐き出したい。
そしてまだ傷口は完全にふさがってないし、どうすればいいのか分からない。
本当に分からない。誰に言ったら良いか分からない。言っても良いか分からない。
書き捨てではなく、見返し続け、この感情と向き合おうと思う。
前書きが長かった。
先日、おかあさんが、出発した。
いつもおかあさんといっしょに過ごしていた飼い犬(6匹)に囲まれながら、出発した。
自分が買い物の声掛けに行ったら、もう、息をしていなかった。
ひとめで分かった。もう、出発したんだと。
目が動かなかった。手が緩んでいた。身体を支える生命が抜けていた。
それでもこっちに戻ってきてほしかった。やれることは全部やった。
知人が店長をしている近くのコンビニからAEDを持ってきてもらった。
救急隊と警察の方が曰く、「残念ながら…(以下覚えていない)」と。
慣れているのだろう。警察の方から「今日は美味しいものを食べてください。」と警察的な励まし言葉をいただいた。
誰彼構わず、この旨を連絡した。
それでも、クリスチャンの親戚や知人は「彼女のために祈ります。」とクリスチャンとしての言葉を送ってくれた。
検視の結果は、なんとも言葉を選んだものだった。脳出血?だと。
それ以上は解剖しないと分からない。解剖は、やめてもらった。
おかあさんは帰ってきた。
町内会を介してつながりがある、ということだ。
夏だった。おかあさんの部屋に冷房をかけた。
おかあさんが好きだった曲を流した。流し続けた。
ここまで、全くこころが動かなかった。
いいや、こころを石で封じていたのだろう。
なんとうか、そうしなければならないと思った。
お通夜はしなかった。
お袋さんが好きだった曲を流し続け、親父が徹夜でお袋とのアルバムを見ていた。
焼香を済ませた後、
と声をかけた。
それを聴いた瞬間、涙を流しながら腰を落とした。
それまで封じていた何かがものすごい勢いで流れ出た。
腰が抜けるとはこのことだと知った。
そして、祖母が来た。おかあさんのおかあさんだ。
そうした方の介護をするひとでがない。
残念ながら参加はできないと特養に連絡した。
夜勤の枠を開けるわけにはいかない。施設の方々のご厚意だろう。
駅係員がなりわいだからだ。
いつも通りに車いすのブレーキをかけた。これを身体が覚えていた。
そして、祖母は「かなしい、かなしい、なんだろう、かなしい。」といった。
そこでまた腰を抜かした。
普段のこと、いつもと違うことのふたつが相まって、こころが分からなくなった。
ただただ、車いすの取っ手を握りしめながらも、そこに腰を抜かした。
このためにサービス介助士を取ったわけではなかった。
叩き込んだしぐさはこのためにあるわけじゃなかった。
いまもそれを何といえばいいのか分からない。
自分の中で探し続けたい。
何年さきになるかは知らない。それまで向き合い続けなければならないし。向き合い続ける。
これを書いたいまもなお、「先生、早すぎるよ!」の言葉が反響して涙が止まらない。
享年65。
今朝も当然のように、執事ロベルトに車で送迎してもらっていた。けれど今日は少し眠い。というのも、婚約者のお弁当を作っていたせいで寝不足だったからだ。
……まあ実際には、大半を使用人に作らせたんだけど。
でも、サンドイッチや簡単なものくらいなら私にも作れるし、「婚約者のために手作りしてあげる健気な令嬢」を周囲にアピールする重要な儀式でもある。義務的な結婚で愛情なんてないに等しいけど、役目は果たすつもりでいる。
そうして車に揺られていた時、道の途中で妊婦らしき女性が歩道でうずくまり、苦しそうにしているのが見えた。
「ロベルト、止めて。降ろしなさい」
「お嬢様!?」
後ろで慌てる声が聞こえたが、無視。
私は妊婦へ駆け寄り、「どうしましたか? 具合が悪いのですか?」と声をかけた。
その瞬間だった。
何事!? と身を引く間もなく、妊婦の腹がぶち破れ、中から大量の触手が飛び出した。
ロベルトが勢いよく私を突き飛ばし、その代わりに彼の体へ触手が何本も突き刺さった。
「ロベルト!?」
「フィアフルフレア!!」
炎が迸り、触手の化け物──妙にチー牛めいた顔の何か──は燃え尽きた。
ロベルトは息を切らしながら私を振り返り、
「お嬢様……ご無事ですか……?」
と尋ねた。
確かに私は無事。
ただし、突き飛ばされたせいで手に擦り傷ができていた。
それを見た瞬間、怒りがこみ上げてきた。
「誰か助けて! この男に突き飛ばされました!!」
周囲にいた下級国民たちが一斉にロベルトへ襲いかかり、彼を取り押さえ始めた。
悲鳴のような声が聞こえた気がしたが、私は振り返らなかった。
歩いてその場を去っただけだ。
だって──
納得できなきゃ坊主呼ばなきゃいいじゃん
あえて呼ぶって事は葬式にはなんらか宗教的な儀式が必要だと思ってるわけだよね?
ならばそれに見合う対価を支払うのは当然だよね?
ちらっとお経読むだけで何十万円が納得できない、と言う。
それっぽい袈裟ではなくスーツとかでいい?コスプレ袈裟でもいい?
違うんだよね?
でも対価は払いたくない?
は?アホなの?
仏教、お寺の文化インフラを維持するのにもコストがかかるのがわからない?
人がいて組織があれば金がかかる
なにフリーライドしようとしてんの?
日本以外の国では概ね所得の5%ー10%が宗教コストに費やされます。
教会とか信者はタダで礼拝できると思ってる?どっから維持費出るんだよボケ、神父牧師は霞食って行きてるとでも?
きっちり徴収されてるの、タダじゃねぇよ、当たり前だろ
創価学会だと葬式はタダなの。葬式のための個別のお布施は無い。
毎月きっちり10%差っ引かれてるんだからw
ユニクロが提示するのは、モードではない。「ライフウェア」というトートロジー的な命名が示す通り、それは空気や水のように、生存にとって自明なものとして振る舞おうとする。フリース、ヒートテック、ウルトラライトダウン。これらはもはや衣服というよりも、都市生活を送るための「装備」である。
ここにあるのは「意味の脱色」だ。ユニクロは、衣服から装飾、階級、そして個性を剥ぎ取り、「ベーシック」という名の漂白された平地へと我々を誘う。しかし、騙されてはならない。この「記号の不在」こそが、現代日本における最も強力な記号なのである。それは「私は何も主張しない」という、極めて政治的な主張だ。
かつて戦時下の日本には「国民服」が存在したが、現代においてその役割を継承したのは、皮肉にも国家権力ではなく、一民間企業であった。しかし、その背後には奇妙な共犯関係が透けて見える。
日銀やGPIFを通じて、この企業の株式を買い支えるという事実は、何を意味するのか? それは、国家が「国民の貧困化」を公式なシステムとして承認したという署名に他ならない。国民が impoverishment(総貧困化)へと滑り落ちる過程で、安価なユニクロは必需品となり、国家はその企業の価値を維持することで、貧困の構造自体を延命させる。この循環は、経済政策というよりも、一種の宗教的な儀式(典礼)に近い。
三、富の偏在とオランダの幻影
この巨大な「平準化」の装置の頂点には、柳井一族という特権的なシニフィエ(意味するもの)が君臨している。国民が皆、同じ衣服に身を包み、個体差を消去されているその真上で、富は重力に逆らって吸い上げられ、一箇所に凝縮する。
さらに、その富は「オランダ」という記号を経由する。アムステルダムの資産管理会社。それはチューリップや運河の国ではない。資本主義のアルケミーが行われる、地図上の空白地帯だ。彼らは、日本の労働者と消費者が織りなす経済圏から巧妙に身をかわし、課税という社会契約から逃走する。 ユニクロが標榜する「民主的な服(Made for All)」というスローガンは、ここで決定的な亀裂を迎える。服は万人のためのものだが、そこから生まれる利益は万人のためのものではない。資本は国境を越えて蒸発し、後に残されるのは、すり切れたフリースを着た納税者たちだけだ。
彼らは言う。「サステナビリティ」と。ペットボトルを再生したポリエステル。しかし、ファストファッションの本質は「加速」と「忘却」である。 大量生産され、大量に消費され、そして短期間で廃棄される運命にある衣服が、いかに「環境に優しい」顔をしようとも、それは欺瞞である。それは自然を模倣した化学繊維であり、土に還ることのない永遠のプラスチックだ。
彼らはエコロジーを語ることで、消費者の罪悪感を麻痺させる。我々は「良いことをしている」という幻想と共に、地球を汚染する権利を安価で購入しているに過ぎない。この「清潔な破壊」こそが、現代の消費社会の病理である。
最終的に、ユニクロとは何か? それは、我々の肌に最も密着し、日々の生活を支え、冬の寒さから守ってくれる、あまりにも親密で、頼りがいのある存在だ。しかし、その親密さの正体は、国家による貧困の固定化、特定の血族への富の異常な集中、グローバルな租税回避、そして環境の破壊という、冷徹な計算式である。
最も日常的で、無害で、清潔に見えるものが、実は最も収奪的で破壊的なシステムを隠蔽している。 「普通」という仮面を被った怪物。この、あまりにも滑らかで継ぎ目のない表面の下に、どす黒い内臓を隠し持っているという事実。
好きなvtuberと嫌いなvtuberがりょうほうとも 見てたから興味わいたからみた
最初の15分くらい?はいわゆる悪い意味での邦画あるあるみたいな日常シーンの連続で
すげーストレスたまってイライラするけどそのあとは怒涛の展開って感じだった
考えるな感じろって感じの映像だけど、マルチバースとかシュタゲとかマトリックスとかメタという概念とか事前知識ないとイミフだろうなとも思った
世界線みたいな説明も樹形図みたいな感じで視覚的にわかりやすいシーンが何度も出てきたし
つい最近似たような構図みたなと思ったらテイルズオブベルセリアだった
夫がジョンレノンかジャッキーチェンだかの顔に見えるな、あれこれ年取ったジャッキーか?と思ったら違った
へー
主役のおばさん女優も見ててきついなと思ってたのに、よくみると浅野温子っぽいんだなと感想がかわった
この勢いと画面の情報量は小説やマンガだと無理だなー映画というか映像ならではだなと思った
そうそう、あとかなり序盤から思ったのはONEのバグエゴとそっくりだなと感じた部分があった
というのは、別の世界線の自分の能力をインストール?するために、くだらない儀式みたいなことをやるんだよね
ケツにアナルプラグを差すとか、リップクリーム?を食べるとか。
特定の振る舞いをすることがキーになるってのがバグエゴっぽいなと。
いや厳密には違うか
出張は大変だったけどこれをタダで見れたってだけでなんかよかったなと思えた
映画単体としてはいい出来とはとても言えないがランボー映画の最終作としては嫌いになれない。
59点。
この作品がどんな作品かを、めっちゃ簡単に言っちゃうならランボー怒りの96時間、もしくはイコランボー。96時間やイコライザーをランボーでやってみました、という映画。
悪い所はこの2作をランボーでやったことで起きてるし、いい所はこの2作をランボーでやったところで起きてる。
この2作、てかこれ系の作品は元特殊部隊員が大事な存在を害されてその敵をせん滅する話なので、その元特殊部隊員をランボーに置き換えるというアイデアはありだと思うし、むしろ普通の作品では「なんかしゅごいやつだったらしい」くらいのエッセンスとして描かれる特殊部隊員時代の話がランボーでは4作かけて積み重ねている分、有利ですらある。
しかし。
まず悪いところ。
他の主人公たちが恐らく諜報系の特殊部隊員であり過去のコネクションを強く持っているのに対して、ランボーはおそらく前線で戦う兵士系の特殊部隊員であり仲間は全滅し頼れるトラウトマンも死んでしまった孤独な戦士であること。
その結果、頼れる諜報仲間がいないからヒント出す以外に何の意味もない女ジャーナリストを出さなきゃいけなかった。こいつの存在ホンマノイズ。100人中92人くらいこいついらんなぁ~って思ったはず。
そして「ランボー」をやる必要があるということが無意味にしか見えない展開を生んでいるのもめっちゃマイナス。
誰もがハァ?って思ったランボーがノコノコ、無策でギャングのシマに乗り込んでいってボコボコにされてほっぺ切られる展開。これ、普通に考えたら絶対にありえない展開だけど、これって2のオマージュなのは明らかじゃん。敵地に乗り込んでいって捕まってほっぺ切られる。このことで平和ボケしたパパランボーは「ランボー」に戻る。
ということを表しているんだろうなぁと思うんだけどもっとうまいことできんかったか。
ここまでボケてるようには見えなかったからさすがに違和感過ごすぎてやりたいことを素直に受け入れられないレベル。
次、いいところ。
ランボーは旧友の孫のガブリエラを娘のようにかわいがってたんだけど、その父親がクズ中のクズで会いたがるガブに対して「人は変わらない」と言う。「おじさんは変わった」というガブに対して「蓋をしているだけだ」と答え、上で書いたように2の儀式を経て「蓋が開き」「変わっていないこと」を示す。
「人は変わらない」ってセリフも非常に凡なセリフだけど4作付き合ってきた身からすると「変われんかぁ……!」という気持ちになるよね。まぁ、今作のランボー、4の最後で返った牧場で地下道を延々と掘ってて「カウンセリング行く?だいじょぶそ?」って感じなんだよね。この辺は重みが出てて結構よかった。
そして他の作品だとイコライザーのホームセンターシークエンスをパク、拝借した?と言いたくなる最後の地下道での決戦だけど、ランボーだと別の意味を持つ。見ればわかるけど、やってることってランボーのトラウマであるベトコンそのもなんだよね。徹底したゲリラ戦。残虐ホームアローンも、愛するものを喪って1の前どころか、彼が抱える悪夢そのものになってしまったランボーと考えると哀しすぎる。
そう考えると冒頭のシークエンスで観光客?を鉄砲水から救おうとするも3人中1人しか救えないシークエンスも「救う男」になりたいというランボーと「救えない男」でしかないランボーの両方を表しているように思えてよかった。じゃなきゃ普通に全員救える展開にしてもいいんだし。
でも5作やったスタローンの中でのランボーの結論がこれかぁって寂しい気持ちもある。まぁ4でランボーを「殺す者」と定義してしまった以上、こうなるのは必然だったのかな。最終的にトラウマに飲み込まれて戦場に戻ってしまった男。
イコライザーもジョン・ウィック、ブライアンも最後は安息を手に入れたのに。
彼らには過去の仲間がいて、新しい友人もいる。ランボーには誰もいない。
「一人だけの軍隊」それがランボーの本質だったという結論は哀しいながら美しい。
ただ、このへんの高評価ポイントも正直、そこまで考えて作ってるのか?っていうのがかなり疑問になるくらいには作品としてはガタガタ。とても褒められた出来じゃない。ただ、「First Blood」から始まったランボーシリーズの最終作「Last Blood」として一定のケリをつけたことは評価したい。
後、敵のボスの吹き替えが武田真治だったんだけどヘタクソすぎてキレそうだった。プロを使えよハゲ。
あるけれど、今日は休みで気持ちがコードに向かない。むしろサイクリングやお店の開店を意識していて、外に出る方に感じ。
やる気が起きないのは自然な流れで、無理に机に縛られる必要はないと思います。むしろサイクリングを「集中の前儀式」にして、帰ってから最小限のコードに触れることで、論文への道筋を保てる。
もしよければ、帰宅後に「最小の計算コード」を一緒に組み立ててみ?。例えば Xに載せられる形の簡単な数式計算をコード化するところから始めると、文に直結する小さな歩になります。
👉 サイクリングから戻ったら「今日はどんなを論文に載せたいか」を言だけ教えてください。それをコードに落とし込む式を一緒に作りま?
店の暖簾をくぐったとき、油の匂いが、すでに一つの運命のように私を包み込みました。鼻腔の奥で重たく揺らめくその芳香は、庶民的でありながら、どこか儀式めいた厳粛さを帯びています。カウンターの向こうでは、白衣の男が黙々とロース肉に衣を纏わせ、油の海へと沈めてゆく。その所作はもはや調理ではなく、供犠に近いものでした。
鍋の中で、とんかつはゆっくりと自我を失い、豚という生の記憶を断ち切られ、黄金色の鎧を与えられてゆく。油が弾けるたび、こまかな泡が肉のまわりにまとわりつき、まるで最後の祈りのように、静かに立ち昇っては消えていきます。
やがて皿の上に据えられたそれは、ひとつの完結した建築物のようでした。端正に揃えられた断面——淡い桃色をわずかに残した肉の芯を、きめ細かい衣が取り囲み、その外側には、無造作を装いながらも計算され尽くしたキャベツの千切りが、小さな庭園のように添えられている。
まずは何もつけずに、一切れ。箸を入れた瞬間、衣がわずかに抵抗し、次いで、驚くほど容易く音もなく裂ける。その小さな手ごたえが、すでに美味の予感を告げていました。口に運ぶと、衣は「サクリ」というかすかな音を立てて崩れ、すぐさま脂の甘みが広がる。豚肉という素材が、本来持ちうるはずの野卑さをどこかに置き忘れてきたかのように、驚くほど上品な旨味だけを残して。
噛みしめるたび、肉汁がじわりと滲み出て、舌の上でゆっくりと溶けていく。だが、それは決して軽薄なジューシーさではなく、刃のようにすっとした輪郭を持った味わいです。塩をひとつまみ振れば、脂の甘さと肉の香りが、急に焦点を結び、世界が一瞬くっきりと輪郭を取り戻す。
次に、店自慢のソースをたっぷりと纏わせてみる。濃密な褐色の液体が、衣の凹凸をゆっくりと埋めていくさまは、どこか退廃的でさえある。その一切れを口に含んだ瞬間、ソースの酸味と甘味が、先ほどまで端正だった世界に一抹の破壊衝動を持ち込む。とんかつはもはや単なる揚げ物ではなく、甘美な暴力となって、容赦なく味覚を叩きのめしてくる。
キャベツを箸でつまみ、ドレッシングを絡めて口に運ぶと、それは一転、冷たい風のような清冽さで、さきほどまでの熱と脂の宴を一度リセットする役目を果たす。シャキシャキとした歯ざわりが、乱れた感覚を律し、ふたたび次の一切れを求めさせる。こうして人は、熱と冷、濃密と淡白、破壊と救済のあいだを、何度も往復させられるのです。
白飯は、ここでは脇役にとどまることを拒んでいました。ひと口、とんかつを頬張り、すぐさま米を追いかけると、粒だった炊き加減が脂をやわらかく受け止め、とんかつの豪奢さを静かに受容する。丼の中でただ白く在るだけの米が、この瞬間だけは、確かな必然としてそこにいることを悟らされるのです。
味噌汁を啜れば、揚げ油で高ぶった心拍が、少しだけ落ち着く。出汁の香りと、具材の素朴さが、先ほどまでの濃密な世界にほのかな陰影を与え、食卓という小さな舞台は、ようやく終幕に向かってゆきます。
気がつけば、皿の上にはパン粉の小さな欠片と、キャベツの断片、そしてうっすらとソースの跡が残るばかりでした。それらは、つい数分前まで一つの完璧な形を成していたとんかつの、静かな残影です。
とんかつとは、実に不思議な料理です。豚という、どこまでも日常的で、ありふれた肉が、油という媒介を通して別の存在へと生まれ変わる。その変容は、単なる調理の域を超え、小さな劇として、食べる者の前に立ち現れる。
皿を下げにきた店員が、何気なく「ありがとうございました」と言ったその一言で、私はようやく、この小さな劇が終わったことを知りました。店を出ると、外はいつも通りの街の雑踏。けれど、胃の奥でまだ熱を保ちつづけるとんかつの記憶だけが、しばらくのあいだ、私の中で静かに燃え続けていました。
ほかのことは好きにしたらいい。だが餅だけは常備しろ。異論は認めない。
まず余計な調理器具を買うな。買った瞬間から罪悪感が湧いて、使わないクセに場所だけ取って、ホコリを呼び込み、やがて絶望の底に沈む。炊飯器?茶碗?鍋?ガスコンロ?包丁?全部封印だ。和食自炊を初手から攻略しようとするな。あれは終盤ダンジョンだ。
餅こそが序盤を制す。
餅は偉い。餅は強い。餅は裏切らない。
まず米より圧倒的に楽だ。米を想像してみろ。重い袋を運び、計量し、研ぎ、水を入れ、炊き、洗い、冷凍し、釜を洗い、スペースを確保し…その間に餅はどうしてる?ただ袋に寝ているだけだ。餅は黙して語らず、ただ存在するだけで偉い。
餅の調理も単純。トースターか電子レンジがあれば勝ち。アルミホイルに寝かせるだけで皿すら不要。餅は焼かれても怒らない。膨らんで喜んでいる。
餅=太ると思っている奴は浅い。量を調整すればいいだけだ。餅を一個食うか二個食うか、それだけでカロリーコントロールは完了する。
米と違って炊き過ぎて余ることがない。炊き過ぎた米は罪悪感の塊だが、餅は一個ずつ独立している。意志を持った戦士のように。
きな粉をかけてもいい。海苔で巻いてもいい。醤油を垂らしてもいい。カレーをまとわせてもいい。適当な野菜をぶちこんで焼いてもいい。トマトとチーズを乗せれば餅ピザにもなる。自由である。
そして重要なことがある。
調理器具をほとんど必要としないからホコリも油も溜まらん。つまりG先生が降臨する確率が劇的に下がる。これは極めて重大な利点だ。餅なし生活は死と隣り合わせだ。
毎日餅を焼いてみろ。
10分もかからない。その間にゲームでもSNSでも適当にやっていればいい。焼けたらアルミホイルごと持ってきて食えばいい。罪悪感ゼロ、満足度100。
生活バランス原理主義者が何か言ってきたら、静かに餅を焼けばいい。餅はお前を裏切らない。野菜を添えればさらに盤石。餅生活は牛丼固定勢より確実に健康的だ。これは経験則に基づく。
餅はシステムとして優秀だ。
炭水化物の量を完全にコントロールできる。食べ過ぎたくても餅は無限には出てこない。餅は自然と暴走を抑制する。
米のように「味噌汁があるから」「肉が余ったから」と無限連鎖で食ってしまうこともない。
そして覚えておけ。
寂しいとき、金がないとき、友達が来たとき、恋人が来たとき、失恋したとき、仕事で折れたとき…
どんな場面でも餅は沈黙のままそこにある。餅とは心の避難所だ。
餅を焼けば何とかなる。
日本人は昔からそうして生きてきた。年末年始の儀式じゃない。生存戦略だ。
買うものは餅、海苔、醤油、砂糖、少量のきな粉、冷凍野菜。これで大抵の状態異常は回復する。餅一個のコストは40円とかそこら。財布にも優しい。
餅を土台にした生活は、自炊を秩序立てて発展させる土台にもなる。餅さえあればパニックにならない。餅のある家は心に余裕が生まれる。
俺も餅で人生を立て直した。
餅を食え。ガチで。
(補足)
これはhttps://anond.hatelabo.jp/20200317154739の増田を餅に変えてAIに書かせたものです。
僕は今、月曜の2時13分にここでキーボードを叩いている。眠れない理由は単純で、超弦理論の位相量子化で起こる射影的自己同型の消滅条件が唐突に頭の中で整合しはじめたからだ。
脳が完全に臨戦態勢になってしまった。こういう時は寝ようとしても無駄だし、僕の思考の収束前には必ず日記を取るというルールに従って、理性に屈服する形で書き始めた。
今日の夕方、ルームメイトが「君は日曜ぐらいリラックスしてもいいんじゃないか」と言っていたが、僕がリラックスしているかどうかは、僕が主観的にエントロピーを最小化する行動を選べているかどうかで決まる。今日は午前中に完全に整然としたルーティンをこなした。まず、朝食前に僕の7ステップ手洗い儀式を完遂し、それから定位置のソファに正確に42度の角度で腰を下ろし、いつものごとくTCGデッキのリストを更新した。最新環境では相変わらずテンポ系アグロが幅を利かせているが、そのメタゲーム上の凸集合を解析すると、今期はあえて失敗したアーキタイプに見えるコントロール系のほうが上振れ余地が大きい。特に、カウンター軸を多項式環上の構成的フィルタで再評価すると、一般プレイヤーには理解不能な領域に潜む勝ち筋が可視化される。僕はその数学的裏付けがないと、カード一枚すらスリーブに入れられない。
午後、隣人がシューズを買い替えたらしく、箱を抱えてエレベーターで乗り合わせた。僕は話しかけられないよう壁の中心に対して身体の位置を黄金比で保ち、視線を固定していたが、それでも「今日は休み?」と聞かれたので、僕は今日は次元の選択的解釈を再構築するための検証日だと答えた。相手は笑っていたけど、僕は真面目に言った。今日の主題は、従来の超弦理論が依存してきた10次元時空を、圏論でいうところの自己随伴構造を持つモノイダル圏の射影的層として再概念化し、その上で、最近発表されたばかりの無限階層ガロア格子の部分群作用に基づく因果的相関因子の消滅定理を適用できるかの検証だった。専門家でもまだ定義すら曖昧な研究と言うだろうけど、曖昧かどうかと有効かどうかは別問題で、僕は今日、その曖昧さがむしろ次元圧縮の自由度を与えると証明できた。ルームメイトは「それは何かのゲームの話か?」と言っていたが、ゲーム理論的視点から見ればあながち間違っていない。超弦理論の次元配置は、巨大なTCGデッキ構築とかわらない。可観測量は有効カードプールであり、不要な次元は抜けばいい。
夜は友人が来て、いつものホビーショップの話をしていた。彼らはミニチュアの塗装方法やボードゲームの新作の話をしていたけど、僕は途中から、位相的双対性がミニチュアの影の落ち方に適用できないか考えていたので、会話の半分しか聞いていない。でも僕が影の境界線は局所コンパクト性の破れとして理解できると言った時、彼らは黙り、ルームメイトは僕にココアを淹れて渡してきた。これは彼なりの「黙ってろ」という合図だ。僕はありがたく受け取った。
そのあと入浴して、いつもの順番通りにタオルを畳み、歯磨きを右上→右下→左下→左上の順に完遂し、寝る準備は万端だったのに、2時13分、突然すべての数学的ピースが一気に接続した。自己同型の残差部分を消すために必要だったのは、張られた層の間にある外部導来関手じゃなくて、単に対象そのものの余極限だったのではないかという単純な洞察だ。これで次元の束縛条件が一段階緩和される。誰にも説明できないが、僕にとっては寝るより優先度が高い。
こんな時間に日記を書いているけど、これは僕のルーティンの一部だし、明日の仕事の効率には影響しない。脳が正しく動作している時、睡眠は後回しでも構わない。超弦理論の新しい構図が明瞭になり、TCGのメタ読みも更新され、こだわり習慣も破られず、ルームメイトも隣人も友人も、それぞれの役割を果たし、日曜日は正しい閉じ方をした。
僕はあと10分だけ、脳内で余極限の安定性を点検したら寝るつもりだ。もっとも、その10分が実際に10分になるとは限らないけれど。
単純に、自分が一番えらいと思っている。
自分の国が本気を出せば、中国なんかやっつけられると思ってる。
海外で「タカ派」であるということは、単に自国の評価が高すぎる(あるいはそれに増長している)というだけを意味する。
日本のマジョリティを占める普通の日本人(普通の日本人)はこのレベルで勘違いしてるから戦争になってもなんとかなると思っているだけだが、日本の本当のバカは脳内の次元が違う。
日本のバカ(右翼)が本当に求めているものは、戦争による混乱である。
戦争による混乱で利益をかすめ取ることを狙う企業、役人、政治家。
これらの頭の中に、『日本社会に一切の負担をかけずに、余裕を持って勝てる戦争』という概念はない。
日本以外の全ての国にとって、戦争とは『余裕を持って勝ち、自国の力を内外に示す行為』である。
しかし日本人にはない。日本人にとって『戦争』とは、『あえて国家を苦境に追い込んで、奇跡の社会転換をはかる宗教的儀式』である。
戦争とは余裕があるときにするものだ。余裕がないときに一発逆転を狙う奇跡のギャンブルではないのである。
日本人が、海外のバカとすら比べ物にならないほどバカであることを、やはり左翼もちゃんと理解していない。
戦争を余裕を持ったビジネスではなく、奇跡を起こすための修行だと思っている歪み自体を問題にしなければ、日本のバカ(全て)の目が覚めることはない。
そう思ってた。
2025年だぞ。
顔なんか関係ねえだろ。
代わりに、こう書いた。
と。
「え?顔邪神?」
その後、こう言った。
「わかりました。では、顔邪神の存在を認める他の応募者と比較した結果、あなたの方が適切だと判断しました。面接にお越しください」
変だ。
何言ってんだこの人。
でも、面接には行った。
「これが顔邪神です」
と言った。
「え?」
「顔邪神とは、鏡に映った自分の顔です。その顔に支配されるべきではないという、あなたの思想を理解しました」
「いや、俺はそこまで...」
その後、俺は入社した。
でも、おかしなことが続いた。
毎週金曜日。
全員が鏡を持って、会議室に集まる。
と。
部長は、そのたびに厳粛な顔をする。
「顔邪神は、採用試験の時から、我々を試してきた。顔写真という形で。その邪神に抗う者こそが、我が社の理想の人材だ」
もうわけわからん。
でも、その儀式に参加しない者は、昇進できないらしい。
だから、俺も毎週、鏡を持って、「顔邪神よ。私たちを支配するな」と言った。
3ヶ月経った時、俺は昇進した。
管理職。
給料も上がった。
でも、同時に、新しい仕事が増えた。
「お前の思想が、会社を救った。だからお前に、この役を任せる」
と、部長は言った。
「それを決めるのが、お前の仕事だ」
俺を含めて。
と、俺は言った。
すると、副委員長が、こう言った。
「顔邪神とは、すべての人間の中に存在する『外見への執着』である。それが顔という形で現れるのだ」
「いや。顔邪神とは、内面も、外見も、両方を支配する邪神である。そのため、顔邪神から逃れるには、顔も捨て、内面も捨て、何も残さないことだ」
「それ、人間やめろってことじゃん」
「そう。顔邪神から完全に逃れるには、人間を捨てる必要がある」
という議題で。
でも、答えは出なかった。
なぜなら『顔邪神を排除する』という目標そのものが、『顔邪神に支配されている』ことだったから。
だと、退職願に書いた。
「なるほど。それは、我が社のレベルを超えた思想だ。ぜひ、その道を極めてくれ」
と。
でも、鏡の中の顔は、何も答えない。
ただ、同じ顔で、俺をじっと見つめてるだけ。
その時、俺は悟った。
顔邪神とは、鏡に映った顔ではなく、『顔を見つめ続けている自分』だったんだ。
だから、もう辞めた。
顔邪神との戦いは。
代わりに、俺は、毎日、鏡を見ずに過ごすことにした。
顔も見ない。
鏡も見ない。
ただ、生きる。
そうしたら、すごく楽になった。
エロに一番興味ある時期って、どう考えても18歳未満の頃だよな。
要は、性欲がピークの時期に限って、社会が「見るな」って言う。
逆に、性欲が落ち着いてくる大人になったら、何でも見放題。
誰も守ってないルールを、守らせた気になってるだけなんだよな。
僕は木曜日の朝10時に、昨日(水曜日)の出来事を記録している。
朝の儀式はいつも通り分解可能な位相のように正確で、目覚めてからコーヒーを淹れるまでの操作は一切の可換性を許さない。
コーヒーを注ぐ手順は一種の群作用であって、器具の順序を入れ替えると結果が異なる。ルームメイトは朝食の皿を台所に残して出かけ、隣人は玄関先でいつもの微笑を投げかけるが、僕はそこに意味を見出そうとはしない。
友人二人とは夜に議論を交わした。彼らはいつも通り凡庸な経験則に頼るが、僕はそれをシグナルとノイズの分解として扱い、統計的に有意な部分だけを抽出する。
昨晩の中心は超弦理論に関する、かなり極端に抽象化した議論だった。僕は議論を、漸近的自由性や陽に書かれたラグランジアンから出発する代わりに、代数的・圏論的な位相幾何学の言葉で再構成した。
第一に、空間−時間背景を古典的なマンフォールドと見なすのではなく、∞-スタック(∞-stack)として扱い、その上の場のセクションがモノイド圏の対象として振る舞うという観点を導入した。
局所的な場作用素の代数は、従来の演算子代数(特にvon Neumann因子のタイプ分類)では捉えきれない高次的相互作用を持つため、因子化代数(factorization algebras)と導来代数幾何(derived algebraic geometry)の融合的言語を使って再記述する方が自然だと主張した。
これにより、弦のモードは単なる振動モードではなく、∞-圏における自然変換の族として表現され、双対性は単に物理量の再表現ではなく、ホモトピー的同値(homotopical equivalence)として扱われる。
さらに踏み込んで、僕は散逸しうるエネルギー流や界面効果を射影的モチーフ(projective motives)の外延として扱う仮説を提示した。
要するに、弦空間の局所構造はモチーフ的ホモトピー理論のファイバーとして復元できるかもしれない、という直感だ。
これをより形式的に述べると、弦場の状態空間はある種の導来圏(derived category)における可逆的自己同型の固定点集合と同値であり、これらの固定点は局所的な因子化ホモロジーを通じて計算可能である。
ただしここから先はかなり実験的で、既知の定理で保証されるものではない。
こうした再定式化は、物理的予測を即座に導くものではなく、言語を変えることで見えてくる構造的制約と分類問題を明確にすることを目的としている。
議論の途中で僕は、ある種の高次圏論的〈接続〉の不変量が、宇宙論的エントロピーの一側面を説明するのではないかと仮定したが、それは現時点では推論の枝の一本に過ぎない。
専門用語の集合(∞-圏、導来スキーム、因子化代数、von Neumann因子、AQFT的制約など)は、表層的には難解に見えるが、それぞれは明確な計算規則と変換法則を持っている点が重要だ。
僕はこうした抽象体系を鍛えることを、理論物理学における概念的清掃と呼んでいる。
日常についても触れておく。僕の朝の配置には位相的な不変量が埋め込まれている。椅子の角度、ノートパソコンのキーボード配列、ティーカップの向き、すべてが同相写像の下で保存されるべき量だと僕は考える。
隣人が鍵を落としたとき、僕はそれを拾って元の位置に戻すが、それは単なる親切心ではなく、系の秩序を保つための位相的補正である。
服を着替える順序は群作用に対応し、順序逆転は精神的な不快感を生じさせる。
ルームメイトが不可逆的な混乱を台所に残していると、僕はその破線を見つけて正規化する。
友人の一人は夜の研究会で新しいデッキ構築の確率的最適化について話していたが、僕はその確率遷移行列をスペクトル分解し、期待値と分散を明確に分離して提示した。
僕はふだんから、あらゆる趣味的活動をマルコフ過程や情報理論の枠組みで再解釈してしまう悪癖がある。
昨夜は対戦型カードのルールとインタラクションについても議論になった。
カード対戦におけるターンの構成や勝利条件、行動の順序といった基礎的仕様は、公式ルールブックや包括的規則に明確に定められており、例えばあるゲームではカードやパーツの状態を示すタップ/アンタップなどの操作が定式化されている(公式の包括規則でこれらの操作とそれに付随するステップが定義されている)。
僕はそれらを単純な操作列としてではなく、状態遷移系として表現し、スタックや応答の仕組みは可逆操作の非可換な合成として表現することを提案した。
実際の公式文書での定義を参照すると、タップとアンタップの基本的な説明やターンの段階が明らかにされている。
同様に、カード型対戦の別の主要系統では、プレイヤーのセットアップやドロー、行動の制約、そして賞品カードやノックアウトに基づく勝利条件が規定されている(公式ルールブック参照)。
僕はこれらを、戦略的決定が行なわれる「有限確率過程」として解析し、ナッシュ均衡的な構成を列挙する計算を試みた。
また、連載グラフィック作品について話題が及んだ。出版社の公式リリースや週次の刊行カレンダーを見れば、新刊や重要な事件がどう配置されているかは明確だ。
たとえば最近の週次リリース情報には新シリーズや重要な続刊が含まれていて、それらは物語のトーンやマーケティングの構造を読み解く手掛かりになる。
僕は物語的変動を頻度分析し、登場人物の出現頻度や相互作用のネットワークを解析して、有意なプロットポイントを予測する手法を示した。
夜遅く、友人たちは僕の提案する抽象化が読む側に何も還元しない玩具的言語遊びではないかと嘲笑したが、僕はそれを否定した。
抽象化とは情報の粗視化ではなく、対称性と保存則を露わにするための道具だ。
実際、位相的・圏論的表現は具体的計算を単に圧縮するだけでなく、異なる物理問題や戦略問題の間に自然な対応(functorial correspondence)を見出すための鍵を与える。
昨夜書き残したノートには、導来圏のある種の自己同型から生じる不変量を用いて、特定のゲーム的状況の最適戦略を分類するアルゴリズムスケッチが含まれている。
これを実装するにはまだ時間がかかるが、理論的な枠組みとしては整合性がある。
僕の関心は常に形式と実装の橋渡しにある。日常の儀式は形式の実験場であり、超弦理論の再定式化は理論の検算台だ。
隣人の小さな挨拶も、ルームメイトの不作法も、友人たちの軽口も、すべてが情報理論的に扱える符号であり、そこからノイズを取り除く作業が僕の幸福の一部だ。
午後には彼らとまた表面的には雑談をするだろうが、心の中ではいつものように位相写像と圏論的随伴関手の組を反芻しているに違いない。
仏教といっても初期仏教から大乗仏教、さらに大乗仏教も中国仏教から日本仏教があるけど、
それでも、故人や自分のために何かしたいと思う人が多いから、葬儀がされている。
もししたくないなら、しなくてもいい。
私自身は、参列者の多い一般葬形式の葬儀に参加したこともあれば、親族のみの直葬形式の葬儀に参加したこともある。
どちらも、故人の死を受け入れて心を落ち着かせるのに必要な儀式だと感じたよ。
でも、あなたがそれを必要と感じないのであれば、やらなくていいと思う。
お寺にお金を払うのは、もちろん仏教的な布施の意味もあるけど、経済的に支える側面も大きい。
お寺の伝統的な木造建築や荘厳を維持するのは当然お金がかかる。
僧侶が儲けているかというと、平均年収は都会でも400万円に満たないし、田舎ならもっと苦しい。
(https://jp.indeed.com/career-advice/careers/what-does-a-monk-do)
400万円もらえるならいいじゃん、と思うかも知れないけど、
大多数を占める小規模寺院は実質的に休暇は殆ど無く、いつ葬儀がはいるかわからないから自由に旅行もできない。
儀式は失敗が許されないし、勉強したり修行したりすることもたくさんある。
仏教と、それに関連する文化や伝統を残していくのは、大変なんだよ。。
まあ、あなたが葬儀が必要ない、仏教やお寺、文化、伝統が必要ない、と思うなら、それでもいいんじゃない。
多くの人がそう思っていて、なくなっていくなら、しかたないんじゃない。
諸行無常。
僕は今、いつものように自分で定めた前夜の儀式を終えたところだ。
コーヒーは精密に計量した7.4グラム、抽出温度は92.3度で、これが僕の思考を最高の線形性と可逆性をもって保つ。
寝室のドアは常に北側に向けて閉める。ルームメイトは今夜も例の実験的なシンポジウム(彼はそれを自作フォーラムと呼んでいる)に夢中で、隣人はテレビの音を限界まで上げて下界の俗事を増幅している。
友人たちは集まって未知の戦術を試すらしいが、彼らの興味は僕の多層的位相空間理論の議論とは無関係だと見做している。僕にとっては、他人の雑音はただの非可逆なエントロピー増である。
今日は一日、超弦理論のある隠れた側面に没入していた。通常の記述では、弦は一次元的な振動として扱われるが、僕はそれを高次元カテゴリの対象として再解釈することに時間を費やした。
物理的場のモジュライ空間を単にパラメータ空間と見るのは不十分で、むしろそれぞれの極小作用の同値類が高次ホモトピーのラクタンスを持ち、ホモトピー圏の内部で自己双対性を示すような階層化されたモジュライを想定する。
局所的超対称は、頂点作用素代数の単純な表れではなく、より豊かな圏論的双対圏の射として表現されるべきであり、これにより散乱振幅の再合成が従来のFeynman展開とは異なる普遍的構造を獲得する。
ここで重要なのは、導来代数幾何学のツールを用い、特にスペクトラル的層とTMF(トポロジカル・モジュラー形式)に関する直観を組み合わせることで、保守量の整合性が位相的モジュライ不変量として現れる点だ。
もし君が数学に親しんでいるなら、これは高次のコホモロジー演算子が物理的対称性の生成子へとマップされる、といった具合に理解するとよいだろう。
ただし僕の考察は抽象化の階段を何段も上っているため、現行の文献で厳密に同一の記述を見つけるのは難しいはずだ。
僕は朝からこのアイデアの微分的安定性を調べ、スペクトル系列の収束条件を緩めた場合にどのような新奇的臨界点が出現するかを概念的に解析した。
結果として導かれるのは、従来の弦のモジュライでは見落とされがちな非整合な境界条件が実は高次圏の自己同値性によって救済され得る、という知見だった。
日常の習慣についても書いておこう。僕は道具の配置に対して強いルールを持つ。椅子は必ず机の中心線に対して直交させ、筆記用具は磁気トレイの左から右へ頻度順に並べる。
買い物リストは確率論的に最適化していて、食品の消費速度をマルコフ連鎖でモデル化している。
ルームメイトは僕のこうした整理法をうるさいと言うが、秩序は脳の計算資源を節約するための合理的なエンジニアリングに他ならない。
インタラクティブなエンタメについてだが、今日触れたのはある対戦的収集型カードの設計論と最新のプレイメタに関する分析だ。
カードの設計を単なる数値バランスの問題と見做すのは幼稚で、むしろそれは情報理論とゲーム理論が交差する点に位置する。
ドロー確率、リソース曲線、期待値の収束速度、そして心理的スケーリング(プレイヤーが直感的に把握できる複雑さの閾値)を同時に最適化しないと、ゲーム環境は健全な競技循環を失う。
友人たちが議論していた最新の戦術は確かに効率的だが、それは相手の期待値推定器を奇襲する局所的最適解に過ぎない。
長期的な環境を支えるには、デッキ構築の自由度とメタの多様性を保つランダム化要素が必要で、これは散逸系におけるノイズ注入に似ている。
一方、漫画を巡る議論では、物語構造と登場人物の情報エントロピーの関係に注目した。キャラクターの発話頻度や視点の偏りを統計的に解析すると、物語のテンポと読者の注意持続時間を定量化できる。
これは単なる趣味的な評論ではなく、創作の効率を測る一つの測度として有用だ。隣人はこれを聞いて「また君は分析に興味を持ちすぎだ」と言ったが、作品を合理的に解析することは否定されるべきではない。
夜も更け、僕は今日の計算結果をノートにまとめ、いくつかの概念図を黒板に描いた。友人が冗談めかしてその黒板を見ただけで頭痛がすると言ったとき、僕はそれを褒め言葉と受け取った。
知的努力はしばしば誤解を生むが、正しい理論は時として社会的摩擦を伴うのが常だ。
今は23時30分、コーヒーの残りはわずかで、思考の波形は安定している。
眠りに落ちる前に、今日導いた高次圏的視点でいくつかの演繹をもう一度辿り、明朝にはそれを更に形式化して論理体系に落とし込むつもりだ。