はてなキーワード: 装丁とは
装丁が小綺麗なだけの本置いてありがち
まぁ人それぞれだし、その人がいいならこれでもいいんだろう。
「平気で本を千切れる人」とは何があっても絶対に相容れない自信がある。
子どもが絵本破っちゃうのも無理なのに、大人がそういう事やっちゃうの絶対無理。むしろ紙の本買わないで電子書籍にしてって思う。
もちろん個人の自由なら何でもいいということではない。その理屈は飛躍しすぎだ。
でもこの程度なら許される範囲だと思う。お前がそう思わないなら別にそれでもいい。おれは自分ではやらないけど、別にいいとは思う。お前は他人がやっていたとしても許せない。それだけ。
お前が本をちぎって読む人間を認めないのも嫌うのもそいつと一言も会話しないのもお前の勝手だ。おれだってこの件に関しては許容できたけど、許容できないケースだってある。おかんが味付けをしてくれた料理に目の前で中濃ソースをぶっかけるようなことはしない。でもスーパーの総菜にはするかもしれない。
そして、「本をちぎる=本好きではない」は必ずしも成り立たない。それはお前の中の定義に過ぎない。
本好きにも、装丁や手触りを含めて好きな人、本の内容が好きな人、物として大事にしたいから背表紙を割る置き方が許せない人など様々いる。本の内容が好きな人にも、読んでて気分がよくなれば作者の気持ちなんてどうでもいい人もいれば、作者の意図を出来る限り汲み取ろうと詳細まで読み込む人もいる。
内容さえわかればいいから電子書籍でいいけど本好きだよという人もいれば、電子書籍は目が疲れるけど持ち運びには便利であってほしいからちぎるよという人もいる。
お前の中の〇〇好きをお前の好みに沿ったかたちで定義するのはお前の勝手だが、それが一般全体に共感してもらえないことに不満を持たれても仕方がない。それは客観的な定義ではなく、お前の感情に基づいた定義だからだ。
私もそう思う。
電子でも読むし、紙の本も読む。
好きすぎて、どこでも持ち歩くからボロボロになる本も愛おしい。
装丁が好きすぎて、飾るメインの本もある。
自分でページを破ることはないけど、好きすぎる文章はノートに書き写してたりした。
古本でたまにページが抜けていると、元の所有者は書写しじゃなく持ち歩くタイプなのかなとも思う。
好きなように楽しめばいい。
本って原作者だけじゃなくて、装丁やコピー、表紙や挿絵イラスト描く人、編集、校閲さまざまな人が関わるんだよ。
一部を引きちぎるのはその中の誰か、もしくは関わった人すべての仕事を否定することになると思う。
出版された本は、その一冊すべてを触れることで完成するのに…
私はデザインの仕事をしていて、本の装丁にも近い場所にいたから、デザイナーがどれだけ情熱をもって本の装丁をしているか知ってるし、装丁の美しい本が大好きだから、とてもとても悲しい。
本は中身でしょと言われたらそれまでだけど。
まぁ「読書が好き」の中には「(自分が)読めれば装丁や外見なんてどうでも良い」という人がいるのは知ってる。
が、『本の扱い方で人なりが見える』という言葉もあながち間違って無いな、と思ってしまう。まぁ良いんじゃない?本人が剥き出しの頁をペラペラしてる姿を他人からどう思われてるのか気にしないって言うなら。
そこまでするのに電子版は買えないのか…とか装丁だって作品の一部なんだけどなぁと私は思うが。
てか一昔前にあった参考書とかの一部だけを読み込む為の手法にしたって最低限の体裁は整えたと思うのだが…
私の父(読書家)が
「本は財産や。いや本だけやない。ペン一本から家のドアまで世の中の物全部財産や。やから大切にせなあかん」
と口酸っぱく言ってたので
(開いたページを下にして置いて怒られた)
本は大切にするし扉は優しく閉めるのが身についたよ
いかにも入門書な装丁で本文もですます調であからさまに初心者向けをアピールしていると考えて間違いないはずの数学の本なのに後半の肝のところで急に「大事なところですので、よく考えてみてください!」とかほざいてきた。
それでも安けりゃまだ許せるがこれで税抜き2000ってところも憤慨ポイント。
前半100ページまでほとんど高校の教科書の焼き増しみたいなことしか言ってなくてぶっ続けで読めば「説明を省いたところのごく数箇所の理解を除けば」漫画の単行本一冊と同じぐらいしかかからずに読み切ってしまえる量だったのに、説明が省かれてなければまさに漫画と同じぐらいしか時間つぶせないのに2000円ってぼったくってるよなあ。
いや図書館で借りてるし実際は値段なんてどうでもいいんだがとにかく初心者向けで前半で油断させておいて説明を省き始めるってところのその性根にむかついた。
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超人ロックの巻数を数えてみる。数え方にもよってしまうが、全部で121巻。以下、詳細
超人ロックの最初期の作品群。1作目は肉筆回覧誌に書かれたニンバスと負の世界(当時はサブタイトルなし)
初期作品群は現在はSG企画の単行本5巻、あるいはYKコミックスの超人ロックClassic上下巻と、新書館の新世界戦隊に収録されている。特にコズミックゲームと新世界戦隊は現在の流れに繋がる源流の話なので重要度が高い
超人ロックの屋台骨を支える作品群。扱ってる年代も長く連続していて、歴史のダイナミズムを感じられる。通常の単行本から、ワイド版、文庫版、完全版とコミックのリバイバルブームが来るたび新装丁で発売された。装丁により微妙に収録作品や収録順が異なるため、全エピソードを読みたい場合は注意が必要。現在は完全版が手に入れやすいが、ソリティアが含まれていない。ワイド版発行時に一部エピソードは終わり方などに修正が入っている
色々な雑誌を渡り歩いては潰し(?)、雑誌形態コミックとなり、ついには電子配信が始まった途端に出版社ごと潰れた時期。月刊OUT、コミックバーガー(OUTと同時期)→Magazine MEGU→マガジンZERO→雑誌形態コミック超人ロック→電子配信。初期三作のリメイクも行われている他、雑誌形態コミックには他作者のシェアード・ワールド作品が掲載された
超人ロックが少年画報社に帰ってきた。最初の作品である冬の虹は超人ロックの中でも年代的に最初のエピソードで読者の度肝を抜いた。外伝と異聞が1巻ずつ出ており、異聞はアンソロジーと再録のため、ここの巻数からは除いている。またライザについては、流浪期でカウントしている。カオスブリンガーは未完
二誌並行連載でまたもや度肝を抜かれる。これまでも掲載時期が少し被ることはあったが、これだけ長期に渡り、並行連載を続けたことは驚き。憧憬は聖悠紀氏の逝去後にアシスタントの佐々倉咲良氏が最終話を仕上げている
他にもOVA特典や単行本未収録作品などがあるが、巻数カウントが難しいので省略。全エピソード読もうとすると、集めるのが結構大変なので頑張ってください。特に大変なのはエネセスの仮面(旧作)と月刊OUT最終号のソード・オブ・ネメシス楽屋落ちバージョンあたり
この人の本は紙で買うのだと決めている作家の本があり、この間発売された新作も勿論紙で買ったのだが、本棚にしまって数ヶ月、未だ読んでいない。読まないままで次の新作が発表された。
その数ヶ月間、電書をいくつか買った。全部落としたその日のうちに読んでいる。何なら発売日の0時過ぎて買える状態になったらすぐ買って深夜に読んだこともある。
我ながら不思議に思って考えた。なんだこの違い。
そしてすごくシンプルで身も蓋もない答えが出た。紙の本を読むのが億劫になっている。ユリイカ。
紙本の良さを楽しむだけの感性はまだある。しかしそれを手に取って捲って読むのが、億劫になっている。
電書は買って落としてトントンとタップすれば読める。タブレットを横にすれば文庫を開いたようなサイズになって見やすい。スマホは画面小さいけど片手で持てる。
何百ページあっても重さは変わらないし嵩張らないし、紙よりちょっと安かったりする。たまにすごい安い時もある。今見たらKindleが200冊超えていた。ああ、電書便利。すごい便利。
そもそも最近買った本、多分8割くらい電書だな考えてみれば。それで読書欲は満たされるのだから有り難いね。(正直「これ紙で買ったけど電書にしとけばよかった」ていうの結構ある)
と思ったところでもう一度言うが、私の中には、紙本の装丁や厚み重みといったものの良さを楽しむ感性はまだある。でもそれを読むとなると「…今じゃなくていいか…」になる。
そうか、今の私は紙本読むのが億劫なのか…と腑に落ちたところで、ちょっとこの表現は良くないなと思い直す。
で、また考えて、出て来た言葉。
紙本は、出来るだけ精神状態や体調の良い時に、時間的にも余裕のある時に読みたい。心おきなく浸るために。自分の気持ち次第だけど、どうにも気持ちがのらないこともある。良い時を見計らって読むぞと思っているうちに負の出来事があったり身体が不調になったりで「今は読むのに気持ちが向かない」となってタイミングを逸していく。そして数ヶ月。一年以上放っておいた本もある。マイナス感情て薄れた頃にまた新たなマイナスに出くわしたりするからな…。
楽しいけど楽しむのにもそれなりの準備がいる。好きではあるけどなかなか腰が上がらない。みたいな感覚が、フォーマル。
電書は、どんな時でも読める。脳内が多少澱んでる時でもちょっと具合悪い時でも。テレビ見ながらとかでも。途中で一旦やめるのも紙本より簡単。タブレットはちょっとサイズ大きいけどスマホなら寝てても読みやすい。気楽。気軽。カジュアル。
あと電書のメリットとして、自動的に最初のページから読むことになる、というのがあるなと最近気が付いた。紙本だと適当に開いたところから読み始めてしまうことがあるけど、電書はそれがないから意外と紙よりちゃんとした順序で読める。電書で読んでも浸れるものは浸れるしな。
それでも紙本への愛着も忘れきってないあたりが心理の複雑なところ。7月にまた紙本買う予定なんだけど、それもまた本棚にしばらく置いとくんだろう。今の私がカジュアルに読める紙本って雑誌くらいだな。
私の読書形態もいつの間にか変化しているのだな。面白い。自分の生活の一部が自然と時代に沿っているようなこの感じ、面白い。こんな変化も悪くない。いや読んでない本が溜まるのはあれだけど。
紙本読む意欲が持てる精神状態だったら他のことももっとやる気出るだろうな。でもそういう状態を長く保たせるのなかなか難しいんだよな。
https://anond.hatelabo.jp/20250502191629
を書いた増田です。
コメントで「図書館、別に本いらんくね? スマホやパソコンをいじれるフリースペースであればいいだろ」って書かれてあったので「いやいや、図書館には本が必要なんだよ!!!!」と思う理由を、図書館に5年間近く毎日通い、本が割と読めるようになった自分が勝手に語っていきたい。
このエントリーは誰かに何かを伝えたい記事半分、ただの一人語りである。
自分は5年前まで全くと言って良いほど本が読めなかった。仕事が終わったらパソコンの前に座って朝から晩までインターネットをしていた。大体はエロ動画でオナニー。まぁそれは今も変わらないが。
その頃は読書初心者で、最初は100ページ無い本とか、写真集とかしか読めなかった。5年経って、今は哲学、社会学、宗教学や、もろもろの新書くらいなら読めるようになった。なお、岩波新書は今でも嫌いである。理由は文字が細かいので。
そういう意味で、当時「ネットサーフィン」「ギャンブル」「女」という、日本中どこにでもいそうな「クズ男」だった自分に、「教養」という世界の扉を開けてくれた図書館、ならびにリアル書店の方々にはマジで感謝しかない(このまえ一人にはお礼した)。
ちゃんとした図書館、書店には選書スキルのあるスタッフ(図書館なら図書館司書、書店なら書店員)が選んだ本が並んでいるはずだ。書店は売りたい本が並ぶことも大いにあるが。
これは世の中にある有象無象の本達から、客先に出せるものだけを彼ら(彼女たち?)が我々のためにピックアップしてくれている。言い方を変えれば「ハズレ本、インチキ本」を除外してくれている訳である。
試しに今度、大型書店の「政治」や「宗教」の棚にでも行って見て欲しい。装丁がピカピカで、いかにも怪しそうな主張の本がそれなりに置いてあると思う。ああいう本は、特定の層にしか刺さらない、いわゆる「ハズレ本(その人達にとってはアタリ本)」だ。要するに良書ではない。なぜなら体系立った次の勉強に繋がらないからだ。
書店員や図書館スタッフさんはそれらに対する選球眼があるため、そのような「ハズレ本」を事前にフィルタリングしてくれた上で、店頭、もしくは図書館に出してくれているのである。
このスキルはなかなか表面化することはない。この選書スキルはファッションに似ていると思う。だが、本の選書スキルはファッションよりも目に見えない。でも俺は正直選書スキルの方が凄いと思っている。
しかも本には昔から読み継がれている「古典」なんかもある。なんとなく読む順序が決まっている本(分野)なんかもある。初級者向け、中級者向け、上級者向け。巻末についている読書案内なんかかそれにあたるが。
そしてこの技術は素人がそう簡単に身に付けられるものではない。素人はそもそも「いい本」と「悪い本、ハズレ本」の良さを選別できない。これはファッションに似ている。ファッションセンスがないやつが、上下あべこべの服を着るように、本にも選ぶセンスというものがある。少なくとも俺はそう考えている。そして、本はファッション以上に表に見えにくい。そして一朝一夕に身に着くものではない。だから、自分は図書館司書さんと、書店員さんをめちゃくちゃ尊敬している。
例えば料理の本を探したい。疲労回復の本を探したい。糖尿病の本を探したい。そんな時にj自分にとっての良書、悪い本。見極められるだろうか。amazonや読書メーターの評価と実際の良しあしは真逆だったりすることは往々にしてある。最新の本が必ずしもいい本とは限らない。1980年代の本が良い本だってこともある。そしてそれが自分に合うかどうかは、さらにわからない。
図書館不要論者はこのご時世どの程度いるのかは知らないが、リアル書店不要論者はこの視点が圧倒的に欠けている。彼ら(不要論者)は「良い本は選べて当たり前」 「悪い本、インチキ本は自らの選球眼でしっかり見極められてアタリマエ」と思っているが、そうじゃないんだよ。自分は5年間図書館、リアル書店に通い続けてなんとなく本の選び方がわかるようにはなったが、5年前は「メンタリストDaigoが選ぶおススメBooks」を何の疑いもせずに買ってたぞ。
結局本を選ぶ能力がつくまでは、誰かに選んでもらうことが必要なんだ。そして、それが図書館であり、リアル書店だと思う。その能力はamazonやメルカリ、楽天では絶対に身につかない。だってあそこは本棚じゃないから。レコメンド機能では選書能力は身につかないと思っている。
選書能力が身に付いて初めてamazonなり楽天なりでお買い物が出来るようになると思っている。服を通販で買える女子と構図は似ている気がする。
ということで、今後も本よむぞ。
トランプが重関税を発表して世界恐慌を案じる人が出てきた。そりゃ当たり前なんだが、一つ忘れられてる事があると思う。
それはアメリカの自称保守でのフーバー政権再評価というヤバい現象だ。
しかもそれが出てきた時期がまたヤバい。リーマンショック後なんである。経済恐慌回避の政策が気に入らんって事なのだ。
元々は2004~6年頃にニクソンが再評価されたというのに端を発している。
ニクソンは世界経済をグチャグチャにしたニクソンショックを惹き起こしたのでどの国でも嫌われ者で最低の大統領扱いされている。
だが今の世界経済システムはニクソンショックで再編成されたものであるし、デタントを推進してソ連牽制の為に中国と国交回復をした。
更に撤兵と南越の軍事訓練を進めてベトナム戦争から手を引く準備をした。これってイラクを平定しきれずに占領が長引いていた当時にオバマに期待されていた事と同じではないか。
だからニクソンは嫌われ者でもそんなに無能じゃないしちゃんと仕事をやっている。なのに評価が物凄く低いのは、マスコミを敵に回したせいでウオーターゲートで叩かれまくったからじゃね?という論調が出てきたのだ。
これにはネット議論が活発化して、マスコミ=オールドメディア、我らネット民=目覚めた真の民主主義者という今やお馴染みのアレがベースにある。
それでその流れで出てきたのが、世界史では無能大統領と教わる事が多いフーバーの再評価だった。
フーバーはアメリカ発の大恐慌が起きた時に何も手を打たなかった事で有名だ。更に重関税政策による保護貿易を行ったので世界恐慌が一段と酷くなった。
その結果、アメリカはカナダ~合衆国~中米のドルブロック経済圏を形成、他の国は植民地を中心とした各通貨ブロックを形成した。スターリングブロック(英ポンド)、仏フランブロックと。
持たざる国の日独は独マルクブロック、日円ブロックを形成したが小規模でありすぐにまた行き詰った。
その結果、独:ナチス全権委任→ラインラント進駐→開戦、日:日朝満ブロックで洋行系財閥系救済→恩恵を受けない中小企業が倒産して昭和恐慌→関東軍によるなし崩し的に膨張政策化→日中戦争→仏降伏により仏印進駐→ハルノート→日米戦争と進んでしまった。
しかもブロック経済はもの凄く不経済で非効率で不景気を産むのである(クルーグマンのノーベル賞受賞理由はこれの理論化)。
そういう訳で、WW2後はブロック経済化防止しよう、貿易自由化は世界規模の安全保障だ、という訳でGATTをスタートさせてやって来た。
フーバーは大統領退陣後も色々と外交をやっていてそっちでは功績残してるけど、大統領職としてはその後のルーズベルトと比べられて無能と言われる事が非常に多い。
フーバーの後のルーズベルト大統領はニューディール政策を行って恐慌を沈静化したというのが一般的評価だ。
でも、いやニューディール政策は全然効果なんて無かったんだよ、経済が持ち直したのは単純にアメリカが戦争を始めて戦時経済に移行したからに過ぎない、という意見もある。
有名なのが経済学者のフリードマンだが、この人は反ケインズの旗手なので。そしてフーバーもこの立場だ。世間の自分への評価に反発してるだけって気がすんだが。
また、フーバーは日本が真珠湾を攻撃したのはルーズベルトが日本を追い込み日米開戦を誘導した、という説を唱えている。「ハルノート原因論」だ。これは日本の右翼論壇でよく聞く話だろう。
そして露宇戦争に対してのロシアのナラティブにもそっくりじゃないだろうか?FOXのタッカーカールソンなんかも「米国陰謀論」的なことを言っている。最近じゃ終風爺が「ネオコンがロシアを追い込んだ」という説を書いて顰蹙食らってたが、これらの基礎の部分には、アメリカ自称保守論壇でのフーバー再評価があるってことなのだ。
アメリカの思想的特徴はプラグマティズムで経験主義的で小ぶりだったのだが、特に21世紀になってから観念論/独断主義的思想集団が共和党に影響を与えるというのが多くなっている。
例えばネオコンサバティズム。その始祖はネオコン・ゴッドファーザーと呼ばれるアーヴィング・クリストルなんだが、この人は元がトロツキスト。かの有名な『歴史の終わり』(フランシス・フクヤマ)が掲載された『国益』誌もクリストルが創刊したもの。
トロツキーの思想の特徴は「世界同時革命」で、世界中に戦争を輸出してその背後から各国の細胞(共産党員)が内戦を仕掛て共産革命を起こすという物騒なものだ。谷沢永一によるとトロツキーの日本語訳書は『ノルウェーの森』のような赤緑の装丁らしいです(谷沢は元共産党員)。
イラク戦争の強引な開戦などが世界同時革命の影響を芬々と感じさせるのでスキャンダル的に指摘される。
例えばネオリベラリズム。単に経済政策の方向性というだけでなく「本来の社会の在り方」的な観念論/進歩主義として人を惹きつけている。つまりは実存にとっての嘗てのマルクス主義の代用品だ。
「歴史はこう進むはずなのに今の我が国はそうなっていない。だから変革すべきだ」という歴史と実存が結びついた考え。「〇〇という団体(農協など)は既得権益だ、それを崩すと理想的な経済状態が出来する筈だ」。こういうの日本でも沢山見た。
高学歴化により若者には長いモラトリアムが与えられ、「社会に馴致される」事で形成される人格よりも「正当性に欠ける不合理慣行が蔓延っている。若者はその不合理により迫害されている」というルサンチマンに駆動される人格の比重が大きくなる。そんな人格にネオリベは進歩主義と合体した全能感や実存を与える。
だからリーマンショック後に政策がフォーベアランス政策(不良債権増を気にせずに積極融資せよとの行政指導)に転換すると、世界観が破壊されたような実存危機を覚える人間が出てくるのである。
先ほどの終風爺も2013年になって「リーマンショックは越冬闘争を派遣村と言い募った左翼によるフレームアップ」的な事を言っている。2008年には実存不安と不満に我慢していたという事だ。
また風呂無駄さんも2008年当時には大変にやさぐれていて、それまではネオリベで未来は明るい的なポジティブな事を言っていたのにFUDマーケ的な事を言っていた。これらは実存の棄損によるものだ。
トランプに変な保守系シンクタンクが影響与えているのもこの流れ。
共和党はいつしかこういう実存と結びついた観念論を吸引し、それが世界の知識的大衆を吸引するようになっていた。そこにリーマンショックが起こり、G7、G20では財政出動、フォーベアランス政策、保護貿易主義の排除が合意された。これはアメリカなどでは政策の急転回でありそれが一部の知識層には実存的ストレスとなったのだ。
そもそも共和党が観念的に進めた事で発生した問題の尻拭いを民主党がするという流れがずっと続いてきていて、これのどこが保守なんだろうか。
上に書いてきたフーバーの政策(保護貿易と北米ブロック=カナダ、メキシコ併合)とトランプの政策が一致するのがお分かりだろうか?
何やら変なシンクタンクの提言通りに進んめているというのもあるが、その基礎にはフーバー再評価があるって事なのだ。そして彼らは一般社会的にフーバーが否定されている理由、ブロック経済圏による不況→持たざる国の膨張政策→戦争、重関税による恐慌の激化、という評価を共有していない。
「フーバーを評価する」(悪評を無視する)という事は次の事とイコール
・その場合、他国がリーマンショック後のような合意をしてもアメリカは従わずに恐慌を悪化させる
そもそもの話、ある意味では読んでいるのが「本」に書かれたものであるという時点でそこまで頭が良いとは言えないとも言えてしまう。
学術書というのはあるがあれに書かれているのは学部レベル(古典)だろう。
実学系や人文社会系は知らんが少なくとも自然科学や数学で研究レベルの知見にアクセスするには論文を読まないことには始まらないだろう。
その論文は本であると言うよりは紙の束あるいはPDFであって読書家が好むようなまともな装丁が施されたものではない。
20世紀レベルの高名な科学者が書いた論文なら本として編集されていてかつその内容は学部生ではちょっと手が出ないもあるのだろうが、そうはいっても令和の今から見れば最先端の知見とは言えない。
結局本しか読んでいない限りはまだそこまでの境地ではない、有体に言えば他人が調べたことのレールの上に乗っている段階という感じで「今」を基準として創造的なことを入出力しているレベルではないわけだな。
スタバで読む気になれるものという時点でその程度のものって言い方もできるか。ああでも新聞は普通に読もうと思えば読めるのだから、論文だって読めてもおかしくはないか?
とにかく人文社会や実学よりはいわゆる理系の学問の方が要求される知性という点では上位に位置付けられているのだろうから、精神現象学みたいな哲学含め本ってもの自体がすごく高い視座から見れば漫画と団栗の背比べではないだろうか?
なので自ら「読書家」だというのは自分は知性において中途半端な人間ですと白状してしまう恥ずかしいことだと思う。
論文を読むことはふつう読書とは言わないのと、本当に頭がいいなら本を読むひまがあるなら一本でも論文を多く読んで自分の知見を高めようとするだろうから。
高卒のdorawiiより。
こういう絵柄が表紙になってる本なんとなく読みたくないのわかる?
https://x.com/popupopu_0408/status/1897718427282030796?s=46
小学一年生ころ、漫画っぽい挿絵というか挿絵として1ページくらいの漫画が入ってる学校の怪談系の本を学校の図書室で借りまくってたし、こういうのに釣られる層だった経験がある。
好きな小説の新しい装丁が漫画寄りのイラストでイメージと違うしなにより自分なかのイメージが壊れそうでがび〜ん…となって当然買わないし書店やネットでも目に入れないように頑張った経験もある。
一定の層に「かわいい!」ってドーパミンどぱどぱ出させる効果あるんだろうし、何よりこういう流行りのイラストが好きな人たちは自分たちに目線を向けてるっていうサインを受け取って手に取りやすくなるだろうな。普段買わない層に買ってもらわなきゃ話にならないくらい出版業界大変なんだろうなー。と思うから自分はdisる気には全然ならない。
一方でこれ系の表紙じゃなかったら買ってただろうなっていう本もある。
こういうイラストにストレスを感じても購入するコアな小説ファンと、ノンストレスあるいはむしろ好きだから買う客の間にいる、そうじゃなかったら買ったけどこういう絵は苦手だからやめとく。っていう自分みたいな客は数で言うと重要じゃない規模なんだろうなあ。
洋画の変な邦題の影響で見る選択肢から外れるタイプの客とかもそうなんだろうな。
パラテキストに不満ない作品で読みたいもの、観たいものが十分溜まってるからそっち優先でいいやってなる。実際自分は娯楽に対する熱意優先順位低めだし、金持ちでもないからそれなりに絞らざるを得ない。
キャプションがほとんどないのが寂しい。もっと思考を開示してほしかった
やりたいことに対して技量が伴わず荒削りな作品が多く感じた。苦しみの果てに生まれた素朴な作品もチラホラ展示してあり楽しめた
絵画の大物へのチャレンジはインスタレーションが面白い作品が多く、造形の大物はわりかし出来が良かった。Xで見た猫もいた
造形のこじんまりとした作品は身の丈に合ってしまってもったいないなと思えるものが目立った
観覧に若い女性が多く少々居心地が悪い
全体的にキャプションが多めで嬉しい
とにかくアウトプットの完成度が高い。大物の並びは圧巻。甘えを感じない
自分の作品をよく見ているのだろう、鑑賞者から見た時に気づく粗が潰されている。鸞という作品の羽がとても良かった
版画もいい作品が多かった
全体的に荒く、だらーんとしている(内容ではなく固定されていない作品が多かった。面白い)
こっちも荒さが目立った。受付の挨拶が元気が良くて良かった
細部の技量が光る作品が多かったが、作品の展示として見た時首を傾げる部分が多々見られた
目測でしかないが傾いた作品は1番多く見た。また定着が甘くハゲやズレのある作品も多々見られた。女子美と対照的である
表現というよりは製品と見做す人もいるだろうが、やはり鑑賞者としては不要なノイズが極限に排除された部分を美しく感じたし、緊張感すら覚える甘えのなさを強く感じた
作品本体だけではなく装丁や展示も極めて丁寧、精緻でキャプションの表現も美しいものが多く、指導者が優れているのかもしれない。
1つの展覧会として空間そのものが作品となりうる美しさがあった
その中でも鸞という作品の色使いが極めて美しく、正面から見たとき照明の当たり具合も相まって良かった。残念ながら自分の撮影技術では再現できなかったので心の中に留める。
多摩美は完成よりも表現という粗さを感じた。言ってしまえば素朴とも取れるが、細部の技量は高いものが多く、作者の強みをアピールする場のように思えた
全体的にそうした傾向があったので、これもまた指導による差だろうか。
高千穂遙の『異世界の勇士』(1979年)は、日本のファンタジー文学史において「異世界転移」ジャンルの嚆矢と位置付けられる作品である。
本論では、この作品の先駆性を検証するとともに、日本ファンタジーの発展過程と現代の隆盛を支える文化的基盤を分析する。
主人公・竜二が受験生として現実世界から異世界ガンギロドドアに召喚される物語構造は、当時の日本文学において画期的な試みであった。
横田順彌による解説が指摘するように「日本人作家が手をつけていなかったジャンルを開拓した」点が特筆される。
従来のファンタジーが神話的・民話的要素を基調としていたのに対し、コンピュータ文明を武器に現代的価値観を持ち込む設定は、後の「異世界チート」の原型とも言える。
マーク・トウェイン『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』(1889年)やC・S・ルイス『ナルニア国物語』(1950-1956年)といった西洋文学の影響を受けつつ、独自のヒロイック・ファンタジーを確立した。
安彦良和による表紙絵が示すように、当時のアニメ・漫画表現との親和性が、後のメディアミックス展開の基盤を作った。
1990年代の『十二国記』(小野不由美)が累計1000万部を突破するなど、異世界物は継続的な人気を獲得。
2004年の『ゼロの使い魔』を契機に、小説投稿サイト「小説家になろう」を中心とした創作活動が活性化し、2015年時点でネット小説大賞受賞作の90%が異世界転生・転移物語となった。
この現象は、従来の出版界が「事実上の異世界専門レーベル」を相次いで創設するまでに至った。
初期作品が「現実世界→異世界」の単方向転移を基本としていたのに対し、『ゲート 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり』(2010-)のような双方向往来や、『異世界おじさん』(2018-)のような逆転移物語が派生。
転生(記憶保持型再生)と転移(物理的移動)の概念分化が、「小説家になろう」公式ガイドラインで明文化されるまでに体系化された。
仏教の輪廻転生思想と神道の「八百万の神」が醸成した多世界観が、異世界転生の受容を容易にした。
『古事記』における黄泉の国や浦島太郎伝説に見られる「異界との境界の曖昧さ」は、現代の異世界物語にも通底する。
民俗学者・柳田國男が指摘する「常世」と「現世」の往還概念が、無意識下の文化的受容基盤を形成している。
戦後日本の高度経済成長期に形成された「受験戦争」や「社畜」的労働環境が、現実逃避的需要を醸成。
主人公が異世界で「特別な存在」となる物語構造は、自己肯定感の補償メカニズムとして機能する。
特に『無職転生』(2012-)に見られる「現実での挫折→異世界での再挑戦」構図は、現代日本社会の病理を反映している。
スマートフォン普及率98.7%が支えるウェブ小説プラットフォームでは、1話完結型の「ておくれファンタジー」(読者が次の展開を催促する形式)が発達した。
このメディア特性が、異世界転移物語の量産的創作サイクルを可能にしている。
『異世界の勇士』が播いた種は、日本固有の宗教観・民俗基盤と現代社会の精神的要請が合致することで、他文化に類を見ない開花を遂げた。
異世界転生が「馴染みやすい観念」として受容される背景には、単なる物語形式の流行を超え、日本人の世界認識の深層に根ざす文化的連続性が存在する。
5〜6年前、サブスクを使うようになってからめっきりCDをPCに取り込んでスマホと同期……ということをやらなくなった。
それでもアルバムを買うことがある。おまけ目当てだ。
主にライブDVD、ライブ先行チケット、その他何かしらの映像特典などなど。
買った後は豪華な装丁を一通り楽しんで棚にしまう。中のCDは取り出すこともない。
映画もサブスクが充実しているし、最新映画も割と数ヶ月で来たりするので大体一回の鑑賞で済ませ、後はサブスクで見返そうとなっている。
なのだが、少し前特典が欲しくなり数年ぶりに2回目を見にいった。
これも目当ての比率は特典:映画内容5:5くらいだ。特典なければ多分行ってない。
むしろ本来おまけである物がメインなのかもと思うようになってきた。
……CDいらないな……