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はてなキーワード: 大坂とは

2025-11-07

地方差別をする東京民はカス

その点大阪の人はたとえ奈良であっても滋賀であっても見下さな

人間がよう出来とる

から日本全国で大坂人は好かれてる

大阪を叩くのは東京民だけ

東京うどんの汁が黒いから腹の中も黒いんやろな

2025-11-02

20251102 BS10[アタック25] 2025年11月2日 新作 コレクター大会 2025-11-02 結果

★「今回」の再放送はいつもと違って6日木曜日の16時、午後4時から

 

赤:肥山健太郎@東京

緑:當山尚志@東京

白:寺田悠紀@埼玉

青:窪坂雅人@東京

 

BSジャパネクストリニューアル BS10無料放送側で日曜昼などに放送

見られなかったケーブルテレビ局でも見られるようになったので要確認

つながるジャパネットアプリ放送同期・スマートテレビ4月からtverを含め見逃し配信あり

 

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今日の答え(放送とは表現が異なる場合があります

・01 [隠し絵][ある人物名前]草なぎ剛 くさなぎつよし

・02 もみじ(饅頭

・03 北原白秋 きたはらはくしゅう

・04 [アンバー]琥珀 こはく

・05 [視聴者投稿クイズ]いぶりがっこ

・06 スウォッチ

・07 [すべて]神戸市 姫路市 西宮市 尼崎市

・08 [近似値]1336億(483万8700円

・09 ゴッホ

10 [2答]ノースダコタサウスダコタ

11 [ポチャッコ:見えてくる慣用句]宝の持ち腐れ

12 メビウス(の帯

・13 Perfume パフューム

・14 木村沙織 きむらさおり

・15 [英語を使って]エコーチェンバー(現象

・16 高橋真梨子 たかしまりこ

17 マリー・アントワネット

・18 キャピュレット(家

・19 皮下(組織

20 [2択]大坂)冬(の陣

・21 きつね(につままれ

・22 [AC]O次郎

23 小田凱人 おだとき

24 陽明(門

・25 恩田陸 おんだりく

・26 [アルファベット3文字]MRI

・27eタグ(ボート

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・xx [ある西暦何年]1985 年

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(日曜本放送)このあと今週はBS10からのお知らせ

14:30からは「蛍原徹真剣ゴルフ部! ホトオープン #177」

(2日日曜日)

2025-10-09

anond:20251009102151

まことにめでたい、めでたい!

紀伊国屋文左衛門、令和に転生しガンプラで天下を獲る

さて皆様、ご存じでござろうか。古(いにしえ)の世、紀伊国屋文左衛門と申せば、紀州みかんを船に積み、大坂の嵐を乗り越えて江戸で巨万の富を築いた、希代の風雲児。その文左衛門が、時を超え、場所を変え、この令和の日本に、まことに転生いたした!

まれ東京、名を改め「紀伊文蔵」。生まれながらにして商才は脈々と受け継がれ、幼い頃より世の「不足」と「需要」を見抜く目、すなわち「商(あきない)の目」を持つ。

ある日、文蔵が見たものは、玩具店の棚に並ぶ「機動戦士ガンダム」の模型、俗に言う「ガンプラ」じゃ。それも、特定限定品が出た日には、人々が夜を徹して列をなし、争奪戦となる有様。

「これこそ、我がみかん船と同じ、天下の宝物なり!」

文蔵はすぐに気づいた。このガンプラこそ、昔の「みかん」、つまり「時宜を得た、不足の品」であると!

まずは軍資金アルバイトで貯めた小銭を元手に、早朝の量販店へ。手に入れた限定ガンプラを、「ネットフリマ」という電脳市場へ出品する。

「売り切れ御免!今手に入れねば、二度と手に入らぬ!」

現代の「口上(こうじょう)」を駆使し、「限定品」という名の「時価」を高める。飛ぶように売れ、瞬く間に元手の十倍、二十倍

もはや、みかん船どころの騒ぎではない!文蔵は冷静に、人気の波、再販の周期を読み解き、まるで熟練相場師のごとく、ガンプラを買い集めては、最も価値の上がる時に売りさばく。

みかんで億万長者になるは、骨が折れる。だが、このプラモデルとやら、指一本で億の富を築くとは、誠に愉快な時代よ!」

紀伊文蔵の「ガンプラ転売事業」は、ネットの海をゆく新時代みかん船となり、僅か数年で億万長者の仲間入り。世間は彼を「令和の風雲児」と呼ぶ。

紀伊国屋文左衛門の商魂、令和の世に見事復活!まことにお見事!お後がよろしいようで。

2025-09-24

居酒屋で半個室のところに入ったんだけど、3人でこちらが盛り上がってると1人で座ってた大坂な〇み系のヒスパニック系のブスがわざわざ席を向き直してこっちをチラチラみながらブス食いしてたんだけど、スマホ盗撮してくるわチラチラ意識を1時間も向けてくるわで、とんでもない「行動ブス」だった。多分構ってほしかったんだろうけど、こちらは誰一人として食指も動かないどころか触ったらブス菌が移りそうだった。つまりブスだから心もブスになり結果として顔も人生もブスになってしまうんだなと。ヒスパニック系のブスはほんとに醜いブスが多い、まだ日本人のほうがまともなブス率がブス統計としては多い気がブス。

anond:20250924073737

大坂センセ「それは豆知識やなくて豆の知識やーっ!!…って懐かしなぁ〜」

2025-09-20

anond:20250920055646

記事文脈を調べる気力も無いけど、歴史的にはもともと大阪大坂表記されていたので、単にどこに意識を置いて書くかというポリシー問題じゃないの

2025-09-16

anond:20250916100622

本来は「大坂」が江戸時代までの正しい表記なので、むしろ嬉しい気分になるんでは。

大阪のことを大坂って書かれてちょっと悲しい気持ちになるのは

東京に次ぐ第二位都市だと思い込んでるからだろうな

実際は東京の人からすると大阪なんて地方都市の一つでしかないのが現実だろうし

2025-07-15

ぶっちゃけ西田敏行人生ってこんな感じでしょ?

1169 西田敏行法住寺殿において出家法皇となる。

1180 西田敏行、父と共に源頼朝挙兵に加わり、山木館を襲撃

1205 西田敏行追放された父を継いで鎌倉幕府執権就任する

1561 西田敏行武田信玄啄木鳥戦法を献策するも謙信に見抜かれる

1579 西田敏行大工棟梁として建造を指揮した安土城天守が完成

1584 西田敏行西田敏行小牧長久手の戦いで敗れる

1598 西田敏行死去。遺児は後に西田敏行に滅ぼされる

1600 西田敏行真田昌幸に進軍を阻まれ西田敏行の叱責を受ける

同年  西田敏行石田三成関ヶ原に破る

1603 西田敏行幕府を開き初代将軍になる

1605 西田敏行西田敏行将軍職を譲り、後に駿府城に移る

1612 西田敏行、自らの私財をなげうち道頓堀の開発に着手

1614 西田敏行西田敏行を「関ヶ原には遅すぎ、大坂には早すぎる!たわけうつ間抜けーッ!」と怒鳴り付ける

1632 西田敏行征夷大将軍西田敏行の死により、流罪赦免される

1702 西田敏行女性としては最高位の従一位官位を得る

1703 西田敏行元禄赤穂事件において赤穂浪士によって襲撃を受ける

1716 西田敏行八代将軍になる

1745 西田敏行徳川家重将軍職を譲り、江戸城西の丸に移る

1776 西田敏行長崎で手に入れたエレキテルを修理して復元する

1782 西田敏行、自らが船頭を務める船が難破、ロシア領に漂着

1827 西田敏行柏原宿で大火に遭い家を失う

1860 西田敏行会津藩家老となる

1861 西田敏行愛加那との間に西田敏行を授かる(それをナレーションする西田敏行

1867 西田敏行西田敏行に命じられて江戸薩摩藩邸を本拠として江戸市内を混乱させ、薩摩藩邸焼討事件を起こさせる(それをナレーションする西田敏行

1868 薩摩藩西田敏行らと長州藩西田敏行らが協力し会津藩西田敏行と戦う

(それをナレーションする西田敏行

同年 西田敏行会津藩西田敏行への伝令にかこつけて追放される

1869 西田敏行五稜郭の戦い新政府軍に敗れる

1873 西田敏行日本初の商業銀行となる第一銀行頭取就任

1877 西南の役で、長州閥西田敏行総指揮の官軍西田敏行軍は鎮圧され、城山に追い詰められる(それをナレーションする西田敏行

1883 西田敏行共立学校の初代校長となる

同年 西田敏行、この頃に海運業を始める

1904 西田敏行日銀総裁として日露戦争の戦費を調達する

同年 西田敏行京都市長就任し、父である西田敏行のことを、部下に語りだす

1942 西田敏行日本文学報国会の会長就任

1945 西田敏行フィリピン戦場で誤って兄に撃たれる

1984 西田敏行マッキンリー冬季登頂した直後に遭難し死亡

2025-05-31

京のエルフ連中ときたら、平清盛の頃を昨日の事のように語るようなやつばっかりだからな。

頼朝の頃に、人の世のことは人に任せると取り決めしたはずなのにいまだに豊臣に肩入れしたりしてバランスを崩そうとする。

家康が泣く泣く孫を差し出してなんとか取り持とうとしても全く同然だからな。

だいたいエルフの中でもまともなやつらに聞いた話だと

エルフが人と交わるなんてことは

大人わらべとまぐわうような感覚らしい。

要するに変態の行いだ。

うちの領分の寺でもこないだ小坊主に伽をさせた腐れ坊主がいたがそんなものの比ではない。

それなのに京エルフときたら江戸からおぼこの芋がやってきた、と喜び勇むのだから家康大坂を潰した意味もないというものだ。

最悪これが養子に入って徳川政宗になる方法はあったと思う

そうすれば俺が独眼竜将軍正宗初代だった。

でも当時のダンジョン界隈はそれどころじゃない。

秀頼が死んで大坂ダンジョン活性化

幸村もアンデットとしてブイブイ

家康が意地で駿府からフォースの分離体飛ばして戦ってたけどなんとかなるやうなもんじゃない。

ましてや秀忠なんて。

そんなときに俺から養子の話なんて出来ない。

結局は仙台から飛竜を派遣しなくちゃってことになった。

それも公儀の面子を潰さない形でってことで。

からあのとき尾張飛龍というのは実はうちの独眼竜部隊のことだ。

まあそれが因縁となって現代中日ドラゴンズへ続くんだから不思議な話ではある。

2025-03-04

[]納豆

納豆汁(なっとうじる)とは、納豆を加えた味噌汁一種である俳句における「冬の季語」となっている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%8D%E8%B1%86%E6%B1%81

江戸時代において納豆一般的な食べ方として各種の文献に記されており、江戸をはじめ日本各地で食べられていた。幕末風俗史書『守貞漫稿』に、当時の状況が記述されている。また要約であるが、「寒い地方では野菜が不足しがちなので、納豆で補う。江戸では夏もこれを売る。汁にして煮るあるいは醤油をかけて食べる。京・大坂では、自家製だけで、店売りのものはあまり見かけない」とも記述されている。

江戸においては、「納豆売り」が納豆汁の食材を売り歩いた。「叩き納豆」は、インスタント味噌汁のようなものであり「叩き潰した納豆」「青菜」「豆腐」がセットになっているため、出汁味噌を溶いたお湯を注ぐだけで納豆汁となった。[要出典]

毎朝「なっと〜ぉなっと」と呼び歩く「納豆売り」は、川柳で多く読まれるほど日常的なものであり、朝食に上がることが多かった。以下のような川柳がある[3


東北地方山形県岩手県秋田県などでは広く親しまれており、山形山形市・新庄市庄内町酒田市鶴岡市岩手湯田町(現:西和賀町)、秋田湯沢市において地方料理として知られている。また秋田県山形県の一部では正月雑煮納豆汁仕立てになる。熊本県福岡県大分県の一部地域では納豆雑煮が食されるが、納豆は汁の中ではなく別添えであるしか納豆消費量が全国1位の福島県福島市水戸納豆全国的に知られる茨城県水戸市では納豆汁の存在すら知らない者も多い。

岩手県

納豆味噌スープを作った後、更に納豆具材として追加する。

南部地方では、せんべい汁納豆を入れることもある。

山形県

納豆ペースト状にしたものを汁に入れる[8]。

また、1月7日七草粥の代わりに納豆汁を食べる風習がある。

郷土料理となっており、具の多い汁となっている[9]。

秋田県院内湯沢市横手市

岩手県山形県中間といった具合。豆が細かく砕ける程度にすり潰した納豆を汁に溶き、具材わらび等の山菜がふんだんに使われている。

ひきわり納豆の産地でもあるので、ひきわり納豆を入れることが多い。潰さなくてよいので、便利である

県南では山形県寄りの文化が濃いせいか濃い納豆汁が多い。具には塩漬けワラビゼンマイキノコなど保存性の高い食材が用いられる。

2025-02-06

徴兵(ちょうへい)」ではない「微兵(びへい)」の実際の用例

明治18年大日本人辞書 渋川義勝』

我逞兵皆な君に小田原に従ひ微兵を以て対抗する最も難しと為す如ず

主君が不在のあいだに城を攻められ、留守居役の武将が「我らの精兵は主君に従って小田原にいる、残ったわずかな兵で対抗するのは難しいだろう」と言っているようだ。

明治24年日本軍人用文 白虎隊殉難之士を吊ふ文』

東藩一団の微兵を以て百日の久しき天下の大勢を廓外十里の野に困ましめしこと亦以て故へあるなり識るへし

東北の藩のわずかな兵をもって明治政府の軍とよく戦ったのには理由があることを知るべきである」といった感じだろうか。ちゃんと「びへい」とふりがながあるので「微兵」であることに間違いない。

明治24年桶狭間戦記』

レノ大兵ニ我微兵ヲ以テ向ハンコト其利アルヘカラス

「あの大軍に私がわずかな兵をもって立ち向かっても利益はないだろう」といった感じ。

明治26年日本戦史 長篠役』

縦令信長請に応せすとも我今軍を出さすんは貞昌か死亡眼前に在り是を救はすして豈弓矢の本意ならんや然れとも微兵を以て大軍に当ること容易に非らす

徳川家康が「たとえ信長が援軍に応じないとしても、私がいま軍を出さなければ(奥平)貞昌の死は目前であり、これを救わなければ武士として失格だが、とはいえわずかな兵で大軍に当たるのは容易ではない」と言っている場面。

明治26年日本戦小牧役』

殊に去年長久手戦の日龍泉寺にて微兵を率て吾三万八千の大軍に並んで押行き火砲を発し武威を奮ふ時忽ち撃捕ふへし

家康使者として秀吉に謁見した本多忠勝を、「特に去年の長久手の戦いで、(忠勝は)龍泉寺わずかな兵を率いて、私の三万八千の大軍相手活躍していたときは、すぐに討ち取れと言ったものだが、今はもう講和を結んだので、家康の家臣は私の家臣も同じだ」と秀吉が称えている場面のようだ。

明治44年日本歴史文庫 四戦紀聞 尾州長久手戦記』

今従兵僅か七八騎に過ぎず。此微兵を以て大敵に向ひ、横死して何の益かあらんや。

桶狭間戦記と似たような文章。四戦紀聞の成立は1705年らしい。

大正2年『時事評論 本多平八郎忠勝』

家康御家人等は味方の微兵を以て猛勢の朝倉に向かはせ給ふことを聊かも憂苦せず

姉川の戦いの場面か。「家康の家臣たちは味方の兵が少なくても朝倉の軍に立ち向かうことをまったく恐れなかった」みたいな感じか。

大正5年国史叢書 朝鮮征伐記』

剰へ今度日本関白秀吉小国微兵を憚らず、清正・行長・長政・隆景等の将士を先鋒とし、朝鮮屠殺す。

中国視点で「あまつさえ秀吉は、日本小国で、兵がわずかであっても大人しくせず、朝鮮侵略した」みたいな感じか。朝鮮征伐記は1665年の成立だが、だいぶ怪しい史料ではあるらしい。

大正6年大日本史丹羽歴代年譜』

此度大坂陣長重手エ得ル首級都合十四、是僅ナリト雖モ、長重討死ニ決シ、微兵ヲ以テ粉骨ヲ尽シタル戦功ハ、具ニ上聞ニ達シ公籍ニ載ラレ、且諸侯伯知之所也

大坂の陣で丹羽長重はそれほど首級を挙げることはなかったが、長重が討ち死にの覚悟を決めてわずかな兵で頑張ったことは、みんなが知っているので安心してください」といった話か。丹羽歴代年譜っていつ成立したんだろ。

大正7年『泗川新寨戦捷之偉蹟』

忠恒公ハ本丸ヘ入此合戦味方纔ノ一千有余ノ微兵ヲ以テ敵ノ百倍ノ猛勢ニ接シ衆寡ノ勢天地懸隔ストイヘドモ其戦略図ニ中リテ一挙ニ大敵ヲ鏖殺ス

朝鮮出兵で「島津忠恒が一千あまりわずかな兵で百倍の敵を皆殺しにした」という話。

大正7年江戸 一夢林翁戊辰出陣記』

天朝ニ奉哀訴社稷ノ血食ヲ謀ラントノ志願ニテ微兵ヲ挙ケ同志ヲ伴ヒ甲州黒駒迄到シ処田安中納言殿ヨリ説諭ノ趣有

朝廷に訴えて幕府を残せないかわずかな兵を挙げて同志を伴って甲州黒駒まで至ったが田安中納言(徳川慶頼)に諭された」でいいのかな。一夢林翁というのは林忠崇という人物のことらしい。

昭和以降は略。

今回は「微兵を」で検索しただけなので「微兵の」とか「微兵たる」とか「微兵にて」とか他にも用例はあろうと思う。

文語調の古めかしい文章には多く登場している一方で、口語としてはまず見かけず、昭和以降ともなるとほぼ古文書引用とかでしか出てこない、という印象。

ともあれ「徴兵(ちょうへい)」ではない「微兵(びへい)」という言葉がかつて存在していたことは確実で、「OCRの読み取りミスによる存在しない言葉である」と切り捨てるには惜しいのではないかと思った次第。

2025-02-04

anond:20250125130312

昔200時間くらいかかって作ったレアポーションが何度も来た緩和によってすぐ作れちゃうし、なんなら取引所ですぐ買えるようになってしまった

新規プレイヤーも同じ時間苦労して作ればいいのに

100時間かかったコンテンツに緩和がくると10時間以内で終わるようになるとか極端すぎる

さらに緩和がくると作るのに100時間かかったアイテムプレイヤー全員に配布されるようになる

最初に頑張ってた人たち馬鹿じゃん

昔の人は江戸から大坂まで120時間かけてたのに現代人は3時間しか使わないんだけどこれもズル?

昔の人は馬鹿だったの?

2025-01-02

anond:20250102114033

干禄字書では、坂は通字、阪が正字とされている

それぐらい古来から異体字だし、江戸時代から明治時代にかけては大坂大阪は混在してたらしい

その時代だと坂と阪が別字であるという意識がおそらく無い

それが明治ごろに徐々に大阪統一されていった、という流れだから、ある一時点で改名されたってわけではない

大坂」が「大阪」に改名された経緯を示す資料がなさすぎないか

浄土真宗門徒が開いたこからあの地域大坂といわれていた。

秀吉が建てた巨城の名前大坂城。

徳川幕府がはじまって大修復された城も大坂城と呼ばれていた。

町民文化が隆盛した元禄期も大坂城と呼ばれている。

その後、いつのまにか大阪城と呼ばれるようになった。

文献には「土が反るは不吉であるので大阪とよばれるようになった」と書かれているけど、これ、おかしいだろ。

地名が変更になったのであれば幕府公文書地名を変更した経緯が書かれるはず。なのにそれがない。

地元民が「不吉と思った」とかその程度の理由改名されるとか。まるでもともとの地名が不吉ということで名が変わった多摩プラーザじゃないかよ。

日本第二の大都市名前多摩プラーザレベルの軽薄さで改名されていいはずがない。

ぜったいにおかしい。

2024-12-26

滋賀医大大坂高裁変態については、全裸にしたうえ

ケツと口腔をハリボテで攻撃しながらビデオ撮影しても無罪

2024-09-27

anond:20240923220136

江戸時代紀州特に南紀)の人達木材大坂ではなく川と太平洋を通って江戸に直接売っていた。

そして、房総半島南紀住民が多く移住した。

なので、南紀安房には歴史的繋がりがある。

紀州出身者が安房の延長線上にある銚子進出していても不思議ではない。

なお、阿波の方も繋がりがあったようで、

南紀安房阿波の全てに勝浦があり、かつビッグひな祭りが開催される。

2024-06-08

国会図書館デジタルコレクションで見る明治時代新撰組の扱い

明治時代新撰組庶民からどのように思われていたのかを調べるために、庶民の目に触れていそうな(?)雑誌記事だとか読み物だとかを抜粋していく。

明治10年『昔今豪雄見競鑑』

こちらは明治10年頃の「番付表」を集めた書籍のようだ。

『昔今豪雄見競鑑』は歴史上の英雄明治期の英雄を対比したものだが「都ノ猛勇 悪源太義平」と並んで「脱走ノ勇士 近藤勇とある

近藤勇ってどっかから脱走したっけ?と思ったが、幕府瓦解後の旧幕府軍のことを「脱走方」と言ったらしいのでそのことだろう。

同じく「古今英雄競」「本朝今昔英雄鑑」「古今英雄三幅対」などにも近藤勇の名が挙がっている。

このような番付でよく名前が挙がる程度には知られていたらしい。

明治16年『徳川義臣伝』岡田霞船

まずは近藤勇について。

近藤勇武勇衆に秀で当時其英名尤も人に知られり新徴組の隊長となりて始め京師に在り又大坂に退き伏見の戦ひ幕兵乱るる中より取て返し迫る官兵を追捲り銃丸足に当ると雖も屈せず大ひに勇名を現し江戸に返りてより諸士を煽動して甲府に至り勝沼駅にて寄手を破りしが遂に衆寡せずして敗軍なし残兵を率いて走りたるが官軍厳重に探索を遂流山に於て勇(いさみ)を捕へんとす勇(いさみ)力戦して縛に就き板橋駅にて斬せらる

新徴組と間違えられとるやんけ!

新撰組時代よりもその後の甲陽鎮撫隊時代のほうに力点が置かれた説明のような気もする。

土方歳三も紹介されている。

土方歳三幕府の旗下にして始め京師にあり伏見鳥羽戦争破れしより江戸に返り諸士を募り主家を再興せんと謀り軍議を決して榎本永井の人々と共に品海を脱し函館に趣き尚ほ奥羽の士を募り官軍の来るを待受屡々寄手を脳す然れ共官兵は新手を入替無二無三に攻立たるに脱兵防戦に尤も苦む歳三毎も真先に進み敵を切る数十人に及ぶ後乱弾にあたりて死すといふ。

新撰組について何も触れられてねえ!

とはいえ「義臣」と銘打っているだけあって悪いようには書かれていない。

明治18年『汗血千里駒』坂崎紫瀾

『汗血千里駒』は坂本龍馬主人公として、その名を一躍有名にしたという小説。その龍馬暗殺犯として近藤勇が登場する。

縦令ひ其不意を打ちたるにもせよ鬼神と呼ばれし海援陸援の両隊長をば斯く容易く一挙に斃し負せる其の手練と謂ひ肝気と謂ひ天晴れ日本一の剛の者と思はるるも実に理りなり彼の刺客は当時徳川将軍の御内に其人ありと聞えたる新選組の旗頭近藤勇等にてありしと

近藤勇とその腹心の土方歳三が、二人で近江屋に討ち入り、坂本龍馬中岡慎太郎を斬って、「そのとき義経少しも騒がず…」と高らかに謡いながら出ていき、今際の際にそれを聴いた龍馬が「あの刺客は只者ではない、彼らのような豪胆さがあってこそ大事を成せるのだろう」と慎太郎に語る、という描写があり、これがのちの様々な作品踏襲されていったようだ。

当時幕府の亡びなんとするは天の命なり民の望なり社会自然の気運なれば今は百の勇(いさみ)ありとも亦之を如何ともすることなきをば思はずして健気にも唯忠を己が仕ふる所にのみ尽さんとしたるは愚かにも又哀れとや謂わん

時代の流れに逆らって忠を尽くした健気だが哀れな武人…といった感じで「敵役でありつつ悪役ではない」という扱いに思える。

明治22年『女侠松竹梅』奥村玄次郎

偖は其方が近藤なるか。其方幕府を笠に着て国を憂ふる正義の士を多く害せし大罪人。此処で遇しぞ僥倖なれこれまで其方の手にかかり不幸にも寃に死したる正義の志士の忠魂を弔ふための復讐せん

お松・お竹・お梅という三人の娘が勤王の志士を助けて新撰組と戦う、といった話らしい。

こうしたいかにも勧善懲悪な読み物では「典型的な悪役」として描かれていたようだ。

明治26年『活文字』鈴木力・佃信夫

近藤勇の話

江川太郎左衛門が琴の譚に比らべて、劣る事なきは、近藤勇の謡なりけり、以て幕臣中の双美とこそは為す可けれ、左に説かむ。

武勇と剛胆とは、麾下九万の士人中、勇(いさみ)ぞ其第一位を占めたりける、さればまだうら若き身を以て、新撰組の頭領として、海内動揺の中心たりし京城鎮護の命を稟げ、一時其独力をもて、鷙悍狂躁の浮浪はらを打鎮め、幕廷擁護干将莫耶とは成りたりけり。

めっちゃ褒めるやん。

土方歳三は、豪邁不屈、肝気非常の男なれども常に勇(いさみ)を相輔けて、死生を共にせむ事を約し、巴港戦死の時に至る迄、其生前の交義を追想し、風吹く日雨降る夜ども、寒窓の下に俛泣し、時世は既に望なし、片時も早く、泉下に亡友を尋ねましとぞ歎ちけるとぞ、其人をしらまく欲せば、先づ其の友を見るべかる、この一斑の譚を見ても、勇(いさみ)が全豹をぞ推すに足る。

国粋主義系の雑誌らしいんだけど朝敵をこんなに褒めていいのか。忠義を尽くして死ぬ話がやはり好きなのか。

コラムの後半では坂本龍馬暗殺の話が書かれていて、この頃はやはり「龍馬を殺した男」という印象が強かったようだ。

明治29年『近藤勇の少年時代』中野三鷹子

『家庭雑誌』という婦人向け雑誌掲載されたコラムらしい。

著者本人が古老に取材したもので、幼少期の勇が近藤周助の養子に迎えられて「近藤勇」と名乗るまでを紹介している。

是より後のことは明治維新の史にくはしく、今更いふべき要もなし、唯其妻の事継嗣のことおよび処刑後の事并びに近藤勇と尤も関係ふかき土方歳三ことなどは、世に知られざるふし多しそは又時をかへて語らん。

として次号に「近藤勇の妻及子」、また別の号に「土方歳三少年時代」が掲載されている。

婦人雑誌でも「今更いふべき要もなし」と言うほど近藤勇知名度は高かったのだろうか。

花を浮べし徳川の流れの末荒浪立ち騒ぎて、二百六十余年は名残の夢となりける時、武士道の意気地を立て貫きて、板橋の草に赤きこころの血を染めたる近藤勇の名を知る人は、函館の浦吹く風に露と消えたる土方歳三の名を忘れざるべし。

かっこいい。

明治30年『幕府名士近藤勇』松林伯知

松林伯知は、永倉新八から『浪士文久報国記事』を借りパクした疑惑があることで知られる講談師で、新撰組講談主人公とした最初期の人物だったという。

巻末に「夢物語」と題した短編が収録されていて、それは函館に入った土方歳三が「公武合体成功した新政府のもとで陸軍を率いる近藤勇海軍を率いる坂本龍馬が仲良く会話する」という夢を見る、というifルート的な内容のようだ。胸熱

本編では、坂本龍馬暗殺したのは近藤勇ということになっているし、新撰組結成前に江戸近藤勇坂本龍馬が手合わせをしていた、というような場面も描かれている。

明治30年『坂本龍馬(名士伝)』竹林巌

少年世界』という、その名のとおりの少年向け雑誌掲載された坂本龍馬の伝記で、そこに近藤勇が登場する。

人と為り魁夷、斗酒を嗜なみ、勇悍独歩肝臼の如し。幕の末路に当り新選組の長となりて徳川氏の為め新日本の活舞台上に仇すること実に巨多なりとす。彼は常に歩百歩の外に潜行して西郷大久保坂本等を暗殺せんと睨むこと茲に年ありき。就中龍馬が大勇は向に新選組百有余人をして全く色なからしめ、以て其長たる勇(いさむ)の面目を天下に唾し去り。(中略)勇(いさむ)は今や血燃え、涙滾りて自から禁ずる能わず。すなわち刎頸の友、土方歳三を招きて何をか耳語すること久し。忽ち相頷きつつ頗る決色ありき。

として近藤勇土方歳三は、二人して坂本龍馬暗殺に向かうのだった、という筋立てになっている。暗殺の場面は『汗血千里駒』を踏襲している。

明治31年『新撰組十勇士伝』松林伯知

こちらも松林伯知の講談を筆記したもの

前述の『幕府名士近藤勇』には沖田総司永倉新八は出てこないが、こちらの『新撰組勇士伝』には登場する。

ただし、沖田が天才剣士だとか、そういうキャラクター付けはまだ無く、せいぜい「名前のある脇役」くらいの立ち位置のようだ。

芹沢鴨暗殺山南敬助切腹伊東甲子太郎との敵対池田屋事件などのエピソードはある。

また、こちらでは龍馬暗殺近藤本人ではなく「近藤勇の命を受けた佐々木只三郎」によるものということになっている。

京都見廻組佐々木只三郎らが龍馬暗殺したという説は明治2年には出ていたようなのでそれを取り入れたものか。

明治41年『二十世紀之京都』

京都観光ガイドブックらしいが、壬生寺についての紹介で新撰組言及がある。

節分には疫除祈祷の為め参詣者群れを為せり、去れば維新前後天誅組と称し近藤勇土方歳三など当寺に立籠り壬生浪士といへば婦人子供の戦慄せし当時を思へば御代太平を喜こばぬ者はない

当時の京都人の認識がうかがえるものの、「天誅組」といえば倒幕派武装集団なので新撰組とは正反対存在である

単なる勘違いなのか、それとも庶民あいだでは混同されていたのか。

明治44年『幕府名士近藤勇』『怪勇後の近藤』玉田玉秀斎

松林伯知のものと同じタイトルだが別の講談師によるものらしい。

こちらには沖田総司永倉新八斎藤一らも登場するが、池田屋事件の場面において、

中にも沖田惣司の働きに至っては実に目ざましい、此処彼処と戦ふて居りまする中に、最う最後と思ふ、折りしも何処からか一人の敵が、惣司の袖の下を潜って逃げんとする 沖田「己れッ………」と云ひながら躍りかかつて、エイッ……只だ一刀に斬って落とした、其の時に急に持病の肺患が起つて其の場に気絶をした

とあり、喀血ではないが、沖田総司の発病の描写があるのが興味深い。

同じ明治44年に刊行された鹿島淑男『近藤勇』(デジタルコレクションには1975年の復刊版である新選組実戦史』しかない)にも同様の記述がある。

そちらは新聞連載をまとめたものだというので、講談師が紙面で読んで取り入れたものか。

まとめ

明治の始めにはまず「近藤勇個人が知られ、「新撰組」はそれに従属する情報にすぎなかった。

・『汗血千里駒』によって坂本龍馬の人気が高まるにつれて、「坂本龍馬暗殺した男」として近藤知名度を上げた。

近藤の腹心として土方歳三が登場することは多かったが、それ以外の隊士たちはほとんど取り上げられなかった。

近藤は概ね「維新志士の敵ではあったが立派な剣士だった」と捉えられていた。

しかエンタメ寄りの勧善懲悪ものでは典型的な悪役を演じることもあった。

・やがて永倉新八の『浪士文久報国記事』などをもとに、近藤勇主人公とした講談が演じられるようになった。

明治末にはさまざまな証言資料が揃ってきてディテールが深まり近藤土方以外の隊士が取り上げられることも増えていった。

・やっぱり京都からの評判は悪かったらしい。

2024-05-29

anond:20240528202837

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