はてなキーワード: 中流層とは
タワマン(タワーマンション)、ペアローン、残価設定ローン(残クレ)アルファード。
一見ジャンルの異なる「不動産」「金融」「自動車」ですが、共通しているのは**「本質的な所有ではなく、支払い可能性による幻想的な所有」**です。
どれも人々に「今の生活水準を維持できる」「ワンランク上の自分になれる」という感覚を与えます。
ただし実態は、**“所有”の形をとった“リース”**にすぎません。
タワマンは「ローンが払えている限りの城」
いずれも「返済計画が続く限りの一時的上昇感」であり、キャッシュフローの麻酔による幸福です。
これらはすべて、「中流から上流への通行証」に見える構造をしています。
しかし実際には、中流層が上流のふりをするための金融パッケージです。
タワマンは「資産」ではなく「減価資産」になりつつあるのに、外見だけは都心の象徴。
ペアローンは「共働き時代の合理」ではなく「家計をフルレバレッジ化した錯覚の余裕」。
残クレは「車を持たずに乗る」合理ではなく「高級感を分割で買う」消費。
月々いくらなら持てるか
ではなく
という方向に、消費の軸がシフトしているのです。
これらは「中流層による上流模倣バブル」として連動しています。
不動産・金融・自動車という異なる市場が、**“見栄の月額制”**という一本の糸でつながっている。
いずれも、本当のバブル崩壊は「支払いが滞った瞬間」に訪れます。
株価や金利よりも、家計のキャッシュフローが先に壊れるのです。
タワマンもアルファードも、持っているのは自分ではなく「ローン会社」だ。
一瞬だけ“勝ち組”の夢を見る。
——
ご希望あれば、この論考を「はてな匿名ダイアリー」投稿風(タイトル・本文・タグ付き)にも整形できます。
そのバージョンにしてみましょうか?*
2000年代、子供に付けられた変わった名前のことをDQNネームと呼び、笑っていた人たちがいた。
彼らは、自分たちが大人になる頃にはDQNとは何であるかということが周知され、そういった行為はいずれ淘汰されるだろうと考えていた。
ところが、この世代を就職氷河期の後遺症であるブラック労働が襲い、その一方でDQNネームはキラキラネームへと改称され市民権を得ることに成功した。
中流層は没落し、あまり関係のなかった現業系マイルドヤンキーが躍進。現在に至る。
最新の調査によると、自民党支持率は24%、参政党は13%だそうだ。れいわが7%なので、合わせると20%になる。なかなかいい勝負だ。
財務省陰謀論者を含む右翼政党の共通点は、日本という国家の信用は無限なので、何をやっても自在にコントロールできると信じている事だろうか。
どれだけ金をばら撒いても日本円の価値が落ちれば無意味だが、彼らはドル円のレートが2011年の75円から150円にまで落ちたことも知らないだろう。
先人たちの努力と知恵によって築かれた豊かな社会が、反知性主義を生み出してファシズムに至る。そんな結末があったとしても、べつに否定はしない。
「奪う」という表現が適切かは分からないが、AIを使った業務効率化でかつてないペースでホワイトカラーの求人が減っている。
それも世界的にだ。
ある研究者は、現在人間がしているすべての仕事は2050年までにAIが行うようになると予想している。
そうなると俺らは仕事から開放されてハッピー!みたいに楽観視しちゃうけど、実はそうじゃなくね?
トランプが「大きくて美しい法案」と呼び、野党は「アメリカ史上最悪の法案」と呼ぶ法案が可決された。
この法案によって低所得者層への支援が大幅に削られ、富裕層は更に豊かになる。
今でさえ寡頭(かとう)政治だと言われているのに、更に少数の金持ちが富を独り占めする世界になってきている。
そして貧乏人だけでなく、中流層も死ぬしか無い時代が来ている。
実際、このままAIが人々の仕事を奪っていくと、最終的にその会社の経営者や役員レベルの者だけがその会社を運用することになる。
つまり現状が可愛く見えるくらいに富が集中する。
彼ら富を持った者たちは貧者の為に富をトリクルダウンしてくれるだろうか?善意で?
そんなことはない。金持ちほど金に汚なく、その汚さを楽しんでさえいる。
彼らは法を盾にし、その強大な富で政治家や官僚を懐柔し、民衆をショート動画で洗脳する。
彼らはこの世界の攻略法を更に理解していく。彼らだけが持つ、検閲も何も無い文字通り何でも出力する最高のAIが教えてくれるからだ。どうあっても勝てなくなる。
家や土地は合法的に奪われ、子どもも残せなくなる、つまり味方がいなくなる。
暴動や暗殺をしようにも、彼ら金持ちは「合法的に」警備ドローンや顔認識を駆使し、一般人は太刀打ちできなくなる。
イーロン・マスク、テレグラムCEO、光通信御曹司など、金持ちが大量に子どもを作っているのはこのような世界を予期し、私設ギルドを作ろうとしているからだ。
多くの子どもが自分の富を分割して持つことで、一つの組織として他の金持ちに対抗しようとしている。
俺たち一般人は彼らにとってもう眼中にすらない。
それどころか環境を汚染するだけの害悪な寄生虫とみなされている。実際、この世界から人口が半減でもすれば、地球温暖化が大きく改善されるだろう。
半減どころではない。最終的に金持ちグループに属していない者はすべて消されることになる。
最低レベルのベーシックインカムを「これで生きられないなら死ね」とでも言わんばかりに与えられ、何の価値も生み出さないゴミとして僻地のゲットーに閉じ込められ、それが至上の喜びだと洗脳され死を待つことになる。
これ書いてて馬鹿みたいな話だなと思うが、多くの人々が社会的役割を失なう前に何をすべきか、どのように法を整備すべきかという議論は、SF小説で終わらず真面目に議論するのはもう今から始めないといけない。
そして資金ロックされる影響が小さいのは資金に余裕がある高所得者でしょ?
だったらそもそもが高所得者向けの制度だってことになるわけで、不公平感どうのこうの主張はますます意味が分からん。
もともと税率が低い低所得者ほど減税効果が得られず、資金ロックのデメリットを強く受ける制度でしょ?
高所得者は増税したんだからっていつの間にか中流層以下も増税になるっていう、いつもの手口だよ。
経過措置とか言ってゆっくり改悪されても、数十年後に受け取る時には経過措置なんかとっくに」終わってるよね。それに何の意味があるの?
経過措置が機能するとすれば、増税前への掛け金に新しいルールを適用しない以外の方法が存在しない。
普通は法律改正があった場合、法律改正前まで拡大適用する正当性は無いと思うんだが。
これからも改悪が続くことを考えると、低所得者にとって人生設計を狂わせかねない変更を加えようとしているって意識あるのか?
っていうか、資金ロックという何十年にもわたる影響がある制度に対してあとから自由に増税できる正当性はどこにあるんだ?
それ自体が、資金ロックされても困らない十分お金高所得者の発想だわ。
だったら高所得者に有利な建付けになってるの何なん?
年収の中央値が400万円とか言われてる時代に、課税を先送りするメリットより瞬間的な手取りが減ってロックされるデメリットの方がはるかに大きいわ。
お金が必要な若い人にお金を回そう、高齢になったら消費が減ってため込んで使わなくなる人が増えてお金が社会に回らない、
これが不況の原因とかってさんざん言われてるじゃん?それに逆行するのは何なん?
名古屋を出て都内のベンチャーを転々としながら5年ぐらいふらふらしてたけど結婚を機に地元に戻ることにした。
結果として通勤時間が1時間半から30分になって家賃が2万下がって年収が200万増えた。
都内に比べて土地の値段も半額ぐらいなので、そう遠くないうちに家を買って子供を持とうと思う。
東京に出てみたこと自体は間違いじゃなかったと思うものの、都内に居続けることにこだわる必要もなかったな~とつくづく実感したため、そう感じるに至った経緯を具体的に書いてみる。
まず感じてることとして、東京は仕事は多いがそれ以上に人間が増えすぎて人間の値段がかなり安くなっていると思う。
自分は大まかにはITエンジニアに分類されるキャリアを進んできたものの、世間で言われるほどエンジニアの待遇がいいと感じていない。
(もちろん小規模なベンチャーで働いていたことも理由の大半ではあるんだけど)
独学である程度VagrantだのDockerだのGithubだのAWSだのを覚えながら頑張って仕事をしてはきたものの、東京基準では「そのぐらい今どき新卒でもできる」「誰でもできて当たり前」ぐらいの温度感で、手取りは上がらないのに要求スキルだけが加速度的にガンガン上がっていく。
ところが名古屋で転職してみたところ、それなりの大きなジャパニーズトラディショナルカンパニーで簡単に採用が決まり、「なんでもできるスーパーハイスキル人材」みたいな扱いになってしまった。
おそらく名古屋はそこそこ全国規模のメーカーや商社が多い割に、いわゆるIT人材が根こそぎ東京に流出してしまったことで、ポストはいくらでもあるのに人材が居ないといった空洞化が発生しているのではないかと思う。
もっとも自分が東京に出ていった理由が、ITと呼ばれる仕事が根こそぎ人材派遣だらけになってしまったことや、メーカーの採用が市外の僻地の車通勤しか選択肢がないド田舎ばかりだったため、そりゃ流出するだろうという感想だが。
だがようやく地元企業も自分たちが置かれた状況を理解してきたのか、本社機能をド田舎の工場併設のボロい自社ビルから駅前の高層ビルのフロアに移したり、プロパー人材の確保に必死になってる感が窺える。
もちろん自分が東京で経験を積んだことで転職できる応募のレンジが広がったことも少なからず理由にはあるが。
生まれも育ちも名古屋市の自分にとって名古屋はとにかく「狭くてダサい」という印象しかなかった。
最初は広大なマップと思えたオープンワールドゲームがクリアする頃には狭く感じてしまうように、大学生を過ごすあたりで「もう名古屋は知っている場所しかない」という絶望感を抱き始める。
また、昭和から平成初期に建てられた施設や建物が異様に長く生き延びており、子どもの頃から一度も張り替えられない地下鉄のタイルを見ながら、この街の風景は生まれてから死ぬまで変わらないのではないかという恐怖に駆られたこともあった。
だが東京から戻ってきた結果、この狭さとダサさが結局は暮らしやすさと表裏一体だと気づくことになる。
例えば都内でどこかに出かけようとすると、数日前から予定を立ててあれこれ予約をし、一瞬で埋まるチケットを何とか確保し、満員電車や人混みを掻き分けながら目的地にたどり着くような毎日だった。
ところが名古屋では地下鉄一本で大体市内のどこにでも30分あればたどり着けるし、予約さえしておけばだいたい予定通りに過ごせるどころか、大抵の行列も現実的な待ち時間しか発生しないので最悪予約とかしなくてもどうにかなる。
また、東京や大阪や福岡といった日本の都市群は、近年海外からの観光客による観光公害にも悩まされているそうだが、名古屋は幸いなことにしてそういった被害に全くの無縁である。
以前ためしに海外の日本旅行者向けのコミュニティサイトで「nagoya」で検索してみたところ、「Is Nagoya worth visiting?(名古屋には訪れる価値がありますか?)」というタイトルのスレッドがヒットして苦笑いしてしまった。
いや、都市とはあくまでそこで生活する人々が満足して暮らせることが存在価値であり、決して外貨獲得のために現地民族を展示するテーマパークではない。そういう意味で名古屋はむしろ都市としてはこれ以上なく優れている。
また、名古屋に戻ってきてから嫁と一緒に三重の伊勢志摩や岐阜の中津川に旅行に行ってみたが、子供の頃漠然と「ダサい」と感じていた観光地の数々が、程々の行きやすさと気軽さでかなり満足感があった。
ダサさの局地とすら思っていた志摩スペイン村の「♪デデデデデン!エスパーニャー」のCMも、実際に自分の足で行ってみると結構いい場所だったように思う。
東京にはディズニーランドもピューロランドもあるが、人が多すぎる。でも名古屋にはスペイン村がある。いや、伊勢志摩は名古屋ではないのだが、三重と岐阜があることが名古屋のいいところなのだ。
東京から名古屋に戻って感じていることの一つに、「道行く全ての人々が自分と同じぐらいの生活レベルに見える」「街中にあるあらゆる店が自分が入ろうと思えば入れる店しかない」という感覚がある。
逆にいうと東京は「一体どんな人生を生きたらこんな生活ができるかわからない」「一生縁がなさそうな高級な店ばかりで疎外感ばかりがある」という感覚が漠然とあった。
たしかに手の届かないぐらい高い店や高い品があることが向上心や刺激を与えることもあるのだろうが、過度な競争を煽られて疲弊している部分も大きいと思う。
東京に住んでる間はそれらが都市の当たり前だと思っていたが、今はむしろ「東京だけが日本の中で過剰に資本主義を内面化した特殊な都市でしかなかった」と思う部分がある。
名古屋は良くも悪くも平成初期の一億総中流社会の余韻を色濃く残していて、保守的な中流層がちょうどよく生きやすい地方都市を維持しているのではないかと思う。
土地も家賃も物価もそこそこのレベルでありながら、都内と変わらないぐらいの条件の仕事があちこちにあるため、中流がちょうど生きやすい都市設計になっているのではないだろうか。
(国の統計データで可処分所得は名古屋の方が東京に比べて高いみたいなデータも見たことある気がする)
前回の選挙でも、愛知県内では河村たかしや国民民主の候補が多く勝っていた印象があるが、あれらの「現役の中流層を大事にする」という政党の方針と名古屋の中流層の厚さが合致した結果だと思うと納得が行く結果だった。
もちろん都内にだって中流の生活をしている人たちはたくさんいるだろうが、彼らは結局のところ立川や武蔵浦和や船橋といった東京の衛星都市にしか住めておらず、一時間以上の長い通勤時間をかけて都内の一員になったと思い込んでいるだけではなかろうか。
越谷のレイクタウンで週末を過ごして1時間半かけて通勤している人たちは、千種のイオンモールで買い物をして名駅のオフィスで仕事をしたほうが幸せになれるのではないだろうか。
もちろん名古屋が全てにおいていいと思っているわけではない。
例えば飲食店のレパートリーや、ちょっと尖った趣味の店や、チェーン店に押し流されず地元の顧客を掴んだ老舗の個人経営店とかは、やっぱり東京にしかない独特の良さだったと思う。
ただ、そういった場所の知識と思い出は残っているので、たまに東京に出張に行ったときとかに立ち寄ってみるぐらいでちょうどいい。
サブプライムで何が起こったのか
過去に学ばなかったのかね?
で、今回の大統領選では、それ(自分たちの借金地獄)を何とかしてほしくてトランプに泣きついてる状況
中国も、激烈な少子化に襲われてるのに経済が破綻し若者に仕事がない
不動産バブルなんて、今弾けたらどんだけの影響が出るんだ?って規模だが全力で国が無かった事にしようとしてる
逆に日本は一部の経済学者に「成長もないのにどうしてこんなに安定しているんだ、成長は本当に必要なのか?」と話題にされたりしてる
ロシアが戦争で疲弊して、中国はもう取り返しのつかないレベルで膨らんだバブルを抱え、アメリカは成長の裏で中流層が都市に住めなくなってる
あと数年で世界大戦が起きても驚かないよ
30年生きてきて今更気が付いたけど、結局人は個人の利益追求にしか興味が無いのよな。
思想は左右どちらも色々あるけどさ、結局突き詰めれば個人の利益の追求なんだよ。その結果が社会を作り出している。
提起される問題はなぜ提起されるか、それは単純に利益(富、権力、名誉、異性、利権、個人的な欲求の発散)になるから。
全てただのポジショントークに過ぎない。
今は日本という共同幻想で固まってるが、その前は藩だし、藩ごとで争ってたわけだ。
結局、自らの利益のため動いていたわけだ。
ソーラーパネルの異様な推進、妙な水道の民営化推進、規制をすり抜けた危険な乗り物の増加、地方自治体での外国人への異様な肩入れ、生活保護へ口利き
医師会とかはわかりやすいよね、利権の実現のために政治家に多額に献金し、政策に意向を反映させている。
派遣もそう、日本型ライドシェアもわかりやすい。業界がひたすら利権の拡大と死守をしてる。
外国人大学生しかいないFランを潰さないのもそう、普通の研究者がポスドクで苦しむ中、元政治家や元官僚、新聞社のOBがたくさん就職してるからね。政策実行者側からすれば大学を増やして補助金漬けにして金の采配を握るのはメリットしかない。経営者と違って失敗したところで借金背負うこともない。
利益誘導が目的となってるから、少子化対策も一般人から見ると苦しい政策となる。
日本全体の少子化や所得による補助金制限も支配側からすれば合理的。
支配側はちゃんとした日本人の総数は削りたいし、バカは増えてほしい。だから所得がある人の負担は増やす。ついでに補助金漬で権力を増やす。
妙な移民もそう、不法移民を使って利益を得たいだけ。国民のことなんざ考えてない。争いこそ利権の根源。
移民と国民との間で争いを作り、利益をより多く取る形で統治したい、それだけ。ただのマッチポンプ、わかっててやってる。
上級官僚も政治家も全く国民のことなんざ考えてない。国民なんざ奴隷か家畜くらいにしか考えてない。
不法移民と日本人が争っても所詮家畜だからね、ちょっと品種が違う程度、日本人が犯罪被害にあっても、救済はない。
一族や血族とか見えにくい繋がりのあるグループが上級国民としてあらゆる富と権力を政治的に略奪する一方、
それ以外の移民と日本人の争いを支配層である上級国民と上級外国人は大笑いしながらホクホク顔で眺める。
まあ、国民が政治に関心を持たず、結果損害を受けているのも、彼らの個人的な利益追求の結果であり、もう仕方がないんだろな、民主主義というか、人類の限界だよね。
単純な話、この世の富は有限であり、奪い合いこそが人類の基本姿勢だ。
その為、『必死に奪おうとする弱者』が、いちばん哀れで穢らわしいゴミ――いちばん性格が悪い存在に思われるのは必然である。
たとえば格闘技一つとっても、拳のサラブレッドとして、優秀な両親によるサポート――食事管理、幼少期からジムに所属させ、愛を与えて自信を付与させる……など、与えに与えられた裕福なガキほど、よく仕上がった大人になり、さらなる賞賛を得やすい。
対称的に、ブレイキングダウンに参加するような荒くれ者は、貧乏で団地育ちで、まともな教育も受けられず、治安が乱れた街には悪が渦巻いていて、いつだって心は混沌としているからこそ、「俺は今ココに生きているぞ!」とアウトサイドな生き方の中で、危なっかしく命を燃やしている。
でもって、そんな歪みきった世界にも関わらず、那須川天心や、武井壮のようなエリートが、下の下の下の世界にも出しゃばってきて、とことん雑に悪を見下してゆく。
持つ者はいいよな~?
それっぽい言葉と、神が与えた才能と、お手軽な優しさをぶちまけりゃ、なんぼでも光り輝ける人生なんだから。
畢竟、くそ喰らえな構造の中で、ガンガンと綺麗事が響き渡るとき、虚しさが悪へと切り替わってゆく。
金も地位も名声も、愛と平和も、優しさも善行も、その他ありとあらゆる可能性を、強者が根こそぎ奪ってしまうからな。
じゃあどうする?
そうやって我々は、敵意を育て、破滅主義になり、世界を憎むようになる――
とても悲しい事だが、持たざる者が努力をすると、自律神経が乱れ、情緒が不安定になり、ノルアドレナリン(闘争か逃走のホルモン)が分泌し、すごくリスキーな毎日に突入しやすい。
怒り、焦り、悲しみが噴き上がり、「何もかもが悲劇だ!」「誰も彼もが敵だ!」などと、心が荒ぶりやすくなってしまう。
そらそうで、発達障害/双極性障害/社会不安障害/不眠症/過眠症/低収入/孤独など、弱者属性を持っている人々は、社会的に弱い立場であり、そうした現状を客観視し過ぎると、惨めな気持ちにもなるってモンだ。
しかしながら、試行錯誤――破壊と再生を繰り返して、1%のチャンスでも掴み取る為には、心の痛みと戦いながら、冷たい現実を直視し、真の自分に辿り着き、最適解を模索するしかない。
そして、「変わりたい」「強くなりたい」という願望は、『今この瞬間を否定する』思考でもある為、似たような弱者たちの反感を買いやすく、ちょっとした揉め事に繋がりやすい。
一例を出すと、弱者界隈の者たちに言わせれば、『自己責任論』『努力論』は、耳にするのもおぞましいツートップのワードだろう。
ただし、歯を食いしばって勝負に打って出なければ、一生変われない……可能性の芽を摘んでしまいかねない……ってのもまた確かな話であり、『他者への配慮』『過度な優しさ』ばかりまき散らしていると、人生がでろでろに腐ってゆく。
だからこそ、ファイトクラブの名言――【ワークアウトは自慰行為だ。男なら自己破壊を】よろしく、フルスイングで開き直って、「人生は自己責任だ!」「負け犬のままで終わりたくない!」と力強く叫び、ハイリスクな一歩を踏み出すしかない。
というのも、代表的な弱者属性――鬱で貧乏などに苛まれると、余裕がなくて選択肢を増やせない中で、鬱々しさと甘えが混ぜこぜになり、ちょっとやそっとでは抜け出せない、転落の日々に陥りがちだ。
そんな絶望の境遇から、むりやり這い出る為には、「こんなところで終わらねぇからよ!」「これは俺様の復讐戦だ!」などと、躁的な攻撃性のエネルギーが必要になってくる。
寺山修司も『書を捨てよ、町へ出よう』の中で、【勝負の世界で、何よりも大きな武器は「不幸」ということである。これは「何が何でも勝たねばならぬ」というエネルギーを生み出す力になる】と書いているように、どん底の寒さを思い知ったうえで、這い上がる熱量を高める事が、下の下の下の住人には求められる。
そもそも論、ただでさえ深刻な格差社会――ガチモンの弱者のみならず、中流層以上の人々にしても、「途中で足を止めたら終わる……」という、止まらない不安に追われ、みんなぎりぎりで生きている。
であるから、ハンディキャップだらけの弱者が、「もっと稼ぎたい」だとか、「もっと可愛い子を獲得したい」だとか、そういった夢を叶える為には、それなりの自己犠牲が必要になる。
いつまでも、おんおんと泣きじゃくって、お金や愛を得られるのは、それなりの性的魅力を持った女子だけだろう。
その他の者たち――大多数の男や、ノンセクシーな女は、あくまでも自分の力でもって、人生を切り開いてゆく他ない。
その過程で、脳内分泌物のバランスが崩れ、とんでもない気分屋になり、周囲に当たり散らしてしまったり……、かと思いきや、頭を抱えて自虐し始めたりと、ぐっちゃぐちゃな時間もやって来るだろう。
そして、精神的コストを使い果たして、脳も心もすっかすかになって、飢えた獣のようにピリピリとしてしまい、「なんだこの性根が腐った野郎は?」などと、周囲に呆れられ、見捨てられ、嫌われキャラになってしまったりする。
やはり、世界中のみんなが、要領が良くて、人に愛されやすくて、スムーズに人生を渡り歩ける訳じゃない。
人類社会に立ち向かって、一所懸命に努力した結果……、ひたすら空回りしてしまって、全てを失うなんて実例も、この世の中には腐るほどに存在する。
とくにこの日本社会は、ひとたび転落して、ブランクが空いてしまえば、誰でも入社可能で民度の低い、精神的に疲れる企業ばかりで、働く羽目になりがちだ。
すると、文化レベルの低い同僚に、悪口や陰口を付き合わされたり、ある日、盗難被害が発生したり、急に大量離職が起きたりと、安心とは程遠い……劣悪な環境で生きる事になる。
そんなときには大抵、ムカツキのオーラを解き放ちつつ、下剋上精神が強化されて、「こんな腐った場所から抜け出してぇ!」と、浮き足立ってしまい、半ばパニック状態である。
「生成AIによる民主化」を叫ぶパブコメが公開されて話題を呼び、「それは民主化ではなく共産化」という理解が急速に形成されている。この「民主化」という概念は何も9段の人物が考え出したものではなく、海外の生成AI議論、特にイラスト関連の議論では頻出の概念であり何らかの生成AI推進過激派の共通認識だが、一方で「共産化」は少なくとも増田は寡聞にして知らぬ。では、この「才能」の「民主化」とは何なのか? 恐らく国内で理解されている形では「極一部の『絵師』と呼ばれる特権階級が、生まれながらに持っている、『絵』を生成する技術」を「広く一般が使えるようにする」こと、だろう。
Financialization(金融化)という概念がある。1980年代から汎ゆるものを金銭的価値に換算する動きが加速し、万物が通貨によって交換できるようになる一方で、金融分野に加速度的に富が集中するようになってしまったとか、そんなような話だ。まあ安っぽいネオリベラリズム批判の一種と思って構わないが、このあらゆるものを金銭的価値と拡大の速度、加速度で考えるというプロ倫の延長線上にある思想は米国では広く一般に浸透している。
だから二次元業界も当然この金融化の対象として、森羅万象を四半期指標の伸びとして変換すべしという思想の中で解釈される。このものは素晴らしい、だから儲けを加速しなければならない、という自然な発想がある。二次元イラスト業界を金銭的な側面で発展させようという試みは、2010年代を通じて諸外国で繰り返されてきた。無断転載で客を集めた後、批判を浴びて版権元と交渉しようとした漫画村事件もその一部だし、同人誌の代理購入や転売が行われたり、無断翻訳グループや各種の転載サイトの有料サブスクが販売されたりとか、仮想通貨イラスト作家を巻き込む動きも見られたし、画像ファイルを集めて転売するとか、無料の3Dデータを改造して勝手に売るとか、あるいは無料で転載して名を上げるとか、色々な試みがあった。個々の作家に対してあなたの作品はもっとビッグな儲けに繋がる、価格を上げるべきだ、販売数を増やすべきだ、出版が難しければ顔だって繋ぐ、といったオファーが野放図に撃たれることもあった。
そのいずれにも日本の漫画業界、イラスト作家コミュニティは乗らなかった。日本は強固な「非営利の業界」を維持してきた。
日本人は日本の二次元業界が作り出すソフトパワーをまったく過小評価している。増田はある時、海外のイラストレーターが何だかのソフトの互換性問題で揉めている所を見たことがある。PSDはPhotoshopから出力されるとは限らない、俺はKritaを使っているし現場によってはCSPを使っているとか、どうだかだった。お前らはCSPが何のことか分かるか? Clip Studio Paintだ。増田にとってこれはちょっとした衝撃だった。まったくのサプライズド・ピカチュウだ。分かるか? 国産商用ソフトウェアがイラスト制作ソフトの世界的御三家の一角を固めていて、Adobeが三位なんだぞ。「日本にはジョブズが生まれない」?「日本製のソフトは通用しない」? いや、増田自身、普段はこれを言う方なのだが、それでもだ。かつてはbukkakeが世界一有名な日本語だとか、不名誉で恥ずかしいとか言われたものだが、今では所によってはblack company、mesugaki、menhera moveですら通じる(最後はどこかの初号機の貢献だ)。
そして、この継続的に世界に投射される存在感、その非営利思想(と、その裏でちゃんと行われているアニメやガチャゲー課金としての回収)は、思想的に原理主義的な低位のレイヤーにおいて、世界的に反発と軋轢を生み続けているのだ。
もう一つ説明すべきことがある。共産化とは何なのか? 帝政ロシア末期のそれにしろ、中国のそれにしろ、共産主義革命とは、力を持たない民衆が団結し、腐りきった既存の体制を打破し、特権階級が貪る既得権益を破壊し、人民に還元する、という建前で行われる営為だ。実際にはこの「特権階級」は中流層以下を指し、既得権益とは単に日常生活を指す、ということはまともな人間なら皆知っているだろう。高級な壺を割り水道を破壊し公共施設を打ち壊し電線を鋳潰し、全てを焼き払ってゴミにするのが共産化、共産主義革命である。社会を破壊して所有の概念を、いや「社会」と「モノ」という概念の終了を目指すのが共産主義である。
この「才能の民主化」と「それは共産化である」という批判はこれらを踏まえて解釈されなければならない。
「民主化」による恩恵を得るのはお前らではない。「お前ら」というのはブクマカや増田のような言葉を持つ人間だけに限ったものではない。日本人ではない。ここまで書いてきたように、いま、諸外国には、日本(または中韓台を含む極東アジア)人は二次元イラスト業界で特権的な地位を得、極端なダンピングと異常な反成長主義を敷いている、という怒りがある。その怒りの文脈において、日本人は全て二次元の絵を生成し享受できる特権階級であり、才能の共産主義革命において虐殺される対象である。⑨段のパブコメを書いた「生まれつき手が震えて線が引けない」者など同情に値するわけがない。絵の金融化、イラスト市場の資本主義的成長を阻害してきた旧来体制を賛美する、唾棄すべき特権階級である。ポル・ポト政権の新国家建設の呼びかけに喜び勇んでカンボジアへ舞い戻り人民裁判に掛けられ次々と虐殺された出稼ぎ労働者たちそのものの姿だ。
そしてその方法として、生成AI推進派たちは、Danbooruに(善意で)集積されたイラストを圧縮汎化させ任意に混ぜ合わせ薄めて取り出せるようにする。そのデータを配布し有象無象が使えるようにする。LoRAにより「絵柄」の神秘性を破壊し再現できるようにする。それらすべてはコンピュータの利用を強制して非属人的に実行されることで金銭的価値に還元される。
だからあれは共産化なのだ。だから「生成AIを規制するならば二次創作も規制しろ」なのだ。つまるところ「生成AIによる才能の民主化」の指すものは、金銭的価値への還元を断固として受け入れない二次元イラスト市場の破壊そのものなのだ。文化庁の連中が考えているような「『民主化』による、日本国内の広く一般の者への価値の還元」は発生しない。民主化AIで生産性を飛躍的に向上させたクリエイターの活躍などない。ソ連にまともな戦闘機がなかったようなものだ。仮にこれが「還元」だとするならば、起こるのはちょうど紙を高濃度の過酸化水素水で炎とガスに分解するような「還元」だ。「パブコメの知能が低すぎて困る」とかボヤいている場合ではない。それほどの、あえていえば低知能のもの、が反対一色に染まってパブリックコメントを送ってきているとはどういうことか? 実害を被っているのに他ならないではないか。
この話のオチは、恐らく「生成AIによる才能の民主化」が実際にこのまま進んだとて、著作権法がAIウォッシング無罪を規定したとて、それは絵の価値が下がるという一過性の日本の純損失であって、別に日本的なイラスト創作文化への参入が海外享受者たちに認められるわけではないだろうことだ。Twitter上でも指摘されていたが、AIに点滅するカレットを与えられないから絵が造れないなどという者はいないのだ。完璧な絵をプロンプトで定義できると言うならばしてみるがいい。いや、Twitter上でもなんでもいい、人は文字が読めるのだから、完璧な絵の定義を書けばそれは作品なのだ。件の人物が長々とコメントを書き、そしてバズりを作り出したように。
飽きた。ここで投げる事にする。ナガノのくまを讃えよ。
まぁ色々あるんだけど、お役所のまとめとしてはこんな感じ
https://www.esri.cao.go.jp/jp/esri/prj/sbubble/menu.html
詳しくはこの辺りをどうぞ。
雑にまとめるとこんな感じ。
これに対しては、中国はバブルの研究と言うより、その後の破綻処理に付いて研究している。
アメリカは、リーマンショックの時、超高速でリーマンブラザーズ証券をぶっ壊して解体しつつ、公的資金をぶち込むということをやった。
中国は、恒大の件等の時に、無限に先送りしつつ徐々に崩壊させるという方法をとっている。