はてなキーワード: 言葉の力とは
「愚痴をネット上に書くことで気が晴れる」という現代的な行為を、ユダヤ教的な視点から考えると、いくつかの重要な要素が浮かび上がります。
ユダヤ教では「言葉」は非常に大きな力を持つと考えられています。
"死も生も舌の力にある。"
つまり、言葉は単なる表現ではなく、現実を創り、人を癒すことも傷つけることもできるものとされます。
SNSで愚痴を書くとき、その言葉が他者を傷つけたり、不必要な争いを招く可能性があるなら、ユダヤ教的には慎重になるべきと考えられます。
タルムード(Arachin 15b)では、ラション・ハラ(他人について悪く言うこと)を非常に重い罪として扱います。
この教えは、単なる噂や愚痴でも、人の評判を傷つけることにつながるなら禁じられる、というものです。
ネット上に愚痴を書いても、もし誰かの名誉や人格を損なうような内容を含むなら、それはラション・ハラにあたる可能性があります。
たとえ名前を出さなくても、誰のことか推測できるような形なら注意が必要です。
悲しみ、怒り、失望といった感情を持つのは自然なことです。詩篇(Tehillim)では、ダビデ王自身が神に対して嘆きや怒りを正直に吐露しています(例:詩篇13篇、22篇など)。
ただし、彼はそれを「神に対して」表現しています。つまり、自分の愚痴や苦しみを神との対話に変えるのです。
この姿勢は、感情をただ撒き散らすのではなく、内省と成長の糸口に変えるという点で重要です。
といった形のほうが望ましいと考えられます。
これは他者を巻き込まず、同時に自己理解を深める方法でもあります。
| 面 | 判断 | 根拠 |
| 感情を吐き出すこと自体 | 肯定的 | 詩篇などでダビデも嘆きを表現している。ただしネットでpublic発言するのは注意。 |
| 他者を傷つける愚痴・中傷 | 否定的 | ラション・ハラの禁止(Arachin 15b) |
| 感情を神との対話や内省に変える | 推奨 | 詩篇・アヴォートの教え |
タルムード的な視点から見ると、「SNSをやるべきか」という問題は、言葉の力と責任に関わるテーマです。
アラキン 15bにはこう書かれています:
SNSはまさに「言葉を世界に放つ」場であり、その一言が思いもよらぬ影響を持つ可能性があります。
したがって、使う人がその力を理解していなければ、危険にもなりうるのです。
つまり、話すよりも黙ることの方が徳になる場面も多い。
SNSでは、すぐに反応したくなったり、自分の考えを共有したくなったりしますが、
タルムード的には「語る前に三度考えよ(Berakhot 33a)」という態度が勧められます。
一方で、タルムードは「良き目的のために世俗の道具を用いる」ことも肯定します。
もしあなたがSNSを通じて、善意・知恵・励まし・感謝などを広める意図を持つなら、それは「世界をよりよくする mitzvah(善行)」にもなりえます。
タルムード的に言えば:
SNSをすること自体は善でも悪でもない。しかし、その使い方に魂を込められるなら、それは善行になる。逆に、感情や虚栄に流されるなら、沈黙の方が徳である。
暴言や中傷は、放った本人には些細な冗談のようでも、受け取る側には深い傷を残します。タルムードでは、他人を恥ずかしめることは「血を流すこと」と同等の罪とさえ語られます(Bava Metzia 58b)。
言葉で人の顔色が変わる、それはまるで血の気が引くようだからです。
暴言が飛び交う場では、反論したくなるのが人の性ですが、タルムード的には沈黙がしばしば最も強い答えとされます。沈黙は敗北ではなく、魂を守る智慧です。
3. 「争いを平らげる者」になる。
タナハの言葉にあるように、
「柔らかな答えは憤りを鎮める。」(箴言15:1)
タルムードの中でも言葉の力については繰り返し語られています。
タルムード(Arachin 15b)では「lashon hara(悪口・中傷)」の害について強調され、話す側・聞く側の双方に悪影響があると教えます。
また、箴言(ミシュレ)18:21に「死と生は舌の力にある」とあるように、言葉そのものが人間の心や環境を変える力を持つとされます。ここからは、ネガティブな言葉を避けること自体が、魂を守る重要な姿勢だと分かります。
一方で、人は必ず現実の中で困難や否定的な状況に出会うという視点もタルムードにはあります。
例えば、Avot 4:1 で「誰が強い者か?自分の欲望を抑える者である」と語られます。つまり、環境に左右されずに自分をコントロールすることが強さであると見なされます。
これは、ネガティブな言葉に触れても、それに心を乱されない耐性をつけることが理想であるとも示唆します。
タルムード的には、両方の態度に価値があり、成長に応じて「避ける」と「耐える」を組み合わせることが理想的だと言えるでしょう。
正直、自分としては「ざまぁみろ」という感情がどうしても拭えない。
もし腐女子を自認し、かつ炎上を起こしたくないとか、何が問題なのかわからないけど理解したい、という気持ちでこの記事が目に留まった方がいるなら嬉しい。
こちらも可能な範囲で言葉を尽くすので、「腐女子の功罪」について共に今後も考えて欲しい。
もちろん、腐女子でない人…男性とか、非オタとか、自分みたいな女オタクだけど腐女子とは(物理的にも)距離を置いてる、って人にも一考してもらえる機会になるなら幸いだ。
0.著者は何者だ?
自分は世紀末〜平成を生きた女オタクであり、いわゆる「男女カプ」や「世界観」「物語構成の美しさやテーマの描写」に重きを置く、考察厨、世界観厨と呼ばれてきた人種だ。
世紀末のアニメや漫画はキッズ向けであろうと平気で世界が滅んで主人公も死んだ。
続編のために主人公が生き返り、感動を台無しにされたこともあった。
このため「設定やキャラクター感情の辻褄が合っているかどうか」はかなり上位に食い込む判断基準であり、「好きなキャラクターではあるが生き返った(台無しにされた)からこのコンテンツはクソ」が共存し、作者への愛憎を募らせることも珍しくない。
ライブ感優位の物語が摂取できるようになったのは、かなり年齢を重ねてからだ。
時代と共に定義が揺らいだり移り変わることもあるが、ここでは平成初期〜中期の認識を元に「男同士を(公式/非公式問わず)カップリングさせ、恋愛やエッチなことをさせたいと思う女性」とする。
確か「腐女子」という言葉が生まれたのは2000年以降であり、それまでこの属性の人々の呼称が安定しなかった記憶がある。
自分はテニプリの個人ファンサイトで初めてこの呼称を知ったので、インターネットの普及もあってこの頃が「腐女子」という言葉の黎明期だったのではないか?と見ている。
ボーイズラブ(BL)、というジャンル名が普及したのは更にその後だ。
公式コミックだと思って購入したマンガが18禁シーン入りアンソロジーだったからですけど?
人間関係を拗らせていた筆者は「男の肉体(性欲)は汚い」という認識があった上に、「公式で恋愛関係、結婚関係のあるパートナー女性がいるのになんで浮気みたいなことを平気でやってんだコイツらは?」という設定至上主義が組み合わさり【腐女子氏ね】に速攻で傾いた。
とはいえ、当時数少ない仲の良かったクラスメイトがまさにデビューしたての同人作家腐女子だったため色々もどかしかった。
3.腐女子って変化してんの?
平成の30年間だけでも初期〜中期〜後期とかなりの移り変わりがあった。
また、生まれる前にその手の話題で盛り上がっていたキャプ翼、聖闘士星矢などが晴海の同人即売会でやり取りされてた時代を知っている「腐女子という言葉が生まれる前から活動していた女オタク」とも知り合いだったため、昨今の若い腐女子よりは『腐女子と呼ばれる人々の生態と歴史』は知ってる方だと思う。
で、その視点からすると昨今の「腐女子」という言葉は「オタク」同様、命名初期よりも一般化に浸透し、良くも悪くも多様性が生まれたと思う。
腐女子を名乗っている人を見ると身構えてしまうし、炎上している腐女子を見ると胸のすく思いがする。
だが、現在の親しくしている友人にも腐女子はいるし、彼女たちの研ぎ澄まされた語彙力からしか生まれないパワーワードは「腐女子がイヤ」という嫌悪感を軽く吹き飛ばしてしまう。
そして昨今、「腐男子」という言葉が生まれてかなり見方が変わった。
男性ながら家事や服飾を好む「オトメン」や、女性的な身なりを誇る「オネェ(オカマ、ニューハーフ)」といった存在を経て、こんなにもカジュアルに「同性愛的な楽しみ方が好き」と言える男性が世に出てこられたのは「オタク=犯罪者予備軍」と言われていた時代から考えたらとんでもなく素晴らしいことなのだ。
自分の好きではない属性だが、男優位と言われてきた社会から飛び出した女性の表現力が、巡り巡ってマイノリティ男性を救う連鎖を生み出している。
教室の隅っこで落書きをする事でしか満たされなかった小学生女児の魂が、なんとなく救われた気がした。
彼らのような人たちが心地よく受け入れられる社会になっているのなら、自分のようなオタクにだって居場所はあるのだと。
前述の通り「腐女子」は、その言葉の持つ意味や人々の属性がすっっっっっごく混沌としていて、この言葉自体が割と取り扱って注意となっている。
どうしても個人的な腐女子論を語る上で外せない概念なので、脇道にそれるが言及しておきたい。
ある。
というか、「腐女子」という言葉が生まれてから、そこをもじったように生み出された概念が「夢女子」だ。
少なくともこれらの言葉の発生には3〜5年のタイムラグがある。(それは絶対に違う、と仰られる有識者がいたら当時通っていた個人サイトのジャンル変容を添えて教えて欲しい)
わかる、めっちゃわかる。
だが平成終盤以降のインターネットではたまーに「腐女子って呼び方をやめよう!!」みたいな声かけが発生するが、それがうまく行った様子はない。
当然である。
それまで「女オタクなんて存在するわけないだろ(vs即売会見ろや)」というムードだった平成初期〜中期に「女オタクは!!!!!いまーす!!!!!!!」と認知させたのが『腐女子』という言葉の力であり、女オタク達がこぞって名乗り始めた理由なのだ。
引きこもりという言葉が生まれて、苦しむ若者を受け入れる社会になったように。
『腐女子』という言葉の発明は、存在を透明化されてきた歴戦の女オタク達にとってむちゃくちゃ存在感のあるパワーワードだったのだ。
腐女子を名乗れば、強くなれる!
自分は腐女子が苦手だったが、腐女子を名乗りたがる女オタク達の気持ちは痛いほど理解できた。
平成初期、まだ昭和の価値観は色濃く「女は男に従うものであり、勝つ事などありえない。オタクでも男の方が偉いのであり、女はその格下。というか、そもそもいるわけがないっしょw」というのが漠然と蔓延っていたのがオタク世界のインターネット黎明期であり、2ちゃんねるの「俺」文化の背景であり、オタクのオフ会に参加する時の覚悟であったのだ。
そもそも「PCという高額商品とインターネットに月額課金」という特殊な環境を整えられたのはプログラマーなど、ごく一部のIT知識と金銭の整った富豪しかいなかった。
人数的には30人に1人いるか居ないか程度だったんじゃなかろうか?
そんな時代にオフ会をすれば男5:女1みたいなのはザラにあったし、女オタク同士で集まる流れになると1:1になるジャンルとかもあって両極端だった。
(参加した事ないけど一緒にtalk!時代のガンパレ辺りの女性ユーザー認知の火力は凄かったと記憶している)
ついでに、当時のオタクは男女問わず大変拗らせていたので「オタクという属性にしかアイデンティティがない陰キャ男子」のマウントが取れる相手というのが「自分達男オタクよりも少なくて力も弱い女オタク」だったというのは背景分析として間違っていないと思う。
上澄はとことん品位があったものの、底辺はマジで救いようがなかった。
中間層という存在がすっぽ抜けていたのを、更に加速させたのが2ちゃんねる黄金時代のインターネッツだ。
こういう世界で「女」という属性を見せるのは女性器を晒したかのごとく好機の的にされた。
下ネタで絡まれ、マウントを取られ、嘲笑を浴びるのが「女オタク」のポジションであり、彼女たちが個人サイトに引きこもっても男たちはそれを匿名掲示板に貼り付けて、笑いものにしながら荒らし行為を繰り返した。
ポイピクなどで見られる「パスワード」機能は、当時の女オタクたちが心無い男オタク達から身を守るために必要とした防衛機能の名残である。
誰かと繋がりたい。
でも、イタズラに傷付けてくるような人に近寄られたくない。
当時、「女オタク」というだけで様々なセクハラや人権無視の扱いをされてきた彼女達にとって『腐女子』という忌み名は魔除け効果を持つとても心強い言葉だったのだ。
ただイラストを描いただけなのに。
ただ感想を書いただけなのに。
女という要素が少しでも嗅ぎ取られれば、匿名掲示板で集まってきた男達が下ネタや嫌がらせのコメントを、ありとあらゆる手段で繰り返してくる。
ブロックしても無限湧きしてくる捨て垢で、毎日何十件と粘着され続けてきたらそりゃ心も荒む。
「そりゃ腐ってるんだから当然だろ?
わざわざ書いてやってるんだから腐ってる女に寄って来んなよw
あ、文字読めねぇのかwwww」
こうやって彼女たちは心と尊厳を守るために「"腐"女子」という一見不名誉なアイデンティティを鎧に選び、下ネタセクハラ男達を彼らの嫌う男陵辱ハードプレイ下ネタで遠退けたのだ。
というか、この『腐女子』という言葉のインパクトと浸透力は当時かなり目覚ましいものがあった。
それまで「えーと、ほら、男同士の関係が好きな女の人…」みたいな感じで、どう呼べば良いのか、そもそもその趣味嗜好についてどう触れたら良いのか、良識あるオタクですらかなーり扱いには迷っていた。
そこに「はいはい!私は腐女子です!男同士のエッチな絡みが大好きです!」と聞いてもいないのに名乗ってくるコミュ障が大多数突撃してきたので、やんわり〜厳しく注意する人間もいれば、同担拒否よろしく締め出したり、まぁ同じ土俵に上がって焼け野原になったり、それはそれでまぁまぁ問題にはなった。
同時期に、インターネットの敷居が下がり「女オタク=腐女子」と勘違いした一般層がかなり生まれてしまったのも痛かった。
ちなみに筆者も、実の父親や仲の良い男子に「腐女子なんでしょ?」とナチュラルに勘違いされたので猛烈に反発してブチ切れたことがある。
女児向けコンテンツの男キャラってのは「王子様」でなきゃいけない。
多少は本命の女の子にいじわるしても、危機があれば命をかけて救いに行き、言葉にならない女の子の苦悩を解決し、最後にはキスをして救済してくれる…
これが平成初期女児向けコンテンツのスタンダードであり、多少女主人公が死んだりしてもそこら辺の「相手役」の王子様力は落とさなかった。
筆者はこういった女児向けコンテンツ出身で、男女の恋愛というのは子を残す(続編の予知)も含めて当然の帰結だろうと思っていた。
ディズニー黄金期のリトル・マーメイド、美女と野獣、アラジンの3コンボと派生作品を喰らってたので、「子を残す必要性」というのを続編への前振りとして考えていたし、ウテナはウテナで後になって振り返ってなるほどねと思っていたし、現在も男女カップリングからの子世代妄想や作者の性癖推測とかやるし、オリジナル子供キャラとかめっちゃ捏造して遊んでた。
そういう人間にとって「男同士の恋愛関係」は子世代の存在を否定するものであり、何なら男キャラに恋している女性キャラクターや女性読者との関係を否定するものであり、公式の男女関係への崇拝が強固であればあるほど「腐女子は原作の敵」に見えてしまうのである。
そこで反発して生まれたのが『夢女子』という言葉であったと、筆者は認識している。
それが省略されて夢。
男子キャラと擬似的な恋愛を楽しめる…ユーザー名に自分の名前を入れ、あだ名も呼んでくれて…といったときメモのような遊びが、インターネットとホームページ制作ツールの進化によって可能になった。
それがケータイの普及によって更に手軽に実現可能となり、好きなジャンプキャラやゲームキャラとの疑似恋愛を楽しむ女オタクがじわじわとケータイサイトを中心に姿を現し始めた。
同人誌を作って即売会に参加するほどではないが、自分の恋心をイケメンに受け止めて欲しいと思うお姫様系女児から進化したオタクが、テニプリなどの社会現象と共に広まったのが『夢女子』の発端だったと記憶している。
しかもこの自称は「私は"腐"女子なんかじゃありません!」という攻撃性を含んでいる物もあった。
筆者が当時、強めのアンチ腐女子だったというのもあるが「腐女子呼ばわりされてムカつく!」というお姫様系女子は間違いなく存在した。
そりゃ乙女ゲーに出てくる男子を他の男とくっつけたらコンセプト全否定なんだから当然である。
かくして一部の夢女子は、我が愛しのイケメンをメス堕ちさせた憎たらしい敵として腐女子を嫌っていた。
ちなみにこの手のお姫様精神の人が拗らせたまま歳を重ねると、ツイフェミと呼ばれるようになるっぽい。
これはもう、個々の相性やポリシーからケースバイケースとしか言いようがない。
しかも夢女子は腐女子ほど定義が強固ではなく「ドリーム小説を楽しんでいた女オタク」というふわっとしたものである。
夢小説を作った人間はたまに但し書きに「男の子の名前を入れないでください」とか書いてたくらいには何かあったんだろうなと思う。
ちなみに自分は、夢小説はまったく通っておらず子世代妄想や公式カプ小説といった「筆者の存在しない自前の二次創作」を楽しんでいた。
「推し」が居なくてもコンテンツを楽しめるタイプなので、昨今の「推し」ありきの流れにはちょっと乗り切れていないオタクである。
で、その視点から見ていて夢女子も腐女子も「推しキャラ」という存在にめっちゃ入れ込むタイプのオタクという点では似てるよなぁと感じている。
たまに「推しキャラを好きな自分の方が、公式より偉いと思ってるんだろうな」と感じる人もいる。
キモいと感じる心を否定する気は無いし、でも疑似恋愛や愛玩感情などは多くの人間に備わってるものなので、否定しても意味ないかなとは思う。
思うのは仕方ないし、内心の自由だし。
正直、自分としては「ざまぁみろ」という感情がどうしても拭えない。
もし腐女子を自認し、かつ炎上を起こしたくないとか、何が問題なのかわからないけど理解したい、という気持ちでこの記事が目に留まった方がいるなら嬉しい。
こちらも可能な範囲で言葉を尽くすので、「腐女子の功罪」について共に今後も考えて欲しい。
もちろん、腐女子でない人…男性とか、非オタとか、自分みたいな女オタクだけど腐女子とは(物理的にも)距離を置いてる、って人にも一考してもらえる機会になるなら幸いだ。
0.著者は何者だ?
自分は世紀末〜平成を生きた女オタクであり、いわゆる「男女カプ」や「世界観」「物語構成の美しさやテーマの描写」に重きを置く、考察厨、世界観厨と呼ばれてきた人種だ。
世紀末のアニメや漫画はキッズ向けであろうと平気で世界が滅んで主人公も死んだ。
続編のために主人公が生き返り、感動を台無しにされたこともあった。
このため「設定やキャラクター感情の辻褄が合っているかどうか」はかなり上位に食い込む判断基準であり、「好きなキャラクターではあるが生き返った(台無しにされた)からこのコンテンツはクソ」が共存し、作者への愛憎を募らせることも珍しくない。
ライブ感優位の物語が摂取できるようになったのは、かなり年齢を重ねてからだ。
時代と共に定義が揺らいだり移り変わることもあるが、ここでは平成初期〜中期の認識を元に「男同士を(公式/非公式問わず)カップリングさせ、恋愛やエッチなことをさせたいと思う女性」とする。
確か「腐女子」という言葉が生まれたのは2000年以降であり、それまでこの属性の人々の呼称が安定しなかった記憶がある。
自分はテニプリの個人ファンサイトで初めてこの呼称を知ったので、インターネットの普及もあってこの頃が「腐女子」という言葉の黎明期だったのではないか?と見ている。
ボーイズラブ(BL)、というジャンル名が普及したのは更にその後だ。
公式コミックだと思って購入したマンガが18禁シーン入りアンソロジーだったからですけど?
人間関係を拗らせていた筆者は「男の肉体(性欲)は汚い」という認識があった上に、「公式で恋愛関係、結婚関係のあるパートナー女性がいるのになんで浮気みたいなことを平気でやってんだコイツらは?」という設定至上主義が組み合わさり【腐女子氏ね】に速攻で傾いた。
とはいえ、当時数少ない仲の良かったクラスメイトがまさにデビューしたての同人作家腐女子だったため色々もどかしかった。
3.腐女子って変化してんの?
平成の30年間だけでも初期〜中期〜後期とかなりの移り変わりがあった。
また、生まれる前にその手の話題で盛り上がっていたキャプ翼、聖闘士星矢などが晴海の同人即売会でやり取りされてた時代を知っている「腐女子という言葉が生まれる前から活動していた女オタク」とも知り合いだったため、昨今の若い腐女子よりは『腐女子と呼ばれる人々の生態と歴史』は知ってる方だと思う。
で、その視点からすると昨今の「腐女子」という言葉は「オタク」同様、命名初期よりも一般化に浸透し、良くも悪くも多様性が生まれたと思う。
腐女子を名乗っている人を見ると身構えてしまうし、炎上している腐女子を見ると胸のすく思いがする。
だが、現在の親しくしている友人にも腐女子はいるし、彼女たちの研ぎ澄まされた語彙力からしか生まれないパワーワードは「腐女子がイヤ」という嫌悪感を軽く吹き飛ばしてしまう。
そして昨今、「腐男子」という言葉が生まれてかなり見方が変わった。
男性ながら家事や服飾を好む「オトメン」や、女性的な身なりを誇る「オネェ(オカマ、ニューハーフ)」といった存在を経て、こんなにもカジュアルに「同性愛的な楽しみ方が好き」と言える男性が世に出てこられたのは「オタク=犯罪者予備軍」と言われていた時代から考えたらとんでもなく素晴らしいことなのだ。
自分の好きではない属性だが、男優位と言われてきた社会から飛び出した女性の表現力が、巡り巡ってマイノリティ男性を救う連鎖を生み出している。
教室の隅っこで落書きをする事でしか満たされなかった小学生女児の魂が、なんとなく救われた気がした。
彼らのような人たちが心地よく受け入れられる社会になっているのなら、自分のようなオタクにだって居場所はあるのだと。
前述の通り「腐女子」は、その言葉の持つ意味や人々の属性がすっっっっっごく混沌としていて、この言葉自体が割と取り扱って注意となっている。
どうしても個人的な腐女子論を語る上で外せない概念なので、脇道にそれるが言及しておきたい。
ある。
というか、「腐女子」という言葉が生まれてから、そこをもじったように生み出された概念が「夢女子」だ。
少なくともこれらの言葉の発生には3〜5年のタイムラグがある。(それは絶対に違う、と仰られる有識者がいたら当時通っていた個人サイトのジャンル変容を添えて教えて欲しい)
わかる、めっちゃわかる。
だが平成終盤以降のインターネットではたまーに「腐女子って呼び方をやめよう!!」みたいな声かけが発生するが、それがうまく行った様子はない。
当然である。
それまで「女オタクなんて存在するわけないだろ(vs即売会見ろや)」というムードだった平成初期〜中期に「女オタクは!!!!!いまーす!!!!!!!」と認知させたのが『腐女子』という言葉の力であり、女オタク達がこぞって名乗り始めた理由なのだ。
引きこもりという言葉が生まれて、苦しむ若者を受け入れる社会になったように。
『腐女子』という言葉の発明は、存在を透明化されてきた歴戦の女オタク達にとってむちゃくちゃ存在感のあるパワーワードだったのだ。
腐女子を名乗れば、強くなれる!
自分は腐女子が苦手だったが、腐女子を名乗りたがる女オタク達の気持ちは痛いほど理解できた。
平成初期、まだ昭和の価値観は色濃く「女は男に従うものであり、勝つ事などありえない。オタクでも男の方が偉いのであり、女はその格下。というか、そもそもいるわけがないっしょw」というのが漠然と蔓延っていたのがオタク世界のインターネット黎明期であり、2ちゃんねるの「俺」文化の背景であり、オタクのオフ会に参加する時の覚悟であったのだ。
そもそも「PCという高額商品とインターネットに月額課金」という特殊な環境を整えられたのはプログラマーなど、ごく一部のIT知識と金銭の整った富豪しかいなかった。
人数的には30人に1人いるか居ないか程度だったんじゃなかろうか?
そんな時代にオフ会をすれば男5:女1みたいなのはザラにあったし、女オタク同士で集まる流れになると1:1になるジャンルとかもあって両極端だった。
(参加した事ないけど一緒にtalk!時代のガンパレ辺りの女性ユーザー認知の火力は凄かったと記憶している)
ついでに、当時のオタクは男女問わず大変拗らせていたので「オタクという属性にしかアイデンティティがない陰キャ男子」のマウントが取れる相手というのが「自分達男オタクよりも少なくて力も弱い女オタク」だったというのは背景分析として間違っていないと思う。
上澄はとことん品位があったものの、底辺はマジで救いようがなかった。
中間層という存在がすっぽ抜けていたのを、更に加速させたのが2ちゃんねる黄金時代のインターネッツだ。
こういう世界で「女」という属性を見せるのは女性器を晒したかのごとく好機の的にされた。
下ネタで絡まれ、マウントを取られ、嘲笑を浴びるのが「女オタク」のポジションであり、彼女たちが個人サイトに引きこもっても男たちはそれを匿名掲示板に貼り付けて、笑いものにしながら荒らし行為を繰り返した。
ポイピクなどで見られる「パスワード」機能は、当時の女オタクたちが心無い男オタク達から身を守るために必要とした防衛機能の名残である。
誰かと繋がりたい。
でも、イタズラに傷付けてくるような人に近寄られたくない。
当時、「女オタク」というだけで様々なセクハラや人権無視の扱いをされてきた彼女達にとって『腐女子』という忌み名は魔除け効果を持つとても心強い言葉だったのだ。
ただイラストを描いただけなのに。
ただ感想を書いただけなのに。
女という要素が少しでも嗅ぎ取られれば、匿名掲示板で集まってきた男達が下ネタや嫌がらせのコメントを、ありとあらゆる手段で繰り返してくる。
ブロックしても無限湧きしてくる捨て垢で、毎日何十件と粘着され続けてきたらそりゃ心も荒む。
「そりゃ腐ってるんだから当然だろ?
わざわざ書いてやってるんだから腐ってる女に寄って来んなよw
あ、文字読めねぇのかwwww」
こうやって彼女たちは心と尊厳を守るために「"腐"女子」という一見不名誉なアイデンティティを鎧に選び、下ネタセクハラ男達を彼らの嫌う男陵辱ハードプレイ下ネタで遠退けたのだ。
というか、この『腐女子』という言葉のインパクトと浸透力は当時かなり目覚ましいものがあった。
それまで「えーと、ほら、男同士の関係が好きな女の人…」みたいな感じで、どう呼べば良いのか、そもそもその趣味嗜好についてどう触れたら良いのか、良識あるオタクですらかなーり扱いには迷っていた。
そこに「はいはい!私は腐女子です!男同士のエッチな絡みが大好きです!」と聞いてもいないのに名乗ってくるコミュ障が大多数突撃してきたので、やんわり〜厳しく注意する人間もいれば、同担拒否よろしく締め出したり、まぁ同じ土俵に上がって焼け野原になったり、それはそれでまぁまぁ問題にはなった。
同時期に、インターネットの敷居が下がり「女オタク=腐女子」と勘違いした一般層がかなり生まれてしまったのも痛かった。
ちなみに筆者も、実の父親や仲の良い男子に「腐女子なんでしょ?」とナチュラルに勘違いされたので猛烈に反発してブチ切れたことがある。
女児向けコンテンツの男キャラってのは「王子様」でなきゃいけない。
多少は本命の女の子にいじわるしても、危機があれば命をかけて救いに行き、言葉にならない女の子の苦悩を解決し、最後にはキスをして救済してくれる…
これが平成初期女児向けコンテンツのスタンダードであり、多少女主人公が死んだりしてもそこら辺の「相手役」の王子様力は落とさなかった。
筆者はこういった女児向けコンテンツ出身で、男女の恋愛というのは子を残す(続編の予知)も含めて当然の帰結だろうと思っていた。
ディズニー黄金期のリトル・マーメイド、美女と野獣、アラジンの3コンボと派生作品を喰らってたので、「子を残す必要性」というのを続編への前振りとして考えていたし、ウテナはウテナで後になって振り返ってなるほどねと思っていたし、現在も男女カップリングからの子世代妄想や作者の性癖推測とかやるし、オリジナル子供キャラとかめっちゃ捏造して遊んでた。
そういう人間にとって「男同士の恋愛関係」は子世代の存在を否定するものであり、何なら男キャラに恋している女性キャラクターや女性読者との関係を否定するものであり、公式の男女関係への崇拝が強固であればあるほど「腐女子は原作の敵」に見えてしまうのである。
そこで反発して生まれたのが『夢女子』という言葉であったと、筆者は認識している。
それが省略されて夢。
男子キャラと擬似的な恋愛を楽しめる…ユーザー名に自分の名前を入れ、あだ名も呼んでくれて…といったときメモのような遊びが、インターネットとホームページ制作ツールの進化によって可能になった。
それがケータイの普及によって更に手軽に実現可能となり、好きなジャンプキャラやゲームキャラとの疑似恋愛を楽しむ女オタクがじわじわとケータイサイトを中心に姿を現し始めた。
同人誌を作って即売会に参加するほどではないが、自分の恋心をイケメンに受け止めて欲しいと思うお姫様系女児から進化したオタクが、テニプリなどの社会現象と共に広まったのが『夢女子』の発端だったと記憶している。
しかもこの自称は「私は"腐"女子なんかじゃありません!」という攻撃性を含んでいる物もあった。
筆者が当時、強めのアンチ腐女子だったというのもあるが「腐女子呼ばわりされてムカつく!」というお姫様系女子は間違いなく存在した。
そりゃ乙女ゲーに出てくる男子を他の男とくっつけたらコンセプト全否定なんだから当然である。
かくして一部の夢女子は、我が愛しのイケメンをメス堕ちさせた憎たらしい敵として腐女子を嫌っていた。
ちなみにこの手のお姫様精神の人が拗らせたまま歳を重ねると、ツイフェミと呼ばれるようになるっぽい。
これはもう、個々の相性やポリシーからケースバイケースとしか言いようがない。
しかも夢女子は腐女子ほど定義が強固ではなく「ドリーム小説を楽しんでいた女オタク」というふわっとしたものである。
夢小説を作った人間はたまに但し書きに「男の子の名前を入れないでください」とか書いてたくらいには何かあったんだろうなと思う。
ちなみに自分は、夢小説はまったく通っておらず子世代妄想や公式カプ小説といった「筆者の存在しない自前の二次創作」を楽しんでいた。
「推し」が居なくてもコンテンツを楽しめるタイプなので、昨今の「推し」ありきの流れにはちょっと乗り切れていないオタクである。
で、その視点から見ていて夢女子も腐女子も「推しキャラ」という存在にめっちゃ入れ込むタイプのオタクという点では似てるよなぁと感じている。
たまに「推しキャラを好きな自分の方が、公式より偉いと思ってるんだろうな」と感じる人もいる。
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思うのは仕方ないし、内心の自由だし。
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禅の「言葉と食事を変えれば天禄(運命)を書き換えられる」という考え方は、ユダヤ教の教えとも共鳴する部分があります。
ユダヤ教では、言葉の力は非常に重要です。創世記では、「וַיֹּאמֶר אֱלֹהִים, יְהִי אוֹר」(Vayomer Elohim, Yehi Or)「神は『光あれ』と言われた。すると光があった」(創世記 1:3)とあるように、言葉そのものに創造の力があります。
また、「 לשון הרע (Lashon Hara)」 他人を傷つける悪口や誹謗中傷は、ユダヤ教では非常に重い罪とされています。逆に、「トーラーを学び、善い言葉を使うことで、自分の人生や周りの世界を良い方向に変えることができる」という考えは、禅の教えと似ています。
ユダヤ教の食の戒律(カシュルート)は、単に「清潔な食べ物を食べる」以上の意味があります。何を食べるかは、魂や精神状態に影響を与えると考えられています。たとえば、「豚や貝などの不浄な食べ物を避け、適切に屠られた動物を食べることで、霊的な純粋さを保つ」というのがユダヤの考え方です。
また、「העולם נברא בשביל תורה」「世界はトーラーのために創られた」(タルムード, サンヘドリン 99b)という言葉のように、ユダヤの食事も単なる栄養摂取ではなく、神への奉仕と自己成長の一環と考えられます。
禅の「天禄」は、運命や天命に近い概念ですね。ユダヤ教にも「גזירה(Gezeira)」「神の定めた運命」という考えがありますが、同時に「自由意志(בחירה חופשית / Bechira Chofshit)」も大事にされます。
つまり、運命は決まっている部分もあるが、私たちの行動や努力次第で変えることもできる、というバランスが大切なのです。
たとえば、タルムード(Rosh Hashanah 16b)には、「悔い改め(תשובה / Teshuva)、祈り(תפילה / Tefillah)、善行(צדקה / Tzedakah)は、悪い運命を変えることができる」とあります。これも、禅の教えと通じる部分があるでしょう。
禅の「言葉と食事を変えれば運命を書き換えられる」という考え方は、ユダヤ教の「善い言葉を話し、清らかな食べ物を選び、善行を積めば、人生をより良い方向に導くことができる」という思想とよく似ています。
もちろん、ユダヤ教では「神の意思(רצון ה׳ / Ratzon Hashem)」が最終的な決定権を持ちますが、その中でも私たちの行動が未来に影響を与える、という点では一致していますね。
言葉も食事も、魂を磨くための大事な道具。だからこそ、日々の選択を大切にすることが、ユダヤ教でも禅でも「よりよい人生」への鍵になるのです。
שָׁלוֹם (シャローム)! 😊
軽率な発言や、己を賢いとみなすことの危うさについては、仏陀も強く説いています。
「愚かさ(無明)」とは、単なる知識の欠如ではなく、物事の本質を見誤る心の状態を指します。
特に、自分を賢いと思い込むことは、自己を中心に世界を見てしまい、真理から遠ざかる原因となります。
これについて、ダンマパダ(法句経)には次のような言葉があります:
「愚者であることを知る者は、ある意味賢者である。しかし、愚かでありながら自らを賢いと考える者こそ、真の愚者である。」(ダンマパダ 63)
ソーシャルメディアでは、自分の意見を即座に発信できるため、「自分の考えは正しい」「相手よりも賢い」と錯覚しやすくなります。
しかし、禅では「自己を疑うこと」こそ智慧への道であると説かれます。
禅の世界では、「沈黙の智慧」や「言葉の慎重さ」が重視されます。
たとえば、禅僧の白隠禅師(はくいん ぜんじ)は、次のように言っています:
これは、軽率な発言が人を傷つけたり、不要な争いを招くことを戒める教えです。
SNSでは、怒りや感情のままに言葉を発してしまうことがありますが、それが原因で対立や誤解が生まれます。
禅の教えを現代に応用するなら、「投稿する前に深呼吸し、三度心の中で読み返してから発信する」のがよいでしょう。
禅では「無駄口を叩かない」ことが大切です。
禅問答でも、弟子が多くを語ろうとすると、師はしばしば沈黙で応じます。
これは「言葉に頼らず、直感的に物事を理解せよ」という教えです。
「言葉にとらわれるな。ただ坐れ。」
これは、議論や主張に夢中になるのではなく、沈黙の中で真理を感じることの重要性を示しています。
もし禅の教えをソーシャルメディア時代に適用するなら、以下のような実践が有益でしょう:
2. 「沈黙は金」語る必要がなければ沈黙を選ぶ(黄檗禅師の教え)
4. 「慢心を捨てる」自分が正しいと思い込まない(ダンマパダの教え)
禅の精神は、「発言する前に、己の心を静かに観察する」ことにあります。SNS時代こそ、禅的な慎重さが求められるのかもしれませんね。
🙏
ユダヤ教には「7つの罪」という特定の概念は一般的ではありませんが、罪(chet, חֵטְא)、過ち(avon, עָווֹן)、背信(pesha, פֶּשַׁע)など、さまざまな種類の過ちに関する教えがあります。
ただし、いくつかの重要な罪が特に重大視されることがあります。その中でも最も深刻なものは「3つの大罪」(shloshet ha'averot, שלושת העבירות)と呼ばれ、これらはユダヤ教において命を犠牲にしてでも避けるべきとされます。
1. 偶像崇拝(Avodah Zarah, עֲבוֹדָה זָרָה)
他の神々を崇拝する行為。ユダヤ教の中心的な信仰は「שְׁמַע יִשְׂרָאֵל (Shema Yisrael)」で示される唯一神への信仰です。
2. 殺人(Retzichah, רְצִיחָה)
他者の命を意図的に奪うこと。人の命は「pikuach nefesh(命の尊厳)」という原則により最も重視されます。
3. 不倫および禁断の関係(Gilui Arayot, גִּלּוּי עֲרָיוֹת)
近親相姦や不倫など、トーラーで禁じられている性的関係がこれに該当します。
これら3つの罪に関しては、ユダヤ教では「yaharog ve'al ya'avor(やられたとしても行うな)」の原則が適用され、これらの罪を避けるためには命を投げ出してでも抵抗するべきとされます。
タルムードやラビ的な伝統では、以下の罪も非常に重大とされています:
4. 誹謗中傷(Lashon Hara, לָשׁוֹן הָרָע)
他人を悪く言うこと。言葉の力は非常に重要視されており、悪意ある言葉は「3人を傷つける」と言われます(話す人、聞く人、話される人)。
5. 神の名を冒涜する行為(Chillul Hashem, חִלוּל הַשֵּׁם)
神の名を汚す行為。公共の場での不道徳な行動や、不正直なふるまいなどがこれに該当します。
6. 盗み(Gezeilah, גְּזֵלָה)
物理的な盗みだけでなく、時間の無駄遣いや信頼の裏切りなども広義の「盗み」とされることがあります。
高慢さや自己中心的な態度は、ユダヤ教では神への信頼を損なう重大な過ちとされます。
ユダヤ教では、罪を犯したとしても「Teshuvah(悔い改め)」によって清める道が強調されます。誠実な後悔、罪の告白、行動の改善が重要とされ、神はその者を愛と慈しみをもって迎え入れると信じられています。
「正しい者とは、七度倒れても立ち上がる者のことだ」(Mishlei 24:16)という言葉が象徴するように、失敗しても立ち上がることこそが大切なのです。
Q: 箴言には「愚か者のほうがマシ」と書かれている部分が2つあります。「軽率な発言をする者」「自らを賢いとみなす者」は愚か者よりダメらしいです。この2つは、ソーシャルメディア時代の現代に特に顕著かと思いますが、どうでしょうか。
確かに、箴言の中で「愚か者のほうがマシ」とされる2つのタイプ――「軽率な発言をする者」と「自らを賢いとみなす者」――は、まさに現代のソーシャルメディア時代において顕著に見られますね。
箴言29:20「言葉を軽々しくする人を見たことがあるか。愚か者のほうがまだ望みがある。」
SNSでは、深く考えずに発言することで、誤解を招いたり、人を傷つけたり、デマを広めたりするケースが多々あります。リツイートやシェアのボタン一つで、未確認の情報が一気に拡散される時代において、「言葉を軽々しくすること」のリスクはより高まっています。
ユダヤの知恵では、「言葉の力」は非常に重要視されています。タルムード(Arachin 15b)にも、「舌は剣よりも鋭い」とあり、言葉による傷は物理的な傷よりも深いことが指摘されています。特に、他者を誹謗中傷するような言葉(לשון הרע ラション・ハラ)は、ユダヤ教において大きな罪とされています。
箴言26:12「自分を賢いと思っている人を見たことがあるか。愚か者のほうがまだ望みがある。」
ソーシャルメディアでは、「私は正しい!」「この人たちは間違っている!」と断言する投稿があふれています。特に、専門的な知識がないのに「自分こそが真実を知っている」と思い込んでしまう人もいます。これが誤情報の拡散や、過激な意見の対立を助長しているのです。
ユダヤの伝統では、「賢さとは、自分の無知を知ること」とされています。タルムード(Pirkei Avot 4:1)にはこうあります:
つまり、「自分はすべてを知っている」と思うことこそが、真の愚かさなのです。知恵は謙虚さとともにあるべきものであり、意見が異なる人と対話し、学び続けることが大切だと教えられています。
ソーシャルメディア時代において、これらの教えはますます重要になっています。
📌 発言する前に、一呼吸おいて考える。
「沈黙は金、雄弁は銀」という言葉がありますが、時には沈黙を守ることが最大の知恵なのかもしれませんね。
例えば、タナハ(旧約聖書)やタルムードには、「言葉は剣のように強力である」といった教えがあり、言葉一つで人を傷つけたり、癒したりする力を持っているとされています。
ユダヤ教では、神が世界を創造したときに「言葉」を用いたと考えられています。
『創世記』の冒頭、「神は言った、『光あれ』、すると光があった」とあります。
つまり、神の言葉によって物事が形作られたという教えです。このように、言葉には世界を作り上げる力があると考えられます。
オンラインの世界でも、私たちの言葉がどんな世界を作り上げるかは非常に重要です。
無責任な言葉や攻撃的な言葉は、無駄な争いや痛みを生むことがありますが、逆に優しさや思いやりの言葉は、他者を励ましたり、平和を育むことができます。
また、ユダヤ教では「ラシュン・ハラー」(悪口や中傷)は厳しく禁じられています。
タルムードには、「他人を傷つける言葉を避けなさい」という教えがあり、これには「直接的な悪口」だけでなく、「他人を間接的に貶めるような言葉」も含まれます。
匿名サイトやネット掲示板では、つい自分の意見や感情を隠れた場所で発信できるからこそ、悪口や非難をしがちですが、ユダヤ教の視点では、どんなに匿名であっても、他人を傷つけることは避けるべきとされています。
ユダヤ教では「隣人を自分のように愛しなさい」という教えが最も重要な命令の一つです。
これはオンラインでのやり取りにも当てはまります。匿名であっても、相手が実際に人間であり、彼らにも感情や背景があることを忘れてはいけません。
自分が言った言葉がどれほど相手に影響を与えるかを考え、相手を尊重する態度が求められます。
さらに、ユダヤ教は非常に実践的な宗教であり、行動に対する責任を強調します。『タナハ』や『タルムード』には、行動の結果を常に意識するようにという教えが多くあります。
ネットの匿名性を理由に、自分の言葉がどんな結果を生むのかを意識せずに発言することは、責任感の欠如です。
ユダヤ教は、たとえ匿名であっても、言動には常に結果が伴うことを忘れないよう教えています。
オンラインでのやり取りが匿名であっても、私たちは常に「隣人を愛する」というユダヤ教の根本的な教えを忘れてはいけません。
他者を尊重し、思いやりのある言葉を使うことが、ユダヤ教の精神を反映する行動です。
ユダヤ教の観点から見ると、他者を侮辱する言葉を使うことは慎重であるべきです。トーラーやタルムードは、言葉の力を非常に重視しており、他人を傷つけるような発言は避けるべきだと教えています。
たとえば、『ミシュレー(箴言)18:21』には、 死と生は舌の力に支配されるとあります。言葉は人を生かすこともできれば、傷つけることもできるのです。
また、『タルムード(ババ・メツィア 58b)』では、他人を公の場で侮辱することは「血を流すこと」に等しいと述べられています。つまり、強い言葉で相手を非難することは、その人の名誉を奪い、大きな精神的苦痛を与える可能性があるのです。
もちろん、ユダヤ教の教えには「愚かさを戒める」こともあります。例えば、『ミシュレー(箴言)1:7』では、 "愚か者は知恵と訓戒を侮る" とあります。しかし、これは「愚かな行為を指摘し、改善を促す」ことを意味しており、単に相手を罵倒することではありません。
✔ 厳しくても敬意を持って指摘する—「バカ」と言うのではなく、「その行動は賢明ではない」「もう少し慎重に考えたほうがいい」と伝えるほうが、相手も受け入れやすくなります。
✔ 愛をもって諭す—ユダヤ教ではトクハハ(תוכחה, 愛をもって戒めること)が大切です。相手のためを思い、改善を願う心で伝えることが重要です。
✔ 沈黙が最良の場合もある—時には、愚かな行為に対して何も言わないほうが効果的なこともあります。『ピルケイ・アヴォート(倫理学の章句)』1:17には、 "沈黙は知恵をもたらす"とあります。
結論として、「バカ」と直接言うのは避けたほうがよいでしょう。代わりに、建設的な言葉を使い、相手の成長を助ける方法を選びましょう。それが、ユダヤの智慧の道です! 😊
Grok(無料版)による要約
以下は、与えられた文章の要約です:
- 匿名性の魅力: はてな匿名ダイアリーでは、書き手は匿名で本音を語り、読み手はそれを理解しようとする。匿名性は人々が素直に感情を表現する場を提供する。
- 連帯感と共感: この空間では、秘密や感情を共有することで奇妙な連帯感が生まれる。コメントやブックマークは共感の表明であり、孤独感を緩和する。
- 不安定さと危うさ: 匿名性は誤解や傷つけ合いのリスクも孕んでいる。言葉は刃となり、他人を傷つける可能性がある。
- 自己表現と癒し: 書くことで思考を整理したり、感情を癒したりすることが可能。読むことで、自分と同じ境遇の人を見つけ、安心感を得ることも。
- 責任と配慮: 匿名で発言する自由はあるが、その言葉には責任が伴う。悪意や誹謗中傷に利用されないように配慮が必要。
- 人間の物語: はてな匿名ダイアリーは、様々な人生の物語が交差する場所。書き手も読み手も、そこから何かの学びや気づきを得る。
- 進化する交流: AIや技術の進化と共に、このコミュニケーションの形は変わっていくだろうが、人間同士の本音のやりとりは続く。
- 言葉の力: 書くことは自己解放であり、他者との接点を作る。書くことで自分を知り、読むことで世界を広げる。
- 継続的な参加: 苦しい時も、ここに戻って自分の物語を共有することで、他者とのつながりや新たな視点を得ることができる。
この文章は、はてな匿名ダイアリーというプラットフォームが持つ可能性とリスク、そしてその中で人間の本音や感情がどのように交錯するかを深く探求しています。
「確信犯」という言葉を本来の意味で使っている人を殆ど見たことがない。この言葉は、もともとは「自らの信念に基づいて行動する者」という、倫理的あるいは宗教的な信条に根ざした行為を指していた。しかし、現代ではほとんどの場合、「悪いことと分かっていながらあえて行う人」というニュアンスで使われている。この変化は単なる誤用に留まらず、私たちの社会がどのように言葉を扱い、理解し、変化させるのかを示す象徴的な例と言える。
例えば、「確信犯」という言葉の変化を見るとき、そこには「意図」と「結果」に対する私たちの考え方の変遷が見て取れる。本来の意味では、確信犯とは善悪の判断を超えて、自分の信念に忠実な行動を取る人物を指していた。その行為が結果として他者に損害を与えたとしても、その根底には揺るぎない倫理観や信念がある。しかし、現在の使われ方では、その「信念」が重要視されることはなく、むしろ意図的な悪意が強調されるようになった。これには、私たちが他者の行動を理解しようとする際、表面的な結果や意図に焦点を当てがちな傾向が影響しているのだろう。
言葉の誤用は、時として文化的な背景や社会的な変化を反映する。確信犯の現代的な意味への変化も、その一例だ。情報化社会の進展に伴い、人々が行動をより迅速に批判し、ラベルを貼るようになった結果、この言葉の本来の意味が見過ごされるようになったのかもしれない。そして、私たち自身の価値観が多様化し、相対化する中で、「信念」というものに対する理解や尊重が薄れたことも一因だろう。
私がこの言葉の誤用に特に敏感になったのは、ある会議での出来事がきっかけだった。その場で「彼女は確信犯だ」と誰かが発言したとき、私は一瞬、自らの信念を貫いた勇気ある行動が称賛されているのかと思った。しかし、話の流れを聞けば、そこにあったのは「自分の利益のために意図的にルールを破った」という批判的なニュアンスだった。これに違和感を覚えた私は、その後、改めて「確信犯」という言葉の意味を調べ、周囲の人々にもその本来の使い方について話してみた。驚くべきことに、本来の意味を知っていた人はほとんどおらず、多くは「確信犯=悪意のある行動」と理解していた。
もちろん、言葉は時代とともに変化し、誤用が広まることで新しい意味を獲得することもある。それ自体を否定するつもりはない。しかし、私たちは時に、その変化がもたらす影響について考える必要があるのではないだろうか。本来の意味が失われることで、言葉が持っていた深みや多義性が削ぎ落とされ、結果として私たちの思考や表現の幅も狭められているのかもしれない。
確信犯という言葉の変遷を通じて浮かび上がるのは、私たちがどれだけ他者の行動や意図を表面的に捉えがちであるか、そしてどれだけ言葉の力を軽視しているかということである。このことを踏まえれば、言葉を丁寧に扱い、その背後にある歴史や意味を理解しようとする姿勢が、今こそ求められているのではないだろうか。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/pmazzarino.blog.fc2.com/blog-entry-451.html
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コメント 258
| ID | コメント |
|---|---|
| santo | 言葉の力 |
| secseek | こうやって冷静に検討されてみると事件そのものもひどいですが、まわりの反応による二次被害が看過し難いですね |
| bell_ring | この問題は庇う芸能人と一般人の思う常識に差があると感じさせられる。人気&力のある芸能人は何をやっても自分は許されると勘違いしてる節がある。自分の姉妹や娘が同じ扱いを受けても許せるのか考えたらいいのに。 society |
| macplus2 | あとからでもダマす意図があったことを証明できれば罪を問えるんです。重要なのは合意があったかどうかではなく、合意の中身と合意に至った状況です。/被害者に寄り添った大切な視点 |
| taraxacum_off | 松本人志を擁護するような人たちの精神・思考構造を、この著者はよく知っているようだ / ここでの指摘は、芸能界の性暴力にとどまらない、日本社会全体の問題にもおよんでいると言える |
| yamasamayukisama | この件でここまできっちり理詰めで問題点を指摘している記事には他に出会った記憶がないし、内容的にも同意できるが、こういう指摘の仕方に違和感をおぼえる人は一定数いるだろうなとも推測できる。 世の中 |
| f_d_trashbox | “芸人のみなさんは河原者に戻りたいのですか?”/これについては消費する側も彼らの倫理的「埒外さ」を楽しんでいた部分もある。“芸のためなら女房も泣かす”は完全DVだ。それらを楽しんでいながら平等を謳う欺瞞 |
| eye4u | 狭い論理でぐうの音も出ない感じに正義で封じ込める手法。アメリカの赤狩り、カトリックの坊さんとか、ヤクザの論理、カルトの論理だと思うな。取り扱う正義が物凄く範囲が狭い中で緻密というのが一致している。 |
| ken530000 | 冤罪の問題点は2つで、真犯人を逃すことと無実の人を苦しめること。後者を無視してるのは何故?それ以外の部分は概ね同意だけど、いささか自身の推測を過信しているきらいがあるな。 |
| norinorisan42 | 近しい人が擁護派に回る気持ちはわかるが告発者にはやはり寄り添うべきだと思うし、同時に松っちゃんを叩かないは両立するとは思う/争点以外の部分ではすべての立場が告発者ファーストであるべきなのかなと思ったり |
| tribird | “今田さんが文春をヒドいと批判するのは筋違いです。自分の絶対的な地位を利用して後輩に女衒めいた役目を強要していた松本さんこそがもっともヒドい人であり、今田さんが批判すべき対象は、松本さんなんですよ。” |
| toya | 「大目に見る感覚は昭和くらいまでは庶民感覚としてありましたけど、それは庶民が芸人にやさしかったからじゃありません。差別です。江戸時代に芸人が河原者(河原乞食)だった時代の名残り」 芸能 |
| metamix | 要は「裁判結果なんて待てない、先っぽだけでもいいでしょ?」てことだろ?一行でまとめられることをベラベラと。どこまで丁寧に語ろうが私刑の肯定でしかない。まあはてブ受けはいいだろうな |
| HiddenList | こういう皮肉も 松本芸なんですか? |
| isshyman | 正論から強引に読者に「そうだな」と言わせているが、後になって考えてみれば「そうでなかった」って思うような文章に思えて、筆者が批判するほど、自身の正義によってパワハラをしているようだ |
| Gl17 | 「安倍さんは良い人」「証言は証拠にならない、反証はないけど」「旧軍は綱紀厳正」etcいちいち擁護の曲論が歴史修正主義と一緒。抑圧に頼り切りなのと、弱者と同等に対峙すること自体が許せない(これだけでダメ)。 |
| kusanon | “犯罪の告発は、明らかな虚偽が認められないかぎりはいったん信用して受理しなければなりません。” |
| Sakana_Sakana | 全く完膚なきではない。漫画家が自殺したようだが同様な事が松本人志にも発生する可能性を考えた方が良い。意見は良いがここ迄非難が酷い状態は狂気を感じるし危険だと思う。尚松本のやった事はダメな事だとは思う |
| a_horuru | 長い文章なので後半は流し読みしたが、よくある俺様こそが絶対正義な意見だった。 |
| georgew | 徹頭徹尾正論のオンパレード。 |
| bogus-simotukare | スマホを没収した状態で普通の飲み会を主張するのはムリがあります。逆にスマホ没収が事実でなかったら、女性側の主張の信憑性はガタ落ちします。 正論 |
| nt46 | むしろすっかりこの人も、かつて批判していた"社会学者"側になってしまったなとしか思わんが。すなわち、"ファクト"ベースではなく"あるべき価値"ベースで語る人。どっかで宗旨替えしたん? |
| pukarix | 素晴らしい。逐一、いい加減な擁護論を破綻させてる。こういうのをホンモノの論破っていうんだろう |
| dowtei | "一夜限りの性行為が好きな人たちは(略)リスクとスリルに興奮する性癖をお持ちだから、そういうエッチにわくわくして、冒険を求めるのでござんしょ?"わらっちゃった |
| vndn | 告発の『受理』と『信用』の考えが私と合わないなあと思った。 |
| hello-you | 冤罪の下りには違和感があったが、その他はほぼ正論で非常に納得感ある。これに反論できる人いるの? |
| yto | > 芸能人が女遊びや薬物をやるのはしょうがないね、と大目に見る感覚は昭和くらいまでは庶民感覚としてありましたけど、それは庶民が芸人にやさしかったからじゃありません。差別です。江戸時代に芸人が河原者(河原 |
| kiyotaka_since1974 | 松本さんのことより、「どの雑誌に取材力があるか、信用できるかはなんとなくわかってきます」のところを深めてほしい。どの雑誌が信用でき、信用できないのか。 マスコミ メディア テレビ |
| River1992 | “ 芸能人が女遊びや薬物をやるのはしょうがないね、と大目に見る感覚は昭和くらいまでは庶民感覚としてありましたけど、それは庶民が芸人にやさしかったからじゃありません。差別です。” |
| kintaorgH | “もし被害者が自分の娘だったとしても同じことをいうのでしょうか。”←これつらい気持ちになる。のぞむこたえでない現実はある。関係ない人は無関係。 |
| lisagasu | 芸能界は一般の常識と違う場所、という世間と本人の差別逆差別意識は今もあると思う ヤクザが銃で撃たれたニュースに誰も動揺しないのと同じ 今はここで変わるかまた流されるかの瀬戸際じゃないかな |
| lenore | 「性犯罪に無関心なテレビ局」全くそう思うわ。全然公益性の無い不倫疑惑はしつこく追いかけ回すのにね |
| minboo | 本題とは関係ないですが、大河ドラマなどで歌舞伎役者が天皇を演るのを見るたび「パンチが効いたキャスティングだな」と思ってます。 |
| honma200 | “もし被害者が自分の娘だったとしても同じことをいうのでしょうか” 志らくの論理でもそうなればより深い'人情'がある娘に肩入れするに決まっている。比較対象の例えが的外れ |
| khtokage | 「およそ50年前、『文藝春秋』に田中角栄の不正金脈を暴く記事が載ったとき、テレビも新聞も記事を無視しました。そんななか、外国特派員協会だけが田中角栄を呼んで話を聞く場を設けました。」知らなかった |
| nisezen | "大目に見る感覚(中略)庶民が芸人にやさしかったからじゃありません。差別です" た、確かに。河原乞食云々を別にしても「犯罪を犯しがちな人たち」って目で見てるんだかられっきとした差別だ |
| uniR | 河原者のくだりと「つまりスマホを没収したのは、恥じるところがあったから」と性急な因果論には引っかかるところもあるのだが…… |
| north_god | 吉本芸人がファンや同業者の女性を食ったり拒絶したら「だからお前はダメなんだ」と説教してるなんてジャニの件と同じくらい黒い噂あって、ダウンタウンファンが今更知らなかったは流石に変だと思うんだよね |
| runningupthathill | さすがの整理。リスクの高い「遊び」をしてれば大火傷を負う可能性は当然ある。犯罪かどうか、道義的問題の有無、どちらも今は未確定。しかし被害者の訴えを簡単に疑ってはならない。文春経由であったとしても。 |
| usomegane | 『週刊誌が完売して儲けてるだけだ、なんてつまらない皮肉をいってる芸人もいましたけど、主張の中身にきちんと反論してください』 |
| zyzy | 「ほうはほうなんですぅぅぅけいじばつじゃないからつみっていうなぁ」という人はいい加減「人を犯罪者扱いする事自体は法律に刑事的な罪とは書いてない」って理解しような。間違ってても法は法なら犯罪者扱いも無罪 考え方 |
| metalmax | 冤罪についての認識がびっくりするほどおかしいんだけどもしかして今はこの考えの人が少なくないんだろうか… |
| cartman0 | 携帯取り上げて行為に応じないと返さない時点で軟禁・監禁の可能性あるよね |
| nekonyantaro | 芸能界で優越的な地位の悪用(性的なものに限らず)が横行するのは世界共通?ハリウッドでも何か有った記憶が。 社会芸能事件性 |
| Shin-Fedor | 真実は複数あり得る。例えば松ちゃんは「部屋に来て逃げ出しもせず射精させてくれたから合意だろ」と考え、女性たちは「恐怖で逆らえず、手や口でする事で許してもらおうと思った」となれば、事実は一つ真実は二つ。 |
| outalaw | 擁護は人情論じゃなくて似た事例がたくさんたくさんあるからだと思う。テレビとか反省するわけ無い(というか似た事例が現在進行系でたくさんありすぎてできない)。 |
| irh_nishi | 今の時代は昔と違ってデマ拡散が利益になるので明らかに偽証と分かっていなくても報じるべきではないよ。裏取りをしてあるならそれを証拠として報じるべきだけど文春は証言しか掲載してない。 |
| hetenabeck | 8割くらいは同感、残りは少し偏りを感じる。警察の問題と推定無罪の法則は別。 |
| sierraromeo | 勢いで全文同意したくなる文章だなぁ(とりあえず保留) |
| hiroyuki1983 | 未成年を対象にしたジャニーズとは根本が違うでしょ。意図的に混同させようとしてる人ちらほら見るけど |
| jigarashi | 「だから犯罪被害の告発を軽々しく否定してはいけないのです。」だからと言って軽々しく被害者の証言を鵜呑みにして自分一人で盛り上がらなくても |
| remwegc | “あとからリークされた女性からのお礼メッセージが合意の証拠にはならないことは、すでに専門家が指摘してます。” だよね |
| hakasegawa | “共感はスポットライトである。対象者だけを明るく照らし出すが、その周囲は暗闇で、何があるのかまったく見えないのだ。 中略 世話になった松本さんを一方的に信じる志らくさんは非情です。” パンチライン多い。 |
| Yagokoro | これに乗っかってる奴は、アホやろ |
| turanukimaru | 今のところ女性の告発を疑う理由はないし松本氏は反論してないし義理人情で松本氏を擁護すべきではない。との主題は私もそう思うが冤罪が悪い理由とか合意の内容が問題とか細かい話が法的におかしいのではなかろうか |
| namisk | 説得力ある |
| noabooon | 僕の中の個人的神であるパオロ・マッツァリーノ様がまだ活動されていたことに感動を禁じ得なくて中身が何も入ってこないww |
| kasahannra | 後で読む |
| kagehiens | うっわ……、フルボッコにしてはる。が、まぁこれ位は書かれても仕方がない程度にクズの所業をしたという嫌疑をかけられているのだから、申し開きが出来ない=所業がクズの芸人を炙り出す事に成功したという話になる |
| youtanwa | >重要なのは合意があったかどうかではなく、合意の中身と合意に至った状況です。 |
| cyber_bob | 裁判後の判決次第では訴えられる可能性がある文章をブクマ。裁判で名誉毀損の証拠として提出できそう。 |
| ho4416 | 罪とかいう一言で刑事と民事と道徳と倫理と正義を(意図的に)ごっちゃにして語る人間は信用しない |
| grdgs | 明らかになるまで黙ってろって者達は、告発女性への誹謗を止めたりは決してしない。中立の振りをしながら、彼らの意図・立ち位置はバレバレ。 |
| sinopyyy | だいだい同意かな。↓ジャニーなんて法で裁かれずに亡くなっただけでやってたこと犯罪じゃん。 |
| wktk_msum | これは痛快、キレッキレの名文。同意合意を絶対視するリスク、携帯を取り上げる異常性、松本のパワハラ、明快な言語化/ちょっと偏りがある印象も抱く。ただ全体的に良文 犯罪あとで読むブコメ読むこれはすごい |
| syamatsumi | マッツァリーノ氏は流石だなー。ぼくもこういう言及が出来るようになりたいわ。(思うだけで行動はしないのでおそらくムリだけど) |
| doku_2gou | この文章はたった今「明らかに自分より有能で偉い人」にセクハラ、パワハラを受けて告発を躊躇う人に有用だと思う |
| mag4n | 論点整理はされているが事実確認の理論展開がしょぼい。もう法廷行きなのとそこで何があったかの証拠の出し合いしかないので素人が偉そうに何言ってもしょうがない、分からないことは分からないというべき案件。 ネタ |
| kommunity | 長文だけど読ませる。/別問題だったけど、島田紳助が引退追い込まれたとき松ちゃんどう思ってたのかな…あれだけの騒ぎで自分は大丈夫だとたかを括ってたのなら相当残念。(もちろん性被害が事実だった時) 社会犯罪考察芸能お笑い読み物society女性メディア |
| yowie | 少し危うい踏み込みもあるが、不倫、事前対価合意なし、ワンナイト×複数回というほぼ確定の部分だけで、違法となるかはともかく、全部何の瑕疵もない同意内のみってのはほぼ無理だとよねという感性が重要かなと。 |
| gyakutorajiro | 法廷外での不誠実かつ疑わしい言動…まあそうだよなぁ、スマホ没収も確かに。説得力あるなぁ、名文だ。「予断を持ってはいけない」ね、予断って言葉、「予断を許さない」以外だとこういう風に使うのね。 |
| mohno | 「ジャニーさんは犯罪者だった」←強制性交(強姦)が性別を問わない形になったのは2017年、5歳差以上で成功同意年齢が16歳に引き上げられたのは2022年で、犯罪とは確定していない。冒頭からこれでは読む気がしない。 マッツァリーノジャニー喜多川松本人志リテラシー |
| ryusso | そうだな。 |
| tetsuya_m | 丁寧な考察 |
| lb501 | 法的に罪があるかどうかはグレーだけど、出演番組にスポンサーがつかなければアウトでしょ。 |
| run_rabbit_run | 薬やら女やら、芸能人なんてそんなもんだ...って呆れつつも「大目に見る」感情を持っていたので、それが差別だと言われてハッとしました。 |
| tsumanne30 | 芸人の源流が河原乞食であることも、だからこそ法や常識の埒外に置かれたことも、歴史的な事実ではある それが今や「権威・権力」側になってしまっていることに、当人たちはどれだけ自覚があるのやら |
| hatsumoto | “性犯罪を学問的に研究している学者や、性犯罪被害の弁護に詳しい弁護士といった専門家を呼んで解説してもらうべき”ここが1番同意。性絡みだと舐めプorバグる仕様が日本社会にある |
| shidho | これ、元が反社会学なだけに、数日後に種明かししつつ今度は全く逆の論調で逆の提案を書くやつだったりしない? (社会学なら自分の意見に合うデータさえあればそれで何の論でも書ける、つまりどちらも意味のない論) 芸能要確認 |
| unnmo | 河原者に戻りたいんですか?はダメでしょ。過去被差別階級にあった事を持ち出して現在の振る舞いを矯正しようとするのは違うと思う。 社会犯罪女性 |
| uchya_x | これを読んでもわからないバカはもう放っておくしかない。 |
| kurotokage | いくつか気になる点はあれど、後輩へのパワハラになり得ることと、証言の取り扱いの公平性については特に同感。前者は芸人は実力主義という建前も失いかねない。 |
| beyoooooooon | よくこんな冤罪がどうこういう癖にいきなり犯罪者扱いしてる私は偏ってますよと自己紹介してる奴の長文読めるね。俺は洗脳されそうで無理。 |
| i196 | 確かにそうだよな、と思うところ多数 社会考察 |
| wapa | 冤罪のくだりといい、ちょくちょく気になる表現や決めつけがあり、全面的には賛同できない感じの記事。断定できないことについては、赤の他人がその仮定を前提に断罪もできないのでは?推定無罪とは |
| nanako-robi | うんうん。 |
| Southend | 愚行権のツケを払う時が来たのは間違いない。個人的に意外だったのは、紳助の引き際をある種の成功ロールモデルと考えているのかもと思ってたら違ったこと。芸能界 |
私は誰しもがそう望むように幸せになりたいと思っていた。それは我々の権利でさえある。しかしそれは法で定められなくてはならないほど、私たちに縁遠いものなのかもしれない。例えば社会的地位、経済的余裕、暖かな人との繋がり、夢や希望をこの地であくまで追求すること──。
これは生活に追われて疲れ果てたある女の手記だ。私はこんなくだらない文章を書くほど暇なのだ。それは決してゆとりではない。それに真実でもない。「何もすることがない」というのは恐怖なのだ。自分自身、もしくは人生の虚無と向き合うはめになる。それならこうやってスマホの白い画面に黒字を打ち続けるほうがよっぽどマシなのだ。
私はつねに漠然と死にたいと願っている。先に告白しておこう。私はうつ病者だ。だから歪んだ世界に生きている。そして発達障害(当事者)でもある。私の目に見えるものは本来の姿を留めていないのかもしれない。私は何重にも孤独なのだ。恋人も友人もいない。私は一人だ。いや、少なくともいま現在はと付け加えよう。
私には子どもが一人いる。
まだ幼い、母親の庇護を必要とするか弱い存在だ。私の苦悩の全般は子育てに起因するように思う。人より劣る私のような人間にはそもそも育児など不可能だったのだ。すでに夫だった(それ以前は恋人だった)男とは離別している。「孤育て」とは誰の造語かは知らないが、なんとも言いえて妙だ。
私の人生で誇れることがあるとすれば、それは離婚だ。自分で考え自分で行動し自分で決着を付けた。そして学びを得た。「私のことを粗末に扱う人間とはもう関わらない」夫はいわゆる“モラハラ”体質だった。デートDVもあった。でも私は気付けなかった。それを理解したのは最近のことだ。ということは私にもそれなりの成長があったのだ。しかし、もっと早くに気付いていれば傷は浅かったし、それから、それから、息子を産まずに済んだのだ。
私が心を病んだのは十代の頃だ。夫と出会う前だ。だから全面的に彼を非難することは出来ない。初めて行った産婦人科で、エコー写真を見た。モノクロのテレビ画面に不思議な抽象画のようなものが映し出された。そして写真を撮るカチッとした音が響いた。それで私にも分かったのだ、この腹のなかに何かが居るのだと。動揺して頬にしずくが伝ったのを覚えている。真っ白で消毒液臭い古びた院内。私にとって希死念慮は懐かしく親しみ深い欲求だ。だからこの一連の愚かで頓馬な騒動のなか、私は一つの結論に達した。つまり、子どもが産まれたあとに自殺しよう、と。私のその願い(この人生を終わりにしたい──)と胎児とはなんの関係もない。巻き込むにはしのびなかった。その程度の理性は持ち合わせていると自負している。
だが私は当初男に中絶を訴えた。私はまだ“女の子”でいたかったのだ。くたびれた子持ち女になるなんて、とんでもないことだ。子どもなんていらない、私には夢がある、そんな責任背負えない──などなど、私は空回りする言葉を口にした。男は泣いて反駁した。絶対後悔させない、幸せにする、土下座してもいい……。いずれにせよ上っ面な言葉が二人の間に投げ交わされた。その中で、男の涙も出産を決意した理由の一つになった。私たちの深刻で感情的な会話は回転寿司屋で耳目を集めた。あの人が泣くのを見たのはあれが最初で最後だ。希望のない結婚生活はすぐさま破綻し、ただの狂女と化した私を男は見切った。離婚は合意によるものだった。結婚は、結婚はといえば寄り切られただけだ。それに実家では死にたくなかった。「家」から出るための判断だったと今になって思う。
そして母親から望まれなかった子どもは今や四歳になる。つまり私は死ねなかった。ひどく臆病なのだ。だらだらした生を送り、日々は過ぎ去り、私は今日もただ生きているという苦痛に耐える。
16時半になると息子が帰って来る。彼には発達特性があり、療育と呼ばれる困りごとを抱えた子どもたちを支援する施設に通っている。青い車に乗った彼はたいていはご機嫌で帰宅する。そして「今日のご飯は? なんのおやつがある?」などと訊ねる。その都度私は答える。どうでもいいことを、どうでもいい感じで。
私たち親子をこの先待っているのはなんだろう、とふと考える。私の予想では、息子はグレるか引きこもるかのどちらかだろう。“軽度の発達遅滞”──、医者の言った言葉だ。
私が憂うのは──、また興味を惹くのは、私たち家族が年々機能不全家庭に成り下がってゆく事実だ。
曾祖母は戦争で夫を亡くしお茶お花の教室を開いては子ども二人を育て上げた、祖母は家業と家事育児を両立させ手作りの洋服を娘らに着せていた、私の父は男手一つで私を曲がりなりにも成人させた。では私はどうなのだろう。三十路の子持ち女、気ままなパート通い、充実した福祉政策にすがってその日暮らしをしている。闘病中だから仕方ないでしょ、が最大の言い訳だ。もちろん私は合理的配慮の必要を認める、国だってそう言ってる。だが私の怠惰と甘えはとどまることを知らず、日に日に心身が肥大していくのだ。もはや若くもなく、痩せてもいず、まぶたに色を添えるでもなく、唇はささくれだっている。元夫が愛した頃の可愛らしい私などとうに消失した。ミニスカートを履くことも今後この人生にはないだろう。
だがこの点において私は絶望していない。若さゆえの唯美主義とは残酷なものだ。それを脱して豚になるのだっていいだろう。“おばさん”にはセクハラも痴漢も起こり得ない、少なくとも私はそう考える。
閑話休題──と打ちかけて気付いた。この文の本論はどこにあるのだろうか。私の人生を言葉の力を借りて小説にし美化するため? それはそれで良いだろう。だが打開策にはならない。私は毎朝ダブルベットからのろのろと起き上がり息子を登園させる、夕方になれば電話が鳴り息子をアパートの外で出迎える。その間は私一人だけの時間だ。支援職の人々は「ゆっくり休んでください」と口を揃えて言う。でも物事を複雑化して自作の迷路に一人で迷い込んでゆくのは私の大得意だ。つまり安息などない。私は息子の帰宅を恐れる。逃げ出したいと思う。実際逃げ出したらどうなるか綿密に考えてみる。それもいいと時々思う。でもだいたいは「居続ける」ことを選ぶ。人生においてもそうだ。やめようか、どうしようか、でも面倒ごとは御免だ──結局私は生き続けることを選んで来た。それが正解だったのか、正しい判断なのか迷う。安易に出せる分かりやすい答えにはさほど価値がないように思う。あらゆる人間関係のなかで悩み苦しむこと、その明快な人生の定義を思い浮かべる時、もしかしたら私は幸福なのかもしれない。
2024/08/27 18:28
その気持ちは理解できる。でも、覚えておいてほしいことがあるんだ。
まず、アドバイスというのは相手に対する慈悲の一形態だ。つまり、相手を思いやる気持ちから生まれるものなんだ。たとえそのアドバイスが凡庸に感じられたとしても、相手がそれを必要としているなら、それは非常に価値があるものなんだよ。
さらに言うと、凡庸なアドバイスというのは、しばしば基本に忠実なものなんだ。基本的なことは、時に忘れられがちだけど、それを思い出させることで相手が新たな気づきを得ることもあるんだ。
だから、凡庸なアドバイスでも恐れずに言ってみるといいよ。ただし、相手の状況や感情をしっかりと理解して、相手に合ったアドバイスをすることが大切だね。言葉の力は大きいから、思いやりを持って伝えることが重要なんだ。
私たちの行動や言葉は、その背後にある意図が重要だ。誠意を持って、相手を思いやる気持ちを忘れずにいれば、そのアドバイスは必ず相手の助けになるだろう。
「国語力増田」とは、特定の文体や言葉の使い方を指摘することを目的とした増田(匿名の投稿)の一つです。この増田は、中の人と思われるアカウントが、他の増田の文体変化を捉えているかどうかをテストするために作成されました1。
国語力自体は、日本で生活する人々がこれからの社会で必要とする、また、生きていく意欲を支える言葉の力を表します。日本社会は予測不可能な変化を遂げており、国語力は表現力、読解力、想像力、俯瞰力、探求力などの要素が融合した力とされています23. この力は、漢字や慣用句の知識、さまざまな情緒に関する表現を理解したり使ったりする力、論理的思考力、読解力、設問に適切に答える解答力などを含みます4.
聖書の箴言には、言葉の力とその使用についての教訓がたくさん含まれています。
特にSNS時代にぴったりとも言える箴言をいくつか挙げてみます。
1. 箴言 10:11 - 神に従う人の口は命の源、神に逆らう者の口は不法を隠す。
2. 箴言 10:18 - うそを言う唇は憎しみを隠している。愚か者は悪口を言う。
3. 箴言 10:19 - 口数が多ければ罪は避けえない。唇を制すれば成功する。
4. 箴言 10:31 - 神に従う人の口は知恵を生み、暴言をはく舌は断たれる。
5. 箴言 10:32 - 神に従う人の唇は好意に親しみ、神に逆らう者の口は暴言に親しむ。
6. 箴言 6:16-19 - 主の憎まれるものが六つある、否、その心に、忌みきらわれるものが七つある。すなわち、高ぶる目、偽りを言う舌、罪なき人の血を流す手、悪しき計りごとをめぐらす心、すみやかに悪に走る足、偽りをのべる証人、また兄弟のうちに争いをおこす人がこれである。
これらの箴言は、言葉の力とその使用についての重要な教訓を私たちに教えてくれます。
特に、SNSのようなプラットフォームでのコミュニケーションにおいては、これらの教訓を心に留めておくことが重要です。
この記事は、スポーツ推薦で高校に入学したが苦労した著者の体験談です。要点は以下の通りです:
著者は自らの経験を通じて、苦境に立たされた生徒たちに希望と勇気を与えるメッセージを伝えています。親へのメッセージとしては、子供の人格や将来を否定しないよう呼びかけています。自身の苦い経験を踏まえ、言葉の力とその影響を強調しています。