はてなキーワード: 天賦人権論とは
相互尊重義務を負うてもええどって宣誓を伴わないで始まる権利の主張が求めてるのは権利ではなく特権というやつなんだよ ヴェイユの場合誰にも尊重されてない状態を仮定したらそこには権利なんて存在できてないだろという理屈やが 基本的人権も義務から権利が生じるものや 人権は誰かが守ろうと思って初めて意味がある みんなが守ろうと思っているために強大な力をもつわけやが、守ろうとするやつがひとりだけでも意味自体はある ところがこの人数がゼロになった場合、権利は存在してないものと見做せる。誰も認めていない権利は権利としての効力がない 権利は認められて初めて権利足り得る よって認めろ、という義務がいるわけや 義務は権利に先立って存在するなんてのはとくに目新しい理論ではない いちばん名前が通っているのはカントかな 義務は権利のためにあるのでさえなくて義務として独立して存在する。権利は義務を果たした場合の論理的帰結としてしか存在しないんやカントのなかでは シモーヌ・ヴェイユはご覧の通りやし、ハンナ・アーレントは迫害を受けた実体験から存在するだけの権利には権利としての性質がなく「共同体に属する義務」が権利(行使できる権利)の前提だと主張しとる 果たすべき義務はひとによりマチマチやけどな 権利として存在するだけの権利には権利としての性質(行使でき、主張でき、保護され、尊重されることbyワシ)がないんじゃないか? というのはだいたい共通しとる 権利は効力を得たその時に生じる、という権利観や カント倫理学はハイパー難しくてよくわからんが、権利は義務から生まれる副産物であり、しかも義務は権利を生じさせるためにあるわけではないという修行僧みたいな義務観で喋るのはわかる が、天賦人権論よりは権利の生成過程を論じるにつきよほど科学的に説明しているといえよう 義務が権利を生むという世界観においては誰かから与えられないかぎりはあらゆる権利を人は持たない 世の中のほとんどの国はこの義務先行説、おれが保証して初めておまえらに人権あり、という制度的人権保証システムで回っとる 明示的に人権とは神から与えられし恩寵と認定してるのは合衆国憲法くらいのもんや。あとはみな不可侵性の強調などで人権の由来をボカしているが、憲法以前、あるいは憲法より上位の規範に人権が存在しない以上は国家が法により権利を具体的に保護するまで権利は存在し得ないわけや 天賦人権論ってワシにはオカルトトークにしか見えんのよね 概念は法により定義されてはじめて存在するようになるというケルゼン法学的な考えのほうが好きじゃわ
フランス人権宣言辺りまでは「ふーん。そんなこと言ってる奴もいるんだホジホジ」って感じだったよ。
んでそれが日本に流れ着いてからだとあくまでここ150年ぐらいだね。
自然権についての発想は500年の歴史を持つけど、あくまで発想があっただけ。
その歴史の半分ぐらいは「このままコンピューターが進化し続ければいずれ人類を支配するぞ」ってエニアックの時代に言われていたようなものでしかない。
日頃「恋愛結婚なんてここ100年程度で産まれただけの一過性のブームなんだ!」みたいに口から泡飛ばしてる人らも、何故か天賦人権説については「は?そこが逆行するわけ無いだろ?」みたいに考えてるから不思議だわ。
いやいやこんなの人類史の端っこのほうで急に流行ったものですからね。
その昔は宗教家が「お前ら、同じ神を崇めているなら兄妹じゃないか」ぐらいに支えてくれていただけで、無宗教の考えでは「子供は奴隷だぞ。あと戦争で負けたやつもな。奴隷に人権はないぞ?でも奴隷を壊すと器物破損だから大事にしろよ」みたいな感じだったわけですよ。
昨今の「無宗教だろうがなんだろうが人権は当たり前だぜ!子供を殴る教師は裏でレイプとかしてそうだから投獄しようぜ!」みたいなノリが当たり前って発想自体が一過性のブームを世界の全てと捉える狂った発想なんですよね。
寝たきりの老人から人権を取り上げてはいけない理由が「僕らが生まれる前から基本的人権はあった自然なものだから」じゃ弱いんですよ。
それだったら「俺が若い頃は女ってのは家庭に入るものだし、旦那は駄目な女を躾けるために殴るのが義務だった」っていうジジババの戯言でさえ自然なものになりませんか?
天賦人権説という名前からわかるとおり、こんなものは王権神授説と同じレベルの「形而上学的な概念を引っ張り出してきた不自然なロジック」でしかないんですよ。
大量殺人鬼を絞首刑にしていいのは、彼らが社会に不要だからなんですよ。
「人権に制限をかけることは絶対に有り得ない」と言っている人達に聞きたいんですが、貴方達は刑務所に入ってる人は人権を制限されてないと考えているのですか?
刑務所に入ってる人は特別な理由があって人権に制限をかけられていますが、この「特別な理由」っていくらでも広げられると思いませんか?
生活保護でタダメシ食ってる人は社会に迷惑をかけてるし、孤独死寸前の老人は周囲の不安を煽ってる。
老人ホームで暴れるお爺ちゃんは若い人に迷惑だし、ボケきったお婆ちゃんは社会のお荷物です。
どう思いますか?
十二分な時間を取って、自分の頭でしっかりと、何度でも何度でも考えてください。
結論ありきでは駄目ですよ。
どうしても結論あり気になるなら「人権は万人にあるべき(犯罪者を除く)」という結論で一度考えてから、「人権はもっと制限されるべき」という結論に向かってもう一度考えてみてください。
女と一括りにしたが、自分を特別な存在だと思ってしまう人間にはやはり女が多い
男だとあらゆる分野で「上には上がいる」ことを知って自身が特別な存在ではないことに大人になる過程で気付かされるが、女はせいぜい学力くらいのもので「私のほうが可愛い」とか定量化できない分野で競い合ってしまうので、いつまで経っても身の程を知るという経験を得ずに大人になってしまうケースが有る
そんな人間が例えお金を借りることになったとしても「私はこれだけ可愛いのだから/特別な人間なのだからお金を返す必要はない」と考えてしまい、そのまま持ち逃げするのも許される行為だと勘違いするのである
そんな人間に道徳であったり、国のシステムとしての天賦人権論を説いても理解しない
理解した瞬間に自身のアイデンティティが崩壊するので絶対に許容するわけにはいかないからだ
かくいう自分も、自分の場合は妻に様々な理由をつけてお金を引っ張られた(用途は特定を避けるために書きません)
いつかその内、大人になってくれればいいだろうと思っていたが、こういう人間は成長しないから存在するのである
最終的に今までの恩を不倫という形で仇で返されて離婚した(その前に何度もDVされたりとかもあった)
たぶん、自分はこれだけ可愛い/特別なのだから男を選ぶ権利があるので平気の平左で乗り換えてもよい、とする考え方があるからである
今までされたことをDVだと突きつけたら「それくらいは夫婦間ではよくあることなのでは?」と開き直られた
平手打ちとか、真冬に鍵を取り上げて家を追い出したりするのは普通ではないですよ、あなたは特別な存在だから許されていたと思っているでしょうけど(別に今でも許していません)
例の配信者も同じだろう、自分のことを特別だと思っていなければ裁判で負けても金を返さないという厚顔無恥な振る舞いは不可能である
自分のことを特別だと思うと社会のあらゆるモラルをぶっ千切った状態で生きられるのでそういうことができるのだ、彼女たちの前では六法全書も尻を拭く紙に等しい
そもそも相手が親族でもないのに万単位の金をせびる時点でモラルが破綻しているのだが、その上で放漫な生活を行っているのには理由がある
彼女たちは自身を特別と思っているので特別な生活を送らないと認知的不協和を起こしてしまうのだ
そのために自身がスペシャルな環境・経験・存在を持っていることをSNSを通して発信し続けないといけない
つまり例え借金だろうと金を湯水の如く使って放蕩をするのは彼女たちにとって、喉が渇いたら水を飲むのと同じ行為なのである
そんな彼女たちの視点に立って考えると、基本的に他者を尊重するという感覚が最初から無い
人間扱いされてない人間が裁判で勝ったから何だというのだ?という感じ
そんな人間に金など貸してはいけない、誠実な女は基本的にSNSや配信サイトで積極的に露出したりはしない
世界が五分前に生まれたということはどういう事か分かりますか?
仏教徒の皆さんは「この世界はシミュレーテッド・リアリティに過ぎないから色即是空なんだ」とおっしゃるでしょう。
キリスト教徒の皆さんは「神がこの世界をお作りになったのが五分前なのです」とおっしゃるでしょう。
私の論点は、実はそこにはありません。
つまりですね。貴方が東大卒だとしてもその学歴は「貴方が何年も頑張って勉強して手に入れたもの」ではなく「何年も頑張って勉強して手に入れたという設定により手に入れたもの」だということです。
もしも貴方が自業自得の事故で五体不満足であってもそれは「貴方の不注意によって生じたもの」ではなく「貴方の不注意によって生じたという設定により生じたもの」だということです。
これについて「何の罪もないのに不幸ならば、それはあまりにも理不尽だ!」と思うかも知れません。
自業自得だと思えば耐えられたものが、自業自得で無かったと考えたら耐えきれなくなる人もいるかも知れません。
ですが考えても見てください。
過去の貴方はもう既に今の貴方にはコントロールしようがない他人なのです。
現代社会では多くの人がもうすでにコントロール出来ない過去に対しての後ろめたさから前を向けなくなっています。
仕事が上手くいかないのを「過去の自分が頑張っていい会社に入らなかったせいだ」と悔やんだりしても、それに何の意味があるのでしょうか?
人間関係が上手くいかないのを「子供の頃からもっと人付き合いの勉強をしていればよかった」と悔やんでも、それは過去の自分への八つ当たりのようなものではありませんか?
過去は五分前に作られてしまった設定なのでもうどうしようもありませんが、未来は現在の自分によってある程度コントロール可能な領域です。
「その考え方をするのに別に五分前仮説は必要ないのでは?」というのは正論ですが、人は正論にそのまま従えるほどに賢い生き物ではありません。
「過去はもう過ぎ去ったから仕方がない」と信じるためには、過去の自分と今の自分を決定的に切り離されなければいけないのです。
そのためには世界観に「巨大な仕切り板」を作ってやることが効果的なのです。
もしも、貴方が見にくく太っていたとしましょう。きっと貴方は過去の自分が自分で許せないという気持ちで日々を生きるでしょう。
ですがもしも、それが五分前に作られた設定だったらどうでしょうか?
自分で自分に攻撃することをやめれば気持ちに余裕が出てきます。
すると今度は他人の悪癖さえも「五分前に作られた設定に引きずられているだけなんだから仕方ないな」と許せるようになるでしょう。
もちろん「俺は五分前に連続殺人鬼として作られた人間なのだから殺人衝動も仕方がないのだ」と暴れまわる人は当然のように逮捕されます。
世界がそういう設定であるから仕方がないと人を許すことと、世界に設定された法律が無条件に人を許すことは全く別だからです。
五分前仮説を信じる世界とは、裁かれるべき罪がフラットに裁かれ、その上で人の心が不必要に裁かれることがない社会なのです。
その社会において人々は他人が法によって裁かれるべき存在であるならば淡々と裁き、私情によって私刑を加えられそうであれば許していけるわけですから、本当の意味での法治国家がここに産まれるというわけです。
ですが多くの人は仮説という表現につられてこれをただの思考実験と捉えてしまっています。
違うのです。
「天賦人権論」が単なる論では終わるものだと考えている人は現代にはほとんどいないでしょう。
「天賦人権論」はある種の信仰、それも20世紀的な社会の土台となる新世代の教義とも言えるものです。
ですが、これが社会に浸透するまで、多くの人はこれを「仮説」として捉えていたのです。
「世界五分前仮説」には、「天賦人権論」と同じく、新世紀を代表する宗教となれるだけのポテンシャルがある。
私はそう思います。
なるほど。
なんで私がこんな増田を書こうとしたのかよく分からないのですが、そういう設定の人間として社会に生まれたのなら仕方がないですね。
貴重な月曜日のアフターファイブをドブに捨てたような気もしますが、書いている状態で始まってしまった人生を書き終わらせずに続けるのもおかしな話ですから、書ききったことに後悔はありません。ありません。ない。ないです。
「金が動いて経済が回って
沢山の人が熱狂して元気になって
それでいて!
人があんまし死なない!
こんなに至れりつくせりなものが
あるかい 」
昨日の夜、コレを読んで本当にゾっとしたよ。
一晩寝かせたぐらいだ。
今日、もう一度読んでみたけど
本当に恐ろしいと改めて思ったね。
「人があんまし死なない!」
だから至れり尽くせりで素晴らしい。そう、言っているんだ。
人が死んでもいい。
そんなことを
まあ、実際そうなんだと思うよ。
でもそれを清々しく言われるのは本当に恐ろしい。
コレは間違いなことだと思うよ。
なんて呼ばれることだってある。
そして全てのスポーツにその側面がある。
過剰に痛めつけてばかりいて
チームワークと称してはハラスメントを
そんなことでいいのだろうか?
最近「自民党というか現政権は『サリンを撒かないオウム真理教』なんだな」と思うようになった。
オウムが掲げる教義は、ヨーガやヒンズー教をはじめとする既存の宗教を研究・解体し、自分たちの都合の良いように再構築したものだった。世の中の倫理観からはかなり偏って見えた。
一方、日本会議が育んでいる「教育勅語の復権」や「大東亜戦争の肯定」「ジェンダーフリーの是正」といった思想も、程度は違えどだいぶ偏って見える。
両者の違いは「その思想によって生活やアイデンティティを脅かされる人数の差」くらい。
あと「宇予くん」や「クールジャパン」みたいな、時代遅れ甚だしい感性でメディアに打って出るやりかたも似てる。
突如、総理が自分の名前をサビにした歌を歌いだしたとしてもまったく驚かないだろう。
戦後からの権益が礎になってるから、立場が危うくなっても無闇な虐殺はしなくていいし、急に弁護士一家を殺したり、サリンを撒いたりもしない。
生活を捨てさせずに支援者を増やして、彼らが持て余している在日外国人や同性愛者らマイノリティへの蔑視や敵意を上手く育てている。
今回の新内閣幹部から過去に「天賦人権論はやめよう」とか「同性愛者は国民として格下」みたいな頓珍漢な理屈が飛び出してても、国民の過半数は普通に生活出来てるからそんなに炎上しない。
そうやって、彼らはあらゆる疑惑を舌先と金で巧みに躱しながら、自分たちが気持ちいい宗教的イデオロギーで民衆を導きたいんだろうなと。
そう思えば「オウムにしては頼りになるな」と思えるのではないだろうか。
仮に、あの世紀末にオウム真理教がサリンを撒かずに与党に吸収され、教義を表向き廃棄としつつ隠匿、民主主義を標榜しながらこの国を治める立場になり、じんわりと教義を主張し始めたとしたら、きっとこんな感じになるのではないか。
まあ「教育勅語」のような数十年の間のみ通用した文言を重要視する歴史観だったり「EM菌よく知らないけど大臣を引き受けました」といった現代科学を軽視する様を見るにつけ、オウムと比べると姿勢はダサく、知性は幼稚に見えるけど。
でもいいのだ。それなりに生活できてるし。
このまま、サリンを撒かずにこの国を治めて欲しい。思想以外は支持しています。
そして、出来ることなら露骨な身内贔屓や醜い言い逃れを改めて欲しいです。出来ればだけど。
天賦人権論を否定する片山さつきさんを白昼堂々入閣させるとは、いよいよ居直ってきましたね、安倍晋三さん。 https://t.co/2dzTdQLshS— 想田和弘 (@KazuhiroSoda) 2018年10月1日