はてなキーワード: 序文とは
ChatGPTに書かせてみた。
タイトル:
怒りは誰にでも湧く感情です。でも「絶対に怒らない人」は特別な人ではなく、習慣的に思考と行動を整えている人のこと。本書は、怒りに飲み込まれず冷静さを保つための具体的な思考法と日常で使えるテクニックを紹介します。感情が揺れたときにすぐ使える「小さな習慣」を中心に、実践的で現実的なアドバイスをお届けします。
内容(〜350字)
怒りを感じた瞬間、自分の中でその感情に名前をつける――「今、燃えている」「今、傷ついている」と短く言葉にするだけで、感情は主観の渦から一歩離れて見えるようになります。名前をつける行為はメタ認知を促し、自分を観察者に切り替えるトリガーになります。習慣化すれば瞬間的な反応が減り、選べる行動の幅がぐっと広がります。
内容(〜380字)
怒りは身体反応が先に来ます。そこで「呼吸を整える」を作業化しましょう。4秒吸って4秒止めて6秒吐く、など決まったリズムを持つと自律神経が落ち着き、理性的な思考が戻ります。スマホのタイマーや指の数え方でルール化すると実行しやすい。大事なのは“いつでも使える簡単な作業”にすること。短時間で感情の嵐を和らげられます。
内容(〜370字)
怒りの元は事実そのものではなく、そこに乗った解釈や期待です。まずは起きたこと(事実)を書き、次に自分が感じていること(感情)、最後に自分がその事実にどう意味づけしているか(解釈)を分けて整理しましょう。こうすることで「変えられること」と「受け入れること」が明確になり、不要な怒りを手放しやすくなります。
内容(〜360字)
怒りに身を任せると短期的な満足(言い返す、叩きつける)が得られますが後で後悔しやすい。そこで「5分ルール」を導入。怒りが湧いたらまず5分保留。スマホを置く、席を離れる、メモするなど小さな行動で即時の衝動を止めます。多くの場合、時間が経てば視点が変わり、より建設的な選択ができます。
内容(〜380字)
他者は自分とは違う体験と価値観の「地図」を持っています。怒りを感じた相手の背景や事情を想像する練習を日常化しましょう。「今この人は忙しいのか」「失敗を恐れているのか」など仮説を立てるだけで、相手行動の解釈が柔らかくなります。想像は同情ではなく、判断の幅を広げるツールです。
内容(〜360字)
多くの怒りは期待と現実のズレから生まれます。期待を明確にして相手と共有する、あるいは自分の期待を現実的に引き下げる習慣をつくりましょう。事前に「こうしてほしい」と短く伝えるだけで齟齬は減りますし、自分で期待を見直す訓練はストレス耐性を高めます。期待は柔軟に扱うと武器になります。
内容(〜350字)
怒りを伝えるときの言葉選びで結果は大きく変わります。「あなたはいつも〜」ではなく「私は〜と感じた」と主語を自分にするだけで防御的な反応が減ります。感情を事実と結びつけない「私はメッセージ」を常備語にしておくと、対話が壊れにくい。言葉は感情のブレーキにもアクセルにもなります。
内容(〜370字)
場の緊張を和らげる武器にユーモアがあります。ただし嘲笑や軽視は禁物。自分の失敗を軽く笑える自己開示や、「自分の脳が騒いでるだけ」といった緩衝フレーズを使うと、相手も警戒を解きやすくなります。ユーモアは相手を下げずに空気を変える“調味料”。使い方を誤らなければ強力です。
内容(〜380字)
怒りそのものを否定するのではなく、生産的な行動に変換する方法を持ちましょう。短時間の運動、問題点の箇条書き、改善可能なアクションリスト作成など、怒りを「次に何をするか」に向ける訓練です。感情を動機にして具体的な一歩を踏むと、自己効力感が高まり再び怒りに振り回されにくくなります。
内容(〜370字)
日々の小さな習慣が「怒らない力」を育てます。瞑想、日記、感謝リスト、定期的な振り返りなどをルーティンに組み込み、感情の起伏に気づく力を高めましょう。筋トレと同じで継続が効果を生みます。短期テクニックと長期習慣を組み合わせれば、自然と怒りが起きにくい心の“筋力”がつきます。
「絶対に怒らない」とは感情の否定ではなく、選べる人になること。ここで紹介した思考法は即効性のある小さな道具ばかりです。大切なのは試してみて、自分に合うものを残していくこと。怒りは使い方次第で味方にも敵にもなります。あなたの人生の中で、怒りがより賢く、安全に機能するようになることを願っています。
2016年8月8日、明仁天皇(現上皇)による「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」は、日本の戦後体制が生み出した極めて巧妙な政治的コミュニケーションの傑作であった。しかし皮肉なことに、この歴史的意義を持つ発言は、現在「お気持ち表明」という軽薄なミームとして消費されている。この現象は、戦後日本の構造的制約と現代社会の読解力低下が交錯する地点に位置している。
「お気持ち表明」という回りくどい表現が必要だった根本的理由は、1945年の敗戦にある。戦後憲法により天皇は「象徴」となり、「国政に関する権能を有しない」(第4条)存在として位置づけられた。この制約下では、天皇が直接的に「退位したい」と表明することは違憲行為となる可能性があった。
明仁天皇の発言は、この制約を巧妙に回避した民主的解決策だった。高齢による体力的限界、天皇としての務めを十分に果たせない懸念、そして突然の崩御が国民生活に与える影響への配慮を表明することで、実質的な退位意向を主権者たる国民に伝えたのである。これは憲法の枠組みを守りながら、国民主権の原則に従って制度変更を促す、高度に洗練された政治的コミュニケーションであった。
しかし、この発言が真に理解されたのは、憲法や皇室制度に精通した限られた層に過ぎなかった。一般国民の多くにとって、長時間にわたる慎重な表現は「よくわからない長文」として映った。「お気持ち表明」という表現の語感的面白さが、内容の重要性を覆い隠してしまったのである。
この理解度の格差は、現代社会のコミュニケーション環境とも関連している。SNS時代の短文化した情報消費習慣において、文脈への深い配慮と慎重な表現は「要点のまとまらない自分語り」として受け取られがちである。最も民主的で配慮深いコミュニケーションが、表面的にしか理解されない構造的問題がここに現れている。
「お気持ち表明」の軽薄な使用は、使用者の無知を露呈している。本来この言葉は、憲法的制約の中で民主的プロセスを重んじた成功例であったにもかかわらず、「感情的な意見表明」や「建前的な発言」といった真逆の意味で使われている。
さらに興味深いのは、この誤用に対する反応の構造である。「お気持ち表明」と攻撃される側も、攻撃する側も、そして時として仲裁に入る第三者も、多くの場合この言葉の歴史的文脈を理解していない。結果として、歴史的に重要な概念が、無知な者同士の応酬の道具として消費される事態が生じている。
この現象は、戦後日本の深層的な問題を浮き彫りにしている。敗戦により課された制約の中で編み出された知恵が、その制約の歴史的背景とともに忘却されている。「戦争に負けたから」天皇は直接的な政治的発言ができず、「だからこそ」お気持ち表明という形式が必要だったという根本的な歴史認識すら、多くの国民に共有されていない。
「お気持ち表明」のミーム化は、単なる言葉の変遷を超えた現象である。それは戦後日本の憲法体制への理解不足、現代社会の読解力低下、そして歴史的文脈の軽視が複合的に作用した結果である。民主主義の成熟には、制度の背景にある歴史的経緯と、その中で編み出された知恵への理解が不可欠である。「お気持ち表明」の真の意味を理解することは、戦後日本の民主主義そのものを理解することに他ならない。
noteの著者本人が専門家のアカウントに記事をリプライで送りつけまくって無視され続けてる代物が何故か
匿名掲示板や増田ではやたら高評価って、凄く胡散臭い状況だけど大丈夫?
自称「研究家」の中には、大学教員に誰彼なく論文を送り付けて、
無視されると「アカデミズムは閉鎖的だ」とますます意固地になる人も少なからずいます。
しかしそれは「箸にも棒にもかからないから返事をする値打ちもない」という意味だと受け取るべきです。
「研究ごっこ」をきっちり批評しようとすれば、入門書を一冊ものするくらいのエネルギーが必要です。
ちゃんと勉強した人なら言わずもがなのはずの、初歩の初歩からいちいち説明しなければならないからです。
しかもそんな労力を割いても、研究業績として認められるわけでもなく、一銭の儲けにもなりません。
「私にとって真理は貴重である。
私は多数者とともに走って誤るよりは、むしろただ一人でも正しく立っていたい。
ここにのべるような考え方をもつことですでに私は、なかまのいく人かから侮りと軽べつとあざけりをうけてきた。
私は奇妙で、異様で、特異だとみなされている。
しかし真理は真理なのであり、たとえ全世界がそれを拒否し、私に敵対しようとも、それでもなお私は真理に執着するだろう。」
この文章は、ワシントン州フェアフィールドのチャールズ・シルヴェスター・ド・フォートが一九三一年に刊行したパンフレットの序文からとったもので、彼はこのパンフレットで大地が平らなことを証明している。
この記事を「進化学の専門家による」ものだと読み取るリテラシーをみると、
最初の学会発表の時点で著者本人の意見を変えることを諦めたのは正しい判断だったと改めて思います
2025年、私たちはソフトウェア開発の歴史的な転換点に立っている。大規模言語モデル(LLM)の進化は、GitHub Copilotのようなコード補完ツールに始まり、今や「何を作りたいか」を自然言語で伝えるだけで、アプリケーションの雛形が数分で生成される時代を現実のものとしつつある。この光景を目の当たりにした多くのプログラマが、漠然とした、しかし確かな不安を抱いているだろう。「私たちの仕事は、いずれAIに奪われるのではないか」と。
この問いに対する私の答えは、半分はYesであり、もう半分はNoだ。より正確に言えば、プログラマの仕事の本質が、歴史上かつてないレベルで抽象化され、その役割が再定義されるのだ。私たちは、コードを「書く」作業から解放される一方で、これまで以上に高度な思考を要求されることになる。
本稿では、プログラミングの歴史を「How(いかに作るか)」から「What(何を作るか)」への移行として捉え直し、LLMがこの流れをいかに加速させるかを論じる。そして、その先にある、AIには決して代替できない、人間ならではの競争優位性、すなわち「Why(なぜ作るのか)」を定義し、記述する能力の重要性について深く考察していく。これは、単なる未来予測ではない。今を生きるすべてのソフトウェアエンジニアにとっての、生存戦略の提示である。
LLMの登場を特異点として捉える前に、我々が立っている場所を正確に知る必要がある。ソフトウェア開発の歴史は、常に「抽象化」との戦いであった。そしてその歴史は、プログラマの関心が「How」から「What」へと徐々に移り変わっていくプロセスとして描くことができる。
コンピュータの黎明期、プログラミングとは、計算機が理解できる命令(How)を、一行一行、丹念に記述する作業そのものであった。アセンブリ言語や初期のFORTRAN、COBOLといった言語は、ハードウェアの制約を強く受けており、プログラマはメモリ管理やプロセッサの動作といった、極めて物理層に近いレベルでの「How」を意識する必要があった。
この時代のテストもまた、「How」に強く束縛されていた。書かれた手続きが、意図した通りに順番に実行されるか、特定の入力に対して期待された計算結果を返すか。テストの関心事は、あくまで「手続きの正しさ」の検証にあった。ビジネスロジックと実装の詳細が密結合し、コードは特定の処理手順を記述した、硬直的な塊となっていた。
風向きが変わり始めたのは、ソフトウェアの規模が拡大し、その複雑性が人間の認知能力を超え始めた頃だ。1990年代後半から2000年代にかけて提唱されたエクストリーム・プログラミング(XP)の中で、テスト駆動開発(TDD)という考え方が登場する。
TDDの本質は、単なるテスト手法の改善ではない。それは、プログラミングのパラダイムを根底から覆す思想だった。TDDは、「まずテストを書く」ことを強制することで、プログラマの意識を「これから実装するコード(How)」から「そのコードが満たすべき振る舞い(What)」へと強制的に転換させたのだ。
テストはもはや、書かれたコードの後追いで正しさを検証する作業ではない。それは、これから作られるべきソフトウェアの「仕様書」であり、「振る舞いの宣言」となった。例えば、「ユーザーがログインボタンをクリックしたら、ダッシュボード画面に遷移する」というテストコードは、具体的な実装方法(`onClick`イベントハンドラの中で`window.location.href`を書き換える、など)には一切言及しない。それはただ、達成されるべき「What」を記述しているだけだ。
この思想は、ビヘイビア駆動開発(BDD)へと発展し、`Given-When-Then`といった、より自然言語に近い形式でソフトウェアの振る舞いを記述するスタイルを生み出した。プログラマだけでなく、プロダクトマネージャーやビジネスアナリストといった非技術者をも巻き込み、「What」を共通言語として定義する試みが本格化したのである。
TDD/BDDによってプログラマの意識が「What」に向かい始めると、コードそのものもまた、宣言的なスタイルへと進化していく。この変化を劇的に加速させたのが、モダンなフレームワークの存在だ。
Reactを例に考えてみよう。Reactが登場する前、フロントエンド開発はjQueryに代表されるように、DOMを直接操作する命令的なコード(How)の連続だった。「このボタンがクリックされたら、この要素のテキストを書き換え、あちらの要素を非表示にする」といった具合だ。
しかし、Reactは「UIとは、ある状態(state)に対する純粋な写像である」という宣言的なモデルを提示した。プログラマがやるべきことは、UIの状態(`state`)と、その状態がどのように見えるか(JSXによるコンポーネント)を宣言することだけだ。状態が変更された際に、DOMをどのように効率的に更新するかという面倒な「How」の部分は、Reactの仮想DOMと差分検出アルゴリズムがすべて隠蔽してくれる。プログラマは「What(UIのあるべき姿)」を記述するだけでよくなったのだ。
この「WhatからHowへの変換」は、様々な領域で見られる。
これらのフレームワークやツールは、いわば「特定の制約下における、WhatからHowへの高性能な変換器」として機能してきた。プログラマは、フレームワークが課す「お作法」や「制約」を受け入れることで、退屈で間違いの多い「How」の記述から解放され、より本質的な「What」の定義に集中できるようになった。我々が「生産性が高い」と感じる開発体験は、この優れた変換器の恩恵に他ならない。
現状は、この歴史的変遷の延長線上にある。プログラマの仕事は、手続きを記述する職人から、振る舞いを定義し、それを実現するための最適な「変換器(フレームワーク)」を選択・設定するアーキテクトへと、その重心を移してきたのだ。
フレームワークがもたらした「WhatからHowへ」の潮流は、LLMの登場によって、未曾有のスケールで加速されようとしている。フレームワークが「特定の領域に特化した変換器」であったのに対し、LLMは「あらゆる領域に対応可能な、究極の汎用変換器」としてのポテンシャルを秘めているからだ。
前章で述べたように、ReactやTerraformといったフレームワークは、その恩恵と引き換えに、私たちに特定の「制約」を課してきた。Reactを使うならコンポーネントベースで思考し、状態管理の作法に従う必要がある。Terraformを使うなら、そのエコシステムとHCLの流儀を受け入れなければならない。これらの制約は、WhatからHowへの変換を自動化するための「レール」であり、私たちはそのレールの上を走ることで効率を得てきた。
しかし、LLMはこの前提を覆す。LLMは、特定のフレームワークや言語の知識を事前に学習しているが、その利用において絶対的な制約を課すわけではない。私たちは、より自由な形式で「What」を伝えることができる。
例えば、こうだ。
ユーザー認証機能付きのシンプルなブログアプリを作ってほしい。フロントエンドはReactとTypeScript、UIコンポーネントはMUIを使う。バックエンドはNode.jsとExpressで、データベースはPostgreSQL。ユーザーはGoogleアカウントでログインでき、新しい記事を作成、編集、削除できる。記事にはマークダウン記法が使えて、画像もアップロードできるようにしてほしい。
この要求(What)は、特定のフレームワークの流儀に則ったものではない。複数の技術スタックを横断し、機能要求を自然言語で並べただけのものである。しかし、現在のLLM、特にGPT-4oやそれに類するモデルは、このレベルの要求から、ディレクトリ構造、設定ファイル、APIエンドポイント、フロントエンドコンポーネントに至るまで、驚くほど具体的なコード(How)を生成することができる。
これは、フレームワークが担ってきた「WhatからHowへの変換」が、特定のレールから解き放たれ、より広範で柔軟な領域へと拡張されたことを意味する。これまで自動化が難しかった、あるいは特定のフレームワークが存在しなかったニッチな領域や、複数の技術を組み合わせる複雑なシステム構築においても、AIによる宣言的プログラミングの恩恵を受けられる時代が始まろうとしているのだ。
LLMという汎用変換器の登場により、プログラマの生産性は、「いかに質の高いWhatをLLMに伝えられるか」に直結するようになる。これは、俗に「プロンプトエンジニアリング」と呼ばれるスキルだが、その本質は、ソフトウェア開発における「要求定義」そのものである。
質の高い「What」とは何か。それは、曖昧性がなく、網羅的で、矛盾のない要求である。
これらは、優秀なソフトウェアエンジニアが、プロダクトマネージャーやデザイナーとの対話を通じて、日常的に行ってきた思考プロセスそのものではないだろうか。LLMの登場は、この思考プロセスを、より明確に、よりテキストベースで「記述」する能力を求める。私たちの頭の中にあった暗黙的な仕様が、LLMへの入力(プロンプト)という形で、明示的に言語化されることを要求するのだ。
やがて、ほとんどのプログラミング作業は、この「Whatの記述」に収束していくだろう。TDDがテストコードという形式で「What」を記述したように、私たちは自然言語や、より構造化された要求記述言語を用いて、AIに対して「What」を宣言することになる。コード(How)は、その宣言から自動生成される中間生成物に過ぎなくなる。まさに、コードが蒸発していく未来である。
「What」を伝えれば「How」が手に入る。この魔法のような世界の到来を前に、私たちは一つの重大な問いに直面する。それは、「そのWhatからHowへの変換は、本当に一意に決まるのか?」という問いだ。
答えは、明確にNoである。
ある「What(要求)」を実現するための「How(実装)」は、無数に存在する。そして、どの「How」を選択すべきかを決定するためには、単純な機能要求(What)だけでは情報が全く足りない。そこには、必ず「Why(なぜそう作るのか)」という、背景、文脈、そしてトレードオフの考慮が必要不可欠となる。
簡単な例を考えてみよう。「1億件のユーザーデータを格納し、ユーザーIDで高速に検索できるシステム」という「What」をLLMに与えたとする。LLMは、どのような「How」を提案するだろうか。
これらの選択肢は、どれも「What」を満たしている。しかし、その特性は全く異なる。案Aは多くのエンジニアにとって馴染み深く開発が容易だが、10億、100億件へのスケールは難しいかもしれない。案Bはスケール性に優れるが、厳密なトランザクション管理は苦手だ。案Cは高速だが、運用コストとシステムの複雑性が増す。案Dは安価だが、検索速度は他に劣る。
LLMは、これらの選択肢をリストアップすることはできるだろう。しかし、このプロジェクトにとって最適な選択肢はどれかを、自信を持って決定することはできない。なぜなら、その決定には、LLMが与えられていない「Why」の情報が必要だからだ。
これらの「Why」こそが、無数に存在する「How」の中から、ただ一つの「正解」を選び出すための羅針盤なのである。そしてこの「Why」は、ビジネスの目標、組織の文化、ユーザーの期待、技術的な制約といった、極めて人間的で、文脈依存的な情報の中にしか存在しない。
ここで重要なのは、これまでもエンジニアは、この「Why」に基づく意思決定を、意識的あるいは無意識的に行ってきたという事実だ。
私たちが技術選定を行うとき、単に「流行っているから」という理由だけでReactを選ぶわけではない。「SPA(Single Page Application)にすることでユーザー体験を向上させたい(Why)」、「コンポーネント指向の開発によって長期的な保守性を確保したい(Why)」、「Reactエンジニアの採用市場が活発だから(Why)」といった、様々な「 Permalink | 記事への反応(0) | 17:09
2025年、私たちはソフトウェア開発の歴史的な転換点に立っている。大規模言語モデル(LLM)の進化は、GitHub Copilotのようなコード補完ツールに始まり、今や「何を作りたいか」を自然言語で伝えるだけで、アプリケーションの雛形が数分で生成される時代を現実のものとしつつある。この光景を目の当たりにした多くのプログラマが、漠然とした、しかし確かな不安を抱いているだろう。「私たちの仕事は、いずれAIに奪われるのではないか」と。
この問いに対する私の答えは、半分はYesであり、もう半分はNoだ。より正確に言えば、プログラマの仕事の本質が、歴史上かつてないレベルで抽象化され、その役割が再定義されるのだ。私たちは、コードを「書く」作業から解放される一方で、これまで以上に高度な思考を要求されることになる。
本稿では、プログラミングの歴史を「How(いかに作るか)」から「What(何を作るか)」への移行として捉え直し、LLMがこの流れをいかに加速させるかを論じる。そして、その先にある、AIには決して代替できない、人間ならではの競争優位性、すなわち「Why(なぜ作るのか)」を定義し、記述する能力の重要性について深く考察していく。これは、単なる未来予測ではない。今を生きるすべてのソフトウェアエンジニアにとっての、生存戦略の提示である。
LLMの登場を特異点として捉える前に、我々が立っている場所を正確に知る必要がある。ソフトウェア開発の歴史は、常に「抽象化」との戦いであった。そしてその歴史は、プログラマの関心が「How」から「What」へと徐々に移り変わっていくプロセスとして描くことができる。
コンピュータの黎明期、プログラミングとは、計算機が理解できる命令(How)を、一行一行、丹念に記述する作業そのものであった。アセンブリ言語や初期のFORTRAN、COBOLといった言語は、ハードウェアの制約を強く受けており、プログラマはメモリ管理やプロセッサの動作といった、極めて物理層に近いレベルでの「How」を意識する必要があった。
この時代のテストもまた、「How」に強く束縛されていた。書かれた手続きが、意図した通りに順番に実行されるか、特定の入力に対して期待された計算結果を返すか。テストの関心事は、あくまで「手続きの正しさ」の検証にあった。ビジネスロジックと実装の詳細が密結合し、コードは特定の処理手順を記述した、硬直的な塊となっていた。
風向きが変わり始めたのは、ソフトウェアの規模が拡大し、その複雑性が人間の認知能力を超え始めた頃だ。1990年代後半から2000年代にかけて提唱されたエクストリーム・プログラミング(XP)の中で、テスト駆動開発(TDD)という考え方が登場する。
TDDの本質は、単なるテスト手法の改善ではない。それは、プログラミングのパラダイムを根底から覆す思想だった。TDDは、「まずテストを書く」ことを強制することで、プログラマの意識を「これから実装するコード(How)」から「そのコードが満たすべき振る舞い(What)」へと強制的に転換させたのだ。
テストはもはや、書かれたコードの後追いで正しさを検証する作業ではない。それは、これから作られるべきソフトウェアの「仕様書」であり、「振る舞いの宣言」となった。例えば、「ユーザーがログインボタンをクリックしたら、ダッシュボード画面に遷移する」というテストコードは、具体的な実装方法(`onClick`イベントハンドラの中で`window.location.href`を書き換える、など)には一切言及しない。それはただ、達成されるべき「What」を記述しているだけだ。
この思想は、ビヘイビア駆動開発(BDD)へと発展し、`Given-When-Then`といった、より自然言語に近い形式でソフトウェアの振る舞いを記述するスタイルを生み出した。プログラマだけでなく、プロダクトマネージャーやビジネスアナリストといった非技術者をも巻き込み、「What」を共通言語として定義する試みが本格化したのである。
TDD/BDDによってプログラマの意識が「What」に向かい始めると、コードそのものもまた、宣言的なスタイルへと進化していく。この変化を劇的に加速させたのが、モダンなフレームワークの存在だ。
Reactを例に考えてみよう。Reactが登場する前、フロントエンド開発はjQueryに代表されるように、DOMを直接操作する命令的なコード(How)の連続だった。「このボタンがクリックされたら、この要素のテキストを書き換え、あちらの要素を非表示にする」といった具合だ。
しかし、Reactは「UIとは、ある状態(state)に対する純粋な写像である」という宣言的なモデルを提示した。プログラマがやるべきことは、UIの状態(`state`)と、その状態がどのように見えるか(JSXによるコンポーネント)を宣言することだけだ。状態が変更された際に、DOMをどのように効率的に更新するかという面倒な「How」の部分は、Reactの仮想DOMと差分検出アルゴリズムがすべて隠蔽してくれる。プログラマは「What(UIのあるべき姿)」を記述するだけでよくなったのだ。
この「WhatからHowへの変換」は、様々な領域で見られる。
これらのフレームワークやツールは、いわば「特定の制約下における、WhatからHowへの高性能な変換器」として機能してきた。プログラマは、フレームワークが課す「お作法」や「制約」を受け入れることで、退屈で間違いの多い「How」の記述から解放され、より本質的な「What」の定義に集中できるようになった。我々が「生産性が高い」と感じる開発体験は、この優れた変換器の恩恵に他ならない。
現状は、この歴史的変遷の延長線上にある。プログラマの仕事は、手続きを記述する職人から、振る舞いを定義し、それを実現するための最適な「変換器(フレームワーク)」を選択・設定するアーキテクトへと、その重心を移してきたのだ。
フレームワークがもたらした「WhatからHowへ」の潮流は、LLMの登場によって、未曾有のスケールで加速されようとしている。フレームワークが「特定の領域に特化した変換器」であったのに対し、LLMは「あらゆる領域に対応可能な、究極の汎用変換器」としてのポテンシャルを秘めているからだ。
前章で述べたように、ReactやTerraformといったフレームワークは、その恩恵と引き換えに、私たちに特定の「制約」を課してきた。Reactを使うならコンポーネントベースで思考し、状態管理の作法に従う必要がある。Terraformを使うなら、そのエコシステムとHCLの流儀を受け入れなければならない。これらの制約は、WhatからHowへの変換を自動化するための「レール」であり、私たちはそのレールの上を走ることで効率を得てきた。
しかし、LLMはこの前提を覆す。LLMは、特定のフレームワークや言語の知識を事前に学習しているが、その利用において絶対的な制約を課すわけではない。私たちは、より自由な形式で「What」を伝えることができる。
例えば、こうだ。
ユーザー認証機能付きのシンプルなブログアプリを作ってほしい。フロントエンドはReactとTypeScript、UIコンポーネントはMUIを使う。バックエンドはNode.jsとExpressで、データベースはPostgreSQL。ユーザーはGoogleアカウントでログインでき、新しい記事を作成、編集、削除できる。記事にはマークダウン記法が使えて、画像もアップロードできるようにしてほしい。
この要求(What)は、特定のフレームワークの流儀に則ったものではない。複数の技術スタックを横断し、機能要求を自然言語で並べただけのものである。しかし、現在のLLM、特にGPT-4oやそれに類するモデルは、このレベルの要求から、ディレクトリ構造、設定ファイル、APIエンドポイント、フロントエンドコンポーネントに至るまで、驚くほど具体的なコード(How)を生成することができる。
これは、フレームワークが担ってきた「WhatからHowへの変換」が、特定のレールから解き放たれ、より広範で柔軟な領域へと拡張されたことを意味する。これまで自動化が難しかった、あるいは特定のフレームワークが存在しなかったニッチな領域や、複数の技術を組み合わせる複雑なシステム構築においても、AIによる宣言的プログラミングの恩恵を受けられる時代が始まろうとしているのだ。
LLMという汎用変換器の登場により、プログラマの生産性は、「いかに質の高いWhatをLLMに伝えられるか」に直結するようになる。これは、俗に「プロンプトエンジニアリング」と呼ばれるスキルだが、その本質は、ソフトウェア開発における「要求定義」そのものである。
質の高い「What」とは何か。それは、曖昧性がなく、網羅的で、矛盾のない要求である。
これらは、優秀なソフトウェアエンジニアが、プロダクトマネージャーやデザイナーとの対話を通じて、日常的に行ってきた思考プロセスそのものではないだろうか。LLMの登場は、この思考プロセスを、より明確に、よりテキストベースで「記述」する能力を求める。私たちの頭の中にあった暗黙的な仕様が、LLMへの入力(プロンプト)という形で、明示的に言語化されることを要求するのだ。
やがて、ほとんどのプログラミング作業は、この「Whatの記述」に収束していくだろう。TDDがテストコードという形式で「What」を記述したように、私たちは自然言語や、より構造化された要求記述言語を用いて、AIに対して「What」を宣言することになる。コード(How)は、その宣言から自動生成される中間生成物に過ぎなくなる。まさに、コードが蒸発していく未来である。
「What」を伝えれば「How」が手に入る。この魔法のような世界の到来を前に、私たちは一つの重大な問いに直面する。それは、「そのWhatからHowへの変換は、本当に一意に決まるのか?」という問いだ。
答えは、明確にNoである。
ある「What(要求)」を実現するための「How(実装)」は、無数に存在する。そして、どの「How」を選択すべきかを決定するためには、単純な機能要求(What)だけでは情報が全く足りない。そこには、必ず「Why(なぜそう作るのか)」という、背景、文脈、そしてトレードオフの考慮が必要不可欠となる。
簡単な例を考えてみよう。「1億件のユーザーデータを格納し、ユーザーIDで高速に検索できるシステム」という「What」をLLMに与えたとする。LLMは、どのような「How」を提案するだろうか。
これらの選択肢は、どれも「What」を満たしている。しかし、その特性は全く異なる。案Aは多くのエンジニアにとって馴染み深く開発が容易だが、10億、100億件へのスケールは難しいかもしれない。案Bはスケール性に優れるが、厳密なトランザクション管理は苦手だ。案Cは高速だが、運用コストとシステムの複雑性が増す。案Dは安価だが、検索速度は他に劣る。
LLMは、これらの選択肢をリストアップすることはできるだろう。しかし、このプロジェクトにとって最適な選択肢はどれかを、自信を持って決定することはできない。なぜなら、その決定には、LLMが与えられていない「Why」の情報が必要だからだ。
これらの「Why」こそが、無数に存在する「How」の中から、ただ一つの「正解」を選び出すための羅針盤なのである。そしてこの「Why」は、ビジネスの目標、組織の文化、ユーザーの期待、技術的な制約といった、極めて人間的で、文脈依存的な情報の中にしか存在しない。
ここで重要なのは、これまでもエンジニアは、この「Why」に基づく意思決定を、意識的あるいは無意識的に行ってきたという事実だ。
私たちが技術選定を行うとき、単に「流行っているから」という理由だけでReactを選ぶわけではない。「SPA(Single Page Application)にすることでユーザー体験を向上させたい(Why)」、「コンポーネント指向の開発によって長期的な保守性を確保したい(Why)」、「Reactエンジニアの採用市場が活発だから(Why)」といった、様々な「 Permalink | 記事への反応(0) | 17:09
↑長くて読めない人は序文だけ読めばいいと思う。
以下試算
約150万円
100人分:150万円 × 100人 = 1億5,000万円/年
1億5,000万円 × 20% = 3,000万円/年
生活保護を100人受け入れた際の某市の負担費用合計:約4,000万円/年(医療費については考慮外)
100人 × 年150万円 = 1億5,000万円の消費創出
某市の地域乗数を1.3〜1.5とする
1億5,000万円 × 1.3〜1.5
約2億〜2億2,500万円の経済効果
某市の一般会計規模:約600億円
つまり、100人の生活保護受給者を受け入れると市財政の約0.07%程度の超低コストで、
その数倍の地域内経済効果が某市内で発生するであろうと結論付けられる。
生活保護受給者集団は低コストで地域経済を活性化させる起爆剤になるのでどこか人口流出が止まらない自治体が生活保護特区作ればいいと思う。
クソ田舎に誰も行きたくないだろうから、引っ越し代(今も移住支援とかで支出してるし)とBI毎月3万ぐらい出してでも引っ張り込めば活発化する。
老人や病人が殆どなので医者を引っ張り込めば医療従事者、介護事業者も参入出来て雇用も生まれるし。そこに移民でも引張りこんで働かせればうまく回るんじゃね。
この中では「雨月物語」しか読めていない。確か角川ソフィア文庫で読んでいる。
村上春樹「海辺のカフカ」で言及されていたので興味を持った。物語集として面白いのだが、序文に紫式部を持ってくる自意識の強さが良い。あと、僕はそもそも怪奇物語が好きだ。好きなのは凄惨なスプラッタやお化け屋敷的なジャンプスケアではない。何か人知を超えた存在がいるという驚きや恐れなのだ。
これは僕の感傷マゾとつながっているのだろうが、言い出せない妄念を抱えた死者というモチーフが好きだし、神話物語に通じる奇譚が好きで、だから仏教説話も説教臭い割に好きだ。
ところで、東京創元社の編纂したSF短篇集「時を歩く」にピンとくる言葉があった。空木春宵によれば、幽霊とは虐げられた人々の象徴で、だから怖いというよりも親しみを感じるそうだ。その言葉にはたと膝を打った。だから僕もお化けや妖怪が好きなのだ。異様な姿をしていて、理解できるのかできないのかわからない、その「他者」っぽさが面白いんだ。モンスターが深い知性を持っているという設定、大好き。
ちなみに、小林泰三「酔歩する男」の元ネタ菟原処女伝説が、「浅茅が宿」でも触れられている。これを書いていたら小林泰三をまた読みたくなってきた。
「菊花の約」は小泉八雲が「怪談」で翻案している。小泉八雲も上と同じ理由で好きだ。一度彼が翻案する前の原典を読んでみたい。僕は箱庭的世界というモチーフが好きなので「安芸之助の夢」が特に大好きだ。
ところで小泉八雲の朝ドラをやるそうだ。大好きな作家だが、きっと観ないんだろうな。僕がテレビを見る習慣をなくしたのは、一つはイケメンの歯の浮くようなセリフを聞きたくないからなのだが、もう一つは小説家を目指すために、帰宅してから寝るまでの時間をずっと執筆にあてていたからなのだ。あと、ドラマを見ていると本編を放っておいて、史実ではどうなっていたかを調べる悪癖もある。
というわけで、残りの物語もそのうち読む予定。
これも「おくのほそ道」しか読んでいない。たしかビギナーズ・クラシックスだ。人々と交流しながら俳句を作っているのが楽しそうだけれど、地元に句会の記録が実は山ほど残っていたりしないんだろうか。
そういえば句会に通う友人にそそのかされて試みに俳句を作ってみたけれど、短歌と比べて情報量が圧倒的に凝縮されている。言葉選びが極めて厳密で、密度が高い。短歌は十四文字だけの余裕があるがあるから、聞いていてもゆとりがある気がする。僕は散文の文学の良さは情報の圧縮困難性、言い換えるならばどういう話かあらすじを短くまとめると魅力が失われる度合いが高いものを高く買っている。逆に、詩文はどこまで世界を圧縮できるかだ。しかしながら、短歌は枕詞で五文字も使う。なぜこんな効率の悪いことをしているのかは不思議だ。
短歌は与謝野晶子、俵万智、穂村弘あたりを読み、俳句は他に高浜虚子あたりを読んだ。
俳句じゃなくて短歌だが、与謝野晶子は熱量がすごくて読むのにえらく時間がかかった。また、穂村弘は生々しい男の生理が表現されていて何となく好ましく思う。しかしそれを荒っぽくぶつけているようできっちりと計算して表現している。形式があらかじめ用意されているからこそか。「台風の来るを喜ぶ不精髭小便のみが色濃く熱し」「男の子はまるで違うねおしっこの湯気の匂いも叫ぶ寝言も」「泳ぎながら小便たれるこの俺についてくるなよ星もおまえも」。僕は意外と暴力的なものが好きらしい。
俳句は数が多く、未読が多く、次々に新しいのが生まれており、追いつけない。ここに載せられた作品もいつかは読みたいが、記憶に残らないこともあるだろう。しかし、すべてを記憶しておかないと不安だというのも強迫観念に過ぎない。読んだその場で一期一会の幸せを覚えれば、それでいいのかも。ちなみに、俳句が作者の目の前で論評されるバラエティは、かつて通った小説創作講座を思い出して胸が苦しくなるから、見ていない。あれ残酷だよね。
こうしてみればわかると思うが、平安時代の文学と比べると、まだまだ読めていないのが江戸時代の作品だ。開き直って現代語訳でどしどし読みたい。
古典は急がない。いつまでも待ってくれている。世間で流行っている作品とか必読書とかそんなのとは無縁だ。千年前の作品を読むのが一年や二年遅れたところで、どうということはない。
ところで脱線するけれど、いま生きている人を推せる人って偉いと思う。だって、いつスキャンダルで裏切られるかわからないからだ。それこそ明治の文豪がクズだったとかいう話はよく聞くけれど、今となっては本人を含めて関係者がみんな死んでるので、多少は冷静でいられる。新たに醜聞が掘り起こされても「昔の人だからね」とどこか冷静になれる。今の人だとこうは行かない(以下、きちんと謝罪をしなかったためその態度に非常に腹が立ってファンをやめた人や、音痴なイケメン歌手の実例を事細かに挙げるつもりだったが、見苦しいので削除した)。他にも存命人物だと、事件を起こす前のオウム真理教を面白がってた著名人や、古本屋で見つけたロリコン写真集に「これぞ芸術」と推薦文を寄せていた文化人に「逃げるなァァァ」と言いたくなることがある。
やっぱり推しは死んでいる人に限る。どんな差別発言をしていても過去の人間だから納得できてしまう。そんなことを頭の片隅に置いてネットサーフィンをしていたら、芥川龍之介が「侏儒の言葉」で似たようなことを言っているのを見つけた(正確には、悲観主義について調べており、そこから哲学者フィリップ・マインレンダーを見つけ、そこから偶然にも「侏儒の言葉」の言葉にたどり着いた)。
古典の作者の幸福なる所以は兎に角彼等の死んでいることである。
又
「侏儒の言葉」は好きなんだけど、読んでいると段々と彼の鬱に巻き込まれていく。いつか芥川全集をぶっ通しで読みたいが、晩年の作品を読むと真実を言い当てすぎていて心底気分が悪くなってくる。二十代の頃のようにシニシズムを楽しむだけの体力がもはやない。ネヴァーモア! 昔はアンブローズ・ビアス「悪魔の辞典」とか大好きだったんだけどな。
とはいえ、数百年前の古典を無批判に読んでいると、人間に身分の上下があることやとりあえず天皇家が偉いことが自明に思えてくるし、人命がアホみたいに軽いことに感覚がマヒしてくるので、これもまたよろしくない。
こういうことを考えている時は大抵は体調不良のときなので、筋トレなりストレッチをしたりするのがいいのである。僕らは結局肉体を備えた存在で、そこからの入力がどんな言葉よりも助けになることが多い。というか、言葉が自家中毒を起こすことはよくあるのだ。ペッペデス。頭が良すぎて不幸になった人間の物語は好きだが、芥川には生きて戦後を見てほしかった。
さて、池澤夏樹の全集では、これ以降の巻では明治の作品が扱われる。しかし、ここまで書いてきてかなり長くなってしまった。ひとまず、江戸時代までで一区切りとし、近代の作品はまた別の機会としたい。おそらく本気になって書いたら、作家ごとに思い入れのある作品は多く、言いたいことはたくさんあるので、もっと長いエントリになることだろう。近現代作家集に至ってはIからIIIまであり、合わせて何十人もの作家が紹介されている。倍近くになるだろう。
ただし、その機会がいつ訪れるかはわからない。先にドストエフスキーや中島敦、ポーやラブクラフトについて書くかもしれない。あるいは、文学にかこつけた自分語りが一段落したので、これで終わりにすることも大いにありうる。
なお、次のエントリでは、有名どころだが話の流れから言及できなかった作品について述べる。
さっきは何が苦手かについて書いてしまったので、逆に何が好きかについても少しは語ろう。芥川賞をはじめとした現代文学を読んでいて、どういう作品が自分に刺さるかを整理すると、知識が豊富な語り手の小説が一番好きで、その次が自分の巨大な感情を論理的に言語化するのがうまい人が語り手であるものだ。それから、無軌道な性欲や暴力衝動、ひがみなどの負の感情を抑えきれない人間が出てくるのが続く。自分が中高生の頃、そうしたダークな受賞作が連続していたと記憶している。田中慎弥「共喰い」とか、時代は下るが西村賢太「苦役列車」とか、砂川文次「ブラックボックス」とか、自分の暴力衝動に屈する人間を描いたのが好きだ。青来有一「聖水」とかもそうだ。世間からはみ出してしまった、汚らしい人間が好きだった時期がある。おそらく「悪とは?」が内なるテーマだったんだろう。
芥川賞は一つの賞でしかなく、世間的には評判が良くてもピンこと来ない作品はどうしてもある。若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」は最初から自分の中の無意識の声たちについて説明しすぎていて、「それだったら最初っから意識の流れとか無意識って言えよ」って思ってしまって、それ以来ずっと批判的にしか読めなかった。あれは高齢者向けの一人で生きることを学ぶ教養小説なんだよな。あと、又吉直樹の作品に結構な頻度で、的外れな批判をしてくる劇団員の女性が出てくるけれど、「お前、本当は社会的な作品批評が嫌いだろ?」っておちょくってやりたくなる。村田沙耶香「コンビニ人間」については前回のエントリで名前を伏せてチクリとやってしまった(最後まで読んでいないくせに!)。
理想を言えば性別だとか人種だとか国籍だとか年齢だとか思想だとか、そういうのを抜きにして作品を評価したいんだけれど、ある程度年齢を重ねてくると、十代の頃のように素直にストーリーを受け止められず、若いころのように思考の柔軟性がなくなり、労働で疲れていては異質なものを楽しむゆとりが減る。どうしても自分の属性や性格が近い人の文章が面白く感じるので、公平に評価するためにマイノリティ枠を設けるってのは、いくつかの問題点があるとはいえ、一つの知恵だと思う。なお、文学的に優れていることと、そのときの自分に刺さって面白いのと、今の社会が必要としているのとは、まったく違うので、話題の小説がいつも面白いわけにはいかないのはしょうがないのだろう。
脱線すると、芥川賞を取ってもその後書き続けられた作家のほうが面白い。というか、受賞作がつまらなくてもその後面白くなる作家も多い。しかし、逆に芥川賞を取る前の青臭い作品にしかない魅力もある。長編を連載するだけの構成力も体力もないデビューしたての漫画家の初期短編集からしか得られない栄養素があるのと同じだ。
なお、僕は大体漫画を買うときは短編が多い。「Fellows!」「ハルタ」「エロティクス・エフ」「楽園」「アフタヌーン」出身の漫画あたりから、絵が好みなのを選んでいるようだ。
というか、みんなあれだけ長編の少年漫画を読むだけの体力があってすごい。ただし、僕がなかなか長編漫画が読めないのは、活字のようにぶっ通しで一気に読もうとしているからという可能性がある。連載を追うペースで、ゆっくりと読めばいいはずだ。
なんでこんなことを言うのかというと、僕は同世代的経験に相対的に乏しいためだ。例えばゲームが下手すぎて、ドラクエやファイナルファンタジーなどの多くの作品をプレイできていない。ポケモンでさえ途中で飽きる人間なのだ。自分が好きなペースで刺さった作品を読んでいるだけなのだが、時折どうしても疎外感を覚える。若いころにもっと流行りのJ-POP聞いてりゃよかったよ。そりゃあ人は人、自分は自分だけれど、寂しい。
とはいえ、少年漫画の多くは恋愛が扱われるので、そこまで読みたい気分でもないのである。
こういうことを書くと「課題の分離」とかいう話になりそうだけど、個人的にはアドラー心理学はそこまで信用していない。さっき書いた「課題の分離」をはじめとした有益な概念は多いし、原因を探るよりもまず対処法を考えるのは、実生活で非常に役に立つ。というか、実際に役に立った。だが、「嫌われる勇気」をはじめとした本ではいいことを言っている一方で、「私に反論するとしたら、それは私の理論を理解していないからだ」という、反証可能性を潰すような自己完結した思考をしているのがいただけない。これは初期のフロイト派の「私に反論するとしたら、それは私に父親を見出しているからだ」とか、古い時代のフェミニストの「私に反論するとしたら、あなたが女性差別を乗り越えられていないからだ」とか、それらと同様の理屈だ。なにか自己完結した、人の話を聞かない嫌らしさを感じる。
自己完結と言えば、たとえば何人かの反出生主義者が(もちろん別の哲学的立場でもいい、実例は見たことがある)、予期される反論に対してすべて想定問答を作ってガチガチに自己防衛をしているのを見ると、圧倒的な壁のような「他者」を感じる。この人と議論しても、自分も相手も何も変わらないだろうなという、諦念を感じることがある。互いに変化をもたらす「対話」にならないのだ。
意識の高い人たちが叩かれるのはこれも理由かもしれない。会話をしても意見を変えてくれないだろうと感じるのだ。一方的な議論をしたいのなら活字でいい。僕は対話がしたいのだ。
1stは見たって人が映画行かないらしいのでちょっと喋ったし、もう半日以上経ってるので記憶は劣化しているが
とにかく後半はおしっこ行きたかったが、どんなとんでもがあるかわからなかったし、常にもうそろそろ終わりそうだったので我慢しつづけた
前半というか転生したらジオンの整備兵だった~若いパイロットがむかつくので整備サボったら歴史が変わりまくって大混乱 そういえばこいつ歴史変えたやつだったわ から始まる、宇宙世紀サバイバル うろ覚えのガンダム知識で奮闘するも全然うまくいかないので某巨大企業に転職して前世のガンプラで得た知識を利用してスローライフするつもりが以下略~(妄想)
前半が、一瞬で終わったが長く感じたので、残り20分ぐらいで新作やるのか、と思ってちょうどよい引きが来たなぁと思ってたらまだまだ続くの繰り返しだった
そうそう、途中で何回も作中劇じゃないかと(OOのSBのやつ)疑いながら見てたわ まだちょっと疑ってる
AI進化したら、これぐらいの同人アニメは個人でも作れるようになってたり
ハロが跳ねて始まって、
おおーガンダムだーって一瞬思ったはず
予想ポストとかで宇宙世紀続編説が流れまくってたので、やっぱそうかと思った
これくらいの衝撃作品なら人の予想とか自分で予想立てるのもやめといたほうがよいな
事前情報全くなしで劇場行くか? と言われたら、ガンダムでネタバレするまえに行けって情報がひとつ流れた瞬間に動ける(映画行けるまでSNS閉じてなるはや)はずだし
流石に1stの第一話の細かいシーンとかは覚えてないので、普通にすっごいリアルなコロニーの壁開けるのにぐるぐるするつまみとか、パイプが跳ね返って富んでくシーンとか絵が凄いって見てた
その前に、ザクがしゃがむところで膝の関節が2重になってるのに感心してたような(コロニー入ってからだったか忘れた)
逆関節とか、足は飾り(ブースターとアンバック用)みたいなの確かにと
上半身ガンキャノンみたいなのはちらちら写ってて撃たれまくってた
これはTV版の話だけど、壊す時1発ずつしか撃ってなかった。ビームみたいなのを
適当に作ったのか、一発に見えるだけだったのか
最近MSの考察とか見るけど、アニメのシーンを元に考える意味あんまりない時代だったな
で、この時は俄でしかないので、偵察に行く3機にそもそもシャアが含まれていると思ってしまっていた
途中で気づいた。スレンダーだったかジーンだったかの機体が整備不良かなんかで、赤いの貸すわけにもいかないだろうから、シャアが来たんだ
遠めのガンキャノンやザクでは思わなかったが、ガンダムがきもかった。
顔からなにから。最近の流行り系とジークアクスのデザインに繋げるのと、エヴァっぽさと。
んで、シャアがどこまでアムロのセリフをカバーするか、みたいな記憶を照合しながら見てた
5倍のゲインとか(シャアはザクと比べてなのか、アムロもそうだったんだっけ当時の普通エンジン比? )、武器はないのか、とか
結構パクってた。同じ状況になったら同じこというのか
ガンキャノン誰乗ってたんだろう 1機だけだった?
コロニーに穴開いたんだっけ
テムレイは空気足り続けた? 木馬奪取後、そもそもコロニーどうなったんだろ アルテイシア生存だからまあ大丈夫か
てかどういうルートでセイラさんは軍に入ったんだ ランバラルも生存かなぁ
そうそう、8か月が経っていたってところで、どっから何がはじまんねんって思った(普通に1stの開始時点のこと忘れてた。後から約1年戦争ってのと、アムロがガンダム戦ったのってせいぜい数か月だったなぁと1st見直して思い出した)
で、なんか連邦が弱い(アムロも居ないのか、ガンダムの学習コンピュータないし、データ取れないからジム作れないのか)
話は戻るが、1stではザク2機(外にもう一機)おるんだから、完全に偵察だけにするか、可能であれば強奪が正解だよなとは昔から思ってたジーンが馬鹿すぎるし、作戦に組み込んどかない上官も悪い(後の作品では強奪が主流か)。ただ普通は解除にしくい自爆装置とか積んでるんだろうなと。じゃあ偵察or破壊になるかと勝手に納得(逆に自爆装置に触れずにパクったほうがなんでやねんになる。見直したら色々考えられてるのかもしれない)
vsシャアの宇宙戦の代わりに、なんか試験中のガンダムが出て来た。01号機らしい。ちゃんと蹴った。これがパラレルか嘘世界ではあるが、宇宙初のガンダム対ガンダムだ。
(摸擬戦とかしなかったのだろうか)
シャリアブル出てくる。これも予想を見てしまっていた(そんなにシャリアブルに思い入れないけど)
グラス持ってるのに握手求めて、どうすんだろって心配してたらちゃんとグラス奥音がした。他にもこういうの気になる人多いようだ
あとはなんか、ビグザムだーとか、マクベダーとか薄い感動とか
歴史がどう変わったかとかは初代の記憶が薄れてるので理解できてない
おっと、ビットが6個。外付けで思ったより大きい。その後ブラウブロは有線なのを見た
白は似合わないのかな、エヴァ量産期ではあえてそっちの効果狙ってたのか
隕石落とし阻止はガンダムの定番だなーってアクシズのこと思い出してた
そんなに補給やばいのか、ザク爆破以上の爆弾ってないのね(普通あんなの割ろうと思わないし、艦が沈むときに誘爆したりで管理もむずいか)
あんまり逆シャア弄ったら○すぞ思いかけたが、なんか謎原理で謎割れして月には落ちなかった
結果的にアクシズショックみたいなもんなんだけど色が違ったからセーフ
軽キャノンかなんか謎MS出てきて、アルテイシアだたし、デギン落とした? みたいなこと言ってたな
ほんまキャスバル兄はなにしてんねん
アムロはおらんのかなぁ軍には
外伝フォロームズイだろうし、他にNT誰が居たか知らないがアムロと強いMSのセットとあのクルーたちの環境でないと目覚めない人も多かったんだろうな
別でそれぞれやってたら、しょぼい戦闘機とかでやられてる可能性も高い。しばらくMSなんて回ってこないだろう
セイラさんはなんかコネ使った? ヒロイン補正でルートが開いた?
予想とか色々見てしまってたのと、歴史あんまり把握してないのとか色々で一番びっくりしたシーンはアルテイシア! のとこだった
序盤はそういう範疇ではないし、ゆっくり流れが変わっていったので
そうか、そうそう、シャアが載るんだな、そしてジオン勝利ルートなんだ ぐらいか、 おまえのるんかい! ぐらい
で、あのパートがどうやって終わったかはもう忘れた(ナレーションで、連邦はもう戦う力を残しておらず、ジオンが…… みたいなのだっけ)
本編は、未登場人物の意外なその後とかでびっくりしかけるんだろうか
あまりやって欲しくない気がする
ただそれだと、冒頭の悪ふざけとか古参引きづってくるためだけのビギニングなので水星と違ってオールドタイプへのサービスごりごりと見せかけてライフ削りまくってくるんだろうな
https://anond.hatelabo.jp/20241214160546
便乗して書く。順不同です。
不法移民を乗せた船が地中海に度々沈んでいるとニュースで話題だが沈んだ/打ち上げられた彼らの遺体は果たしてどう扱うべきか。大量死した移民難民の検死という大プロジェクトに立ち向かったイタリア法医学者の奮闘の記録。身元の照合なんてDNA鑑定すれば簡単やろ、なんて素人考えは早々に打ち砕かれ、うーんこれは大変だぞと読んでて途方に暮れてしまうが、それに立ち向かう筆者ら法医学者の技術と志には非常に頭が下がる。法医学の本なのに序文が筆者の肉親の死を描いたエッセイから始まるのが意外だったが、読み終えたあとにはその意図がよくわかる。ちなみにグロ写真は出てこないがグロ文章は出てくるので俗な好奇心も満たされた。
噂には聞いていたがおもろすぎる。特に『オムファロス』が好きだが読書メモを見返してみると『不安は自由のめまい』からの引用も多く、かなり自分の心に響いたようだ。あまりに面白かったから、SFマガジンの息吹刊行特集号を中古で探してきて、短編集未収録作(『2059年なのに、金持ちの子(リッチ・キッズ)にはやっぱり勝てない -DNAをいじっても問題は解決しない』)まで読んじゃった。
土を語るには色が欠かせない、ということで新書なのにフルカラー、本を開くと不思議な匂いがする。永久凍土、チェルノーゼム等等、高校の地理の授業で学んだものだが、実際に足を運んでみると結構ものが違ってたり、正確かつ詳細な分布記録はどこにもなかったり(なので国際プロジェクトが立ち上がり筆者もそこに参加した)教科書には載っていない地質研究のリアルが知ることができ面白かった。筆者の語りも軽妙でぜひ次回作が読みたいと思っていたら、ちょうど今月末にブルーバックスから『土と生命の46億年史 土と進化の謎に迫る』という本を出すようで興奮が止まらない。絶対読もう。
新卒時代に神経内科学に携わった経験があり、仕事内容はAD(アルツハイマー病)ではなかったもののアミロイドβ仮説の問題点については小耳に挟むことも多かった。ということで課題図書的に読まなければならないと思っていた本でようやく重い腰を上げて読んだのだが過たず面白かった。同時期に『失敗の科学』も読んだのだが、それに載っていてもおかしくないような事例ではある。認知症は確かに存在するのだろうが、アルツハイマー病という病気が本当にこの世に存在するかどうかは読み終わった今かなり疑問だ。病をどのように定義するか……。脳の病気は、脳以外の臓器と違ってすぐさま生検というわけにもいかないし、死後解剖も難しく(愛する人の頭を暴かれたいとはなかなか思えまい)、そもそも脳という臓器が複雑なブラックボックスすぎて、病態と組織学的所見とを適切に紐付けることが元々非常に困難なんだろうな。
わたくしごとだが11月末に待望の第一子が産まれ、本書はその産前休業期間中に読んだ(産後は集中力が低下して活字があまり読めなくなったので、今から思えば産前に読んでおいて本当に良かった)。薄めの本だが、発達心理学のエッセンスがぎゅっと詰まっている。ベテラン大学教授の発達心理学連続講義の第一回総論といった趣の本(というかそれそのもの)。筆者は障害児心理学で長年教鞭を執ってきていて、定型発達児・障害児の双方に平等に愛を注ぐ筆致に心を打たれた。医学では病める臓器の研究が進むことでその臓器そのものの生理についても知見が積まれるものだが、障害児心理にはひとのこころの成り立ちを考える上での重要な視点が詰まっているのだろうなと思う。
新生児の頻回授乳のお供にオーディブルを再開した。眠いと活字はなかなか頭に入らないのだが耳からならなんとかという感じである。今読んでいるのは『サピエンス前史 脊椎動物の進化から人類に至る5億年の物語』で、新生児のしゃっくりを見ながら古代脊椎動物が獲得した横隔膜に思いを馳せたりしている。次にオーディブルで読む本は未定なので、おすすめあったら教えてください。ちなみにわたしのオーディブルおすすめ(読み終わって好きな本)は『北関東「移民」アンダーグラウンド』です。2025年も色んな本に出会いたいものです。
同原則の序文には、「どのような類型の性的嗜好や行為も、小児性愛、近親相姦、一夫多妻、不特定多数との性的関係あるいは獣姦までも排除されない」と書かれている。
ジョグジャカルタ原則ってそんな素晴らしいこと書いてるのかと思って調べたら書いてないやんけ
しょーもな
https://note.com/takahashi_shiro1/n/n50d842e6a877
駒澤大学の森田成也氏(マルクス経済学)がトランスジェンダリズムに疑問を持つに至った理由の第一は、主として海外の情報から、とりわけラディカル・フェミニストに対してひどい攻撃や脅迫と暴力を振るっていることを知ったこと。第二は、熱心なトランスジェンダー派ほど、売買春肯定、ポルノ肯定であることを知ったこと。第三に、トランスジェンダーとは性同一性障害の人のことと思っていたが、実際には後者はトランスジェンダーのごく少数の一部に過ぎないことを知ったこと。第四に、2020年6月にJ.K、ローリングさんが、トランス当事者に対して非常に配慮しつつも女性の「身体的性別に基づく権利」の重要性を訴えた声明文(https://note.com/f_overseas_info/n/nb9dee80c5f82)に対して、全世界のトランス活動家と左派が信じたいほど暴力的で誹謗中傷的な攻撃をしているのを目の当たりにしたことである。
注目すべきはアメリカのリベラル新聞『ニューヨーク・タイムズ』やイギリスの左派系新聞『がーディアン』などが相次いで、子供の拙速な性別移行措置に対する強い懸念を示す記事を掲載したことである。ローリング攻撃に加担してきた両紙が全面的擁護に一変したのは画期的といえる。
トランスジェンダリズムには、「生物学的性別」を認めつつ、それとは異なる「心の性別」ないし何等かの生得的な「性自認」が存在するとみなし、後者を前者よりも優先させようとするソフトバージョン(自治体や国際機関などの公的機関など)とハードバージョン(ジェンダー学者、トランス活動家など)がある。
ハードバージョンは「身体の性別」すなわち「生物学的性別」の存在そのものを認めず、「性自認」「性表現」等の曖昧模糊としたものが唯一絶対の性別決定要因であるとみなす。トランス活動家たちはトランスジェンダリズムへの異論を「差別者」ないし「ヘイタ―」の誘惑として、読むな、見るな、議論するなと主張する。彼らはトランス当事者のために運動しているのではなく、トランスジェンダリズムというイデオロギーのために運動しているイデオロギー優先の「カルト集団」と見做すべきである。
クビー著『グローバル性革命』によれば、2007年にインドネシアのジョグジャカルタで29の「ジョグジャカルタ原則」が作成され、それを実行するためにJGBT活動家のための200頁の『ジョグジャカルタ原則の活動家のガイド』ハンドブックが作成され、「混乱を招く方法」「LGBT問題の目標を実現するための具体的な実行方法」等を明示した。
同序文には、「どのような類型の性的嗜好や行為も、小児性愛、近親相姦、一夫多妻、不特定多数との性的関係あるいは獣姦までも排除されない」と書かれている。
たかがセックスくらいで、と思うだろう。俺もそう思うんだけど、自己肯定感が恐ろしく下がっている。
妻のことが好きで、毎日一緒にいて仲良く話もするのに、指1本でも触れると拒絶される。キスもハグも嫌がられる。
付き合っている頃から「子供は2人ほしいね」なんて話していて、その2人目が終わったあとに急変した。はじめの話し合いでは家事をもっとやってほしいとのことだったので、生活態度を改めることで一時的にレスは解消したものの、「やっぱり無理」と突きつけられた。
妻が提示した解決案は「外で解消してきてもいい」とのことで、マッチングアプリで相手を探したりもした。でも、その時に気づいたのが俺は平和な家庭を求めていることだった。夫が不倫をする家庭に待つ未来はただの破滅で、そんな結末は一切望んでいない。
俺がセックスを我慢したら解決することもわかってるけど、どうしてもそれができない。妻と話すたびに好きだなあって思うから。そこからセックスに結び付かない思考がわからない。そして、俺にとってのセックスは、妻に俺という存在を認識してもらうためのツールになりつつある。だから、セックスに誘うことは俺の存在に対する踏み絵だ。拒絶されることを前提に誘うときもあったので、今思えば自傷行為に近いものでもある。
…なぜ今こんなにも気持ちが乱れているかというと、最近夫婦関係が好調で居心地がよかったので、「9月にセックスしない?」と久しぶりに誘ったらOKをもらえて、デートの約束もこぎつけられた。先週土曜日は本当に楽しく過ごしたんだけど、9月になった日曜日に妻が激怒した。「こんな汚い家なんて嫌だ。大嫌い。1人になりたい。あなたは家事をしない。頼りなさすぎる。許せない」と。はたから見たら積もり積もった感情が爆発したとしか考えられないと思う。俺からしたら、大手を振って9月のセックスを拒絶するための殺し文句にしか聞こえなかった。同時に、ここ数ヶ月の穏やかな日々が唐突に崩壊したショックが襲ってきた。仕事のストレスに苛まれている最中だったということもあり、この出来事は俺のメンタルを一気に突き落とした。自分っていう存在はいったいなんなんだろう、離婚をして1人で暮らすのはどうだろうか、でも子供といられなくなるのは嫌だ、仕事をやめて自由奔放に暮らすのはリスクがデカすぎる、実家に帰ろうが両親が生きがいにはならない。そうやって消去法を繰り返していくと、一番気楽なのは自殺することだと結論がでた。
近日中に、ダメもとで「セックスをしたい」と誘い、ふたたび踏み絵をしようと思う。これは生死の踏み絵だ。もしダメだったら、10月下旬に北海道から旅行にきたおじさんがダムから飛び降りるので、ニュースがでたら「セックスレスおじさんが死んだ」と笑ってほしい。
…そういえば、序文でセックスレスで自殺しますと書いたけれど、もともと自己肯定感はかなり低いほうだ。ふりかえれば、自力で成し遂げたものなど皆無に等しい。学生の頃は忘れ物が多かったり、理科の実験は見ているだけだったり、発達障害に近いものがあったり、軽くハブられる時期があったり、自分の顔が嫌いだったり、そもそも何かに縛られるのが苦手で学校は時々サボってたし、今も会社に時間を縛られてるだけでストレスを感じるし、なんか色々な生きにくさからアイデンティティが確立しておらず、セックスレスは自殺のただのきっかけにしか過ぎないのかもって思ってる。今までの人生経験で、生きるための土台よりも、自殺するための土台のほうがしっかり出来上がっちゃったんだろうなあ。
そして、学生の頃は両親が存在を最大限に認めてくれていたけど、今は妻に存在を認めてほしくて、でもその妻に拒絶をされて自分が迷子になっちゃってるんだと思う。
自殺をしたら、その時に改めて俺の存在に気づいてくれるかも、っていう妻に対する憎愛もあるんだよね。その時くらいは後悔してほしい。「清々した~!!これでようやくバレずに過ごしてきた不倫相手と一緒になれる」「新しいお父さんだ!やったー!」なんて会話繰り広げられたらあの世でも自殺できる自信あるからやめてね。
なんかちょっとポイントで許してないの、心身が健康じゃない一人目と五人目を除くと「男らしさ」だよね
男のくせに店の予約をしないから駄目
男のくせに話を盛り上げないから駄目
どうせ「男のくせに他の女に選ばれてないから駄目」でN股浮気男か既婚者しか選択肢に残んねーんだろ?
元増田でも序文とか2人目へのボロクソ具合から怪しさを感じてはいたけど、追記で正体表したねって感じ。なんやねんこのウエメセ増田は
やたら車椅子とか鬱とかバツイチとか変なの多いのも高望みをやめたからじゃなくてそれ以外のスペックを意地でも譲れなかった結果だろこれ
30年落ちのロレックスをローン組んで買う男みたいだな
人が死んでも天使になるわけじゃない、キリスト教的世界観においても
この表現を多用している一番有名な漫画はおそらくドラゴンボールだろう
どこかで発想の飛躍があったのかな
気になるねえ、ぐぐりましょうねえ
天使に限らず聖人などを描いた絵画にも、聖人の後ろに光が差す表現が用いられたのだとか
天使に限らないのであれば以降は天使の輪じゃなくヘイローとここでは書くようにしておこう、ブルーアーカイブ風の呼び方
発想としては仏教の後光と同じか
まだ足りない
天使や聖人を描いた絵画→???→漫画的表現の死者を表す記号としてのヘイロー、間に挟まるものを探さないと
なんかこれだ!って情報がなかなかヒットしないな
勘だけど風刺画が間に挟まる気がするんだよな
天使や聖人を描いた絵画のパロディで、天使を例えば政治家に差し替えた風刺画みたいなのがどっかにあるんじゃないか
それが転じて死者の頭上にヘイローを用いるのが一般化したとか?
一応、英語圏のイラストで死者の頭上にヘイローがあるイラストはまあまああるっぽいが……
日本でもなんかドラゴンボール以前に死者の頭上にヘイローがある表現をした漫画無いかな
……手塚治虫がやってる気がする
あの人だいたい何でもやってるからな、あとで探すか
うーん、探し方が下手
wikipediaの「光輪 (宗教美術)」の「大衆文化における使用」の記述が少ないな
英語版だと……英語版の「Halo (religious iconography)」には大衆文化の項自体無いのか
うーんアメコミにもヘイローの使用あるかもだが、アメコミに詳しくない
ここまで調べたというメモ
なんかコレ!っていう本があれば読みたいんだが、この疑問をずばっと解決する文化史本は無いかもなあ
今週の『サチ録』、番外編15を読んだ結果
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こういう路線で調べていくのがよさそうか
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なぜ亡くなった人の頭上に「天使の輪」を描くようになったのでしょうかよろしく... - Yahoo!知恵袋
漫画の記号的表現としては昔からある定番スタイルですよね。 ディズニーのアニメにも、ヨーロッパのカートゥーン(cartoon)にも良く死者の記号として使われていますね。
人間は死ぬと天使になりますか | ものみの塔 オンライン・ライブラリー
アリーロという,まだ7歳の幼い女の子が亡くなりました。悲しみに打ちひしがれた両親は,柩に横たわる白いドレス姿の娘を前に,ぼう然としています。慰めようとして,神父がこう言います。「神様は,天使をもうひとりお望みになって,アリーロちゃんをお召しになったのです。幼子の魂は,今ごろ,神様のみそばで翼を広げて飛んでいますよ」。
死んだ人間の魂が天使になる,と信じている人は少なくありません。公式の教理として教えられることはまれですが,映画やテレビの連続ドラマでは,死んだ人が翼のある天使になって,生きている人を守る,という話がよく取り上げられます。
あなたはいかがですか。愛する人が死後に天使になると考えておられますか。聖書は何と教えているでしょうか。では,天使の本質について,また死んだ人の本当の状態について,聖書そのものが何と述べているかを調べてみましょう。
うーん、「死んだ人間の魂が天使になる」という発想は無いわけではないのか
それが転じて天使ではない死者の霊魂的な何かの頭上にもヘイローが描かれるようになった?
っていうかドラゴンボールつまみ食い的にしか読んだこともアニメを見たこともないんだよな
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ここら辺の本があるいは参考になるか
だいたい最終章は「現代における天使がどのような姿で描かれているか」みたいな話題だから、そこに期待が出来る
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英語圏の情報を探そうとしてもゲームの『HALO』ばっかり引っ掛かってやりにくいったらありゃしない
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そうだ、『トムとジェリー』で爆死したトムが雲の上でヘイローつけた状態で不満そうな顔してるってオチのエピソードがあった気がする
プレゼントボックスに入ったトムが針でめった刺しにされるシーンは涙なしでは見られない
やっぱり「死んだら天使になる」って発想がポップカルチャーである程度一般的に表現されていたようだ
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ってことは
天使や聖人を描いた絵画→死後に天使になる認識、またそれを表現したイラストやアニメ→天使ではなく単なる死者にもヘイローがつけられた
……か?
まだ足りないぞ
キリスト教の教義だと死んでも天使になるわけじゃない、それはカトリックだろうがプロテスタントだろうがエホバだろうが他の何かであろうがだいたい同じだろう
ヘイローは聖なるものの加護を表すからどんな死者でもヘイローは頭上に表れる?
でもトムは爆死して天使になっとるじゃろがい
まだまだ調べないと納得できないな
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ひょっとしたら演劇やミュージカル側の文化が関係している可能性もある
死者を表現する記号として頭の上にヘイローをのっけた衣装を着ていた……とか、あるかもしれない
一応留意して調べる事
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「池にコインを投げる風習はいつから始まったのか?」みたいなテーマでおととい調べて日記書いたときは、その風習を有名にした「Three Coins in the Fountain」っていうアカデミー賞受賞作品を見つけたんだよな
聖者の記号としてではなく、単なる死者の記号としてヘイローを使った何らかのヒット作品があったので一般化したみたいなキッカケがひょっとしたらあるかもしれない
しかしあんまりこの仮説に固執するのはよくないな、気長に探そう
あるとすれば19世紀後半以降くらいのはず
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そうか、調べるポイントが二つに分かれちゃったんだなあ
②漫画的表現で死者が天使となった描写→漫画的表現で死者に(翼など他の天使的要素抜きで)ヘイローのみが付与される描写となった転換点を探すルート
こりゃ大変だ、いったん追加調査ここまで
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次にやる事
→実は守護聖人の頭上にヘイローだけでなく、翼がはえているなどあったりするかどうか
:積んでるキリスト教入門みたいな本をさっさと読む
→なんもかんも体系的な知識が欠けているのが悪い
→でもなー、自分の興味の向き先は「キリスト教の教義はこういうものです」って知識じゃなくて「人々はキリスト教をこのように解釈して信仰していました」という知識なんだよなあ、基礎の勉強ってどうしても飽きちゃって
→第一次世界大戦は1914年7月28日~1918年11月11日、ちょうど探したい年代
:キリスト教的素養がない私がヘイローの描写を見たとき、それが宗教的な性質を持っているのかそれとも記号化したものなのかを区別できるのか?という点について考える
:そもそもヘイローがあって翼があったらそれは天使とみなしていいのか?「天使」って何?「御使い」って何?何もわからない、調べる
→基礎(略
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②についてだが「ゲームのドット絵でキャラが死んだことを表現するのにヘイローが便利で、ドット絵で翼を描くのが大変だったから省略された」という仮説を思いついた
流石にお話として出来すぎな気がする、この仮説は最終的に棄却することになりそうだ
しかし調べるとっかかりとしては魅力的
ヘイロー関係ないけど「ゲームで戦闘不能をどう表現するか?」というテーマを調べるのめちゃくちゃ楽しそう
また別の機会に調べよう
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「Heaven Cartoons」というジャンルの風刺画があるらしい
画像検索してみるとなるほど確かに天国で天使がなんやかんやする種類の一コマ漫画
いつ頃から描かれているかをちょっと調べてみたがなかなか難しい
Wikipediaの「カリカチュア」のページの「主な作家」の項に載ってる人の代表作を一つずつ見ていくしかない
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星新一がアメリカの一コマ漫画を蒐集してそれについてエッセイを書いた『進化した猿たち: The Best』をkindleで購入
権利関係の問題のせいかほとんど掲載が無くなってしまっているようだ
もっと挿絵を見たいから挿絵が載ってる物理書籍のほうを読まないといけないなこれは
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やっとひとつ見つけた
ざっくり言うと政治家が天に召されている様子の風刺画が1868年?1869年?に描かれた、ってところか
翼があり、ヘイローもしっかり完備
しかし余談だけれど死後4年後たってから風刺画が描かれていて不思議だ
なんか「天使になる」ってのは語弊があって「昇天するときに天使と同じ装いをする」という言い方の方が正確なのかもしれない
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トムとジェリー以前のオールドカートゥーンを片っ端から観ているが、天に召されるシーン自体を全然見つけることができていない
ところでチャップリンの『キッド』に天使が登場するシーンがあった
オールドカートゥーンの本当に初期の初期は紙の漫画をそのまま映像化したようなやつだったから、漫画の文脈だと思うんだけどな……
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『マーク・トウェインの天国建設の旅』という論文を見つけたが、これは読む価値がありそうだ
絵やイラストとして描かれていなくても天国に行くとヘイローと翼とハープが通行証かのように与えられる認識は当時の人々視点で昔からあったようだ
18~19世紀の文学作品で天国を描写しているものを探すべきだな
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Elizabeth Stuart Phelps Wardという人が書いた『The Gates Ajar』という宗教小説がアメリカで1868年に刊行されめちゃくちゃ売れたらしい
当時の人々の天国観に影響ありそうに見える
In contrast with traditions of Calvinism, Phelps's version of heaven is corporeal where the dead have "spiritual bodies", live in houses, raise families, and participate in various activities.
カルヴァン主義の伝統とは対照的に、フェルプス版天国は、死者が「霊的な身体」を持ち、家に住み、家族を養い、さまざまな活動に参加する身体的なものである。
とのこと(『The Gates Ajar』のwikipedia英ページより引用しdeepl翻訳)
うーむ、おぼろげに流れが見えてきた気がする
『マーク・トウェインの天国建設の旅』という論文の序文あたりに19世紀半ば以降に天国ものの小説が流行ったみたいなことが書いてあったが、その一因はこの小説な気がする
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そういえばこの日記メモには記述をしていなかったが、宗教美術におけるヘイローは写実主義の高まりによって19世紀までにほとんど衰退しているらしい
なので宗教美術において死者(例えば聖人、殉職者など)にヘイローが描かれたものがあったとしても、カートゥーンのヘイロー描写がその影響を受けているとはちょっと考えにくいのではないか
一度断絶しているのでは?という疑問を持っている
ヘイロー描写は一度衰退し、再び風刺画やカートゥーンなどで記号として便利なので復活したという前提で調べている
あー、いや……この前提本当に大丈夫か?自信ないな
19世紀のアメリカで人々が見ることが出来た美術や絵画はどのようなものだったのか?というのがわからないと正確なことは言えないな……
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自分が確認した限り、カートゥーンアニメで「死んだら天使の装いをして天に召される」表現をやった一番古いものは『トムとジェリー』の『ネズミ取り必勝法』
オールドカートゥーンを全て総ざらいして確認したわけではないからもっと古いのがあってもおかしくはない(アカデミー短編アニメ賞受賞作品すらすべて確認できていない)
幽霊は沢山出てくるんだけどねえ
『ネズミ取り必勝法』はアカデミー賞とる程度には人気だったので、カートゥーンにおける元祖でなかったとしてもビジュアルイメージ固定に大きく貢献したといっていいかも
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キリスト教の教義では死者は天使になるわけではない、という認識があった(今でもそうではある)
→19世紀半ばにスピリチュアルな小説が流行り、人々の天国観を変えた
→それは死後に霊的な体を持った死者が天国で現世と同じような生活を営むものだった
→たまたま印刷技術の発展とタイミングが同じで新聞の挿絵、風刺画、漫画などで聖人でもなんでもない普通の人の死者の絵が多く描かれるようになった
→死者に天使の装いをさせた風刺画、紙の漫画、カートゥーンアニメでビジュアルイメージが固定される(この時点ではヘイローと翼はセット、あくまで天使など聖なる魂的な存在(専門用語を適切に使う自信が無いので曖昧な表現)と同じ装い)
→日本でキリスト教の文脈が無視された記号的な描写がされ、ヘイローのみで死者を表す記号的表現となる
……という流れだという仮説を立てることが出来た
うーん、自信ない
「18世紀以前に普通の死者も天に召されるときは天使と同じ装いをするという認識があった」と言える材料を見つけることができていない
印刷技術が生まれる以前だと絵画にそこらへんの人が天に召される絵なんて描かれないんだよなあ
探すとすれば厳格な宗教者が教義通りに書いた本でなく、人々を慰撫する目的で教義からすれば不正確な内容が書かれた本みたいなのがあればあるいは……(というか、それが『The Gates Ajar』なのよ)
また、『The Gates Ajar』などの天国観を変えるイベントによって死者が天使の装いをするようになった、とある程度の自信をもって言えるような材料は正直見つけることができていない
しかし、とりあえず一定のレベルで納得は出来たからこの疑問はクローズ
アニメ放送以降、アニメ「スナックバス江」監督によるX(旧twitter)の投稿でそこそこの焚火が燃えているが、最近起こったドラマ原作者自殺に絡めた投稿でまた一ボヤ起こっている。
そもスナックバス江とは北海道札幌北24条辺りにある架空のスナックを舞台としたギャグマンガで、スナックの従業員の女性たちと様々な客(常連から異世界から紛れ込んだ一見さんまで)たちとの掛け合いを軸としている。
テンポのいい掛け合いや踏み込んだ突っ込み、ルビ芸のワードセンスが特徴の漫画で、ネットでは否定的な意見を見たことがないほどだった。
作中メタネタ的にアニメ化したら~とか自分の声優はこうだ~とかキャラ自身が出すことがあったのだが、昨年本当にアニメ化という話が出た。
個人的にはすごいよマサルさん、ギャグマンガ日和シリーズ的な感じのギャグアニメがようやく来るなととても楽しみにしていた。(+チック姉さんはまだあきらめていない。)
とても楽しみにしていたのだが、待望の放送を視聴したところ困惑するような出来だった。
Xでも指摘している人は少なくないがバス江で求められているのは強みであるギャグを引き立てる軽快な掛け合いだった。
しかしアニメでは現実でもありそうな場末のスナックでのうだつの上がらないおっさんがする間延びしたトークのテンポで、現実のスナックを描いた作品だったらあり得る会話劇だがギャグマンガにおいては致命傷にもなりうる遅さ。もともと内容がある話ではないので、アニメ「スナックバス江」のかみしめる様な会話の遅さだと全部素材が死んてしまう、というか死んだ。
個人的には3話まで見てから評価するようにしているのだが、待望の3話でバズった小ネタが出てきたが演出のせいで不発に終わりだめだこりゃと悟った。
スナックバス江の第一話はスナック行ったことがない真面目そうなスーツ姿のサラリーマンがスナックへ入るところから始まる。
そわそわしつつ入店して目に入るのはチーママがママを酒瓶で殴りつけた直後と思われる流血沙汰の現場で、リーマンとチーママは目を合わせるもののそこに一切の会話がない。
面白さ無視で読者までガツンと殴りつけるような導入だったのが、アニメの第一話導入ではカラオケboxで歌っている途中店員が入ってきたら気まずいという毒にも薬にもならないあるあるネタ。
カラオケネタも前後の話があったり登場人物の関係性が出来上がっていたからこそ、そこそこ面白かったのだが導入としては正直弱すぎる。
最初の指摘と合わさって監督のバス江についてどの程度理解しているのかが露呈してしまった。
監督はXでの投稿を見るとスナックのテンポや雰囲気を大事にしたい様子だ。確かに漫画では背景はほとんどなくキャラが酒をあおるシーンやカラオケするシーンは会話のアクセントでたまーに入るくらいだったがアニメ版は違う。
背景はスナック感マシマシでちょいちょいグラスの氷の音や酒をあおるシーンが出てくる。おまけにムーディなBGMが流れしっとりとした雰囲気が出ている。
酒を飲みながら視聴したらさながら自分もスナックにいるような雰囲気を味わえそうだ。
都会で評判のいいチャーシューやメンマやスタンダードと思われる具材が乗った大衆ラーメンを食べに行ったつもりが小皿にスープと麺がこじんまりと乗ってジャズだかクラシックが店内で流れている意識高い系のラーメンをお出しされた感覚だった。
実際好きなギャグマンガ原作のアニメではなくよくわかんない長尺FlashアニメとしてならBGM代わりにできた。
好きな原作だしということで食べたら食べたでまあまずくはないけど、求めているのとはまったく違う。もんじゃ焼きとゲボぐらい違う。
Xの指摘の傾向と自分の感想とどの程度近いか遠いかはさておき、バス江映像化について監督は
「あえての表現」
「スナックの良さを引き出している」
といった感じの主張をした結果ボヤ騒ぎ。個人的に主張はわかるんだがそれをバス江を使ってやらんでくれと思った。
そして序文の話。
どうやら今は投稿が消えているみたいだがドラマ原作者を非難した視聴者が原作者を自殺に追いやってしまったとし、視聴者たちを非難する投稿をしたようだ。
趣旨としてはクリエイターをもっと大事にしろというように受け取ったが、これは監督バッシングということがあってということなのだろうか。
いずれにしても独り相撲なクリエイターがSNSで自己弁護したらこうなるという好例をみることができた。
「原作ファンの求めているもの」と「監督が出したいとするもの」が違う事例は良くも悪くもほかの作品にも言えることで、特に監督の力が強そうな実写化では顕著に出ていると思う。
成功した感じなのはデスノートとかるろうに剣心とかカイジ(アニメも)とか、逆に上手くいかなかったのは進撃の巨人とかデビルマンとかだろう。
特殊なのは庵野氏によるリバイバル作品で、ゴジラやウルトラマンや仮面ライダーを見たいというよりは庵野氏解釈のそれを見たいということでおもしろいかつまらないかはさておき原作レ〇プみたいな話にはならないのだろう。
そういう意味では映像化するにあたり見せたい相手が監督ファンなのか、原作ファンなのか、その辺りをわきまえているかどうかがカギになると思う。
スナックバス江についてはほかの監督でリバイバルされるか、原作者による供養(映像クリエイターが本編に登場する回)をしてもらうことを期待したい。
俺は「プログレッシブロック」(以下:プログレ)っていうジャンルの音楽が好きだ。高校生の頃出会ってからずっと好き。特にKansasのJourney from Mariabronnていう曲が好き。(現在29歳)
でもこのジャンルって、世間的には"ニッチ"って言われる。小難しいとか、インテリ音楽とか言われてるのをネット記事なんかでよく見る。
言わんとすることはわかるし、たしかにイマっぽいポップミュージックとは一線を画すことは認めよう。
しかし世間というものは広くて、そういう音楽を愛する人っていうのが一定層いる。
と、思っていた。
しかしこれは罠だった。ここからが愚痴なのだが、俺は本当の意味でプログレを好きな奴ってのをほぼ見たことがない。
あいつら、プログレをファッションにしてやがるんだよ。ニッチなジャンル攻めてる俺。っていう。偽者だらけよ。俺はカンがいいから、そういう偽者がすぐわかる。
ジャズ畑とかにも多いんだけど、通常のポップミュージックをお前ら、ちょっと下に見てるだろ。それだよ。俺が引っかかるのはそれ。
俺から言われせれば、プログレは通常のポップミュージックと変わらない、すごくわかりやすい音楽だ。そういう仕組みになってる。
わかりにくくみえているのは、お前らが今まで社会から受けてきた音楽洗脳のせいである。つまり、「これが曲というものですよ」っていう洗脳が染みついちゃってるわけ。構成とかね。
(松本人志お笑い問題に似ている)だから、その構成に沿わないものを耳にしたときに「これは曲じゃない」ってなっちゃうの。オートでね。俺はその洗脳教育が終わるか終わらないかのところでたぶん、出会えてたからこそ、プログレを「わかりやすい音楽」として認識できるんだろう。
ちょっと勉強したからわかったんだけど、ホンモノのプログレってのは(Yesとか)かなり綿密に構成が練られている。これは、ホンモノじゃない「なんちゃってプログレ」と聴き比べるとわかる。なんちゃってプログレはマジですぐ飽きる。それは構成が練られてないから。