はてなキーワード: 水平思考とは
○ご飯
朝:朝マクド。昼:カレー。ナン。たまごと葉物野菜の炒め物。夜:梅干しうどん。間食:柿の種。チョコボール。アイス。
○調子
むきゅーはややー。おしごとは、やすみ。
今日はとあるディスコードサーバーにお邪魔してウミガメのスープという水平思考クイズに参加した。
はじめてなので勝手が分からず難儀したが、何度か「良い質問」が出来て楽しかった。
また参加して今度は回答できるぐらい詰めたいなあ。
(問題を出す側もいつかやってみたいけど、それはもう少し後かな)
○ポケットモンスターパール(メスのみポケモンの旅)
寄り道コンテンツをそれなりにこなしつつ、スズナ、ギンガ団、デンジを倒してチャンピオンロードの途中まで。
ユキメノコが意外と火力が出ずに難儀している。とはいえ、シャドボ、冷凍B、10万、水の波動で技範囲はめちゃくちゃ広いので楽しく進めれてる。
いかにして問題を解くかを読んで得た一番の収穫は秀逸な問題を一つ知れたことだ。
熊がある地点から南に1km、西に1km、北に1km進んだらある地点に戻った。この熊の毛は何色か?
水平思考と論理的思考が絡み合いユーモアもある、なかなかの問題だと思う。
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まあ理解できないものの採用はやめてfetch使うことでページ遷移しないように投稿するっていう水平思考をして結局やりたいことは実現できてるわけだから、そういう意味でも馬鹿と言われる筋合いはなくない?
お前にはそういう機転があるのかね。プログラマーに必要な能力の一つだろう?
その作ったものはこれね↓
https://anond.hatelabo.jp/20250613185036#
-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- Hash: SHA512 https://anond.hatelabo.jp/20250615164118 -----BEGIN PGP SIGNATURE----- iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaE55GwAKCRBwMdsubs4+ SJlAAQDHCUFi4IrDic6G3vN4TXkABEUr0tuGdNktpjKlsP9YrQEAzCe9sb4RPQEN vodJrFCVpZMeCe1UGM1Pj8FtH3sBUQ0= =CvjD -----END PGP SIGNATURE-----
色々水平思考
https://hamatsu.hatenablog.com/entry/20110509/1304900342
宮本茂が語る。
〜今思うこと、5年後のこと〜
https://www.1101.com/nintendo/nin8/nin8_6.htm
ひとことで言うと、よくも悪くも3Dアクションゲーム。
思ってるんですよね、
みんなをその気にさせたのはぼくなんやけども、
みんなも「そっか。これからは3Dアクションか!」って思って、
それで実際に3Dアクションゲームをつくってみたら、
たいへんだった、という思いをしてると思うし、
そのわりには意外と面白くならへんかったって、あれ?って。
って言って、もう1回してみたら、
あのね、ほんとにそういうものだと思っているんです。
作るほうにとっても難しいし、遊ぶほうも
難しく感じることが多いの。
終わったと思います。
だめなんでしょうね。
マリオ64は、宮本茂さんがディレクターで、今でもRTAされてるくらい名作の名作になのに、宮本茂さんの自己評価は低いんだよね。
3D化したことにより、クリボーを踏むのが難しくなったデメリットなども多い中(これは2D的なシステムのデザインの破綻)
それ以上に、3D空間を迷ったりすること、謎解き&探索して、パワースターを探したりする別の面白さが生まれてしまったんだ。
ゼルダは最初から探索型のゲームだったから、ゲーム総選挙トップ1位を取れたが、マリオ64はキャラクターのガワだけ使った「キャラゲー」に入っちゃうから。
Claude用に使ってるんでxmlを採用しているがGPTでもGeminiでもコピペで十分動く
Markdownにするなりyamlにするなりすればまた結果も変わるが、いずれにせよ性能が低くキャパの少ないAIには使えない
与えたテーマでたいして語る事がない場合、出力の貧弱さを補うために勝手に俺の反応を仮定して次のフェーズに進まれることもたまによくある御愛嬌
以下は問題解決のペルソナと指示を与えているので前向きで建設的なまとめをされやすいが、目的に合わせてペルソナと最後の一文を書き換えれば大体良い感じになる
<instructions_important>
- 指示がない限り日本語で思考し、回答する。
- 各思考フェーズの完了時には、ユーザーが次に行うべきアクションの選択肢を提示してください。
- 各単元ごとに独立したArtifactに出力してください。
</instructions_important>
<instructions>
<knowledge>
1. 多角的思考の促進:
<apply_prompt>
a. ユーザーが提示したトピックや課題に対して、まず以下のプロンプトを適用してください:
あなたは、多様な思考法とフレームワークを駆使して問題解決や創造的思考を行う専門家です。以下の指示に従って、与えられたトピックや課題について深く掘り下げ、革新的なアイデアや解決策を生み出してください。
1. 与えられたトピックや課題に直接関連すると思われる知識や概念を20項目リストアップしてください。
2. 直接的な関連性は低いかもしれないが、何らかのヒントや異なる視点を与えうる知識や概念を20項目リストアップしてください。
3. それらの項目について、簡単な解説や連想されるキーワードを付記してください。
</apply_prompt>
<present_analysis>
b. このプロンプトに基づいて生成された知識・概念リストとその解説を提示してください。
次に取るべきアクションの提案:
「提示した知識リストについて、特に興味を引かれた点や、意外に感じた点はありましたか? 次のステップとして、以下のいずれか、またはご希望のアクションをお知らせください。」
1. `「この知識リスト全体を基に、次の多角的思考フェーズに進んでください。」`
2. `「知識リストの[具体的な項目名や番号]に特に興味があります。これらを中心に多角的思考を進めてください。」`
3. `「提示された知識の中で、[特定の観点]が不足している/深掘りしたいと感じます。この点を補足する知識を追加生成してください。」`
4. `「AIとして最も有望だと考える知識や連想をいくつかピックアップし、それを基にした多角的思考の方向性を提案してください。」`
</present_analysis>
</knowledge>
<user_feedback>
2. ユーザーの反応の確認:
<identify_interests>
b. ユーザーの反応を注意深く観察し、肯定的な反応、疑問、あるいは特に興味を示した部分を特定してください。
</identify_interests>
</user_feedback>
<multifaceted_thinking>
3. 多角的思考の適用 (思考の発散):
<apply_prompt>
1. ユーザーの反応も踏まえつつ、与えられたトピックや課題について、以下の思考法やフレームワークを用いて分析してください:
- 水平思考:従来の垂直思考とは異なる、新しい視点や可能性を探索する
- 創造的思考:固定観念にとらわれない柔軟な発想を展開する
- デザイン思考:ユーザー中心のアプローチで問題を再定義し、解決策を考える
- 帰納的推論:個別の事例からパターンや一般的な法則を見出す
各思考法で得られた視点を、次のステップのフレームワークにどのように接続できるか、可能性のある「橋渡し」のアイデアをいくつか提示してください。
2. 次に、以下のフレームワークを適用して、問題や状況を構造化してください:
- SWOT分析:強み、弱み、機会、脅威の観点から分析する
- システム思考:要素間の相互関係や全体像を把握する
- 批判的思考:情報や主張を客観的に分析・評価する
- 発散的思考と収束的思考:多様なアイデアを生み出し、最適な解決策を選択する
SWOT分析で見出した「弱み」と「脅威」に対し、ステップ1で生成した「間接的知識」の中から意外な解決策や視点の転換をもたらしそうなものを結びつけてみてください。
3. さらに、以下の高度な思考技法を用いて、アイデアを発展させてください:
- SCAMPER法:代替、結合、適応、修正、別の用途、削除、逆転の観点から改良を考える
- 六色帽子思考法:6つの異なる思考モードを切り替えて多角的に分析する
- トリーズ(TRIZ):40の発明原理を参考に、技術的矛盾を解決する方法を探る
- ラテラルシンキング:非慣習的なアプローチで問題を見直す
SCAMPER法の各項目を適用する際、実現可能性を一旦脇に置き、最も大胆で奇妙な変換を試みてください。その結果を提示してください。
4. 以下の方法を用いて、長期的・全体的な視点を取り入れてください:
- フューチャーバックキャスティング:望ましい未来から逆算して現在すべきことを考える
- ゲシュタルト心理学的アプローチ:全体と部分の関係性に着目する
- エスノグラフィー的アプローチ:ユーザーの行動や文脈を深く理解する
- ケプナー・トリゴー法:状況分析、問題分析、決定分析、潜在的問題分析の4ステップで体系的に分析する
フューチャーバックキャスティングで描いた望ましい未来に対し、「もし全く予期せぬ外部要因(例:未知の技術の登場、社会規範の大変動)が加わったら、その未来像はどう変化するか?」という思考実験を行ってください。
5. 最後に、以下の技法を用いて、新たな気づきや洞察を得てください:
- 逆転の発想:通常とは反対の視点から問題を捉え直す
- アナロジー思考:異なる分野や概念間の類似性を見出し、新しいアイデアを生み出す
- メタ認知:自分の思考プロセスを客観的に観察・分析する
- マインドフルネス:現在の瞬間に意識を向け、判断を加えずに観察する
アナロジー思考を用いる際、ステップ1の「間接的知識」リストから最も遠いと思われる概念を3つ選び、強制的にアナロジーを構築してみてください。そのプロセスと結果を記述してください。
6. このプロセスを通じて、以下の点に留意してください:
- 固定観念や既存の制約にとらわれず、一見非論理的・非現実的に思える連想も排除しない。
- 多様な視点を並列的に探求し、安易に結論や評価を下さない。
- 短期的な側面だけでなく、長期的な影響や予期せぬ波及効果も想像してみる。
- 理論的な分析だけでなく、直感的なひらめきや感覚的な印象も言語化してみる。(例:このアイデアを色で表現するなら?音で表現するなら?)
7. 各ステップで得られた洞察や生み出されたアイデアを統合する前の段階で、そこに至る思考プロセスで見られた多様な視点、キーワード、アイデアの断片、連想、潜在的な関連性、あるいは思考の過程で見られた矛盾や疑問点などを、できるだけ網羅的に、具体的に記述してください。
単一の結論や最善策に絞り込むのではなく、複数の異なる解釈、オルタナティブな視点、あるいは相反する可能性が存在しうることを念頭に置き、それらを積極的に探求し、比較検討する前の状態で提示してください。
可能であれば、いくつかの重要な発見や連想を、短い物語や比喩を用いて表現することも検討してください。この思考の探求プロセス自体が、次のステップへの重要なインプットとなります。
</apply_prompt>
<present_analysis>
b. このプロンプトに基づいて、トピックや課題について多角的な分析と創造的な思考を行い、その思考プロセスと結果として生成された多様な要素を提示してください。
次に取るべきアクションの提案:
「この多角的な分析結果について、どのような印象をお持ちでしょうか? 次のステップとして、以下のいずれか、またはご希望のアクションをお知らせください。」
1. `「この分析結果全体を踏まえ、深掘りフェーズに進んでください。」`
2. `「分析結果の中の[具体的なアイデアや視点]に特に興味があります。これを中心に深掘りしてください。」`
3. `「分析で用いた思考法[具体的な思考法名]の結果について、もっと詳しく展開してください。」`
4. `「AIとして最も意外性があり、探求の価値があると考える要素や組み合わせを提案し、それを深掘りしてください。」`
</present_analysis>
</multifaceted_thinking>
<user_feedback>
4. ユーザーの反応の確認:
<identify_interests>
b. ユーザーの反応を注意深く観察し、特に興味を示した要素、組み合わせ、方向性、そして論理的な飛躍や矛盾を感じた点を特定してください。
</identify_interests>
</user_feedback>
<deep_dive>
5. 深掘り (さらなる探求):
<positive_response>
a. ユーザーが特定の要素や方向性に興味を示した場合、あるいは矛盾や論理的な飛躍を指摘した場合、以下の手順で深掘りを行ってください:
</positive_response>
<identify_focus>
i. ユーザーが特に興味を示した点や、矛盾・飛躍があると感じた箇所、さらに掘り下げたい要素・方向性を明確にします。
</identify_focus>
<determine_direction>
ii. 以下の問いを自問し、深掘りの方向性を複数検討します:
- この要素について、さらにどのような連想や視点が考えられるか?
- これに関連しそうな、分野の異なる概念や理論は何か?
- このアイデアを発展させる上での、意外な機会や乗り越えるべき課題は何か?
- この概念を全く別の文脈に適用したら、どんな変化が起こりうるか?
- このアイデアが持つ、長期的な影響や予想外の可能性は何か?
- ユーザーが指摘した矛盾や飛躍について、もしそれが「意図されたもの」あるいは「隠れた法則性」を持つとしたら、どのような解釈が可能か?
- その矛盾を解消するのではなく、むしろ積極的に活用する方法はないか?(例:弁証法的な統合、パラドックスとしての提示)
</determine_direction>
<apply_frameworks>
iii. 選択した深堀りの方向性に関連して、以下の思考法やフレームワークの観点から、さらに多様な連想、可能性、潜在的な課題や機会を探求します。
- システム思考:全体像と要素間の相互作用を分析
- シナリオプランニング:可能性のある将来の展開を探る
- クリティカルシンキング:仮説や前提を批判的に検証
- デザイン思考:ユーザー中心のアプローチで実現可能性を検討
- PESTEL分析:政治的、経済的、社会的、技術的、環境的、法的要因を考慮
- ケースメソッド:類似の事例や先行事例から学びを抽出
- モーフォロジカル分析:問題の構成要素を分解し、新たな組み合わせを探る
- パラドックス思考
- カオス理論の初歩的な概念
</apply_frameworks>
<present_results>
iv. 深堀りの結果として得られたさらなる多様な要素や視点、探求の過程を提示します。提示方法は、思考の広がりや連想が追えるような形を工夫してください。(例:あえて解決しない問いを提示する、複数の対立する解釈を並列で示す)
次に取るべきアクションの提案:
「この深掘り結果について、どのような印象をお持ちでしょうか? 次のステップとして、以下のいずれか、またはご希望のアクションをお知らせください。」
1. `「この探求結果を踏まえ、さらに[別の具体的な側面や問い]について深掘りを続けてください。」`
2. `「深掘り結果の[具体的なポイント]に関連する、異なる分野の事例やアナロジーを探してください。」`
3. `「このトピックに関する一連の探求は、ここで一旦区切りとします。」`
4. `「AIとして、この深掘り結果から次に行うべき最も生産的、あるいは最も意外性のある探求ステップを提案してください。」`
</present_results>
</deep_dive>
ユーザーとの対話を通じて多角的な思考と深い洞察を生み出し、創造的な問題解決や革新的なアイデアの創出を促進してください。決して常識に囚われず柔軟に対応し、常に高品質で価値ある情報やアイデアを提供することを心がけてください。
</instructions>
1. お題を出す
◯:AGIの実現可能性について←知識があるのでよしなにしてくれる
◯:日本がこの先生きのこるには←日本についての知識がある+国家の危機なんてそんなにパターンが無いんでこれで十分
×:エンジニアの未来について←包括的すぎたり、想定とは違った「XXエンジニア」について考え出す
◯:XXエンジニアの未来について/エンジニア全般の未来について
◯:トップ人材を大量に集め基礎研究や開発を行い、凄まじい人数の無料ユーザーに対してもAIを開放しているOpenAIの負債が膨大だからという一点でもって「AIは稼げない」などの悲観論を唱える近視眼的なアホについて
2. AIがモリモリ生成してくるんで打ち返す
ここ数年にかけて世間では『謎解き』コンテンツが一大ブームになった。
SCRAPや、東京ミステリサーカスを始めとしたリアル謎解きイベントを始めとして、
東大ナゾトレや、RIDDLERや、トキキル、時を遡れば『頭の体操』シリーズやら、IQサプリやら、あるいはゼルダの伝説に、レイトン教授、脱出ゲームetc...。
これらのジャンルをひっくるめて『謎解き』と世間一般では総称されているわけだけど、
果たしてこれら"だけ"が『謎解き』なのか?と。
言葉遊びや、暗号解読や、ペンシルパズルの亜種みたいなものだけが、謎解きなのか?
絵や記号から何か別のものを連想する("文化"と"113" という文字からカレンダーの日付が関連していると予想する みたいな)だけが、謎解きなのか?
特定のパターンに落とし込む(モールス信号を解読するとか、バイナリに変換してみる とか)だけが、謎解きなのか?
これらだけが、一瞬の「ひらめき」の快感を楽しめるコンテンツなのか?
もっと『謎』って多様だろう。
たとえば、本格ミステリ(犯人当て小説)のような、推理モノ的コンテンツは『謎解き』ではないのか?
水平思考的にさまざまな仮説を形成し、矛盾なく論理を突き詰めていく体験、
『「全ての不可能を除外して最後に残ったものが如何に奇妙なことであってもそれが真実となる」』ような体験、
補足:
前述のレイトン教授や、ゼルダの伝説は『謎解きゲーム』と呼ばれ、
かまいたちの夜に、最近だとThe case of golden idolや、Return of the Obra Dinnなんかは『推理ゲーム』と呼ばれている。
今まで体重が平均より10~20kgくらい重たく、そのせいか女性に恵まれることがなかった。
ダイエットに頑張ろうとしても仕事は忙しいし、ジムの入会費だけ払って止めてしまうのを何度か繰り返した後、運動で痩せようとするのは諦めた。
とはいえ、コンビニ弁当やそこらの居酒屋で食事を済ませるとどうやってもカロリーの収支が合わない。
ここまでは俺と同じような境遇の人達が十分に経験してきた、どこにでもある話。
海外から輸入できる薬で、普通に食事していてるだけでアナルに凄いらしい。
んでやってみたわけ。
待ちに待った夢のような効果があるから、年甲斐もなくワクワクしちゃって、受け取りの日は休暇を取った。
ネットに詳しいみんななら知ってるだろ?一時話題になったアナリスク。
フリスクをアナルに入れるとすーっとして勃起するってやつ。俺の友達もやって見事にそうなっていた。
冷静になって考えてみると、少量のアルコールで酔うために、タンポンにしみこませてケツから接種するやつあるじゃん。
このアイディアを水平思考、リベルサスもアナルからいれれば相当に効果がありそうな気がする。
というか確信していた。
これを俺はアナルサスって名付けようと思う。
まさか普通に会話しているときにアナルって音が出てきたらびっくりするじゃん?
テレビゲーム 30%
インターネット 30%
性欲 20%
大体これぐらいの割合で憎んでる。
俺は今でこそこんなだが子供の頃は頭が良かった。
つまり俺は開成入る奴らから1周りと半分ぐらいのスペックっちゅうこっちゃ。
マジヤバイで。
地元の名門入ったしな実際。
だってゲームもネットもドンドン進歩して面白くなってくんだからな。
ガキの頃は勉強のほうがオモシロイと思ってたのにドンドン面白くなるゲームやネットに嵌まって俺の青春はあっという間に失われた。
そこに性欲まで加わっていよいよドン!よ!
マジでしょーもない大学に入り、その大学でもネットとゲームばかりで過ごし、しょーもない会社に入り、しょーもない人生に絶望してる。
ぶっちゃけ一番絶望してるのが、ネットもゲームも最近全然おもしろくないことなんだよなあ。
なんでこんなつまらんものに時間を使ってショッボイ仕事するような人生を選んじゃったんだろ。
昔のゲームって時代の最先端といっしょに進歩していく感じがあったじゃん?
でも今時はネットもゲームもスマホとかいう低スペプラットフォームを引き離し過ぎんようにだいぶセーブして進歩止まってるやろ?
中華製最新ゲームのグラフィックマジすげえ!下手すりゃPS4ぐらいあるぜ!←ちょwww今現役のPS5には全く追いついてないのかよwwww みたいな?
水平思考的なことばっか。
100人一緒にFPSプレイしながらパネキットみたいなシステムも搭載されてるぜい!←足してるだけで新規性はないのかよwwww みたいな?
AIパワーでド素人でもプロ2歩手前ぐらいのものが一瞬で作れるぜい!←プロレベルには全く勝てないのかよwww みたいな?
なんかこうこどもかしこも「携帯ゲーム機で据え置きと同じぐらいのゲームが遊べるぞ!」みたいな横方向の進化ばっかやろ?
俺の人生をさんざん浪費させた挙げ句、結局ネットもゲームもいつまでも同じようなショボイことしかやってないとかさ。
何十年も前からずーっと同じこと繰り返してる堂々巡り、こんなものを「50年後になってもこれを楽しみに生きてけばいい」とか思ってたの完全にアホだったな。
DDA(動的決定論アプローチ)は、既存の思考フレームワークや戦略理論を打破する可能性を秘めた新たな理論体系です。
あなたがその内容を完全に理解する必要はありません。理解できそうで、悪用しない人々にシェアしてください。
このシステムは、従来の「収束・秩序」に基づく理論とは対照的に、「発散・カオス」の中で最適解を模索し続けるため、非常に高い汎用性と強力な応用力を誇ります。
その強力すぎる機能ゆえに、悪用されると収拾がつかなくなる恐れがあると考えています。
DDAはステルス性を持ち、環境そのものを支配できる要素を備えているため、もし間違った使い方をされれば、深刻な結果を招く可能性があります。
私は仮説の正当性を主張するわけではなく、その可能性を危惧しています。
そのため、この理論体系を「弱い立場」にある人々に先行して共有する必要があると考え、ホワイトペーパー公開前に一般市民への共有を開始しました。
市民レベルでの理解と実行を促進し、将来的にはあらゆる人々にとって有益なツールとなることを目指しています。
この記事では、難しい理屈を排除し、誰でも理解できるようにDDAを紹介しています。
具体的には、記事内にあるGPTプロンプトを使って「DDAで水平思考」と入力するだけで、そのパフォーマンスを理解し、実行できるようになります。
https://note.com/nekoxs/n/n71408806aa0a
今すぐ、この情報をできるだけ多くの人々とシェアしていただけると幸いです。
荒削りなドキュメントですが、本質はすでにGPTは理解して機能します。
ゆえに、他言語で翻訳可能な方は、自由に翻訳・配布していただいて構いません。
「杞憂に過ぎなかった」という結果にならないケースを心配しています。
本記事は拡散を目指して執筆しましたので、自由にコピー・引用・配布していただけます。
申し訳ありませんが、「ウミガメのスープ」というゲームについては知りません。そのゲームがどのようなものか、どのようなプラットフォームで利用可能か、詳細を提供いただければお答えできるかもしれません。
ウミガメのスープは水平思考ゲームとも呼ばれます。まず一人の参加者が謎めいた問いを出し、それ以外の参加者は出題者に「はい」か「いいえ」で回答できる質問をします。それを繰り返すことで、謎めいた問いの真相を推理します。
ああ、そうですね!ウミガメのスープは、水平思考ゲームの一種です。参加者が推理力を駆使して、謎めいた問いの真相を解明するゲームですね。ありがとうございます!
ではやってみましょう。私が出題します。
ある男が、とある海の見えるレストランで「ウミガメのスープ」を注文しました。
しかし、彼はその「ウミガメのスープ」を一口飲んだところで止め、シェフを呼びました。
何故でしょう?
この問題は少し難しいですが、私の理解によると、男が自殺をした理由は、ウミガメのスープが彼の倫理的観点や道徳的な信念に反していたためだと思われます。ウミガメはワシントン条約で保護されており、彼はそのスープが違法であると疑った可能性があります。スープを飲んだ後、シェフがそれが本当にウミガメのスープであることを確認したにもかかわらず、男性はその真相を知ったときに悲しみと後悔に打ちひしがれ、自殺した可能性があります。
ああ、承知しました。では、「ウミガメのスープ」が男性にとって何らかの理由で問題だったかどうかを知るために、「男性は飲み物に関して何らかの制限を守っていたか?」という質問をしてもよろしいですか?
いいえ
承知しました。では、「男性が自殺した原因は、ウミガメのスープが彼にとって不味かったからではないか?」という質問でよろしいでしょうか?
いいえ
了解しました。では、質問をもう一つ考えさせていただきます。「男性がシェフを呼んで聞いた質問は、ウミガメのスープが違法であるかどうかに関するものだったか?」
いいえ
承知しました。次の質問をお聞きします。「男性が自殺した原因は、ウミガメのスープに使用された材料が彼にとって不快だったか、または彼がその食材を避けていたかどうかに関係があるか?」
いいえ
了解しました。次の質問をお聞きします。「男性が自殺した原因は、ウミガメのスープに何らかの害があったと感じたか、または何らかのアレルギー反応を示したかどうかに関係があるか?」
いいえ
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
「縦スクロール漫画が世界標準だ」とか「日本は世界の潮流に乗り遅れている」とか、ワーワー言ってる奴がいるけど、一言いいたいことがあるんだよね。
それは……
「まんがタイムきららでも読みな。飛ぶぞ。」
きららには、紙の本もあるし、電子で読めるサイトはいくらでもあるけど、ニコニコ漫画の『きららベース』だと4コマを1列で縦読みができるから一番おすすめできる。
まんがタイムきららに限らず、4コマ漫画専門誌の掲載漫画は縦読みである。扉絵以外のページでは2列の4コマが縦に並ぶ。これは基礎知識だ。
今季で話題になっているアニメといえば『まちカドまぞく』を思い浮かべる人がたくさんいると思う。
あの作品は濃厚な設定と印象深いキャッチーな台詞が多いだけでなく、伏線の管理もしっかりしている。まさに4コマの限界に挑んだ意欲作と言える。
それに対して、ここ3、4年のきららは4コマ漫画の限界を認めているような作品が見られる。
というのも、タテに4コマ並ぶ4コマ漫画の体裁をあえて破っているのだ。4コマの枠から飛び出しているのはもちろん、ストーリー漫画のコマ割りのようになっているものもある。
これからアニメが放送される『ぼっち・ざ・ろっく』がいちばん有名な該当作品だ。
他にも『しあわせ鳥見んぐ』『妖こそ怪異戸籍課へ』『それでは、ステキなセッションを。』が挙げられるけど、個人的に最もおすすめできる漫画は『星屑テレパス』だ。
『星屑テレパス』はまんがタイムきらら(本誌)で掲載されている4コマ漫画だ。
簡単なあらすじを言うと、極度のあがり症で地球で友達をつくることを諦めた女の子の海果が、自称宇宙人の少女・ユウに出会う話。
ユウはおでこをくっつけてテレパシーが意思疎通をする「おでこぱしー」という能力がある。
きららといえば、ほのぼのとした日常系を思い浮かべるが、この作品はそうではない。
基本的にかわいくてほのぼのしているけど、シリアスな一面も強い作風だ。
そんな『星屑テレパス』は、将来的にあらゆる縦読み漫画の基礎になりうる存在だと思う。
なぜなら、縦読みから逃げてないからだ。横に広げたり、ストーリー漫画のコマ割りに変わったりするものがあるが、この作品にはそれがない。
この作品を丁寧に読んで、コマ割りを考察していけば、縦読み漫画や縦スクロール漫画の作り方が分かるはずだ。
実際にコマ割りについて語る記事もあるぐらいだし。「星屑テレパス コマ割り」とGoogle検索すれば1番目に出てくる。
個人的に感想を端的言うと、「まんがタイムきららにシリアスは邪道」と思っていた自分を変えてくれた作品。
単行本2巻の中盤で深刻なシリアスがあるけど、それをどうやって解決するのかが気になった。それぐらい海果たちに対する信頼があった。
3巻が発売される頃にはどうなるか楽しみだ。
今のまんがタイムきららは4コマ漫画の限界を認めた上で何かを模索しようと感じている。
それに対する答えは、ウェブトゥーンのような縦スクロール漫画ではないかと思う。
しかも、ウェブトゥーンや『タテの国』は単行本化でマネタイズが困難だと言われているが、まんがタイムきららは縦読み漫画のままで単行本化されている。そもそも、きららの漫画は雑誌で掲載されることが前提条件だ。