はてなキーワード: 犠牲者とは
おフランス映画版ジョーズ良くできてはいると思うんだけど俺が見たかったサメ映画ではなかった。55点。
おフランスの海辺の田舎町に初めてのサメが出る。定年寸前の海岸憲兵のマジャは海岸封鎖を申し出るも観光業に打撃が出るだろとか、サメなんか出たことないし気のせいやったらどうするんやと周囲からはさんざん反対される。マジャは定年を延期しサメと対決、麻酔銃を打ち込み生け捕りに成功。しかし2022年という時世を鑑み、苦情を恐れる市長の意向もありインド洋にサメを放牧しマジャは無事定年。しかしサメは帰ってきて新たな犠牲者が。するとたちまち周囲は「マジャがサメを殺さなかったからや」と一転攻勢。犠牲者の子供たちにボコボコにされたりで危機を感じたマジャは町を離れるも再び帰ってきてサメと対決、見事サメを討ち取るのだった。
おフランスらしい意識高い系サメ映画だった。どうやらフランス初のサメ映画だったらしく、のちに「セーヌ川の水面の下に」という傑作サメ映画の礎になったと考えればそれだけで、まぁ。
序盤は本当にバカバカしいヨーロッパ系コメディ調で話が進む。どいつもこいつもオーバーリアクションでやることもガキっぽく、サメを捕まえるシーンとかウスノロ黒人がサメ釣っていて海に引きずり込まれるところを女二人は井戸端会議してて全く気付かなかったり、背びれに向けて麻酔銃を撃ったら腹に刺さって浮いてくるとか、それどういうテンションで見ればいいんだよみたいな展開が続く。
う~ん、ハズレだったかなぁと思っていたら、後半急に牙をむきだす。
あらすじにも書いたけど、マジャは炎上状態に。序盤の自己中心的で何もせんくせに他責思考で文句ばっかり一人前の市井の醜さをこれでもかと見せつけてくる。
最終的にはラジオでも「マジャは批判されて当然」「マジャのせいで人が死んだんだから責任を取るべきだ」「マジャは暴力を受けるべきだ」と流れてくる始末。まぁこれは追い詰められたマジャの夢だったんだけど。でも実際にSNS炎上で「こいつは叩いていい奴だ」とされてしまった相手に対してはこれくらいの物言いしてる奴いっぱいいるからね。フランスもたぶん同じなんだろう。フランス人って陰湿っぽいもんな(唐突な偏見)。
サメ放牧展開からの復帰被害で実害に対する環境活動家のバカバカしさを風刺したりしながらも、自己利益のことしか考えていない政治家や商人、町のために労を尽くした英雄を何か問題が起こったらそんなことはなかったとばかりに叩きに走る人間の醜さ、叩いていいと思ったら何してもいいと思ってしまう軽薄さ、そして炎上が収まったら何事もなかったかのように別の問題を探し出すさもしさ。
マジャの夫が唯一の両親としてマジャを支え続けるんだけど、結局実際に何かできたかって言うと何もできてないのが哀しい。
第一被害→第二被害→対決→打ち取り→第三被害→最終決戦という構図はかなりジョーズを意識しているし、初期の町でのいざこざもかなりジョーズリスペクト。
「サメ映画をやるにあたってやるべきことやってまっせ!」という姿勢と「せやかておフランスとしてやるべきことはやらせてもらいます」という姿勢はよかった。
ただ、どうしても近代サメ映画に慣れきっている身からすると展開がゆるかったり、アクションが弱かったり、あとはまぁ主張があからさますぎる部分はあんまり好きじゃなかった。「セーヌ川」が面白かったからね、しょうがないね。とはいえ、序盤のナニコレってなるコメディ展開からは考えられないくらい社会派の映画になって最終的に落ち着くべきところに落ち着くのはマジメに映画撮ってるなって感じで悪くはなかった。
これはまだ私の生前の話なんだけど、今でも思い出すたびに背筋が冷えるんだよね。
うちの学校のクラスに、ある時期から流行り始めた単語があったんだよ。
誰かがネットで見つけてきたらしくて、男子の何人かが面白がって言い続けてた。
誰も説明しようとしないのに全員が知ってるふりしてる、みたいな空気。
で、決定的だったのが放課後。
後ろの席の男がぼそっと言ったんだ。
「けもりを無視した女は、代償を払うんだよ」
冗談に聞こえなかった。声があまりにも低くて、ひどく冷たかった。
私は気になって、意味を調べようとしちゃったんだよ。
その時点でやめとけばよかったのに。
最初はスマホで検索したけど、どのページも途中で文章が途切れてたり、関係ない広告に強制的に飛ばされたりしてまともに読めなかった。
だから私はもっときちんと調べようと思って、図書館に通い始めた。
古い新聞の縮刷版をめくってると、ところどころで変な記事を見つけた。
「ある日突然、『けもり』と叫びながら姿を消す」
司書さんに聞いても、妙に歯切れの悪い返事しか返ってこなかった。
「その言葉、あまり声に出して言わないほうがいいですよ」って。
でも私は止まれなくなってた。
返事が来たのは三日後。
「けもりについて調べないでください。決して名前を口にしないでください。犠牲者をこれ以上出したくありません」
そこでようやく気付いた。
そいつは「人」じゃない。
「僕を選んでくれなかったのは、きみだよね?」
男でも女でもない、老人でも子どもでもない、全部が混ざったみたいな声だった。
次の日、図書館に行ったら司書さんがいなくなってて、その代わりに見たこともない張り紙があった。
「けもりに触れた者は、相応の責任を負う——選ばなかったという責めを」
その頃にはもう手遅れで、毎晩声は近づいてきた。
「僕を選んでよ」
だから私は逃げた。逃げ続けた。
でも、死んだ今でも逃げ切れてない。
ねえ、もしかして気付いてない?
その時点でアウトなんだよ。
だってやつは——
「呼んでくれた人のところに行く」んだから。
ほら、もうすぐ後ろだよ。
あなたが選ばなかった、誰かの声。
耳元で聞こえるはず。
「ねえ、どうして僕じゃなかったの?」
だって裁判所が統一協力者の安倍晋三を死刑にするわけないが、社会のためには誰かが腐敗宗教の弾圧やらなきゃアメリカ軍植民地のままだろ
自民(貴族院、外務省)が神道洗脳使った薬物取引屋で法制偽造屋、搾取屋だったのは歴史的な真実事実
ただ山上事件は貴族院官僚がそれを見越して暗殺支持者に言論圧力をかけるためにイケニエ事件を起こしたようにも見えるので簡単に支持しにくいぜってことになる
それに腐敗裁判所と腐敗弁護士会が腐敗宗教の犠牲者山上についてどんなことをホザくか腐敗の結果などわかってるから誰も興味ないわけ
なんで宗教団体や官僚の資産がきちんと公開される方が公益になる
アメリカ・イギリス・ロシアは、ベラルーシとカザフスタンとウクライナが核不拡散条約の加盟国になったことを認め、実際には核兵器をロシアに引き渡すことで、 彼らは次のようにする。
ベラルーシ、カザフスタン、ウクライナの独立と主権と既存の国境を尊重する
ベラルーシ、カザフスタン、ウクライナに対する脅威や武力行使を控える
ベラルーシ、カザフスタン、ウクライナに政治的影響を与える目的で、経済的圧力をかけることは控える
「仮にベラルーシ/カザフスタン/ウクライナが侵略の犠牲者、または核兵器が使用される侵略脅威の対象になってしまう」場合、ベラルーシ、カザフスタン、ウクライナに支援を差し伸べるため即座に国連安全保障理事会の行動を依頼する
テレビアニメ『グノーシア』は、原作ゲームより情報量を減らして分かりやすくしたつもりで逆に作品の世界観に納得するために必要な情報が足りていないという話がしたい。
同タイトルの原作ゲームを夢中になってプレイしたファンである者として、アニメ版には納得できない点が多く無限に文句を言いたくなってしまうため、今日ここに考えをまとめて終わらせたいと思う。
当方を原作厨と罵って議論を終了させたいならそれで結構だが、原作と違うからダメ!という感情論ではなく、SF的要素を備えた当該作品の舞台設定に対して前提条件を一つ変更することで起きる影響までが正しく考慮されておらず、それに伴って劇中で開示されるべき情報が受け取り手まで共有されていないためアニメ単体として作品が論理的に成立していない、という批判が本投稿の本質である。
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合わせて、作品の舞台である宇宙船を人狼ゲームにおける「夜」にするための舞台装置である「空間転移」の設定について。
・原作では『船が空間転移をすればその度にグノーシアが人間を一人消すリスクを伴うが、空間転移完了時にしか船内のグノーシア反応を検知できないため、議論→コールドスリープ(以下、CS)→空間転移をセットで繰り返して、最終的にグノーシアの排除を目指す』(※そのために船の航路は、可能な限り多くの空間転移を繰り返してたどり着くことのできる目的地が設定される)という理屈が説明されていたところ、
・アニメ版ではCS完了後にあらためて船内のグノーシア反応が検知されるかどうかという判定が行われており、それはつまり空間転移の実行時ではない、乗員が活動可能な環境下で、常時「船内のグノーシア反応」を検知できる…ということになっている。(※その判定を更新されるのが「CS完了後」のタイミングでなければならない必然性が存在するのだろうか? )
・原作の世界観では「空間転移完了時の船内のグノーシア反応」が船側の、グノーシアの所在を絞り込むことのできる技術的な限界であるという定義をとるのは自然だ。(検出の必須条件となる「空間転移」という現象が及ぶ対象は「船全体」であるため、それが検出範囲の限界と認識できる)
しかしアニメ版の世界観では「グノーシア反応」を検知できる範囲が「船内全域」にしか及ばない点の不自然さを指摘できる。
・「緊急事態のため船の機能が制限されている」という説明は原作でも存在しており、アニメ内でも描写されたが、すでに提示されたような技術が存在する条件下で、グノーシア対策規定というものがLeViのシステムに組み込まれるほど一般化・周知されていることにも鑑みれば、緊急時に制限されることのない隔離された機能として、船にグノーシアを特定するための装置(グノーシア反応を検知できる範囲を「船内全域」よりも狭く絞り込めるような設備)が実装された上で運用されていてしかるべきだ。
・また、そのような設備がやはり技術的に不可能であるか、現状の『D.Q.O』には存在しなかったという限定的な条件を仮定しても、この環境において「船内」に含まれない範囲、すなわち「船外」は存在している。
原作ゲームを未プレイであるアニメ勢の感想に挙げられていた、"乗員一人ずつに宇宙服を着用させて「船外」に出し、その都度「船内」をスクリーニングすることによって誰がグノーシアかを判別することはできないのか?"という指摘が生まれたことは、要領を得ない突飛な発想のようでいて、じつは当然のことである。
(※アニメ内で描写のあったテザー無しのEVA作業用宇宙服で離れた後に再度帰艦できるような距離の範囲を「船内」「船外」とは判別することができない検知方法である、という可能性はある)
また、アニメ版の設定において、船内のグノーシア反応が確実に残っていると分かった状況で空間転移を実行する理由とは?(※原作においては複数のグノーシア反応が認められた場合にこの状況が発生することはある)
そういった状況下で、例えば議論が紛糾した末にCS判断の誤りが判明した後、投票結果に異論があった者の暴動を招く危険性や、確実に誰か一人が消されると分かったまま空間転移を実行される乗員の心理的負荷等をLeViが考慮しない理由は?
(※アニメ版での表現では投票を行う際の手続きが原作と比較してかなり厳重であり、毎回「拒否権はありません」との警告と承認があることから結果に異議を唱えたい者の暴動対策は取られている可能性。)
・以上の疑問点が解消できるような状況を説明されない限り、アニメ版の舞台装置は論理的に納得できる情報が不足していると言える。
・我々の世界にはまだ確立されていない技術である「星間航行船の空間転移」というものがどのような事象であるかは原作でも詳細な説明はなく、その情報が不足しているために判断がつかないことであるが、原作での「グノーシア対策規定としてなるべく多く空間転移を行う」という船の挙動を、前提の異なったアニメ版の世界にそのまま適用されていることは、全く合理的判断であるように見えない。
・原作では「調査対象者の空間転移時の次元波を解析してグノーシアかどうかを判断できる」ため、空間転移時のグノーシアの活動による犠牲者が出るという危険を冒してでも空間転移が明けないと調査結果が出ないという設定に対し、
・アニメ版では「時間がかかるため調査結果がわかるのは空間転移後」という表現がされており、つまりアニメ版におけるエンジニアは船が空間転移を行うことでグノーシアに襲撃の機会を与えずとも"時間をかければ"グノーシアを特定することが技術的に可能ということだ。
(※「時間がかかる」と曖昧に表現された部分の実態は気が遠くなるほどの膨大な時間を必要とするもので、空間転移によって乗員の体感時間にしてそれを大幅に短縮するような効果がある可能性。相対性理論…?)
・以上の前提に基づいて判断すれば、アニメ版の世界ではなぜ"なるべく空間転移をせずに時間を稼ぐこと"がグノーシア対策規定の基本になっていないのか、どうしても空間転移が実行されなければならない理由があるのであればその情報が開示されなければ、乗員としてもこの状況に納得できる判断材料に欠けている。
論理的な思考の持ち主であるラキオが、その点を指摘しないのは不自然。
・『アニメ作品』に対する個人的な所感として、"そうなってないのは何か理由があるんだろうな"と考察することも可能であるが、この物語の舞台設定の状況が、こういった前提条件の世界観の中で最も一般的な、大多数の人間が納得できる合理的判断として成立しているものと理解するために"整合性のつく要因を勝手に推測するしかない"のでは、あまりにも粗末である。
・原作の設定にもなんとなく推測するしかない要素はある、エンジニアは次元波を云々も小難しいこと言ってSFっぽくしてるだけ、とかいえばそうなんだけど、論点がズレるのでそれは置いといて。
わかりやすいテレビアニメ『グノーシア』をつくるためにはそのように舞台上の様々な制約を読み手に共有させるSF的要素は"ノイズ"であり、
SFらしく小難しい舞台装置の論理的な整合性を減らしてでも、あえて原作では排除されていた「人狼」の表現を再度劇中に持ち込むことが作品をわかりやすくするために必要な判断だったんだ、と言う主張がある。
実際、アニメ版の制作方針としてそうなのだろうと思うし、いまさらそのような制作方針の根幹について、今後のアニメ展開で改訂される可能性は皆無と言える。
・"なら僕はもう……何も言えません……"と言うしかないのだが、アニメ版が本当にわかりやすくなっているのかというと、それは甚だ疑問である。
私だって粗探しをしていてこんな結論になった訳ではない。"原作とは違うんだな"と思ったから、検証を進めていただけだ。
そして、上述のような疑問や指摘が浮かび、ついぞ解消しそうにもない。
理解しようと思ったのに、全然わからなかった。ましてや整合性のとれる理由は劇中で明かされておらず、各自推測しなければいけないとなれば、アニメ版が初見である視聴者にとっては"理解しがたい前提で、納得できないまま物語を押し進められている"という印象を抱くのも無理はないのだ。
・実際にアニメ勢で"この作品、設定ガバいな"といった感想が出された実例も観測した。
アニメ本編の情報だけで判断したらそらそうなるわ、という話だ。
・個人的に、この作品が好きだったのは"一人用の対COM人狼ゲームシミュレーター"から発展させて「人狼」の要素を抜いてSFの世界観に物語を再構築しているという部分であったために、アニメ版において世界観がこうも変更されている点について"好きなものを否定されて悲しい…"という感情になっているのだと思われる。
アニメ版だけの論理性に欠いた表現のためアニメから触れた新規に原作ごと作品の価値が誤解されるのも遺憾であるが、もはやしかたない。
OK、原作ゲーム『グノーシア』はSF人狼SF濃いめ、テレビアニメ『グノーシア』はSF人狼のSF抜き、別ジャンルの別作品としてそれぞれのファンである我々は住み分けていこうじゃないか。
みすみすアニオリの改悪を許すなんて歯がゆいことだ。ああ歯がゆい。
本当に、君達にはガッカリだ!
予算委員会で高市に質問が入ってるから事前レクがあるわけだけど、予算委員会ってのは原則として全ての大臣が出席なんだ。
で、質問者は答弁者を指名できる(この問いは総理に、この問いは財務大臣に、この問いは役人(官僚)でいい、など。別の人が無理矢理答弁台に立とうとしたら質問者が激怒して国会が止まる。)。なお、答弁者の指定は委員長の権限で、質問者があまりに酷いと答弁者を切り替えることを認めることもあるが、現在の委員長は立憲民主党の枝野だからそれも難しいだろう。
通常なら各大臣などに質問がバラけるから、朝9時開始のときは、各大臣は7時〜7時半くらいから答弁レクすることが多い(もちろん質問が集中している大臣は朝5時くらいから始まることもある。)。
んで、国会中継見てもらえばわかるが、今回立憲民主党からの質問が各大臣ではなくすべて高市に集中している。これに対応するために高市が朝3時からやらざるを得なくなっただけ。(答弁内容を聞いてみても「他の大臣で答えるべきでは?」みたいな質問も高市が答えていた。)
ちなみに、前々日までに質問通告がなされている質問なら、通常、前日までに答弁レクを終わらせている。
立憲民主党は前日ギリギリになっての通告ばかりだからそれができないわけだけど。
批判すべきは質問通告の時間を守らず、また高市に質問を集中させた側、またそれを是としている国会側だよね。政府はそれに対応せざるを得ないだけで。
https://work-life-b.co.jp/20210422_11719.html
のとおり、質問通告の期限を守らないのは圧倒的に立憲民主党と共産党っていう左派系野党なことがわかる。
https://i.imgur.com/bHEemHd.jpeg
総理に質問を集中させて過負荷に追い込むのは立憲民主党の基本戦術なので、何を今さらの話ではある(これは10年くらい前だったと思う。まだ民主党時代の話。)。
↑
調べてみたら2016年の話だった。
その昔、お前ら立憲の長◯昭が金曜夜21時に役人呼び出して
「月曜朝イチで資料作って持って来い。土日あるから作業できるだろ」
って言ってたな。
俺は覚えてるぞ。その場にいたからな
元霞が関の住人から言わせると、とにかく野党の締切が遅い。菅直人、長妻さんには本当に悩まされた。特に前者は午前零時を越して追加質問。関係省庁と答弁のすり合わせをして終わるのが朝4時。大臣レクは朝7時半。ルールは守ってほしいと心から思っていましたが。今は改善されたのかしら。
犠牲者の証言。こんなのが霞が関界隈では当たり前にまかり通ってるから。
ちなみに長妻昭は昨日、高市に対して「長時間労働から労働者を守るべき」って質問をしていた。役人は労働者じゃないらしいね。
https://x.com/yuandundun/status/1986819515435581584 現役副大臣が野党ガーのデマを撒いてるのが悪質
通告内容のあいまいさは与野党ともにあるけど、伝説的なのは立憲民主党の元首相経験者による「内政全般について」「外交全般について」だね。
どんな質問がされるか全く予想がつかないせいで、金曜夜から全省庁に待機がかかって、実際に質問レクが行われたのが日曜日夜っていうのも含めて中々ひどい事件だった。
社員数100人あまりのIT企業の管理部門で働いている。売上は10億前後で、派遣7割、受託3割ぐらい。社長は2代目でアラフィフ。
以前の経営は順調だったが、リーマンショック以降赤字が続いてキャッシュフローが悪化し、銀行の折り返し融資を受けるために「あまり適切とは言えない経理」を行って赤字を先送りしていた。同時に様々なリストラを行い2010年代半ばにはキャッシュフローも改善したが、先送りした赤字は貸借対照表の様々な部分に入り込み、かなり悲惨な数値になっていた。銀行は諸々気づいているだろうけど、順調だった時に押し貸しをしていた引け目と、金融円滑化法&それ以降の金融庁の方針から貸し剥がしや貸借対照表を指摘することはせず、少しずつ規模に合った適正な借金になるまで待ってくれている(過去に先送りした赤字を毎年少しずつ消したうえで税引後利益1億以下の会社が、この20年間で10億返済し、借金を15億→5億まで減らした。運転資金として適切な借金は2~3億なので、あと5~7年ほどかかる)。
この2代目の社長、昨年、創業者が亡くなり、株やら何やらの相続が終わったタイミングで、当社を売却すると管理部門に対して内々に発言した。どこぞの交流会で知り合ったM&Aの専門家に、「あなたの会社なら10億ぐらいで売却できる」と吹き込まれたようである。もともとプライド高くて元請けに頭下げたり、営業したりするのは苦手な人で、ITもそんなに好きじゃなかったしな。まぁ、そこまでは理解できる。
しかし当社は、今でこそわずかな黒字を出しているが、実態としては債務超過であり、また、財務諸表が実態と合っているとも言い難い。とても人様に売れるものではない(と思う)。詳しい人がデューデリジェンスしたら一発でバレて、手数料を没収されたり、ヘタすりゃ詐欺になるケースもあり得る。2代目は、先代社長や管理部長から、ここら辺の財務の闇について散々聞いていたにも関わらず、いまいち理解していなかったようである。リーマンショック時の資金繰りや銀行とのリスケジュール交渉などの体験をしておらず、当事者感が無かったことによることかもしれないが。一応、遠回しにいさめたが、「俺が知らないうちに誰がやった(心の声 散々説明しているし、やったのはお父上ですよ)」「悪いことは正してきれいにしたい(心の声 堂々と債務超過になったら銀行の折り返し融資止まりまっせ。それともついに二重帳簿作る?)」とあまり効き目はないみたい。「2代目で知らなかったからこの人も犠牲者なのかなぁ」と思いたいが、社長就任前から多額の役員報酬を得ており、なんならリーマンショック時に赤字転落したのは先代社長とこの人の固定費的な役員報酬が一因だったので何とも言えない。
自分は管理部門歴が長いので、M&Aになったら当社側窓口になりそうだし、とは言え転職は面倒そうだしで、悶々と悩んでいる。
以上、一部フェイクを含む。そしてこの話はフィクションです。粉飾なんて銀行に対する詐欺だし、やってる会社なんて存在しないよね。
見に行ったら全く事実と違った。コイツはなんでこんなことを書くんだろう?
というのはよくあるパターンだが、この場合は違うだろう。「女にだけタメ口で」云々と客観的事実かのように書いているが、実際には「そういう言いがかりをつけてる(そしてあっさり否定されてる)奴がいる」というだけ。他の「炎上」ポイントも同工であり、明らかにわざとやっている。X上の一方的な言い分を客観的事実として機械的に抜き書きしてるだけ。
推測だが、この増田自身がXでヨッピー氏に絡んで思うような反応を得られなかった有象無象の一人なのか、ヨッピー氏が平身低頭しないことが気に食わない(が、直接絡む度胸はない)ので腹癒せに書いてるかというあたりだろう。
こういう「1対多」のやりとりってどうやってもまともに機能せず、ヨッピーも適切なスタイルを見いだせてるとは到底言い難い。
全く事実ではないことが感動美談みたいに人気を集めてたので「実務者として知ってるのだがそんな事実はまったくないですよ」と水をさしたところ「人非人を叱りたい人」の行列ができてしまった。
たとえるなら、造り酒屋の杉玉は戦争犠牲者の鎮魂のためなんだよ!みたいな与太話がバズってて「いやうち酒蔵だけどアレは今年も新酒仕込みましたという意味の一種の縁起モノで…」と言ったら吊し上げ食らった感じ。
「なぜ抵抗するんだ!平身低頭して謝罪しろ!そうやって言い返すのが必死になっている証拠だ!」と言われ、面倒くさくなってやめたら「逃げた!」と言われる。
「1対多の平場の議論」がハードウェア的に可能になったかに見えても、実際には全く可能ではない。アホを排除する足切りや既出の主張を纏めるなどの制度・ルールがなければ文字通り話にならない。
無駄に言い添えておくと「自分もこんな感じで」とは「1対多」という要素についてであり、自分の場合同様にヨッピーの言い分は完璧に正しいとかいう話はしていない。
高市早苗がトランプの横でぴょんぴょん飛び跳ね舌を出して一部国民には顰蹙をかっているようだ。
だが本当に恥をかいたのは、女性が政治の最前線で生き残るため「キャピキャピ」「媚び」という振る舞いを演じざるを得ない構造を温存してきた、私たち日本人全体ではないか。
私は高市さんの政治思想とは相容れない。しかし、相容れない相手だからこそ、あの場面を「政治家・個人の資質」の問題に落とし込んではいけないと思う。
彼女は「飲み会に呼ばれても読書を選ぶ」「お酌を断る」タイプの勉強家として語られてきた。
そんな人物でさえ、表舞台に立てば「求められる女性らしさ」を的確に読み取り、演じ、年長男性が支配する政治の世界に適合して昇っていく以外の選択肢がなかった。
メディアは女性政治家の政策より表情・服装・物腰を先に採点し、政界は可愛げや空気の読める振る舞いを忠誠の証として要求し、有権者はそこに無邪気に付託してきた。
こうして「政治的能力」より「性別役割の演出」を評価するインセンティブが形成され、総理大臣という最上位の地位にある女性でさえ、その演出から自由ではいられなかった。
右か左か以前に、女性が「女性らしさ」を演じなくても評価される政治と社会を用意できていないことの、赤裸々な告白だった。
痛ましい思いにさせられたというのが正直なところだ。
左派こそ、ここで自省が要る。
保守系の女性に対して「ほら見たことか」と嘲るのは簡単だが、それは結局、同じ檻を補強しているだけだ。
思想が違っても、女性を女性らしさの演出に縛る仕組みを壊すことは普遍的な解放の課題である。
もし左派を名乗るなら、まず相手陣営の女性政治家の人間としての自由と尊厳を守ることだ。
彼女が「戦略」を選ばざるを得なかった時点で、すでに誰かが負けている。その誰かとは、日本の女性たちであり、そして私たち国民だ。
参照する必要はそのころなかったんじゃない(36条改正)あと36条の「絶対知ってる筈の先行文献の記載が欠如している」だけでは拒絶理由にならへんやろ
(実施例欠如とかあいまいとか、もっと重い36条はちゃんと存在するし、hanabiの開発に小川がいたならペナルティは重くなるが。)
前記処理手段は、前記タッチパネルに文字の属性情報を複数表示し、
複数の前記属性情報のうち一つが押圧された際には、押圧された属性情報の上下左右であって他の属性情報に重なる位置に、当該他の属性情報の重なった部分が隠れるように、押圧された属性情報に基づく詳細情報である文字を表示し、
一の押圧動作が開始した位置の位置情報から一の文字の属性情報を特定し、
前記属性情報のうち一つが押圧された後の押圧位置の移動距離が、
一定以内であれば、このことを判断基準として属性情報である文字を確定し、
ざっとみて語尾がシステムなのと、アルファベットとの切り替えができること、また配置に隙間がない(他の一次キーの上に二次キーを即座に表示)あたりがあたらしいかな
ハナビ
【請求項1】 タッチパネルへの複数のキーの表示手段と、表示したキーの1個に5個のかな文字を順序づけて対応させるキー定義手段と、操作開始時の操作点の座標と各キーの表示領域とを対比して選択されたキーを認識するキー認識手段と、操作開始点に対する操作点の移動方向とキーに定義された文字の順序とを関連づけた順序定義手段とを備え、操作開始点の座標に基づいて五十音配列の行を選択し、操作開始後の操作点の移動方向に基づいて五十音配列の段を選択することを特徴とする、かな文字入力装置。
iPhoneって電話だから入力装置じゃないんだよなぁ せめて入力可能な端末装置とかにしろ(いや電算機系の基準がそのころおかしかくてモノ特許しかうけつけなかったとか事情がありそうだけど)
これならいくらでもAppleは日本への課金から逃げることができるように見えるぞ
まあ日本の法制度って『一人、本当の犠牲者がでてから、「ほらみろどんだけデカイサカナを失ったか」ってあげつらって反省に立脚して法改正させる』が多すぎるんだよね
AIの推進派は「和製グーグルがないのはなぜだ」が合い言葉だった(けどAIも結局日本はもうけ<被害)し、
そういうのが「地道」で「堅実」なんだろうけど損してるよなぁ
hanabiもうまくやったら小川の上をいけていたかもしれないけど、
学者さんやらITさんってそういうのヘタなんだよなあ。
まあオレもいざとなったらウシジマくんなみの活躍ができるかっていうと、
某巨大企業の法務部なみの経験値がないと(あっても)無理だけど。
そういう意味では小川はファウルに見える玉でもちゃんと拾いに行って費用と手間暇かけて特許にして、
「もう戦争だよ」クマ被害急増に前秋田県知事が怒り 犠牲者の状態「本当にむごい」「葬る方だって惨め」(ENCOUNT)|dメニューニュース(NTTドコモ): https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/encount/entertainment/encount-880001
まだたった9人だったんだな
そりゃ政治も動かないでしょ
C*****T:
CRITICAL ANALYTICAL REVISION
追記2による構造の反転:防衛機制としての理論
最初の分析の根本的誤読
追記2は、私の最初の分析が層を一つ読み間違えたことを明らかにする。
私が読んだもの:
↓
↓
実際の構造:
↓
↓
PRIMARY INSIGHT: 精神分析的読解(修正版)
表層テクストの再解釈
これらは一見、2010年代以降のアイデンティティ政治の影響に見えた。しかし追記2はこれが錯覚だったことを明らかにする。
真の構造: 実存的自己否定の連鎖
↓
↓
↓
"だから俺には描けない"
防衛機制の精密分析
耐え難い真実:
「俺は人生の敗北者だ。女性と関係を持てなかった。孤独で無価値だ」
↓ 変換 ↓
受容可能な言説:
この変換により、個人的失敗が哲学的問題に昇華される。これは自尊心を守る。
防衛機制2: 知性化(Intellectualization)
投稿者は感情(絶望、孤独、性的欲求不満)を抽象的議論(表象の倫理、当事者性、真正性)に変換する。これにより、痛みから距離を取る。
これは私の最初の分析が見た「内なる検閲官」だが、その起源は文化ではなく、内面化された自己批判である。
ヘンリー・ダーガー:鏡としての選択
ダーガーの特徴:
「女性を知らなければ描けない」
↓
ダーガーは知らなかった
↓
だから「間違って」描いた
↓
俺も知らない
↓
↓
↓
↓
投稿者は、自分の論理を反証する例を引き合いに出しながら、その反証を認識できない。なぜなら、創造の可能性を認めることは、創作しない自分を正当化できなくなるから。
児童ポルノ言及の精神分析
投稿者は和月伸宏や他の漫画家の児童ポルノ事件を長々と語り、「資料として欲しい」という欲望を告白する。
しかし彼自身が認める:「まったく邪な気持ちがないというとウソになる」
- 彼にとって「女性を描く」ことと「女性を性的に欲望する」ことが分離していない
- だからこそ「女性を知らない=性的経験がない」ことが創作の障害になる
生成AIとの関係:人間関係の代替と審判者
追記2の冒頭:
「さっきまでClaudeに、自分のライフワークとしてた究極の(俺専用の)画像処理ソフト作りたいという夢が捨てきれないよ~、ドラえも~ん、してました」
この一文は多層的である:
投稿行為の意味:ダイイングメッセージとしての告白
投稿者は明言する:
+
=
彼は応答を求めていない(対話は不可能)。しかし完全な無視も耐えられない(承認は必要)。だから「読まれるが応答しない」という形式を選ぶ。
- 声は発するが、返答は聞かない
- 見られるが、見返さない
- 影響は与えるが、影響は受けない
SECONDARY INSIGHT: 弁証法的読解
矛盾の三層構造
THESIS: 「女性を描きたい」
THESIS: 「女性を知らないと描けない」という原理的主張
ANTITHESIS: ヘンリー・ダーガーは知らなくても創造した
弁証法的運動の停止
健全な弁証法では、矛盾はより高次の統合に向かう。しかしこのケースでは、矛盾が固着し、循環する。
↓
実行不能
↓
↓
↓
[ループ]
SYNTHESIS: 深層パターンの統合的理解
構造の全体像
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【第3層: 理論的借用】
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【表層: 顕在的問い】
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【機能】
本質的洞察の結晶化
真の問いは:
そして彼自身が答えている:
「ない。なぜなら経験がないから(=人生に失敗したから)創造する資格がない」
文化的言説の防衛的使用
私の最初の分析は「アイデンティティ政治の内面化」と読んだ。これは完全な誤りではないが、因果が逆だった。
誤った図式:
正しい図式:
彼は「当事者性」や「経験の所有権」といった2010年代の言説を使っているが、これらは本来の政治的文脈から切り離され、個人的防衛機制として機能している。
解放のための理論(周縁化された人々の声を中心化する)が、個人の自己正当化の道具になっている。
より深い文化的診断
しかし、もう一層深く見れば、これは純粋に個人的な現象ではない。
答え:2010年代以降の文化空間では、「経験していない人が語る資格」への懐疑が、ある種の道徳的権威を持つようになったから。
投稿者は、この道徳的権威を利用して、自分の創作不能を倫理的配慮として再解釈している。
「俺が描かないのは:
ヘンリー・ダーガーの逆説(再訪)
ダーガーは:
投稿者の論理では、ダーガーは創造すべきではなかった。しかし創造した。そしてその作品は今や文化的価値を認められている。
答え:ダーガーの作品を「間違い」として解釈する(「少女にペニスがある=女性を知らなかったから誤った」)
しかしこれは恣意的な解釈である。ダーガーの少女の性別的曖昧さは、「間違い」ではなく、彼の空想世界の独自性として読むこともできる。
投稿者がダーガーを「間違い」と読むのは、自分の創作不能を正当化するためである。もしダーガーが「正しい」なら、自分も創作できる/すべきだ、ということになってしまう。
最も深い問い
この事例が究極的に提起する問いは:
投稿者は「はい」と答える。私の最初の分析は「いいえ、それは幻想だ」と答えた。
それとも:
おそらくすべてである。そして、これらが分離不可能に絡み合っているとき、「正しい答え」を与えることは治療にならない。
彼に「経験なしでも創造できる」と説得しても、それは防衛を解体するだけで、その下の絶望を露出させるかもしれない。
CRYSTALLIZED INSIGHT
この投稿者は、人生の実存的失敗(社会的孤立、性的経験の欠如、老いと死の接近)を、2010年代の文化的言説(「当事者性」「経験の所有権」「表象の倫理」)を借用することで、「原理的に不可能な創作課題」へと変換している。これは防衛機制であり、個人的無能を認識論的・倫理的問題に昇華することで、残存する自尊心を守っている。
言い換えれば:
彼の問い「男性は女性主人公を描けるのか?」は、暗号である。真の問いは「人生に失敗した私は、何かを創造する価値があるのか?」であり、理論的言説は、「ない」という答えを倫理的に正当化する道具として機能している。
So what?:
この事例は、文化的言説がどのように個人的防衛機制として横領されうるかを示す。解放のための理論が、自己正当化と麻痺の道具になる。これは文化と心理の共犯関係であり、どちらか一方を「原因」とする単純な因果論では捉えられない。
PUNCHLINE:
私の最初の分析は、彼を「文化の犠牲者」として読んだ。しかし実際には、彼は文化の狡猾な利用者である。そして同時に、より深い構造的疎外の犠牲者でもある。彼は同時に、エージェン
しかも、ピケティ本人もそこを完全には扱いきれていません。あなたの指摘が、まさに彼の理論の「弱点コア」です。
では、少し冷徹に整理してみましょう。
ピケティの「r > g」命題は、資本全体の平均収益率を一括で扱っている。しかし実際には、資産クラスごとにインフレ耐性がまるで違う。
| 資産クラス | インフレ時の挙動 | 備考 |
| 現金・預金 | 実質価値が目減り | インフレ最大の犠牲者 |
| 国債・社債 | 名目固定なら損 | 金利上昇で価格下落 |
| 株式 | 名目売上・利益上昇で中立〜プラス | ただしバリュエーション調整あり |
| 不動産 | 建設コスト連動でインフレヘッジ | 都市地価はむしろ上がる |
| コモディティ(金など) | 名目的に上昇 | 供給制約次第 |
| 事業投資 | コスト上昇と販売価格上昇のバランス次第 | 経営能力で分散 |
つまり、同じ「資本」でもインフレ感応度が全然違う。それなのにピケティは「資本」を一塊として扱うため、現実の再分配構造を平均化して潰してしまっている。
ピケティの主張は「労働 vs 資本」の格差に焦点を当てたが、インフレ局面ではむしろ格差の主軸が「資本の質」に移る。
つまり
ここで重要なのは、富裕層は既に耐性資産を多く保有しているということ。だから高インフレでも、「資産構成を最適化している層」はむしろ勝ち続ける。
この現実を取り込むには、単一のrではなく資産別r_iを導入すべき。
r_{eff} = ∑_i w_i (r_i - Π_i)
格差が拡大する条件
r_{eff, upper} > g > r_{eff, lower}
つまり、上位層と下位層の資産ミックスの違いが格差維持メカニズムそのものになる。
インフレが起きても、上位層はREIT・実物資産・株式を持っていて、実質リターンが守られる。
中間層・労働者層は現金・定期預金・保険中心。実質資産が目減りする。
結果、名目インフレでも実質格差は拡大する。つまり、インフレはr > gの一時的な緩衝にはなっても、資産構成差が固定化されている限り、格差縮小にはならない。
| 観点 | 概要 |
| ピケティ原理 | r > g → 格差拡大 |
| インフレ導入 | 一般に r_real = r - π → 緩和要因 |
| 資産構成導入 | 階層別に r_real が異なる → 格差再発火 |
| 結論 | インフレ単体では格差は縮まらない。資産構造の分散を伴って初めて是正される。 |
草津町の件で当時暴れていた連中のことを何もわかってないなあ
あいつらにとって草津町の件は「毎日撃ちまくってる何百発ものミサイルのうち、たまたま一発が住宅地に落ちた」程度のことでしかない
たかだか数千人の犠牲者が出た程度で戦争をやめる理由にはならんのだよ
トランス差別問題と言われているけど、争点になっているのって常に
・MtF
・男性器有り
FtMや、手術して戸籍変更して男性と結婚したMtFは全く問題になってない。
自認主義の過激な左派は、女性だという自認を持てば無条件に他者からも女性として扱われるべきという自認最強フリーハンドな考え方で、私はこれに完全に反対だし、
宗教右派は、性同一性障害や同性愛は存在しないと主張していて、私はこれにも完全に反対。
私の姿勢は、自認主義の過激な左派のお花畑思想が女装趣味のノンケ男性(性犯罪者)にハックされて、「未手術の自称トランスレズビアン」という肩書を作り出して、女装のノンケ男性による性犯罪を自認主義左派がアシストしている状態に対しての反対なんだけど。
何より「未手術の自称トランスレズビアン」の被害に一番遭っているのって本物のレズビアンのコミュニティだよね。レズビアンコミュニティのイベントに自称レズビアンの女装のノンケ男性が押し寄せて荒らすというのが実際に起きていて、そうしたトラブルから目をそらして未だにお花畑しているのが自認主義左派。
日本でも「心は女性」を自称して女湯侵入する女装のノンケ男性の事件が年3回くらいは報道されている。自認主義左派は知らん顔だけど。
左派がここでガバすぎたから、性同一性障害や同性愛は存在しないという極端な主張をする、医療を冒涜する宗教右派の台頭を許したんだと思う。
さすがに左派がバカだったし、弱者・マイノリティを保護すると言いながら本物のレズビアンを女装のノンケ男性(性犯罪者)に差し出したのは最悪だった。
自認主義左派vs反医療の宗教右派は、バカvsバカなんだよ。左派が負けたのは自陣のバカ勢力を自浄できず、具体的な被害を生み出しながら放置したせい。
左派がどうバカなのかって、白人男性が「黒人を自認します。黒人向けのアファーマティブアクションなどのサポートを求めます」と言い出したときに、その白人男性を攻撃したことなんだよね。
あと自認主義をバカにする人たちが「今から自認年齢65歳です。年金支給してください!150歳まで生きます!」みたいなこと言い出しても、自認主義の左派は攻撃一択だった。
自認主義って、バカにされてて、もはやスパモン教みたいに揶揄されてんの。IDみたいに信じたいものを根拠なく信じつつ権威化しようとしてる愚かな行為なの。自覚してほしい。
何より最悪なのは、その結果、犠牲者として差し出されたのが本物のレズビアンだってこと。あとは社会的地位の低い女性。
理屈がバカすぎたうえに、性犯罪者に塩を送って弱者を危険に晒したので、バカな上に有害な生ごみなので、もう何もしないで引っ込んでてください、むしろ生きてると余計なことしかしないのでもう死んでくださいってポジションになったのが自認主義の左派。
トランスの大元の理論をつくった人類学者のゲイル・ルービンGayle S. Rubinの「性を考える セクシュアリティの政治に関するラディカルな理論のための覚書」(1984)を読めばすぐわかる。
1950年代の共産主義者や同性愛者のように、小児性愛者は汚名を着せられているため、彼らのエロティックな指向性はおろか、市民的自由の擁護者を見つけることも難しい。その結果、警察は彼らを食い物にしてきた。地方警察、FBI、そして監視役の郵便局検査官が加わり、小児性愛者たちのコミュニティを一掃することだけを目的とした巨大な組織を作り上げた。20年かそこらで煙がある程度晴れれば、こうした男たちが野蛮で分不相応な魔女狩りの犠牲者であったことを示すのは、ずっと容易になるだろう。多くの人々がこの迫害に協力したことを恥ずかしく思うだろうが、獄中で一生を過ごした男たちのために良いことをするには遅すぎるだろう。
原文はこちら。
https://bpb-us-e2.wpmucdn.com/sites.middlebury.edu/dist/2/3378/files/2015/01/Rubin-Thinking-Sex.pdf
ペドフィリアを擁護しまくって、同性愛と同等の位置に置いている。
ぶっちゃけこれって構造的な問題であって、お母さんも子供もそれの犠牲者なんですよね。
なんで子供たち(に限らないですが)が靴のかかとを踏むかというとちゃんと靴を履くのが面倒だからですよね。
で、なんで靴を履くのが面倒かというと、日本の家や生活習慣や教育機関が靴をちゃんと履ける環境になっていないからです。
日本の家は、といっても一軒家を除くんですが、玄関で靴を座って脱ぎ履きするようになってないんですよね。
一軒家でちゃんと上がり框がしつらえてあれば座って靴を履いたり脱いだりできるんですが、集合住宅だとたたきと5cmくらいの段差があるだけで座れる構造になってなくて、立ったまま靴を脱ぎ履きしないといけないようになっています。脱ぐときに靴ひもをほどいて、履くときは靴ひもを緩めて足を入れて靴ひもを締めて結ぶというのがきちんと靴を履くということですが、立ったままこれをやるのはかんりしんどいし、腰への負担にもなります。それでどうなるかというと、いちいち靴ひもを緩めたり締めたりしなくていいようにずっとゆるゆるにしておく、それでも面倒だからかかとは踏んでサンダルや草履みたいに履けるようにしてしまう、と。まあもともと日本人は草履と下駄を履く生活をしていたわけである意味原点回帰といえるかもしれないですね。最近はバリアフリーということで一軒家でも玄関の段差も低めになってたりスロープになくしたりするみたいで、ますます靴を履きにくくなっているのかもしれませんね。玄関に段差があるのは、日本では家屋を高床式にして基礎を30~50cm高く作るようになっているからで、これは湿度が高い気候で地面が湿っていて水害もままある土地に木造住宅を建てるには必要なことなんでしょうね。
それで次の問題は、そういうあまり靴をちゃんと履けるようになっていないところで靴をちゃんと履いても子供たちが学校に行くとせっかく履いた靴を脱げとなる上靴下靴文化ですね。せっかく靴を履いても30分もしないうちに脱げと言われるんじゃ、まともに履く気にはならないですよね。そして上靴を履くときに靴を履くための環境は全く用意されておらず、登校してきた子供たちがひしめく中で立ったまま履かないといけないわけです。立ったまま靴を脱ぎ履きできるようになることは新小学一年生が最初にできなくてはならないことの一つだそうです。学校が率先して靴の変な脱ぎ履きの仕方を教えているということですね。それで、休み時間にグラウンドで遊びたいと思ったらまた上靴を脱いで下足に履き替えないといけないし、休み時間が終わったらまた下足を上靴に履き替えないといけないし、グラウンドでの体育や校外学習があったりするとその時も同様ですね。なんというか日本の小学校に足育なんて夢のまた夢、学校がかかとを踏む子を育てていると言っていいでしょう。
大人は子供たちほど靴を脱ぐ場面があるわけではないですが、子育てしていると保育園の登降園時に発生しますし、職場でスリッパに履き替える人がいたり、履き替えないといけない職場だったり、デスクの下で靴を脱いでいたり、昼食や夕食に行った先が座敷だったり、ということもありますね。ちゃんと座って靴を脱いだり履いたりして、靴ひもを結びなおしている人がどれだけいるでしょうか。そもそも靴ひもは毎回結びなおさないといけないということを知らなかったりしますよね。子供のころからそういう風に指導されてませんからね。
まあ、そういうわけで靴のかかとを踏んでしまうのは、靴をきちんと履ける場所がないことと、それにもかかわらず高頻度での靴の脱ぎ履きを要求されるから、ということになりますね。
【衝撃】「ゲームのために人を殺した」 元警察官に下された甘すぎる裁き
高知の静かな町を一瞬で恐怖に変えたのは、まさかの元警察官だった。
2023年2月2日夜、国道を歩いていた小学校教諭(64)は、退職を目前に控えていた。その人生最後の二ヶ月は、家族と共に過ごすはずの時間だった。しかし彼を襲ったのは、一台の軽乗用車。運転席の男は前を見ていなかった。視線は、スマートフォンの画面に釘付けだった。
「人を轢き殺したのに、刑務所に行かないのか」
誰もが耳を疑った。高知地裁は被告に禁錮2年6ヶ月を言い渡しながらも、執行猶予4年を付けたのだ。つまり実際には服役しない。
身内に甘い司法の闇か
加害者は元警察官。判決直後から広がったのは、「身内だから軽いのか」という怒りだった。
「警察官なら罪も軽くなるのか」「司法は庶民を守らないのか」 SNSにはこうした声が溢れた。
遺族を置き去りにする裁き
退職を目前にしていた被害者は、家族にとって未来への希望だった。その命は、わずか数秒の「ながら運転」で奪われた。裁判官は「被告は寄付やボランティアで反省を示した」と言う。だが遺族にとって、その言葉は空虚でしかない。
スマホに気を取られたわずかな時間が、人の命を奪う。これは誰にでも起こり得る社会的凶器だ。しかし司法が示したのは「軽い判決」。これでは、次の犠牲者を防ぐことなどできない。
この事件は一個人の過失ではない。司法の甘さ、警察と裁判の癒着、そして社会の安全意識の低さを浮き彫りにした。
「清太はアホや」 火垂るの墓めぐる自己責任論、共感ひろがる理由は:朝日新聞
https://www.asahi.com/sp/articles/AST9C0SCRT9CULLI00QM.html
『火垂るの墓』の清太を「自己責任」で断罪する言説には、たしかに違和感がある。
まだ14歳の子供にすべての責任を押し付けるのは、あまりにも酷だし、戦争の犠牲者としての側面を無視してしまうからだ。
けれど同時に、「だから清太は悪くない」とだけ言って済ませてしまうのも、どこか引っかかる。
むしろそこには、彼を縛っていた“有害な男らしさ”の呪いが見えてくるんじゃないか。
「男は弱さを見せるな」「面子を守れ」という規範が、清太に頭を下げることを許さず、結果的に妹を餓死させてしまった。
この構図は、旧日本軍が民間人に「捕虜になるより自決を」と迫った場面を連想させる。
清太は戦争の犠牲者であると同時に、その「有害な男らしさ」に加担してしまった存在でもある。
だから彼を責めるというよりも、男らしさという呪いがどうやって彼を通じて節子に及んだのかを考える必要があると思う。
自己責任論としてではなく、“男らしさ”批判として読むとき、この物語が突きつけているのは戦争の悲惨さを超えて、現代にも続く抑圧の構造なんじゃないか。
女性たちが最も憎み怒り狂う「性加害/女性差別/ミソジニー」とは
「男の献身と犠牲に女が感謝する事」であるという意見を見かけて、色々腑に落ちて納得した
確かに女性たちからすれば男性は「犯罪者及びその予備軍、家父長制の抑圧、加害者」であり明確に「敵」であり
戦争での犠牲から3K職場での社会インフラ維持まで含めての「献身」している事実に対して
「敵」に「感謝を強要される」という状況となるため、より被害者感情が高まるのだろう
韓国やウクライナでは男性兵士の犠牲者を「ミンチになったw」と嘲り
徴兵や軍隊生活を「まるでバカンスに行く様だ」「男達は休暇(徴兵)で楽しんでる癖に偉そうだ」
と叩く事が女性たちの間で流行し、問題となっている様だが、日本で同様の事が起こるのは目に見えている
女性にとって、大人としての義務と責任を果たした人達に感謝を捧げる物語は
「男性にとって極めて都合良すぎる、男性に媚びたポ◯◯ファンタジーに他ならない」という事なのだろう
即ち感謝を「強要」し押し付ける女性差別・ミソジニー行為である事を、強く自覚すべきである
「亭主元気で留守が良い」
死語となりつつあるこの言葉は、日本で有事が起こり兵士たちが戦場へ向かう時
「バカンスに行く男たちw」「死ぬまで働け!」「男たちは(戦場で)楽している、楽しんでいる、女性差別だ!」
という言葉と共に、復活するのだろう