はてなキーワード: 書籍とは
頭おかしいのか。便せんで書いたところでAIとパソコン使ってる実務家には勝てないから棄却されるから金が欲しいじゃなくてそうするしかないからだろ
裁判勝つつもりのほとんどの弁護士はAIと事務所の書籍とパソコンを駆使して短文で弁論を用意している。書籍もパソコンもなく便せんしかないやつが
「なぜ働くと本が読めなくなるのか」2024年最も話題となった書籍の一つ。友人と話していると、同書は非常に危険な本だと話になる。新書だからテキトーに読んでいる気付かないのだが、マトモに読むと「半身で働く」という主張に至る過程に論理の飛躍があるからだ。
加えて、三宅の書籍にモヤモヤするのは、彼女の著作の問題というより、出版業界全体が抱える“退行の空気”が透けて見える。本来、批評とは対象を切り離し、構造を浮かび上がらせる作業のはず。「斜陽産業」の出版業界は、読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げ、「本にしなくてもいい内容」を巧みな営業戦略で売りまくる世界になってしまった。
論理や構造より、“共感”や“エモさ”。そうした市場環境の中で、『なぜ働くと本が読めなくなるのか』のようなお気持ちエッセイが主流になるのは必然だ。
問題は、その本が社会構造の分析をしているように見せかけながら、突然「本が読めないのは社会が悪い」という感情論にジャンプする点だ。書籍の大部分を占める読書と社会人の近代史パート(9章くらいまで?)
はどう読んでも「半身で働く」の根拠になり得ない。提言だとしても、提言をするだけの根拠が前文には書いていない。。こうなると、構造を論じているようでいて、じつは個人の感情の物語に回収されているだけで、「社会がない」と批判されるタイプの語りに近い。
さらに「半身で働く」という提案は、階級的な前提をあまりに無視している。映画「花束みたいな恋をした」を引用して田舎出身の労働者・麦くんが本を読めなくなっていく過程を記述しているが、はっきり言って世の中の麦くん化している社会人に失礼だ。
現実に半身で働けるのは、富裕層家庭出身者、ホワイト企業勤務者、配偶者の扶養に入れる人(その多くは事実上女性だ)など、ごく一部に限られる。つまり映画「花恋」でいうところのヒロイン絹ちゃんだけだ(親が大企業、都会に実家、定職につかなくても生きていける、好きなことだけして生きていきたい)。
一般的な労働者が週5日・フルタイムの構造から抜けるのはほぼ不可能で、そんな生き方が“みんなが選べる選択肢”かのように語られると、不公平と言わざる得ない。
その社会構造自体がおかしいと主張したいのであれば、大部分の都市サービスを享受すべきではない。インフラを維持する人々の労働あってこそ、「半身で働く」ことは可能になるからだ。
そうした現実に目を向けず、都市部の特権だけが享受可能な理想論を大衆に説く。ここにはグロテスクとしか言いようのない欠陥構造がある。
また、三宅が語る「批評の文体をひらく」も、実際には論理の緩和=読者への迎合になってしまっている。例えば、同じ言葉を生業にするジャーナリズムでは誤りは許されない。5W1Hや誰が何を言ったかを間違えて報道すれば即座に批判が殺到する。(近年のオールドメディアに対するヘイトはその裏返し。合っていて当然のものが一部フェイク化したから批判されている。そもそもフェイクや根拠不十分なら叩かれないで済む)
批評は「論証できないけど感覚で書く」が成立する世界でいいのか。かつてのジャーナリズムや批判が担っていたのは理路整然の文章を大衆に届けることではないのか。論理の飛躍があっても共感(=いいねが取れる)できるなら読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げてもいい。売れるなら「本にしなくてもいい内容」を本にしていい。これが国民の知る権利を盾に商売をする出版業界で許されていいのか。
これは批評の民主化ではなく、文化が“推し活”に吸収されていくプロセスだ。文化人が読者の機嫌を損ねない戦略を取ると、批評はどんどんお気持ち表明コンテンツへ変質していく。自分の好き・推しを言語化するツールに批評が成り下がると、推しを肯定する言説しか生まれなくなる。批評とは本来対象をそれ以外のものから切り離し、特異であることを浮かび上がらせる作業のはずだ。その点において共感を求めるスポーツや音楽ライブの一体感とは真逆にある。消費者の感情におもねる批評でいいのだろうか。
出版とは、知を鍛える公共財だ。だからこそ独占的な販売方法が許容されている業界だ。しかし今は、情緒と共感を売りにして市場縮小を乗り切ろうとしている。「共に賢くなる」ための活字文化が、「共感」のツールに成り下がっている。
批評が論理を疎かにし、読者の気持ちに寄りかかり、階級の現実が曖昧になる。事実上「半身で働く」ことができない人々に対して、「半身で働く」特権階級のよさを説くというのは、パンがなければケーキを食べればいいと言っているのと同じだ。
「なぜ働くと本が読めなくなるのか」2024年最も話題となった書籍の一つ。友人と話していると、同書は非常に危険な本だと話になる。新書だからテキトーに読んでいる気付かないのだが、マトモに読むと「半身で働く」という主張に至る過程に論理の飛躍があるからだ。
加えて、三宅の書籍にモヤモヤするのは、彼女の著作の問題というより、出版業界全体が抱える“退行の空気”が透けて見える。本来、批評とは対象を切り離し、構造を浮かび上がらせる作業のはず。「斜陽産業」の出版業界は、読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げ、「本にしなくてもいい内容」を巧みな営業戦略で売りまくる世界になってしまった。
論理や構造より、“共感”や“エモさ”。そうした市場環境の中で、『なぜ働くと本が読めなくなるのか』のようなお気持ちエッセイが主流になるのは必然だ。
問題は、その本が社会構造の分析をしているように見せかけながら、突然「本が読めないのは社会が悪い」という感情論にジャンプする点だ。書籍の大部分を占める読書と社会人の近代史パート(9章くらいまで?)
はどう読んでも「半身で働く」の根拠になり得ない。提言だとしても、提言をするだけの根拠が前文には書いていない。。こうなると、構造を論じているようでいて、じつは個人の感情の物語に回収されているだけで、「社会がない」と批判されるタイプの語りに近い。
さらに「半身で働く」という提案は、階級的な前提をあまりに無視している。映画「花束みたいな恋をした」を引用して田舎出身の労働者・麦くんが本を読めなくなっていく過程を記述しているが、はっきり言って世の中の麦くん化している社会人に失礼だ。
現実に半身で働けるのは、富裕層家庭出身者、ホワイト企業勤務者、配偶者の扶養に入れる人(その多くは事実上女性だ)など、ごく一部に限られる。つまり映画「花恋」でいうところのヒロイン絹ちゃんだけだ(親が大企業、都会に実家、定職につかなくても生きていける、好きなことだけして生きていきたい)。
一般的な労働者が週5日・フルタイムの構造から抜けるのはほぼ不可能で、そんな生き方が“みんなが選べる選択肢”かのように語られると、不公平と言わざる得ない。
その社会構造自体がおかしいと主張したいのであれば、大部分の都市サービスを享受すべきではない。インフラを維持する人々の労働あってこそ、「半身で働く」ことは可能になるからだ。
そうした現実に目を向けず、都市部の特権だけが享受可能な理想論を大衆に説く。ここにはグロテスクとしか言いようのない欠陥構造がある。
また、三宅が語る「批評の文体をひらく」も、実際には論理の緩和=読者への迎合になってしまっている。例えば、同じ言葉を生業にするジャーナリズムでは誤りは許されない。5W1Hや誰が何を言ったかを間違えて報道すれば即座に批判が殺到する。(近年のオールドメディアに対するヘイトはその裏返し。合っていて当然のものが一部フェイク化したから批判されている。そもそもフェイクや根拠不十分なら叩かれないで済む)
批評は「論証できないけど感覚で書く」が成立する世界でいいのか。かつてのジャーナリズムや批判が担っていたのは理路整然の文章を大衆に届けることではないのか。論理の飛躍があっても共感(=いいねが取れる)できるなら読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げてもいい。売れるなら「本にしなくてもいい内容」を本にしていい。これが国民の知る権利を盾に商売をする出版業界で許されていいのか。
これは批評の民主化ではなく、文化が“推し活”に吸収されていくプロセスだ。文化人が読者の機嫌を損ねない戦略を取ると、批評はどんどんお気持ち表明コンテンツへ変質していく。自分の好き・推しを言語化するツールに批評が成り下がると、推しを肯定する言説しか生まれなくなる。批評とは本来対象をそれ以外のものから切り離し、特異であることを浮かび上がらせる作業のはずだ。その点において共感を求めるスポーツや音楽ライブの一体感とは真逆にある。消費者の感情におもねる批評でいいのだろうか。
出版とは、知を鍛える公共財だ。だからこそ独占的な販売方法が許容されている業界だ。しかし今は、情緒と共感を売りにして市場縮小を乗り切ろうとしている。「共に賢くなる」ための活字文化が、「共感」のツールに成り下がっている。
批評が論理を疎かにし、読者の気持ちに寄りかかり、階級の現実が曖昧になる。事実上「半身で働く」ことができない人々に対して、「半身で働く」特権階級のよさを説くというのは、パンがなければケーキを食べればいいと言っているのと同じだ。
日本の電子書籍は高くないか?コストがかからない分安くなるべきではないか?海外でも同じなのか?と思っていたが、海外でもまぁ同じ状況のようだ。
ヨーロッパ、特にドイツやフランスでは、電子書籍の価格を紙の本と同じく定価に保つことが、法で定められている。
70〜90年代にかけて、欧米では大型書店や量販店が力を持ち始めて、「ベストセラーを35%引き!」みたいな価格競争が起きた。そうすると当然、小さな本屋がつぶれまくる。フランスでは「書店が消えたら文化も死ぬ」と作家や知識人が猛反発して、1981年に「ラン法」という「本は全部定価で売りましょう」という法ができた。ここで、書店を守る=文化を守る、という価値観が確立した。
背景には「本は文化財」という考え方がある。値引き競争を放置すると、売れる本しか出なくなるし、哲学書・詩集・専門書みたいな、儲からないけど大事な本が消える。だから「市場原理だけに任せると文化的多様性が崩れる」という危機感が強い。さらにフランスやドイツは地域の本屋がコミュニティの核で、日本みたいにコンビニやAmazonだけでどうにかなる構造じゃない。だから「書店網の維持」が政策目標になってる。
制度の目的はシンプルで、「書店の多様性を守る」「出版社の多様性を守る」「全国どこでも新刊が買える」「本を文化商品として扱う」の4つ。EUでも広く共有されている価値観らしい。
ではなぜ、電子書籍にも定価縛りがかかったのか?
理由はほぼ「Amazon対策」。Kindleが普及し始めたとき、Amazonが値引き攻勢をかければ、電子書籍市場を独占 → 出版社も書店も逆らえない → Amazonが値上げする、という未来が現実味を帯びていた。これを防ぐため、フランス(2011)、ドイツ(2016)で「電子書籍も紙と同じく定価販売」を適用した。
しかも、電子書籍が激安になると出版社の収益が崩れて、学術書や専門書が維持できなくなる。紙が売れないと出版文化全体が弱るから、それを避ける狙いもある。電子書籍市場でも独立書店や出版社が参入できるように、価格でAmazon一強になるのを防ぐという意味も大きい。文化省は「電子書籍は紙と同じ書籍」だと定義していて、だから法律の対象になる。
対して日本は、電子書籍に法的な再販制度はない。紙は再販制度があるけど、電子は出版社の自主判断。理由としては「流通が取次中心で、法律で守る必要が薄い」「Amazonの台頭が遅かった」「書店文化保護の政治的圧力が弱い」「出版社が自主的に紙とほぼ同じ価格にしていた」など。
Kindleのようなプラットフォーマーが大きめに手数料を取ることで、印刷や流通、保管のコストと同等のコストが常に生じるし、プラットフォームによる値下げ圧力・安売り競争の促進があると、電子書籍ユーザーにとっては一時的に良くても、長期的に著者や出版社の利益が脅かされて、本というものの文化がやべーよっていうことかね。
Ponta会員各位
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平素より「Pontaマンガ」をご利用いただき、誠にありがとうございます。
このたび「Pontaマンガ」は、2026年1月31日(土)をもちましてサービスを終了し、
株式会社and factoryが運営する電子書籍サービス「ソク読み」へ統合する運びとなりました。
これに伴い、これまでにご購入いただいた電子書籍(※一部を除く)は、所定の手続きを行っていただくことで、「ソク読み」へ移行することが可能です。
オスケモに関しては、女性向けだとBL・NL共に書籍で色々出てて、特にNLだと「キミと越えて恋になる」はアニメ化まで成し遂げた
ゲイ向けに関しては、「東京放課後サモナーズ」をはじめとして、それなりに安定してそうなソシャゲがいくつかある(人間キャラも居るけど)
じゃあメスケモはって言われると、男性向け、レズ向け共に思いつかない
(性別不詳だけど)メイドインアビスのナナチとか、局所的に話題になるキャラはいるが、メスケモを全面的に押し出した作品は思いつかない
pixivのヒット数だと、「オスケモ or ケモホモ」よりも「メスケモ」の方が多いのに、なぜ商業的には上手く行かないのだろうか
「ダサい中年男性」がだいたい身に着けている“失敗ファッション”ワースト3(週刊SPA!) - Yahoo!ニュース
この記事には「じゃあどうすればいいのか?」が書いていないので、服にそんなに興味は無いがダサいのは避けたいアラフォー男性が、ららぽーとで所要時間1-2時間ほどでそれなりを目指すために実践した方法を書いてみます。
まず、服を買いに行く服がないなら、ユニクロで何年も売られている定番の無難な商品を揃えるのが安心です。具体的には、シンプルな白や黒のクルーネックTシャツ、無地のシャツ、スリムフィットのチノパンなどです。これだけでも清潔感があり、どんな場面でも外れにくいスタイルになります。
次はGLOBAL WORKがおすすめです。サイズもXLまで揃っていて、ユニクロに少し足した値段で書いやすいですし、店舗も広く落ち着きます。ここて少しだけアクセントになるアイテム(落ち着いた色味のニットやジャケットなど)を足すと、ベースは無難でも少しおしゃれに見せられます。
実はこの2ブランドだけで、手軽に「それなり」の日常服が整います。自分も7割の服はここで揃えていますが、もう少しお金を出してみようと思ったら、ちょっと価格帯が上がるお店にも行ってみましょう。ららぽーとに入っているようなセレクトショップだと下記が挙げられます。
落ち着いた色味が多く、大人っぽいカジュアルを作りやすいです。ユニクロで揃えたベーシックな服に、ワンポイントだけ足したい人に向いています。
ベーシック寄りだが、ユニクロより少しルーズで空気感のあるシルエットが多いブランドです。シンプルな服でも、着た時の雰囲気が変わります。
カジュアル寄りの遊びをいれつつも、大人が着ても違和感のない範囲にまとめてくれるブランド。少し攻めたい時に良い選択肢です。
ただ、ここにあげたセレクトショップは正直入りにくいと思います。こんな時におすすめなのは、店頭の前をゆっくり歩きながらマネキンを見て着たい服かどうかを確認し、好みに合っていたら入るようにすると、少しの興味をもって店内に入れると思います。
また、ユニクロの2倍では済まない価格帯なので値段にも躊躇すると思います。ショップごとの相場を知るには、どの店でも売っているようなシャツなどのサイズを確認するフリをして値段を見ると良いでしょう。同じ系統の商品を異なるショップで確認することで、相場感が得られます。
ちなみに自分は上記のお店で買うことはほとんどありません。じゃぁどうしているのかというと、下記のようなサブブランドのお店に行きます。
UNITED ARROWS 本体より1段階下の価格帯で、きれいめカジュアルの完成度が高いです。仕事にも私服にも使える無難なアイテムが多く、「こなれ感がほしいけど予算は抑えたい」という人に最も向いています。
落ち着いた色合いと標準的なシルエットで、UR本体より“普通の生活で使いやすい”方向に振られています。素材感がよく、値段の割に満足度が高いライン。
BEAMSより控えめで、クセを減らしたベーシック寄りのデザイン。仕事でも子育てシーンでも扱いやすく、ファミリー層からの支持が強いサブブランドです。
この辺だとユニクロの2倍までで大体収まりますし、セレクトショップよりは手に入る安く無難なデザインが多めです。お店も1Fなどの人の多いフロアにある傾向なので、入りやすいと思います。
つらつらと書きましたが、まとめるとこんな感じです。
あとは、3-5年で服は買い替えてヨレヨレの服は着ないようにして、奇抜なデザインや色を選ばないようにすれば、それなりではいられるんじゃいないかなと思います。
こういった情報を書いてくれる雑誌や書籍があればよいのですが、中々無いので自分で書きました。もしおすすめがあればぜひコメントから教えてください。
https://x.com/iototaku/status/1982452974652973064
こんなん見たので書いてみる
あとポリタスって初めて聞いた
今のスペック
・28歲
・男
・地方民
・その辺のIT系
・キモオタのオタ抜き
・爺さんから兵士として戦争に行った話を聞いた。爺さんの所へ遊びに行くとたまに戦時の話をしてくれて、二度と戦争だけはしてはいけないとよく聞いた。ちなみに爺さんの孫の中で自分が最年少(爺さんと自分は72歳差)でめちゃくちゃ可愛がってもらえた。
・小学校6年の時深刻ないじめにあって対人恐怖症になる。本気でいじめをなくす方法を考え、人に優しくするしかないと思うようになる。
・小学校(中学だったかも)で権威主義的なめちゃくちゃ怒鳴る教師がいて、強い立場の人に権力を持たせるのは良くないと思うようになる。もしかしたらこいつのせいで病んだかもしれん。
・知的好奇心がかなりあり、いろんな学問に興味がありよく図書館に行ったりしていた。受験勉強みたいなのは興味がなくてほとんどやらなかったが、知的好奇心だけで大学受験を乗り切る。
・大学(地方国立理系)でいじめの記憶が尾を引いていたのか精神疾患になる。なんとか卒業。しばらく療養 (訳あって就職留年はしていない)
・既卒で拾ってもらってITエンジニアになる。ワープアじゃないくらいの給料は貰っている
・世間にあまり興味がなくて、年収を上げたいとか学歴を上げたい見たいな思想がほぼない。
・書籍みたいな媒体がすきで動画はあまり見ない。漫画はよく読むけどYouTubeはほとんど見ない。
・社会問題に関してはどうすればみんな幸せになれるんだろうって考える
・自分の知的好奇心を満たすための自由な時間こそが一番大切だと思っている。時間拘束が嫌いなのでできれば働きたくないが飯を食うために仕方なく働いている。
ダイヤモンドの↓の記事が盛りすぎでブクマカが釣られまくっているので、ちょっと落ち着けという意味で少し解説する
普通の人が「フリック入力を発明」というフレーズを見たら、どっちを想像する?
1. 上下左右方向のフリック操作で文字入力する手法を考案した
普通は1を想像するよね。でも、上の記事の「発明」は2の意味。8割くらいのブクマカはここを勘違いしてコメントしてるように見える
同じ発明家氏の記事でも3ヶ月前の東洋経済のほうは、「フリック入力を発明」という釣りフレーズこそ使っているものの本文を良く読めば発明のキモの部分が2であり1では特許を取れなかったことがそれなりに分かるように書いてある
「フリック入力」を発明しMicrosoftに売却した彼の"逆転"人生。元・売れないミュージシャン兼フリーター、家賃3万のボロアパートでひらめく
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/toyokeizai.net/articles/-/889631
もちろん2の意味の発明もスゴイし重要なんだけど、釣りは良くないよね
そもそも世の中のほとんどの技術は様々な発明やアイデアの集合体である。歴史の積み重ねであり、最終形がいきなり湧いて出るわけではない。もちろん「フリック入力」にも歴史の積み重ねがある。それを少し紐解いてみよう(なお、下記の「年」は引用可能な特許や論文が出た時期であり、実際にはそれよりもっと前にソフトウェアがリリースされていたりアイデアがメーリングリストに投稿されていたりすることもある)
[追記]※増田の仕様上ひとつの記事に貼れるリンク数に制限があるため一部URLのhを抜いている点、不便ですがご了承ください[/追記]
ttps://dl.acm.org/doi/10.1145/57167.57182 (論文)
放射状に選択肢を並べるUIのアイデアは1960年代から見られるが、接地点からの移動方向情報を用いた入力手法の祖としてはとりあえずこれを挙げることができるだろう。これは文字入力に特化したものではなく、一般的なメニュー選択のための手法である
ttps://dl.acm.org/doi/10.1145/191666.191761 (論文)
pie menuを文字入力に応用したもの。論文の著者はAppleの人。英語用。広義の『「フリック入力」の元祖』に最も該当するのは、おそらくこれだろう
ttps://rvm.jp/ptt/arc/227/227.html
ttp://www.pitecan.com/presentations/KtaiSympo2004/page65.html
T-cubeを日本語に応用したもの。広義の『日本語版「フリック入力」の元祖』の候補
https://web.archive.org/web/20080925035238/http://www.j-tokkyo.com/2000/G06F/JP2000-112636.shtml (特許)
https://newtonjapan.com/hanabi/
Apple Newton (PDA)用に実装された文字入力UI。「中央が『あ』、上下左右方向が『いうえお』」に対応する見慣れた形のフリック入力がここで登場する。『現在よく見る形の日本語版「フリック入力」の元祖』である。なお、開発者が特許を申請したものの審査を請求しておらず、特許としては成立していない
この頃、Human-Computer Interaction分野でT-cubeやHanabiの発展としての文字入力手法の研究が活発になり、特に国内学会で多くの手法が発表された。情報系の学生の卒論や修論のテーマとして手頃だったからだろう。PDA製品に実装されて広まった例もあり、SHARP Zaurus用のHandSKKや、少し時代が下ってATOKのフラワータッチ等もこの系譜である
なお、この頃までの技術は指での入力ではなくペン(スタイラス)による入力を想定したものが主である(iPhoneの登場以前はキーボードレスのモバイル端末といえばPDAやタブレットPCなどスタイラス入力を前提としたデバイスが主流だった)
『スマートフォン上の「フリック入力」の元祖』であり『予測変換機能を備えた「フリック入力」の元祖』である。日本語フリック入力の効率を考える上で予測変換の占めるウェイトは大きく、「実用的なフリック入力」を実現するには予測変換との組み合わせは外せない。2006年にAppleに招聘されてiPhoneのフリック入力機能を開発した増井俊之氏は元々予測変換のPOBox(1998年 - ttps://dl.acm.org/doi/10.1145/274644.274690 )の開発者として知られる研究者であり、Appleへの招聘もその経験を買われてのものだろう。入力にフリック操作を用いること自体は特筆すべきものではなく、当時の流行を考えれば自然な選択だったと思われる
なお、前述のHanabiの開発者氏がiPhoneのフリック入力を見て
と言っている一方、増井氏はHanabiに対して
知らんがな
と言っている。この分野の研究をしていて知らんことあるか?とも思うが、電話用テンキーの上に五十音かなのフリック入力を実装すると誰が作っても概ねHanabiのような外観になると思われるので、本当に知らなかったとしても齟齬はない
ttps://www.j-platpat.inpit.go.jp/c1801/PU/JP-2008-282380/11/ja (特許)
『画面表示は絶対座標+移動判定は相対座標で行うことで「フリック入力」の入力効率を向上させる手法の特許』である(詳しい仕組みは上記の東洋経済の記事に書いてある)。ペン先と比べて指先は太いため指によるタッチでは厳密な操作が難しく(fat finger問題)、「実用的なフリック入力」を実現するにはこのような工夫も必須になる。小川氏の凄いところは、スマホの日本語UIをリリースするならどのメーカーも必ず実装するであろうこの工夫を、日本版iPhoneのリリース直前、Apple社としては引き返せないであろうタイミングで特許申請したところだ。機を見るに敏すぎる。特許庁に2回も拒絶された特許を不服審判で認めさせているところも本人が弁理士だからこそできる強さだと思われる
なお、氏の記事を読むと「フリック入力」自体を氏が考案したように思えてしまうが、ここまでに述べた通りそれは誤りである。「フリック入力に関連する重要な特許の公報に『発明者』として掲載されている」ことは疑いない事実なので「フリック入力の発明者」と称するのはギリギリ誤りではないと言えないこともないが、「フリック入力を発明した」はやはりダメだろう。上述の通りフリック入力自体は90年代に既に登場しており00年代の前半にはタッチスクリーン上のかな入力手法の一角を占めるに至っていたので、iPhoneに実装されたことは不思議でもなんでもなく、
このあたりは荒唐無稽な邪推すぎて、ソフトバンクから名誉棄損で訴えられたら危ないのでは(そもそもiPhoneのフリック入力を開発したのはAppleであってソフトバンクではない)
まとめると、さすがに小川氏の記事はモリモリに盛りすぎである。書籍の宣伝にしても酷すぎる。価値の高い特許を取った発明家であることは事実なのに、なぜこういう胡散臭いムーブをしてしまうのか
1998年にApple Newton用に開発された日本語入力システム「Hanabi」が草分けで、2008年にiPhoneに採用されたことで、急速に広まった。従来の「あ段→い段→う段→え段→お段」とキーのプッシュを繰り返して表示・入力する方式(トグル入力)に比べ、素早い入力が可能になる。その入力効率の高さから、2010年頃にはキーボード離れが加速している[1]。
1998年にApple Newton用に開発された日本語入力システム「Hanabi」[2]が草分けで、2008年にiPhoneに採用されたことで、急速に広まった。日本におけるフリック入力は、発明家でシンガーソングライターの小川コータがiPhone上陸以前に考案し2007年から2015年にかけて特許出願した[3]ものであり、取得した権利はマイクロソフトに譲渡された[4]。
ただ、これはおそらく関係者の自作自演等というわけではなく、日本におけるフリック入力関連特許が小川氏のものばかりであることからボランティア編集者が勘違いしてこのような記述にしてしまったのではないか。フリック入力は前述のように地道な技術の差分の積み重ねなので、個々の差分の開発者が「特許」を取ろうという気にならないのは良く分かる。その点でも、自ら弁理士として特許を量産した小川氏の強さが際立っている(が、やはり盛りすぎは良くないと思う)
漫画読めるサイトでもよくあるビューワーより、漫画の1話~最終話まで(※単行本単位にも切り替えられるようにする。表紙とかそういうのは該当話の後につけて、おまけは独立)、右側か左側の話数一覧から、PCなら話の表紙とかのプレビューをマウスカーソルで表示させて、なんならページ数のジャンプもボタン置いておいて全部1キーで出来るとか、それくらいのを、画像縦並びとかにして、こういう感じのを一元管理すれば絶対殺到すると思ってる
1話から最終話まで読みやすい形で、例えばあの話は何話だったか~みたいなのを、いちいち単行本とかごとに切り替えて表示したり、画面から漫画が表示されてるエリアを見失ってまで話数探したりするっていう検索性の悪さだと、単行本をひっくり返して話探してるのと一緒なんだよね
提供して欲しいのは「見たい話を簡単に読みやすく読める」、例えばアニメでああいう話あったけどあれは何話かなとなったときに探す手間を少しでも省けるようにしてあると、絶対読みやすくなるというか
そういう形で一気に読めるようにするっていうのは、単行本だとあり得ない検索性の良さっていうア上位体験、アドバンテージになるんだと思ってる
もう一つ言うと絶版漫画とかみたいに、物理書籍でもう手に入らない漫画をサブスクで読めるようになるかとか、キャラクターブックとかそういうファンは読めるけど電子書籍とかであんまり読めなさそうな話だとか、まとめて読めるかどうかっていうのが大きいと思うわ
Delphiなら開発環境に付属するヘルプがとても充実しているはずだ。
Object Pascalそのものは、これまでのご経験があれば習得に大きな問題はないと思う。
どちらかというとDelphiはVCLというライブラリを使いこなしてこそなのだが、これの説明はヘルプがかなり役に立つ。
実は俺も20年以上前にDelphiの兄弟分であるBorland C++ Builder(BCB)というのを仕事で使っていた。
これもVCLが肝だったのだが、ちょっと慣れたら参考書なんて不要でヘルプでだいたい片が付くようになった。
膨大な内容だが、一度全体を目を通してみるのが良いだろう。
DelphiやBCBのユーザたちはメーリングリストで情報をシェアしあっており、悩み事があればその過去ログがよく検索でヒットして重宝したんだけど今は厳しいね。
メールアドレスが載っているので、自分だったらダメもとで連絡してみる。
こちらに関しては、会社に公式ドキュメントが残っているんじゃないだろうか。
20年前の、紙の資料がそれこそ山のようにあってもおかしくない。
ベテラン先輩に「会社の中にあるUNIFACEの公式ドキュメント全部のありかを教えてください」と言うのだ。
結構ちゃんとしている中小JTCなら、廃棄してないんじゃないかな。
これも出てきた文書すべてにざっと目を通せばとっつきやすさの順番がなんとなくわかるので、その順番どおりにじっくり読んでみるのをお勧めする。
望みはない気はするが、サポート契約してないかも念のため確認してみるといい。
サポート窓口が使えたら随分違うはずだ。
近頃のWeb記事や書籍はよく噛み砕いて初心者にも解りやすく書かれているから、元増田はそういう情報源じゃないと嫌なのかなと感じた。
確かに公式ドキュメントにそうしたフレンドリーさは期待できない。
特に慣れていない分野だったら最初の内は本当に訳わかんなくて読むのが辛いけど、理解できないうちは頑張って三度目を通そう。
眺めているうちに慣れていく。
絶対に助けになるはずだ。
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「My Job Went To India」の改題改訂版が「情熱プログラマー」なんだ!ありがとう発注したわ。(たぶん達人プログラマーと混同して読んだ気になって読んでないパターンだわ)
俺の悪文のせいで意図が伝わらなかったであろうブコメがあったので、要旨だけ書き直しておくな。
ただ忘れないで欲しいんだけど、TerraformメンテしてAWSとかGCPで立ち上げてサービス公開するまでの速度は、相見積取って稟議通して部材調達から入ってた時代に比べると爆速だけど、人間の技術屋の需要は増えてる。
俺は、「マスタリングTCP/IP 入門編」を人間が読んで理解するのは古いよね、という時代にはならないと思ってる。
Slerが自前で手元で試すようになるから~ってのも懐疑的。SIerやメーカーが内製すると必ず子会社作って分離、ぼく発注者きみ受注者にしたがるので。これは技術じゃなくて感情とか経営の問題。
(ただし、Slerが7payみたいなことやらかすのでは?って疑問なら同意。たぶんそういう生成AIで俺たちでプロダクトなんか簡単に作れるじゃんよギークいらね(仕様バグあり)は一時は増えるだろうね)
追記ここまで
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VibeCodingでIT技術者は不要になるのか?という話題が花盛りなのは理由があります。
ギーク(現場でコードを書いていたい人)が分かる話から、スーツ(人を集めたりお金を集めたり営業をする)が分かる話になってきたからです。
具体的に言うと、OpenAI社をはじめ続々とTDD(テスト駆動開発)でやってますみたいな、具体的な開発スタイルの話が出てきたから。
そうすると、現場の座組チョットワカルという強めの経営者が理解して判断し始めるんですね。
でもね、その道はもう15年も昔に我々は通り過ぎました。前回のブームと何が違うでしょうか?
技術者なら電子も機械も強電も弱電もお世話になったことのあるオーム社が過去に出していた直球の本の話から。
「My job went to India : オフショア時代のソフトウェア開発者サバイバルガイド」という書籍、何と発行年は2006年です。
かいつまんで話すと、インターネットが整備され、輸送コストがほとんどかからないソフトウェア開発では、アメリカのエンジニアは給与の面でオフショアに歯が立たない、だって、1/10の給与でインドのエンジニアは働くんだぜ?という本です。
そうした、価格競争力で負けるアメリカのソフトウェアエンジニアは、如何にして今後サバイブすべきなのか、という本になっています。
(普通に面白いしAIコーディング時代に通づるものがあるので復刊を希望したいところですが、まあ直球過ぎる題名を何とかしないと再販は無理でしょうな)
そして、JTCや外資問わず、過去にオフショア開発を経験された技術屋のみなさんははてブにも多く生息されているでしょう。
では、ジュニア開発者は不要になりシニア開発者のみになって、いまのソフトウェア開発は主に安い給与で働いてくれるところに遠隔で作業してもらって、レビューだけすれば良い環境ですか?
そうはなっていません。なぜでしょうか。
さて、今普通にXと連動する中古品売買プラットフォームを開発しようと思ったら、どうやってつくるでしょうか?
この文脈に埋め込まれたいくつもの情報「今」「普通」「連動」「中古品」「売買」「プラットフォーム」「開発」を解釈し、すり合わせ、未来の運営者も含めた全員に伝えるためのコストが、コミュニケーションコストです。
そうなると、「ちょっと良い感じにラフでいいからプロトタイプ作って持ってきてよ」で話が通じるのは、受注者マインドがしっかりした日本の受託開発現場の精鋭たちになるわけです。
テストケースだけを通過するように、内部テーブルを持たせた関数を大量に持ってこられてレビュー時に頭を抱えた経験が無いひとは、とても幸運なのです。
とは言え、これは何も文化の違いに起因するだけではありません。仕様とは、環境によって定まるものだからです。
例えば、うるう年判定の関数は、1581年以前をエラーにしますか?1873年以前をエラーにしますか?(ヒント:明治六年)
テスト駆動開発、古い言い方で言えばテストファーストの考え方は、成功したすべてのプロダクトで例外なく、ただの一つの例外もなく、必ず最初から取り入れるべきだったものです。
品質は最後に振りかける粉砂糖のようなフレーバーではなく、最初から設計に組み込むべきだからです。
ありとあらゆる趣味において、最初から良いものを使えば時間を無駄にせずに済んだ、と言われるような初期投資の大切さが説かれます。
果たして本当でしょうか?
そうです、その趣味にハマって生き残りサバイブした人から見れば、過去にその時点で投資をすべきだった、というのは正しいのです。
その趣味にハマれなかった人からすれば、少ない投資で自分に合わないことが分かったという合理的な選択であることと矛盾しません。
そのため、全ての失敗したプロダクトは、テストケースを書く時間でプロダクトを作り上げて、さっさと世に問うべきだったわけです。
少し昔話をしますが、オフショア開発において重要なのはドキュメンテーションとテストケース、それにレビューでした。
他の部署で失敗しつづけていたオフショア開発のやり方は、端的に言えば"教化"でした。
具体的には書けませんが、グッとお安い単価の国に出す仕事を、日本の会社に出すのと同じようにすべく、相手の会社のメンバーを教育して仕立て上げるブートキャンプの仕組みを作り上げていました。
発注側を変えずに済むように受注側を教育して、日本の会社に出すのと同じように単価の安いところに出せたらお得ですよね?でもこれは必ず失敗します。
何故か。だって、日本の会社と同じように働けるようになったら、日本の会社に就職するじゃないですか。少なくとも価値は上がったんだから単価を上げるように交渉しますよね?
結局のところ、当初言われていたような劇的な節約にはつながらないわけです。それなら下手に転職されるよりも自前で現地工場でも立てて地元に貢献しつつ雇用を創出した方が喜ばれるし持続可能です。
小なりとも成果が上がった方法は、フィードバックを相手ではなくドキュメントにした場合でした。
例えば先ほどの例で言えば、テストケースは通るが意図したコードにならなかったとき。
「普通はこういう意図でコードを書くから、テストケースを通るにしても、関数は次からこう書いて」というのが、相手に対するフィードバック。
「関数を書く前に、関数の意図をコメントで残して、レビュー時にはそれを見ましょう」というプロセスの修正が、ドキュメントへのフィードバック。
こうすると、担当者が退職していなくなっても、次の担当者はその方法を参考にすれば良いわけです。
これ、何かに似てませんか。現在のAIコーディングのベストプラクティスと呼ばれるものに非常によく似ているんです。
つまり、オフショア開発というのも、設計と実装が分離できるという前提に立って動いていたんです。
そして、実装しながら設計しても問題ないとする場合、それは「技術的な問題」ではなく「組織構造」に起因します。
つまり、プロダクトの構造を分割して、オフショア開発側に設計と実装とを委譲して、実装しながら設計を変えてもらうことが許容できるのは、契約や責任分界点、輸出入の法規を含めた法務の領域です。
少なくとも当時、諸々をクリアにして相手側にプロダクトの一部を荒い設計と共に切り出して、コーディングしながら再設計してもらい、テストケースを完備したコードとドキュメントを共に完成までもっていってもらったことは、大きな成果であったはずです。
(当時日本側と仕事をしたという実績があると大きな実力があるとみなされたと聞いたので、今はより良いところで良い仕事をされていると思います)
(あと、コミュニケーションコストと輸出入の関連法規が複雑だから)
少なくとも、納期までに契約したこれを納品してください、という枠組みの中では、実装作業だけ切り出すことはできない、というのが教訓として残ったはずです。
少なくともあと数年、場合によっては10年スパンで、日本ではほとんど変わらないと予想しています。
これは技術の話ではなく組織構造や、もっと言えばお仕事の進め方と契約の話だからです。
そうは言ってもジュニアエンジニアの簡単な仕事が減って成長機会が失われているのは事実では?と思うかもしれませんが、そもそもの前提が誤っています。
未経験(弱経験)者を雇って戦力まで鍛え上げる必要があるなら、AIに仕事渡してないでそのジュニアエンジニアにやらせるべきなんです。
ジュニアエンジニアとAIと両方にOJTさせて、その違いをレビューの場でフィードバックしてジュニアを育てるわけです。
もし、そんな時間は無いというなら、元々ジュニアエンジニアをOJTで育てていたというのは幻想です。
(たまに、失敗が経験になるとして、会社に損害を与える方法でジュニアを"教育"しようとする人がいますが、商習慣的にも信義則違反ですし言語道断です)
シニアエンジニアだけで事足りるとしてジュニアエンジニアを雇わなかった企業は、シニアエンジニアが抜けてガタガタになります。
これは中核エンジニアがゴッソリやめた会社が傾くなんて言う話で、昔からそうです。(たいてい、もっと人雇ってくれ待遇上げてくれみたいな悲鳴を圧殺した結果だったりします)
昔から、中堅がやれば手早い仕事を新入社員にやらせて鍛える、その代わり質は悪いし時間もかかるしフォローも必要だったわけでしょう。
AI時代が到来するとしても全く同じです。AIが出力するコードレビューで悲鳴上げてる場合じゃないんですよ。
レビューできるシニアエンジニアが足りなくなると予想されるなら、当然、ジュニアエンジニア雇ってレビューできるようにする必要があるんです。
そしてそれは、技術的な問題点ではなく、組織的・経営的な決断です。
国産LLM開発の文脈でもそうなんですが、ハードウェアの進歩を無視して話をする方が多いのが気になります。
現時点のコンピューターパワーは、10年後には手の届く価格になる可能性が十分高く、もっと言えば20年後には個人が所有する可能性すらあります。
いまから20年前の2005年は、Youtubeが誕生した年です。その時に、誰もがいつも手元にビデオカメラを持ち、即座に動画を世界に公開できるようになるとは思っていなかった頃です。
今もそうだと思いますが、ある分野で必要な性能にはもう十分という期待値があり、10年経てばある程度大きな会社の部署単位で現在最先端のコーディングAIがローカルで動くようになると想像するのは容易です。
そうなったときに、果たして営利企業が、エンジニアを育成するというコストを支払うかといわれると、疑問です。その時点で今後のリアルなコストと比較対象可能になるので。
だって、筆耕担当者とか、清書担当者を雇わなくなった企業って、多いでしょう?
My job went to AI として、じゃあ残るものは何?というのはオーム社の本を読みましょう。再販しないかなあ。
今後数年は変わらないでしょと書いたら今現在進行形で変わっとるわいと突っ込みが来そうなんで防衛的な意味で書いておくんですが、あなたは過去数年間同じ仕事してたんすか?
仕事のやり方とか内容とか、言語とかライブラリとか、毎年のように変わってたでしょ。
レビューの比率が多くなったとか、コード書かなくなったとか、そういうの、たぶん管理職になった人が嘆いてたのと同じっすよね?
少なくとも、ジュニアエンジニアが低品質なバイブコーディング結果を寄越すようになってレビューが大変とか嘆くのなら、まともなコーディング規約一つ作れていない組織の脆弱さを嘆くのが先では?
手癖でバイブコーディングしてヒットしたプロダクトに、あとから品質上げるように大工事するリファクタリングと言うよりリビルディングな仕事って、別に今もありますよね?
散々テストケースを書かなくて良いプロダクトなんて無いという講演だけ聞きに行って、自分とこでテストケースが自動で走るようになって無いなら、そこが問題でしょ。
ラノベのつうか、書籍の発行部数ってかなりいい加減で紙の書籍だけで真面目に出してるところもあれば、電子系は一回読まれれば1冊あつかいする所もあるし、酷いとこだと関連書籍とか解説本とか含めるところもある
結局外に出す発行部数って「これだけ人気だよ!だからみんな買ってね!!」っていう広告宣伝でしかないんで、明確な定義もないし盛れるならもっとこうって数字でしかない
「坊主」っていうXアカウントあるじゃん? あれ、普通にみんな面白がってたはずなのに、いつのまにか「坊主フォローしてるとか、つまんねえやつ確定だな」みたいな雰囲気になった気がするんよな
致命的なスキャンダルがあったとかいうわけでもないのに、なんかみんな急に手のひら返した覚えがあるんよなあ。まあ強いて言うと、書籍出したのがちょっとウザがられてた覚えはあるが
まあ上の記事に書いてる、Tシャツのタックインが普通→ダサい→普通……となってるように、みんなの「ダサい」「つまらない」ってコロッと変わってしまうもんなのかもしれんが。